2004年5月9日(日) 「生ける水」 ヨハネ4:7-15 竹口牧師
先回は4章1−6節に於いて、なぜ、イエス様はユダヤを去って、ガリラヤに行かれたのか、また、バプテスマを授けていたのは誰であったのか、なぜ、サマリヤを通らなければならなかったのか、そして最後に、イエス様も人としての歩みをされたので、旅の疲れを覚えられたという4つの点を見てきました。従って先回見ました所は、イエス様がサマリヤの女性と会われる前段階とでもいいましょうか。まず、その導入の部分を見たわけでありました。今回はいよいよ、サマリヤの女性とイエス様との出会いが始まるのであります。
ところで、考えてみますと、今回登場しますサマリヤの女性と、3章に出てきましたニコデモとは、実に多くの点でその違いを見ることができますので、多くの本がそれを指摘しているのであります。それを少し上げてみますと、これから見ていくことになるのですが、
一つは、ニコデモは、自分からイエス様に会いに来ましたが、サマリヤの女性は、イエス様が、会うためにわざわざ来られたという違いがあります。ニコデモは、ユダヤ教のパリサイ派に属し、指導者でありましたが、一方、サマリヤの女性は、それほど地位が在ったようには思えません。またニコデモはパリサイ派に属するくらいですから、道徳的には、模範的であったでしょうが、サマリヤの女性は、そうではありませんでした。
二つ目は、ニコデモはユダヤ人でありましたが、女性は、ユダヤ人が軽蔑しているサマリヤ人でした。このように多くの点でその違いを見ることができ、ヨハネは、この二人を3章に一人、4章に一人と続けて書いているのであります。これだけでも、全く違ったタイプの人とイエス様が会われ、福音を宣べられたことがもうすでにこの時点でも感じさせられます。四つの福音書全体から見ますと、さらにいろんな人とイエス様は会われ、多くの人を憐れんで下さったのを知る事ができます。
さて、先回は6節で終わりましたが、その6節にあります「時は6時ごろであった」という部分は見ませんでしたので、その部分から今回は入ることに致します。欄外注にもありますように、直訳では「第6時」ということです。そして、この時刻を巡って、二つの説があります。それはユダヤ時間とローマ時間であります。ローマ時間で言いますと、夕方の6時ごろ、ユダヤ時間で言いますと、今日の12時頃で、 一日のうち最も気温が高く、暑い時間を意味します。
恐らくこのサマリヤの女性は、正午ごろやってきた、そのように考えるのがよいと思われますので、これからは、その立場で話を進めていくことに致します。今日の聖書箇所の7節に「一人のサマリヤの女が水を汲みに来た」とあります。恐らく、普通は泉に水を汲みに来るのは、朝か夕方の涼しい時刻が多いのでありますが、それなのに、正午ごろやってきたというのは、この女性は人目を避けるようにして、他の人が来ないような時刻を見計らって来たと言えましょう。
勿論、そのような推測が出来ますのは、次回に見ます聖書範囲で、夫の話が出ているからです。今までに夫が5人いて、今一緒に暮らしているのは、あなたの夫ではないとイエス様が言われているからです。つまり、恥ずかしいような歩みをしていたわけであります。まあ、それはともかくとしまして、イエス様は、その婦人にこういわれました。「わたしに水を飲ませて下さい」8節によりますと、その時に、「弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた」とあります。つまり、ここでの彼女のイエス様との対話は、一対一であり、真剣な話がまさに始まろうとしているのであります。
私は、ここを初めて読みました時に、実際のところ、話について行けませんでした。 と言いますのも、ヨハネが4節で書いていましたが、イエス様がわざわざ、「しかし、サマリヤを通っていかなければならなかった」とあったのをすっかり私が忘れて、暑い中をイエス様は歩いてスカルというサマリヤの町に来られた。そして、さすがのイエス様もその暑さにはまいって、多分喉が渇かれた。だから、「わたしに水を飲ませて下さい」と言われたのだと普通に思ったからでありました。実際にそういう部分はありました。
ところが、10節をみますと、一気に信仰の話に変わっているのであります。えっ!と私は思ったわけであります。イエス様は、喉が渇いて、水を求められたのだから、その水を飲んでから、次の話しに入ってもよいのではないか、もし、イエス様が、伝道をしようと思われたのであれば、なんで、そんな回り道をされるような入り方をされたのだろうか、そのように感じたのであります。
そこで、現代に置き換えて考えてみたのであります。宣教師らしき人が、聖書を持って、「あなたは罪人です」といきなりいわれたなら、ある人は傷つくかも知れませんが、大抵の人は、あの人は、何を言っているのだろう位にしか、もし初対面なら思うに違いないと、そう私は思います。
ところが、イエス様のされたことはどうでしょうか。ここでは、イエス様が渇いた喉をいやす水を求めながら、実は、本当は、それが主体ではなかった。イエス様は、水も飲みたかったかもしれないけれども、本当は、それよりももっと大切な、永遠のいのちの水のことを話したかったのだ、そのように、イエス様には最初から意図があったのだなと気付かされるのです。つまり、飲みたい水から始まって、話がドンドン救いの話へと進んでいくのであります。イエス様は「わたしに水を飲ませて下さい」と言われましたが、その目的は、自分の喉の渇きを癒すためではなく、まさに、目の前にいる女性の救いの為の語りかけだったのであります。
これは、私たちが伝道するときに、非常に大切な方法ではないかと教えられます。時と場合に因って、様々な伝道方法がとれると思いますが、ここではイエス様は、最初は直接的ではなく、婉曲的に、そしていつのまにか目的を達する話しへと進まれたのでした。イエス様の、このサマリヤの女性に対してのアプローチの仕方に、私たちは学ぶべきものがあるのではないでしょうか。
ところで、イエス様に語りかけられた女性は、話された内容よりも、それ以前のことで驚くのであります。それは9節にある通りであります。「『あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。』−−ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。」とあります。つまり、ここには歴史的な背景が横たわっていたのでありました。
当時、ユダヤ人はサマリヤ人を異邦人同様に軽蔑して口もききませんでした。と言いますのも、時をさかのぼる紀元前722年に、東方のアッシリヤ帝国は、二つに分裂したイスラエルの一方の国、北イスラエルを捕囚として、外国の地に連れていきました。それは、真の神様から離れて、偶像に走ったために、北イスラエルに罰として神様がアッシリヤに許された事でした。国は滅び、捕囚として連れ去られると同時に、他の国から連れて来られた人もいました。
その連れて来られた人と、捕囚としては連れていかれないで残された人達との間に、子供ができ、混血民族となったのでした。そして彼等は、イスラエルが分裂した時から偶像礼拝に走っていたのですが、その後も、モーセ5書だけを神様のお言葉として信じ、更には、エルサレムに行って礼拝しないで、それに対抗してゲリジム山で礼拝をしていたのでした。
こうした背景から、ユダヤ人であるイエス様がサマリヤの女性に口をきき、しかも、水を飲ませてくれというのですから、彼女は驚いたのでした。それともう一つ、この女性の驚いているのは、「どうして、この私になのか」ということでした。
当時、女性の地位は低く、男性が女性に話しかけることは少なかったといわれます。 一般的にはほとんど無かったとさえ言われるくらいでした。しかし、イエス様は、その一般的な常識をすべて破って、この女性に話しかけられたのでした。先を読めばお分かりのように、一般的な女性ではなく、サマリヤ人の中でも、あまり良くは思われないような女性でした。しかし、イエス様は、そういう人も一人の人間として扱われたのでした。こういう差別は、私たちも気付かないうちにしていることもありますので、イエス様は、人に対する公平性、あるいは分け隔て無く接して下さるお方である。だからこそ、私たちも救いから漏れる事なく選ばれ、導かれたのだなと教えられるのであります。感謝であります。
ところで、この女性がイエス様のお言葉にただ驚いただけではありませんでした。恐らく、「この人は一体何者なのだろう」という、自分との関係を考えるに至るのであります。そして、その機を逃さず、イエス様は語りかけられました。10節の通りであります。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者が誰であるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。 そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
でも、まだ彼女は、この時点ではイエス様の言われていることを理解していませんでした。ですから、あくまでも「飲む水」にこだわって彼女は言っています。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」と言っています。イエス様の方では「神の賜物」という言い方で、ただ一般的な水のことを言っているのではないことを示され、一方、女性は、生ける水という不思議な水は一体、どうやって手に入れるのかと考えるのです。
ところで、水で思い出すのですが、深層水というのでしょうか、深い海底にある水は体に良いとか、あるいは、どこそこの山からわき出る水は、万病に効くとか、そういう噂が流れますと、多くの人が、その水を求めていくのであります。病気であればなおのこと、真剣にその水を求めるのであります。万病に効く水と言われる物が、世界に数箇所あるらしいのですが、科学的に立証されてはいません。が、確かに病気が直ったという話を何度か聞いたことがあります。
がしかし、ここでイエス様の話されていることは、具体的な、この世に存在する物質の水を指していってはおられませんし、一方、女性のほうは、自分たちの先祖の歴史までさかのぼって、今、ここで求めておられる水は、由緒ある井戸であり、その昔、ヤコブが掘り、彼自身も飲み、家畜も飲み、更には、彼等の子供達も飲んだと言われている井戸だと言います。水そのものは、その場所に工場や、産業廃棄物などを捨てない限り、井戸が枯れなければ、昔のまま流れ続けているのであります。
そして、昔の人の事を想像しながら飲みますと、その辺の水とはまた違った美味しさを感じるのかも知れません。しかし、イエス様は言われるのです。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」と。
このイエス様のお言葉を聞いて、このサマリヤの女性だけでなく、飲み水で苦労している人は、どのように受け取るのでしょうか。私の田舎では、そして私の家には、昔から山からの水源がありまして、いつも、炊事場の流しに流れっ放しにして、現在も使っています。しかし、私の家の下手にある家には水源はありませんでした。ですから、我が家の家の前を通って、その先にある小さな池にまでその下手の家の方は、水を汲みに行かなくてはいけませんでした。「行かなくてはいけませんでした。」と過去形で言いますのは、現在その家は、引越ししてないからですが。
それを見ながら、昔、子供心に大変な仕事だなと感じたものです。昔、ピーチ先生が若かった頃、野尻湖に別荘がありましたが、あそこも、昔は水の便が悪く、汲んで来なければならなかったそうです。私はですから、一度も伺ったことがないのですが。何度も誘われながら。そのように、水汲みがその日の大事な仕事に上げられているとするなら、それをしなくて済むとしたら、なんという楽なことでしょうか。
イエス様は言われたのです。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」と。これを聞いて、この女性は、そんな旨い話がこの世にあるはずがない。冗談はよしてください、などとは言いませんでした。否、むしろ積極的に、イエス様に申し出るのです。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
果たして、この女性は、イエス様の言われている言葉を完全に理解していて、このような言葉を発したのでしょうか。実は、ヤコブの井戸というのは、5節で見ましたように、スカルというサマリヤの町にありました。そしてそこは、今日のアスカル(ヤコブの井戸の北東約1KM)と同一視する説と、シェケム(ヤコブの井戸から100m弱)と同一視する説があります。また、「ヤコブの井戸」(6 )は伝承では、シェケム(現ナブルス)のビザンチン以来の教会の建物の中にある直径2m、深さ30mほどの井戸と同一視されています(参照創48:22,ヨシ24:32)。
もし、スカルがアスカルと同一視されるとすれば、アスカルにも井戸があったのですから、1Kmもはなれた所まで水を汲みにくるというのは、よほど何かの事情があったに違いない、そのように想像されています。しかし、まあ、仮にシェケムにある井戸であったとしても、100M,水を担いで運ぶのと、それをしなくてもよいのとでは、当然ながら、運ばないですむのがよいと言うのが本音でしょう。彼女は、この時点で、イエス様のお言葉を信じていたかどうかはわかりませんが、確実に、それに近付いていることだけは確かでありました。
体の調子を崩した時、やたらと喉の渇きを覚えることがあります。そして、それを満たすために、水を飲み続けますと、今度は胃がやられるのであります。そういう経験を私は何度かしてきました。しかし、イエス様が今ここで言われていますことは、そのような、この世の水ではないのであります。一度飲めば、その人は渇くことがないとイエス様は言われるのです。なぜなら、イエス様の下さる水は、その人のうちで、泉となり、更には、永遠のいのちへの水がわき出るからだと言われます。
水は、人間にとって無くてはならないものであります。たとい食料が何日間かなくても人は生きていかれます。しかし、水はないとそうはいきません。水は最低限必要なものです。肉体を支えるためにです。そして、それ以上に大切なのが、魂に与える水です。なぜなら、人は十分に物が足りていても不足を覚え、満足をすることがないからです。それどころか、時には、物に十分満たされていても、不足を感じて、そのために自殺する人すらいるのであります。まさに、イエス様が悪魔に対して、申命記を引用して言われた言葉、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による」と言われた通りであります。
それほど、心を満たしてくれるものが求められているのです。そして、その存在をイエス様は今、語っておられるのであります。イエス様の喉の渇きから始まって、今や、 人の心をいやす水、魂に命を与える水の話になっています。果たして、あなたは、もうその水を神様から頂いておられるのでしょうか。あるいは、いただいていて、味わっておられるのでしょうか。もし、まだイエス様からいただいておられない方は、どうぞ、真剣にイエス様に願い求めてほしいのです。そして、人生の歩みにおいて、満たされた歩みをしようではありませんか。
2004年5月30日(日) 「まことの礼拝」 ヨハネ4:16-26
2004/5/30 ヨハネ4:16-26 まことの礼拝 先回は4章7節から15節において、水の話をしました。水と言いましても、単なる水ではなく、生ける水であり、永遠のいのちへの水の事でありました。最初、イエス様は、ユダヤからガリラヤに行かれる途中であり、それもユダヤ人達は避けて通る所でありますサマリヤを通られた。そして、そのサマリヤのスカルという所にありますヤコブの井戸、そこで休んでおられて、一人の女性が水を汲みにやってきた。その時のイエス様と一人の女性との会話を見たのでありました。
イエス様が、「この水を飲む者は誰でもまた渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」とこう言われますと、それを聞いた女性は「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」とこのように言った所で先回は終わりました。今回の話は、その次の16節から始まるのでありますが、その前に、この最後の部分15節の女性が言った言葉は、果たして、どんな意味が含まれていたのか、その所から、入っていきたいと思います。
ある人はこう言う風に言っています。「ここで彼女の言っている言葉は、どのようにも取れる言い方です。『そんなに便利な水があるものなら、どうぞそれを私に下さい』と皮肉混じりに言っているとも取れますし、また、「今まで嫌な思いをしながら、 他の人と顔を合わせるのを避けて、水を汲みに来ていたのに、もしもそんなに便利な水があるなら、どうぞそれを私にください」と懇願しているとも取れます。」とであります。
昼間の旅人が、しかも井戸のそばに座って休んでいる。そして、「わたしに水を飲ませて下さい」と言われるその人に対して、てっきり水の話だと思ったら、いつの間にか信仰の話になっていた。そこであのような15節の言葉になったのだろうと思うのですが、その女性の言葉が、皮肉にせよ、懇願にせよ、いずれにしても、今日の会話からは、この女性の意識が一変する大事な場面であります。つまり、彼女の人生そのものが大きく変わろうとするのでありますから、非常に大きな転換点であり、それはまた、人の人生とは、どこでどうなるか分からない、まさに、人生は、出会いで決まるというのがぴったりの所であります。
彼女の15節の言葉に対してイエス様はこう言われました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」すると彼女は言うのです。「私には夫はありません。」それに対してイエス様は「私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことは本当です。」と言われました。これを聞いた女性は、本当にびっくりしたに違いありません。と同時に、次の19節では、イエス様のことを預言者とも言うようになるのであります。
最初に会った時は、「ユダヤ人がサマリヤ人の私に話しかけるなんて、一体、この人はどういう人だろう」くらいにしか感じていませんでした。しかし、ことここに至っては、ただの人ではないと分かった事でしょう。サマリヤ人が、聖書としている物の中で言われている人物、つまり、私たちが現在持っている聖書の中で、創世記から始まって申命記までの五つ書、その中で、もしかしたら最後の申命記の18章18節のことから彼女が「預言者」と言ったとするなら、これは実に驚くべき事だろうと思います。そこには、こう書いてあるからです。
主がモーセに言われた言葉としてですが、「わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。」とあるからです。しかし仮に、彼女がそのように、聖書から感じたのではなかったとしても、自分の私生活を全部言い当てたそのイエス様に対して、この人は、一体どういう人なのだろう。 預言者以外には考えられない、そのように思って言ったとしても、不思議ではありません。それと共に、少なからず自分の罪について痛みを感じたのではないだろうかと思うのです。
なぜなら、20節で彼女はこう言っているからです。「私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」と、このように礼拝という言葉を口にしているからです。とっさに出てきた言葉とは言え、サマリヤ人とユダヤ人との礼拝する場所の違い、それを明確に言う事ができる。その彼女の事を考えてみますときに、あながち、全く神を知らず、自由気ままに、自分の欲するままに、次から次へと夫を代え、楽しんでいる女性というのではなく、自分の罪に対する意識を持ちながらも、それから抜け出せないでいた、そういう女性ではなかったかと私は思うのであります。
イエス様は、彼女の罪をすべてご存じでありましたし、ですから、彼女の現状を知って、それを語られましたが、こんにちの、この日本において、つまり、外国においてではなく、私たちのこの教会を尋ねて来られる方々のことを考えます時に、さまざまな問題を抱えておられる事が多いのであります。そして、それらをお伺いしているうちに、お金とか、人間関係とか、健康とか、さまざまな問題がありますが、結局の所、その根本に横たわっているのは、罪の問題であり、それを解決して下さるのはイエス様だけである。そのように導かれて行くのであります。そして、それを認めて、イエス様に任せられるかどうかへと進みます。イエス様とは、どういうお方か。そして、自分の問題に対して、解決を与える事ができるのか。その人が、問われる場面となるのであります。
ここの聖書の場合もそうですが、自分の素姓をすべて言い当てるこの人は、一体何者か。預言者に違いない。とすれば、今の私の罪の生活のすべてを知られている。その事に気付かされた時、その導きを喜んで受け入れ、悔い改めへと導かれるかどうかにかかって来るのであります。そして、真の神礼拝へと導かれる時、その人は大きく変えられて行くと言えましょう。真の神礼拝をするにはどうしたらいいのか、彼女は20節でこう言います。「私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」
この女性にとって罪が指摘された時、神礼拝の場所が気になったようであります。罪を犯した者は、神様の前に悔い改めが必要であるからです。十戒の一つ、一つを知っている人なら、自分の生活のすべてを知っているお方は、私の罪のすべてをも知っておられる、そして罪赦される事の必要を覚える瞬間でもあります。そこで彼女は、ユダヤ人とサマリヤ人との礼拝の場所の違いをイエス様に聞いたのでありましょう。 「私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが…、」とであります。
ところで、ここでちょっと歴史的な事を申し上げますと、紀元前4世紀頃から、サマリヤ人は、エルサレム神殿に対抗してゲリジム山に神殿を建てて、そこで礼拝を献げておりました。そこで一体、どちらが正しいのかと言う思いを彼女は持ったのでありましょう。ゲリジム山なのかエルサレムなのかとです。彼女が信仰について考えた時、 日頃耳にしていた事から疑問を感じたと思われます。サマリヤ人は、ユダの人々が捕囚から帰って来ても、サマリヤ人との行き来をしなかったために、今も言いましたように、ゲリジム山に神殿を建てて、そこで礼拝をしていました。更には、彼らはモーセ五書しか持っておらず、しかも、最初の方で、その五書とは創世記から、申命記までのことを指すと申し上げましたが、正確に言いますなら、その中の何か所かは書き替えられていますので彼等の物は、サマリヤ五書ともいわれるものであります。
たとえば、アブラハムが、その子イサクを献げたのは、このゲリジム山であったとか、というふうにであります。また、彼等がエルサレムに対抗してゲリジム山で礼拝をしているものですから、紀元前128,9 年には、ユダヤのヨハネ・ヒルカノス王は、これを神への冒涜ととり、怒って、サマリヤを攻め、ついにはゲリジム山上の神殿を焼き払ってしまいました。しかし、それでも、礼拝はそこで続いておりました。ですから、20節のような彼女の言葉になったのでありましょう。彼女のその問いには当然、イエス様はユダヤ人ですから「エルサレム神殿で礼拝するのが正しい」という答えが返ってくると考えたかどうかは分かりませんが、実際は、そうではありませんでした。
21節以下でこう言われます。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」と、こう言われました。
このイエス様のお言葉には、実に大切な事が入っているのであります。それは、私たちは毎週、週の初めの日に集まって、公同の礼拝を持っています。それも、エルサレムにおいてではなく、日本の、東京の、目黒区の、八雲の地で礼拝しているのであります。年に1度は必ずエルサレムで礼拝を献げなければならない、あるいは献げましょう、とは言っておりません。なぜでしょうか。イエス様のお言葉の通りであります。 「あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。」それが今の、この時だからであります。また誰を礼拝すべきかは、22節でそのヒントが与えられています。救いはユダヤ人から出るという言葉にあります。また、23、24節では、どういう姿勢で礼拝をお献げしなければならないかが述べられています。「霊とまことによって」であります。
ところで、礼拝と一口に言いましても、こんにち、さまざまな礼拝があるのはご存じの通りであります。一般的には、主の日の礼拝を、礼拝と呼ばれますが、その他には、家庭礼拝もありますし、個人で持つ一つの礼拝、デボーションと言われるものもありますし、教会で何かの集まりをする時、礼拝をもってから始めるという事もあります。更には、クリスチャンの経営する会社であるなら、もしかしたら礼拝をもってから仕事が始まる場合もありましょう。あるいは、日曜日が仕事という職業の方もおられますので、月曜礼拝とか、木曜日礼拝とか、週日のどこかで礼拝日を設けている教会もあります。
がしかし、十戒の教えのひとつであります、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」とは、一週間のうち一度は必ず礼拝をお献げしなさい。それも、自分の一番都合のよい時に礼拝しないと言う事ではありません。礼拝の日はあくまでも定まっていて、 その日は、他の日に取って代わるものではありません。ですから、そのように広く解釈していく事は正しくありませんが、まあ、それはともかくとしまして、イエス様はここで、霊とまことによって礼拝する事の大切さを述べておられるのです。罪ある者が、その罪をそのままに隠しておいて、神様の御前に礼拝をお献げできるものではありません。罪を認め、悔いた心で御前に出る必要があるのです。
ですから、彼女はイエス様のお言葉に対して25節でこう言っています。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、 一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」とであります。真の礼拝とは(イザヤ1:11,ホセヤ6:6,アモス5:21におけるような)単なる祭儀的外面的礼拝に対する反対ではありませんし、祭儀の内面化でもありません(詩51:16‐17)。
先回見ました7−15節の「生ける水」を巡る議論、及び、これから先で見ます7:37‐39に出てきます「生ける水」、すなわち「御霊」も視野に入れて考えますなら、神の霊が与えられるという脈絡の中で、新しい礼拝論が論じられていることにもなるのであります。終りの日に、神の霊が注がれるという期待は、旧約聖書の預言者たちの期待であり(イザヤ44:3,エゼキエル36:24‐27,ヨエル2:28-29,ゼカリヤ12:10)、その期待は中間時代のユダヤ人たちの期待でもありました。
これらのことを述べる預言者の言葉は、偽りの礼拝である偶像礼拝からきよめられ、 主のものとされるという期待を伴っておりました (イザ44:5,8-9,エゼ36:25)ですから「そういう時が来ます」という表現は、こうした預言の成就を示唆しているのであります。そこで、もう一度礼拝の話に戻りますと、礼拝を献げるべき神様について、よく知りませんと、あるいは正しく知りませんと、更には一部分しか知らないでは、 自分たちなりの仕方、考え方での礼拝になったり、神礼拝など不必要だと言う風になってくるのであります。イエス様が「あなたがたは知らないで礼拝しています」 と言われたのも、その事を指していると言えましょう。
神様はこんな方だろうというあいまいな理解で、その神様を自分流に拝んでも、神様を礼拝したことにはなりません。また人はよく、真心を持って神様を礼拝すれば、それで良いと言いますが、しかしそれでも神様を正しく知らなければ、その真心も見当違いの方角にむいていることになるのであります。ですから、先ず神様を正しく知る必要があります。イエス様は、真の神様を父として示しておられます。またパウロは、神を「アバ,父」と呼ぶのは、御霊によってである。子たる身分を授ける霊、御子の霊が与えられているからだと述べています(ロマ8 :15,ガラ4 :6 )。更にはヨハネの場合も,「霊とまことによって父を礼拝する」という表現を用いて、「神を礼拝する」とは言っていません。
すなわち、神から与えられる霊が、神を父と呼ばせ、神から与えられる霊によって生れた者は、神の子供として神を父と呼ぶ礼拝をするというのです(1:12、3:5)。人間の側のまことである前に、御子イエス様の内に真は満ちており、御子イエス様によって実現するものであります(1:14,17)私たちは、イエス・キリストによって、 真の神様を正しく知ることが出来るのです。真の神様を父なる方として崇め、礼拝するには、その子なる神イエス・キリストを通してだけ出来ることなのです。真の神様は霊であられますので、神様を礼拝するには、神様に受け入れられる正しい霊の思いで崇めるのでなければなりませんし、それには、イエス様の救いのお働きで、私たちが罪から赦され救われていなければならないのです。
以前ヨハネの3章で見ましたように、その救いを通して、新しい命をいただいた人が、神に受け入れられる新しい霊の人として、神を正しく礼拝できるようになるのです。神様はまた真理であり、真実な方です。従って私たちの礼拝も、偽りではなく真実な礼拝であり、真理による礼拝であることが大切です。神への正しい礼拝として、真理であられるイエス・キリストによって献げる礼拝を神様は求めておられます。人は真の神様を、正しく礼拝しなければなりません。そのためには、救い主イエス・キリストによるほかはないと聖書は語りかけます。
聖書は、礼拝されなければならない真の神様について、どのようにその真の神様を礼拝しなければならないか教えています。そして真の礼拝のための道として、主イエス・キリストについて示しているのが唯一聖書なのであります。ここに登場していますサマリヤの女性が、キリストと呼ばれるメシヤが来られる事を知っていますと言ったのは、曲がりなりにも聖書を知っていたからであります。イエス様は、その女性に対して、「あなたと話しているこのわたしがそれです」と言われました。そして、真の礼拝が成される道が開かれたことを明らかにされたのでした。これを聞いた女性は、どんなに驚いた事でしょうか。罪の中を歩みながらも、メシヤの来臨のことを聞きながら待っていた。そして、その待っていた方が目の前におられる。もはや、そう知った彼女がじっとしてはおれなかったのは、分かるような気が致します。
私たち信仰者も、もっともっとイエス様を知って、真の神様を正しく礼拝し続けたいものです。あるいは、まだ信仰によってイエス様による救いの恵みを受け入れておられない方は、真の神様に霊と真の礼拝を献げるようになっていただきたい。そのためには、聖書をもっともっとよく読んでいただきたい、そのように願っております。
2004年5月30日(日) 「まことの礼拝」 ヨハネ4:16-26 竹口牧師
先回は4章7節から15節において、水の話をしました。水と言いましても、単なる水ではなく、生ける水であり、永遠のいのちへの水の事でありました。最初、イエス様は、ユダヤからガリラヤに行かれる途中であり、それもユダヤ人達は避けて通る所でありますサマリヤを通られた。そして、そのサマリヤのスカルという所にありますヤコブの井戸、そこで休んでおられて、一人の女性が水を汲みにやってきた。その時のイエス様と一人の女性との会話を見たのでありました。
イエス様が、「この水を飲む者は誰でもまた渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」とこう言われますと、それを聞いた女性は「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」とこのように言った所で先回は終わりました。今回の話は、その次の16節から始まるのでありますが、その前に、この最後の部分15節の女性が言った言葉は、果たして、どんな意味が含まれていたのか、その所から、入っていきたいと思います。
ある人はこう言う風に言っています。「ここで彼女の言っている言葉は、どのようにも取れる言い方です。『そんなに便利な水があるものなら、どうぞそれを私に下さい』と皮肉混じりに言っているとも取れますし、また、「今まで嫌な思いをしながら、 他の人と顔を合わせるのを避けて、水を汲みに来ていたのに、もしもそんなに便利な水があるなら、どうぞそれを私にください」と懇願しているとも取れます。」とであります。
昼間の旅人が、しかも井戸のそばに座って休んでいる。そして、「わたしに水を飲ませて下さい」と言われるその人に対して、てっきり水の話だと思ったら、いつの間にか信仰の話になっていた。そこであのような15節の言葉になったのだろうと思うのですが、その女性の言葉が、皮肉にせよ、懇願にせよ、いずれにしても、今日の会話からは、この女性の意識が一変する大事な場面であります。つまり、彼女の人生そのものが大きく変わろうとするのでありますから、非常に大きな転換点であり、それはまた、人の人生とは、どこでどうなるか分からない、まさに、人生は、出会いで決まるというのがぴったりの所であります。
彼女の15節の言葉に対してイエス様はこう言われました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」すると彼女は言うのです。「私には夫はありません。」それに対してイエス様は「私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことは本当です。」と言われました。これを聞いた女性は、本当にびっくりしたに違いありません。と同時に、次の19節では、イエス様のことを預言者とも言うようになるのであります。
最初に会った時は、「ユダヤ人がサマリヤ人の私に話しかけるなんて、一体、この人はどういう人だろう」くらいにしか感じていませんでした。しかし、ことここに至っては、ただの人ではないと分かった事でしょう。サマリヤ人が、聖書としている物の中で言われている人物、つまり、私たちが現在持っている聖書の中で、創世記から始まって申命記までの五つ書、その中で、もしかしたら最後の申命記の18章18節のことから彼女が「預言者」と言ったとするなら、これは実に驚くべき事だろうと思います。そこには、こう書いてあるからです。
主がモーセに言われた言葉としてですが、「わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。」とあるからです。しかし仮に、彼女がそのように、聖書から感じたのではなかったとしても、自分の私生活を全部言い当てたそのイエス様に対して、この人は、一体どういう人なのだろう。 預言者以外には考えられない、そのように思って言ったとしても、不思議ではありません。それと共に、少なからず自分の罪について痛みを感じたのではないだろうかと思うのです。
なぜなら、20節で彼女はこう言っているからです。「私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」と、このように礼拝という言葉を口にしているからです。とっさに出てきた言葉とは言え、サマリヤ人とユダヤ人との礼拝する場所の違い、それを明確に言う事ができる。その彼女の事を考えてみますときに、あながち、全く神を知らず、自由気ままに、自分の欲するままに、次から次へと夫を代え、楽しんでいる女性というのではなく、自分の罪に対する意識を持ちながらも、それから抜け出せないでいた、そういう女性ではなかったかと私は思うのであります。
イエス様は、彼女の罪をすべてご存じでありましたし、ですから、彼女の現状を知って、それを語られましたが、こんにちの、この日本において、つまり、外国においてではなく、私たちのこの教会を尋ねて来られる方々のことを考えます時に、さまざまな問題を抱えておられる事が多いのであります。そして、それらをお伺いしているうちに、お金とか、人間関係とか、健康とか、さまざまな問題がありますが、結局の所、その根本に横たわっているのは、罪の問題であり、それを解決して下さるのはイエス様だけである。そのように導かれて行くのであります。そして、それを認めて、イエス様に任せられるかどうかへと進みます。イエス様とは、どういうお方か。そして、自分の問題に対して、解決を与える事ができるのか。その人が、問われる場面となるのであります。
ここの聖書の場合もそうですが、自分の素姓をすべて言い当てるこの人は、一体何者か。預言者に違いない。とすれば、今の私の罪の生活のすべてを知られている。その事に気付かされた時、その導きを喜んで受け入れ、悔い改めへと導かれるかどうかにかかって来るのであります。そして、真の神礼拝へと導かれる時、その人は大きく変えられて行くと言えましょう。真の神礼拝をするにはどうしたらいいのか、彼女は20節でこう言います。「私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」
この女性にとって罪が指摘された時、神礼拝の場所が気になったようであります。罪を犯した者は、神様の前に悔い改めが必要であるからです。十戒の一つ、一つを知っている人なら、自分の生活のすべてを知っているお方は、私の罪のすべてをも知っておられる、そして罪赦される事の必要を覚える瞬間でもあります。そこで彼女は、ユダヤ人とサマリヤ人との礼拝の場所の違いをイエス様に聞いたのでありましょう。 「私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが…、」とであります。
ところで、ここでちょっと歴史的な事を申し上げますと、紀元前4世紀頃から、サマリヤ人は、エルサレム神殿に対抗してゲリジム山に神殿を建てて、そこで礼拝を献げておりました。そこで一体、どちらが正しいのかと言う思いを彼女は持ったのでありましょう。ゲリジム山なのかエルサレムなのかとです。彼女が信仰について考えた時、 日頃耳にしていた事から疑問を感じたと思われます。サマリヤ人は、ユダの人々が捕囚から帰って来ても、サマリヤ人との行き来をしなかったために、今も言いましたように、ゲリジム山に神殿を建てて、そこで礼拝をしていました。更には、彼らはモーセ五書しか持っておらず、しかも、最初の方で、その五書とは創世記から、申命記までのことを指すと申し上げましたが、正確に言いますなら、その中の何か所かは書き替えられていますので彼等の物は、サマリヤ五書ともいわれるものであります。
たとえば、アブラハムが、その子イサクを献げたのは、このゲリジム山であったとか、というふうにであります。また、彼等がエルサレムに対抗してゲリジム山で礼拝をしているものですから、紀元前128,9 年には、ユダヤのヨハネ・ヒルカノス王は、これを神への冒涜ととり、怒って、サマリヤを攻め、ついにはゲリジム山上の神殿を焼き払ってしまいました。しかし、それでも、礼拝はそこで続いておりました。ですから、20節のような彼女の言葉になったのでありましょう。彼女のその問いには当然、イエス様はユダヤ人ですから「エルサレム神殿で礼拝するのが正しい」という答えが返ってくると考えたかどうかは分かりませんが、実際は、そうではありませんでした。
21節以下でこう言われます。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」と、こう言われました。
このイエス様のお言葉には、実に大切な事が入っているのであります。それは、私たちは毎週、週の初めの日に集まって、公同の礼拝を持っています。それも、エルサレムにおいてではなく、日本の、東京の、目黒区の、八雲の地で礼拝しているのであります。年に1度は必ずエルサレムで礼拝を献げなければならない、あるいは献げましょう、とは言っておりません。なぜでしょうか。イエス様のお言葉の通りであります。 「あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。」それが今の、この時だからであります。また誰を礼拝すべきかは、22節でそのヒントが与えられています。救いはユダヤ人から出るという言葉にあります。また、23、24節では、どういう姿勢で礼拝をお献げしなければならないかが述べられています。「霊とまことによって」であります。
ところで、礼拝と一口に言いましても、こんにち、さまざまな礼拝があるのはご存じの通りであります。一般的には、主の日の礼拝を、礼拝と呼ばれますが、その他には、家庭礼拝もありますし、個人で持つ一つの礼拝、デボーションと言われるものもありますし、教会で何かの集まりをする時、礼拝をもってから始めるという事もあります。更には、クリスチャンの経営する会社であるなら、もしかしたら礼拝をもってから仕事が始まる場合もありましょう。あるいは、日曜日が仕事という職業の方もおられますので、月曜礼拝とか、木曜日礼拝とか、週日のどこかで礼拝日を設けている教会もあります。
がしかし、十戒の教えのひとつであります、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」とは、一週間のうち一度は必ず礼拝をお献げしなさい。それも、自分の一番都合のよい時に礼拝しないと言う事ではありません。礼拝の日はあくまでも定まっていて、 その日は、他の日に取って代わるものではありません。ですから、そのように広く解釈していく事は正しくありませんが、まあ、それはともかくとしまして、イエス様はここで、霊とまことによって礼拝する事の大切さを述べておられるのです。罪ある者が、その罪をそのままに隠しておいて、神様の御前に礼拝をお献げできるものではありません。罪を認め、悔いた心で御前に出る必要があるのです。
ですから、彼女はイエス様のお言葉に対して25節でこう言っています。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、 一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」とであります。真の礼拝とは(イザヤ1:11,ホセヤ6:6,アモス5:21におけるような)単なる祭儀的外面的礼拝に対する反対ではありませんし、祭儀の内面化でもありません(詩51:16‐17)。
先回見ました7−15節の「生ける水」を巡る議論、及び、これから先で見ます7:37‐39に出てきます「生ける水」、すなわち「御霊」も視野に入れて考えますなら、神の霊が与えられるという脈絡の中で、新しい礼拝論が論じられていることにもなるのであります。終りの日に、神の霊が注がれるという期待は、旧約聖書の預言者たちの期待であり(イザヤ44:3,エゼキエル36:24‐27,ヨエル2:28-29,ゼカリヤ12:10)、その期待は中間時代のユダヤ人たちの期待でもありました。
これらのことを述べる預言者の言葉は、偽りの礼拝である偶像礼拝からきよめられ、 主のものとされるという期待を伴っておりました (イザ44:5,8-9,エゼ36:25)ですから「そういう時が来ます」という表現は、こうした預言の成就を示唆しているのであります。そこで、もう一度礼拝の話に戻りますと、礼拝を献げるべき神様について、よく知りませんと、あるいは正しく知りませんと、更には一部分しか知らないでは、 自分たちなりの仕方、考え方での礼拝になったり、神礼拝など不必要だと言う風になってくるのであります。イエス様が「あなたがたは知らないで礼拝しています」 と言われたのも、その事を指していると言えましょう。
神様はこんな方だろうというあいまいな理解で、その神様を自分流に拝んでも、神様を礼拝したことにはなりません。また人はよく、真心を持って神様を礼拝すれば、それで良いと言いますが、しかしそれでも神様を正しく知らなければ、その真心も見当違いの方角にむいていることになるのであります。ですから、先ず神様を正しく知る必要があります。イエス様は、真の神様を父として示しておられます。またパウロは、神を「アバ,父」と呼ぶのは、御霊によってである。子たる身分を授ける霊、御子の霊が与えられているからだと述べています(ロマ8 :15,ガラ4 :6 )。更にはヨハネの場合も,「霊とまことによって父を礼拝する」という表現を用いて、「神を礼拝する」とは言っていません。
すなわち、神から与えられる霊が、神を父と呼ばせ、神から与えられる霊によって生れた者は、神の子供として神を父と呼ぶ礼拝をするというのです(1:12、3:5)。人間の側のまことである前に、御子イエス様の内に真は満ちており、御子イエス様によって実現するものであります(1:14,17)私たちは、イエス・キリストによって、 真の神様を正しく知ることが出来るのです。真の神様を父なる方として崇め、礼拝するには、その子なる神イエス・キリストを通してだけ出来ることなのです。真の神様は霊であられますので、神様を礼拝するには、神様に受け入れられる正しい霊の思いで崇めるのでなければなりませんし、それには、イエス様の救いのお働きで、私たちが罪から赦され救われていなければならないのです。
以前ヨハネの3章で見ましたように、その救いを通して、新しい命をいただいた人が、神に受け入れられる新しい霊の人として、神を正しく礼拝できるようになるのです。神様はまた真理であり、真実な方です。従って私たちの礼拝も、偽りではなく真実な礼拝であり、真理による礼拝であることが大切です。神への正しい礼拝として、真理であられるイエス・キリストによって献げる礼拝を神様は求めておられます。人は真の神様を、正しく礼拝しなければなりません。そのためには、救い主イエス・キリストによるほかはないと聖書は語りかけます。
聖書は、礼拝されなければならない真の神様について、どのようにその真の神様を礼拝しなければならないか教えています。そして真の礼拝のための道として、主イエス・キリストについて示しているのが唯一聖書なのであります。ここに登場していますサマリヤの女性が、キリストと呼ばれるメシヤが来られる事を知っていますと言ったのは、曲がりなりにも聖書を知っていたからであります。イエス様は、その女性に対して、「あなたと話しているこのわたしがそれです」と言われました。そして、真の礼拝が成される道が開かれたことを明らかにされたのでした。これを聞いた女性は、どんなに驚いた事でしょうか。罪の中を歩みながらも、メシヤの来臨のことを聞きながら待っていた。そして、その待っていた方が目の前におられる。もはや、そう知った彼女がじっとしてはおれなかったのは、分かるような気が致します。
私たち信仰者も、もっともっとイエス様を知って、真の神様を正しく礼拝し続けたいものです。あるいは、まだ信仰によってイエス様による救いの恵みを受け入れておられない方は、真の神様に霊と真の礼拝を献げるようになっていただきたい。そのためには、聖書をもっともっとよく読んでいただきたい、そのように願っております。
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