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2003年8月10日(日) 「主にある交わり」 ピリピ4:21-23 竹口牧師

ピリピ人への手紙の説教もいよいよ最後の回となった。この手紙を読むに当って、喜びの書簡といわれていることは、何度か申し上げた。それほど、喜びに満ちた手紙、恵みに満ちた手紙であった。この手紙を読みながら教えられたことを少し思い出してみたい。パウロがローマで捕らわれの身でありながら、喜びを持ってキリストを宣べ伝えている姿に深く感動した。また、そのような状況の中で、キリストの命に与かったパウロが、その命に生きている姿にも大変大きな励ましを受けた。更にまた、パウロがピリピの教会の信徒達のことを考えながら、キリストの愛を持って慕い、彼等のために祈り、感謝をささげ、彼等を励まし、教え、勧め、慰めていることにも心が熱くなるものを覚えた。そしてまた、ピリピの教会の信徒たちがパウロの愛に答えて、多くの困難、苦難、迫害の中にありながらも、パウロのために祈り、心配して、度々贈り物をしていたことにも深く心を動かされた。そんな中で特に、パウロとピリピの教会との間の親しい愛の交わりこそ、この手紙から味わい得た最も大きな恵みの一つだと言えるだろう。この交わりは、キリスト・イエスの恵みにおける交わり(1:7)また福音宣教の拡大における交わり(1:5)であり、御霊の交わり(2:1)であり、困難における交わり(4:14)である。この交わりが頂点に達するのが、今回みる4:21−23の挨拶と祈りあるいは祝祷である。

パウロがこの手紙を締めくくるのに際して述べた挨拶、そして神様にささげた祝福の祈りは、私達にキリスト者の間の交わりがどうあるべきか、教えてくれるのである。以前にも私が親から手紙の書き方を教わったことをお話しした。手紙には、一応形式があるのはご存じの通りである。パウロも、挨拶から始まり、本論、そしてまた挨拶で締めくくっている。

しかし、私個人の事を言えば、手紙を出来るだけ書きたくない。出来たら書かずに済ませたいというのが正直な思いである。いつであっただろうか。ワープロが世の中に出始めた頃、ワープロで手紙を書いて送るなんて、全く失礼だ。その人の思いとか、感情が全然伝わってこないと遠回しに言われたことがあった。しかし、それが分かっていても、ワープロでしか書けない自分、もし、本当に自分の手で書いたなら相手は読めない?それでは手紙の役目を果たさないではないかと、そう思いつつ、ワープロで今まで書き続けてきた。そして今や、電子メールの時代である。切手を貼らず、瞬時に送れる。遠回しに批判していた人も、電子メールをされるようになり、すっかり自分の言ったことを忘れて、本当に親しくやり取り出来るようになったのは、何とも不思議に思う。時代が、もはやそのように変わったという事であろう。

ところで、パウロは牢獄の中とはいえ、恐らく大変忙しい人だっただろうと思われる。だからというわけではないが、パウロの手紙は、口述で誰かに書かせながら、最後の部分は、自分で書いた、そのようなふしがある。例えばローマ人への手紙16章22節を見ると「この手紙を筆記した私、テルテオも、主にあってあなたがたにごあいさつ申し上げます。」とある。あるいはまた、ガラテヤ人への手紙6章11節によると、「ご覧のとおり、私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています。」とある。恐らくそこからは、大きな字で最後の18節まで書いたと思われる。また、コロサイ人への手紙の最後のところでは、つまり4:18で「パウロが自筆であいさつを送ります。私が牢につながれていることを覚えていてください。どうか、恵みがあなたがたとともにありますように。」と書いている。

つまり、そこでも最後に至って、パウロが自分で筆をとったことが分かる。こうして見ると、ピリピ人への手紙の最後の3節も恐らく、パウロの自筆であったであろうと思われる。もし、パウロが直接書いたものであれば、パウロはどんな字を書いたのだろうかと、興味がないわけではない。しかし、ギリシャ語の上手下手は良く分からないし、それはともかくも、致命的なのは原物がどこにもないということである。ご存じのように、私たちが目にすることが出来るのは、すべて写本であるからだ。

ところで、手紙の上手下手で言うとすれば、今日では個人が個人に宛てたものにしろ、会社が個人に宛てたものにしろ、いずれであっても、何とか人の手のぬくもりというものを、少しでも相手に伝えようと、本人の書いたサインだけでも最後にプリントしたり、実際に、サインだけは自筆であったりしているが、結局は、殆どは活字で占められていることに違いはない。それが現在の状況である。書いて下さる方には申し訳ないけれども、そして字の下手な私が言うのもなんであるが、私に書く場合、読める字で書いてほしい、分かる言葉で書いてほしい、そう常々願っている者の一人である。

さて、一度パウロの時代にさかのぼると、今、ローマ書、ガラテヤ書、コロサイ書を引用したように、パウロ自身が最後は書いて手紙を終えている。そして、そこには彼の最後の思いが詰められていると言っていいだろう。つまり、どうせ最後は挨拶なのだから、しかも形式的なものであるからと読み飛ばすことは出来ないのである。それは、本当に相手の事を思って書いているのだからだ。自分自身がそうしているように、そして、実際に手紙を書いておられる皆さんも、相手のことを思って書いておられると思うので、パウロのその締めくくりを読んで、心を込めて書いているのだということを実感されると思う。

私たちは、形式に沿って手紙を書くけれども、しかし心から相手の健康を願い、神様の祝福を願って閉じるのである。だから、パウロの書いている挨拶も、読み飛ばすことはできない。パウロは21節前半でこう書いている。「キリスト・イエスにある聖徒のひとりひとりに、よろしく伝えて下さい。」と。ここにでている聖徒と書いてあるのは、普通に言う聖人とは違う。これは、聖別された者ということなので、清らかな、きれいな人間になったというのではなくて、神のものとされたという意味である。キリストによって救われることによって、今は神のものになっているということで、ほかの人間のものではない、どこかの団体のものでもない、あるいは、自分自身のものでもないということである。その反面を言えば、とても聖徒だとか神のものだとか言えないような人間であるが、キリストの恵みによって、神のものとされた喜びと平安のうちに生きている者という意味である。

その次にパウロは続けて、「私と一緒にいる兄弟達が、あなた方によろしくと言っています。」と言って、自分の仲間には「兄弟達」と言っている。この相手側には聖徒と言い、そばにいる仲間には「兄弟達」と言い、そこには、区別をもうけているかのように見えるが、それぞれに、「一人ひとりに」とか「一緒に」とかとパウロは言っているので、そこには、違いがないのではないかと思う。名前を知っている人もいるし、知らない人もいる。しかし、その一人ひとりを聖徒と呼び、共にキリストにある交わりを表しているのである。

そして22節を見ると、「カイザルの家に属する人々」のことが出ている。ここで言われていますカイザルとは、勿論ローマの皇帝を指すが、パウロは今、牢獄にいるので、牢獄の中にいて皇帝自身と知り合うことは無理であろう。また皇帝の家族と親しくなることも難しいので、皇帝の家に属する者、たとえば、皇帝の兵士、あるいはその使用人で、牢獄の仕事をしている者と言うことかもしれない、そのように言われている。しかも、その人達が宜しくと言っているのだから、そういう人の中で信者になっている者もいる言う事である。

ある本では、「カイザル(ローマ皇帝)の家族や親族ということではなく、高位高官から奴隷までを含む、今で言う国家公務員を指す。身分的には,奴隷や解放奴隷が多かった」とある。今、奴隷であるのか、あるいはかつて奴隷であったのか、今は自由人になっているかはともかくとして、カイザルの家の奴隷のことを指すようである。
その当時と言えばいいのだろうか。初めの頃の教会には奴隷が多かったようである。新約聖書の27巻の中の一つにピレモンへの手紙があるが、これは、一人の奴隷の為に書かれた手紙である。奴隷の信者を助けるための手紙である。つまり、それほど、最初の教会には奴隷が大勢来ていた。社会から圧迫され、人間扱いにされない。だから、奴隷たちにとっては、ほかの人達よりキリストの救いがよく分かったのかも知れない。奴隷が沢山いる教会が強くなったようにも想像できる。自分には、人間的な何の特権もない、そういう者のために、十字架にかかって下さった方の気持ちが良く分かったのであろう。今日の私たちの教会と比べてみても、ただ一つの明瞭なことは、その奴隷が大勢いた教会の力によってキリストの教会がその福音を今日世界中に言い広める事ができたという事実であろう。
もともと、キリスト信者は、誰よりも人間が罪と死の奴隷であるということ、それを知っている者ではないだろうか。あるいは他の人間と同じなのに自分が欲望の奴隷であるということを、誰よりもよく知っている者である。従って、心から救いを求めたのであった。だから、救われてから後、どうであったかと言うと、キリストの恵みの大きさのゆえに、これからはキリストだけに生きると言う事、即ち、あえて喜んで奴隷になろうと思った者が多かったのかも知れない。それが実は、キリスト信者と言うものである。だから、この手紙を書いたパウロはいつも奴隷であることを誇りとして書いた人でもある。

罪と死の奴隷から神とキリストの奴隷となる。恵みの奴隷になり、恵みによってだけ生き、恵みは絶対だという奴隷になることが、
人間が救われると言う事であろう。そこには、キリストの下さる自由と言うものがあるからである。とすれば、この挨拶はキリストの奴隷から、実はキリストの奴隷に対して宛てられて書かれたと言っても言い過ぎではないだろう。だから、ここに書かれてある挨拶は、悲しい奴隷の泣き言が書いてあるのではなく、救われた奴隷の、恵みをたたえる喜びの挨拶がでているととることもできる。いつもお互いにその恵みをたたえあう事のできる仲間、その奴隷とされた者の喜びを語り合う挨拶、それがここに書かれているのである。

今日の教会が弱いとするなら、多分、その弱さは、自分たちが奴隷であることを忘れているからではないだろうか。人の間違ったことを指摘したり、攻撃したりすることも結構であるが、信仰者が攻撃する場合、自分だけは別だと言う顔はできないはずである。自分も弱い、罪の奴隷であることを知り、恵みによってようやく生きていると言う事を忘れないでいて始めて、他人を理解できるのである。イエス様は「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のために贖いの代価として、自分の命を与えるためなのです」と言われた。そのイエス様のものとして、イエス様に従って生きることである。こうしてみると、この挨拶は、決して終りのほうにだけ付け加えたものではないことが分かる。口にだし、手紙に書くことは、そうたびたびは無かったかも知れないが、お互いの生活においては、互いに相手のことを思いやっている人達が書いているものだ、と言う事ができよう。

それでは一体、どういう気持ちで書いているのかということになるが、23節でパウロはこう書いている。「どうか、主イエス・キリストの恵みが、あなた方の霊と共にありますように。」と。お互いのために祈る。これは執り成しの祈りである。一緒に集まって祈る場合もあれば、個人個人で、一人ひとりを覚えて祈る場合もある。祈りの形態は、いろいろあるが、あるいはまた、相手に祈っていることを伝える場合もあるし、伝えない場合もある。状況によってさまざまであるが、口には出さなくても、お互いの為に祈っている事を信じている生活、それが私たちの教会生活であり、また信仰生活であるといえるだろう。

私たちが他の人のためにすることで一番大切なことは、その人のために祈る事である。黙っていて、その人のために祈ることである。それも神様が必ず、その願いを聞いて下さると言う信仰がなくてはならない。私たちが祈ったら、必ず何かが起こるとすれば、それは、超能力か、少し迷信的であるとかというのではなく、祈ったら神様が、その祈りに働いて下さるということだ。それだけに、私たちの祈りは誠実でなければならない。神様が祈りに生きて働いて下さると信じていなければならないのである。私たちがお互いに祈りに答えて下さる真の神様を信じて神に向かう。この様にして祈りによって神と結ばれるのである。他の人のために祈るということは、従って、その人が神と結ばれるようになるということ。つまり、神の守りのうちにおかれますように、そして、そのことをその人が信じるようになりますように、ということであろう。

とすれば、他の人のために祈ることによって、自分と他人とが神を通して一番深く交わることである。自分と神様が結ばれ、自分が、また他の人が、向こうの人が、神と結ばれることを祈る。これ以上の交わりの仕方はないはずである。本当に結ばれる道と言うのは、ここにある。パウロの手紙の終りに書いてある挨拶は、そういう意味を持っている。

そこで、最後にどう祈ればよいのか、ということであるが、パウロはこう祈っている。「どうか、主イエス・キリストの恵みが、あなた方の霊とともにありますように。」これは祝福の祈り、また祝祷とも言われるものだ。これはまた、彼の13通の手紙全部にみられるものである。祈りは、私たちと神様とを結ぶものだと言った。また、他の人のために祈るのも、その人と神とが結ばれるようになるということである。そして、その結ばれるのは、神様から恵みを受けた自分が、また他の人が同じ様に神様から恵みを受けるように、否、受けることができると信じて祈るのである。

神様の私たちに対する愛は、私たちにとっては恵みである。人と人とを結び付けるのも愛である。でも、神様の愛は、御子イエス・キリストが、罪人である私たちを赦し、救って下さった、そういう愛である。私たちは神様を恵むことはできないが、神様は、私たちを恵むことがおできになる。愛を持って恵んで下さるのである。とするなら、ある人に、神の恵みがあるようにと祈るのは、その人のための最大の祈りでもある。パウロはここで、「あなたがたの霊とともにありますように」と言っている。この霊こそは、神の恵みを一番よく知り得るところである。

神の愛は、人間の生活の一番深いところ、すなわち、霊で受けるのは当然なことである。霊と心とは必ずしも同じではありませんが、似たようなものと言えば、そういうものであるかも知れない。神の愛とは、ただ私たちの気持ちで受けられるものではない。そうではなく、私たちが本当に悔い改め、へりくだった思いになった時に始めて知ることができるのではないだろうか。それは、ただ精神的な愛などと言うものではない。本当に、自分の罪を悔いて、キリスト・イエスの救いを得て、へりくだっていなければ、私たちはとても神の愛を霊を持って受け取るとか、心を持って受け取るなどということは出来ない。

パウロは、この手紙を書くに当たって、最初の方で「恵みと平安があなたがたの上にありますように」と祈って始め、そして今また、「どうか、主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように」と祈って終えている。私たちは、すべてのことは恵みよると言う事は簡単だ。しかし、あらゆる時に、あらゆることについて恵みを語り、恵みに感謝し、また他の人に恵みがあるように祈ると言う事は、そんなに優しいことではない。それだけに、それを知ろうと思えば、例えばこの手紙全体をもう一度心を込めて読むことも必要かも知れない。そうすることによって、パウロとピリピの教会の関係がよりよく分かってくることであろう。

私は何度か、このピリピ書簡を喜びの書と言ってきたが、その喜びとは、実は、恵みを受ける喜びである。イエス・キリストを通して互いに交わり、喜ぶのである。自分が神様との交わりにおいて喜びがなければ、他の人との交わりにおける喜びを分かち合うことは出来ないであろう。また、恵みがありますようにと祈ることもまた難しいものだ。パウロとピリピの教会の信徒たちとの関係のごとく、私たちもまた親しい、そして美しい、愛の交わりを見習っていきたいものだ。

2003年8月31日(日) 「闇の中に輝く光」  ヨハネ1:1-5   竹口牧師

今日からヨハネの福音書を学ぶことに致します。ヨハネの福音書の講解は、すでに鈴木先生が今から約15年前に行なわれました。つまり1988年1月31日から始められて1991年7 月14日まで続きました。その間、約3年半かけて、まことに細かく講解されております。あるいはまた、このヨハネの福音書は、ただ今、月に1度でありますが、聖書を読む会でも取り上げられていますので、そこでもまた、いろいろ学ぶことが出来るかと思います。私は、あまり細かく、そしてまた深くは取り上げませんが、全体を見失わないように、学んでいきたいと考えております。ご存じのように、ヨハネの福音書は、大変易しい言葉を使って書いてあります。しかし、その言葉の内容、深さは、大変なものであります。そういう意味からしまして、私にとって少し荷が重い感じがしますが、一応、前回はピリピ書という手紙を扱いましたので、今回は、福音書をみることにしました。

まず1節の最初が「初めに、ことばがあった」で始まっております。開口一番、何という言葉から始めるか、これは著者にとって大変、大きな意味を持つものであります。
因みに共観福音書と言われていますマタイ、マルコ、ルカの3つの福音書は、どの様な言葉で始まっているかと言いますと、まず最初マタイは、ユダヤ人を対象にして書いていますので、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」という系図から始めています。あるいはまたマルコは、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」であり、ルカは、テオピロという人への献呈の辞で書き始められています。つまり「私たちの間ですでに確信されている出来事については……」という書き方で始まっています。それぞれが特色ある始まり方であります。

ところで、今読み始めましたヨハネの福音書は「初めに、ことばがあった」の出だしであり、そしてこの「初めに」という言葉で思い出しますのは、旧約聖書の一番最初の書、創世記の出だしであります。それは、「初めに、神が天と地を創造した」とあるからであります。ものの始まりはとても大切であります。そこから始まって、次々にいろいろな事に展開していくからであります。しかしながら、創世記にしましても、ヨハネの福音書にしましても、同じ「初めに」で始まっていますが、実は、その言葉の意味するところは違うと言われます。何がどう違うかと言いますと、創世記の場合、そこから時間が始まるという意味であり、時間の最初、歴史の最初を意味しているのであります。

一方、この今見ていますヨハネの福音書では、時間の最初ではなく、時間が始まる以前、つまり、創造の御業を開始されたお方の存在に言及していると言われます。従って、「初め」という言葉には、「そこから始まる」という意味での時間の初めという意味と、根本的な原因を著す意味との両方があるという訳です。この全く違った意味があるにも拘らず、ここで、創世記と同じような言い方をしていることには、さらに深い意味がある、とある人は言います。それは、創世記の方は、天地創造について記しているのに対して、ヨハネの福音書は、新しい創造についてこれから記そうとしているのだ、しかも、この両者は、いずれも神の言葉によって造られるという点においても共通性を持っていること、そのように言います。ここでヨハネは「初めに、ことばがあった」と書き出していますが、なぜ、「キリスト」と言わないで「ことば」と言ったのか私には少々気になります。その当時のギリシャ哲学からの影響だろうかと考える人もいます。しかし、実際はそうではないようです。

ところで、このヨハネの福音書が書かれた時期はと言いますと、3つの福音書より少し後です。イエス様の弟子の一人であったヨハネが書きましたので、紀元85−90年の間に書かれただろうと言われています。その頃、すでにキリスト教はユダヤ人の間だけでなく、異邦人の間にも広がっていました。ユダヤ人の間でなら「キリスト」、
即ちヘブル語で「メシヤ」ですが、そう言っても分かったでしょう。しかし、異邦人の間では、「メシヤ」と言ったところで、良く分かりません。勿論、当時の異邦人世界にメシヤ待望がなかったわけではありません。しかし、そうしたメシヤ思想は、必ずしも異邦人世界に共通したものではありませんでした。

そこでヨハネは「ことば」という単語を使ったようです。キリストと言えばすむものを、わざわざ「ことば」と言うことによって、難しくなったと考える人もおられましょう。私もその一人であります。実際、「ことば」のところに「キリスト」を入れて読んでいただきますと、現代の私たちには、直ぐに分かります。「初めに、キリストがあった。キリストは神と共にあった。キリストは神であった。」と実に私達には分りやすいものです。しかし、その当時の人達にはどうかといいますと、「ことば」のほうがより分かりやすい表現だったようです。勿論、必ずしもすべての人にすぐ理解出来るかと言いますと、決してそうではありません。現代において、福音がなかなか浸透しないのも、そういう言葉の壁というものが、ある部分存在するからであります。

ところで「ことば」あるいはギリシャ語では「ロゴス」と言いますが、それは、どこから出てきたのか、ということになります。先程もギリシャ哲学の影響を受けたのではないか、という人もいると申しました。そして、そうではないとも申しました。では、どこからそういう考えが出てきたのかということになりますが、それは先程引用しました旧約聖書にさかのぼることが出来るといえましょう。そして今度は創世記ではなくイザヤ書を引用したいと思いますが。イザヤは、このようなことを言っております。イザヤ55:8−11です。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、(このわたしとは神様を指します)わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げーー 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、
食べる者にはパンを与える。」

実は、この次が今は大切なのですが、11節、「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」とあるのであります。このように、神の言葉とは、単なる言葉や思想を意味するものではなく、さらに深く豊かな内容をも、持っているものなのであります。ギリシャ人はロゴスと言えば、論理とか原理を考えるのに対して、旧約聖書ではむしろ、いのちの源としての人格を意味します。
ですから、単なる言葉ではなく、行動を伴い、力を現す生きた人格そのものなのであります。つまり、神の言葉とは、神以外の何者でもありません。そういうわけで、この「ことば」とはキリストのことであり、ヨハネはこの箇所以外にも、三か所でキリストのことを「ことば」とか(ヨハネ1:14)、「いのちのことば」とか(ヨハネ1:1)、「神のことば」(黙示録19:13)と呼んでいるのであります。このキリストは、「神と共にあった」お方であり、またこの方は「神であった」のでありました。

ここで「神と共にあった」「神であった」と言いますと、神とは別にキリストという神がおられたのかということになります。これを説明するには、まず時間的なことから確認しなければなりません。イエス・キリストはいつからおられたのかという点であります。その点についてヨハネは、「初めにことばがあった」と言って、「永遠」からおられたことを言っています。
イエス・キリストは、天と地が創造された時に存在が始まったのではない。更には、福音が世界に示された時になって、その存在が始まったのでもない。イエス・キリストはご自身でご自分の父に対して、このヨハネの福音書17:5でこう祈っておられます。
「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、
ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください」とです。そこにありますようにイエス・キリストは、「世界が存在する前に」御父と共に栄光をもっておられたのであります。イエス・キリストは、あらゆる物質の創造の前に、
また時が始まる前に存在しておられたのであります。

コロサイ書1:17にもこういう言葉があります。「御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」と。イエス・キリストは限り無い永遠から存在しておられたと言う点はとても大切であります。第二の点は、イエス・キリストは「御父とは区別されますが、御父とともにあって一つなるお方、人格」であるという点です。ヨハネは「ことばは神と共にあった」と言っています。これは御父と「ことば」とは、二つの人格を示していますが、私たち人間の理解を越えて、一体性のうちに結び付いています。父なる神が永遠から存在しておられたように、「ことば」即ち、子なる神イエス・キリストも同様におられた。

共に等しい栄光をもち、共に等しく永遠の御稜威(みいつ)を持ち、しかも、その神性、即ち神の御性質は同一なのであります。これは偉大な神秘でありますので、そのまま受け入れるしかありません。この地上の何をもってしても説明できるものはないからです。この地上のもので説明しようとすると異端に走る事になります。信仰を持つ前までは、三位一体の神の事が良く分からず、二人の神がおられるのだろうか、否、聖霊なる神様の事を考えれば3人おられるのかなどと考えた方もおられましょう。
しかし、ユダヤ人にとっては、神がただ一人であるということは、絶対の事であり、モーセの律法における大原則でした。ですから、ここにおいて啓示されている神は、三位一体の神であり、三位一体の神の第2位格としてのキリストの事が言われていると読む必要があるのであります。

従って、キリストは永遠の神であられ、父なる神との永遠の交わりの中におられた方であります。そして第3番は、キリストは父なる神と共にこの世界を造られた造り主であります。3節にある通りであります。「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」私達は、気をつけないと、創造者は父なる神で、イエス・キリストは何も創造されなかった。ただ、父の右に座しておられ、時が満ちてこの地上にきて下さり、贖いの業を成して下さっただけだ、そのように思いがちです。

しかし、実際は3節にある通りなのです。「造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」とありますように、イエス・キリストは、創造者なるお方でもあります。
そういう、素晴らしいお方を信じる事が出来るようにして下さった神様に私達はまず、感謝をささげたいものです。この世の知恵によってではなく、神様のお働きによって、
その恵みに与かる者とされたのですから、何と言う感謝でしょうか。そして、これは4節の言葉ともつながってきます。
4番目、イエス・キリストは、すべての生命、霊的光の源であられます。4節「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」とある通りであります。造り主であられる神は、単なる法則や原理のようなものではなく、生ける神であられます。
ですから、命を持っておられます。ここで「いのち」と言われているのは、聖書が記しています3種類のいのちすべてを総括するものです。それは、肉体の命、霊的命、永遠の命です。聖書においては、死が神の呪いを表すのに対して、いのちは神の祝福を表します。神の祝福なしに、何一つとして本来の造られた目的に沿ったあり方をする事ができないという意味で、人間の幸福は常にこの神の祝福にあるというのが、聖書の根本的な教えです。

このヨハネの福音書の中には、「いのち」という言葉が、よく出て来ます。キリストは私達にいのちを与えるお方であり、キリストを信じる時、命が与えられ、死から命へと移されます(5:24)。それはまた、新しく生まれる事であり、キリストを信じる時
本当の命が与えられ、迷う事なく、正しい本当の人生を歩んでいくことが出来るのです。イエス様はこのヨハネの福音書8:12で「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」と言われたと書かれています。キリストが「ことば」と言われているのは、詩篇119:105 の言葉、「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」の言葉とを思い合わせる時に、なるほどと思わざるを得ません。

「光」としてのキリストが「闇の中に輝」きながら、「闇はこれに打ち勝」つことができない真理をよく味わう必要があると思います。闇の中に光が差し込んできますと、闇は姿を消してしまいます。また、光の中に闇を入れる事は出来ません。光は闇を駆逐する事は出来ても、逆に闇は光を駆逐する事は出来ないのです。この世の世界は確かに暗黒です。さまざまな事件、事故、争いを見れば、十分にそれを物語っています。私達は、その中に生き、生かされているのであります。私たちはその現実を見ますと暗くなりますが、しかし、そこにキリストが輝いておられる限り、絶望はありません。そこには勝利が約束されているのです。キリストに従って行く時、キリストのいのちが私達の歩む道を確かにし、私達もまた勝利者となることが出来るからであります。キリストにこそ、私達の希望があります。

その希望は、どれほど強力な土台の上に置かれている事でしょうか。ただ今見ましたヨハネの福音書1:1-5 をもう一度読んで、私達が信じ頼るように命じられている救い主は、永遠の神ご自身である。その方は、御父に来る全ての者を、完全に救う事が出来るお方である。また、「神と共に」あり「神であった」その方は、「インマヌエル」(神は私達と共におられる)方である。私達の助けは、その力強いお方の上に置かれている、そのことを一つひとつ覚えて神様に感謝しようではありませんか。私達は、それ自体では、大変な罪人であります。しかし、キリストによって、即ち一人の偉大な救い主によって、救われているし、救われたのであります。この救いは決して覆される事はありません。闇の心に光となって来て下さったイエス様に感謝しようではありませんか。

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