2003年9月7日(日) 「主の証し人」 ヨハネ1:6-8 竹口牧師
ヨハネの福音書を読み始めて今日は2回目であります。先回は、著者ヨハネがイエス・キリストのことを、「ことば」という言い方で現しているのを見ました。また、「初めに、ことばがあった」という「初め」とは、創世記にある言い方の時間の初めではなく、永遠のことを指すと申し上げました。つまり、イエス・キリストは、永遠の昔から存在された方であり、天地万物の創造者であり、また神そのものであられたと言う事でした。その方が、この世に光となって来られたのありました。この世は、罪と汚れで満ち、闇の世界でしたが、光となって来られた、そう著者ヨハネは書いていました。
ところで、このヨハネの福音書1章全体を読んでお気付きかと思いますが、この章は、実に興味深い書き方をされているのであります。つまり先回見ました1−5節まではイエス・キリストのことが書かれていました。そして今回見ます6−8節には、名前をヨハネとしか書かれていませんが、実は一般的に言われています、バプテスマのヨハネを指すのであります。いわゆるバプテスマを授けるヨハネとでも言いましょうか。 そして、このイエス様とヨハネの事が交互に書かれているのであります。即ち、9−14節の所では再びイエス・キリストの事が書かれ、15節には、またバプテスマのヨハネの事が書かれております。そして16−18節の所では、イエス・キリストのことが書かれ、19−34節まではバプテスマのヨハネが言っているのですが、イエス・キリストとはどんな方か、その証言が書かれているのであります。
6節に「ヨハネ」と書かれていることにしましても、この福音書の著者ヨハネではなく、先程も言いましたようにバプテスマのヨハネのことが書かれていますので、初めて読む人にとっては混乱するのであります。よーくじっくりと腰を据えて読まないと、勘違いする恐れが十分にあります。このヨハネの福音書の著者は、イエス様の愛された使徒の一人のヨハネであります。そして、彼はその自分の事を、この福音書の中では、イエス様が十字架にかけられ時と、よみがえられた時の状況に愛する弟子とか(19:26)、もう一人の弟子(20:2)などいう現し方をしているのであります。ですから、このヨハネの福音書を読む時に、ヨハネと言う名前が出てきたら、イエス様の弟子の一人なのか、バプテスマのヨハネなのか、注意しながら読む必要があります。
で、今も言いましたように、今回扱います範囲では、バプテスマのヨハネの事であります。そして、彼のことを旧約聖書の最後の書でありますマラキ書では、このように書かれているのであります。「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、 預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、呪いでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」とであります。イスラエルの人達は、メシヤの来臨を待望しておりました。そして、その前にエリヤが遣わされると御言葉により信じていました。そのエリヤと言われていた人が、このバプテスマのヨハネでありました。福音書の著者ヨハネは、6節で「神から遣わされたヨハネという人が現われた。」と書いています。つまり、バプテスマのヨハネという人は、神様から使命をいただいて遣わされた人でありました。この人の生い立ちを知りたい人は、ルカの福音書1章や、マタイ3章、マルコ1章などを御覧にならればよく分ります。
彼の人生は、母の胎の中にいる時から、すでに決まっておりました。そして、その決められた道を彼は生きる人になるのであります。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われたその人である。そのようにマタイ3章3節にはあります。そういう使命を受けて、生まれた人でありました。
ところで、このバプテスマのヨハネという人の働きを考えます時に、私たち信仰者は、ヨハネほど早くから、自分の使命が決まり、というよりは、分っていて生まれてきた人は少ないと思います。旧約聖書の中に多くの人が登場しますが、その中で、彼と同じ様に生まれる前から、その歩みが決まっていた人が何人か出ております。例えば、さばき司として活躍しましたサムソン。あるいは祭司であり、預言者でありましたサムエルがそうでした。勿論、王の家系に生まれれば、次の王になる可能性は高いのですが、ですから、そういう人がいないわけではありませんが、生まれる前から、それこそ、胎内に宿る前から生きる道が定められていると言う人は、そう多くはこの世にいないわけであります。
ついでにですが、生まれる前から決まっている人の中には、たとえば、無形文化財に値する家庭に生まれた子供の中には、否応なく、その文化を継ぐように定められている人もおられます。ですが、やはり一般的には、定まっていないのが普通であります。そして、定まっていない私たちは、神さまの恵みによって救われ、自分の歩むべき道が示され、その使命が明確にされるというのが、キリスト者の一般的な道であります。 神様には、勿論、私たちが生まれる前からご自身のご計画がありますので、ご存じでありますが、本人は知らないのであります。
今回のバプテスマのヨハネと私たちとを比べてみますと、この世に生まれてくる以前に親に知らされていた場合と、成長して本人が神様に導かれてその使命を知る場合との違いがあります。もっとも、バプテスマのヨハネが与えられた特別な使命を全てのキリスト者が与えられるわけではありません。そこには、時代性というものがあるからであります。私たち一人ひとりが、それぞれに使命が与えられ、明確にされ、神様から、この世に遣わされるのであります。この福音書のずっと後の方で、イエス様は弟子達にこう言われました。「平安があなたがたにあるように。父が私を遣わしたように、私もあなたがたを遣わします。」と。この言葉は、直接的にはイエス様の弟子たちに向けられていますが、今日においては、私たち信仰者にも、向けられている言葉であります。マルコ16:15 には、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」とのイエス様のお言葉がありますが、これが私たちの使命であると言えましょう。
ところで、考えて見ますと、先程も言いましたように、バプテスマのヨハネが遣わされた時と、現代に生きる私たちとでは、明らかに状況が違っていますが、しかし、イエス・キリストの証言者として、私たち一人ひとりが立てられ、遣わされていることに違いはないのであります。そういう意味では、その事を私たちがもう一度確認し、 その使命に生きているか、考えてみる必要があると言えましょう。
さて、ヨハネと現代の私たちとの違い、共通性もさることながら、今回の聖書箇所の7節、8節では、イエス・キリストとバプテスマのヨハネとの違いがはっきりと書かれているのであります。それはまず7節で「この人、つまりヨハネは、証しのために来た。それも光りについて証しするためであり、すべての人が、ヨハネによって信じるためである」とあります。また8節では、「彼は光りではなかった。ただ光りについてあかしするために来たのである」とあります。このように違いがある事に私たちはしっかりと目を止めなければなりません。と言いますのも、私達は大きな間違い、勘違いを起こすからであります。
この、7、8節を細かく整理しますとこうなるでしょうか。イエス・キリストは、永遠の昔からおられましたが、しかし、ヨハネは、イエス・キリストがこの地上に来られる少し前に生まれました。これは1−5節で言える事ですが。またイエス・キリストは、人々を救う為に来られましたが、ヨハネは、その救う方を証言する為に現れました。7節に、ヨハネのことを「この人はあかしのために来た」とある通りです。またイエス・キリストはこの世を照らす真の光そのものでありましたが、ヨハネはその光りなる方を指し示す働きをする人でした。ヨハネは、彼が証しをすることによって、 まことの光であるイエス・キリストを信じさせる証し人にすぎませんでした。
また、イエス・キリストは、信仰の対象者そのもののお方でありますが、ヨハネは、信仰の対象者ではありませんでした。彼は信仰の対象者を信じるように指し示す人であったのです。これらの違いを、そしてその対比をしっかりと知って置かなければなりません。この違いを明確にし、知っていないときに、いろんな間違いが起ってくるのであります。
ここで、少し話を整理しておきたいのですが。それは今まで申し上げました事は、三者三様の違いがあるという事でありました。つまりイエス・キリストとバプテスマのヨハネとの違い、またバプテスマのヨハネと現代の私達との違い。そして勿論、イエス・キリストと私達とは全く違うと言うということであります。これらを一緒にしますと、混乱が生じてきます。私達はイエス・キリストという救い主が来られる道ぞなえをする、そういう必要はありません。また、バプテスマのヨハネが賢明にも、自分の立場をわきまえ、イエス・キリストこそ、自分にバプテスマを授ける方であると自覚していましたように、私たちもまた、イエス・キリストより、聖霊のバプテスマを受ける必要があり、また、そうさせていただいた者であると言う事です。
更には、バプテスマのヨハネがそうであったように、私たちもまた、どんなに努力したり、聖い行ないをしても信仰の対象ではないのです。あるいはまた、私達はイエス・キリストを宣べ伝えるのであって、決して自分自身を宣べ伝えるのではないのであります。気をつけませんと、キリストを熱心に宣べ伝えている様で、実は、自分自身が前にでて、キリストご自身が伝わっていない、そういう事も起きてくるのであります。パウロは2コリント4:5でこう言っています。「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。」と。
私たちは有名になればなるほど、高慢になりやすいものです。そして、間違いを指摘してくれる人がいなくなるのです。信仰が間違った方向に行っていても、あの先生ならということで、納得してしまうのです。もっと恐ろしいのは、私こそメシヤであるなどということをいう人も現れるのです。いろんな新興宗教の主宰者の言葉をお聞きになって見てください。自分こそが、まさに救い主であるかのように言っています。 異端の中にも、そういうのがあります。大変危険であります。そういう人に騙されてついて行く前に、聖書を正しく読んで、軌道修正をする必要が出てきた場合、速やかにそうすべきであります。キリスト教と名乗っている団体の中には、救いを求める人、あるいは罪の許しを求める人と神様との間に立って、自分が仲介者であるかのような振る舞いをしたり、つまり、自分を通してでなければ、あなたの願いは聞かれないと言うような者もいるのであります。
でも、聖書は、イエス・キリストこそ、人と神との間の唯一の仲介者だと言っています。ですから、それ以外の誰も仲介者ではないのです。むしろ私達信仰者は、1ペテロ2章9節によりますと、イエス・キリストを通して私たち信仰者は、変えられ『選ばれた種族であり、王である祭司であり、聖なる国民であり、神の所有とされた民である』と言われる者なのです。ですから、人が自分の魂を、イエス・キリスト以外の 仲介者と称するその人の手中に託したりするのは間違いであります。また、自分の信仰上の大切な事柄、例えば罪を赦すとか、永遠の命を与えるとか、天の御国へ行けるという資格を与えるとか、それらの権限は、人にはないのであります。イエス・キリスト以外の者が宣言しても、全くの意味を持たないものであります。もっとも、こういう間違いを犯しやすい立場の人とは、教会の責任ある立場にある人に言えるのかも知れません。神のように崇め祭り上げられると、そうなることもありましょう。恐ろしい事であります。
著者ヨハネが今日の所でイエス・キリストとバプテスマのヨハネとの違いを書いていますように、その違いを明確にしておかなければなりません。イエス・キリストによって救われた全ての信仰者は、自分が光ではなく、光りについて証しする証言者であり、また、その勤めを神様から担うように命じられている者である。それがキリスト信仰者としての義務であり、責任であり、勤めであります。
ここで義務とか責任とか勤めなどと言いますと、なんだか、気が重く感じられる方もおられるかも知れません。しかし、考えて見てください。初めてイエス・キリストを知った時のことをであります。あなたの人生がうまく行っていなかったり、悩みを抱えていたり、いいえ、そんなことなど全くなかった方でも、罪の指摘がされ、滅びの道しかない事が分ったとき、そして、その解決の為にイエス・キリストが来てくださっていた、その事を知った時の喜びを思い出していただきたいのです。あなたの救いのためにイエス・キリストは十字架にかかって死んで下さった。あなたの全ての罪を赦して下さった。永遠の命を与えて下さった。天の御国へ行ける約束を下さった。それを知ったとき、何という喜びだったでしょうか。更には、悩んでいる人には、友と呼んで下さり、なんでも求めることを許して下さる特権も与えて下さったのでした。
そのようなさまざまな特権を考えるときに、その喜びを、他の人も共に味わって、喜んでもらいたい。そう願うのが、私たち信仰者ではないだろうかと思うのです。バプテスマのヨハネの使命は、「光りについてあかしをする」ことでありました。彼は、光ではなく、光りについて証しする為にこの世に来たのでした。この光とは言うまでもなく、命の光りであるキリストであります。ヨハネの使命は、この一点に絞られていました。ですから、彼ははっきりとキリストのことを、この同じ1章の29節のところで「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と証しをし、3章30節の所では、「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません」と言って、いさぎよく退く事を宣言するのであります。
それに対してイエス様は、5章35節によりますと、「彼は燃えて輝くともしびであ」ると言われるのです。灯とは、光を人々に提供する役割を果たします。キリストによるバプテスマのヨハネの評価はこのようなものであり、確かに彼は光であるキリストを証ししたのでした。そして私たちキリスト者もまた「いのちの光」であるキリストを証しする使命が与えられているのであります。命の光であるキリストを証し出来るのは、キリストによって救われた者にしか出来ないのであります。救われていない者が、救いの素晴らしさは語れないのです。私達はキリストから命の光をいただいているのです。その光をこの世に輝かせようではありませんか。
救われる以前の事を考えますと私たちは霊的に死んでおりました。何が善であり、何が悪であるかは、この世の物差しで計っていました。しかし、それさえも、善と思えることを行おうとしても、行うことのできない弱さを持つ者でありました。道徳的にも不完全であり、霊的には勿論、聖書から言いますと死んだものでありました。この世で生まれたままの状態では、キリストを知りませんので、従って、キリストから霊的命が与えられるまでは、本当の喜びも、目標も、使命も何も分からずに歩んでいたのでした。自分中心の歩み、それがキリストを知る前の私たちの歩みでした。しかし、キリストを知り、キリストを信じさせていただいたとき、今までの歩みから180度変えられたのでありました。罪が赦され、霊的命が与えられ、死よりいのちに移され、 本当の喜びと言うものを教えられた私達は、イエス・キリストの光を証言する為に、 ここから遣わされて行こうではありませんか。
2003年9月21日(日) 「神によって生れる」 ヨハネ1:9-13 竹口牧師
先回は、バプテスマのヨハネとキリストとの違いを見てきました。と同時に、キリストの救いの恵みに与かっている私達は、キリストを宣べ伝える使命が与えられている事を確認しました。今回はイエス・キリストが、受肉されてこの地上に来られようとしている、その時の状況が述べられているところを見ようとしています。
まず9節にこのようにありました。「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」とです。すでに4、5節で見ましたように、光とはイエス・キリストのことでした。人々の光であるイエス・キリストが、この世にまさに来ようとされておりました。ここで言われています「すべて人」とは、誰のことなのでしょうか。どの範囲を指すかで、大きく解釈が別れます。つまり、イエス・キリストが来られた地点でのすべての人なのか、それとも、アダムの子孫として自然的出生によるすべての者を包括的に取り上げて描いているのかという大別すると二つあります。
この9節の訳が別に、欄外にも書いてありまして、「まことの光があった。それは世に来て、すべての人を照らすものである。」とあります。文法的には、どちらも正しいと言われますが、この訳で「すべての人」の範囲を知るには、ちょっと無理があります。どちらも、人という人はすべて、と言う風に受け取られます。 しかし、光であるイエス・キリストの持たれる働きを考えますと、人の救いについは、キリスト来臨以前にも神に選ばれた人は救われていますので、救いがなったとは言えませんし、また、では、キリストが来られるまでと、来られてからと比較するなら、明らかに来られるまでは、闇の状態であった事も確かであります。従って、この9節は、キリストがこの地上に来て下さることによって、この世に霊的光を強烈に増加して下さったということになりましょう。
さらにもう一つ、「すべての人を照らす」というとき、全人類の究極的、普遍的救いを指すものではないということも、ここで確認しておかなければなりません。なぜなら、いつの時代でも、キリストを否定し、迫害し、信じない、そういういわば救いの外にいる人がいることからも、世界の全人類を救うというものでもないことがわかります。光を受けても、ある人はその光を遠ざける、あるいは逃げ出す人がいる。いわば光は二つの働きをすると言ってよいかも知れません。そして、そのような光が、この世界を照らそうとしていたのでした。今まさに、神様のご計画によって時が満ちて、 この地上に来ようとされていた。そして来て下さったのでありました。太陽の光は大変強烈です。地上の全ての被造物を照らしています。それはまた人に注目するなら、ユダヤ人、異邦人の区別なく照らしています。
イエス・キリストというその光は、そのようにすべての人を照らし、この世に来られました。しかし、その光は今も言いましたように、すべての人が光を受けているのですが、そこには違いがありました。選びの違いがここにあったと言えるのかも知れません。10節では、「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」とあります。ここに「この方はもとから世におられ……」とありますので、それなら、改めて「来ようとしていた」などと言わなくてもいいのでは、という風に言われる方もおられましょう。
しかし、ここの意味は、キリストが受肉される以前の全世界を指して言っているのであります。イエス・キリストは、処女マリヤから生まれられる以前からおられた。それは1ペテロ3:19にあるのですが、ノアの日と同様に、目に見えない状態で「世におられた」のでした。イエス・キリストは、もし人がイエス・キリストを見る目を持っていさえしたなら、その方のみわざにおいて、またその方の摂理的な万物統治において、見られる筈でありました。しかし、イエス・キリストが造られたこの世は、イエス・キリストの造られたみ手の業を認めず、信ぜす、聞き従わなかったのでありました。この世は、イエス・キリストを知らなかったのであります。まさに闇の中に、光となって来て下さったわけであります。
更に11節に入りますと「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」とまであります。この節は、キリストが受肉された後、ユダヤ人の中で働いておられた間における、彼らの不信仰が描かれています。イエス様は、特別にご自分の民の所に来られました。ユダヤ人は、エジプトから贖い出され、カナンの地へと導かれ、モーセの律法を所有し、契約によって、キリストの民となっていました。しかし、彼等は、そのキリストを信ぜず、受け入れず、更にキリストを拒絶し、殺してしまうのであります。「ご自分の」と訳されていますギリシャ語は決して見過ごしに出来ない特殊な点があるとある人は指摘します。
それは、外国語の中には、名詞を性別分けし、男性名詞、女性名詞、中性名詞に分けられますが、今ここに書かれているギリシャ語で、最初の「ご自分の」は中性名詞であり、字義的に「ご自分のもの」を意味します。そして第2の「ご自分の」は、男性名詞であり、「ご自分の民、従僕、家臣」を意味するのだそうです。
主はユダヤ人と言う一民族にやって来られた。−−この民族の土地、領地、町々村々、神殿、そこにある主の全ての財物、これらは、最初主ご自身によってこの民に授与されたものであった。ユダヤ人、パレスチナ、エルサレム、神殿、これらはみな、キリストの独特の所有物であるとなります。
詩篇78:71 によりますと、イスラエル人は「ご自分のものであるイスラエル」と呼ばれています。このことは、主を受け入れなかった者達の罪を、一層罪深いものとしたことになります。実際のところ、考えて見ていただきたいのですが、イエス・キリストがすべての物をお造りになられ、そして、その造られたものの所にお出でになった。 しかし、その造られた方を、人は知らず、認めず、反抗さえする。そのような時、みなさんがイエス・キリストであったなら、どうされるでしょうか。 怒り心頭、すぐに滅ぼされるでしょうか。幸いな事に、すべての人がイエス・キリストを認めず、反抗するのではないのです。選ばれた神の民が、そこにはいるのであります。その神の民の為に、すべてを滅ぼすことを神様はなさらないのです。
今日の聖書箇所の前半は、この地上の悪い面が書かれていました。そして後半は、 私達信仰者にとって実に幸いな事が書かれているのであります。イエス・キリストが、ご自分の国、ご自分の民の所に来られたのに、人々は、その方を受け入れなかった。 しかし、中には、受け入れる者がいる。そして、そのような者に対する神様の配慮が12節から語られているのです。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」キリストを信じ、彼をメシヤと認めた者は誰でも」であります。
「この方を受け入れた人々」とは、自発的な心でキリストを受け入れる事であります。 私達の救い主として迎え入れることであります。これは、罪人の心をキリストに結び付ける義認の信仰について、聖書が表現している形式の中の一つであります。心でキリストを信じることは、キリストを受け入れる事であり、キリストを受け入れる事は、キリストを信じることであります。使徒パウロは、コロサイ人に宛てて「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい」(コロサイ2:6)と勧めています。
神の選びという観点から言いますと、あるいはまた、人間の全くの堕落した状態などのことを考えますと、意義を唱える方もありましょう。そういう意味で、あえてここでは、「聖書が表現している形式の中の一つであります」と述べているのであります。神様は、イエス・キリストを信じた人には、神の子供とされる特権をお与えになりました。この世にあるさまざまな特権、世界から見た場合、日本人であるなら、日本人であるがゆえの特権が、他の外国に比べてあると思います。あるいは、何かクラブに入っておられれば、その会員ならではの特権というものが有りましょう。しかし、この世のさまざまな特権と比べるなら、神の子供とされるほどの大きな特権は、この世には見当たりません。それは、神の家族となる養子縁組の特権が与えられたということだからです。神の家族ゆえに、さまざまな恵みを特別に受ける事が出来るのです。さまざまな恵みとは何か、それはここで言わなければならない箇所ではありませんので省きます。
が、さまざまな恵みの中から一つを敢えてあげるとするなら、13節の言葉が、それを言い表していると言えるでしょう。「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」と言う言葉です。神の子とされ、養子縁組された者は、だれ一人、その人の内に秘めている何かによってではないと言う点であります。なぜなら、人の内側には何一つ、神様によって認められるような良い点は存在しないのが、生まれながらの人間だからです。ですから、この13節のような言葉が書かれているのであります。神の子供とされる特権をいただいた者は、なぜ?どういう理由でいただけたのか、という疑問がわきますが、これはとても大切な点です。
まず一つの否定がのべられています。血によってではない、という点です。血と言いますと、私はすぐにイエス様の十字架上で流された血を思い浮かべます。しかし、ここではまたヨハネの話の始まりであり、来られたばかりの話の所でありますから、その血を指していません。では何の血かということになります。血という言葉が、ギリシャ語では複数になっていますので、割礼や犠牲において流される血を指し、それらが新生、新しく生まれさせる力はないという人もいるようですが、単純にいって、ここでの血は、血筋を指して言っているというのが本当でしょう。 つまり、アブラハムの血筋でも、またダビデ、アロン、ユダ、レビなどという、ユダヤ人の血筋を言っているのではないと言う事です。神の恵みは、両親から子供に自動的に下るものではないないのです。
第2の否定は、肉の欲求によって特権が与えられたのでもないとあります。その人自身の自然の心の努力とか、働きによったのではない。生来のものは、決して変化する事は出来ない。「肉によって生まれた者は肉です」この第2の否定は、人の意欲によって神の子供とされるのではない。他人の行為、功績、願望によってなったのではないのです。教会のどんな職務についた人であっても、あるいはまた、その他の誰であっても、他人に神の子供とされる特権を授ける事など出来ません。人は、誰をも生まれ変わらせる事は出来ないのであります。私達イエス・キリストを信じる者は、ただ、そして全く神様の一方的な恵みによってのみ、信じ、生まれ変わらせていただいたのであります。
私達の新しい誕生は、神様の自由な恵みによってでありますから、不公平だなどというひとがいるかもしれませんが、だからこそ、神様から受けたものは、恵み以外の何ものでもないのです。神様の自由な恵みは、私達のかって気ままな歩みを妨げ、呼び出し、回心させ、新しくし、聖くしてくださるのです。これらはみな、神様のお働きに依存するのであります。ですから、13節の最後の言葉「ただ神によって生まれたのである」というのは、実に大切な言葉であります。
全世界には、能力の差、貧富の差、年齢の違い、性別、体格、ありとあらゆる事が違っていて、千差万別であります。その中から、神の子供とされるのは、主権者なる神様によるのであります。新しく生まれた人は、どうして生まれる事が出来たのですか。 それに対する答えは、ここでヨハネが答えているだけでなく、イエス様の弟子であったペテロもこう言っています。「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」1ペテロ1章23節の言葉であります。何と言う素晴らしい言葉ではないでしょうか。その御言葉を、私達は今、手にしているのです。
神様が新しく生まれさせて下さったならば、その人には当然ながら変化が起きてくるはずであります。いいえ、起きてくるのです。それを、その人自身は最初、気付かないかも知れません。生まれたばかりの赤ん坊が、自分はこの世に生まれたんだという自覚を持っていないのと同じであります。成長して行く過程で、気付かせていただけるのであります。大切なのは、変化を自覚出来るかどうかではなく、神様の御言葉に対して、あなたはどう向き合っておられるか、ということでしょう。御言葉に信頼して、キリスト・イエスに従って歩んでいる人には、必ず新生、新しく生まれたのであり、御言葉を信じられない人に新生はありえないのです。
イエス・キリストは、救い主としてこの地上に来て下さいました。私達は、その事実をまず厳粛に受け止めなくてはなりません。神が人となってきて下さったとは大変驚くべき事だからです。そして無知な心、暗くなった心に光となって下さったのでした。 その方を、まだ信じておられない方は、すぐに受け入れていただきたいものです。一方、すでに受け入れている方は、キリスト・イエスの御名をほめたたえようではありませんか。神の子供とされる特権をいただき、なおかつ、それは神様からの一方的な恵みによったからです。
もう一つ、私達は生まれながらにして、どうしようもない罪人であることをもう一度改めて認めようではありませんか。救い主が来られても、知らず、また受け入れないという者であった、そのことを率直に認め、そして、そのような者をもあえて神様は御心に止めて下さり、救って下さったのだ、という哀れみに心から感謝しようではありませんか。血筋によらず、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神の恵みによってあなたは今生まれさせていただいているのですから。
|