2004年9月12日(日) 「救いと審き」 ヨハネ5:25-29 竹口牧師
先回の最後の聖書箇所24節と今回の最初の聖書箇所25節と続けて「まことに、まことに、あなたに告げます」という言葉が出てきます。そして、この言葉が出る時には、イエス様は、大切なことを話されるので注意して聞かなければなりませんと、3章のニコデモの話を見るときにお話しました。ですから、今回もまた大切なことが話されていることを覚えながら、見ていきたいと思うのであります。
先回は父なる神様と子なる神様との関係をみましたが、これは、この章の最後まで続きますので、この大事な教えにしっかりと目を向けて読んでいくことに致します。まずは、今回の聖書箇所の最初25節をもう一度お読みします。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。 そして、聞く者は生きるのです。」とあります。
この25節で、私たちが注意を必要としますのは、「死人」という言葉が、28節にあります「墓の中にいる者」とは違うと言う事であります。ここの25節で言います「死人」とは、霊的に死んでいるものの事であり、従って肉体的には、まだ生きている者のことであります。逆に、28節での「墓の中にいる者」とは、文字通り、死んでいる人のことであります。このことを踏まえた上で、まず25節から順を追って見ていくことに致します。
言うまでもなく、イエス様は御子なる神様であられます。そして、そのイエス様には、父なる神様から二つの働きが委ねられているのであります。その一つは、「生かすこと」であり、もう一つは「審くこと」であります。そして、これは、私たちにとって非常に大切な関わりを持っています。それは私たち一人一人が、そのイエス様の二つのお働きによって永遠に渡って命がどうなるかを決定するからであります。 そこでまず最初に「生かすこと」について考えてみることにします。
イエス様は、「死人が神の子の声を聞く時が来ます」と言われました。そして、この死人とは、先程も言いましたように、肉体的に死んでいることを指していないのであります。聖書で言っています霊的な死のことであります。つまりこれは、パウロがエペソ書2章1、2節のところで、こう書いている通りであります。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」こういう状態を指しているのであります。何が善であり、何が悪であるか、この世の基準によっても、誰一人、完全には行うことができないのが普通です。ましてや、神様の前には、その善悪の区別さえ分からないほど、人は、霊的に死んだ状態にいると聖書は言います。
そういう死人が、神の子の声を聞く時がくる。そして、今がその時だとイエス様は言われるのです。「神の子の声を聞く」という「聞く」とは、信仰を持って聞くことを意味します。み言葉が人を通して語られる時、あるいは個人で聖書を読む時、あるいは、何かテープとかCDとか、そういうどんな方法であれ、神のみ言葉を聞くと言う事は、信仰を持って聞くことを指します。そのためには、まず神様が働いて下さるのであります。
ローマ書10:17 にこういう言葉があります。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」と。み言葉を聞いて、それにお従いする。あるいは、み言葉を聞いて、それに全存在をかける。自分の人生の全てをその言葉に、そのお方に信頼することであります。「彼に信頼する者は、失望させられることがない」と、パウロはローマ書で言っている通りです(10:11 )。これが、神の声を聞くと言う事であります。聞きっ放しではなく、それにより頼むのであります。
イエス様は、25節でまた、「聞く者は生きるのです」と言われています。生まれたままの状態では人は、霊的には死んだ状態ですから、それが生きると言うのは、命ある者とならせていただけるという事です。これは、一人の人間にとってとても大切なイエス様のお働きです。なぜなら、単にこの世にあって生きる、死ぬと言うだけでなく、魂の問題ですから、永遠の神の祝福の中に生きるかのか、それとも、祝福の源である神様から切り離されて存在し続けるのか、という大きな違いがあるからです。
この世での私たちの命は、神様によって与えられた命であります。決して自分で作り出したり、手に入れたものではありません。それにもかかわらず、私たちは神様を必要としないなどと考えて、神様なしの生活を、人間らしい生活だと思い込んでいます。信仰を持つとそれに縛られ、自由がなくなる。そのような生き方は、嫌だし、また自分には全く関係ない世界だ、などと多くの人は考えています。ですから、確かに人は生まれながらの状態では、神について、義については死んだ者であります。
その死んだ者に対して命を与えて下さる方が誰であるのか、イエス様は26節で語られるのであります。「父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにして下さったからです」と。ここには、御父と御子との関係が述べられていますが、その事をまた人間とイエス様との関係でいいますとこうなるでしょう。イエス様は真の神様でありますから、与えられることもなく、借りることもなく、ご自分で命を持っておられるお方であります。他の何にも頼ること無く、ご自分だけで存在なさる方であります。
そのイエス様が、先回見ました24節のところで、「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」と宣言されました。そして、まさにそのように信仰者は命に移らせていただいているのです。その命は、イエス様とつながり続けることによって保ちます。木に例えれば、幹がイエス様であり、枝が信仰者であります。枝は幹から離れては生きていけません。それと同じ様に、命を与えられるイエス様に結び付いている必要があるのです。
人間にしろ、他の生物にしろ、また、三位一体の真の神様以外のあらゆるものは、神様によってしか存在することはできません。真の神様なしには生きることはできないのであります。それを信じるか否かは別として、それが真理なのです。私たち信仰者は誰でも、神が全ての命の創造者、源であられると認めています。その事を認めていながら、26節を読んで誤解しないようにしたいものです。つまり、「子にも、自分の命を持つようにして下さった」という部分からそれが、神様がただの人間に、 預言者や使徒というような賜物を与えられるのと同じ様に子にいのちを与えられたと言う風に取ってはならない事です。
それよりもむしろ、人間のあがないに関する神の永遠のご計画において、神は、三位一体の第二の位格である愛する御子が人間に命を与える、そいう者となるように任命されたという点に目を向けるべきです。この書の著者ヨハネは、第一の手紙5:11でこう書いています。「神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです」まさにその書いている通りであります。ですから、「与える」というのは、子の神的本質に関する限り、子が父より劣ると言う事を決して意味していないのです。この点はしっかりと踏まえておかなければならない真理でありましょう。
「御父も御子も同一のいのちをもっている。共にそれぞれの中に持ち、共に同等に持っている。ただ一つだけ違うのは、御父は永遠より命を与え、御子は永遠よりいのちを受けるという事である」とある人は言います。聞くに値する言葉であります。 御父と御子とを切り離して優劣をつけることは間違いであります。
さて、イエス様に委ねられたもう一つの点を見たいと思います。それは審くことであります。すべてのものの創造主であり、支配者であり、統治者である神様は、すべてを秩序正しく治められます。またあらゆる事柄について善悪の判断を下す方であります。ですから、神の権威を認めなかったり、神の支配に服さなかったり、神の聖いみ旨に従わなかったり、神の秩序を乱そうとする計画を立てたり、行動したりする事などは、正しくないこととして、審かれるのであります。
父である神様は、この独占的な審きの権威を御子である神イエス様に任せられました。27節にある通りであります。「また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。」イエス様を罪からの唯一の救い主と信じる者に永遠の命をお与えになるお働きと共に、イエス様は、罪を悔い改めないでその中に歩み続けている者を審きを通して罰する方であるのです。第2コリント5章10節にこういう言葉があります。「私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」
イエス様はここでご自分の事を「人の子」と言われていますが、これを一般の人が読みますと、「何さ、私たちも人の子ではないか」と受け取られやすいのですが、これはやはり旧約聖書との関連からイエス様が言われたことを知らなければなりません。それも、イエス様の時代、メシヤが待望されていましたので、それはまた非常に政治的な色彩が強いものでしたので、イエス様はあえて、メシヤという言葉をお使いになられないで、人の子と言う言い方をされたのでした。
そして、この称号の背後には、ダニエル書の人の子の概念があり、(ダニエル7:13において「人の子のような」という表現、「年を経た方」から「主権と栄光と国」とが与えられる終末におけるメシヤ的人物として描かれる)また、同時にイザヤ書における「苦難のしもべ」(52:13-53:12)の思想もある事も明らかであります。ですから、イエス様が「人の子」という言葉を使われたのは、王としての権威を持ったダビデ的メシヤの概念と、審判者としてのダニエル的人の概念とイザヤ的苦難のしもべの概念の中の、ここではダニエル的人の概念を指して言われたと言えましょう。
つまり、最高の権威、主権を持つ方として、「人の子」と言われているのです。イエス様があらゆる人を審く権威を持っておられるとの宣言であります。そしてこの審きは、世界の終り、終末において完全に行なわれるのです。ここでは、その最後の審きのことが言われています。ですから、24、25節で言われたこととは別のことです。最後の時に行われる審きは、いわゆる選別であります。29節にある通りです。「善を行なった者は、甦っていのちを受け、悪を行なった者は、甦ってさばきを受けるのです。」
このことで誤解してはならないのは、最後の審きの基準が、善行をおこなったかどうかという点です。私たち信仰者は、救いは行いによらないと信じています。では、なぜここで「善を行なった者」とか「悪を行なった者」と言っているかと言いますと、ここでいう「善」とは、この世一般に言われている「善」というよりも、神さまの求めておられる善です。イエス様によって救われた者である信仰者は、神さまが認められる善とは何かが分かり、信仰によってそれを行なう、信仰によってその善に生きるのであります。
信仰をいただいた人達は、善行を行う事が出来るようにされた人であり、信仰を頂いていない人達は、悪を行い続けた人達であると言う事です。生まれたままの人は、魂が死んだ状態ですから、当然でありましょう。良いことをしようとしても出来ないのが、信仰をいただいていない人なのです。この世の終りにすべての人をイエス様は復活させられます。人が死にますと、霊と肉体との結合が解かれて、肉体は地の塵に帰りますが、霊はそのまま存在し続けます。信仰者の霊は、天国へと行き、イエス様と共にいて、そこで、体の復活を待つのです。そして、イエス様が再び来られると、新しいからだが与えられます。
一方、神様の教えに反する者たちは、死にますとその霊は、地獄へと行き、苦しみながら体の復活を待つことになります。そしてキリストが来られたならば、同じく甦って体が与えられ、永遠の祝福の源から切り離されて、地獄の苦しみを味わい続けることになるのです。これは、実に恐ろしいことではないでしょうか。イエス・キリストを信じて罪の赦しをいただき、神の御心に従って生活した者は永遠の命を受け、一方、神の救いの道を退けて、自分の思うままに生きて、罪から離れなかった人達は、審きを受けて、永遠の滅びの判決を下されるのです。
つまり、イエス様は救い主として命を与える方であると共に、信じない者、従わない人を審く方であるのです。神のみ子であるイエス様が語られるみ声を聞く者とされるように、また人を生かす神の力が働いて、私たちにイエス様によって命が与えられていることを常に確認できるように、さらに世の終りの審きのときに、イエス様の救いをいただいて善を行った者として、滅びでなく、命を受けることができる者として、もっと神さまの恵みを求めて行こうではありませんか。
神の恵みを求めようではありませんか。聖書がここで「いのち」といっていますのは、神様の祝福のことであり、「死」といっているのは、祝福の源である神様から切り離されることです。あなたは今、どういう状態だとお思いでしょうか。聖書のお言葉に、あるいは、イエス様のお言葉に、心から喜んでお従いしておられるでしょうか。イエス様を救い主であると信じて、自分の罪を一切、精算されて、新しい歩みをされているでしょうか。イエス様は24、25節でこういわれました。もう一度そこを読んで終わりたいと思います。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」お祈り致します。
2004年9月19日(日) 「キリスト証言」 ヨハネ5:30-38 竹口牧師
自分を紹介する時に私たちは名刺を交換します。あるいは、誰か知人に紹介してもらいます。名刺で自分を紹介する場合、偽の名刺ではないかと最初から疑うような人には、信じてもらえません。実際に偽の名刺で近付く人がこの世にはいます。あるいはまた、知人に紹介してもらう場合もあります。その場合、その知人が有名な人か、あるいは、信頼できる人だと相手方がそのように認めていなければ、知人の紹介といえども、自分を信じてもらえません。こうしてみますと、なかなか自分というものを知ってもらうというのは大変難しいことが分かります。
今日の聖書箇所を一読されて、皆さんはどのように感じられるでしょうか。イエス様は、ご自分がどういうものであるかを、私たちには目に見えないお方であります父なる神様をバックにして語られているのであります。しかし、結論としては、38節にありますように、多くの人は、イエス様がどういうお方であるのか分からない、 あるいは信じないと言われるのであります。どこに問題があるのでしょうか。どのようにしたら、イエス様は父なる神様から遣わされた方であると知ることができるのでしょうか。
紹介された側に責任はないのでしょうか。偽者を信じることは、大変危険ですが、しかし、真の神様が遣わした方を、救い主と信じないのもまた、同じ様に危険であります。なぜなら、同じ滅びの道へと進むからであります。よーく、私たちはイエス様の語られるお言葉に耳を傾け、イエス様こそ、メシヤ、救い主であると更に確信を強めたいものです。先回は、イエス様が救いと審きの二つの権威を父なる神様から委ねられておられることをお話しました。
24、25節にこうありました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」また27節では、「父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです」と旧約聖書から言われました。
今回見ます聖書箇所では、イエス様が神の子であることを4つの点から示しておられますので、それを見ることに致します。まず一つの点は、天におられる父なる神様による証言です。二つ目は、バプテスマのヨハネの証言によります。三つ目は、イエス様がなさった奇蹟の御業による証言、四つ目は、ユダヤ人が尊重していると公言する聖書であります。現代でも、キリストの名を語りながら偽者が実に多いのですから、なんでもかんでも、キリストの名前を語っていればキリスト教だと信じるのは大変危険だと言えましょう。
今から約2000年前のユダヤ人達がイエス様を目の前にしながら、イエス様が、父なる神様のお遣わしなった御子であることを、なかなか信じることが出来ませんでした。そこでイエス様は、その点を明らかにされたのでありました。順を追って見ていくことに致します。
まず一つ目、父なる神様による証言を見ることにします。これはしかし、父なる神様が具体的に言われている所ではありません。父の御心を行うことによって、それが御父からでていることを証ししているといわれるのです。これは30節から32節までによく表されております。イエス様は言われました。「わたしは、自分からは何事も行うことができません。ただ聞くとおりにおこなうのです。」と。
これは、イエス様の、子なる神としての神的性質を考慮に入れながら読む必要があるでしょう。イエス様は神として、父と同一の意思を持たれているので、父と別個にご自身の望みを追及することは不可能であり、ですから、ただ聞く通りを行われるのであります。イエス様は子として、ご自身の神的意思とは別に、人間的意思を思っておられました。それは、十字架にかかられる前の晩の祈りに現れています。「この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたの御心のように、なさってください。(マタイ26:39 )」のようにです。
しかし、この意思とても、イエス様の神としての意思のように思われます。というのは、父の意思と私自身の意思が別個のものではなく、一人の人の心に意思が一つあるように、私の意思と父の意思は、一つのうちにある、ということだからです。 31節でイエス様はこういわれています。「もしわたしだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません。」これを言い替えますと、「私が、自分でメシアであると言うだけで他に証拠となる証言を提出出来ないのであれば疑われてしかるべきであろう」と言う意味になります。
ですからイエス様は、ユダヤ人達に神の子であると言った理由だけで自分を信じてほしくない。もっと別な証言を自分は持っている。そしてそれをこれから示そうとされていると言えましょう。32節でイエス様は言われます。「わたしについて証言する方がほかにあるのです。」この他の方とは誰のことを指すのか、二つの考えがあります。一つは、バプテスマのヨハネを指す。もう一つは、父なる神様を指すと言うものです。いずれにしましても、自分ではないことで一致しております。話の流れから言いますと、後者のほう、つまり、父なる神様を指すと言えましょう。そして、私は永遠の昔から、父の証しは完全に真理であることを知っていますし、知っていました、ということになります。こうして、父なる神様による証言が終わります。
33節から35節で、二つ目の証言が示されます。それがバプテスマのヨハネの証言であります。この部分の要約は、私の最初の証人は、バプテスマのヨハネです。あなた方自身、ヨハネが宣教し始めた頃、彼のところに人をやりました。彼はあなた方に、自分より偉大な方が来られること、自分がその方の来られるのを伝えるものであると言いました。また後日、彼が私のことを『神の小羊』と呼んだのも知っているはずです。あなた方は、バプテスマのヨハネがまさしく一人の預言者であったことを否定することは出来ません。
彼は忠実に私のことを証ししました。ヨハネはあなた方に本当のことを語りました」という具合です。だがしかし、この言葉は、イエス様が人間の証言のみに頼ったり、それを第一としているのではないよ。そのようにユダヤ人に気付かせようとして言われました。「私をメシヤとして受け入れよ」という私の主張は、バプテスマのヨハネや、誰か他の者の証しを拠り所としているのではない。もし、そう思っていたら、それはわたしの意図するところではない。ヨハネのことと、彼が私について語った証しのことを言ったのは、あなた方が彼から聞いた事を思い出し、彼の証しを思い起こす事で、あなたがたが信じて救われるためなのである。」と言われます。
ユダヤ人達は、バプテスマのヨハネを神から遣わされた預言者であると信じるけれども、イエス様をメシヤであると信じることは拒否する。その矛盾をイエス様がこの箇所でも、強く突いておられるのであります。もし、矛盾がなければ、ユダヤ人がヨハネを信じたなら、当然、イエス様をも信じていたはずであります(マタイ21:23-27)。35節は「彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願ったのです。」と言われています。これは、ヨハネに対する素晴らしい証しであります。
ヨハネは確かにキリストのような灯ではありませんでした。真の信仰者はみな、上から照らされて輝く灯でありますが、ヨハネの場合はそういう一般的な意味での灯ではなく、特別な灯でありました。特別な力と輝き、「燃えて」「輝く」灯であり、遠くから見える灯台のようでした。彼は過去においては灯でありましたが、しかし、現在は、燃えておらず輝いてもいない。」つまり、イエス様が、この時点で証言されているとき、もしかしたらヨハネはすでに殺されていたか、あるいは一線を退いていたか、その様に35節からは想像されます。彼は何々であったという過去形の表現だからであります。
「あなた方は……楽しむことを願った」というのは、多くの人がバプテスマのヨハネに聞き従ったのは、正しい意味内容を知らずに、ただ興奮していただけであった。 彼等は、ヨハネが語り、その道を用意しにきたと言っているメシヤをこの世に於いて、ある期間統治する王、征服者、またイスラエルにかつての輝かしい栄華をもたらす方と受け取ったであろう事は十分考えられます。
さて、3つ目の証言ですが、これはイエス様ご自身がなさった業、それによって証ししていると言われます。36節「しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行なっているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです」と。
昔、私はイエス様を人々に信じてもらうために、何か不思議なことが出来るといいのになあと考えたことがあります。何か奇跡的なことを行えば、人々は、その業を見て、イエス様を信じるのではないかと思ったからです。しかし、そんな願いは適うはずもなく、また、もし仮に神さまが適えて下さったとしても、恐らくそれは、人々のためにならなかったでしょうし、自分にとってもためにはならなかったと思われます。なぜなら、御名があがめられ、救われる人が起こされることよりも、自分の名前が高められることを喜びとし、また、人は更に奇蹟を求めるようになるだろうからです。
まあ、私が行うどうのこうのと言う低次元のことではなく、イエス様の言われます事は、「バプテスマのヨハネは、イエス様がメシヤであり、神の子であることの証人です。しかし、私があなた方に受け入れるように命じるのは、この証しだけではありません。彼の証言よりも、もっと重要な証し、即ち私の奇蹟があります。」このように言われているのであります。イエス様がいろいろな奇蹟を行われても、人は、信じない。それどころか、病気を次々に癒されると、パリサイ人は言いました。「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ」、その様に言って信じなかったのであります(マタイ9:32-34 )人の心は、何と言うかたくななものなのでしょうか。
さて、最後のイエス様が神の子であり、メシヤである証しの第4番目は、父なる神の証言、すなわち、聖書によります証言です。つまり、第一番目に取り上げました父なる神の証言ということで、この4番目は似てはいるのですが、聖書による証言と言う事でその違いがありまして、一番目はいわゆる全体をまとめたものと言えるかも知れません。
ところで、イエス様が真の救い主であるというバプテスマのヨハネの証言や、イエス様ご自身のお働きによる証言は、当時の人々には、直接目で見たり耳で聞いたりして確かめることのできる可能性がありましたが、今の私たちには確かめる術はないのであります。しかしながら、父なる神様の証言であります聖書の証言は、いつでも、どこでも聞くことのできる証言でありますので、とても貴重な、そして重要な価値を持っているのであります。
勿論、このイエス様が語っておられる時の聖書と言いますのは、旧約聖書を指して言っておられるのであって、私たちが現在手にしています新約の部分は無いわけであります。その当時、イエス様の周囲には、反対者達が多くおりました。その人達の中には、当時の宗教界の指導者もいたわけであります。その人達とイエス様との間には、聖書は神の言葉であるという点では一致しておりました。しかし聖書の役割、働きといいましょうか、その目的とか用い方という点では、考えが対立していたのでありました。それを次回に取り扱いたいと考えておりますが、39節でイエス様はこういう風なことを言われておられます。
「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。 その聖書が、わたしについて証言しているのです。」とです。確かに彼等は、聖書を研究するのには熱心でした。しかし、聖書は、誰について語っているのか、その事を正しく知ることはなかなかありませんでした。彼等の聖書への取組みは、それはそれは驚くほどのものでありました。聖書を全部暗記している人も少なからずおりましたし、それだけでなく聖書の言葉は全部で幾つあるか。両側から数えてちょうど真ん中にくる言葉はなんという言葉であるか、真ん中の字はなんという字であるか、などまで調べ尽くしていたほどでありました。
そのような熱心な研究態度は多くの人に賞賛されていました。がしかし、それがイエス様信仰へとは進まなかったのであります。ですからイエス様は言われたのでした。あなたがたは聖書を一生懸命研究しているけれども、「その聖書が私について証言しているのです」とであります。聖書は、父なる神様がお遣わしになる救い主について証ししているのであって、ですから聖書を道しるべとして、イエスが救い主であって、この方によってだけ永遠の命をいただけるというそういう聖書の本来の目的に到達しなければ、聖書の最も重要な役割を知らないことになるのであります。
彼等の間違った聖書の読み方は訂正されなければならなかったのです。現代でも、聖書はさまざまな読み方がされております。それは決して永遠の命を得るためという理由ではありません。聖書には人生の教訓があるからとか、キリスト教の歴史を知るためであるとか、また、当時の文化を理解するための資料として読むとか、キリスト教の教えの構造を知るために、さらにはいろいろな聖書の翻訳の違いを知るために、精密な照合をするなど、本来聖書が伝えたくて書かれたこととはおよそ離れた読み方をされているのが現実であります。それらのどれもは貴重で有意義な学びですけれども、聖書を通してイエス様が真の救い主、メシヤであられるという大切な目標を知らないで読んでいただきたくない、これは、教会の牧師としての率直な思いであります。
さて、今までの4つの証言に対して、あなたはイエス様のことをどの様に受け止められておられるでしょうか。歴史上の人物でしょうか。キリスト教の教祖でしょうか。 人類愛を身を持ってみせて下さった方でありましょうか。道徳家、宗教家、人生の教師などなど、一般的には、いろんな捉え方があります。しかし、聖書自身は、そのようなことを言うために書かれているのでは決してないのです。あなたに永遠のいのちを与えるために書かれているのです。そのためにイエス様が神であられながら、子の地上に遣わされたメシヤだと言われているのです。自分だけが言っているのではなく、父なる神さまが、またバプテスマのヨハネが、また聖書が言っているではないかと神様はあなたに迫られるのです。
あなたは、それに対して、どのように応答されるのでしょうか。イエス様は今もあなたにそれを問い掛けておられると言えましょう。イエス様を神様が遣わして下さった唯一の救い主であると認めて、感謝して、その方を心にお迎えしてはいかがでしょうか。また、すでに信じている私どもにとって、イエス様の語られていることの一つ一つの証言に対して、私たちが信じていることの確かさをより一層固いものとさせていただこうではありませんか。
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