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2003年12月28日(日) 「来て、そして見よ」 ヨハネ1:43-51  竹口牧師 

今日見ます所は、ヨハネが連続して書き始めて4日目のことであります。まず、第一日目は、バプテスマのヨハネの自己紹介的なことが書かれ、二日目には、バプテスマのヨハネがイエス様を紹介し、三日目には、そのバプテスマのヨハネが、「見よ、神の子羊」と言いますと、彼の弟子がまず二人、イエス様についていき、イエス様の弟子となったのでありました。アンデレともう一人、恐らく使徒ヨハネであろうと思われます。そして四日目の今回見ます所は、さらに二人がイエス様を信じ、従う者となるのでありす。

イエス様は、前回の39節の所では、求める二人に対して、「来なさい。そうすれば分かります」と言われ、彼等がついていきますとイエス様が本当にどういう方かが分り、信じたのでありました。アンデレ曰く「私たちはメシヤにあった」と兄弟に告白するほどでした。そして今回の所では、43節でイエス様は「わたしに従ってきなさい」と言われますと、ピリポという人はその後、弟子になったのでありました。

前回も申し上げましたが、今日では、「私に従って来なさい」と言われて、何の疑いもなく着いて行ったなら、場合に因ってはとんでもないものにひっかかる、そういう恐ろしい時代であります。何か自分の好み、興味を引くようなものであっても、よほどの注意を払いませんと危険な目に会うのであります。もっとも、危険と言いますと今日に限らず、イエス様の時代でも同じであったと言っても過言ではないでしょう。それは、そのイエス様の時代より少し時代は下りますけれども、使徒の働き5章の所には、「チュダという者が立ち上がって、自分が何か偉い者のように言い、彼に従った男の数が400人あったが、結局、彼は殺され、従った者はみな散らされて、あとかたもなくなりました」と出ているからであります。

そうなってきますと、何時の時代でも、よほどよくよく慎重に調べ、考え、あらゆる知恵を尽くして、従うかどうかを決めなければならない、そのように教えられるのであります。しかしその一方で、また、あまりにも考え過ぎて、何時までたっても結論に至らないというのも少し考えものであります。決断に欠けると言いましょうか。進歩がないと言いましょうか。

しかし、まあ、人それぞれに「時がある」ということでしょう。私個人の事を話しますと、旨い話には必ず裏がある。絶対に気を許してはいけない。そういう思いが、私の心に以前は強く働いていたことを思い出します。しかし、ある時、ある宗教の方が私に、その宗教を勧めるのに、こんな事を言ったのを覚えております。ここにリンゴが一つあると仮定します。しかしそれが、美味しいかどうかは、眺めていては分かりませんね。実際に食べてみないと本当のところは分からないのです。だから、今すぐ食べてみる。それと同じ様に、入って見なさい、と勧められたものであります。

あの時、私は、勧められるままにしていたなら、今日、ここにはいないのであります。りんご1個ぐらい食べることは問題ではありませんが、そうではなく、なんとかの神様を信じますと告白したばかりに、高価な壺を売りに歩かされたり、あるいは物を強制的に買わされたり、更には、あなたはいついつまでに何人を入信させなければならない、あるいはまた家族から引き離された生活を余儀なくされるといった、自分の意思というものを全く無視した歩みへと入れられますと、それはもう、生き地獄としかいいようがないのであります。

そういう意味で、慎重な私は随分考えました。しかし、いくら考えても結論が出ないのが、この道であります。まさに食べてみないと分からないのであります。そして、私はある時、いつまでも悩んでばかりいないで、もういい加減結論を出そう、そういう思いへと導かれていったのでした。ある宗教と、キリスト教とどちらにするか天秤にかけ、キリスト教を選んで今日があるわけであります。そしてそれは、決して間違いではなかったと思っております。

しかしまた、あの当時、私は自分の考えで、結論を出したと思っておりましたが、それが実は、浅はかであったことを後に知ったのでありました。つまり、私が自分で選んだと思っていましたが、実はそうではなく選ばれていたんだと言う事を、ずっと後の15章16節の所で見るのです。そこには、こう書かれているのであります。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」であります。

ですから、その事をよくよく考えて聖書は読むべきであります。イエス様はアンデレ達には「来なさい。そうすれば分かります」と言われました。彼等は、一晩共にし、話を聞き、信じました。そして今日の所ではイエス様はピリポを見つけて、「私に従ってきなさい」と言われました。これは、命令形でありますが、しかし、ここでピリポは、「見ず知らずのあんたにそんなことを言われる筋合いはないわい」と言って断ることも可能でありました。

自分の置かれた状況、立場にもよりますが、いきなり「私に従ってきなさい」と言われて、「はい分かりました。お従いしましょう」という人はなかなかいません。いるとしたら、先程も言いましたように危険なのであります。ということは、ピリポは、この後の話を読みますと、イエス様についての何らかの事を知らされていたと思われます。そして、それを解く鍵をヨハネは44節に書いているように思うのです。つまり「ピリポは、ペツサイだの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった」と書いているのであります。

ベツサイダはガリラヤ湖の北の端、東側にあります。そしてまた、後にイエス様がガリラヤ伝道を本格的にされますが、その時の拠点とされた町が、カペナウムであります。そのカペナウムは、ピリポやアンデレやペテロの出身地から、そう遠くはありませんで、ベツサイダから西側へ5Km入った所にあり、そこが今後のイエス様の伝道の拠点になるのであります。そして話のついでですが、45節の所にナザレという地名が出てきますので、その位置も述べておきますと、カペナウムから左斜め、詰まり南西の方向に、直線距離にしてまして約30Km離れたところにあります。イエス様がベツレヘムでお生まれになった後、幼少の頃を過ごされたところであります。

さて、位置関係はそれくらいにしまして、ピリポがイエス様のお言葉にすぐに従ったのも、恐らく、前日にアンデレやペテロが従ったことを聞いていたのではないか、だから、心配は何もしなかったのではないかと私は思うのであります。そしてこのピリポがまたアンデレのごとく、すぐにまた他の人にイエス様のことを話すのであります。
ピリポは、ナタナエルに、イエス様の事を話したと45節にあります。彼は言っています。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。
ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」と。

このことからピリポと言う人は、聖書によく親しんでいた人であったことが分かります。ユダヤ人達は「モーセと預言者たち」とか「律法と預言者たち」という表現で、旧約聖書を読んでいたからです。つまり、聖書全体の主人公、旧約聖書全体が記してきたところのテーマその方に出会った。それをイエス様だとピリポは言ったのでした。
現在のように一人1冊聖書があるという時代ではない時に、ピリポは聖書の内容を良く知り、そう言い切ったのでありました。自分が、目の前にしている方がどういう方か、はっきりと見極めることができたから言えたことでしょう。また、そのように主が導かれたとも言えます。

ところでピリポの話に、ナタナエルは、すぐに反論しています。「ナザレから何の良いものが出るだろう」とであります。そしてまた、こういう反論がすぐ出来るのも、
聖書を知らなければ出来ないことであります。偽者の多い現代のこの時代でも、これは実に大切なことであります。聖書を正しく読んでいないと、とんでもない解釈によって、異端へと走ることは大いに有り得るからであります。キリストの名前を語りながら、なんと偽者が多いことでしょうか。本物の素晴らしさが分かれば分かるほど、
偽者が多く出回るというのは、これは世の常であります。それだけに、本物と偽物との区別が必要であると共に、本物を信じている人は、何と言うさいわいだろうかと思います。

ピリポの証しを聞いたナタナエルは、ピリポが「ナザレ人」と言った事にひっ掛かりました。そしてナタナエルのいった「ナザレから何の良いものが出るだろう」という
「良いもの」とは、救い主を表しています。救い主を待望する信仰はユダヤ人の間に広くありましたが、彼の言っている「良いもの」とは、その救い主のことでありました。旧約聖書の一体どこに、ナザレから救い主が生まれると言う預言があるのか、これが彼の率直な疑問でありました。確かに、救い主がナザレから生まれると言う預言はありません。ですから、救い主はナザレでお生まれになったのではなく、ご両親がナザレに住んでおられたのにも関わらず、旧約聖書の預言を成就させるために、神様はわざわざ彼等をベツレヘムにまで旅行させ、そこで救い主がお生まれになられるように計られたのでした。

そのためには、ローマ皇帝をも動かされたのはご存じの通りであります。ピリポは証しをし、ナタナエルはそれに反論しました。そしてそれに対してピリポは、さらに言いました。「来て、そして見なさい」とであります。実際に、救い主にあってほしいと彼は言ったのであります。「百聞は一見にしかず」という言葉がありますが、あるいはまた「見ることは信ずること」であるという言葉もあります。それほど、見ることは効果があるのであります。

でも、現代ではイエス様を直接見ることができません。お見せすることはできないでのであります。がしかし、それだけに、見ないで信ずることのできた私たちが、イエス様のその素晴らしさを、見たと同じように行動で表している必要があります。りんごは食べてみなければ分からないというより、食べた本人が、まさに食べて良かったという満足感を表せないようでは、食わず嫌いの人に、その気にさせることは出来ないのであります。また、それは信じさせるテクニックではなく、嘘偽りないのない、生きた信仰の証しである必要があります。イエス様に出会って、今このように歩んでいますというその生きた証しこそ、「来て見なさい」と勧めることができるのではないでしょうか。

ところで、ナタナエルとピリポとの会話をイエス様は聞いておられたのでしょうか。イエス様はナタナエルが自分の方に来るのを見てこういわれました。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」これは、ナタナエルにとって大変な驚きではなかったでしょうか。いきなりほめ言葉を頂くのであります。それも、まだ自分は聖書で言われているメシヤであるとは認めていない段階でであります。認めてからこのようにほめられると嬉しいあるいは、気恥ずかしい思いを持つでありましょうか。まあ、それはともかく、待っていたメシヤに会い、さらにその方にほめられたとあっては、何と言う光栄でありましょうか。

さて、ナタナエルという人について、もう少しお話しておきますと、彼については他の福音書には全く出てきません。しかも、このヨハネの福音書においても、この後に出てくるのは21章2節の所で、イエス様が甦えられた後に、ガリラヤ湖畔でもう一度イエス様が弟子たちに会って下さった時にそこに居合わせた者として登場してくるだけであります。そこでは、ここに書いてないことが一つ、記されています。それは、ナタナエルがガリラヤのカナという土地のものであった、と言う事であります。たったそれだけしか情報はありません。ガリラヤのカナと言いますと、次の2章にその地名が出てくるのであります。ですから、2章に話がつながっていくようでもあります。

ところで、ナタナエルという名前の意味はと言いますと「神様が与えて下さった」とか、「神様の賜物」という素晴らしい意味の言葉であります。そしてこのナタナエルという名前がこのヨハネにしかないように、共観福音書の中でイエス様の12弟子の一人にバルトロマイという人が出てくるのに、ヨハネの福音書には出てこない。しかも、12弟子の名簿を見ますと、ピリポとバルトロマイが二人一組になって出ている。
そこで想像として、このバルトロマイが、ヨハネの福音書で言うナタナエルではないか、そのように考える人がいるわけであります。

バルトロマイというのはトロマイの子という苗字であり、他にシモン・ペテロが普通に、バルヨナ・シモン、つまりヨナの子シモンと呼ばれるように(マタイ16:17)、バルトロマイは苗字であって名前のほうがない。そこでひょっとするとそれがナタナエルなのかもしれない、そのように言われます。ナタナエル・バルトロマイ、つまり、トロマイの子のナタナエルということであります。しかし、これはあくまでも想像に過ぎません。

さて、元に戻りまして、ナタナエルに対するイエス様の評価は大変なものでありました。なぜこれ程までにイエス様はナタナエルを評価されたのでしょうか。これもある人が言っていることですが、イエス様は、この表現を用いつつ、敬虔な者の特徴を描いています詩篇23篇に言及しておられるように見られると言います。「彼のうちには偽りがない」、このような者は、不義がゆるされている者というだけでなく、「その唇には、偽りがない」者であるというのです。

この表現は、真実の心、真に回心した人、肉におけるアブラハムの子であるのみならず、信仰によるアブラハムの真の子であることを意味している、という風に考えるのであります。主がナタナエルにこう言われますと、ナタナエルは、今日初めて主にお会いするのに、どうして主が自分のことをご存じなのか不可解でした。そこで、「どうして私をご存じなのですか」と尋ねました。するとイエス様は言われました。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」と。

ナタナエルが主とお会いする前から、なんと主はナタナエルのことをご存じでした。
そして、その事を知ったナタナエルは、「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」と告白せざるを得なかったのでありました。これは、イエス様がメシヤであることを瞬時に悟らされたナタナエルからほとばしりでた叫びでありました。そして、これはまた、主は罪人を贖う為にこの世に来る、と約束された神なる人であり、イスラエルの諸部族を将来再び集め、統治するものであるという素晴らしい告白でありました。

ナタナエルがこの時、主の王国の性質を明確に理解していたかは定かでありませんが、しかし、彼がペテロのように、この方はキリストであり、ほむべき方の御子であると認めたことは、私たちは疑うことはできません。聖書の他の箇所からも分かることですが、イスラエルの国の回復は、最初の弟子たちが正しく理解することができた、
通常ではとても信じがたい主題の一つでありました(使徒1:6 )イスラエルの王という呼び方は、主がその使命を遂行しておられる間、決して打ち消されることはありませんでした。

ただ、イエス様は、ご自分の偉大な力を行使し、実際に統治されることはありませんでしたけれども、それは、これから後に委ねられることであります。50節でイエス様が言われていることは、後に20章29節の所で、トマスにいわれた言葉にも似ています。
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」とトマスには言われたのでした。ナタナエルにとって、ここに至っては、見たか、見ないかが問題ではありません。もうすべてを知っておられるイエス様を目の前にして、返す言葉が無かったのでありました。

今の時代にあって、イエス様を肉眼で見たことのある人は、だれ一人いません。今の時代でなくても、この福音書を書いたヨハネ、そのヨハネが書きました新約最後の書、黙示録が出来上がる頃には、もう多くの人はイエス様を目にしたものはいなくなっていくのであります。にもかかわらず、それ以後、多くの方がイエス様を信じ、世界の3大宗教の一つになるということは、見たか、見ないかが問題ではなく、聖書をいかに読み、考え、神さまがその人にどのように働かれたかが、問われているように思えます。

すでに神様が信じさせて下さったあなたににとって、それが生きた証しとなっているのでしょうか。また、まだ信じておられない方にとって、何が、信じることを妨げているのでしょうか。私に従って来なさいとイエス様は招いておられます。その招きにお従いすることは正しいことなのです。もし、従うことが間違っているなら、聖書のどこからそれが言えるのでしょうか。信仰者も、また、まだ信じておられない方も、
共に、聖書をいつまでも正しく読むことが求められています。そして、教えられたことに従うことが必要なのです。

私たちは今朝、ピリポのように、喜びと驚きをもって主を伝えるものでありたい。また、ナタナエルのように聖書はどう言っているか、よく御言葉を読む事の大切さを教えられたのではないでしょうか。新しい年を間近にひかえ、これからの信仰生活がより一層充実するために御言葉に親しみ、主と共に歩もうではありませんか。


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