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2003年10月12日(日) 「真の神を見る」  ヨハネ1:14-18  竹口牧師

2003/10/12  ヨハネ1:14-18   真の神を見る
この世には多くの宗教があります。そしてまた、それをその宗教という枠組みの中で考える時、キリスト教もまた一つの宗教であります。多くの宗教がある中で、人がどの宗教を信じようかと考えた時、何をどう信じるか、それは非常に大切な問題でありまし、そこにはまた、選択すると言う要素が出てくるのであります。科学万能の時代、何でも科学で解決できると思っている時代がありました。今もそう思っている人も多いかも知れません。しかし、豊かに、物に囲まれた、あるいは満ち溢れた生活をしている現代では、生活の豊かさの追及から盛んに心の時代だと言われるようになりました。そして、その人の心の飢え渇きをもてあそぶかのように、多くの新興宗教が戦後まもなく生まれたのでありました。終戦直後は、物質的祝福を約束し、今は心の安らぎが与えられると勧めるのが中心ではないかと思います。

ところで、その宗教の教祖の多くは、自分こそ神なのだと言っています。何か特別な体験をし、神からご神託を受けたと言います。そのようにして、多くの新宗教、あるいは、新々宗教なるものが生まれました。そういえば、新宗教とか、新々宗教なるものではありませんが、ある本では、明治時代から国家神道の力が強くなり、大戦中は、天皇が現人神(あらひとがみ)と言われ、人の姿をとって現れた生き神様だと言って崇めさせられたそうです。が、敗戦後まもなく、天皇によります人間宣言によって、神とは言われなくなりました。ただし、熱心な天皇信仰者が今も存在することには変わりはありません。

しかし、考えてみますと、キリスト教も、神が人となって来られたと言っているのであります。あっちでも、こっちでも、我こそは神であると言われるとき、一体、どれが正しいのか、あるいは、全部正しいのか。真面目に考え、真剣に求めている人にとっは、真実は何か、それは大きな問題だといえましょう。私も最初は、その一人でありまた。どの宗教も、私たちの教えは正しく、他は間違っていると言うか、あるいは、否定しないまでも、受け入れません。100%他を受け入れるとするなら、自分たちの教えに必ずなんらかの妥協が強いられるからであります。ですから当然ながら、ここで、多くの人は戸惑うのであります。何が正しく、何が間違っているのか。何を信じたら良いかとであります。正しい神様がおられるとしたら、どれが本当の神様なのか教えてほい、そういう方もおられましょう。というよりも、私たち日本人は、あれかこれかではなく、あれもこれも何でも信じるという精神風土の中にいますので、排他的な宗教を嫌がるというのが現実でしょう。従って、正しくキリストの教えが根付くのには大変難しいものがあります。私達すでに救われている者にとって、キリストの証人として、もっともっと証言していかなければならない責任があるように思います。

さて、そういう中でイエス・キリストがどういう方か、明らかにしているのは、言うまでもなく聖書でありますが、その聖書は、この地上にお生まれになったイエス・キリストこそ神であり、人となって来られたお方であるというのです。今日の聖書箇所14節の最初の部分にこう書いてありました。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。…」とであります。

神様を私たちは、肉眼で見ることはできません。神様は霊なるお方だからであります。しかし、その見えない神様を見える形にして下さったのが、父なる神様でありました。
イエス・キリストをこの世に送ることによってでありました。では、イエス・キリストがこの世に来られる前はどのように神が御心をお示しになったのでしょうか。ヘブル書1:1,2 にこのように書いてあります。「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通て、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。」私たちは、神様が直接、私たち一人ひとりに、語りかけてくださると共に、御心を夢や幻によって示して下さると、これ程分かりやすいことはないと思います。実際に、ある時代には、今もヘブル書にありましたように、預言者を通して多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られたのでありました。

しかし、旧約時代は神様はそうされましたが、そして、新約に入って、イエス・キリストをお送り下さり、更には、私たちの救いに関して、御心を客観的に示すものとして、完結された聖書を私たちに与えて下さったのでした。私達は今、その聖書が完結にいたるまでに、神様が御子をこの世に遣わし、御子によって、ご自身とその御心を啓示して下さった、そのことを見ようとしているのであります。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」ということは、キリスト教にとって、大変大きな意義があるのであります。なぜなら、この世にどんなに多くの宗教があり、我こそはメシヤなりと叫んでも、決してキリストを越えるものではないからです。キリストは神であられ、他は単なる人に過ぎず、叫んでいるだけだからです。勿論、聖書のお言葉を信じない人には、受け入れられないでしょうし、また、他の宗教と同じではないかとお感じでありましょう。幼稚な教えだある人は言います。信じない者が何と言おうと、聖書は言うのです。
キリストは、聖霊のお働きによって、奇跡的方法で、処女マリヤより生まれられた。
キリストが肉体をとられた目的は、罪人たちのために生きて、罪人たちの為に死ぬことであった、とであります。

著者ヨハネはここで「ことばは人となって……」と言っていますが、この「ことばという表現、イエス・キリストのことを指して言っています「ことば」は、この福音書において、この14節が最後であります。それ以後、キリストの受肉の時からヨハネは「ことば」として来た所を、「イエス・キリスト」または「主」と呼んでいるからです。また「ことばは人となって…」という「人」とはギリシャ語では、「肉」あるいは「肉体」という言葉が用いられています。ですから、キリストが受肉されたことによって、ご自分の上に、実際の肉体と理性的霊魂とからなる、私たちの全性質そのものを、おとりになったことを示します。そのために、この「肉体」という語が意図的に用いられているのです。ある人は言います。「主が人間の全性質をおとりにならなかったなら、人間の側のいやしも、さらに魂の救いもなかったであろう。」と。

このことはまた、私たちの主は、ご自分の上に、肉体には不可分の弱さ、飢え、痛みなどの影響を受ける体をおとりになった、ということを意味していると説明します。キリストは、すべての病気、欠陥から自由な性質を持った、堕落以前のアダムのような人間になったのではなく、アダムの子らと似た人間となられた。ただし、罪を除いてであったのでありました。そして「すべての肉なる者」の救い主となるために来られ、その為に肉体をとられたのであります。まあ、これ以上この14節だけを細かく取り上げ過ぎても先に進みませんから、一応、要点だけを述べさせていただきますが、それは次の4つの点が挙げられます。

まず一つは、「ことばが肉体となった」時、キリストは一つの人格において、二つの完全な、そして異なる性質の結合によって、そのようになられたと言う事です。ある信条にこうあります(アタナシウス信条)。「キリストは神であり、また人である。彼は、この世が存在する前に生れた、御父の本質の神である。また、この世に生まれた、母親の本質の人である。彼は神であり、また人でもあるが、決して二人ではなく、一人のキリストである。神性を肉体に変換したのではなく、神の中に人性を取り込むことによって生じた方である。」とであります。

二つ目は、「ことばは肉体となった」時、一瞬たりとも神であることをやめなかった方であります。三つ目は、「ことばは肉体となった」時、私たちの性質、即ち人性の真の在り方を保ちつつ、すべてのことにおいて私たちと同じ様になられたのであります。四つ目は、「ことばは肉体となった」時、キリストは、ご自分の上に「罪に陥りやすい肉体」をとられたのではありませんでした。しかしまた、キリストの人間としての性質は、弱さを覚えることから離れた存在ではなかったのです。
と同時に、罪を犯すことからは離れておられたのであります。

こういうさまざまなキリストのご性質から見ますと、この世で、我こそはメシヤなりといっている人と大きく違うことにお気付きでありましょう。著者ヨハネは、15節でこう言っています。「私たちはこの方の栄光を見た」とであります。キリストはさまざまな奇蹟を行われました。そして最後には昇天されましたが、その間の地上の生涯の中でキリストが人であるばかりでなく、「神のひとり子」でもあることの明白な証拠を見たとヨハネは言うのです。「父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」と。そして、それをある人は、変貌山において、キリストが3名の弟子の前で変貌されたのを目撃して書いていると言います。そして「この方は恵みとまことに満ちておられた」とヨハネは言うのです。

さらに15節に進んで、イエス・キリストのことを著者ヨハネは、バプテスマのヨハネはこう言ったと言います。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」と。その当時、バプテスマのヨハネの働きは、多くの人々に注目され、神様の前に悔い改めるために、集まってきていました。そのヨハネが、イエス・キリストのことを自分より勝る方であると言ったのでした。そして16節から18節までで、著者ヨハネによって、イエス・キリストとはどんな方かが述べられるのであります。まず16節で、「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」と言います。

理由として、17節で「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである」と言います。私はこの16節と17節とのつながりをこう読むのであります。ある先生の本を引用させていただきますが、それを説明するためにまず、17節のことをアウグスチヌスという人の言葉を引用しておられます。律法とイエス・キリストとの比較において彼はこのように言っているそうです。「律法は威嚇した。しかし、助けてはくれなかった。命令した。しかし、いやしてはくれなかった。われわれの弱さを暴露した。しかし、取り除いてはくれなかった。 しかし、律法は、恵みと真理をもって来るはずの偉大な医者を用意したのであった。」と。何と言う素晴らしい表現でありましょうか。

律法は決して悪いものではありませんでした。今も大切な働きを私達にしてくれています。それによって、私たちは神様の求めておられる聖からどんなに離れているかを教えられているからであります。そして、神様の憐れみによるしかないことを知らされました。そして次にキリストが来て下さることによって、旧約の時に人がいただいていた恵みに、更に豊かな恵みが加えられ、溢れるばかりの恵みが増し加えられたのでありました。

パウロはこう言っています。「神は御心によって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ」「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです」(コロサイ1:19,2:3)。キリストのうちには、時と永遠の双方にわたって、罪人がどうしても必要とするもの全てが、無限に備えられています。キリストはちょうどその宝庫のようであります。キリストは、あわれみ、恵み、知恵、義、聖潔、また贖いにおいて豊かな方であります。このキリストの満ち満ちた中から、各時代の全ての信者は、必要が満たされてきたのでした。

紀元前、つまり、旧約の時代には、人々は自分たちの必要とするものの供給がどこら来ているのか、その源についてよくわからなかったと言えましょう。旧約の時代の人達は、キリストを決して顔と顔とを合わせて見ていたのではなかったでしょう。しかし、後にすべての聖徒は、自分の全ては、キリストのみに恩義を受けている、報いて返さなければならない恩があるという事実を完全に知るようになるのであります。
それ程の働きをイエス・キリストはなさったからであります。

最後の18節にこうあります。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」とであります。死ぬべき者の目は、いまだかつて、父なる神を見ることはありませんでした。人は、どんな者であっても、絶対に正視し得る視力を持っていませんでした。モーセにでさえこの様に神様は言われました。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人は私を見て、なお生きていることはできないからである」と。                    (出エジプト33:20 )しかし、死ぬべき者である人間が、父なる神様について知りうべき、ぎりぎりの限度までをすべて、神の御子は、私たちに啓示されたのでした。永遠より父のふところにおられた御子は、ご自分の上に人の性質をおとりになること、またそのようにして、私たちの心が御父の完全さについて理解し得るすべてを、私たちに示すことを、よしとされたのでした。キリストのお言葉、行為、生命、死、これらのうちに、私たちは、この貧弱な心が耐えられる限度一杯まで、父なる神様について学ぶことができるのです。

神様の完全な知恵、神様の大能、神様の罪人への計り知れない愛、神様の聖さ、この世の何ものにもくらべるものがない聖さ、神様の罪に対する憎しみ、これらのことは、キリストの生涯と死のうちに、最も明瞭に知ることができる形で現されたのでした。
言葉がご自分の上に体をとられた時、まさしく「キリストは肉において現れ」(1テモ3:16)たのでした。1テモテ3:16には、欄外に、異本では「キリスト」の所が「神」となっているとあります。つまり「神は肉において現われ」ということになるのです。ヘブ1:3 では、「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れである」。であり、ヨハネ10:30 では、御子は、「わたしと父とは一つです」であり、またヨハネ14:9では「わたしを見た者は、父を見たのです」と言われたのでした。

更にコロサイ2:9では「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています」とあるのです。これらの一つ、ひとつの聖書の言葉は、まことに深遠であり、神秘であるといえましょう。この真理が見えるようになるのは、神様によって、信仰の目が開かれた者のみであります。そして、キリスト者はみな、その目が開かれているのです。生れたままでは見る事の出来ない霊の目を神様は、私達信仰者一人ひとりにくださいました。何という感謝なことでしょうか。その信仰の目を開いて下さった方を、もっともっと知るには、イエス・キリストを更に知っていくことが必要なのです。そしてイエス・キリストを知ることは、イエス・キリストにより近付く事でもあります。そしてそれはまた、神を知ることでもあるのです。

この世を歩む時、さまざまな問題に直面します。しかし、どれ一つとて、神であるキリストの知られない事ではありません。なぜなら、神であるゆえに本来ならその必要もないのに、更に人となって来られ、この地上の歩みをされた故にであります。父なる神様を見たければ、子なる神イエス・キリストを見るべきです。この方こそが、神様を説き明かされたのですから。子なる神イエス・キリストを見るとき、そこに父なる神も見る事が出来るのです。

2003年10月26日(日) 「道を備える者」  ヨハネ1:19-28  竹口牧師

2003/10/26 ヨハネ1:19-28  道を備える者
世の中には、我こそはメシヤなりと豪語する偽者がいますが、今日の聖書箇所にでてきますバプテスマのヨハネという人は、メシヤではないとはっきりと言い、なおかつ、
実に謙遜で、また神様の前に正直に、その任務を果した人であります。そんな彼の行動を見ながらある人々は、一体彼は何者だ、という疑問を持ったのでありました。
そこで、そもそもバプテスマのヨハネとはどういう人物かを、今回の聖書箇所から私達も見たいと思うのであります。

まず、バプテスマのヨハネの行なった事は、「罪が赦されるための悔い改めのバプテスマ」を説いておりました。そして悔い改めた者には、バプテスマを授けていたのであります。が、その際の彼が授けました「バプテスマ」という形式が、どこからきて、どういう道筋を経て、どういう目的で取り入れたのか、その由来について知りたいと思うのでありますが、実のところ、はっきりしたことはよくわかっていないのであります。しかし、その当時、「沐浴」を行なっている集団があったことが、歴史的事実として知られております。

その主なものは、荒野に隠遁する修道僧の団体で、普通「エッセネ派」と呼ばれており、歴史家ヨセフスなどの記録によりますと、その数は4千人を越えていたそうであります。死海の西北岸にクムランと呼ばれます丘陵地帯がありますが、そこから修道僧の集団生活を行なっていた跡が発見され、この地名を取って、「クムラン教団」という名で呼ばれるようになりました。これが恐らく「エッセネ派」なのであろうなどと推定されております。そして現地における発掘や文書に基づく研究の結果、明らかにされた所によりますと彼等も日毎に身体を水に浸して「きよめ」を行なっていたのでありました。

しかしながら、ヨハネのしていましたことは、そのような「きよめ」とは決定的に異なる点が二つありました。その一つは、ヨハネの場合、日毎の汚れを洗いきよめるというよりは、やがて来る審判に備えて、滅亡から免れるため、全生活をもってする転向、改める事を意味するものでありました。従って、彼の与えるバプテスマは1回限りのものであって、クムランの修道僧が日毎に繰り返していた「きよめ」の沐浴とは、全く性質をことにしておりました。さらにまた二つ目の違いは、ヨハネのしていたことは、エッセネ教団のように、小さく閉じられた宗教団体の中だけで行なわれるきよめの儀式ではなく、全国民を含む巨大な悔い改めの運動であったと言う事でありました。彼は内にこもって、選びの子らを小さく守り抜こうとしたのではなく、外に向かって、すべての人の心臓に御言葉の剣をつきつけ、すべての人に悔い改めを迫ったのでありました。従いまして、このような彼の行動が、同じくイスラエルの民全体をその支配下に置きますエルサレムの宗教指導者達に、異常な刺激を与えたであろう事は、何となく想像出来ます。

今、ここでバプテスマという形式だけに着目してみますと、ある学者が言いますのには、きよめの儀式は、その当時の彼等にとって、別に目新しいものではなかったといいます。マタイ23:15 に書かれていますイエス様のお言葉からも分かりますが、当時、ユダヤ教徒達は、異邦人に向かって、真の神様を宣べ伝えることに大きな努力を傾け、
その伝道活動によって出来た改宗者をユダヤ教団の中に受入れる時には、きよめの儀式というのでしょうか。それを行なっていたからだといいます。ただし、これはいうまでもなく、「改宗者」だけに施されるものであったそうです。

しかし、またある学者によれば、そのような事を言及しているのは、ユダヤ教のタルムッド(紀元後3−5世紀頃のものですが、それに)あるのであって、新約聖書時代近くまでさかのぼる事は出来ても、バプテスマのヨハネの時代まではさかのぼれないというようなことを言います。そして、バプテスマのヨハネが行なっていたことは、
今日のわたしどもの教会でもしています全身水に浸します浸礼、つまりバプテスマを一番最初に彼が行なったのだと言います。

回数といい、方法といい、聖書で言っていますバプテスマというのは、わたしどもの教会では、それが正しいと信じ、行なっているのであります。ところで、バプテスマのヨハネが、何の権威の下に行なったのか、これは、大きな問題であります。これがきちんとしていないとユダヤ教の権威者達とヨハネとの関係が厳しいものになってきます。ところが、ヨハネの預言者的活動に対しては、外的証明を明示する事は、不可能でありました。そこにあるものは、神の側から圧倒的に迫って来る霊的事実だけでありました。

神から派遣されたという、肉の目には見えない信仰的事実だけがヨハネの毅然たる戦いを支える唯一の根拠でありました。ですから、今回の聖書箇所にでていますように、
エルサレムの宗教的指導者達が、現地調査のために祭司とレビ人を派遣したというのは、真に深い意味を持っているのであります。彼等宗教的指導者は、半信半疑ながらも、この悔い改めの運動が、神から出たものであるのか、今まで維持してきた支配権と秩序を根底から転覆させようとしているのかと、何かただごとならぬものを感じ、
警戒感と敵意を持って動き出したと言えましょう。

ですから、この人物の素性をつき止めておかなければならない。そこでわざわざ、祭司とレビ人を遣わしたのでありました。遣わされた者達は聞きました。「あなたはどなたですか」するとバプテスマのヨハネは、「私は、父ザカリヤ、母エリサベツとの間に生れた子でありまして、名前をヨハネと申します。両親はユダの町に住んでおりまして、何でも両親の言うには、私がまだ生れる前に御使いが現われまして、名前をヨハネと付けるように両親に言ったそうです。

母親の胎内にいる時から聖霊に満たされ、私が大きくなったら、イスラエルの多くの子らを、彼等の神である主に立ち返らせます、と言っていました」などと彼は言いませんでした。そうではなく、「私はキリストではありません」と言っただけでありました。別の言い方をしますと、『皆さんがお騒ぎになるようなメシヤではありません』と言ったのです。では、ここでなぜヨハネは、「私は何々です」と言わないで「キリストではありません」と言ったのでしょうか。はっきりと「私は何々です」答えれば、
彼等から次のような質問はでないはずであります。

使いの者達はやはり満足出来ませんから、「ではいったい何ですか。あなたはエリヤですか。」とまた聞きました。するとヨハネは、またもや「そうではありません」と答えました。では一体、なんなのですか、とまた言いたくなります。そしてまた質問するのであります。「あなたは、あの預言者ですか。」と。聞く方は、遣わされているのですから、その任務を果さなければなりませんから、必死でありましょう。言葉遊びをしている場合ではありませんし、またヨハネもそのつもりはなかったでありましょう。

しかし、相変わらずバプテスマのヨハネの答えは、否定でした。名乗りませんでした。
それでも、その否定によって、バプテスマのヨハネと言う人物が、大体どういう者あるか、少しずつ分かってくるのであります。いわゆる、消去法によってであります。
ところで、このヨハネの3つの否定の中には、私達も疑問を持つのもありますので、
それを次に取り上げたいと思います。

その一つは、「あなたはエリヤですか」という問いに対して、「そうではありません」と彼が答えている点であります。実は彼等が質問した根拠には、旧約聖書最後の書マラキ書4:5 に、「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」とあり、彼等は、それかもしれないと思っていたからであります。でも、ヨハネは、そうではないと言い切っております。そしてこれは実に難しい問題を含んでおります。なぜなら、後にイエス様がこのバプテスマのヨハネの事を指して、こう言われたからであります。マタイ17:12 の所ですが、「しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。

ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。」と言われているからです。ではイエス様のお言葉と、ヨハネの言葉とはどのように調和出来るのかということになります。ある人は、預言者エリヤの出現は二度あると考えます(ライル)。第1回目の出現は、霊と力とにおいての出現であって、いわゆる字義通りの出現ではなかった。

第2回目の出現は、かつてエリシャが目撃していた、天に携えあげられた当のエリヤの、この地上での実際の出現であろう。そして今回の第1回目の出現は、キリストの最初の来臨の時に起こった。しかもこれは、バプテスマのヨハネが、エリヤの霊と力とを持って、メシヤの面前に進んだ事によって実現したのだと言います。また第2回目の出現は、イエス様の再臨の時におこるだろう。そしてエリヤ自身が、イスラエルの種族たちに対する預言者として再来する事によって実現するだろう、とも言います。
つまり、エリヤではないの答えは間違ってはいないわけであります。バプテスマのヨハネは、自分の事を、人々が期待しているようなエリヤではないと言ったことになります。

もう一つ問題があります。「あなたはあの預言者ですか」と彼等が聞いていることに対して、ヨハネは「違います」と言う答えをしていることです。では一体、「あの預言者」とは「どの預言者」の事なのでしょうか。現在の私達にはすぐには分かりませんが、少なくとも質問した側と、それに答えた側とはあうんの呼吸で即座に一致していた事でありましょう。ヨハネはきっぱりと「違う」と言っているのですから。

では現代の私達は、あの預言者とは、どの預言者の事をいったと理解すればいいのでしょうか。聖書の脚注を見ますと、申命記18:15,18がでています。そこでは、モーセがこのように書いているのであります。15節「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。
彼に聞き従わなければならない。」18節「わたしは彼らの同胞のうちから、
彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。」とであります。

そしてここにある「一人の預言者」というのを、メシヤとする考えがあります。ユダヤ人もそう考えていたでしょうし、新約時代の使徒たちもそう考えていました。ですから、実際に、そこに書かれているのは、メシヤ、つまりキリストを指して言るのですが、しかし、そこでは、メシヤだけのことを指していはいません。なぜなら、その後の22節にメシヤに相応しくない事が書かれているからです。つまり、「わたしが告げよと命じていないことを不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、他の神々の名によって告げたりする預言者があるなら、その預言者は死ななければならない」とあるからです。

が、いずれにせよ、ヨハネは、自分のことを飯屋ではないといい、申命記で言われています預言者、中でも、預言者の中の預言者、頂点に立つ預言者ではないということでありましょう。「わたしはキリストではありません。」「エリヤでもありません。」「あの預言者とも違う」とバプテスマのヨハネが言う時、では一体、あなたは誰なのですかと、自分達が遣わされている責任を果そうと、彼等はなおも食い下がるのであります。「分かりませんでした」では、子供の使いになってしまいます。

彼等の質問にヨハネは、イザヤ書の言葉を引用して答えるのであります。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です。」とです。これはイザヤ書40:3から来ています。イザヤの語ったことは、神の民イスラエルがバビロンに連れ去られていく悲惨な時が来た後、彼らへの刑罰の期間が終わって、神の民はもう一度バビロンからパレスチナに帰って来るというのです。その時、主がイスラエルの民を連れて帰って来られるわけで、その主の道をまっすぐにして用意をするということでした。

しかし、今やバプテスマのヨハネが主の道をまっすぐにするというのは、主なる神が天からこの地上に降りて来られる道備えをする、その事を指していたのでありました。
救い主イエス・キリストがこの世に来られるに当り、人々に心の準備をさせるためであったわけでありました。バプテスマのヨハネがヨルダン川のほとりで悔い改めの説教をしていたのは、そのことでした。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」であります。

ところで、ここで非常に奇妙な出来事にぶつかるのであります。というのは、バプテスマのヨハネのところに遣わされて来た人たちは、19節では祭司とレビ人であると書いてありますが、24節になりますと、「彼らはパリサイ人の中から遣わされたのであった」と言って、パリサイ派だと言っています。これは少し奇妙に思えないでしょうか。というのは、当時、祭司やレビ人のほとんどはサドカイ派に属していたからです。

つまり、こうしたことはかなり例外であって、パリサイ派というのは、彼らが、正統派をもって任じていた人々で、しかも祭司やレビ人という宗教家であったということは、バプテスマのヨハネの存在は、当時の正統派をもって自任する宗教家たちからも
この時、マークされていたということが分るのであります。そこで、彼らは今度はバプテスマのヨハネを糾弾するかのように言うわけです。「キリストでもなく、エリヤでもなく、またあの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」と。

これは、共観福音書では、最後の週に、エルサレムの神殿の境内において、祭司長や律法学者や長老たちが、「何の権威によってこれらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか」と言って、キリストを糾弾したのと同じ種類のものです。ヨハネはそれに対して26、27節で、「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」と言うのであります。

ヨハネはあくまでも自分の行なっていることを説明し、太陽と月とに例えていうなら、
ヨハネは、光ではなく、光を反射するだけのもの、その方が、まさにあなた方の中に立っておられるというのです。実際は、次回見ます29節のところで、その方を紹介するのであります。今回は27節において、自分がその方のくつのひもを解く値打ちもないと、その当時で言いますと、主人に仕える奴隷のような存在であると言うのでありました。何と言う実に謙遜な人でしょうか。また、何と言う正直な人でしょうか。

自分の立場と言うものを何とよく自覚した人だったでしょうか。パウロは、2コリント4章5節でこう言っています。「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、
主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなた方に仕えるしもべなのです。」と。我こそはメシヤなりと豪語することは、言語道断ですが、そう言わないまでも、キリストよりも自分が前に出たり、或はまた、自分の力で何でもしているかのような、そのような錯覚に陥ったりする危険がおおいにあるのであります。ですからそうではなく、キリストがわたし達のそばにいてくださり、また内側で働いてくださり、現在があることを私たちは覚えたいのです。そして喜んで主を証ししていくものでありたいと思うのです。

バプテスなのヨハネのように。謙遜に、そして自分の使命をしっかりと果たしていく者と神様にしていただきましょう。また、私達の中に、知っておられる方が立っておられることを、決して忘れないで、主を喜んで明かしするものとならせていただこうではありませんか。


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