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2004年2月8日(日) 「新生」  ヨハネ3:1-8  竹口牧師

今朝見ますヨハネ3章1−8節、更にはもっと先の15節まで続きます話しは、その前の章の2章23−25節から繋がっている話しであります。つまり、イエス様が神の国の福音、即ち、人々を罪から救い出すという喜びの知らせを伝えるため、数々の不思議な業を行われた。そしてそれが人から人へと伝えられる事となり、今回、あるいは次回も登場しますニコデモとイエス様との会話が始まるのであります。

まず、このニコデモと言う人は、どんな人だったかと言いますと、パリサイ人であったとあります。しかも、ユダヤ人の指導者であったとありますので、彼はユダヤの最高議会サンヘドリンの議員の一人でありました。福音書では、大体パリサイ人は偽善者の代名詞のようになっており、また、イエス様に敵対する者として登場します。が、まだこの頃は、人々はそう感じていなかったのではないかと私は思います。イエス様のなさる事がもっとどんどん広がって行くことによって、実態が表面化し、あらわになって行ったと言えましょう。

さて、このニコデモという人が、夜イエス様の所を訪れましたので、なぜ、彼が夜訪れたのかを巡っていろんな説が生まれました。そのニコデモの行為を否定的に見る人はこう言います。人間は、悪魔に仕えるためには、昼間でも臆面もなくそれをするが、主イエスに対する信仰を言い表す時には人目をはばかる。恥ずかしいからだ。特にニコデモは、この時民衆の指導者であったので、当時まだ、主イエスに対する評価も定まっていなかった。むしろ、ガリラヤからやって来た一介の貧しい伝道者に過ぎない男と見られた。その所に、ニコデモ先生が行った、ということが評判になるのを恐れたのだというのです。

またある人は、この後でイエス様が「人は新しく生まれなければ…」と言われますが、つまりは、ニコデモはまだ新しく生まれていない。あるいは、この後の19節以下でイエス様が光と闇の話しをされますので、新しく生まれた者は光に生きるとすれば、ニコデモはまだ新しく生まれていないのであるから、闇の男である。闇の男は、それに相応しく、夜尋ねたのだと言います。

一方、ニコデモの行動を好意的に見る人はこう言います。夜は人がおきてを学ぶ時であり、神の御言葉を学ぶ時という理解です。昼は働く時、働きながらいろいろな事を、心の中で問う。ここでどのようにするのが神の御言葉に添うのか、あるいは、おきてに従うのか、と考えることがあるでしょう。悩みの中にある者は、ここでどのように神の意志を尋ねたらよいのか思い惑ったかも知れません。そのような問い、悩みを抱いた者が、これは神のおきてを知る先生に訪ねたらよい。そう考えて、仕事を終えて夜になると教師の所を尋ねる。ニコデモは、そのように、一人の弟子としてイエス様に神の真理を学ぶ謙虚な男であったと理解します。

あるいはまた、こう考える人もいます。夜は、こうした真理をめぐる対話に相応しい時、ひそやかに親しみを込めて、丁寧に、大切な話しができる時、それが夜である、とであります。この箇所を取り上げる先生によって、はっきりこうだという先生と、いろいろな説を挙げて、みなさんは、どうお考えでしょうかと、読み手側あるいは、聞き手側に判断を委ねる場合の二通りがありますが、結局の所は、ニコデモに託して、私達は自分を語っているのかもしれません。

キリストを告白する時、世間体を気にします。人目が気になって来る。それは殆ど、もうニコデモの話しではない。私達自身の話しであります。私達自身が、キリスト者である事を、他人の前で明らかにするのに世をはばかるようなところが全くないとは言えない。ですから、ニコデモを否定的にとらえる場合、その人は、自分の反省の思いを込めて言っているという面もないとは言えません。もっとも、キリスト教国の社会で、教会を昼間尋ねるのと、そうではない国で、昼間教会を尋ねるのとでは、明らかにその違いが出てくることがあっても不思議ではありません。

まあ、夜イエス様の所を尋ねた理由はともかくとしまして、彼はイエス様のことを、「先生」と読んでいます。ここでの彼の、この言い方は、ユダヤ教の教師を呼ぶ敬語でありまして、ニコデモのイエス様理解を示す言葉でもあります。彼は、イエス様を教師としては尊敬しているものの、それ以上のお方であるとは認識を持っていなかったと言えましょう。また、その認識は、イエス様の行われた不思議や人々から伝え聞いた話しによるものであったでしょう。

ところで、ニコデモの2節の言葉に対して、3節では「イエスは答えて言われた」と書いてあります。しかし、答えるにはそれに先だって質問がなければなりませんが、ニコデモの2節の言葉は、疑問文ではないのであります。ですから、しばしばこれに対して、「何に対してイエスは答えたのか」という質問がなされました。そして、それに対する答えとしてある人はこう説明します。

「イエスは、他の多くの場合と同様に、ニコデモの心の中にあることを知って、それに答えたと信じている。主は自分の前にいる質問が、全てのユダヤ人と同様に、
メシヤの出現を待ち望んでおり、自分がメシヤに出会ったのではないかと考えていることを知っておられた。そこで主は、もしメシヤの国に属する者になりたいなら、
絶対に必要な事はなんであるかを、何よりもまず語られたのである。これはニコデモが想像したような、この世の国ではなく、霊的な国であった。これは当然の事ながら、アブラハムの子孫として生まれた全ての者がその事のゆえに入れる国ではない。
その国に入るのに不可欠な条件は、血筋ではなく、恵みである。メシヤの国に入るために必要なことは、「新しく生まれる」事である。生まれつきによる特権によって入れると言う考えは全く捨てなければならない。

ユダヤ人でも異邦人でも、全ての人は、生まれ変わる。新しく生まれる。御霊によって上から生まれる必要がある。そして主は次のように言っておられるように思われると言います。「ニコデモよ。あなたがどのようにしたらメシヤの国の一員になれるか知りたいなら、その第一歩は、新しく生まれることであると、きょう知りなさい。あなたの先祖がアブラハムであるから、メシヤがあなたを御国の一員として認めて下さるであろうと考えてはなりません。私はあなたに言いますが、あなたにも、他の全ての人にも必要な第一の事は、新しく生まれることです。」とそのように3節を説明いたします。

また3節のイエス様の語られた言葉をもう少し細かく見ていきますと、最初の部分に「まことに、まことに」とありますが、これからイエス様が語られる言葉の中で、
イエス様が重要な言葉を語られる時、ヨハネの福音書では、この「まことに、まことに」という言葉を重ねて使ってあります。これは、ギリシャ語では「アーメン」ですから、話しの初めに「アーメン、アーメン」と言うことになります。しかしまた、これは本来はヘブル語でありますので、旧約では、自分の語る言葉が現実となりますように、と言う思いが込められています。

自分が言った事は必ずやります、という意味にもなります。人に命令を与える時もアーメンと言いました。それを受け止めた部下もアーメンと言いました。あるいはまた、自分の言葉は偽りではない、真実の事、現実の事、それを確かにする思いで
アーメンと言いました。私達が祈りの最後につけるアーメンは、この祈りは真実ですということを指して言っております。

ところで、このアーメンを二度イエス様が続けられる時は、非常に重要で、厳粛さを伴う時にだけ用いられていますので、この言葉が出たら、注意をして読んでみていただきたいのです。ここでイエス様が「人は新しく…」と言われる「人」とは、
「いかなる人も」とか、「人は誰でも」という意味であり、新しく生まれるという変化が、全ての人に必要としている。これなしでは、誰も救われない事を指しています。また、「新しく生まれなければ……」とありますが、脚注にもありますように、ギリシャ語からは「上から」とあり、つまり天から、あるいは神からと訳す事もできます。実際他の所ではそのように訳されているのであります。(ヨハネ19:11 、ヤコブ1:17 3:15,17)

が、更に他の一か所は、それはガラテヤ4:9 ですが、「再び」と訳されております。ですから、「上から」とも「再び」とも訳せて、新改訳では「新しく」と訳され、
「再び」の意味を込めてあるのかもしれません。そしてそれを受けてニコデモが4節のようなことを言ったと言えましょう。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」しかし、その彼の言葉は、イエス様の意図されたこととは違いますので、5節のようにイエス様は言われました。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません……」と。

一般的に現在に生きる私達が、「新しく生まれる」というとき、例えば、輪廻説的な考えでありますと、同じ人間として、考えによっては、もっといい環境の元に生まれたいと思うでしょうし、そうではなく、全く別人として生まれたいと思うかもしれません。あるいはまた、肉体の生まれ変わりを考えなければ、今までの生き方から足を洗って、新しく生きる、そのことを新しく生まれるという風にも考える事ができます。

しかし、いろいろ考えられたとしても、少なくともここで言われているのは、神様のお働きによる魂の生まれ変わりなくして、その人は、新しい人間にはなっていないということであります。ですから、もう一度言いますが、5節の言葉をイエス様は言われたのでした。しかしここでまたイエス様のお言葉の中に難しい点があります。それは、では、イエス様の言われた「人は、水と御霊によって生まれなければ………」
という「水」とは何を指すのかであります。これもまた、いろんな解釈があるのであります。

ある人の考えは、肉体の誕生だけでは不十分で、御霊による新しい誕生がなければ神の国に入れないのだと言われたと言います。あるいはまた、水は水のバプテスマを指し、御霊は聖霊のバプテスマを指すという人もいます。そのようにいろいろな説がある中で私は、ある先生の説明がよいように思いますのでそれを今からお話しします。

「水」というのは、「御霊によって生まれなければ…」と言う言葉を補強した言葉であり、あるものを象徴していると解する方がよい。「主が『聖霊と火とのバプテスマをお授けになります』」(マタイ3:11)という方としてバプテスマのヨハネが紹介しているところがあるけれども、それは明らかに『聖霊即ち火のバプテスマ』を意味している。ですから、『水』は御霊を指すと解釈し、「水即ち御霊によって生まれなければ……」と解する方がよいのではないか」とであります。

その先生は、水が御霊を表していることがよくあるからだと言われます。例えばこの同じヨハネの福音書の4章14節、「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、
決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、
永遠のいのちへの水がわき出ます。」とか、聖書は読み上げませんが、7章37−39節にあるからです。更には、テトス3章5節では、「聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救って下さいました。」と教えているからだと言われます。

一方、聖書ではまた、水が「みことば」を表していると言われます。エペソ5章26節に「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり…」ともありますので、そこでは、御言葉と御霊による新生について教えていると解するのが一番よい。御霊はいつも御言葉と共に働くからです。」と言われます。

結論として、申し上げますと、水は、「聖霊」あるいは「みことば」を指すということであります。イエス様は、神の国に入るには、「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、
とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません」と言われて、御霊によって生まれる事の大切さを宣べられたのでした。私達はみな自分の意志に関係なく生まれてきました。

そして、その生まれながらの人を聖書では「肉」と呼んでいます。そして、もう一度生まれた人、つまり御霊によって生まれた人、その人のことを、新生した人と言い、神の子とされ、神の国へ入る事ができる者とされる。そして、その者は滅びる事がないと言われるのです。イエス様は今日の聖書箇所の最期の所でおもしろい事を言われています。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」とであります。ご存じのように風は見た者は誰もいません。見えないものであります。

しかしまた、見えないから、ではこの世に存在しないかと言いますと、存在するのであります。それを私達は何によって確認するかと言いますと、木立ちの揺れ、木の葉の飛ぶ姿、埃の舞う状況などなどを通してです。ですから、その存在を疑う者は誰一人いません。そしてイエス様がここで言われた風と訳されている言葉は、御霊とか霊という言葉と同じ言葉なのであります。

ですからこの8節で言われていますイエス様のお言葉は、同じ様に霊による誕生も、神さまからのお働きによって上から与えられるものであり、それがまた、そのまま目に見えるのではないことを教えておられます。力強い神のお働きによって、新しく誕生させていただいて、主にある歩みをキリスト者はさせていただいているのです。

まだ、イエス様を救い主と信じておられない方は、その御霊のお働きを真剣に願ってほしいものであります。御霊の働きは、驚くべきものであり、理解できないかもしれません。しかし、実際の所は、その働きを見る事はできますし、また、知ることができるのであります。なぜなら、新生は隠す事のできないことであり、御霊によって生まれた者は誰でも、常に御霊の実が見られるからです。それは第一ヨハネに書いてあります。

神から生まれる者は、「イエスがキリストであると信じ」「罪のうちに歩まず」「義を行ない」「兄弟を愛し」「世に打ち勝ち」「悪い者が触れる事がない」(1ヨハネ5:1,3:9,2:29,3:14,5:4,18)とありますので、これらの実が見られる時、そこにはイエス様が語っておられる新生が起こったのであります。イエス様を信じたばかりの人と言うのは、人によっては、なかなかその実が分からず心配する方がおられます。しかし、主が救って下さった方には、必ずその実が見えるようにされますので、安心してイエス様に従ってほしいものです。また、すでに救われて、かなり長い信仰生活を送っている方々も、今一度、自分の歩みを振り返ってその実を確認して見ようではありませんか。

2004年2月15日(日) 「信じて見上げる」 ヨハネ3:9-15  竹口牧師 

今日の聖書箇所の出出しは、「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」といきなりニコデモの否定的な言葉から始まっています。そして、これは勿論、前からの続きであると共に、ニコデモと言う人が、いかにイエス様の教えに対して無知であったか、また、パリサイ派という宗教には厳格な派に属し生活しながら、実は、聖書のお言葉をどれほど正しく捉えていなかったか、そのことが明らかになるのであります。そして、教師である彼がそうであるなら、いわんや、ユダヤの人々はなおさら救いに対して無知であった、そのように言う事ができましょう。

ですからイエス様は、まさにこの地上に来て下さる最も相応しい時に、おいで下さったのだと言えます。イスラエルの指導者達は、正しい教えを教える事ができない、そういう中で、イエス様は、これまでの人生のやり直しという仕方では、肉による生活の延長、継続であり、何等変わらない。新しい人生とは、そうではなく、真の神様の導き、支配、保護を受ける人生であり、それはまた、上から、真の神様の霊の力によって、根本から、新しく始めるものであると述べられたのでありました。この新しい誕生と言うイエス様の教えが、ニコデモには理解できませんでした。

ですから、「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」と聞いたほどでありました。「そんなことがありえようか」とニコデモは反論した訳であります。それが、今日の最初の所であります。あるいはまた、「人は新しく生まれなければ…」というイエス様のお言葉が、彼等パリサイ派の熱心な宗教的生活でも神の国には入れないのだ、とそのように指摘されているからでありましょうか。ニコデモは、理解できなかったのでありました。

恐らくはニコデモのこれまでの体験では、イエス様が言われた新しい誕生を見た事がありませんでしたので、そのようなことがどうして起こるだろうか、そんなことは不可能だ、そのように考えたようであります。そこでイエス様は10節で厳しいことを言われました。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」

これは、大変、相手の心に迫る言葉であります。ある人は、これは明らかに叱責の意味が含まれていると言います。主がここまで語って来られた事を、ニコデモは理解していなければなりませんでした。先程も言いましたように、ニコデモはパリサイ人であり、ユダヤ人の指導者なのですから、新らしく生まれることについての教理は、彼にとっては別段、耳新しいものではなかったはずであります。と言いますのも、たとえばですが、旧約聖書を読みますと、「きよい心」「心の割礼」「新しい心」「石の代わりに肉の心」など、これらの表現や思想を彼は預言書の中で読んでいるはずであり、
これらはみんな新生つまり、新しく生まれることを指しているからであります。     (詩篇51:10,エレミヤ4:4,エゼキエル18:31,36:26 )

ですから、彼がイエス様から無知であることでお叱りを受けても当然でありました。イエス様は更に続けて言われました。11節「わたしたちは、知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません」と。

ここでイエス様は「私たちは」と言っておられますが、では、この私たちとは誰のことを指すのかと言いますと、実は、これにはいろんな説があるのであります。まず1番目は、イエス様とバプテスマのヨハネを指すというもの。2番目は、イエス様と旧約聖書の預言者であるという説、3番目は、イエス様と御霊によって生まれたすべての人々、4番目は、イエス様と父なる神、イエス様と聖霊、あるいはイエス様と父なる神と御霊を意味している。5番目は、イエス様ご自身を指していたのであり、王がそうするように、イエス様は語ることに重みと威厳を持たせるために複数を用いられたのだと言います。

まあ、いろいろな説がありますが、一番適切なのは、私は永遠の先から父なる神と共に、私が見たことを語り、知っていることを証しているのです」と語られるのは、主の言葉として相応しい。そしてこのヨハネの福音書の8:38節の言葉を引用して、「わたしは父のもとで見たことを話しています。」というのに似ているとライルと言う人は言います。私もそう思います。あまり細かく見ていきますと全体が分からなくなりますので、これくらいにして次に進むことにします。

イエス様は、11節で「わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。」と言われました。考えてみますと、私たちは、それぞれ違った環境の中で生まれ育ってきました。
小さい頃から教えられてきた学校教育、それも時代によってとても違いがあるのですが、さらには育つ過程によって固定観念というものができ、何か新しく見たり、聞いたりしたとき、まず、自分の今持っている知識、経験、学習などによっていろなことを識別、判断するのであります。そして一般的には常識で考えられることで判断します。しかし、ここに登場していますニコデモと言う人は、少なくともパリサイ人であり、聖書にも精通した人であります。

聖書には、常識を越えた神様のお働きが随所に出てくるのであります。ですから、そんなことは信じられないなどとは言えないし、あるいは言わないというのが普通だと私は思います。神様は、私達の考えを超えた事をして下さる方だからであります。ですからイエス様は12節のように言われるのです。「あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。」まさにその通りであります。

この書の著者でありますヨハネが、第1の手紙4章20節でこう言っています。「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することは出来ません。」と。目に見えないものをどうこうするということはまさに雲をつかむような話でありますが、
しかし、私たちクリスチャンはまさにそれが出来るのであります。否、出来るようにしていただいたのであります。目に見えない神様を信じる事ができるようにされ、更に、信じる事ができるゆえに、私達にとっては無理難題ですが、神様にはおできになる、そう信頼して祈りによって申し上げているのであります。何と言う恵みでありましょうか。

イエス様はまた13節で、ご自分の事をこう言われました。13節で「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。」ここでまた旧約聖書をよく読んでおられる方は、ひっかかるのではないでしょうか。エノクやエリヤはどうなるのだろうか、という風にであります。そこでまたいろいろな説が生まれるわけですが、これは、11節の「私たち」の解釈のようにいろいろな説は今回取り上げませんで別の機会にしまして、それよりも、後の方で語っておられるイエス様のお言葉との関連で見ていかなければならないと言えましょう。

それは、先回の話の時は、「新生」「新しく生まれる」ことが話の中心でしたが、今回は、罪人が「義」とされる、そのことについて話そうとしておられる、その点だけに注目したいのです。そうしますと、いろいろな説がある中で、イエス様のお言葉はこのような意味にとれるでしょう。「すべての義を成就するために天から下って受肉した救い主以外には、誰も天の神の御前に上り、神の御前に完全な者として立つことのできる者はいない。私は天国への道である。もしあなたが天国に入りたいと思うなら、人の子を信じ、信仰によってキリストのからだの一員とならなければならない」

そして、この見解はローマ人への手紙10章6−9節によって支持され、次の14、15節の「モーセが荒野で蛇があげられたように…」という流れにつながっていくのであります。そこで、私たちはまず今開いていますこのヨハネの福音書の14、15節に入る前にローマ人への手紙10章を見ておく事に致します。それも少し長くなりますが、1−9節をお読みします。

「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。モーセは、律法による義を行なう人は、その義によって生きる、と書いています。

しかし、信仰による義はこう言います。『あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。』それはキリストを引き降ろすことです。また、『だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。』それはキリストを死者の中から引き上げることです。では、どう言っていますか。『みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。』これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」以上です。

このパウロが書きましたローマ人への手紙は、ご存じのように、イエス様が十字架にかかられて死なれた、そしてよみがえって天に上げられた、その後にパウロがイエス様を信じて書いたものですから、今回の福音書に出てくるイエス様の時代よりずっと後の話になります。ですから、イエス様が今回ヨハネの福音書の3章で言われています事は、まさに御自分のこれからの事を述べられていることになります。
しかも、イエス様が救いについてお話をされる時、当然ながら、旧約聖書から引用される方法を採られるのであります。それが、唯一の方法だったからであります。

またニコデモにとっても小さい頃から教えられてきた事でありますので、分かりやすかったと思われます。それは民数記21章に出ておりまして、イスラエルの先祖達が体験したものでもありました。イエス様の時代から時をさかのぼる事、1400年代、
イスラエル民族が神の超自然的な助けによって、エジプトを脱出し、約束の国を目指して進んでいた時のことであります。荒れ果てた地の旅を続けていましたので、彼等の食料は神が毎日与えてくださるマナと言う主食が中心であり、ほとんど変化のないものでした。

考えて見れば、食物になるものが何も入手できない荒野で、毎日必ず主食が与えられることは、感謝しなければならないはずでしたが、しかし人は、神の恵みによって与えられたものをも、変化のなさに飽きてしまい、不平をいうものとなるのです。そしてついに、指導者のモーセと神に激しく逆らって彼等は食べ物の不満を爆発させて非難したのでありました。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」とでありました。

そこでそんな彼等を神様は怒られ、燃える蛇を送られたのでした。神に反逆した人達は蛇に噛まれて、激しい高熱を出して苦しみ、そのために多くの人が命を失いました。
また、人々はそれによって、神やモーセを非難し逆らった事を悔い改めて、助けを求めたのでありました。「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。」とこう言ったのでありました。

そして、モーセが民のために祈りますと、それに答えて、神様はモーセに、青銅で蛇を作りそれを竿の上に置くようにと命じられました。蛇に噛まれた者が、その青銅の蛇を仰ぎ見れば生きると仰せになったのでした。モーセは神様に命じられた通りに青銅で蛇を作り、竿の上に掛けました。そして誰でもその蛇を見上げた人は癒されたのでした。蛇に噛まれて高熱を発していた人達が助かる道は、他にありませんでした。考えられるあらゆる手段は、薬にしても、熱意にしても、努力にしても、どれも役に立ちませんでした。神様が言われた通り、青銅の蛇を見上げれば生きるというお約束を信頼して、それに委ねることしか方法がなかったのでした。

そのような場合でも、そんなことで助かるはずがないと言って、信じないで死んでいった人がいたでありましょう。助かった人と死んでいった人の違いは、神様の約束を信じて自分をすっかり任せたかどうかだけでした。この事件を思い起こさせて、イエス様は、「人の子もまた上げらなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」と言われたのでした。

ここでの「人の子」とは、言うまでも無く救い主のことであります。つまりイエス様が十字架に掛けられることで救いを与える、そのように神様がお定めになったのでありました。かつて神様の約束に信頼して青銅の蛇を見上げて、生きるようになったのと同様に、神様が十字架のイエス様によって罪を赦し、罪に勝つ力を与え、永遠の命を与えると約束された、そのお言葉に信頼して、イエス様に自分を委ねるならば、神様はお約束通りに、その人に新しい命、新生をお与えになります。多くの宗教は人が何かを熱心に行う事で救われると言います。

しかし聖書の教える真の神様の、イエス様による救いは、神の救いのお約束を信じて、より頼んで神様からいただける恵みです。人にできない難しい行いによるのではなく、
イエス様を幼子のように信頼することで、神様が救いをくださるのであります。まだ信仰の確信をいただいていない方々は、ぜひそのようにイエス様を信じて、新しい人生の出発、新しい喜び、新しい希望を持ってくださるように願います。また、すでに信じている私たち信仰者は、さまざまな試練に会う時、不平、不満を抱くのではなく、
イエス様を信頼して、委ねていく信仰でありたいものです。

2004年2月22日(日) 「イエスによる救い」  ヨハネ3:16-21   竹口牧師 

ある聖書学者は、今回の聖書箇所の特に最初の16節だけを「小型の聖書」と呼んだそうです。それだけ、このヨハネの福音書3章16節には、特に重要な事が言われ、私たちに語りかけていると言っていいでしょう。もう一度、読んでみます。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」以上です。

皆さんがキリスト教と言う言葉を耳にされて、まず最初に頭の中にイメージされるものは何でしょうか。高い塔のある教会堂を思い浮かべられるでしょうか。あるいは、教会で行われる結婚式の情景でしょうか。更には、十字架にはりつけになったイエス・キリストの姿でしょうか。絵画をよく目にする方は、聖書にまつわるいろいろな絵をご存じでありましょう。私が生まれて初めて聖書を目にし、また読み始めましたのは、大学の1年の時であります。それこそ、キリスト教のキの字も知らない、全くの無垢でありました。いいえ、キリスト教に無垢であったというよりは、
宗教そのものに無垢であったと言っていいでしょう。

私には全く関係ない世界だと考えていたからであります。恐らく、公に小さい頃から宗教教育がなされないこの日本では、信仰の大切さを多くの人は知らないでしょう。もしかしたら、信仰熱心な家庭であるなら、その家庭の宗教の習慣に従って育てられたことでしょう。しかし、一人の人間として、自我の確立が出来る年齢になりますと、そのやっていることの意味を問うようになるのであります。意味も知らないでやっているなら、それは無意味であり、また苦痛でもあるからです。朝起きて、仏壇に向かって手を合わせ、お経を唱えることがその家の習慣であったなら、それが一体、どういう意味を持つのか、考えるようになるからです。

ところで、私が学生の時に、ある宗教との関わりを持つようになり、キリスト教へと導かれた事は、今までにも何度か話した事がありますが、その導かれる過程で、どうしても理解できないことがありました。それはキリスト教の言う「愛」でありました。先程読みました聖書箇所にも「愛」という言葉がありましたが、その愛が全く分からなかったのであります。そもそも神様の存在そのものも、目に見えませんから分からない。まして、神の愛とは一体何か、全く分かりませんでした。

私にとっての、その頃の「愛」と言いますと、恋愛とか、男と女の間の愛、そういう愛しか分かりませんでした。高校の時は男子校でしたし、しかも民間の下宿先で、
同じ学校の生徒5〜6人が一緒に生活したのですから、女の子の話が出ても、不思議ではないでしょう。しかも、昼はその下宿に帰って食事をし、更には、昼のメロドラマを観てまた学校へ行くという生活でしたので、私の頭の中は、そのようになっていたのも致し方ありませんでした。ですから、それ以外の愛があるなどとは考えてもみなかったのでありました。

後に大学生になり、キャンプに参加し、それもクリスチャンの主催のキャンプに参加して始めて、愛にもいろいろあるのだとその時、気付かされたのでした。夫婦の愛、親子の愛、師弟愛、兄弟愛、友達同士の愛、友情も愛の一つといっても良いかもしれませんが、そういう風にいろいろ上げられ、考える時が与えられました。そして、そういういろんな愛が上げられた後、その中の一つに「神の愛」もあったわけであります。

いろいろな愛を考えていくうちに、いつまでも続く愛とは何だろうかという話になりました。しかし、男女の間の愛しか分からない私にとって、すべてが綺麗事の話にしかすぎない、そのようなかたくなな心で、そのキャンプを終えたのでした。イエス様は、聖書の他の箇所で、「人がその友のために命を捨てるという、これよりも大きな愛は誰ももっていません。」(ヨハネ15:13 )と言われました。そしてそのみ言葉を地で行く出来事が1909年(明治42年)に起き、小説になり、映画にもなりました。

クリスチャンの間ではあまりにも有名ですからご存じの方も多いでしょうが、北海道の塩狩峠で起こった一つの出来事であります。詳しく話しますと、長くなりますので、一言でまとめますが、鉄道職員として働いていた一人のクリスチャンが、自分の信仰を職務実行上で現したのでした。それは、歯止めの利かなくなった列車を止めるために、自らの体をその車輪の中に入れて、貨車を止め、職務を全うして殉職したのでした。まことに素晴らしい、誰にもはできない業でありました。たった一つしかない命を捨てて、他の人を守ったのであります。

あるいはまた、イエス様のお言葉にこう言うのがあります。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」(ヨハネ12:24-25)と言われました。

この言葉を思います時に、この時期に考えさせられますのは、今、盛んに起こっている自爆テロであります。誠に悲惨な、そして残念な、また恐ろしい戦争であります。もし、あれが心から出てきた愛によって行われているのなら、また、憎しみではなく、更には他人の命を奪うのではなく、自らの命を断つことによって誰かの命が救われるのだとすれば、それはそれは、大きな意味があるでしょう。しかし、敵も味方もなく、無差別に行われるのですから、これほど、恐ろしいことはありません。

しかし、かつては日本も神風特攻隊というものを考え出し、敵を倒す爆弾の一つとして、あるいはある人に言わせれば、機械の一つとして肉弾となって突っ込んで行ったのでした。国を守るためという美名のもとにです。この戦争はもう駄目だということを知りながら、時の指導者は、若者を死へと追いやったのであります。しかし、今や敗戦を経験し、そして与えられたこの平和な国の中で、冷静に物事を考えられる今でこそ言えるのですが、そもそも神様が人間を造られたその意図とは、人と人とが憎み合い、あるいは国と国とが争う戦争をするように、そのために人を神様が造られたのではないのであります。聖書から言いますと、全くかけ離れている現実が今あるのです。第二次世界大戦の事を考えますと、その戦争を指揮した指導者は、その責任を十分に問われるべきでありますし、また、それを正しくさばく事が出来るのは、真の神様のみである。そのように私は考えております。

ところで、そのように至には、それだけの理由もまたありました。それは、私たち人間は、罪のうちに生まれた者ですから、多くの間違いを犯しやすいということであります。しかし、その間違いの中でも、真の神様を敵として歩むほど大きな間違いはないのです。幸いなことに実は、人は生まれながらにしてそういう歩みをしていながら、なお、神様は私たち人間を愛して下さっているところに、救いの光があるのであります。神様が独り子のイエス様をこの世に遣わされたのには目的がありました。それが、滅び行く人間であるあなたであり、私であり、多くの他の人々を救うためでありました。

また、永遠の命を与えるために、神様がお遣わし下さったのだと聖書は言うのであります。17節にはこうも書いてあります。「神が御子を世に遣わされたのは(これはイエス様のことですが)、世をさばくためではなく、御子によって(イエス様によって)世が救われるためである。」何と言う愛なる神様でしょうか。何と言う憐れみ深い神様でしょうか。

男女間の愛しか分からなかった、好いた惚れたの愛しか知らなかった、あるいは考えもしなかった私でしたが、教会に通っているうちに、真の神様の存在と、そして、その方の愛が、私自身に注がれていることを後に知ったのでした。まだ信じておられない方は、どうぞ、この神様の愛の存在を知っていただきたい。そしてその愛に触れて頂きたいのです。

「神はじつに、その独り子をお与えになったほどに」あなたを愛して下さっているのです。それは言うまでもなく、私の考えではなく、聖書がそういっているのです。私はそれを皆さんに紹介しているに過ぎません。私は神様からそれを伝えるように立てられた器であります。神様の愛を信じない人に対して、ある人は、このように言って説明していますので、紹介しましょう。

「神は独り子をくださるほどに愛して下さっているのに、『信じない』というのは、それはちょうど大金持ちがいて、一億円くれるというのに、本当にしないで笑っている人に似ていませんか。18節のイエス様のお言葉、『御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。』とありますが、ここで興味深いのは、信じない者は、やがていつかさばかれると言うばかりでなく、今すでにさばかれていると言っていることです。ちょうど戸を閉じている人が、暗い中にいるのと同じです。

戸を閉じたままでいる行為が、すでに自分を暗くしているのです。さばきと不信仰とは一つです。ジャワ島にいて、何年も戦争の終わっているのを知らないでいる兵隊がいました。彼はもう戦争は終わっているのに、それを信じないために、いつまでも、戦々恐々としていなくてはなりませんでした。皆さん、神はもう独り子を私たちのために遣わされたのです。神様は私たちを愛しておられるのです。すでに戦争は終わったのです。神が悪魔に勝ったのです。それなのに、なお信じないなら、あなたは今、暗い中にいるのではないでしょうか。

『信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。』と言われているのはそのことです。さあ、戸を開けましょう。光が入ってきます。
『どうしてわたしが、ここに来ているのに信じないのか。どうしてわたしがいるのに、来ようとしないのか』そう生ける主は言われています」とそのように説明されています。まさにそうだと思います。

光となって来て下さったイエス様を救い主と信じる人は、永遠のいのちをいただけるのであります。今回の聖書箇所の20,21 節にはこうも書いてあります。「悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされる為である。」とです。

この世でさまざまな事件が起きています。解決したものもあれば、未解決のまま時効の時を迎えたものもあります。うまく逃げおうせたと勝ち誇っている犯人もいるかもしれません。あるいは、この世に明るみに出されるのを恐れている者がいるでしょう。私たちは、そういった事件を犯していないという事で安心していられるかもしれません。

ところが、神様のみられる基準というものは、その国の法律に触れたから罪とし、あるいは触れていないから罪としないと言われるのではなく、いわば、外に現れない罪をもさばかれるところに恐ろしさがあるのです。心の中で犯す罪をも神様はすべてさばかれるのです。国の定めた法律は、その国だけに有効です。それをいくら守ったからと言っても、神様のお定めになられた法律に触れる者はみな罪人なのです。
そして、その罪人は、例外なくさばかれるのです。

新約聖書は旧約聖書と密接なつながりを持っています。罪のゆるしという点において、あるいは神様と人間との契約という点においてであります。人の罪が赦される為には、血が流される必要がありました。旧約時代は、それが動物の犠牲によって行われていました。しかし、イエス様の時代の新約に入り、罪のない神の小羊、イエス様が、あの十字架にかけられ、命を捨てられる事によって、罪のゆるしの業が完了したのでした。あのイエス様の十字架を信じる者のみが、あらゆる罪を赦され、あらゆるしがらみから解放され、自由の身とされるのです。

永遠の命など今は考えなくても良いとお考えの方々は、では今、十分に満足した生活をしておられるのでしょうか。イエス様は、最も大切なあなたの永遠の命の事だけでなく、今の祝福の事も十分に考えていて下さっているのです。先のことが信じられないのでしたら、今の祝福を神様に願ってもいいのではないでしょうか。
命を捨ててまで愛して下さっているイエス様は決してそのことを拒否なさらないのです。むしろ喜んで、イエス様を信じる者を祝福して下さるのです。最後にローマ人への手紙5章6〜11節を読んで終わります。少し長いのですが、是非、心に留めていただいきたいのです。

「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」以上です。

あなたも本当の喜びのある人生を、イエス・キリストによっていただいてほしいものです。救われるための手続きはすべて神様が完了して下さっているのです。あなたは、その事に感謝して受け入れるだけなのです。


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