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2003年7月6日(日) 「困難を分け合う」 ピリピ4:14-18 竹口牧師

かつてパウロは、ローマ人への手紙の中で、「喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と一緒に泣きなさい」(ローマ12:15)と書いた。そして今回の箇所では、ピリピの人達が、パウロの信じる同じ神様に仕える者として、困難を分け合ってくれたことを、とても喜んで書いているところだ。考えてみると、私達はみな、強いようで、実は弱い人間である。口には出さなくても、弱さを感じ、助けを求めている場合が少なくない。しかしながら、なかなか大人である私たちは、そのことを表に出さないようにするのが一般的のように思う。

私事であるが、田舎にいる父は91歳で今も元気に働いている。その父も何度か大きな事故に遭い入院した。が、決して、そのことを私に知らせることはなかった。何年かに一度、私が田舎に帰った時に、「こういうことがあった、ああいうことがあった」と話して聞かせてくれるのだ。傷跡を見ると、本当に大変だったことがありありと分かるのであるが、子供にいらぬ心配をかけまいとの配慮から知らせないでいるのである。そしてこれは恐らく、一般的になされている配慮であろうと思う。

一方、クリスチャンになって私が気付いたのであるが、クリスチャンは、実にこの世とは逆のことを行なっている。それは、いろいろ問題がある時、起こった時、そうなりそうな時、それを覚えて祈ってほしいと、むしろ積極的に伝える事をしているのである。教会員の方はご存じのように、私たちの教会では、祈りの手帳と言うのを作成し、そこに書き上げられている項目を一つ一つ、その人を思い浮かべながら、神様が、それに最善の導きと答えを与えて下さるようにと祈っている。2003年度版がすでに発行された。それによって、互いに同じ主にある交わりの素晴らしさを覚えている。

こういう兄弟姉妹一人ひとりの必要を覚えている習慣は、勿論聖書から来ているといえるだろう。このピリピ人への手紙を書いたパウロも、いろいろな手紙の中で「神に祈ってほしい」と祈りの要請をしている。たとえば、ローマ15:30ではこう書いている。「兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。」と。また、エペソ6:19,20では、「また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。」というように祈りの要請をしているのである。

他にもコロサイ書やテサロニケ人への手紙などにもある。(1テサロニケ5:25,2テサロニケ3:1,ヘブル13:18著者不明)これによって主にある者同士は、喜びも悲しみも苦しみも共に分かち合う、そういう共同体に加えられていることを、改めて私は、このパウロの手紙を読みながら教えられたのであった。

考えてみると、パウロ自身が書いているように、彼が福音を宣べ伝え始めた頃から彼の苦労は始まった。何しろ、最初はキリスト者を迫害していた彼であったから、福音を宣べ伝えるようになった当初、もうそれだけでも、ユダヤ教信者から、またキリスト信者からも本当に彼はどうなったのかと警戒され、また敵視されたのであった。まあ、そうされて当然といえば当然なのであるが。ユダヤ教からキリスト教へと彼は転回したのだから。そしてそのキリスト教に転回した彼の行く先々でユダヤ人は、パウロの働きを妨害するために待ち受けていたのであった。だから、試練の連続であったと言っても言い過ぎではない。

ところで、先回見た所の13節でパウロはこう言っていた。「私は、私を強くして下さる方によって、どんなことでもできるのです。」と。これは、彼が決して強がりを言っている訳ではなかった。また、ご存じのように、パウロ自身に、どんなことでもできる力が備わっている、そのように言っているのでもなかった。そうではなく、その前のほうに書いているように、パウロを強くして下さる方によって出来ると、彼は言っているのである。つまりそれはまた、私たち一人ひとりにも言える事だ。神様が私たち一人ひとりを強くして下さることによって出来る。しかしそれはまた、神様からのエネルギーが私たち一人ひとりに注入されると言う事ではない。神様が、共にいて下さることによって強くされると言う事だ。だから逆に神様から遠く離れた場合、力は無くなるのである。

それはまた、神様との物理的な距離ではない。なぜなら、神様はどこにでもおられる方であり、またイエス様を救い主と信じた人の中には、すでに聖霊なる神様が内住して下さっているからである。その内住されている方を無視し、内住されておられないかのような歩みをするとき、私たちの働きには、力がなくなるのである。つまり、神様との正しい関係の中で交わりがあり、そのことがまた、周りのクリスチャン同士との交わりとも関係し、うまくいくかどうかも分かれてくるのである。そのことを考えながら、今回のパウロの言葉を見ていきたい。

今回の聖書箇所の最初の14節でパウロは、「それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。」と書いている。この言葉を読むと、ピリピの教会とパウロとの関係が、大変素晴らしいものであったことが分かる。実に患難を分けあう交わりの関係にあったのであった。まさに「喜ぶものと一緒に喜び、泣く者と一緒に泣きなさい」の実践であっただろう。「一緒に何々をする」、今回の所で言うと、「患難を分けあってくれました」と訳されているところにそれを見ることができる。他の訳では「患難を共にしてくれました」とか、「苦しみを共にしてくれました」と訳されている。

実は、新改訳で「分けあう」と訳されている言葉は、「共にあずかる」とか、「共に分けあう」とか、「共に交わりをする」という風にも訳される言葉である。教会のまだ初めの頃、つまり、パウロがピリピで伝道を開始し始めた頃、パウロは牢獄に入れられた。また、今も牢獄に入れられている状況で書いている。その当時から言うと、キリスト教信仰は、周囲の世界とあまりにもかけはなれたように見えたのかも知れない。従って、信仰を宣べ伝える者たちは、行く先々で困難に遭った。患難に遭い、迫害を受けたのであった。

そこでパウロは、それを取り上げて、患難の中にあっても患難を一緒に分かつことが出来たし、一緒に交わる事も出来た。そのことに感謝しているのである。ピリピの教会の人達は、贈り物をもって、パウロに対して愛を表したが、それは決して、彼等が金銭的に豊かであったからではない。彼等自身、大きな試練の中で、また貧しさの中で、贈り物をしたのであった。何も言い訳をしないで、何度もパウロを助けたのである。その好意には、本当に美しいものが見えてくる。そういう状況の中での贈り物は、その贈り物の中に、贈り物以上のものが詰まっているのを受けとった者は感じとるのである。そしてそれは、その時の苦しみ、悲しみ、困難をも和らげてくれる。
パウロはこう言っている。「私が福音を宣べ伝え始めたころ、マケドニヤを離れて行ったときには、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。」とである。困難に直面している時、私たちが考えることは、人を助けることではなく、助けてもらいたい事で頭が一杯になる。何とか誰かが助けてくれないだろうか、と思うものである。

しかし、ピリピの人達は、そうではなかった。自分たちの苦しさの中で、パウロの苦しさをも知り、互いに重荷を担いあったのであった。主にあって、キリストを宣べ伝えるという共通の重荷を彼等は担っていたことがよく分かる。パウロがこの15節で言っていることの経緯はこのようなものであった。ピリピ人への手紙が書かれた10年前の紀元53年ごろ、パウロは第2回伝道旅行の時(使徒15:40−18:22)、出発地のアンテオケから始まって、ルステラ、トロアス、ピリピ、テサロニケ、ベレヤ、アテネを通って、コリントに行った。この時、シラスとテモテがマケドニヤから下ってきて(使徒18:5)、コリントにいたパウロにピリピの教会からの贈り物を届けた。これは、パウロにとって、その欠乏を十分に補ってくれるものだった(2コリント11:9)。

またテサロニケにいた時も(使徒17:1−9)、ピリピの教会は2回に渡ってパウロに贈り物をしているのである(2コリント8:1,2参照)。そしてこの度はエパフロデトに託して、ローマにいるパウロに贈り物をしたのであった。この贈り物についてパウロは、「物をやり取りしてくれた教会は…」と「やり取り」と述べている。この言葉は、当時の商業上の普通の言葉だと言われる。「帳簿の左右」つまり、簿記に詳しい人はご存じであろうが、貸し方、借り方を指す「貸借」を意味する用語なのだ。贈り物によって、このような「貸借の決済」のような感じにまでしてパウロと交わった教会は、「他にありませんでした。」と言っているようだ。勿論、この世の貸し借りの考えではなくキリストにあっての愛の交わりがあったことをこのように書いて、パウロは喜びと感謝の思いを込めて、ピリピの教会から自分にささげられた贈り物の事実を繰り返し述べているのである。

以前にも言ったように、何かを自分がいただいた場合、クリスチャン同士であるなら、それは自分がいただいたというより、自分を通して、神様に献げられたものとするのが正しいのであり、つまりは、神様に感謝をまずしなければならないのである。そして同じ喜び、嬉しさ、楽しさと共に、悲しみ、苦しみ、痛みも共にキリストにあるゆえに味わう事である。パウロは14,15,16節で、贈物の喜びを言い表しているが、そのことを通して、更に求めているのではないことを、次の節に書いている。「私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。」と。

ここにある「収支を償わせて余りある」という句も、当時の商業用語と言われる。ピリピの教会からパウロへの贈物は、それが献げられる度に、あたかも彼等の貸借対照表の貸し方に利息や利益として計算されるものだ、というのがこの句の意味である。パウロにとって、贈物は大変嬉しいものであった。しかし、更に嬉しかったのは、彼等の愛であり、心であった。そして更に嬉しかったのは、その贈物によって彼等が得た信仰による愛の果実、つまり霊的祝福だった。ピリピ教会が贈物をしてくれることによって、ピリピ教会の人々の神に対する感情が増し加えられた、とそういう風な言い方をしている。つまり、これは自分が受けたので、大変ありがたく受けたのであるが、しかし本当の意味は、自分が個人として受けているのではなく、伝道のために献げられたものであって、神に献げられたものであるという事だ。

従って、その献げ物は、終りの日に、神の前において計算に加えられ、献げた人達が天に宝を積んだことになると言っていると言えるだろう。ピリピの人達の好意によって自分が養われるということを重々承知しながら、結局はピリピの人達のためになることをパウロは明らかにしているのである。

しかしながら、このことは、人から好意を受けながら、何だか変な理屈を付けて、空威張りをしている訳ではない。そうではなく、受けとり方がいつでも信仰的であって、信仰の上から言っているので、その事を間違わないようにしなければならない。従って、相手の信仰の完成のためにも役立つかどうかということも考えていたのだということが分かるのである。

18節でパウロは、「私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。」と書き、続けて「エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。」と書いている。パウロの彼等に対する感謝な思いと、もうこれ以上はない、そのように思う思いとが伝わってくるようだ。「私は、すべての物を受けて」という「受けて」とは、当時、物をもらった時の、受領証あるいは、領収証に用いられる「私は受けとりました」というように用いられる言葉と言われる。これは確かに、私が受けとった、いただきましたと言う事と同時に、それ以上の意味が、ここにはあった。それは、18節の後半の言葉が物語っている。「それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。」とあるからだ。

つまり、何回も言うようだが、受け取ったのは確かにパウロであるが、しかし、本当の受取人は、自分ではない。神様が喜んでお受けになる供え物だと言うのだ。即ち、本当の受取人は、神様であった。献げる人達は、自分にくれているのではなく、神様に献げるつもりで自分に贈ってくれている。そのことを、パウロは決して見逃してはいなかったのである。

ピリピの教会の人達が、神様の恵みに応え、信仰と愛とを持って、エパフロデトに託して送った贈物は、パウロの必要を十分に満たした。この愛の行為がキリストのゆえになされたので、パウロは、神が彼等の必要をすべて満たされると確信したのだった。即ち、彼等はその貧しさの中からささげたが、神様は「キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富を持って」パウロに代わって、報われると信じたのである。

私達は、今回の聖書箇所を通して、ピリピの人達がどれほどパウロの働きを支えていたか、また、神様がピリピの人達を用いられたか、またパウロは使徒としての働きができるように環境を整えて下さったか、それは、決して豊かではない、苦しさの中で、また牢獄と言う不便さの中でも、福音の浸透のために、神様が一人ひとりを用いられた事を学ばせられるのである。私たちもまた決して豊かな中で神様にお献げしているわけではない。経済不況の中で、やりくりしながら献げている。しかしそれはまた、いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心で決めた通りにしている。そういう私たちであるけれども、今も、いのちがけて福音を伝えている人達に私達も改めて目を向け、困難を分けあい献げていかなければならないと教えられる。国内、海外を問わず、必要な所には積極的に、支援していきたいものだ。私たちの手の届かないところでも、主の働き人は活躍しているのだから。

2003年7月20日(日) 「満たして下さる神」 ピリピ4:19-20 竹口牧師

今朝の説教題を「満たして下さる神」とした。この「満たして下さる神」というふうに私が神様の事をいう時、どうしても瞬間的に思い出しますのは、一つは、・列王記17章の所にでている記事である。短く要約すると、シドンのツァレファテにいる一人の婦人と息子が、飢饉のために食べる物がなくなり、最後に、かめの中にある一握りの粉と、壺にほんの少しある油でもって調理し、それを食べて死のうとしている。丁度その所に、また食べる物がない預言者エリヤが神様の命令によって遣わされ、神様はそのエリヤを用いて、エリヤ自身と、また親子を、神様の定められた飢饉があけるまで、養われたという話であります。まさに、そのかめの底に残った粉と、壺に残った少量の油は決して無くなることなく、彼等の腹を満たし続けて下さった、という話しであります。

もう一つは、・列王記4章の記事である。それは、預言者のともがらが亡くなり、その結果、残された妻は生活に困り、二人の自分の子供を奴隷として売らなければならない状況の時に、今度は神様は、預言者エリシャを遣わされ、空の器をできるだけ集めてこさせ、その集めてきた器に、神様が油で満たして下さり、それを売って生活をさせ、ことなきを得たという話しである。これらはみな、実際に文字通りに粉や油を神様が満たして下さり、生活の困った人を助けて下さったという話しである。しかしまた、そのように文字通り器が満たされる、あるいは、底を突いてなくなることはなかったと言うのではないが、必要が満たされた話しは、聖書のあちこちに出ているのである。

たとえば、皆さんよくご存じの、荒野の旅を続けたイスラエルの民が、その間、食べる物、飲む物などなどの不足にあったが、しかし、彼等の必要の全ては満たされたのであった。だからこそ、約束の地カナンに、その2代目が入る事ができたのであった。そしてカナンの地で、ヨシュアの時代に入っても、定住して地の産物を食べるようになると、もはやマナは与えられなくなったが、しかし、やはりその地の産物でイスラエルの民の食を満たして下さったのであった。
こうしてみれば、聖書の中には、いろいろな与えられ方をして、イスラエルの民の必要が満たされて来た。そして、その与えて下さっている方のことを考える時、その方は、どんなに豊かな方であるかを知ることができるのである。また、不足している者をしっかりと覚えていてくださり、満たして下さる方であることを私たちは教えられる。その事を決して忘れてはならない。神様は私たちを決して忘れておられるのではないことを覚えたい。

確かにある時は、必要を覚えて神様に願わなければならない時もある。しかしそれは決して、神様が忘れておられて人が求めるまで知っておれなかったと言うのではなく、私たちが求めることを願っておられた、私たちがどれだけ神様を信頼しているか、その人自身の信仰も、より確かなものにするためにそうされるだろうと私は思う。私達の毎日の生活が、豊かで、何不自由なく過ごせている時、私達は、それが当然かのような思いに陥り、神様が備えて下さっていることを忘れやすいものである。その事を考えると、豊かさの中にあっても、それは主の祝福であって、決して自動的に手に入っているのではない、そう思わされる。

飢饉、災害、事件、事故などなど、さまざまなことに遭遇し失って初めて神様の恵みの有り難さを実感するのではなく、普段から、私達の神様はどういうお方であるのか、しっかりと知っておかなければならないと思う。今回の聖書箇所で、パウロは言っている。「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」と。彼のいう私の神とは、パウロの神である。そしてまた、パウロの神は勿論、皆さん一人ひとりの神様でもあられる。

余計なことであるが、聖書を読んでいて、私の感じたことをもう一つ言わせていただくとすれば、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神という言い方が出エジプト記には何回かでている。私はそれを読んでいて、最初の頃は、それぞれみんな違う神様を持っているような感じを受け、違和感を感じたことを思い出した。あの言い方は勿論、全世界を創造された方が、歴史を通して支配しておられる方であることを示している、そう言っていいと私は思う。アブラハムの信じた神、イサクの信じた神、そしてヤコブの信じた神、同じ一つの神様が、歴史を貫ぬいて働かれておられる。その真の神様、イスラエルの神である事を語っている。それはまた、パウロの言う私の神であり、現代にも続いている私たちの神様でもあることを、語っているように私は思うのである。そしてその同じ神様が、「キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって」満たして下さると今朝、パウロは言っているのだ。

では、その方が持っておられる「キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富」とは何なのでしょうか。ここで「栄光の富」という「富」と訳されているギリシャ語は、口語訳や新共同訳、それに私達が用いている新改訳の3つとも同じように訳されている。単語が同じだから、同じ様に訳されて当然だと思えるが、ところが、3つとも同じに訳されているのはここだけである。つまり、この同じ言葉を他では、「豊かさ」「豊かな」というように違って訳されている。

もともとの意味は、富、財宝、豊かさ、豊富という意味である。だから神の栄光の富というのは、私達の考える豊かさではなく、また、富でもなく、財宝でもなく、それこそ計り知れないものである事が分かる。私の好きな歌の一つに、聖歌の699番、「ああ驚くべきイェスの愛よ」という歌があるが、その中の繰り返しの部分に、「恵みの深さ、広さ、計りうるものなし」とある。私たちを罪から救うために命を捨ててまで愛して下さったイエス様の愛は、まさに、この世の何で持っても、比べられないのである。

そして、比べられないと言えば、かつて栄華を極めたと言われるソロモン王の祈りを思い出す。それは、神様に導かれながら、神様の臨在を示す神殿を建設し、その献堂の祈りの時に、こう祈ったのであった。「それにしても、神は果たして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れする事はできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです」と。

真に神様は、偉大な方であるゆえに、この世の何をもってしても比べられない。あらわしようがない、それ程のお方であると私たちは認識するのである。だから神様を現そうとする時、やっと言葉を話せるようになった幼子が、つたない語彙の中から一生懸命何かを表現しようとする時に示すもどかしさとよく似たものを、人は神様の素晴らしさを現すときに常に覚えて来たし、私たちもまた、そう感じるのではないだろうか。神様のどの部分を、何と比較して現すことができるか、実際は現せないと言うのが現実なのである。その事をまず覚えておきたいものである。

ではその次に見たいのは、ご自身の栄光とは何かである。神の栄光とは何か、聞かれて一瞬と惑うのではないだろうか。分かっているようで、簡単にはすぐには答えられないのが、この「栄光」である。旧約聖書では、神様の尊厳、卓越性、完全性などのすべてを表す。神様の栄光とは、そのみわざと顕現、臨在をあらわしている。その具体的な神様のみわざの顕著な例は、エジプト脱出の時であって、民は、その栄光を見ているのである(出エジプト14:18,16:7)。

また、神様が民を助けにくるという預言では、栄光という語が殆ど救いの同義語として用いられている(イザヤ35:1−4)。神様の栄光の顕現、現れは、シナイ山でモーセに示された(出エジプト24:15−17)。そして会見の天幕を包み、これを聖別し(出エジプト29:43)、契約の箱の上にその座を占めた。その後、神様の栄光は神殿を満たし(1列王8:11)、祭儀と聖所に結び付き、主はそこに住むことになったのだ(出エジプト29:46)
では、新約聖書においてはどうかと言うと、神様の栄光は、イエス様と結び付いて表されている。イエス様は、「父のひとり子としての栄光」に満ち(ヨハネ1:14)「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われ」(ヘブル1:3)だった。神様の栄光は、御子の誕生の時に現われ(ルカ2:9)、イエス様のしるしによって明らかにされたが(ヨハネ11:40、17:4)、最も強く現われたのは十字架と復活を通してである(ルカ24:26,ピリピ2:9−11)。「キリストをよみがえらせて、彼に栄光を与えられた神」(1ペテロ1:21)は、イエス様を栄光のうちに天に上げられました(1テモテ3:16)。しかし、キリストが神としての栄光を完全に現わされるのは、再臨の時である(マルコ8:38)。
ところで、パウロがこのピリピ書で「キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって」という時、イエス様を信じる者は、神様の前に罪赦され、滅びるべき者が、朽ちることのない命をいただき、キリストの甦えりに与かることができるようになった。そういう、救いに関する一切のことを指して言っていると思う。そのように、究極の救いという富を、私たちはイエス様を通していただいている故に、私たちが、この地上を生きていく時に必要とする一切のものも、その富の中から神様が分け与えて下さると、パウロは19節で、力強く言っているように思う。

キリスト教は、というよりも少なくとも私は、イエス様の救いをお話する時に、この方を信じれば、家庭は平和になり、商売は繁盛し、出世は間違いなしなどという、いわば、この世の御利益については殆ど話さない。それが、救われるための目的ではないからだ。しかし、神様によって救われた者が、神様からそのような恵みに与かる事ができない理由は、どこにもない。否、むしろ神様は、必要な人には十分に与えて下さるのである。従って、イエス様によって救われた人は、積極的に求めることをためらう必要は少しもない。勿論、私達の求めたものが全て与えられるという訳ではない。私たち一人ひとりにとって必要なものは何かを主はご存じであり、その必要をすべて満たして下さる方、それが真の神様だからである。

一方、逆に私たちがこの地上で得たもの、それは神様が与えて下さったものであるが、それをまた、神様のご用の為に献げる時に、神様は、それを豊かに用いて下さる方であることを以前に私たちは見てきたわけである。これは、私たちにとって大いなる慰め、また喜びでもある。あなたの献げたものは使わないよ、いらないよ、とは言われないで、神様は、貧しい器の者が献げたものでも、み国の建設の為に用いて下さるのである。それは、このピリピ書で見てきたことである。

私たちが自分の富や、また自分自身を献げる事が出来るのも、それに先立って神様がご自身の栄光の富の中から、私たちの救いのために決定的なものを差し出して下さったからであった。つまりイエス様が、私たちのこの世界に神の富を持って降りてきて下さったこと、言い換えれば、その富を私たちに分け与えるために人となってこの地上にやってきて下さったこと、それがあるからこそ、私たちも献げる事ができるのである。栄光の富をかかえておられる神様は、私たちの必要のすべてをご存じでいてくださる。そして、神様の御心にかなった時、それを私たちに下さるのだ。

神様は、ご自分の富を私たちに分け与えてくださるお方である。神様のご一方的なあわれみによってである。そのことを私たちは、イエス様がこの世にきて下さった。あるいはイエス様が父なる神様によって遣わされた、その出来事から知るのである。そこから、キリスト・イエスにあるご自信の栄光の富をもって、私たちの必要をすべて満してくださいます、という告白が生まれてくるのである。

私たちは、神様の豊かさ、神様の大きさ、神様の限り無き深さ、高さ、広さにもっともっと信頼を寄せようではないか。生活上の苦しみも祈り求めるなら、それが必ず与えられる。心の痛みも、主にとって癒すことの出来ないものは何一つない。魂が迷いの中に陥った時にも、その魂に必要な糧を神は備えて下さる。神の栄光の富の中に、私たちが抱える問題に対する解決が含まれていないはずはない。そのように信じることを、私たちは赦されているのではないだろうか。

パウロは別の書簡でこう言っている。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)またペテロもこう言っている。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(1ペテロ5:7)物が豊にあっても決して満たされない心。生きる希望を無くして、死ぬ事ばかり考える自殺願望者、何を求めるべきか、誰に求めるべきか分からず、立ちすくんでいる者、今、これから先が不透明なために、多くの人は不安である。様々な問題、悩み、病、などなどの解決を与え、必要を知らせ、満たして下さるのは、真の神様である。

パウロは、物質的に窮乏を余儀なくされたこともたびたびあった。去っていく信仰の友もいた。しかし、そのような中で、神様はピリピの人達を通して、物質的に支え、そしてまた、よき同労者を与え、備え、相手を思う思いを与え、満たして下さったのである。その事を、ここでパウロは書き現し、20節に於いて「どうか、私たちの父なる神に御栄えがとこしえにありますように。アーメン。」と結んでいる。私たちは最初、自分が物質的に豊になるために信仰を求めたのではなかった。罪が指摘され、神様の前に、本当に赦されなくては生きていけない、その事に気付かされて、信じたのである。しかし、信じさせていただいた今は、神の子の一人として、私たち一人ひとりの必要を主は、満たして下さっているのである。これからも、主は満たして下さるのだ。その保証を、私たちは聖書からいただいているのである。私たちは、主の満たしを有効に、そして正しく用いることが求められている。

かつて、私たちは霊的な渇望を覚えた。そして、それに主は豊に答えて下さった。恵み豊な神様は、すべてを私たちの救い主イエス・キリストを通して、満たして下さったし、これからも満たして下さる方である。これ以上に素晴らしい方がどこにおられるであろうか。この方に、生涯仕えることの出来るのは、何と言う幸であり、感謝であろうか。他のものに目を奪われる事なく、主のみに目を向けて、生涯を歩み通そうではないか。

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