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2003年6月1日(日) 「主にある献げもの」 ピリピ4:10 竹口牧師

今朝はピリピ4:10だけを取り上げることにする。司会者の方に読んでいただいたが、もう一度、この10節を読んでみる。「私のことを心配してくれるあなたがたの心が、今ついによみがえって来たことを、私は主にあって非常に喜んでいます。あなた方は心にかけてはいたのですが、機会がなかったのです。」この10節の言葉を、私は何回となく読みなおした。翻訳上の問題かと思って別の訳も読んで見たが、しかし、なかなかパウロの意図するところがつかめなかった。

そこで、パウロが書いたこのピリピ人への手紙の主な目的は何だっただろうかと振り返って見た。まずパウロがローマで捕らえられていることをピリピの人達が聞き付け、彼等はエパフロデトに贈物を持たせて、パウロを慰問するために派遣した。今開いている4章の18節を見ていただくとその事が分かる。ところが、エパフロデトはローマに着いてから重病になってしまった。2章17節にそのことが出ていた。そして、やがて回復したのであろう。彼をピリピに送り返すことにし、その時彼に託したのが感謝の手紙、ピリピ書である。そして、この手紙もいよいよ終り近くなって、この4章の10節から20節にかけて読むと、その言葉遣いや行間からは、パウロの感謝の気持ちを私達は十分に読み取る事ができるのである。

にもかかわらず、ピリピの教会の人々に対する直接的な感謝の言葉をパウロは語っていない。それこそ全くと言っていいくらいに、感謝の言葉が表れていない。「これこれの贈物をくれて本当にありがとう。助かりました。あなたがたの心のこもった贈物に本当に感謝します。」といった具合に個人的な気持ちというものが言葉としては、一言も述べられていない。だから、手紙のこの部分の特徴を言い表すものとして、「感謝なき感謝だ」と言われる事もあるそうだ。
一体なぜパウロは、こういう書き方をしたのであろうか。「ありがとう」と言うのが何か気恥ずかしい、そういう思いがあったのであろうか。でも、そういう風には彼を思う事は出来ない。彼は決して、感謝の気持ちやお礼の言葉が言えないような人ではないからだ。15、16節を見ていただければ、感謝と言う言葉は見付からないが、その思いがひしひしと私達にも伝わってくる。

では、そういう思いを相手に、教会の兄弟姉妹に察してもらって感じとってもらおうと彼は考えたのであろうか。確かに、私達は、人から何かをもらった場合、何かお返しをしなくてはいけないのではないか、そのように考える。私の小さい頃、親がしていたのを思い出すのであるが、近所の人が何かを持ってきてくださると、必ず親は、そのお返しに、何かをすぐに包んで渡すのであった。そしてその時に、いつも決まって押し問答が行われたものである。「お返しにこんなもの、もらっちゃあ申し訳ない。」「いいえ、大したものではありませんから」「でも、うちはもらいにきたんじゃあなくて、差し上げに来たのに。」こういう会話が長々と続くのである。これも、挨拶の内だったのかなあと今になってみれば思えるが、その一方でまた、これは決して借りを作らないという、そういう方法の一つだったのかと、今更ながらに思うのである。

もう一つ余談であるが、随分昔のこと、私の兄が叔母から「この腕時計をあげるよ」と言われ、本当は欲しかったんだけれども、そのころ大変高価だったものだから欲しいのだけれども遠慮して「いいです」と言ったら、それならと言われて一度で引っ込められてしまった。本当は欲しかったのに、その思いが伝わらなかったということで兄は泣いたというのを聞いたことがある。その叔母はアメリカに住んでいたので、そして日本人独特の遠慮というものを理解していなかったものだから、「せっかくやろうと思ったのに、いらないのか」くらいに思ったのであろう。その話はなかったことになった。兄は、その時、非常に惜しい思いをしたのであろう。何度となく聞かされたものである。

ところで、今日の所で、パウロが感謝の言葉を直接使わない真の意味は、もしかしたら、そんな私達の思いとは違うのではないか、否、そうに違いないと考えさせられるのである。では、どういう理由からだろうかということになる。まず一つ考えられます事は、パウロは贈物をされた時、それがお金にしろ、物にしろ、何であれ、御言葉に仕える自分を支えるための贈物であるので、パウロは決して自分自身への個人的なプレゼントとは捉えなかった、そのように思うからである。神の御業のために献げられた信仰の供え物であるとの理解がパウロの中にあったと言う事である。

神の恵みによって生かされ、救いへと約束された信仰者達が、その恵みに対する感謝の応答として、自分への贈物を持って来ている。それは御業の前進のために仕えたいという思いの現れであり、また、神への献身のしるしとしての贈物なのだ。パウロはそういう捉え方でもって、教会や信仰者の群れからの贈物を受け止めていたように思える。確かに、その贈物によってパウロがその時、直面していた窮乏の状態や、困難な状態から助かった事が実際にあったとしても、個人的な面においてだけ評価せず、むしろ信仰者の心と、その贈物そのものが向けられている究極的な目標である神との関係において、それを捕らえようとしていたのではないか。ここに、個人的な感謝の思いを差し控えるパウロの姿勢が生まれていると思われる。

贈物に対するパウロの受け止め方は、ピリピの人々に対する愛想のない突き放したようなものではなくて、逆に、贈物をパウロとピリピの人々との間の個人的な事柄に留める事をせずに、神との関係にまでそれを高めて、それを意義づけようとしているものである。ある人は、簡単にこう言われます。「パウロを思う心が再び芽生えて来て、それがパウロへの贈物となったが、それは宣教に仕えようとする思いが再びピリピの人々に起こってきたことの表れなのだ、それを自分は主にあって大いに喜ぶという意味です」と。

パウロを個人的に恋い慕っていると言うよりも、パウロが伝えようとしている福音伝道の働きに、自分たちも共に与かろうとしている。またそのことを、主にあって非常に喜んでいる。そういうピリピの人々の思いの表れとして、パウロは贈物を受け止めているのではないだろうか。だからもう一度確認するけれども、彼は、贈物そのものに目を止めて、それで終わってしまうのではなく、それが向かっている先を、即ち贈物を捧げる人々がそうすることによって、どこに究極の関心を持っているかを正しく捉えて、その思いを、ピリピの人々に書き送っているのがこの文章と言うことになる。

聖書は、私達が信仰を持つと言う事は、キリストの体に繋がって枝になる事であると言っている。だから信仰を持つと言う事は、自分がただ一人の人間として、信仰を持ったということだけでなく、同時に、イエス様の体の一部分になったということでもある。従って、キリストとは切っても切れない関係になっている。キリストがかしらで、私達はその手足とか体の一部とかという役目をするのだ。つまり、贈物を受けて嬉しいということだけでなく、いつでもキリストの新しい恵みを受けたという意味で感謝なのだ。そこで、私は主にあって非常に喜んでいますというのは、決していい加減な言い方ではないのである。

キリストによってだけ満足させられているはずの自分が、これをいただいて、自分はキリストによって新しい恵みを受けた、そういう喜びが感じられるのである。他の人からいただいた好意は、一般的には、確かにその人からいただいた好意として、その人に感謝するが、同時にキリスト者は、それは主からいただいたものとして、主に対して感謝するということも一緒でなければ、ここでパウロが言っている、私は主にあって非常に喜んでいますということと同じではない。その人と自分との関係だけを考えないで、その時にいつでも、イエス様と自分との関係が当然出てくるのである。

もし、そのように受ける事ができれば、私達はどんなに大きな好意を受けても、またどんなに小さな好意を受けた場合でも、そのために甘えて見たり、付け上がったり、反対に引け目を感じたりするようなことはないはずである。その好意を与えてくれた人に対して、主に対する感謝を持って謙遜に、慎み深く、また心からなる喜びを表す事ができるのである。そうではないであろうか。

そう言っている私自身の信仰生活を振り返ってみる時、決して、そのように捉えていなかった時代があったことを告白せざるを得ない。学生時代信仰を持った私は、それこそ、昼飯もけちる時代であったので、あるクリスチャンの家庭に招かれていった時、それが、度々であったものであるから、大変申し訳なく思ってこう言ったことがある。「いつも、いつも受けるばかりで申し訳ありません。」すると、その家庭の奥さんが、「いいのよ。あなたは学生なのだから。できるようになったら、その時、今度はしてあげればいいのよ」と言われた。それを聞いて、私の心はふっと軽くなったのを今でも思い出す。そして今、最近でこそ、招く事は少なくなったが、いろんな人を招いては、一緒に食事をすることができるようになり、多くの人と家庭で交わりを持ってきたのである。

同じキリストに繋がるものとして、よき交わりが与えられているのである。そして、そういう個人的な交わりから更に進んで、パウロの言っていることは、パウロを通して、同じキリスト宣教に与かろうとしているピリピの教会の思いが、再び芽生えて来て、それがパウロへの贈物となった。それを主にあってパウロは喜んでいるのである。ここでの「主にあって」というのは、ピリピの人々が宣教の業に仕え、主に従うことの困難をパウロと共にしようとの思いを抱くに至り、主がそのように導いて下さったことである。それゆえに、そのような思いをピリピの人々に起こして下さった、その主ご自身を喜ぶ。そういう内容で用いられているものである。

起こった事柄に対して、パウロ個人に対する物の援助という形をとったけれども、パウロはそれを私事として片付けることはしないで、神のみ国との関連の中に位置付け、それに信仰的な意義づけを与えているのである。私たちが献げる献金も、同じ関連の中で考えることのできるものである。イエス様を通して救っていただいた私たちが、その救い主に身を献げ、時を献げ、賜物を献げ、その中の一つに、献金も入っているのである。それは、自分自身を神様に明け渡していく信仰の告白行為としての献金である。

司会者が礼拝ごとに、献金の趣旨を言っているのは、初めて来られた方が、会費あるいは入場料として払うのではないことを明らかにすると共に、信仰者もまた、献身を新たにしながら献げるために、繰り返し言っているのである。私たちは、献金によって教会の業に単に協力しているのではなく、主の支配に服している自分、神様にすべてを明け渡している自分、献金が神のみ旨のままに用いられるように、この私も神の御心のままに用いて下さいと言う服従、そういう思いや意図を込めて、私たちは献げ物をしているといえるだろう。単なるお金による協力を、私たちは献金においてしているのではない。この私を神のみ旨のままにお用い下さいとの祈りを込めて、献げられなければならないのである。ピリピの人々のパウロを思う心と、それを受け止めたパウロの言葉から、そのような事を私たちは教えられる。

ところで、「私のことを心配してくれるあなたがたの心が、今ついによみがえって来たことを……」と言っているが、その「今ついによみがえって来た」とは、つまりは、ピリピの人々によるパウロへの贈物が、しばらく途絶えていたことがあったということを示している。そして、それがまた始まったことを教えてくれる。さらにパウロは「あなた方は心にかけてはいたのですが、機会がなかったのです。」とも言っている。献金や物を送るとか、人を遣わすとか、そういう交流が暫く途絶えていた。それは、パウロとの間に何か悪い関係があったからと言うのではなく、そういう機会がなかったと言う事である。そして、その機会を与えて下さるのは神様である。
「機会」と言えば、伝道者の書の中に、神様の定められた時というものがある、その事が言われている有名な個所がある。一部読まさせていただく。伝道者の書3章1−8節である。「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある。愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。」と。

まさに「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」のである。そして、その時を支配しておられる神様が、ピリピの人達を動かして、パウロに贈物をするようにと導かれたのであった。私たちもまた、神様の下さった「時」と言うものを大切に考え、また、私たちの教会に与えられている使命をいつも確認しながら、導かれるままに外部に向かって献げていかなければならない、そういう責任があるように思う。外部に献げるという点で言うなら、毎年定期的に献げている団体があるが、その他に数年前に起った阪神・淡路大震災の時のことを私は思い出す。

あの時、私たちは具体的に救援のための人を送ることはしなかったが、きょ金を募り、かなりまとまったものを送ったのであった。そしてそれは、他の教会よりも少し遅れた結果となった。ところが、その遅れたきょ金は、実はまさに必要としているところに届いたことを、後に、その当時の模様を記された本を通して教えられたのであった。私達が献げたものが、まさに祈り求められていたのであった。

こういう事を知ると、神様がどのようにして私たちを動かし、またどのように用いて下さるか知り尽くすことは出来ないが、すべての時を支配しておられる主が、私たちをご自身の特別な配慮によって用いて下さるので感謝である。だから、ここで大切なのは、その用いられる私たちが、いつでもお用い下さいと、備え、また献げて行くことが求められていると言うことであろう。先ほども言ったように、私たちの教会も、さまざまな団体に献金をして支援したり、また、皆さんの中には個人でも献げておられる事と思う。「受けるよりも与えるほうが幸である」という主の言葉を実践する事は何と言う恵みであろうか。私達は、多くの教会との交わりを通して、互いに信仰を深め合い、助け合っている。願わくば、更に必要なところが私達の教会に示されるならば、喜んで献げて行きたいものである。

2003年6月15日(日) 「強くして下さる神」  ピリピ4:11-13 竹口牧師 

先回は4章10節だけを見た。その所では、パウロは自分に対するピリピの教会の人々から贈物について語っていた。感謝という言葉を使ってはいなかったが、感謝の思いを込めて、この部分を記していることを私たちは知った。そして、暫くの間、ピリピの人々からの贈物が途絶えていたのは、機会がなかったからであると書いていた。それは、ピリピ教会の人達を責めるのではなく、ピリピ教会の人達の事情を察し、神様がそのように導かれたのである。そのことを理解しての言葉だった。

しかしまた、パウロはそう書きながら、自分の気持ちを誤解されては困ると考えたのであろうか。きょうの所で「とぼしいからこう言うのではありません」と書いている。つまり、パウロがピリピの人々からの贈物を、まだかまだかと物欲しげに待っていたと受け止められては、それは本意ではない。そういう思いが彼の心に働いたように思われる。ピリピの教会の人々との関係は、贈物によって築き上げられた関係ではなく、主にある交わりによる関係であることが、10節の言葉の中に含まれていたと、私たちは見ることができる。そして今日の11節から13節にかけて、パウロ自身の主にある生き方、彼にとっての豊かさとは何なのか、それをこれから語っていくのである。

パウロは11節の後半で、「どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」と書いている。これは、その当時のギリシャ哲学から学んだという意味ではなく、彼自身がイエス・キリストを通して学んだことであると言えるだろう。因みに、その当時のストア派の人達は、「足りること」とか「満足すること」と訳されている言葉を、厳しい自己訓練や修練、修養を通して、自分の外側にある環境や事物に心を動かされなくなるほどに充足を覚えるようになることとしていた。いろいろな事柄や物への関心や欲を捨てること、それによっていかなる状況であっても、状況が変化しても、内面の自由を確保できる、それがこの哲学における「足ることを学ぶ」とか、「満足を身に付ける」ということであった。

しかし、パウロの言っていることは、そういう哲学から来たものではなかった。なぜなら、パウロの場合は、単なる自己訓練とか、修練によって、ある精神的な境地に達した、もう何事が起こっても動かされないほどに、自分の心は固まった、という意味で、いかなる状況においても自分は足ることを学んだ、と言っているのではないからである。彼は、イエス・キリストによって、あらゆる境遇において満たされる者となった。イエス・キリストにあってどんな境遇にも負けない強さを与えられた、と言っているからである。

もし、自分の訓練によってそうなったのであれば、これは、私たちにとって決して希望を与えるものではない。なぜなら、それは、そういう意志とか力とを持っている人でないとなれないことを示すからである。幸いなことに、パウロが言っているのは、そうではなく、主がそのような思いを自分に与えて下さったと主張しているので、私たちにもまた希望を持つことができるのある。だから、言葉は同じでもその内容は、ストア派の哲学とは大きく違うことをまず私達は覚えておく必要があるだろう。

ところで、パウロは12節で、「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また……」と続けて言っているのだが、その事の意味を考えるために、別のみ言葉を今回参考にすることにする。それは、旧約聖書の1007ペ−ジ、箴言30章7〜9節である。そこにはこう書いてある。「二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、『主とはだれだ。』と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」

ここには、信仰者の神様に対する素晴らしい願いが込められている。富を求める事を避けているのは、富むことによって神を忘れてしまわないためであり、また逆に貧しくなり過ぎると、その貧しさゆえに、満たされたいと言う願いを通り越して、誘惑になって、御心にそわない生活や行動をしないようにと説明している。そして、その基本は「なくてならぬ食物で私を養って下さい」との願いがあるのである。しかもそれは、私自身が考えなくてはならないものではなく、神様がお定めになっておられ、お決めになっておられる分で養って下さいと言う意味である。ここには、神様は、一人一人に必要な分を定めていてくださる、私が決めるのではなくて、神様が私にとって必要な分を定めていて下さるとの確信がある。

更にそうであるならば、神ご自身が定められるその分を、神ご自身が必ず与えてくださるという信頼も、その言葉の背後に隠されていることが分かる。命の維持も、その継続も、すべては神様による。それゆえ、どんな状況の中にあっても神様が定められた分は自分に与えてくださる、そういう確信が、この箴言の言葉の背後にはある。パウロが「あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」と言う時、それは、神が自分に対して定められた分があると、そのように語る箴言の信仰者と同じ思いをもっていた事を私達は教えられる。

もう一つ、御言葉を開きたいと思う。それは、パウロの書いたコリント人への手紙第2、12章7〜10節、新約聖書の329ペ−ジである。そこにはこうある。「また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」

パウロは、何か深刻な持病をかかえていたようである。それを彼は肉体のとげと述べている。そのためにパウロは、その肉体のとげが取り除かれることを願って、三度祈った。つまり繰り返し祈ったと述べている。そして、その結果、主なる神様から返ってきた答えは、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』というものであった。つまり、パウロが肉体のとげが取り除かれれば、もっと使徒としての働きを強力になすことができると考えて、それを取り除いてくださいと祈ったのに対して、主は、パウロが使徒としての働きをなす上で、この肉体のとげは、なんら妨げにならない。むしろその肉体の弱さの中にこそ、あなたは一層キリストにより頼む信仰に立つ事ができるのだ、だからその肉体のとげ、肉体の弱さは、あなたの強さに変わるとお答えになったのだった。

彼がかかえる弱さは、彼が主の働きからしめだされる理由とはならない。むしろ、その弱さを持って、キリストが働いてくださる。そうであるなら、その弱さは逆に、その人の強さになるのだという、そういう逆説的な真理にパウロは導かれて行くのである。私達もまた、多くの弱さ、貧しさをかかえている。取り除いて欲しいと願うものを抱えている。しかし、それは私達を神様から遠ざけるものとは必ずしもならない。なぜなら、むしろその弱さをもって、キリストが働いてくださるからだ。私達は、その弱さのゆえに一層神様に頼り、求めて行くようになる。その時、私たちの弱さは、私たちの強さに変えられるのである。

パウロは、「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」という思いに変えられて行った。「私が弱いときにこそ、私は強いからです」との確信へと、彼は導かれて行ったのであった。彼は、生き生きとこの言葉を語ることができている。それは、開き直った姿でもなければ、やけになった心から出てきた言葉でもない。キリストが共にいてくださる。キリストが私の中にいて私を生かしていてくださる。私の十分でない所には、私が補うのではなく、キリストが補ってくださる。そうであるなら、この弱さは、私が補うよりも、キリストによって補われる故に強さへと変えられて行く、そういう確信をパウロはここで述べている。
使徒パウロが、病との関連においてこれらの事を語っていたことは、今読んだ通りであるが、同時に多くの信仰ある人々、重い病や障害を持った人々が、この言葉によってどんなに慰められ、励まされて来たかも事実である。今引用した第2コリント12章からの引用、そしてまた旧約の箴言からの引用から見て、旧約、新約どちらにおいても、外的な状況から自由にされて、与えられた状況の中で、充足と充実を覚えながら生きることができるのである。

それは、究極的な命の保証をしてくださったキリストが、地上において生きて行く時の具体的な生活の保証もなしてくださる、この一事によるものである、と言っていいだろう。神の助け、神の支え、神の力を受けているからこそ、今生かされているとの確信が、いかなる状況が起こったとしても信仰者と教会を、そして自分の歩みに、新たなる挑戦をすることを可能とさせてくれるのである。そこに、13節の「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」という言葉が出てくるのだ。

教会は決して自分自身の力や業によって生きているのではない。キリストによって支えられ、生かされているのである。だからこそ、小さくても貧しくても、その群れは強いのである。小さな群れほど信仰の強さがあるとするなら、それは、その弱さの中にキリストを迎え入れることができているからである。新約聖書の中で、強さについて語られている箇所をいくつか見る事ができる。例えば、エペソ6章10節「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。」また同じエペソ3章16節には、「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」更に第2テモテ2章1節には「そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。」とある。

このように強くなるとか、強くなれとかということが語られる時に、いずれも神によって、キリストによって、御霊によって強くあれ、強くあって欲しいと言われていることに気付かされる。それのみが、人の真の強さとなりうるものであることを知ることができる。多くの弱さと貧しさを抱えている私達である。取り除いて欲しいとげを持ち、増し加えて欲しいと願う不足を抱えている私達である。しかし、そのような私達に神様は、私達によってマイナスなものを取り除き、少しはましなものを増し加えるという方法で、私達を助けてくださるのではない。どのような状況の中にあっても、喜びと感謝と希望を持って生きる事ができる、そういう力と志を、イエス・キリストを通して与えてくださることによって、私達を助け、強くしてくださるのだ。

キリストが私を生かしてくださっている。キリストが私に相応しい分を常に与えていてくださる、そういう信仰の認識と確信を得る事だと言えるだろう。人は、できるだけ早く、若い時に、その事を知ることが大切である。その知識を多くの人々が得るために仕える事が教会の使命である。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」この言葉は実に素晴らしいお言葉である。これはまた、クリスチャンが万能であるということだ。しかし、ここで忘れてはならないのは、「私を強くしてくださる方によって」であるという点だ。

私達には富も、ある程度のお金も、食料も、私達を助けてくれる友人も必要である。しかし、真に私達が必要とするものは、罪と死の力に打ち勝ちたもうたイエス・キリストがいつも共にいてくださることではないだろうか。このお方が私の弱さの中で、私を強くしてくださる、この信仰の確信が与えられている事である。どうか、この確信を今一度強くしてくださるように、主に願おうではないか。

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