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2004年8月1日(日) 「良くなりたいか」  ヨハネ5:1-9   竹口牧師

今日からヨハネの福音書5章に入っていきます。イエス様は数々の奇蹟を行われましたが、ヨハネがこれまでに具体的に取り上げて書いています奇蹟は、2章に出ていましたカナに於ける婚礼の時の水をブドウ酒に変えられた事と、そして先回見ました4章最後の所で、王室の役人の子供の病気の癒しの話がありました。ですから今回は、第3番目の奇蹟を取り扱うのであります。

まず最初に1節の所で、「その後、ユダヤ人の祭りがあって…」とありますが、この祭りが、ユダヤ人達の祭りの中で、何の祭りであったかは分かっておりません。ご存じのように、ユダヤ人にはいろいろな祭りがありまして、例えば、過越しの祭り、ペンテコステの祭り、仮庵の祭り、プリムの祭り等々であります。イエス様の公の生涯の期間は3年余と言われていますが、その根拠となりますのは、このヨハネの福音書に出てきます4回の過ぎ越しの祭りにあります。つまり、2:13、今回の5:1、そして6:4、12:1であります。

今、ここで私が今回の5章1節にあります祭りを過越しの祭りとして、数えましたが、
しかし、この書の著者ヨハネは、他の3つは過越しの祭りと書きながら、この5章にはそれを書いていませんので、いろんな説が出てくるのであります。しかしながら、イエス様の公生涯を3年余りと見るとするならば、今回の出来事も、過越しの祭りと見るのが適当でありましょう。イエス様は、ガリラヤに帰られましたが、再び祭のために
エルサレムへと上られたのでありました。そしてこの章以降、イエス様の活動はユダヤ人の祭との関連の中で描かれるのであります(6 :4 ,7 :2 ,10:22,11:55)。

2節を見ますと「さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。」とあります。現在、エルサレムに行きますと、旧市街と呼ばれる地区がありまして、つまり城壁で囲まれた領域のことを指すのですが、その旧市街の出入り口、つまり門には、羊の門というのはありません。ダビデの塔と呼ばれる所がありまして、その側にヤッホォ門があり、右回りに順に言いますと、新門、ダカスコ門、ヘロデ門、ステパノ門、糞門、シオン門と7つであります。

一方、新約時代のエルサレムの地図を見ますと、神殿がありました所の東側の面に黄金門があります。現在では、これは理由があって、閉じられているのですが、もう一つ、神殿の北側に面した中央あたりに羊の門があったように書かれております。現在の門で言いますと、ステパノ門が、その羊の門に一番近く、また、今回出てきましたベテスダと呼ばれる池も、その近くにあったことが、遺跡の発掘で分かっております。

ところで、この池には5つの回廊があったとあります。これを分かりやすく説明しますと、こうなるのでしょうか。長方形の池を二つ横に並べます。南北と二つの池が重なるように並んでおり、その二つの池を囲むように回廊があります。さらにもう一つ、二つの池に境があるようになっておりまして、その境もまた回廊になっている。こうして数えてみますと、5つの回廊が出来上がるのであります。そして、その回廊には、3節を見ますと、「その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。」とあるのであります。

なぜ、そんな所に、大勢の病人がいたのかと言いますと、7節にありますように、言い伝えがあったからであります。その池の水が動くときに、一番先に入った者だけの病気が、それもどんな病気でも癒されると言うものでありました。恐らく、この池には間欠泉、つまり、一種の噴水の様に湧き出る事があったのでありましょう。その当時の人々は、風もないのに水面が波立つその動きによって、それは、天使が水面に触れるので水が動いたと信じていたようです。あるいは、天使が、羽根で触るか足で触るか分かりませんが、そっと触ると言うだけではなくて、天使自身が、この池で水浴びをした。

見えない天使が水浴をして、さっと舞い上がると、その時に水の激しい動きが見えたのだろうという人もいるそうです。もちろん、これは空想にしか過ぎませんけれども、
それはともかく、水が動いたときに、われ先にと一番最初に飛び込んだ者が勝ちなのであります。つまり、動ける病人でないと、ここにいても癒されることはない。動ける元気な病人でないと、健康にはなれないのでした。しかも、他人を押し退けて、真っ先に飛び込まなければならないのですから、おちおちと眠ってなどはおれなかったのであります。安静しているどころではありませんでした。いつも気をはってピリピリしていなければならない状況でした。そこに、大勢の病人がいまして、その一人に、38年もの間、病気にかかっている人がいたのであります。

いつでしたでしょか。私は、喉に痛みを感じ、何か詰まったような感じがするものですから、また、少し声もかれていましたので、悪い病気ではないかと心配になり、これで神様のご用は出来なくなるのかと一時心配をしたことがありました。いろんな病院で検査を受けましたが、結果は何でもないということでした。何でもないと言われても、実際に本人は感じている。この状況をどの様に説明したらいいのか、分かりませんでした。しかし、医者は、何でもないと言うので、まあ、それを信じるしかありませんでしたし、それを信じてもう、10年以上は経ち、今があるのですから、感じていることと、医学的なこととは違うのでしょう。

がしかし、これを一般化していいかどうかは分かりませんが、同じ状態がずっと続きますと、これが普通なのだと、そのうちに思うようになるのであります。最初の内は、胃カメラで撮影したり、病院を変えたりといろいろしていましたが、そのうちに諦めてくるのであります。私の場合、声は出ますし、飲み込むのにも痛みは感じませんし、
ただ、喉が何かつまったような感じがずっとするだけですから、多分、病気ではないのでしょう。

ところで、今回登場しました男の人は、いつから足が動かなくなったのか分かりませんが、生まれた時からとしても38歳にもなっていますので、人生の半分は、その不自由な歩みをしていたわけであります。ですから、殆ど、癒されたいと言う思いは、
もしかしたら消えていたかも知れません。自由に動ける人を見ながら、あのようになりたい、あるいは、以前に歩ける生活をしていたならば、もう一度、自由に歩いてみたいという思いは、最初の頃はあったでしょう。しかし、38年も不自由が続きますと、何時の間にかそれに慣れ、もしかしたら、動ける自分、新しい自分のこれからの生活を考えますと、それはまた、心配が無かったとはいえないでしょう。

いずれにしましても、彼がこのベテスダの池にいるということは、そういった新しい歩みを望む思いが完全になくなっていたわけではない、心のどこかに、歩きたいという思いがあったでありましょう。ですから、ここに誰かに連れて来てもらっていたのだろうと思います。そしてまた、動くことがままならないのですから、誰かに手伝ってもらわなければ、一番最初に入れないのであります。その当時の医者に診てもらって、どうしようもない。そういう人達がいっぱい集まって来ていたのでありましょうから、そして、水が少しでも動きますと、一斉に飛び込んだのでありましょうから、もし、それで治らなければ、ああ、今回も私が一番ではなかったのか、そんな思いを多くの病人は持っていたに違いないのであります。

今登場しています男の人は、38年も、そこで生活をしていますと、ましてや、誰かが手を差し延べてくれなければ、動けない、もはや、他人頼みでしかありませんでした。これはもう諦めていても不思議ではありません。そんな彼の姿をイエス様は見られたのであります。6節「イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。『よくなりたいか。』」と。

このイエス様のお言葉を考えてみますと、なぜ、当然のようなことを聞かれるのかと
不思議に思われるかも知れませんが、実は、この質問は、この男の人の内側に、願いと期待を呼び覚まし、ある意味で、これから彼に与えられようとしている祝福の備えをさせるためのものであったと言えるでしょう。

一方、このイエス様のお言葉を聞いた男の人は、びっくりしたのではないでしょうか。
恐らく、彼は水が動いた際に最初に入ることができないために何回も機会を逸して残念な思いをしていたに違い有りません。誰かが手を貸してくれるなら、みんなより一番先に入れるのに。そういう気持ちで一杯だったかと思われます。ですから、これまでの体験は、この男の人を消極的にしていたように思えます。出来ない、してくれない、機会に恵まれないと「ないこと」にばかり気を取られていましたので、イエス様のお言葉の持っている大切な意味にきづかなかったようです。

考えてみますと、私たちも、自分や他人の「ない」事に気を取られて、神様が与えようとされている素晴らしい贈物に心を向けられないでいるということは多分に有り得るのであります。それにこの人はこの池のそばを離れたことがありませんから、以前にイエス様がエルサレムに来られた際に行われた不思議な業、その中には病人を癒すお働きもあったのですが、それらをも知りませんでしたので、自分に話をしている人が、そのような力を持った方だとはまったく知らなかったと思います。彼にとっては見たことのない人が、自分に本当に治りたいかと尋ねているのは、もしかしたらこの次、水が動いた時、この人が自分を水に最初に入れてくれようとしているのかもしれない、そのように考えたとも思えます。

ですから、「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」という、もはや諦めかけていることを言うのです。まあ、ここでちょっと気になります言葉、彼がここで、「主よ」と言っている点ですが、これはサマリヤの女性の話の所でもありましたように(4:19)、「先生」と言うことと同じ意味で言っているのであります。ですから、そのようにとるべきであり、従って、イエス様を救い主として信仰を持って言っているのとは違います。

まあ、ともかく、相手が誰であれ、彼の願いは、やはり、なんとかしてでも治りたいという思いであったでしょう。そしてそれを間接的に表わしていたのかも知れません。
彼の7節の言葉は、この世のはかなさをしみじみと感じさせられます。人間性の無情さ、不親切さを故意に明らかにして、同情を買おうとしているように言えるかも知れません。

水のほとりで何年も、あてもなく、助けてくれる友すらない。ただひたすら待ち続けている一人の哀れな男の人を考えてみますと、この世に長く生きていればいるほど、この世が利己的であることと、病人や悩んでいる者には、必要な真の友が殆どいないことが見えてきます。箴言14:20 には、「貧しい者はその隣人にさえ憎まれる」とありますが、まあ、そんな感じでありましょう。しかし、イエス様だけは、そうではないのであります。イエス様だけが、友無き者の友となり、助けのない時に助け手であられるのです。

彼にどれ程、治りたいと言う意欲があったかは分かりません。が、それは別にして、イエス様は、彼に命じられたのであります。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
私は、このイエス様のお言葉と、9節の状況との間に、実に不思議なものを感じるのです。それは、他の箇所でもそうですが(マルコ3:5 ルカ17:14 )、イエス様はただ、お言葉を発せられるだけなのです。「手を伸ばしなさい」とか「行きなさい」とかというようにです。

今まで、さんざん誰にも相手にされなかった。あるいは、医者に見せても治らなかった。いいえ、全く希望を持っていない状況でイエス様と出会い、いつも間にか、イエス様からでる不思議な力、この方なら、もしかしたら何かしてくれるのかもしれない、そういう思いが内側から起こされていくという不思議です。そして、投げ掛けられたお言葉によって、もしかしたら、それが、水が動き始めたので、
さっと、一番にいれて下さるのかな、というのではなく、ただ、お言葉を聞いて、その男の人が素直に従っているという不思議さです。

今までに、困難を味わって来ていればいる程、そう簡単には、人の言葉を信じて従ってみようとは思わない、これが普通であると思うのです。しかし、イエス様に出会った人は、何の迷いもなく、そのイエス様のお言葉に従っているのであります。そして、その従った結果、祝福の実を受けているのです。今までこうだったので、先生、そんなことを言われてもできません、いいえ、できるはずがありません、とは言っていないのです。

イエス様に出会った人は、その時から変えられているのです。自分でイエス様に変えられようと願っているわけではありません。勿論、中には、イエス様を救い主と認めて、癒しを求めている人達もいないわけではありません。でも、今回のように長く患って、殆ど治りたい気力を失っている。誰も手を貸してはくれない、そんな状況の中で、「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」とのお言葉に素直に従っている男の人の何と言う素直な姿勢、それは、どこから出てきたのだろうと思わされるのです。そして、それははからずも、イエス様がその人の内側にその思いを与えて下さったからこそ、お言葉に従ってみよう、そういう力が与えられたと言えましょう。

そして、これは、現在の私たちにとって、どんなに素晴らしい事実でありましょうか。
イエス様にお会いするだけで、私たちの必要をすべてご存じであり、そして、それを求めることを許して下さる。あるいはまた、その求めに喜んで応えようとして下さっている、これは、イエス様にお会いした人しか味わえない素晴らしい特権ではないでしょうか。

今回登場しました男の人は、殆ど諦めていたことでしょう。しかしイエス様は、その人をたちまち癒してくださいました。その人はイエス様を知りませんでしたから、イエス様に対する信仰によって癒されたのではありませんでした。あるいはまた、動けない状況でしたので、自分から進んでイエス様に近付いて救いを求めたのでもありませんでした。イエス様の方から来て下さり、彼に声を掛けてくださり、豊かな愛と憐れみによって治してくださったのであります。この男の人は、何と言う幸いであったことでしょうか。

私は、病気のすべてが、罪から来ているとは言いませんが、少なくとも、この男の人は、次回見ます14節の所で、イエス様が「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」といわれているところを見ますと、罪の結果そうなった、と言う風に受け取ることも可能です。しかし、ある人は、罪の結果と言うより、イエス様の励ましのお言葉であり、これからの歩みに注意しなさいというお言葉に解釈する人もいます。罪人と言いますと、私たち皆が罪人でありますから、そして、その罪は、人の力ではどう処理することもできないのです。イエス様に取り除いていただくしかない、そう聖書は語るのです。ですから、イエス様にお頼りするしか有りません。

体が健康であることは大切で有り、有り難いことですが、魂が罪と言う病気によって不健全になっていることは極めて恐ろしいことであります。魂の病気である根本原因が罪であることに対しては、自分の努力や意志では治すことは出来ません。イエス様だけが、その罪から私たちを救う事のできるお方であり、その為に、この世にお出でになられたのであります。その方が、私たちに本当に癒されたいのですかと呼びかけておられます。健全な体と健全な魂で、この世を歩むことができるなら、その人は何と言う幸いな人生を送れることでしょうか。イエス様の一つ、一つのお言葉の語りかけに対して、私たちは真実な願いを持ってその呼び掛けにお応えして行こうではありませんか。

2004年8月15日(日) 「昔も今も働く神」  ヨハネ5:10-18   竹口牧師

今朝の話は、先回の5章1−9節の話の続きでありまして、10節から18節までを範囲としました。少し振り返って起きますと、エルサレム神殿の近くの羊の門のあたりに、ヘブル語でベテスダ(訳すと慈しみの家)という意味の池がありまして、そこに大勢の病人が集まっておりました。その理由は、そのベテスダの池の水が動く時に、一番最初に入った人の病気が癒される。そういう言い伝えがあったからでありました。そこには、38年もの間、病気にかかっている人がいたのですが、先回の場面で、イエス様が癒して下さったという所で終わりました。イエス様は、その病人に向かって、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と言われますと、彼の病は癒され、床を取り上げて、歩き出したのでありました。

「ところが、その日は安息日であった」と9節の終りにはありまして、今回は、その安息日問題で、話題は沸騰するのであります。恐らく、その男の人が癒されてまもなくの場面に、ユダヤ人が居合わせたのでありましょう。中でも、宗教指導者がいたと思われるのでありますが、その人はこう言ったのでありました。「きょうは、安息日だ。床を取り上げてはいけない」とであります。この安息日のいわれは、天地創造の記事の中で(創世記1:1-2:3 )6日間の創造の業を終えられた神様が休まれ、その第7日目を祝福し、この日が「聖である」と宣言されたことから来ています。

この創造の記事の中に、直接「安息日」という言葉は使われていないのですが、
モーセの10の言葉、いわゆる十戒の制定に至って、その第四番目に安息日に関する戒めが掲げられ、その根拠として神の創造のざわに言及しています(出20:8-11 )ですから、ユダヤ人達は、第七日目を安息日として、休むようになったのですが、
それはまた、本来、何もしてはいけない、と言う事ではありませんでした。しかし、律法学者たちは、その十戒の中にある、「仕事をしてはならない」という言葉に注目し、仕事とは一体何を指すのか熱心に研究しました。そして39もの労働の主要な種類を規定したのでした。

その中には「1.種蒔き、2.耕し、3.刈り入れ、4.束造り、5.打穀、6.もみがらふるい、7.作物を洗う事…」などなどがありまして、一番最後の39番目に「何でも一つの場所から他の場所へ移す事」というのがあるのであります。(ミシュナー)(シャバット7:2 )そして、この39番目の項目、他の場所に移動してはならないというのに違反していると宗教指導者達はとったのでありましょう。


でも、その体が癒された人は、癒して下さった方の命令には背きたくありませんでしたし、また、そのお言葉にお従いすることが当然だと考えたでしょう。更には、自由に動けるようにしていただいた喜びを、そのままにしておくことも無理であったでしょう。ですから彼は、言われた通りに、行動したわけでありました。そしてその彼を見つけて問うユダヤ人に向かって彼はこう答えたのであります。「私を直してくださった方が、『床を取り上げて歩け。』と言われたのです。」と。すると今度は、ユダヤ人達は、「『取り上げて歩け。』と言った人はだれだ。」と言い、13節では、「しかし、癒された人は、それが誰であるか知らなかった。人が大ぜいそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。」とあるのであります。

聖書を読んでおりますと、病気が癒された人が、その喜びをどのように現すか、様々であることが分かります。今回のように、どこの誰だか知らないけれども、このようにして今は歩けるようにしてもらった。せめて、お名前だけでも教えていただけないでしょうか、と名前を聞いていても良さそうでありましたが、いつも間にか、知らない間に、イエス様は姿を消され、彼は、恵みを頂いただけとなったのでありました。

その人は、イエス様を救い主だと信じて癒されたのではありません。また不自由な体ですから、自分から求めて行ったわけでもありませんでした。ただ、恵みによってその38年間の苦しみから解放されたのでした。この「ただ恵みによって」と言う言葉は、実に素晴らしい言葉であり、真理です。また、この「ただ恵みによって」私たちは罪から救われたのでした。まことに感謝なことであります。

ところで、再び会うことなど考えもしなかったであろうその人が、宮で、イエス様とお会いするのであります。恐らく、イエス様の方から近付かれたのだろうと思うのでありますが、そのイエス様は彼にこう語りかけられました。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」とであります。これは、聞きようによっては、恐ろしい言葉であります。

ですから、このイエス様のお言葉を巡って、どういう事を意味しているのだろうか、学者はいろいろ考える訳です。大きく、二つの捉え方があります。その一つは、「あなたは癒しを与えられたのに、また罪を犯せば、その報いとして、これまで病気で苦しんできたよりも、もっとひどいめにあうだろう。」という解釈であります。しかし、そのような考え方をしますと、因果応報と言われるもの、つまり罪を犯すと、その報いとして何かが自分の身に起こるという罪と病気とが密接に関係してくることを指しているのであります。ところが、それにつきましては、この後の9章の所で見るのですが、「生まれつき目の見えない人」の癒しの出来事が書いてありまして、それと合わない事が分かります。

つまり、イエス様の言われた事の意味が全く違っているのです。そこでもう一つの解釈があります。それは、「あなたは病気を癒されたのだから、もう罪を犯してはなりません。さもないと、そういう恵みを受けたのに、なおも罪に留まっていれば、その事自身が、あなたにとって、もっと悪いことになる。その事自身が、この人がこれまで苦しんできた病気よりも、もっと悪いのだ。」と言う具合であります。そして恐らくは、この後者の方の意味でありましょう。つまり、これからの歩みの為にイエス様は言われたと言えるのです。

ところで、考えてみますと、この男の人は、神殿のそばのベテスダの池にいながら、
神様を礼拝する事は、少なくとも38年間はできなかったと思われます。それが、癒されたことによって、神殿に自分で歩いて行って礼拝をお献げ出来るようになったのは、大変嬉しいことでありました。と同時に、その人が、実際にそうしているという現実は、神様に感謝する心があったと読み取れるのであります。

体が癒された。実に嬉しい。この38年間、どれだけ神様に歩けるようにして下さいと願ったことか。癒された今はもう、行こうと思えばどこにでもいけるのだから、これまでしたいと思っていたことを全てやってやろう。そして、暇ができたら、神殿に行って神様にでも感謝しよう、そういうのではなかったのであります。恐らく、13節までの事と、14節との間には、それ程、時間的な、あるいは日日的な差は無いと思えますので、彼は癒されたら、もしかしたら一番先に礼拝に行ったのかも知れません。期間的な事は分かりませんけれども、ここに彼の神様への信仰姿勢が見られるのであります。

そしてそんな彼に、これからの彼の生き方に、イエス様は助言を与えておられるのではないでしょうか。彼は、神殿に行っておりましたが、自分の体を癒して下さったイエス様が来ておられるとは知りませんでした。ですから、彼にとってみれば、イエス様とばったり会ったということでしょう。そしてこの時に、癒して下さった方が誰であるか彼に分かったのでした。彼はその後、「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない」とか、「取り上げて歩け」と言った人は誰かと厳しく問い詰めた人に、イエス様の名前を伝えに行くのであります。そのために、18節を見ますと、「このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである」ともあるのであります。

私が思いますには、その男の人が、イエス様から受けた恵みと、その後に取った行動、つまりイエス様のお名前を通報するという行動とを、どのように考えればよいのか迷うのであります。12節のユダヤ人の言葉の調子からしますと、明らかに、自分の体を癒して下さった方イエス様に対して不利に思える事を、15節では行なっている。この人は、一体何と言うことをしたものか、そう思えてきます。と同時に、この当時ユダヤ人のイエス様に対する態度が悪化している。またそれだけに、通報せざるを得ない状況であったのだろうかとも思わされます。

いずれにせよ、彼の行動がイエス様に対する迫害の最初であったとは言えませんが、イエス様迫害に荷担したことだけは確かであります。そもそも、ユダヤ人達が問題にしています安息日問題は、何もここの出来事だけに限りません。マタイの福音書12章の最初の所で、安息日にイエス様が弟子たちと一緒に麦畑を通られた時に、弟子たちが空腹のあまり、麦の穂を摘んで食べたことから、パリサイ人が、これは安息日を破る行為だと言って非難しましたし、安息日に、片手のなえた人を癒されたこともあったのでありました。その時に、イエス様ははっきりと「人の子は安息日の主です」と言われたのでありました。

このイエス様のお言葉こそ、安息日に病を癒された決定的な答えがある、と言えるのであります。勿論、イエス様は、自分こそは安息日の主なのだから、安息日の規定を無視して破っても構わないとは言われませんでした。イエス様は、当時の宗教的風習を軽視したり、あるいは無視したりはされなかったのであります。まして、ユダヤ人達が重んじていた律法が持っているそれなりの重要性を、否定されたりもされなかったのでありました。しかし同時に、イエス様は律法を作り、律法を与えられた父なる神様を忘れることもされませんでした。そこでイエス様は、問い詰める彼等にこう言われました。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」と。

彼等の厳格な神の律法を守る仕方に対して、イエス様は、そのような仕方は本来の神の意図を知らない、表面的で、自分勝手なものであると指摘されたのであります。イエス様は神を「私の父」と呼ばれました。これは自分も神であると言っているのと同じであります。キリスト教の異端の中に「イエス・キリストは神の子であって、神ではない」と言っているグループがありますが、それなら、ユダヤ人がイエス様の行動や言葉にそれ程怒る必要もなかったでありましょう。

実際は、ご自分を神としておられる故にユダヤ人は怒り、そして彼等にはイエス様の行動が理解できなかったのでありました。イエス様は、神が、あらゆる物の創造を6日で終えられて、7日目を休まれたと言うのは、神様が活動を休止されたのではない。神様は、お造りになった生命を保ち、悪をコントロールし、審きをするなどのお働きを今も休みなく続けておられるのだ、そのように言われたのでありました。その神の御子として、真の神の御心を行われるイエス様も、安息日に神を礼拝することや、神様を讃美するのは大切なこととされておられました。

ですから、ユダヤ教の人々のいうような休みではなく、神のみ旨に沿って、命を与え、これを保つためのお働きをもイエス様はなさるのでありました。ユダヤ教の指導者たちは、イエス様の安息日の取扱いも問題にしましたが、それ以上に、18節を見ますと、「イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。」ということで、ますます殺そうとすることになって行くのであります。

彼等の律法に対する曲解が、イエス様迫害へと突き進んでいくのであります。イエス様が、間違いを指摘されればされるほど、彼等の心は堅く閉ざし、いよいよますます牙をむいて向かってきたのでした。今日の私たちキリスト信仰者にとって、安息日とは何かを考える時、決して、ユダヤ教的な意味での安息日ではないことは、確認しておかなければならないでしょう。

まず、彼等は、第7日目を安息日とし、金曜日の夕方から土曜日の夕方までを、その日としますが、私たちキリスト者は、主の甦えりの日を彼等の言う安息日に変えて礼拝日としているのであります。そして、さらに、その守り方も、あれをしてはいけない、これをしてはいけないと、律法が本来定めていないことをもって、禁止もしていないのであります。

もっとも、聞くところによりますと、戦後間もなくの頃の事でしょうか。クリスチャンであっても、多分にユダヤ人的であったと聞いています。それは律法を杓子定規に受けとって、いろいろ自分で定めて守ろうとしたのだそうであります。たとえば、主の日には何もしてはいけないとして、仕事も勉強もしない。土曜日の夜の12時が来ると全てをやめる。日曜日の夜12時が来ると、仕事や勉強を始める、きっちりと、分、秒まで守った人がいたそうです。

勿論、礼拝よりも仕事や勉強や、旅行を優先するということは、避けなければならないのはいうまでもありません。また、時間を決めて、それを守っていれば、律法に違反していないと取るのは、これはパリサイ人とあまり変わらないと言うのが事実でしょう。それは、人が安息日に支配されているからであります。人間が安息日の奴隷となって、仕えていることになりましょう。そういう人に対してイエス様は、
「安息日は人のために設けられたのです」と言われたのでした。コロサイ書2章16−17節には、こうあります。「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、
あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」

イエス様がこの地上に来て下さったことによって、彼等が律法を曲解し、人々をその律法によってしばり、ここでは38年間も不自由な歩みをしていた男の人を自由へと解放して下さった。イエス様とは、そういうお方である。またイエス様をお遣わしになった父なる神様も同じである。今も、昔も変わらずに働いておられる。それゆえに、私達が守られていることを覚えたいのであります。

一週間に一日だけの憩いと言うより、いつも神様は働いておられる故に、いつも憩いを頂くことができるのです。イエス様が十字架にかかってくださり、私達を罪から解放して、さらには復活して、今は天におられ、父なる神様と共に働いておられるのですから、私達もまた、主の御名が崇められるように、主の日には、共に集まってキリストの御名を崇めるだけでなく、普段の日においても、主を高らかに褒めたたえる日々でありたいものです。

2004年8月29日(日) 「父なる神と御子」  ヨハネ5:19-24  竹口牧師

前回見ましたところに於いて、ユダヤ人達は、安息日に許される労働と、そうでないものとについて、39箇条に及ぶ規定を持っていたことをお話ししました。また、その中には、荷物を運ぶ事を禁じたこともあり、それは、38年間、ベテスダの池のそばで、ひたすら癒されるのを待っていたであろう、あるいは諦めていたかも知れない男の人を癒された。その時に、イエス様が「床を取り上げて歩きなさい」と命じた事が違反に当たるとして、ユダヤ人達はイエス様を迫害し、殺そうとした、という所で終りました。

あの時、イエス様は、「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」と言われました。実際のところ、父なる神様は、休むことなく働いておられますので、イエス様もそうしたのだと言われたのでありました。神様は創造のわざを第7日目には休まれましたけれども、確かに、世界の摂理的統治と、その創造されたすべてのものの必要を日々与えてくださる哀れみの業は、一日たりとも休んではおられないのであります。と言いますのも、父なる神様が万が一、そういう仕事を休まれた場合、全自然機構は停止してしまい、この世は混乱するからであります。太陽を東から上らせ、草木に水を与え、生き物には餌を獲る事ができるようにしてくださっているゆえに、この世界は、続いているのであります。

ところで、そうした事実を踏まえて、イエス様は父なる神様と子としてのご自分の立場というものを、明確に語られた所が今日の箇所であります。神様は全能なる方で、出来ないことは、何一つない。そのように私どもは認識しております。実際そうなのであります。神様に出来ないことは何もありません。ただし、ご自分のご性質に反する事はお出来になれません。たとえば、偽りを言うとか、罪を犯すとかというようにであります。それらは、ご自身のご性質に反する故にできないのです。
というより、されないのです。

さて、今日の聖書箇所の19節を見ていただきますと、イエス様にも出来ない事があることに気付かれるでしょう。それは、「子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。」ということばから、イエス様にもお出来にならない事あると、はっきりと言われているのであります。
イエス様は、「父がしておられること以外は行う事ができない」しかしまたここで、
「父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。」とも言い切っておられることは、忘れてはなりません。

私達は、ある子供を見ながら、非常に軽蔑したような思いで、「親の顔を見てみたいもんだ」などと言うことがあります。勿論、非常に素晴らしい子供を見て、「ああ、あの子の両親はきっと出来た人なんだな」と、そのように感ずることがないわけではありません。しかし、多くの場合、否定的な面が多いような気がいたします。

ところで、子なる神様であるイエス様と、父なる神様との関係は、今私が言いましたような、人間の親子間の見方、あるいは、あり様とは全く違う事をまず申し上げなければなりません。確かに、子供は親のしていることを見て、習い、覚えて行きます。昔ならば、その家の稼業を継ぐ場合はなおのこと、親のする事なす事をしっかりと見て育ちますし、また、そう子供には要求されるものであります。最初は未熟かも知れませんが、親は技術を子供にしっかりと教え、同じようになってくれる事を願うものであります。

あるいは、それを越える技術を子供が習得したとしても、それは人間の世界のことであり、父なる神様と子なるイエス様との間にある関係は決してその人間の間の親子間とは比べられないのであります。それは、私達人間は、その方によって造られた存在であるからです。ですから、私達人間の親子間との比較で見ると分かりやすいのですが、非常に注意を要する事も覚えなければなりません。

父なる神様と、子なる神イエス様との関係は、この地上での何かではっきりとは説明できないからです。はっきり説明できないからキリスト教の言う三位一体の教理が間違っているとは決して言えません。神様は、私たちの持っている知恵を超越しておられる方だからであります。イエス様が19節で言われていますのは、父がしておられることを見て行なうという点と、父がなさる事は何でも、同じように行なう事ができるという点です。

つまり、父と子とは等しい関係なのです。「自分から」は助けなしに、ひとりでは出来ないという意味ではなく、自発的に自らの意志でしないという意味であります。
子は、父と等しい故に、また、その結果、言葉には言い表せない程の知恵で、父なる神様を見て、全くそのようになさる。なぜなら、父と子は、全く一体なので二つの位格でありながら、一つの神であられるので、父がなさる事を子もまた同様になさるのであります。それゆえ、子の行為は、子独自の行為ではなく、父の行為でもあります。そして、この「同様に」とは、同じやり方でという意味です。

ところで、イエス様は父なる神様のお働きを間近に見ることのできる方であります。
子なる神様としてイエス様は、他の誰もが近付くことのできない父なる神様に最も近くおられます。また父なる神様のお考えを完全に知ることができるお方です。ですからイエス・キリストは父なる神様のお考えに沿って、まったく同じ事を、同じ仕方でなさるのです。似たようなことをされるのではなく、同じ事を同じになさるのは、父なる神様と子なる神様イエス様が一体であられるからなのです。この福音書の著者でありますヨハネは、初めの所で、真の神様を見た者はいないと申しました(1:18)。そしてイエス様という子なる神様だけが私たちに真の神様の御心、お働きを正しく、明らかにされたのでした。

ですからイエス様のお言葉を聞くのは、神のお言葉を聞くことです。イエス様のお働きは、神がなさるお働きです。旧約聖書を読んでいますと、神様を直接見る事に非常に恐れを抱いていることが分かります。ヤコブがヤボクの渡しの所で神の人と戦って勝利した時、こう言いました(創世記32:30 )。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」と。また士師記に登場します士師の一人サムソン、そのサムソンの両親の前に、彼が生まれる前に主の使いが現れた時、ご主人のマノアという人は言いました。「私たちは神を見たので、必ず死ぬだろう。」(士師記13:22 )あるいはまた、神様が十戒をイスラエルに与えて下さっている時に、民たちは非常に恐れを抱いてモーセにこういいました。「どうか、私たちに話してください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお話しにならないように。私たちが死ぬといけませんから。」(出エジプト20:19 )それ程に、神様と人との間には、大きな隔たりがあるのですが、人となってきて下さった子なる神イエス様は、父なる神様と一体的な関係であると言われるのです。ヨハネはイエス様がこういわれたと8章42節に書いています。

「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです」とであります。そして、その遣わされたイエス様は、父の御心を、同じ仕方で、同じ事を行なわれるのです。

先程言いましたように、父と子とは一体だからです。ですから、イエス様のお言葉を聞くのは、父なる神様のお言葉を聞くことであり、イエス様のお働きは、父なる神様がなさるお働きなのです。20節でヨハネはこう書いています。「それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。」

ここでは、さらに父と子とは、一つであると言う事を論じています。が、ここで私たちが勘違いしてはならないのは、「父が愛して」とか「父がお示しになる」というみ言葉を読んで、このみ言葉が、父と子の聖なるご性質と本質に関して、何か父が子より優れ、子が父より劣っていることを意味するようにとる。それは間違いです。

それは、ここで使われている愛は、この世の両親の、愛する子に対する愛ではないからです。「示す」とは、教師が無知な学生に示すのとは違うのです。この愛は、父と子の間に永遠から存在し、今なお存在する。言葉に尽くせない心と愛情の一致を私たちに示そうとされているからです。この「示す」というのは、御子がこの世にお出でになった時に行なうあらゆる働き、すなわち、仲保者の職務を行ない、罪人を救う働きに関して父と子との間には、完全な信頼と協力があったという意味であります。

これから示されます「これよりも大きなわざ」とは何かと言いますと、いのちを与えることと、さばくことであります。そして実際、ユダヤ人達が「いのち」を与える働きに、「驚き怪しみ」、当惑している様子は、使徒の働きの中に示されています。そしてそれ以上に、キリストが再臨され、異邦人を審き、エルサレムを再興し、イスラエルを集め、ユダヤ人の不信仰を悟らせ、地のおもてを新しくされる時、ユダヤ人達は、主の審きの御業に「驚き怪しむ」ことでありましょう。

私たちは、神様の聖なる三位一体を説明しようとするとき、どうしても、言葉の限界、人間の理解力には限界があることをしっかりと覚えておかなければなりません。
そうしないと、真理からどんどん離れていくことになるからです。理解できなくても、そのまま受け入れることも大切な要素であります。二人の聖なるお方。二つの位格であられるが本質的においては、一つであるお方、現れにおいては、二つでありますが、心と意志においては一つなるお方。子の人性に関しては父より制限がありますが、神性に関しては、あらゆる点で等しいお方の関係を表現しようとヨハネはしているのであります。

このような二つの位格の関係のいかなる観念を伝達する言葉を見つけようとしても、なかなか困難を伴うのであります。ですから私たちは、イエス様の話されたお言葉を読むときに、この世の父と子の関係を読んでいるのではなく、神として本質的には一つであるけれども、同時に別々の二つの位格を持っておられる。そういう父なる神、子なる神のことを読んでいるのだということを常に頭のすみに置いておかなければならないのであります。もし、そうしなければ、理解できないからといって分かりやすくしようとして、無理にこじつけたり、否定したりして異端に走ることになるのです。それは聖書の教えから離れることになります。

21節を見ますとイエス様はこう言われたとあります。「父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」と。ここにはイエス様のお働きが二つ明らかにされています。その一つは、人に命を与えるお働きです。その命を与えるお働きは死人をも生かすお働きです。旧約聖書では、神だけが命を与え、死んだ者を生かす方だと教えていますので、イエス様のこのお言葉は、ご自分が神であると示しておられるのです。イエス様は人に命を与える方であります。

私たちが今生きている命も神であるイエス様によって与えられたのでありますが、
永遠の命と聖書が呼んでいる新しい命もイエス様によってだけ与えられるのです。
それも「与えたいと思う者に」と言われていますから、誰にでもというわけではないのであります。子であるイエス様が、父なる神様と同様に、私たちの力ではどうすることもできない力で、ご自分の意志のままに、肉体的にも霊的にもいのちを与えるという、「子の権威」でもってされるのであります。そして、その事を明確にしておられるのです。

父なる神様がイエス様にお示しになったもう一つの大きな業は、審きを行うことであります。これも神様だけが正確に完全に行われるお働きだとユダヤ人達は認めていましたので、イエス様が神様であるとご自分で宣言されたことになるのです。父なる神様の、罪人を贖うその贖いのご計画において、父なる神様が世を審く全権を御子イエス様にゆだねることによって、御子に栄光を帰しておられることを理解しなければなりません。勿論、御父の性格上、審きが御父と全く関係ない働きである
と言う意味ではなく、審きは御父が完全に余すところなく御子の手に委ねられた仕事である、という意味であります。

罪人の為に死なれた御子イエス様。そのイエス様が、罪人を審くのであります。使徒の働き17:31 にはこう書いてあります。「神は、お立てになった一人の人により、
義をもってこの世界を審く」とであります。ですから、イエス様はこれらのお言葉から、全宇宙の創造の初めから世の終りに至まで、イエス様は神として、神と共に神の業を行われている方であると私たちは知るのであります。そうだとすれば、私たちはイエス様を真の神様として崇めなければなりません。

イエス様を神として崇めると言うことは、イエス様のお言葉に従う事、その教えを受け入れ、認め、信じることであります。23節でヨハネはこう書いています。「それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。」父と子とはこのように一体ですから、どちらかを敬い、どちらかを敬わないと言う事は有り得ないのです。

聖書が伝えているイエス様の救いのお働きを、自分のために成された救いのみ業として、心からの感謝と信仰を持って受け入れることであります。父なる神様は、子なる神様イエス・キリストに命を与える業、審きをなす業を託されました。イエス・キリストのお言葉を聞き入れて、この方は真の神であり、真の救い主であると信じるならば、イエス・キリストによって永遠の命が与えられ、それを保ち続け、神様を信じていないで歩んでいたすべての罪も赦されて、審きに会うことがないのであります。

もし、あなたが救われたいと願われるなら、
あなたの重荷の全てを、この力ある救い主イエス・キリストに置くことを学んでほしいのです。完全に頼れば、恐れる必要はどこにもないからであります。キリストは千歳の岩、頼れる岩であり、それゆえに、キリストに頼る人は決して揺るがされることはないのです。病にも、死にも、審きの日にも決して揺るがされることがない。そのような頼れるお方、神の御子イエス・キリストをあなたの救い主と信じるようになっていただきたいものです。また、すでに信じている者にとって、もっともっとイエス様に信頼して、どっしりと腰を据えた教会生活を送らせていただこうではありませんか。



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