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2004年3月7日(日) 「われ衰えたれど」  ヨハネ3:22-30   竹口牧師  

この朝見ようとしています聖書箇所には、イエス様とその弟子のグループ、そしてもう一つのグループ、バプテスマのヨハネとそのグループ、この二つのグループのことが出ております。そして特に後者の方のグループの中で話し合われる会話から、
私たちの信仰の在り方を考えてみたいのであります。

今、二つのグループを申し上げましたが、それも、そのうちの一つであります、イエス様とその弟子のグループの事は、22節だけに出ています。余りにも短いものですから、少し最初の頃からの流れをお話して、今回のバプテスマのヨハネのグループとの関係を見たいのです。

イエス様は、このヨハネの福音書の1章の所で、弟子たちを作られ、2章で、カナの婚礼で水をぶどう酒に変えられたという最初の奇蹟を行われ、その後、カペナウム行かれて僅かの日数ですが滞在され、そして過越しが近付きましたので、エルサレムに上っていかれたのでありました。そして、そこでイエス様の見られたものと言いますと、神殿が、商売の家と化しているということでした。そこでイエス様は大変は怒られたのでありました。3章に入りまして、ニコデモの話がでておりますが、多分、このニコデモと言う人は、ユダヤ人の指導者であったとありますので、イエス様との会話は、エルサレムで行われたのではないだろうかと私は想像しております。

ところで、そんなイエス様が、今日の所では、弟子たちと共に、ユダヤの地に行かれたと出ています。ユダヤの地とは、勿論、エルサレムもその中に含まれますが、
22節の後半を見ますと、バプテスマを授けておられたとありますので、これも私の推測ですが、ヨルダン側近く、あるいはその支流ではなかったかと思います。さて、場所はともかく、イエス様は人々にバプテスマを授けておられました。まあ、正確に言いますと、4章の2節を見ますと、イエス様ではなく、イエス様の弟子が授けていた事が分かるのですが。

問題は、そのバプテスマを授けていたのが誰かではなく、もう一つのグループでありますバプテスマのヨハネの集団との力関係でありました。23節から、今回取り扱います聖書箇所30節までは、そのヨハネのグループの中で行われた会話が中心なのであります。しかも、そこには、私たちにとって実に見過ごすことのできない、醜い嫉妬という罪、あるいは謙遜とは何か、大変考えさせられる所なのであります。

バプテスマのヨハネとイエス様とは親類関係にありました。またバプテスマのヨハネは、イエス様より半年ほど早く生まれました。さらに、そのヨハネは、祭司の家系に生れ、神さまのお言葉を語るに相応しいし、また、そのように育てられ、神の道を説いていたわけであります。彼は後に、ユダヤの国主とされていたヘロデの行動を激しく非難して投獄され、遂には殺されるのですが、まだこの時には、活動が出来ておりました。彼とその弟子たちは、サリムに近いアイノンでバプテスマを授けていました。この場所もまた、どこか特定できないのですが、サマリヤの北東部であろうと言われています。

一方、イエス様は生まれはベツレヘムですが、育ちはナザレであり、大工の息子。しかも、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたのでした。そのイエス様とその弟子達のグループがバプテスマを授け、そしてヨハネ達もバプテスマを授け、
神さまを信じる人がどんどん増えていく中で、顕著に、その違いが現れてくるようになってくるのでありました。それが、バプテスマを受ける人の数でありました。
26節に、その模様が明らかにされています。「先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。」

これは、ヨハネの弟子たちにとって、真に穏やかならぬ現象でありました。自分たちの先生であるバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたイエス様。そのイエス様の方に、人々が流れていく。それでよいのだろうかという、弟子たちの焦りとも思えるものが見えてくるのであります。

以前にもお話したことがありますが、都会と言う密集地には、たくさんの人がいます。そしてまた、教会も沢山あるのであります。その中で、大きな教会もあれば、小さな教会もあります。そして、そういう状況の中で、クリスチャンがある教会から、別の教会にどんどん移っていく。あるいは、見方によっては取られていく。これではいけないと、その近くの教会どうしで、羊の奪いはしないようにしましょうということを話し合った、そのような事を耳にした、と言う事をお話しました。

やはり、牧師にとって、あるいは教会員にとって、自分の教会が大きいか、小さいか、人数がどれだけいるか、気にする人がいるらしいのです。そして、そこには当然ながら嫉妬とか憎しみとか、悔しさなどが生まれてくるのであります。真に残念でありますけれども。私が思いますには、神さまは、その教会に相応しい牧師を、また、相応しい教会員を与えられると信じております。ですから教会の器に相応しい人数も与えられる、そう信じているのです。それは、牧師の能力とか、会員の賜物の質とか、量とかによるのではなく、その教会を持ってご自分の栄光を表すに相応しい人を、神様は必要なだけ備えられるのだと思います。

鈴木先生が顧問牧師になられて、もうまもなく1年になろうとしています。教会も、これから大きくなるのか、小さくなるのか、このままを維持するのか、全く神様の御手にあるのであります。ただ、今、言えますのは、確実に世代交代の時期に入っている。そして教会は、その時をどのように乗り切り安定期に入るかであります。そういう意味では、祈りながら注意深くことを進めていかなければならないと言えましょう。

さて、話を聖書に戻しまして、バプテスマのヨハネは、弟子達の心配に対してこう言っています。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である。』と私が言ったことの証人です。」とであります。

ヨハネはここで、実に自分の立場と言うものをよくわきまえていることがお分かりでしょう。それは、イエス様と自分とが同等のものではなく、あるいはまた、世代交代という次元のことでもなく、自分は、イエス様の前に遣わされた者にすぎない。
しかも、「お前たちよ。お前たちは、その事の証人なのだよ。」そういう風にヨハネはいうのであります。

ヨハネは、「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。」と言っています。これは、神様の主権性を認めた告白であります。実に素晴らしい告白ではないでしょうか。神様のみ旨が行われているのであって、そうでなければ、何も受けることはできないと言い切るのであります。これは、なかなか言えない事であります。また、口では言っても、心の中は違うということはありえます。
しかし、ヨハネと言う人は、言葉でいった通りに歩み通すのです。

ある人が言いました。あなたは、どのようにしてストレスを発散していますか。「それはねえ。人の失敗、不幸を思いきり笑うことだよ。それによって、気分がすーっとするね」人の不幸を見て、笑ってストレスを解消する。これは、とてもお勧めできるものではありませんし、これはまた、特殊の例でありましょう。多くの方は、「かわいそうにねえ、何とかしてあげられないものだろうか」そういう憐れみの情を抱くものだと言えましょう。多くの人は、それだけ心優しいのです。

しかしながら、そういう心優しい人であっても、人の成功や繁栄に対しては、素直に喜べないというのが実際でしょう。今、まさに受験時期であります。希望した所に入れた人、入れなかった人が全国にでてくるのです。3月の終り頃まで、受験生を抱えている家庭は、大変な思いをするし、いまされているでしょう。しかし、いずれにしましても、主の御心だけがなる。これは、信仰者であるなら認めなければなりません。そして、最善に導かれる主が、その人にしかできない優れたご計画を用意しておられる、そのように捉える必要があるでしょう。

一方、そういう時期を終えた私たち大人は、いろんな面で、真に悲しんでいる者に対して、共に悲しみ、しかしまた、そこから希望を神様にあって示していく必要があるでしょう。パウロはローマ人への手紙12章15-18 節でこう言っています。「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなた方は、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」とであります。

バプテスマのヨハネの弟子たちの心を考えますと、彼等にとってイエス様のお働きは、心穏やかならぬ事態だと思います。しかし、弟子の動揺に対してヨハネはきっぱりと、「わたしはキリストではない。」しかも「その前に遣わされた者である」ということの証人だとはっきり言っているのです。弟子たちを諭しているのです。何と言う謙遜な、そして真実な人でありましょうか。

一方、ヨハネの弟子たちは、ヨハネと行動を共にしていながら、ヨハネがイエス様について語っていた言葉を正しく受け入れていなかったようであります。少なくとも、ここでヨハネに語りかけている弟子達はそう言えるでしょう。正しく受け入れていれば、このヨハネの福音書の1章35節以下で見ましたように、この福音書の著者ヨハネ、及びアンデレのように、イエス様について行ったと思えるからです。バプテスマのヨハネがイエス様について、この方こそ「世の罪を取り除く神の小羊」であると言って、イエス様が神様から遣わされた救い主であると教えていた。それにも関わらず、彼等はそれを信じない。受け入れなかったのでした。いわば、バプテスマのヨハネ信仰であったと言えましょう。

本当のところは、バプテスマのヨハネの説いた神の国を待ち望んで、罪を悔い改めると共に、自分たちの先生が指し示したイエス・キリストを救い主として信じるようにならなければ、何にもならなかったのであります。しかし、彼等はヨハネがすべてであったようであります。

何はともあれ、ヨハネはさらに話を続けています。「花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。」と。つまりここでは、結婚式における花婿とその友人に例えています。ヨハネは、神が自分に与えてくださったこの使命は、実に光栄ある、喜びに満ちたものであって弟子たちのように不満を持っていないことを明らかにするのです。

ここに出てきます友人とは、今日の日本での結婚式で言いますと、花婿の友人で、介添え、つまりベストマンに当たります。今回の話でヨハネ自身を、それになぞらえております。イエス様の時代にイスラエルでは、花婿の親友が花嫁を迎えに行き、花婿の所に連れて来たのだそうです。友人は花婿のために色々と気遣って、新郎新婦が最高の状態で式を行なえるように配慮する訳であります。人々の注目は、花嫁や花婿に向けられ、友人に向けられませんが、そのことで花婿の親友は妬んだり、羨んだり、僻んだり、怒ったりしません。

結婚式がすべてうまくいって、花嫁を迎えた花婿がしあわせな状態で、喜びを表わしたとき、花婿の友人の喜びも最高潮に達し、自分の友達の結婚式を心から祝福するわけであります。ヨハネは自分の役割を、まさにそのようにイエス・キリストという花婿の友人として仕えることだと言うのです。イエス・キリストの救い主としてのお働きが明らかになって、多くの人がイエス様のもとに行くようになったことは、ヨハネにとって喜ばしいことであり、彼の喜びは満ち溢れるのでした。バプテスマのヨハネの素晴らしさは、まさにここにあると言えましょう。しかもその素晴らしさは、結婚式という人生のある特定の時だけでなく、彼の人生のすべてに渡っているから素晴らしいのであります。

結婚式なら、その結婚式が終われば、花婿と共に喜べます。しかし、ヨハネは、その喜びが、自分の生涯に渡って続くものである。それどころか、30節にありますように、「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」と言っているのです。我が、我がと人に目立ちたがり、有名になろうとするのではなく、あの方は盛んになり、私は衰えなければならない。それが、神様から与えられた私の使命である。そのように彼は、これからも生きていくのであります。

後にイエス・キリストの使徒となったパウロは、こういいます。「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。」(2コリント4:5)なんと言う素晴らしい言葉でしょうか。
                   
ところで、もう一度ヨハネの言葉を引用しますが、彼は「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」と言いました。そしてこのことをある人は、冬至と夏至にひっかけてこの様に説明しています。私どもは、イエス・キリストの誕生を記念して12月に集会を持っています。いわゆる冬至の時期であります。それよりも半年前にヨハネが誕生しておりますので、それが夏至の時期であります。言うまでもなく、夏至は一番昼が長く、そこから段々昼の時間が短くなっていきます。そして冬至に至って最高に夜が長くなり、その後、光輝く時間が長くなっていきます。それをイエス様とヨハネの誕生とからませて、言っているのです。

イエス様がもし12月にお生まれになったと歴史的に確定されれば、これも一つの象徴のように取ることは可能でしょう。ヨハネの働きは徐々に終わっていき、イエス様のお働きはドンドン盛んになられていくのです。バプテスマのヨハネは、実に自分の使命をよく理解し、それを受け入れて、この世で働きました。この福音書の初めのところで、イエス様の弟子であったヨハネがバプテスマのヨハネを紹介して
こう書いていました(1:6-8 )。

「神から遣わされたヨハネという人が現われた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。」まことに私たちもまた、自分の使命というものを正しく自覚し、キリストを宣べ伝えることに喜びとしたいものです。

キリストの御名がますます崇められ、自らは、ヨハネのように衰えていっても、それは決して残念なことではないのです。主なるイエス・キリストのお名前こそが高らかに崇められるべきだからです。それはまた、私たちがこの世の生涯を終えて、天に凱旋するとき、神の子として迎え入れられる特権をいただいているのです。また、この世にあってはキリストの花嫁として下さるのですから、そのことを覚えながら、キリストに、それは即ち、教会に謙遜に仕えていきたいものです。

2004年3月21日(日) 「神の遣わされた方」  ヨハネ3:31-36  竹口牧師   

前回見ました聖書箇所の一番最後の所、つまり30節最後の所には、閉じ括弧がありまして、しかもそこには注書きがあることがお分かりでありましょう。そして、その注書きを読みますと、「バプテスマのヨハネの引用をここまでとしないで、36節の終りまでとして訳すこともできる」とあります。

ですから、今回見ますところは、バプテスマのヨハネが言ったのか、イエス様の弟子の一人、つまりこの福音書の著者ヨハネが言ったのか、受け取り方が二通りあるのですが、バプテスマのヨハネの言葉は30節の感動的な言葉にとどめて31節からは著者ヨハネの言葉ととる方が良いようですので、そのように私は話を進めて参ります。

今日の所はまた、上とか下とか、天とか地とか、とありまして、なんとなくとっつきにくい思いがしないでもありません。従って、思わず読み飛ばしてしまいそうな所でもあります。しかし、36節に至りまして、大変強烈な言葉がでていますので、そう簡単には読み飛ばすことはできない、そういう大切な箇所であることはお分かり頂けると思います。

ある人が、キリスト教と他の宗教とを比較してこう言っています。「私たちの信仰は、ただ自分の主観的な思い込みではありません。確かな対象を持っています。それは、イエス・キリストです。ですから、私たちの信仰が成長するとか、確固不動のものになるためには、このイエス・キリストというお方についてよく知らなければなりません。それが、他の宗教と根本的に違うところです。他の宗教では、信じればこうなると言って、こちら側の信じ込むことばかり強調して、私たちの信じるお方がどのようなお方なのかということについては、それほど重要ではありません。ひどい言い方をすれば、信じる対象なんか誰であってもよいのです。信じ込むところにいつも強調点を置きます。」とありました。まことにそうだと私も思います。

だからこそ、「いわしの頭も信心から」という言葉もあるのでしょう。どういうお方が、何をして下さるのか、ではなく、なんでもいいから信じる。これこれをしてくれれば何だっていい。そういうように御利益に直結しているのであります。しかし、冷静に考えれば、おかしいことはすぐに分かってきます。信じる対象を間違っていますと、平安は与えられても、単なる気休めであって、本当の解決にはなっていないのであります。

でも、多くの人は、そういう間違いを犯しています。頼りにならないものに、真剣に頼り、願った通りにならなければ、自己責任にされているのです。ですから、今日のような聖書箇所は実に大切なのであります。31節にはこうありました。「上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。」と。

ここには、上と下、天と地というように、明確な区別が語られています。「上から来る方」、「天から来る方」というのは、これは言うまでもなく、罪で汚れたこの地上に属さないほうであります。その方が、この地上に来て下さったのでありました。そしてそれはイエス・キリストでした。地上のものは、天から来られた方のことを語ることはできますが、あくまでも、教えられたことしか、語ることができません。

しかし、私たちが住んでいるこの地上も含め、すべてを造られた方、天におられる方がこの地上に来て下さるなら、その方は、この地上のことを語ることができるのは勿論のこと、天のことをも話すことができるのは当然でしょう。その方は、天のことを見ておられるし、知っておられるからです。ヨハネ1章10−11節にはこう書いてありました。「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」と。

これは実に現実でありました。今日の聖書箇所も32節で同じような事が言われています。「この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、誰もそのあかしを受け入れない」とです。バプテスマのヨハネは、天から来られた方を証ししました。また彼は、天から与えられたことを語りました。そして、自分とイエス・キリストとを比較して、「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません」と言ったのです。ヨハネの徹底した僕としての自己理解とその告白には、本当に感心させられます。

イエス様は、天におられる方ですから、天のことを話されても、また聞いたことを証しされても間違ってはおられません。しかし、人はそれを信じないし、信じようとしないのです。そのことについて、私の体験でありますけれども、こんなことがありました。私がキリスト教徒であって、聖書を手にして読み始めて、まず感じましたのは、いろいろな宗教がある中で、聖書も単にその一つにすぎないのではないか、ということでした。どの宗教も自分たちの教えが正しいと言っているけれども、
結局それを決めるのは、それぞれその人にかかっているのではないか。何だってみんな同じではないか、そう思ったことがありました。しかし、それが間違いである事をある先生が、こういう例で話しておられますので引用したいと思います。

「私たちがいつも犯す誤りは、神がお語りになったことを、その上に立って人間が判断しよう、ということです。先生が学生に教えているとき、その教えを受け入れないで、それを批判しているようなものですが、それ以上の誤りです。先生でも人間である以上、間違えることがないとは言えません。そして、時として先生以上に優秀な学生がいないとは限りません。しかし、神と人間とでは絶対的に違うのです。
それなのに、人間が神の上に立って、それを審査し、正しいか間違っているのかの判断を下せるとでも思っているとしたら、思い上がりもいいところで、このような間違った態度で、どうして神が分かるでしょうか。

被造物が、造り主に対してとれる態度は、せいぜい服従以外にはないはずです。信仰とは、実にこの造り主に対する服従のことです。ここでは、信仰のことを『神は真実であるということに確認の印を押』すという言い方をしています。これが信仰の基本です」とそう言ってその先生は33節の言葉を引用されているわけです。

この教師と学生との関係の例話は、本当に良く分かるような気がします。神様と私たちとの関係はそれ以上のものであるという点で謙虚にさせられるのではないでしょうか。私たちには神様は目に見えませんし、神様の声も耳では聞く事が出来ないために、神様の存在さえ疑う人が多いのですが、イエス・キリストはその神様を正しく教えてくださる方なのであります。ヨハネは、イエス・キリストが知らせてくださる真の神様のご性質、み心、またお働きは、全く信頼できると言います。その理由は、イエス・キリストが上より、すなわち天より来られたお方だからであります。すべてのものの上にあるお方、人間が考えられるどのようなものよりも遥かに高い所におられた方だからであります。イエス・キリストは天よりの方ですから、天に関すること、天におられ、支配しておられる真の神様に関する事柄を正しく語ることがおできになるのであります。

それに比べますと、私たち人間はみな「地に起源を持つ」者ですから、目に見える世界の立場や視野で考え、判断することしか出来ないのです。神様は、自然界を通しても、ご自分の存在やお働きを顕しておられるのですが、人間が神様に従わないで、背いて罪人となって以来、神様との交わりが断たれてしまいましたので、神様を正しく認めることができなくなってしまいました。ですからイエス様や、神様がご自分について知らせるために与えて下さった聖書なしでは、私たちは真の神様について、そのご存在や、また、どのようなご性質をお持ちか、あるいは、お考えやご計画、お働きはどうであるのかなどなどをはっきりと知ることが出来ないのです。

従って、こうではないだろうか、ああではないだろうかと推測するしかないのであります。そして、まさに人がそうしなくてもよいように、神様は、御子イエス・キリストをこの世に送って下さったのでした。また、天に帰られた後は、そしてことに現在では、完結した神のお言葉である聖書を神様は私たちに与えて下さっているのであります。キリストは、神そのものであられますので、キリストが語られることは、最も信頼出来るとヨハネは言います。真の神様がこの世にお遣わしになった方として、イエス様は神様のご計画、み心を知らせくださるのです。

しかも何にも妨げられず、必要で十分なみ言葉を私たちに知らせてくださいました。
三位一体の神様の限りない交わりや愛、信頼に基づいて、イエス様は、この世のことしか分からないでいる私たち「地に属する人」に、上の事を、天の事を、神の救いのお働きについて、真実に教えてくださっているのです。ヨハネはイエス様への信仰と親しい交わりによる経験を通して、イエス様のお言葉とお働きは、真の神様を完全に教え、神様が人に伝えようとされた内容を全く伝えた方であると断言するのです。

34節には「神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。」とあります。この34節の無限と訳されている所にも印がついていまして、注書きでは、直訳「神は御霊を量っては与えられない」とあります。他の訳では、限りがないと訳され、無限と同じ意味ですが、これらを読みますと、父なる神様がどれだけイエス様にその権限、力、働きを与えておられるかを
読み取ることが出来るのではないでしょうか。

35節では更に、「父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。」とあります。ですから私たちの将来が、イエス様の手に握られていると言えましょう。そして36節で「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」という恐ろしい言葉で終わるのです。

さて、人間に対する神様のお約束の中で最も重要なものは、罪によって神様から遠く離れてしまった人々に対する神様の救いのお働きに関するものです。これまでにも何回かヨハネが述べていましたように、イエス様こそ、神様がお遣わしになった罪からの救い主と信頼し、受け入れた人に、神様は罪をお赦しくださり、永遠の命をお与えになると言っておられます。

この永遠の命は、この世のものとは違う性質の命でありまして、どのような環境にいましても影響されることのない、神と共に歩むことのできる命でありますから、イエス様を救い主と信じることで与えられ、いつまでも保ち続ける命であります。
この永遠の命は、イエス様を信じさせていただいた人にとって、それまで神様を認めず、また、信じていなかったその生き方の罪のために、その人の上にとどまっていた神の怒り、それが、その人の上から取り除かれて、真の平安、喜びをいただくのであります。

一方、イエス様のみ言葉を聞いても、その勧めや導きを受け入れないでいるならば、
「命を見ることがなく」とヨハネは言うのです。永遠の命を経験しないし、その喜びを楽しむ事がないのです。そればかりか、罪のうちにいる人に対する神の怒りが
その人の上にとどまりつづけると警告しています。罪を犯している者に対しての神の怒りは、その上にとどまっていると述べられているのに、不幸なことに、人は余りその事に気付かないものでありまして、自分は大丈夫だ、とそのように間違った安心感で見過ごしたり、全くそれを考えない事が多いのであります。

その人の上に神の怒りがとどまっているのですから、いつかそれが必ずその人に必ず臨むのであります。その人は、その時まで気付かないでいますし、気付いた時はもうそれを免れることは出来ません。私たちが真の神様を知る必要があるのは、それが私たちの人生を根本から変えるものだからです。

今のままの生き方で構わない、今までの人生の歩み方で十分だと言う人は、神様を真剣に求めようとはしないでしょう。しかし一方、自分の人生について、果たしてこれで良いのだろうか、そのように疑問を持つ人は、是非、真の神様のみ言葉を聞くことの大切さを知ってほしいのです。それによって自分の本当の姿はどのようなものであるのか、み言葉がよく教えてくれますし、何が解決しなければならない問題であるのかも、見えてくるようになるからであります。自分の努力や、これまでしてきたこと、持っているものによってではなく、イエス様の十字架の死による贖いの御業こそ神様からの愛と恵みの救いの贈物であると教えられて欲しいのです。

36節において、「御子を信じる者は……」とあります。また、それに対する言葉として、「聞き従わない者は……」とあります。つまり、信じるとは、ただ単に頭の中で承認するといった知的な問題なのではなく、「聞き従う」心の態度が問われるのです。しかも、一度だけの心の態度ではなく、「信じている」「聞き従っている」という、これからも続いていく生活の在り方が問われてくるのです。いくら神の言葉を聞き、イエス様の福音を聞いても、それに従う意志がないだけでなく、これからも従って行こうという心の思い、行動がなければ、永遠の祝福にあずかることがないだけでなく、「神の怒りがその上にとどま」り続けるのです。

神様が愛と恵みによって救いという贈り物をくださっているのですから、それを喜びを持って受け取り、感謝のうちに、キリストにある歩みをしていきたいものであります。この世には、よいと思えるものがいろいろあります。しかし、それらに惑わされてはならないのです。イエス様の兄弟であったヤコブの言葉を最後にお読みして終わることに致します。ヤコブ1:16-18 までです。

「愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。」以上です。

父なる神様の送って下さったイエス・キリストと共に、その方を信じながら、この世を歩む、そういう歩みをこれからも続けさせていただこうではありませんか。

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