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2004年7月4日(日) 「人の言葉によらず」  ヨハネ4:39-42  竹口牧師

今回取り上げます聖書箇所は、4章1節からずっと続いているサマリヤの女性の話でありますが、先回取り扱いました31節から38節までは、イエス様と弟子達との会話でありましたので、あるいは1回分とぎれたような感じを持たれるかも知れません。
しかしながら、全体的な流れから言いますと、人の救いについて、それも、ユダヤ人の救いだけでなく、異邦人にも救いの道がある事を教えられる大切な所でもあります。

もっとも、サマリヤ人はもともとはユダヤ人でありましたので、純粋なユダヤ人とはいえない。むしろ、ユダヤ人から見れば、付き合いもしない関係でしたので、そういう意味から異邦人とユダヤ人は見ていたでしょうし、私も、そういう意味から申し上げたのであります。そのユダヤ人から見れば異邦人とも見える彼等に、今回、救いの手がイエス様によって延べられる話なのですから、実に素晴らしいのであります。それと共に、人がイエス様によって変えられますと、そこまで変えられるのかという、その福音の持つ力というものをありありと見せつけられる素晴らしい所なのであります。

さて、それでは今日の聖書箇所に入りたいと思いますが、そこにはまずこう書いてありました。「さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、『あの方は、私がしたこと全部を私に言った。』と証言したその女のことばによってイエスを信じた。」であります。実は、この女性、以前夫が5人いまして、現在一緒にいる男性は、本当の夫ではないのでありました。つまり、そういう関係の生活をしている女性でしたからでしょうか。どちらかといいますと、人目を避けるようにして、ある説によりますと、わざわざ遠くから離れた所にある井戸に、それも、他の人が水汲みに来ないような時間帯に水を汲みに来るという生活をしていたのでありました。

そんな女性がイエス様にお会いし、全く変えられたのでありました。その女性にとって、自分の素姓をすべて知っておられただけでなく、旧約聖書で言われている来るべき預言者は「あなたと話しているこのわたしがそれです」という言葉に、その女性は、自分の水がめを置いて、町に知らせに行ったのでした。本来なら、町の人達はその女性を見れば、避けたいと思うに違いないのでありました。少なくとも、宗教熱心な方なら、姦淫の罪を犯しているような女性には、近付きたくもない。そんな風だと思われるのであります。

ところが、先々回の所で見ましたように「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」と彼女が言って話したのでありました。そして、町の人達は、その彼女の言った言葉に従ってイエス様の所にやってきたのでありました。では、どうしてこのように、町の人達のその女性に対する態度がこうも変わったのでしょうか。それは言うまでもなく、彼女が以前とは全く変わっていたからでありました。以前にも第2コリント5章17節を引用しました。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」とのみ言葉の通りであります。

人々の目を避ける女性から、積極的に話しかける女性に彼女は変えられていたのでありました。それも、嫌嫌ながら語るのではなく、自分からイエス様の言われたお言葉に驚きつつ、喜びながら彼女は、町の人達に伝えていたのでした。皆さんの中にも、彼女の気持ちがよく分かる方もおられましょう。決して、この世の日陰者として生きていなくても、普通に歩んでいる人であったとしても、イエス様に初めてお会いし、その素晴らしさを知った方は、黙っているように言われても、黙っていられなかったと思います。

何といったらいいのでしょうか。やはり、喜びが心の中からわき出て来るという感じでしょうか。誰かに、この素晴らしさを伝えたい、そういう思いにかられたものです。ご存じのように、この一人の女性は、聖書の知識など殆どなかったでありましょう。
ただ一般的に言われている事しか知らない。そういう状況だったと思われます。それでも、彼女は、自分の知っているものを用いて語ったのでした。そんな彼女の言葉でも、町の人達は、彼女の変わりよう、彼女の言葉に秘めた力強さに恐らく惹かれて、
イエス様のおられる方へと行ったのでありましょう。

もし、ここで、この女性がイエス様との出会いを隠し、自分だけのものとしていたらどうなったでしょうか。言うまでもなく、その町の人達はイエス様を知る機会は、しばらく遠く離れてしまうのであります。いいえ、その機会が失われてしまう事になるかも知れませんでした。私たちは、すでに使徒の働きから、イエス様の復活後、多くの弟子達が、このサマリヤにも伝道した事を知っていますので、今回登場した女性が伝道しなくても、福音が伝えられないような事は決してありませんでしたが、しかし、この時点で、彼女の果たした役割は大きいのであります。彼女は、町の人達の事を考えて行動したとは思えません。ただ、彼女は自分のその喜びを黙っている事ができなかったのです。そして、町の人達は、39節によりますと、「その女のことばによって信じた」とあるのであります。

聖書の教えをどれだけ知っているかが問題ではありません。イエス様が、何を自分に話して下さったか、その事を伝えるだけでいいのであります。恐らく、現代でも同じでありましょう。救われたばかりの人は、それ程聖書的知識は持ちあわせていません。しかし、伝えようとする熱心は、本当に強いものがあります。また、それだけに、より多くの人を教会へと誘ってくるのであります。これは、その人を神様が変えて下さった一つの印のようでもあります。

イエス様は、ユダヤからガリラヤに行こうとされました。しかし、その行く道は、ユダヤ人達が避けて通るガリラヤの道を選ばれたのでありました。ヨハネが、「しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった」と書いている通りであります。恐らくそこには、イエス様の大きな御計画があったのでしょう。それは、単なる一人の女性と会うだけでなく、その女性を通してのサマリヤ地方への伝道であったと思われます。私たちは、先の先の事はどれほども読めませんが、恐らくイエス様ならお分かりになったのではないだろうかと思うのです。自分がそこに言って伝えなければ、ユダヤ人の分かれの者であるこのサマリヤ人の地に福音はしばらくは伝えられることはない。
そう思われての行動ではなかったかと、これを読みながら私は感じたのであります。

イエス様が一人の女性に、語りかけられ、次に、その女性によってサマリヤ人達は、イエス様を信じるに至りました。しかし、ことはそれだけに終わりませんでした。40節を見ますと、「そこで、サマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。」とある通りであります。これはもう、町をあげての伝道集会になったようなものであります。

ユダヤ人とサマリヤ人との間には、それまでの歴史的経緯、あるいは宗教的偏見、さまざまなものが絡み合って、かつては同じ民族に属していたのに、
今は食卓を共にしないほどの対立、憎しみの関係にあった。言葉を交わさないほどの対立関係にある。同じ食器を用いる事もできない。それなのに、あなたはそのような民の女である私に声を掛け水を求めるようなことをされた。

なぜ、そんな事ができるのか、そんなやりとりからはじまりまして、ここでは一緒に食事をし、同じ家に寝泊まりするに至る。これはもう、イエス様の弟子達にとっても大変な驚きであったでしょう。自分達が食事を買いに行き、戻ってきたら女と一緒に話している。イエス様のような律法を守る教師は、昼日中女性と言葉を交わすなどということは、とんでもないことだと当時考えられていた。男女の間の偏見、差別に重なって、ユダヤ人とサマリヤ人との間に差別がある。考えられない事が起こったと思っていた事でしょう。

ところが、こともあろうに、人々がやってきて、私たちの所にきて泊まって下さいと誘う。するとイエス様は、喜んでそこへ行かれる。弟子たちは、ついて行くしかなかったでしょうが、本当に戸惑っていた事でしょう。弟子の中の用心深い者は、サマリヤのスカルの町に、イエス様一行が泊まったなどということが、故郷のガリラヤに聞こえたり、エルサレムの都の権力者達に聞こえたら、どんなことになるだろうかと、不安を抱いたのではないでしょうか。これは、こんにち、私どもが考える以上に
驚くべき出来事であったと思われます。

しかし、それにしましても41節を見ますと、「そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。」とありますので、イエス様のお働きは大変よかったと言えましょう。イエス様は、人々の要望に応え、二日間もそこに滞在されました。今も言いましたように、普段、ユダヤ人と付き合わないサマリヤ人にとってこれは異例のことであったといっていいでしょう。そして人々は、この二日間で、直接イエス様からのお話を聞く事になったのでありました。

女性から聞くのも一つの方法でありますが、しかし、より深く、より神様のお言葉に近付くには、イエス様から直接お言葉をいただく。これに勝る幸いな時はないでしょう。彼等はそれを求めたのでした。そして更に信じる者が出てきたのでした。真の神様について、人間の罪の状態について、罪からの救いのために真の神様がイエス・キリストをお遣わしになったことについて、イエス・キリストが唯一の救い主であると信じて救いが与えられる事についてなどを、お話になったに違いありません。

この町の人達にとって、この二日間は真に充実し、彼等の人生をすっかり変える大切な二日間であったのでした。その二日の間のイエス・キリストのお言葉を通してさらに多くの人がイエス・キリストを信じ、仲間に加えられました。41節の言葉をこのように説明する人がいます。「人を救う神の主権が、この所に表されている。ある人は一つの方法で召され、他の人は別の仕方で呼び寄せられる。あるサマリヤ人は、女の証言を聞いた時に信じた。他の者は、キリスト御自身のことばを耳にするまで信じなかった。聖霊の働きを一つの様式だけに限定しないよう注意しなければならない。人々の救いの体験は、しばしば大きく異なっている。人々が悔い改めとキリストへの信仰に導かれる場合、みながみな同じ仕方ではないからといって当惑してはならない。」とです。まさにそうだと思います。

神様が下さる救いは、その人、その人によって全く違うのであります。時といい、場所といい、周りの背景といい、みんな違います。育ちも違うのであります。同じ両親から生まれながら、どうしてこうも違うのだろうと言える程、クリスチャンの生まれ、育ちも違うといっていいでしょう。だから、39節の所で信じる者がいれば、41節の所で信じる者もいる。その違いは何かと聞かれれば、神様のなさる事なので分からないとしか言い様がないのであります。

私達は毎年、春の特伝、秋の特伝を計画し、多くの方に誘いをかけます。しかし、それをしたから、沢山の人が集まって来て、そして、信仰に入られたかといいますと、全然そうではない。むしろ、ある日突然に教会に来られ、教会生活を行なっているうちに、導かれて、信仰の決心をされた。あるいは、殆ど信仰決心する所まで来て、仕事の都合で教会を変わらなくてはならなくなって、その新しい教会で決心に至ったという風に、いろいろなのであります。実に信仰の決心に至には、神様がいろいろな状況を用意され、その人にとって一番良い時を備えて下さっているという事でありましょう。そういう意味では、今年は何人の決心者をだそうなどということは、全く意味のない目標であり、神様の主権を全く無視した考えだと言えましょう。

ですから、大切なのは42節のサマリヤの人達の言った言葉の様になる事であります。
「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと知っているのです。」あの人が言ったから、この人が言ったから信じたではないのです。信仰の入り口、きっかけはいろいろありましょう。しかし、本当に救われるのは、神様のお言葉に直接触れる事なのです。

現在の私達には、イエス様と直接お会いして、お言葉をいただく事はできません。しかし、そうしなくてもよいように、私達には神様のみ言葉である聖書が与えられているのです。その聖書の御言葉に聞く事によって、直接神様のお言葉に触れるのです。御言葉は真理であるからです。本物の信仰に入るには、その真理の御言葉に触れる事です。一人の女性から端を発した救いのドラマは、最後には、みんなイエス様に出会い、もはや「私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。」とまで言わしめた信仰は、驚くべき真の信仰であります。

神様は、当時差別の中にあったサマリヤ人達にも、救いの手を差し伸べて下さいました。そして現代の私達の国にも、時代を越え、国境を越え、人種を越え、年齢を超え、あらゆる差別の壁を超えて救いの手を差し伸べて下さっているのであります。すでにその恵みに与かっている私達は、この一人のサマリヤの女性の様に、いつまでも「来て、見て下さい」と伝える者でありたいものです。そして、その人が御言葉に直接触れるまで、その助けを、喜びを持ってしていこうではありませんか。

救いに入れて下さるのは神様ですから、委ねつつ、宣べ伝える事を続けさせていただきたいものです。まだ信仰に入っておられない方々にとって、今の時ほど恵みの時はない事を知っていただきたいのです。キリスト教の歴史の中では、かつて御言葉が焼き捨てられる時代がありました。信仰を捨てる様に迫られた時代もありました。しかし、今、この日本において信教の自由が認められているのです。御言葉である聖書も自由に読めるのです。神様に近付くには、これ以上ない環境が整えられているのです。
これほど素晴らしい時はないといえましょう。

人から教えられて信じているのではなく、御言葉を読み、触れて自分で確かめての信仰に入れるのです。サマリヤ人達が言ったあの言葉の様に、「自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです」と言える様になってくださることをお勧め致します。


2004年7月18日(日) 「信じて帰る」  ヨハネ4:43-54   竹口牧師

先回はイエス様が、サマリヤのスカルという町で伝道された所を見ました。その町では、イエス様の話を聞こうと人々が集まり、彼等がイエス様にとどまってくれるように願いましたので、二日間程滞在され、話をされたのでした。そして、その間に、多くの人がイエス様を信じるに至りました。サマリヤ人は、ユダヤ人から見ますと口も利きたくないような、差別の対象でしたので、ユダヤ人達にとっては、彼等がイエス様の話を聞いて信じると言うのは、驚きであったでしょうし、また弟子たちもそう感じていたのではないでしょうか。

ところで、イエス様は、その後どうされたかと言いますと、目的地のガリラヤに行かれました。ガリラヤ地方は、イエス様のお育ちになったナザレがある所ですから、伝道するには、なかなか難しい所でありました。といいますのも、人々は、小さい頃から大きくなっていくイエス様の姿を見てきていますので、神様のお働きをしていても、
なかなか人はそれを認めてくれないからであります。大工の息子のイエスが、何かを話している、こんな感じだったでありましょう。ですからイエス様はこういわれたのであります。「預言者は自分の故郷では尊ばれない。」とであります。

まあ、そういう意味では、先週の鈴木先生ご夫妻の伝道50周年を記念して感謝会を開いたときにも、鈴木先生が言われましたが、鈴木先生がピーチ先生と伝道を始められる時、候補地としてこの八雲の地にするか、表参道辺りにするか考えられた時、自分の育った八雲にすると決められたのは、大変素晴らしい決断でありました。44節の言葉の通りなのですから。

ところで、イエス様がユダヤからサマリヤを通って、ご自分のお育ちになったガリラヤに帰られた時、人々の反応はどうだったかと言いますと、実は、45節を見ていただきますと、「ガリラヤ人はイエスを歓迎した」とあるのであります。これは、44節の言葉となんとなく合わないように思われるかもしれませんが、彼等が歓迎した理由が、その後に続いているのでお分かりでありましょう。本当は、預言者は、自分の故郷では歓迎されないのに歓迎した。それは、つまり、下心があったからでありました。

ところで、その頃、ユダヤ人達にとって、とても大切にしている過越しの祭りがありまして、エルサレムに礼拝を献げに多くの人が行っていたのでありました。そしてイエス様もエルサレムに行かれ、礼拝をお献げされると共に、沢山のお話や、不思議を行なわれましたので、それを見ていた人々は、自分の郷里に帰っても、そのイエス様のことを土産話にしていたのでありました。つまり、そういう意味で、イエス様は歓迎されていたわけでありました。

さて、イエス様はエルサレムから戻って来られて、ガリラヤのカナにもう一度行かれました。もう一度と言いますのは、2章で見ましたように、婚礼の時に、水をブドウ酒に変えられた事があったからであります。ところで、そのカナにイエス様がおられると、そこから約30kmほど離れた所にあります町、カペナウムに病気の息子を持つ王室の役人がいたのであります。ここで王室とは言いましても、ヘロデ大王の死後、その息子3人が領地を分け、支配することをローマから委託されていたのですから、
領主と言うのが正しいのですが、慣習上そう言われていたのでしょう。

そのカペナウムを支配していましたのがアンティパスであり、今回登場します役人は、そのアンティパスに仕えていたと思われます。そして、その役人が、イエス様がカナに来られたと聞いて、カペナウムからそこにかけつけたのでした。約30kmの距離を行くのは、昔の足では相当遠いのであります。人にもよりましょうが、また、昔の人は早いかもしれませんが、大体一里(約4km)歩くのに、速くても40,50 分はかかりましょう。そうしますと、6時間位はかかったのではないかと思うのですが、とにかく、息子の病気を癒していただきたい一心でやってきたのであります。

今、子育て真っ最中の方、あるいは子育て経験のある方なら、その親の気持ちと言うものが、よくお分かりでありましょう。子供が苦しんでいるのをそばで見ていますと、
本当に、代われるものなら代わってやりたい、そう思うのが親心であります。王室の役人は、イエス様なら大丈夫だと信じてやってきましたが、イエス様のお言葉は何と、あまり好意的ではありませんでした。「あなた方は、しるしと不思議を見ない限り、決して信じない」と言われたのでありました。

現代では、マイカーで、あるいはタクシーで、あるいは救急車で、病院の医者に頼むことでありましょう。しかし、聖書の頃は、どのようにして、病人を運んだのか、福音書の中には、担架に乗せて運び、屋根から吊り下ろしたという場面がありますから、
そういう方法しかなかったのでありましょう。ですから、連れて来るにしては、あまりにも子供に負担が掛かる。そこで、父親はイエス様を連れて来ようと考えたのでしょう。親としても必死でありました。「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」と懇願するのであります。

お金が有り、地位もあり、当時の人達からは何の心配も無い、そのような環境でしたが、しかし、子供の病気には、そんなものは何の役にも立たなかったのでした。その近くの医者にもどうにもならなかった。ですから、わざわざ、父親は、遠くからやってきたのでありました。その父親は、イエス様の一見して冷たく見えるお言葉にも、
決してくじけませんでした。地位が在っても、それを鼻にかけませんでした。低姿勢で、ひたすら願ったのであります。

イエス様は、ここで「あなた方は、しるしと不思議を見ない限り、決して信じない」
と言われましたが、それは、この父親にとって、一体どういう意味を持つものだったのでしょうか。明らかに、褒めた言葉ではないことはすぐにおわかりでありましょう。と同時に、「あなた方は」と言われていることからしますと、この父親だけに言われたのではなく、集まってきている周りの人達にも投げ掛けている言葉であると言えましょう。ご自分がメシヤであることの証拠として奇蹟がみたいという、ユダヤ人一般的な傾向に釘を刺されたとも言えます。「自分の目で実際に奇蹟が行われない限り、あなた方は信じられないのか、しるしを見ない限り信じられない程、あなた方の信仰は小さいのか」と言う具合です。

実際のところ、この父親の言葉を見てみますと、「どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」と言っていますから、イエス様が子供の所に来て下さり、触ったり、何かをして下さらなければ、癒されない、その様に信じている向きもあるのであります。ですから、ある人は、この父親のことをこう言うのであります。「あなたはいまだに正しい信仰を持たず、私を預言者としてのみ見ている、とキリストは言っておられる。イエスは、役人が彼のもとに来た心の状態を戒めておられる。それは、奇蹟が起こるまでは彼が十分に信じていなかったためである。そこで、彼の信仰が深まるように導かれた。

この役人がやって来て、懇願したこと自体は、大きな悩みを抱えた両親が助けを求めて医者に相談するようなもので、特別に称賛すべきことではない。彼がことさら強い信仰を持って来たのではないことは、キリストがガリラヤに来られて初めて訪れて来たという点に伺われる。もし、強い信仰であったのなら、子供が瀕死の病になった際、
ユダヤに行くこともいとわなかったであろう。」とであります。

これを聞きますと、なかなか手厳しいコメントだと思わされます。私は、30kmもの距離があってもやってきたと思っていましたが、更にずっと遠くのユダヤにまで来るべきであったとは、考えもおよびませんでした。しかしながら、この50節を読みますと、そんなにひどくこの父親を攻める必要は無いように私は思うのです。なぜなら、イエス様が「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」と言われますと、父親は「イエスが言われたことばを信じて、帰途についた。」とあるからです。

彼は、「いいえ、貴方様が来て下さらなければ、あるいは、祈って下さらなければ、触って下さらなければ、その子は決して直りませんから」とは言っていないからです。
イエス様のお言葉に、絶対的信頼を置いて彼は帰って行くのであります。これは、実に見上げた信仰ではないでしょうか。イエス様のお言葉だけに信頼する。つまり、私たちにとっては、この聖書のお言葉だけに絶対的信頼を置いて歩む。その事の大切さを教えられるのであります。

聖書が、あなたの罪は赦された、と宣言しているのに、否、まだ神様は私の罪を責め、苦しめておられると思い続けたり、わたしはあなたのために場所を備えに行くのですと言われているのに、私は死んだら一体どこへ行くのだろうか。本当に天国に入れて頂けるのだろうかと不安になったりする。また、明日の心配は無用です。明日のことは明日が心配します、と言われているのに、いろいろ先の先のことを考えて不安になる。これらはすべて、本当に、私たちの側の不信仰から来ていることは、決して間違いではありません。

考えてみていただきたいのですが、ここに登場している父親は、イエス様から何かをしてもらったわけではないのです。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」という宣言をいただいただけなのです。そして父親は、それを信じて帰途につくのです。これは、本当に信仰がなければ出来ないことではないでしょうか。イエス様を愛していたマルタとマリヤの話がこれから先の、このヨハネの福音書の11章の所にありますので見ることになりますが、そこでもその二人は自分たちの兄弟ラザロが亡くなってしまいましたので、こういうことをイエス様に口にするのであります。

「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」(ヨハネ11:21,22)このマルタとマリヤの信仰を見ながら、私たちの信仰とは、どの程度のものか、いつも考えさせられるのです。やはり、イエス様からお言葉をいただいた時、信仰者は、本当にそれを信じて行動に移すべきではないでしょうか。この王室の役人の様にであります。

単なる教訓としての本なら、本屋にも図書館にもいっぱいあります。しかし、聖書は神の言葉であるがゆえに重みを持つのであります。生きて働くのであります。信じようではありませんか。期待しようではありませんか。ただ、忘れてならないのは、今回登場しました父親の信仰が、初めはどうであったか、定かではありませんが、イエス様のお言葉をいただいた後の彼の信仰は、決して、私たちの信仰に負けず、劣らなかったことは確かでしょう。それは、51節以下の出来事から分かります。父親が、自分の家の方に帰っていくその途中で、その僕たちが迎えに来てくれて、息子が癒されたことを知らせてくれるのであります。

もうお頼みしなくても大丈夫ですよ、という意味もあったかも知れません。が、彼は僕たちに癒された時刻をここで聞くのであります。そしてイエス様が「あなたの息子は直っている」と言われた時刻と同じであることを知った」のでありました。父親の思いは、やはりそうであったか、であったのでしょうか。イエス様のお言葉にますます確信をもったでありましょうか。

ところで、この父親が息子の病気が癒された時刻を聞いたことに、皆さんは、どういう考えをお持ちでしょうか。普通だったら、時間など聞かないはずだ。ああ、癒してもらったか。有り難い、有り難い、これでいいのではないか。時間を聞いたところを見ると、本当にイエスの働きなのか、その疑いがあったのではないか、それが証拠に、53節の終りには、「そして彼自身と彼の家の者がみな信じた」とあるではないか。この時初めて、彼は信じたのではないのか。この様に考える方もおられるかも知れません。

しかし、その考えは正しくありません。なぜなら、50節の終りにも、「その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。」とありまして、ここでも信じたことが出ているからです。つまり、時刻が一致したから、この父親は信じて、違っていたら信じなかったと言うものではないのです。恐らく、私の考えますのには、イエス様のお言葉を頂いて帰るのだから、当然、子供の病気は癒される、そう信じて帰って行った。それだけだったと思います。時間まで、果たして考えただろうかとも思うのです。

しかし、念のために、いつ頃癒されたかを聞いてみると、イエス様のいわれた言葉の宣言と、癒された時刻とが一致した。そこに、ますますイエス様の働きの素晴らしさを知ることとなった。そう思うのであります。そして、そのことが、家の者全部が信じるに至ったのでありましょう。実にイエス様の素晴らしいお働きの実の広がりであります。ここには時間の一致という奇蹟が乗せられていますが、しかし、神様のなさることは、本当に不思議であります。

私たちは、一生懸命ある課題について祈ります。そして、その答えをいただくのでありますが、それをさかのぼって調べていきますと、実は、祈り始めてから神様がようやく腰を上げられて、祈りに答えて下さると言うのではなく、私たちが祈る前から、もうすでに、それに対する答えの準備に入っていて下さっていたと言う事がよくあるのであります。

たとえば、ある必要の為に祈り求めていた。そしてそれに答えられた。しかし、実際は、その答えられる前から、ことは進んでいた。また、進んでいなければ、答えられないという場面に遭遇するのです。それだけに、私たちは祈り求めることも必要ですし、信じて祈ることもそれ以上に大切なのであります。最初から準備して下さっているのなら、そんな祈ることなどしなくてもいいのではないか、そういう考えもありましょう。もしそうなら、イエス様は祈ることの大切さを教えられなかったでしょう。求めることの大切さも教えられなかったでしょう。

しかし、実際はイエス様は祈ることや、求めることを勧められ、そしてそれに神様は答えて下さる方であることも教えて下さっているのです。ですから、私たちは、祈りもし、求めもし、信頼もするのです。ヨハネは最後の54節でこう書いて終わっています。「イエスはユダヤを去ってガリラヤに入られてから、またこのことを第二のしるしとして行なわれたのである」と。

私たちは、イエス様のなされた不思議の一つ一つを、真剣に受け止めて、すでに信仰を与えられている方々は、ますます、イエス様に対する信仰を深めさせて頂こうではありませんか。まだ、信じておられない方は、本当にイエス様は、素晴らしい業をなされた方であることを信じていただきたいのです。そういうイエス様を信じている現代に生きる私たちにとって何より素晴らしいのは、魂の救いに対してイエス様は完全に業をなし終えてくださっているということです。肉体が癒されてもやがて寿命がくれば土に帰ります。しかし、イエス様によって救われたなら、魂は永遠に生きるのです。これこそ今の私たちに一番大切なことでしょう。あなたはもう、その滅びることのない命をいただいておられるでしょうか。イエス様にこれからのことの全てを委ねて、お委ねしてここから帰って行こうではありませんか。

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