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2004年6月13日(日) 「キリストに会う」  ヨハネ4:27-30   竹口牧師

今から11年前の7月に40日間のイスラエル研修旅行に行かせていただきました。真夏でしたので本当に暑い毎日の学びでありました。この日本では、皆さんも毎朝、何らかの方法で天気予報を見られてから、出かける格好、あるいは傘を持っていくかどうか決めておられることでしょう。私は、教会に自転車で通っていますので、その日、出かけるときに、レインコートが必要か、長靴ででかけた方がよいかを考え、空を見ながら出かけております。ところで、イスラエルは、夏が乾期、冬が雨期であります。乾期は6月半ばに始まり、9月半ばまで続きます。この間一滴も雨が降りません。毎日毎日、判で押したように晴天が続くのであります。

ですから、乾期に入りますと天気予報はいりません。その事が、そこに行って初めて体で分ったのでありました。と同時に、水の補給が体には実に大切であることを、何度も聞かされたものでありました。一方、冬に入りそれを雨期とは言いましても、日本の梅雨のように毎日じとじととうっとおしい雨が降るのとは違いまして、2−3日雨が降ったかと思えば、次は2−3日晴天が続くのであります。

ところで、今朝見ます聖書箇所の場面は、いつの季節かは書いてありませんので分かりませんが、イエス様がユダヤからガリラヤに行かれる途中で、疲れを覚えられ、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。そこに一人の女性が水を汲みに来たということですから、雨季のその始めの雨と後の雨、あるいは雨期の中のどこかの当たりと言うより、私がイスラエルに行かせていただいた時のような、真夏の、暑い日々が続いている、そんな雰囲気を感じながら私はここの箇所を読んでいるのですが、本当はどうでしょうか。

イエス様は、このサマリヤの女性に会うために、わざわざサマリヤを通っていかなければならなかったとヨハネが書いていましたように、イエス様は意図的に、その道を選ばれ、女性と会われたのでありました。勿論、イエス様も、サマリヤのその女性も初対面でありましたが、すべてをご存じであられるイエス様は、その女性に会うために、サマリヤを通って行かれたのでありました。話は、イエス様が、その女性に水を求められた事から始まり、気付いたら、礼拝する場所は、サマリヤ人の行なっているゲリジム山なのか、それとも、ユダヤ人の言うエルサレムなのかという話まで発展しました。

イエス様は、そう言った話に入る前に、「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい」と言われ、彼女がどういう者であるかをすべて言い当てられたのでした。
弟子たちはこの時、食物を買いに町に出かけておりまして、戻ってきてみますと、何やらその女性と話しておられるので、不思議に思ったと今日の箇所の27節にはでております。また弟子たちは「『何を求めておられるのですか。』とも、『なぜ彼女と話しておられるのですか。』とも言わなかった。」とあるのであります。

弟子たちは、そっと二人を不思議そうに見守っていたのでありましょう。ユダヤ人とサマリヤ人とは仲が悪く、行き来をしない。更には、ユダヤ人が日常生活において、
特に戸外で女性と話をすることは悪い事と教えられていたようですので、弟子たちも、少しびっくりしていたのではないかと思うのであります。ところで、28節を見ますと、これまた不思議なことが書いてあるのであります。「女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った」とであります。その節の何が不思議かと言いますと、この女性が水を汲みに来ながら、なぜ水がめを置いて行ったのか、なのであります。

確かに、彼女は水を汲みにヤコブの井戸と言われる所に来ました。だからこそ、水がめを持ってきたのであります。井戸の位置が定かではありませんので、なんとも言えませんが、一般的には、朝晩の涼しいうちに水汲みを済ませるのが習慣ですから、人目を避けるようにして、昼間、誰も水を汲みに来ないような時間を選んで来ていて、そんな時に、肝心の水がめを置いて行ってしまったらなんにもならないと思うのですが、そこで、なぜだろうかと私は考えるわけであります。恐らく、大抵の方は、その先の彼女の行動からして、こう思われるのではないでしょうか。

ユダヤ人がサマリヤ人に話しかけてきた。それも、その話の素晴らしさから、もしかしたら、われを忘れてしまったのではないか。あるいは、話に夢中になって水がめの事をつい忘れたのではないか。という風にであります。もしかしたらそうなのかも知れません。でも、ある先生は、ここの所を別のような見方をしていると言って、紹介しておられました。それは、こうであります。

なぜ、水がめを置いていったかは、福音書には書いていない。しかし、私は主イエスに飲んでいただきたかったのだと思っている。主と話している間に、この女は、自分の水がめに自分がもって来たつるべを使って水を満たしたかもしれない。本当は、その水がめを抱えて町に帰って行って人に話をすればよい。そのために、その井戸に来たのですから。そんなに簡単に忘れるわけがない。とすれば、どういうことであろうか。あの人は私に「水を飲ませて下さい」と言われた。私は、あなたのようなユダヤ人と、私のようなサマリヤの女と、そんな関係があるはずはないと断りました。しかし、それにも拘らずあなたは、私とこのような会話を積み重ねて下さいました。そう思った女は、ついに主イエスを受け入れた。そして、どうぞ満ち足りるほどにお飲みいただきたいと、そこに水がめを置いて行く。ちょうど、そこに弟子たちが食物を持って帰ってきたので、主イエスは、心ゆくまで渇きを癒されたのかもしれないとであります。

何の証明もできませんが、この女性にとって、イエス様との出会いは実に素晴らしかったことだけは確かであります。そのことが、この井戸のほとりで起こったのだ。井戸のほとりに残された水がめは、女がイエスを主として迎え入れたしるしなのである。
と、まことに素晴らしい話なのであります。ついうっとりと聞き入ってしまいそうであります。彼女が今までしてきた行為は、5人もの男を換え、今は6人目の男と暮らしている。そんな恥ずかしいことなど、すべてこの人は知っている。もしかしたら、この人は預言者なのだろうかとまで考えるに至った。ですから水がめを置いていったのは、イエス様に水を飲んでいただこうとあえて水がめを置いて行ったのか、それともイエス様のその能力に驚いて、あるいは我を忘れて、夢中になってそこを去ったといろいろ考えられるのであります。

まあ、しかし実際は、大変慌てて行ったので、というのが真実でしょう。いずれにせよ、ここで大切なのは、その点ではありませんで、実は、彼女がイエス様の所を去ったその後の行動にあるのであります。人さまから見れば、恥ずかしいような行動、生活、歩みをしていたのに、そして、それゆえに、人目を避けるようにして、もしかしたら水を汲みに来ていたのかもしれないその女性が、今や、人目を避けるような恥ずかしさをすべて忘れたかのように、町へ行き、人々に語ったと言う行動であります。
29節でこう言ったと書いてあります。

「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」この彼女の言葉、そして取った行動には驚くべき変化があると私は思うのです。彼女が町に行ったのは、自分を全く変えて下さったイエス様を他の人達に是非伝えたい、その思いが心の中からわき出た故の行動だと思います。もはや以前のように人々を恐れたり、人目を避けたりする彼女ではない。自分の人生を全く変えられ、消極的な生き方の人生から、180度変えられた、新しい人生、積極的に救い主を伝える人に変えられた、そういう女性に変えられての行動であったと言えましょう。

まさに、第2コリント5章17節の言葉がぴったりであります。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」新しく変えられた人は、もはや以前のようにではなく、新しい歩みを始めるのであります。イエス様が変えて下さるとは、そういうことであります。私自身が、その経験をさせていただきましたし、皆さんの中にも、そういう体験をなさったかたもおられましょう。

ただ、ここで注意をしておかなければならないことは、そういう体験をしなければ救われていないかと言うと、実はそうではありません。この点も実に大切ですので、心に留めておいていただきたいのです。母親のお腹にいる時からみ言葉を聞き、生れ育って来られた方には、神様の存在、イエス様が救い主であること、また、この方によって以外に、人生の生きる道はない、そういうことがしっかりと染み付いておられる方には、これといった変化を経験されなくても不思議ではありません。聖書で言われていることが、すべて当然のように受け取られる。これもまた、実に幸いな人生であります。

ですから、ここで言えます事は、彼女のように正しく福音を聞いてこなかった場合、
あるいは、今まで一度も福音を聞いて来なかった人の場合、更には、生まれた時から福音を聞いて来た人であっても、その救いに与かった人は、その真理を誰かに伝えずにはおれない。そういう伝える喜びと言うものを与えられると言う事でしょう。これは、真理に触れた人は誰でもそのように導かれるものだといえましょう。今回登場しました女性もその一人であったわけであります。

神様から救いの恵みを頂いた時、その素晴らしさのゆえに、黙ってはおれなかった。
語りたくて仕方がなかった。ですから、町に行ってありのままを話したのでありました。人見知りの激しい私でも、誰彼と無く語りかけるものとなったのであります。
あるいは、神様のご用の為になるなら、どんなことでもして差し上げたい。神様の下さっている賜物を用いて自分をささげたい。そのような思いに変えられたのであります。それまでは、自分の為に生きてきました。それまでは、自己中心的に生きてきました。日曜日に教会に行かなければならない。これは、自分の時間が削られるように感じたものです。

しかし、神様によって変えられますと、少しでも長く教会にいたい。何かできることがあったらしたい、そう変えられるのです。主に用いていただくことが、喜びとなるのであります。彼女は、イエス様から、聖書で言われているメシヤとはこのわたしだよ。だから、そのことを、今から出て行って伝えて来てくれとは言われませんでした。彼女は嫌々ながらそこを去ったのではなく、喜んで去って行ったのです。イエス様のことを伝えるためにです。彼女の言っていることが、嘘か本当か、信じるに値する言葉か、それは、それを聞いた人が判断する事です。ですから彼女はこう言っているのです。「来て、見て下さい」とであります。私の言う事が本当かどうか疑うのでしたら、どうぞ、来て、そして見て下さい。そして自分で確かめて下さいと言わんばかりであります。

そういえば、このヨハネの福音書の1章を見ましたときに、同じような場面があったことを思い出します。ピリポとナタナエルという人が登場し、その二人の会話となんだかそっくりのような気がします。彼らは1章45、46節でこういう会話をしておりました。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」するとナタナエルはピリポに言いました。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」するとピリポはまた言いました。「来て、そして、見なさい。」そして、このナタナエルもまた、イエス様に会うことになるのです。まるでイエス様がナタナエルの事を見ておられたかのように、その行動の一部を言われて、驚き、信じるのであります。

ところで、今日の聖書箇所の29節で、新改訳では、この女の人の最後の方の言葉を
「この方がキリストなのでしょうか」と訳されていますが、これでは、「この方がキリストなのでしょうか、どうなのでしょうか」という、何か、あまりにも自信のなさそうな言葉のように訳されていますが、彼女の行動からすれば、そうではないことがお分かりでありましょう。30節の所では、彼女の言葉を聞いた町の人達は、イエス様の方にやってきたことが出ていますので、そんなあやふやなことを言ったとは思えません。むしろ、確信を持って語っていると言えましょう。ですから別訳では「もしかしたら、この方がメシヤかもしれません」と言う風に訳されています。そして、その方がギリシャ語の本分の単語全部が訳されていて正しいのであります。

従って、こういう風に訳すのはどうだろうかとある先生は言われます。「この方こそキリストなのではないでしょうか」(否、そうに決まっているという意味が含まれているのです)だからこそ、町の人達は確かめにいくことになったと言えましょう。一人の女性が、この様に変えられたように、人がイエス様に本当に出会いますと、この様に変えられます。生き方そのものが、今までの生き方と違ってくるのであります。
それはまた、当然と言えば当然であります。

それまで、イエス様なしの生活をしていたのが、イエス様と共に歩むものに変えられるのですから、過去の自分はなくなるのであります。イエス様のお言葉に真理があると分かったとき、その真理にお従いしたいと言う思いに変えられるから、自分中心の考えは、後ろに下がっていくわけであります。ですから、嫌々ながらではなく、喜んで従うことになります。この書の著者でありますヨハネ、それにもう一人アンデレは、バプテスマのヨハネの弟子でありました。その二人が、イエス様にまず従うものとなりました。さらにそのアンデレの勧めで兄弟ペテロもイエス様に会い信じます。次の日には、イエス様が「わたしに従ってきなさい」とピリポに言われますと、ピリポもまたイエス様にそのままお従いするものとなりました。

そして先ほど見ましたようにそのピリポの勧めでナタナエルもイエス様に会い信じたのでありました。この様にして、イエス様に会った人は、確実に、その生き方が変えられていくのであります。聖書を読みますと、他にも多くの方がイエス様にお会いし
その人生が180度変えられたのを見ることができます。マタイは、取税人という当時嫌われた職業ではありましたが、イエス様の招きに、ただちに従いましたし、取税人のかしらであったザアカイという人も変えられました。そしてまた、何と言ってもキリスト教の布教に大きく貢献したパウロは、見逃す訳にはいきません。

彼は、キリスト信仰者を最初は迫害し、死にまでも至らせるほど熱心でありましたが、
しかし、彼もまた、キリストに出会い、全く変えられたのでした。神さまは、どの様な人でも、ご自分のご計画の中で選ばれた人は、必ずその人を変えて下さり、その回りに多くの良い影響を与えるものとして下さるのです。私たち一人一人が今一度、イエス様にお会いしたときのことを思い出し、いつまでも新鮮な気持ちでイエス様の福音を伝え続けていきたいものです。

2004年6月13日(日) 「キリストに会う」  ヨハネ4:27-30   竹口牧師

今から11年前の7月に40日間のイスラエル研修旅行に行かせていただきました。真夏でしたので本当に暑い毎日の学びでありました。この日本では、皆さんも毎朝、何らかの方法で天気予報を見られてから、出かける格好、あるいは傘を持っていくかどうか決めておられることでしょう。私は、教会に自転車で通っていますので、その日、出かけるときに、レインコートが必要か、長靴ででかけた方がよいかを考え、空を見ながら出かけております。ところで、イスラエルは、夏が乾期、冬が雨期であります。乾期は6月半ばに始まり、9月半ばまで続きます。この間一滴も雨が降りません。毎日毎日、判で押したように晴天が続くのであります。

ですから、乾期に入りますと天気予報はいりません。その事が、そこに行って初めて体で分ったのでありました。と同時に、水の補給が体には実に大切であることを、何度も聞かされたものでありました。一方、冬に入りそれを雨期とは言いましても、日本の梅雨のように毎日じとじととうっとおしい雨が降るのとは違いまして、2−3日雨が降ったかと思えば、次は2−3日晴天が続くのであります。

ところで、今朝見ます聖書箇所の場面は、いつの季節かは書いてありませんので分かりませんが、イエス様がユダヤからガリラヤに行かれる途中で、疲れを覚えられ、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。そこに一人の女性が水を汲みに来たということですから、雨季のその始めの雨と後の雨、あるいは雨期の中のどこかの当たりと言うより、私がイスラエルに行かせていただいた時のような、真夏の、暑い日々が続いている、そんな雰囲気を感じながら私はここの箇所を読んでいるのですが、本当はどうでしょうか。

イエス様は、このサマリヤの女性に会うために、わざわざサマリヤを通っていかなければならなかったとヨハネが書いていましたように、イエス様は意図的に、その道を選ばれ、女性と会われたのでありました。勿論、イエス様も、サマリヤのその女性も初対面でありましたが、すべてをご存じであられるイエス様は、その女性に会うために、サマリヤを通って行かれたのでありました。話は、イエス様が、その女性に水を求められた事から始まり、気付いたら、礼拝する場所は、サマリヤ人の行なっているゲリジム山なのか、それとも、ユダヤ人の言うエルサレムなのかという話まで発展しました。

イエス様は、そう言った話に入る前に、「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい」と言われ、彼女がどういう者であるかをすべて言い当てられたのでした。
弟子たちはこの時、食物を買いに町に出かけておりまして、戻ってきてみますと、何やらその女性と話しておられるので、不思議に思ったと今日の箇所の27節にはでております。また弟子たちは「『何を求めておられるのですか。』とも、『なぜ彼女と話しておられるのですか。』とも言わなかった。」とあるのであります。

弟子たちは、そっと二人を不思議そうに見守っていたのでありましょう。ユダヤ人とサマリヤ人とは仲が悪く、行き来をしない。更には、ユダヤ人が日常生活において、
特に戸外で女性と話をすることは悪い事と教えられていたようですので、弟子たちも、少しびっくりしていたのではないかと思うのであります。ところで、28節を見ますと、これまた不思議なことが書いてあるのであります。「女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った」とであります。その節の何が不思議かと言いますと、この女性が水を汲みに来ながら、なぜ水がめを置いて行ったのか、なのであります。

確かに、彼女は水を汲みにヤコブの井戸と言われる所に来ました。だからこそ、水がめを持ってきたのであります。井戸の位置が定かではありませんので、なんとも言えませんが、一般的には、朝晩の涼しいうちに水汲みを済ませるのが習慣ですから、人目を避けるようにして、昼間、誰も水を汲みに来ないような時間を選んで来ていて、そんな時に、肝心の水がめを置いて行ってしまったらなんにもならないと思うのですが、そこで、なぜだろうかと私は考えるわけであります。恐らく、大抵の方は、その先の彼女の行動からして、こう思われるのではないでしょうか。

ユダヤ人がサマリヤ人に話しかけてきた。それも、その話の素晴らしさから、もしかしたら、われを忘れてしまったのではないか。あるいは、話に夢中になって水がめの事をつい忘れたのではないか。という風にであります。もしかしたらそうなのかも知れません。でも、ある先生は、ここの所を別のような見方をしていると言って、紹介しておられました。それは、こうであります。

なぜ、水がめを置いていったかは、福音書には書いていない。しかし、私は主イエスに飲んでいただきたかったのだと思っている。主と話している間に、この女は、自分の水がめに自分がもって来たつるべを使って水を満たしたかもしれない。本当は、その水がめを抱えて町に帰って行って人に話をすればよい。そのために、その井戸に来たのですから。そんなに簡単に忘れるわけがない。とすれば、どういうことであろうか。あの人は私に「水を飲ませて下さい」と言われた。私は、あなたのようなユダヤ人と、私のようなサマリヤの女と、そんな関係があるはずはないと断りました。しかし、それにも拘らずあなたは、私とこのような会話を積み重ねて下さいました。そう思った女は、ついに主イエスを受け入れた。そして、どうぞ満ち足りるほどにお飲みいただきたいと、そこに水がめを置いて行く。ちょうど、そこに弟子たちが食物を持って帰ってきたので、主イエスは、心ゆくまで渇きを癒されたのかもしれないとであります。

何の証明もできませんが、この女性にとって、イエス様との出会いは実に素晴らしかったことだけは確かであります。そのことが、この井戸のほとりで起こったのだ。井戸のほとりに残された水がめは、女がイエスを主として迎え入れたしるしなのである。
と、まことに素晴らしい話なのであります。ついうっとりと聞き入ってしまいそうであります。彼女が今までしてきた行為は、5人もの男を換え、今は6人目の男と暮らしている。そんな恥ずかしいことなど、すべてこの人は知っている。もしかしたら、この人は預言者なのだろうかとまで考えるに至った。ですから水がめを置いていったのは、イエス様に水を飲んでいただこうとあえて水がめを置いて行ったのか、それともイエス様のその能力に驚いて、あるいは我を忘れて、夢中になってそこを去ったといろいろ考えられるのであります。

まあ、しかし実際は、大変慌てて行ったので、というのが真実でしょう。いずれにせよ、ここで大切なのは、その点ではありませんで、実は、彼女がイエス様の所を去ったその後の行動にあるのであります。人さまから見れば、恥ずかしいような行動、生活、歩みをしていたのに、そして、それゆえに、人目を避けるようにして、もしかしたら水を汲みに来ていたのかもしれないその女性が、今や、人目を避けるような恥ずかしさをすべて忘れたかのように、町へ行き、人々に語ったと言う行動であります。
29節でこう言ったと書いてあります。

「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」この彼女の言葉、そして取った行動には驚くべき変化があると私は思うのです。彼女が町に行ったのは、自分を全く変えて下さったイエス様を他の人達に是非伝えたい、その思いが心の中からわき出た故の行動だと思います。もはや以前のように人々を恐れたり、人目を避けたりする彼女ではない。自分の人生を全く変えられ、消極的な生き方の人生から、180度変えられた、新しい人生、積極的に救い主を伝える人に変えられた、そういう女性に変えられての行動であったと言えましょう。

まさに、第2コリント5章17節の言葉がぴったりであります。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」新しく変えられた人は、もはや以前のようにではなく、新しい歩みを始めるのであります。イエス様が変えて下さるとは、そういうことであります。私自身が、その経験をさせていただきましたし、皆さんの中にも、そういう体験をなさったかたもおられましょう。

ただ、ここで注意をしておかなければならないことは、そういう体験をしなければ救われていないかと言うと、実はそうではありません。この点も実に大切ですので、心に留めておいていただきたいのです。母親のお腹にいる時からみ言葉を聞き、生れ育って来られた方には、神様の存在、イエス様が救い主であること、また、この方によって以外に、人生の生きる道はない、そういうことがしっかりと染み付いておられる方には、これといった変化を経験されなくても不思議ではありません。聖書で言われていることが、すべて当然のように受け取られる。これもまた、実に幸いな人生であります。

ですから、ここで言えます事は、彼女のように正しく福音を聞いてこなかった場合、
あるいは、今まで一度も福音を聞いて来なかった人の場合、更には、生まれた時から福音を聞いて来た人であっても、その救いに与かった人は、その真理を誰かに伝えずにはおれない。そういう伝える喜びと言うものを与えられると言う事でしょう。これは、真理に触れた人は誰でもそのように導かれるものだといえましょう。今回登場しました女性もその一人であったわけであります。

神様から救いの恵みを頂いた時、その素晴らしさのゆえに、黙ってはおれなかった。
語りたくて仕方がなかった。ですから、町に行ってありのままを話したのでありました。人見知りの激しい私でも、誰彼と無く語りかけるものとなったのであります。
あるいは、神様のご用の為になるなら、どんなことでもして差し上げたい。神様の下さっている賜物を用いて自分をささげたい。そのような思いに変えられたのであります。それまでは、自分の為に生きてきました。それまでは、自己中心的に生きてきました。日曜日に教会に行かなければならない。これは、自分の時間が削られるように感じたものです。

しかし、神様によって変えられますと、少しでも長く教会にいたい。何かできることがあったらしたい、そう変えられるのです。主に用いていただくことが、喜びとなるのであります。彼女は、イエス様から、聖書で言われているメシヤとはこのわたしだよ。だから、そのことを、今から出て行って伝えて来てくれとは言われませんでした。彼女は嫌々ながらそこを去ったのではなく、喜んで去って行ったのです。イエス様のことを伝えるためにです。彼女の言っていることが、嘘か本当か、信じるに値する言葉か、それは、それを聞いた人が判断する事です。ですから彼女はこう言っているのです。「来て、見て下さい」とであります。私の言う事が本当かどうか疑うのでしたら、どうぞ、来て、そして見て下さい。そして自分で確かめて下さいと言わんばかりであります。

そういえば、このヨハネの福音書の1章を見ましたときに、同じような場面があったことを思い出します。ピリポとナタナエルという人が登場し、その二人の会話となんだかそっくりのような気がします。彼らは1章45、46節でこういう会話をしておりました。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」するとナタナエルはピリポに言いました。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」するとピリポはまた言いました。「来て、そして、見なさい。」そして、このナタナエルもまた、イエス様に会うことになるのです。まるでイエス様がナタナエルの事を見ておられたかのように、その行動の一部を言われて、驚き、信じるのであります。

ところで、今日の聖書箇所の29節で、新改訳では、この女の人の最後の方の言葉を
「この方がキリストなのでしょうか」と訳されていますが、これでは、「この方がキリストなのでしょうか、どうなのでしょうか」という、何か、あまりにも自信のなさそうな言葉のように訳されていますが、彼女の行動からすれば、そうではないことがお分かりでありましょう。30節の所では、彼女の言葉を聞いた町の人達は、イエス様の方にやってきたことが出ていますので、そんなあやふやなことを言ったとは思えません。むしろ、確信を持って語っていると言えましょう。ですから別訳では「もしかしたら、この方がメシヤかもしれません」と言う風に訳されています。そして、その方がギリシャ語の本分の単語全部が訳されていて正しいのであります。

従って、こういう風に訳すのはどうだろうかとある先生は言われます。「この方こそキリストなのではないでしょうか」(否、そうに決まっているという意味が含まれているのです)だからこそ、町の人達は確かめにいくことになったと言えましょう。一人の女性が、この様に変えられたように、人がイエス様に本当に出会いますと、この様に変えられます。生き方そのものが、今までの生き方と違ってくるのであります。
それはまた、当然と言えば当然であります。

それまで、イエス様なしの生活をしていたのが、イエス様と共に歩むものに変えられるのですから、過去の自分はなくなるのであります。イエス様のお言葉に真理があると分かったとき、その真理にお従いしたいと言う思いに変えられるから、自分中心の考えは、後ろに下がっていくわけであります。ですから、嫌々ながらではなく、喜んで従うことになります。この書の著者でありますヨハネ、それにもう一人アンデレは、バプテスマのヨハネの弟子でありました。その二人が、イエス様にまず従うものとなりました。さらにそのアンデレの勧めで兄弟ペテロもイエス様に会い信じます。次の日には、イエス様が「わたしに従ってきなさい」とピリポに言われますと、ピリポもまたイエス様にそのままお従いするものとなりました。

そして先ほど見ましたようにそのピリポの勧めでナタナエルもイエス様に会い信じたのでありました。この様にして、イエス様に会った人は、確実に、その生き方が変えられていくのであります。聖書を読みますと、他にも多くの方がイエス様にお会いし
その人生が180度変えられたのを見ることができます。マタイは、取税人という当時嫌われた職業ではありましたが、イエス様の招きに、ただちに従いましたし、取税人のかしらであったザアカイという人も変えられました。そしてまた、何と言ってもキリスト教の布教に大きく貢献したパウロは、見逃す訳にはいきません。

彼は、キリスト信仰者を最初は迫害し、死にまでも至らせるほど熱心でありましたが、
しかし、彼もまた、キリストに出会い、全く変えられたのでした。神さまは、どの様な人でも、ご自分のご計画の中で選ばれた人は、必ずその人を変えて下さり、その回りに多くの良い影響を与えるものとして下さるのです。私たち一人一人が今一度、イエス様にお会いしたときのことを思い出し、いつまでも新鮮な気持ちでイエス様の福音を伝え続けていきたいものです。

2004年6月20日(日) 「蒔く者、刈る者」  ヨハネ4:31-38   竹口牧師

イエス様はユダヤ人達が敬遠し、付き合わなかったサマリヤ人の所へ、あえて行かれました。それは、そこにも主によって救われる人達がいることをイエス様はご存じだったからでありました。イエス様がサマリヤの地、スカルという町に入られて、
そこにありますヤコブの井戸で腰を下ろして休まれている間に、弟子たちは、町に食事の買い出しに出かけました。イエス様は、その間に、水くみにやって来たサマリヤ人の女性と話をされていました。そのサマリヤ人の女性は、自分のしていることをすべて言われて驚き、その事を、町の人達に知らせに行ったと言う所で先回は終わりました。

イエス様とそのサマリヤの女性とが話をしているのを見た弟子達は、不思議に思いましたけれども、何を彼女に求めておられるのか、何を彼女と話しておられたのか、何も聞きませんでした。ただ、彼等の去った後で、自分たちが買ってきたものを差し出して、「先生。召し上がって下さい」と言いました。ところが、イエス様は、その弟子が差し出したものをすぐには口にされませんで、これまた不思議なことを言われたのでありました。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」と。そこで、当然ながら、弟子たちは思ったわけであります。「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」という風にであります。

ところがイエス様は、「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」と言われました。これは実に興味深いお言葉であります。イエス様にとって、父なる神さまの御心を行ない、その御業を成し遂げることは、義務でも快楽でもなく食物だと言われる。では、果たして、私たちはどうであろうかと考えるのです。ライルという人はこう言っています。「私たちは神のための働きをしているだろうか。どれほどわずかであるにせよ、神の御心を地上に実現するよう努力し、悪を退け、善を押し進めるようにしているだろうか。もししているなら、決して憶する事なく、力の限り、全身全霊をもってそうすることにしよう。隣人の魂を救うためなら何でも、持てる力を傾けて努力しよう。人々はあざ笑い、私たちを熱狂主義者と呼ぶかもしれない。世の人は、神のための奉仕以外の働きにおける熱心さを称賛し、信仰以外の事柄への熱意をほめる。だが、私たちは確信を持って行動をしよう。人々がどう考え、どう評価しようとも、イエス・キリストのたどられた道を歩いていこう」とであります。

そのような伝道の熱意と言うものを、私たちも、今、備え持っているのだろうかと感じるのです。もし、備え持っているとするなら、ライルの言うように、全身全霊でもって伝道の熱意を傾けて欲しいものです。また、マンネリ化して、力を失っているとしたら、イエス様によって力を充電していただきましょう。そして、福音を伝えることがあたかも、食物のように、三度の食事をするように、自然に行なえるようにならせていただこうではありませんか。

ところで、考えてみますと、イエス様のなさっておられることは、いつも何かのきっかけをつかんで、福音の話をされる、そういう伝道の方法を取られているように思います。ニコデモに対してされた話の仕方もそうでしたし、またサマリヤの女性に対しての話の仕方もやはりそうでした。更には、今回の弟子たちにもそうだといえましょう。今回は食事の時の食べる物を主題として、話し始められました。これは、イエス様の取られた一つの話し方であります。

私たちクリスチャンが交わす会話も、そのようであったらいいなあと思わされます。たとえば、誰かの事が話題になりましたら、その人の悪口、けなす言葉とか、失敗とかそういう話ではなく、いつのまにか聖書談義に発展し、互いに信仰を高め合うとか、伝道へと導いてく、そういう交わりでありたいと思うのです。ごく自然に、何気ない話や行動や、立ち振る舞いが、この世に対して証しとなるなら、それは、その人にとって食物と言う日常の補給と言えないでしょうか。そう言えるようになりたいものであります。

ところで、34節のイエス様の言われたお言葉を今回、もう一つ別の観点から見てみたいのです。イエス様は、ご自分の食物は、ご自分を遣わした方の御心を行ない、
その御業を成し遂げることだと言われましたが、食物は、食べるとその人の中で燃焼され、あるいは蓄積され、力となるものであります。とすれば、私たち信仰者にとって食物とは、イエス様のお言葉をそのまま適用するとするなら、神さまの御心を行ない、その御業を成し遂げることでありましょう。

しかし、実際のところは、イエス様とは違って私たちは、そんなにうまく全ての者が全部が全部行えるものではありません。成し遂げるというほどのものではありません。けれども、それが目標であることは確かであります。食物を食べなければ死にます。霊の食べ物を食べる時、力が与えられ、御業を行うことができるのであります。しかし、それは言うまでもなく、イエス様の行われる御業と、私たち信仰者が行なう御業とでは明らかに違いがあるのです。
イエス様には、十字架の死によって永遠の贖いを成し遂げる使命、そして、弟子の訓練と言う二つの使命をもっておられました。一方、私たちに与えられている使命は勿論、このイエス様のお働きの後を、刈り取っていく使命があるのであります。イエス様の蒔かれた種が実っているのを刈り取る働きです。それは、もっとも喜ばしい行為であります。この世にはさまざまな職業がありますが、中でも、農作業をしている方々にとっては、その喜びを味わうに相応しい、また分かりやすい例えと言えましょう。作物を植えて収穫するには、どうしても期間というものが必要であります。

お米で言いますと、八十八の手間がかかっていると、その米と言う文字から説明されることがあります。それほど、お米は手間のかかった食べ物であります。種を植え、苗を作り、その苗を、一番収穫率のよい間隔で植え、更には水を調整したり、草取りをしたり、穂が垂れてくる頃にはもう、水は必要ありませんので水を抜いたり、私たちの口に入るまでには、本当に多くの過程を経ているのであります。地域にもよりますが、一毛作であれば、植えてから刈り取り、精米し、口には入るまでには半年以上は十分にかかるのであります。もっとも、イスラエルでの作物は、お米ではなく、大麦、小麦の収穫でしょうから、少し状況は違うでしょうが、植えて、刈り取る作業は、変わらずにあるのであります。

では、人の魂の救いの場合はどうかと言いますと、35節で、イエス様はこういわれるのであります。「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」つまり、人の魂の救いの場合、今まさに、収穫の時だと言われるのです。これは、実に幸いな時だと言えないでしょうか。もう種は蒔かれ、穂が出て、刈り入れの時だと言われるのです。私たちにとって何と言う喜びの時を迎えていることでしょうか。こういう収穫の日を待ち侘びながら、人は世話をしてくるのであります。

成長する姿を日々、目にしながら、収穫のときを待つのであります。しかし、イエス様は、今はもう待つのではなく、刈り入れ時だと言われるのです。35節の終りのほうをギリシャ語で見ますと、「畑をみよ。なぜなら、刈り入れを待って白くなっている」であります。日本語では色づいているとうまく訳してありますが、本来は、「白くなっている」というのが直訳であります。しかし、これも陽の光の中で実った穂が、白く輝いて見える所から、そのようにかかれているのでありますから、「色付いている」まさに刈り入れ時を意味するところは同じであります。「まだ4か月ある」などと言っている場合ではない。もういつでも収穫できるではないか。さあ、出ていきなさいという感じなのであります。

先回見ましたサマリヤの女性が水がめを置いて、イエス様の所を去って、町へ行き、イエス様の事を伝えた。そして、町の人々はイエス様の所にやって来たのであります。まさに収穫のチャンスと言ってよいでありましょう。次回見るのですが、イエス様のなさった伝道で、一人の女性が変えられ、更にはその女性によって、その町の多くの人が信じるに至のは、驚きであります。それは、私たちが驚く驚きよりも、
サマリヤ人を差別し、付き合おうとしなかったユダヤ人達のほうがもっと本当に大きな驚きであったでありましょう。

36節でイエス様はこういわれています。「すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。」とであります。蒔く者と刈る者両者が、共に喜びに預かる。これは、実に不思議な感じがしないでもありませんが、魂を扱う者の現実であります。イエス様はルカの福音書15章で3つの例え話をされました。

その一つは、百匹のうちの一匹の羊が迷い出て、羊飼いがそれを捜して、遂に発見したとき、どんなに大きな喜びがあるだろうかと言われました。もう一つは、一枚の銀貨が無くなって、それが見つかったとき、それを捜し出した者が、どんなに喜ぶだろうかと言われました。そしてもう一つは、放蕩息子の話で、罪を認めて、悔い改め、父の下に帰ってきた息子を、父親はどんなに喜んだか話されました。そこには、どれにも喜びがあるのであります。それも、一人の魂が救われたことの喜びであります。

種を撒く人、そしてそれを刈り取る人、それが仮に別々であっても、共に喜ぶことができる。それが仮に、蒔くばかりであっても、不平、不満をいわない。共に主の御業に参与していることの喜び、そしてやがては、天にいれられたとき、「良き、忠実な僕であった」という主のお言葉をいただけるなら、罪人として、滅びるしかなかったものが受けることのできる主からの最高の褒め言葉ではないでしょうか。37節のイエス様のお言葉、「こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る。』ということわざは、ほんとうなのです。」とは、実に良く、魂の世界を現しているといえましょう。そして、それは共に喜ばなくてはならないのです。

主が、種蒔きの働きに、用いて下さるのですから。主が用いて下さるなら、どんなことでも致します、そのような思いで仕えていきたいと心を新たにさせられるのです。なぜなら、38節でイエス様はこういわれているからです。「わたしは、あなた方に自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。
他の人々が労苦して、あなた方はその労苦の実を得ているのです。」とあるからです。

イエス様は十字架と復活と言う出来事において、魂が滅びから永遠の命に至る道を作って下さいました。ですから、すでに種は蒔かれているのです。私たちにはその収穫することが求められているのです。地方の教会は、一生懸命種を蒔き、育てています。時が来ると、その中の若者は都会へと出てくるのであります。田舎の教会は、苗代教会と言われるゆえんであります。しかし、それでも、地方の教会はそれを続けているのです。立派に成長し、刈り取られることを願ってであります。

都会にある私たちの教会は、果たして刈り取る教会でありましょうか。それとも、種を蒔き続ける教会でありましょうか。いずれにしても、私たちは主のご用をさせていただいていると言うことにおいて喜ぼうではありませんか。イエス様の福音を伝える者にとって、必ず大きな失望を経験させられます。

と言いますのも、生来の人の心は、かたくなで、信じようとしないからです。自分が今、どういう状態のあるのか、知ろうとしないし、知っても、その重大性には気付かないからです。多くの人が、霊的には目が閉じている状態です。「肉の思いは神に反抗するものだ」とローマ書(8:7)にある通りです。どんなに素晴らしい福音でも、人はそれを受け入れようとはしない。「何とかして、幾人かでも救うため」(1コリント9:22)の努力をした人だけが、心から悔い改め、信仰に入る人が、いかに少ないかを悟るのであります。つまり、福音を聞き、信仰を勧められた者すべてが、真のキリスト者になると考えるのは、まだ現実が見えていません。イエス様が他の所でいわれている通りであります。

「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」(マタイ7:14)。ですから、イエス様のために働く者は、自分が最善を尽くして行なったにもかかわらず、福音を聞いた人達の多くが、それを信じようとはしない、また、悔い改めようとはしない、その現実を見て失望をしてはならないのです。これは承知しておかなければならない現実なのであります。大切なことは、神様は私たちが神様のために弄したことに対しては、決して無にはされないと言うことであります。それに十分な祝福を与えて下さると言う事です。

詩篇126:6 にある通りであります。「種いれをかかえ、無きながら出ていく者は、
束をかかえ、喜び叫びながら帰ってくる」のだからです。一人の救いの為に、私たちはどれだけ富や時間や賜物を使っているでしょうか。この世の効率から言いますと、まさにどぶに捨てるような使い方です。しかし、福音を伝える方法はまた、これしかないのです。コツコツと、地道に種を蒔き続ける。どこかで、そのみ言葉の種が芽を出すのであります。だからこそ、それを夢見るとき、喜びもまた与えられるのです。刈り取りに喜びがあるのは勿論ですが、種を蒔くのもまた喜びであります。必ず、神様のお言葉は無駄になって消える事はないからです。私たちは今一度、イエス様が言われた38節のお言葉を考えてみる必要があるのはではないでしょうか

「わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」もしかしたら、私たちのそばに、まだまだ沢山の実を神様は用意して下さっているのではないでしょうか。その実を確実に刈り取り、共に喜ぼうではありませんか。あるいはまた、毎週、毎週、このようにして主を礼拝しつつ、種まきを続けたいものです。

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