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2004年10月10日(日) 「聖書の証言」  ヨハネ5:39-47   竹口牧師

イエス様は、ご自分の事をキリストだと証言されました。そして、その証言の正しさは、自分がそういうからだけでなく、自分を遣わされた天の父ご自身が証言しておられるからだと言われました。更には、バプテスマのヨハネも証言したと言われました。そして今回の証言は、聖書がイエス様についてキリストであると証言していると言われる所であります。

ユダヤ人達は、昔も今も、聖書をとても大切にする人達です。なぜなら、それは神様のお言葉だからです。しかし、その大切にする仕方は、どちらかと言いますと、
正しい意味で大切にしているとはいいがたい部分があります。なぜならそれは、実に表面的であるからです。つまり、聖書は神様のお言葉であると言う事では私たちと同じなのですが、では、その神様のお言葉である聖書をどのように扱うか、そこに大きな違いがあるのであります。これは、聞いた話ですが、ユダヤ人達は聖書は神の言葉でありますので、決して床には置かないのだそうです。

床は、汚い足で踏むところでありますから、何を基準として汚いと言うかは別としまして、聖なる神様のお言葉を、そのような所に置くと言うのは、粗末に扱うことであると考えるのだそうです。机の上ならまだしも、床に置くなんてとんでもないと言うそうです。日本では、靴を履いて家の中を歩き回りませんが、それでも、彼等にとってはやはり不浄のようです。

また、エルサレムの町のメア・シャリーム地区は、厳格な戒律を守るユダヤ教徒の居住地となっていますが、彼等は真夏でも丈の長い黒いコートを着用し、ヘブライ語は、聖なる言葉であって、礼拝のみに用いるべきだとして、日常会話は、イーディシュ語を使うのだそうです。それは、ドイツ語とヘブル語の混合語だと言われます。更には、申命記6:6-8 にこのようにありますので、つまり、「これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。」ということから、み言葉を書いたものを体にいつもみにつけている、そういうことまでしているのであります。

まあ、これは現代での話でありますけれども、しかし、イエス様の時代であっても、み言葉を大切にする姿勢は、そうあまり変わらないと言えましょう。神様の言われた十戒の中の一つに、「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ…どんな仕事もしてはならない」とありますから、彼等は、仕事とは何かを熱心に研究し、39項目に渡って規定し、更に人々に守らせていたのでありました。ですから、聖書に関する研究熱心、そして実行の仕方は生半可ではありませんでした。しかし、それが本当に、御心にかなったものと言えるのかと言いますと、それはまた別問題であります。なぜなら、今回イエス様が指摘されていますように、旧約聖書がイエス様ご自身のことを指して言っているのに、その旧約聖書を読みながら、彼等はそのように理解できない、
あるいは受け入れられないからであります。いいえ、受け入れられないというよりもむしろ最初はそうでもありませんでしたが、イエス様がご自分がどんな者であるかを明らかにされればされるほど、ますます敵対する者となって行ったのですから、
それはもう、大変悲しい事態といっていいでしょう。

イエス様は39節、40節でこう言われています。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」と。

「灯台下暗し」と言う言葉が当てはまるかどうか分かりませんが、ユダヤ人達こそ、メシヤを一番待ち望んでいる人たちであり、そのメシヤ、すなわちキリストが今まさにそばにおられたのに、彼等は、目の前のイエス様を救い主とは認められなかったのですから、これは、何と言う皮肉なことでしょうか。あれ程熱心に、聖書を読み、調べ、メシヤを待ち望みながら、そして、待っていたそのメシヤを目の前にしながら、彼等の心はかたくなに閉ざされたままだったのですから、まことに残念です。

40節でイエス様はこういわれています。「わたしは人からの栄誉は受けません。」と。また、42節には「あなたがたのうちには、神の愛がありません」と言われています。更に43節では、「他の人がその人自身の名において来れば、あなた方は、その人を受け入れるのです。」と言われています。

これらの一連のイエス様のお言葉を読みますと、ユダヤ人達は、誰も彼も信じようとしない、そういう不信に陥っているのではないことがお分かりでしょう。イエス様を信じようとしないけれども、他の人なら、あるいはその方を受け入れると言われているのです。では、その違いはどこから来ているのでしょうか。それは、彼等には、神の愛がないからであり、神による栄誉よりも人間同志の栄誉や評判のほうを大切にする、そこにあるとイエス様は言われるのです。

イエス様は、聖書が述べている通りに、神からの救い主としてのお働きをするために天から下って来られ、父なる神のお名前を用い、その力や権威、愛を示されました。しかし人々は、イエス様は神からの救い主ではないと否定し、受け入れませんでしたし、更には、ご自分を神の子としているのは、神を冒涜するものとして激しく怒ったのでした。イエス様の時代は、その当時、ユダヤを支配していたのはローマでした。そのローマ帝国から独立を願う人々が多くいたのであります。自分たちの国を神の国として待ち望み、独立を願っていたのでした。そういう意味での救い主、メシヤを待ち望んでいたのです。

ですから、そう思わせるような人が次々に現れました。そして、人々に期待を持たせたのでありました。彼等は、人々が望んでいることを適えてくれるように言うものですから、そういう偽メシヤを歓迎したのでした。勿論、化けの皮はすぐにはがれるものであります。偽者だと分かればすぐに人々は離れていくのであります。

一方、イエス様は、そういう人達のことを44節でこういわれます。「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。」と。イエス様は、そういう人の間違った欲求を満たすためではなく、本当に人々の心に必要な救い主であることを明らかにされたのです。つまり、暗黒の中にあっても、光輝ける、希望のあるいのちを与える事のできる者であると言われたのです。それは、決して人々が最初は喜ぶようなことではありませんでした。なぜなら、人々の罪を指摘し、悔い改めと信仰を厳しく求め、その後に、永遠に渡る救いを約束なさったからでありました。

しかし、人々には、それは受け入れられるものではありませんでした。彼等は、律法をきちんと守っていると思っていますし、神様を心から愛していると思っていますから、むしろ、そういう自分たちを攻撃するものこそ、つまりイエス様こそ、信じるに値しないとしたのであります。罪で曇っている目を開けるには、どうしたらいいのでしょうか。間違った確信に立って、ものを考え、行動し、イエス様を非難する、そういう人に対して、どうすれば分かってもらえるのでしょうか。これは、実際問題として、大変難しいのであります。

しかし、難しいと言ってほおって置けるようなことではありません。ことは非常に重大であり、緊急性を要することであります。なぜなら、この世に生きている時間は人には限られているからです。その限られた時間内に、是非ともイエス様を救い主であると、知っていただきたいからであります。

ところで、ここでおもしろい例えがありますので紹介しましょう。ある人がこう言っています。「主のお言葉の中に、一つの重要な原則が含まれており、我々は特に注目しなければならない。真の信仰は、ただ単に人間の知性や理解力だけで持ち得るものではなく、心の状態によるのである。知性の面では納得するかもしれない。また良心はとがめを覚えるかもしれない。

しかし、人が秘密裏に神よりももっと愛している何かを持っている限り、真の信仰はない。当の本人も当惑し、どうして信じないのか不思議に思うことだろう。彼は蓋の上に座って、箱を開けようとしているが、実は自分の体重の為にふたが開かないということを考えない子供のようである。自分では、その理由が分からないのである。何ものにもまして誠実に、心から神の栄光を求める事についてすべての人は自己吟味しなければならない。多くの人がその一生の間、キリスト教に固執していても、平安のないまま死に臨むのはなぜであろうか。

それは、その者たちに、誠実が欠如しているからにほかならない。聞き、認め、同意してはいるが、全然進歩がなく、キリストをどうも把握できないと不平を言う人は、次の単純な質問で、自問自答すべきである。私は誠実であるか。私は心から行なっているか。私は本当に、まず第一に神の栄光を求めているのか、と」以上です。

私たちの信仰が、頭だけの信仰、行ないの伴わない信仰であるなら、やはり、どこかおかしい信仰であることを疑う必要があります。もちろん、キリストによって一度救われた人は、その救いから漏れることはないのはいうまでもありません。イエス様の弟であったヤコブは、ヤコブ書2章14節で「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」と言っていますが、これは勿論、行ないによって救われることを言っているのではなく、救われている人は、行ないが伴うはずだと言っているのです。

そして、その行ないが伴っているはずのユダヤ人達の行ないが、的はずれである故に、イエス様は指摘されているのです。人からの栄誉を求め、神の無償の愛もないのです。彼等は、聖書を良く読み、聖書の中に出てくるモーセを知っているはずです。しかし、知っているはずのモーセを彼等は知らないとイエス様は言われるのです。なぜなら、そのモーセの言っていることは、つまりは、イエス様ご自身のことだからであります。彼等は聖書をよく読んでいます。ですから、モーセが実在した人であることを知っています。また、モーセは聖書の最初の5つまでの書を書いたと言われています。彼等もまた、それを信じているのです。イエス様は、その上に立って、明確に証しをされるのです。「モーセが書いたのは、わたしのことだからです」と。また「あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。」と言われます。

イエス様は、旧約聖書を神様のお言葉であることを少しも疑いなく信じ、そして語られているのです。また、聞くユダヤ人達も少しも聖書に対して疑いがなく信じていて、イエス様をうっとおしく見ているのであります。どこがどう違っているのでしょうか。イエス様を神から遣わされた救い主であることを否定して、聖書による信仰を表明することは間違いです。しかし彼等は、自分たちが聖書に対して不信仰を表明しているとはとっていません。

彼等は自分たちの弁護人、証人としてモーセという聖書に登場する偉大な人物をよく持ち出すのです。モーセも同じ事を言っているから正しいとか、モーセの言葉を我々は守っているから大丈夫である、などというようにであります。しかし彼等は、モーセの支持を得ることはできません。なぜなら、モーセはイエスご自身のことについて語っているからです。モーセを信じているのなら、彼が語っているイエス様ご自身を信じるはずなのです。いいえ、信じなければ、モーセの言うことに従っているといえないのです。従って、彼等にとって最高の拠り所であったものが、実は、不信仰によって、彼等を審くものとなってしまいました。

私たちが聖書を読むとき、つまり神様の言葉を読むときに、この書物の目的は、イエス様が神から遣わされたただ一人の救い主であることを示し、イエス様によって真の命を得ることができるのだ、という点を見失わないようにしなければなりません。聖書を読む、読み方はいろいろあります。人生の教訓書として読めます。イエス様を愛の実践者だとして読むこともできます。道徳の書としても読むことができましょう。聖書は、人によっていろんな読み方が出来ますが、書かれた目的は唯一つなのです。イエスは、あなたの救い主である、ということを知らせるための書なのです。

ある人は、聖書は神様からのラブレターなどと言います。しかし、自分を憎む者や自分に反対する者に対してラブレターなど書けるものでしょうか。わたしはあなたを愛しています。だから、私のひとり子をあなたのもとに送ったのだよ。そういう人がいるでしょうか。人間の世界では皆無と言っていいでしょう。しかし、人間の世界ではなく、神様の世界であるからこそ、むしろそう言えるのだといえましょう。
そこには、人間の常識を越えたものがあるのです。ですから、パウロはこういう事ができたのでした。

「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、
神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:6-8 )
                     
神様にしかできない業なのです。そして、その神様の業が、聖書にしるされているのです。イエス・キリストは、その主人公であり、あなたの救い主なのです。聖書が証ししているイエス・キリストをあなたの救い主として信じ、創世記から黙示録まで全部読んでいただきたいのです。一度とは言いません何度でも読んでいただきたいのです。最後に、イエス様のお言葉、今日の箇所の46節を読んで終わります。「もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです」

2004年10月17日(日) 「満たす方」  ヨハネ6:1-10 竹口牧師 

今日の聖書箇所は、大変クリスチャンの間では有名な箇所であります。なぜ有名かと言いますと、新約聖書の初めの4つの書、つまり福音書全部が、このイエス様の奇蹟を取り上げていますし、それはまた、イエス様の十字架と復活も同じでありますが、今回の記事はまた、沢山の人達の前で行われた奇蹟である、という点でも注目された出来事だからであります。

まず、奇蹟が行われた所はどこであったかといいますと、1節にありますように、ガリラヤ湖、またの名前を、テベリヤの湖と呼ばれ、そのほとりで行われました。なぜ、テベリヤの湖と呼ばれたかと言いますと、これは、ある意味では、大変政治的な呼び方であります。23節をみていただきますと分かりますように、テベリヤという港町がありまして、それは当時のローマ皇帝テベリオに因むものでありました。テベリオとは、ヘロデ大王の息子で、ヘロデ・アンティパスが、そのローマ皇帝テベリオの名に因んだ名で作った都市でありました。カイザリヤという町もまた、皇帝という名前そのものからつけられたのと同じであります。

歴史を少しさかのぼりますと、テベリヤは、イエス様が公の活動を始められた頃、もう少し丁寧に言いますと、紀元25年頃、ヘロデ・アンティパスによって建てられました。ですから、イエス様の時代には比較的新しい町でありました。しかし、イエス様が十字架にかけられた40年後、つまり、紀元70年にエルサレム陥落後、テベリヤは大変需要な都市となって行くのであります。

考えてみますとユダヤ人達にとって、ローマ皇帝の支配を受けているのですから、あまり喜ばしい言い方ではないのでありますが、ヨハネはあえて、ここでそういう呼び方をしているのであります。そしてまた、このヨハネの福音書では、最後の章21章において再びでてきますので、それで、ある先生の考えによりますと、皇帝テベリオは、当時輝くような権威の持ち主であったけれども、やがてキリストの「よみがえりのいのちの光で」その名が覆われる湖となったと言われます。一方は衰え、つまり、テベリオの名は衰え、他方はイエス様はいよいよ、知られるようになっていく、その事をヨハネは表そうとしているようだと言われます。

ところで、2節を見ますと、大勢の人が、イエス様に付いていった事が分かります。
そして、その理由として、イエス様がなさっていた印をみたからであるとあります。
この頃のイエス様の周囲には多くの人がいつも集まっていたようであります。しかしそれは必ずしもイエス様を信じて付き従っていたのではなく、病人たちを神としての力で治すのを見たい、そういう願いから集まっていた人達も多くいたのでありました。また自分や家族が病気を持っているので癒されたい、そう願ってきている人達もいたでありましょう。さらにはそういった単なる好奇心からではなく、イエス様に間違った期待を持ってそばにいた人達もいました。

もしかしたら、このイエス様は、ロ−マ帝国に支配されている自分たちの国を、自由にしてくれる人ではないか、そういう期待もあったようであります。病人を即座に直すという不思議な力を持っているこの方は、旧約聖書に約束されている救い主で、
国を独立させるのための救い主であるに違いないという思いがありました。機が熟したらこの方を王として担ぎ出そう、そういう願いを持って集まっていた人達もいたでありましょう。それはともかく、色々な立場の人達がそれぞれの思いや動機でイエス様の周りにいたようであります。イエス様は、湖の向こう岸にいかれたとありますし、2節を見ますと、大勢の人がイエス様につき従っていた、ともでていますので、随分多くの人が、それも遠くまでやってきたと言えましょう。

このイエス様の行われた奇蹟はいつ頃の事かと言いますと、4節にありますように、過越が間近になっていたとありますので、春であった事が分かります。それも、このヨハネの福音書では、4回の過越の祭りを記しており、最後の過越の時は、十字架にかかられる頃ですから、公の生涯は約3年間であったことが分かります。ここでは、その2回目の過越に当たる訳であります。イエス様は弟子のピリポに言われました。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」弟子が他にもいるのに、どうしてピリポなのか、その理由をある人はこういいます。

「ピリポは『ベツサイダの人』(ヨハネ1:44)であり、ここにいる人々はすべて、その町の近くから集まってきていたからである」と。つまり、イエス様は当然ながら、
これ程の群衆のためのパンを買う事のできるかどうか、そういう質問に最も答えやすい者として、ピリポに尋ねられたのであろう、といいます。勿論、イエス様は、この辺りでどれ程のことができるか、知っておられたことは言うまでもありません。
最近、あちこちにコンビニエンスストアができ、買い物がしやすくなりましたが、教会の昼食のために、40〜50人分のパンやむすびを買うのは、やはり前もって注文しておきませんと買えないのであります。

天気とか、人数とかを予想して注文を出すのすが、しかし、いうまでもなく、このイエス様の時代、そんなコンビニなどあるはずもなく、大勢の人の腹を満たすと言うのは、最初から無理でありました。ですから、ヨハネは、このイエス様のお言葉を、ピリポを試してこう言われたのだと書いています。イエス様は、御自分がこれからなさろうとしておられるのをご存じでありますから、何も問題はありませんが、
イエス様に言われたピリポにとっては、大変な事であります。すぐに頭を働かせなければなりませんでした。イエス様の側近のものとして、必要な働きであります。

ところで、これもまた言うまでもありませんが、数字には弱い私には、日常、千円とか万円とか、精々多くて20万円どまりですから、もし、私に聞かれても即答は恐らくできなかったでありましょう。ところが、このピリポという人は、集まっている群衆を見ながら即座に答えたと思われます。恐らく相当算術にたけていたと思うからであります。私達の教会員の中には、その道の人がいますから、そういう賜物をいただいている人には、あまり大した計算ではないでしょう。

ピリポは言うのであります。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」と。彼がここで200デナリという数字を上げていますが、この数字は、私たちが聞いても、どれだけのものかは全く分かりません。まずは、状況を見る為に、10節をみますと、男達だけでおよそ5千人とありますので、女、子供を入れますと1万人は十分にいたのではないか、そのように言われています。

当時の人口からしますと、大変な人数が集まっていたことになります。そして、それだけの人を養うと言うのは大変なことであります。それも、この200デナリのパンでは足りないとピリポは言うのです。では一体、この200デナリとは、どのくらいのことを指しているのか、ということになりますが、ある本の説明によりますと、その当時の1デナリは労働者一日分の賃金だったようです。ですから、200デナリとは200日分の労働賃金と言うことになります。

そしてさらに計算しますと、労働者7か月分の給料と言うことになります。一日の労働賃金で、一家を養える、そういう金額が1デナリであります。そして、ざっと計算して7か月分の給料でもたりない状況ないのです。まして、先程私達の教会の昼食の事を話しましたが、こんなに便利に成っていても、あらかじめ予約をしておかないと、準備はなかなか難しいのです。計算はできるけれども、ではどうしたらいいかピリポは考えたと思うのであります。そしてその対策を彼がいうのではなく、彼と同じベツサイダ出身のアンデレが言うのであります。彼は、思索型ではなく実践型であったようであります。教会にも、実にいろいろなタイプがおられまして、神様は本当に、素晴らしい人を備えておられるものだなと、時々感心するのであります。

いつでしたでしょうか。「おとずれ」という証し集にも書きましたが、いろんな働きが教会にはあり、それぞれがある部分を担当し、また、それが欠けてきますと、新しい方が与えられ、継続されているのであります。最初はちょっと無理かなと思っていても、ちゃんと神様はそれができるようにして下さるのであります。素晴らしいですね。

ところで、話を元に戻しまして、今回の場合、ことはそう簡単にはいかないのであります。ですから、アンデレもおそるおそる言ったと思われます。「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」と。私達は今でこそ、信仰を持って、真の神様は、何もないところから、神様のお言葉によって、この世界が作られた事を知っていますので、「イエス様、何とかして下さいよ」と言ったかもしれませんが、アンデレは状況を見て、イエス様に提案するのであります。無から有に創造されるお方、そのお方に対して、「しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」と。

そして実は、無から有に創造される方が真の神様である、そのように信じている私達でさえ、実際の信仰生活の中では、同じような誤りに陥るのであります。計算高いピリポ。実状を正しく捕らえることのできるアンデレ。しかし、そこには、信仰が見えないのです。イエス様というお方が、彼らのそばにおられながらであります。
アンデレが、どの程度旧約聖書に親しんでいたか分かりませんが、少なくともピリポが紹介したナタナエルという人は、聖書に精通していたのではないかと、このヨハネの福音書の1章の終わり頃の記事で想像できます。

もし、アンデレも聖書を良く読んでいますと、エリヤの行なった奇蹟を思い出したでありましょう。第一列王記17章にでている記事であります。彼は、時の王アハブから命の危険を感じ、神様に導かれるままに、ヨルダン川の東にあるケリテ川に身を隠し、更には、また神様に導かれてシドンのツァレファテに行き、今まさに、かめの中に一握りの粉と、壺にほんの少しの油があるだけの家庭が、それを食べて死のうとしている時に、エリヤが現れ、奇蹟によって、その時の飢饉を乗り越えることが出来るのであります。

つまり、よく考えてみれば、手元に物があるかないかが問題ではなく、あるいはまた、多いか、少ないか、足りるか足りないか、そういう事が問題なのではなく、私は一体、どういう方と一緒に行動しているのだろうか、そのことにもう一度、考え直してみる必要があるのではないでしょうか。ピリポの計算能力は素晴らしい。アンデレの状況判断も素晴らしい。

しかし、それでは何かが欠けていたのではないでしょうか。そして、それは、私達にも言えることではないでしょうか。私は今まで、鈴木先生のもとで働いてきました。何かあれば、鈴木先生に相談し、指示を仰いでいました。そして、いろんなことを処理してきた訳であります。今から考えますと、あまりにも頼り過ぎていたな?そのように反省している訳であります。しかし、手探りで、我流ではなく、基本を学んできました。やはり考えてみますと、経験豊かな鈴木先生から聞かないというのはもったいないし、大変貴重でもあるわけです。しかし、その一方で、今は、自分で考え、神様にまず相談すべきと思うのですが、果たして出来るでしょうか。

鈴木先生が牧会から退かれた今、私は、私のそばにおられる真の神様にこそ、頼らなければならない。そう教えられているのでありますが、なかなか依頼心の強い私にはそうもいきません。弟子達は、どのようにして、この大勢の人達の食を満たそうかと考えました。そして、一番近くにおられる相談者であるイエス様を忘れていたのです。イエス様は、彼らの心のすべてをご存じでした。これもまた、私の弟子としての訓練だなとイエス様は、そのように見ておられたのかも知れません。私たちの信仰は、このようにしていろんな状況を経験し、信仰から信仰へと進ませていただけるのであります。

良識、健全な経済観念、また富などは生活に役に立つ必要なものです。しかし、神様に対する信仰、信頼よりも優先させますと、神様に期待し、神様の業に希望を持つことを止めてしまう、そういう危険があるのであります。全知全能の神様は、私たちの良識、富を越えて大きな事をなさる力を持っておられます、ですから私達の神様への信仰は、それを期待させますし、神様の御心ならば、神様は驚く程の大きなみ業を行なってくださる、そのように期待する必要があるのであります。

イエス様は10節で、平然と言われました。「人々をすわらせなさい。」そしてヨハネは、続いて、「その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。」と記しています。イエス様の手配されたことは、混乱を防ぎ、秩序を維持するようにされたことでした。食い物の恨みは恐ろしいと言われますが、
大勢の人が集う時にはいつでも、大切なことであります。群衆にたべる物を配る時には、特にこの事が大切であります。

マルコの福音書によりますと、「人々は、100人、50人と固まって席に着いた」(マルコ6:40)とのべています。春の若草のはえている頃、人々は何の心配もなく、
委ねて腰を下ろしたのでありました。そして、父なる神様と共に歩まれていたイエス様は、これまた何の心配もなく、たんたんと奇蹟を行なわれるのです。あなたには何か心配事があるでしょうか。また、あなたのそばに、イエス様はおられるのでしょうか。もしおられるなら、その方に全幅の信頼をおいて、心配事を委ねていこうではありませんか。

イエス様は私たちの魂の救いの為に十字架に掛かられて、贖いの業を成し遂げて下さった程に心に留めていて下さいます。その方が、食べ物だけでなく、あらゆる面で、即ち生活の為にも配慮して下さるのです。信仰を持って、イエス様と共に歩ませていただこうではありませんか。みなさんはもう、この話の続きをご存知でありましょう。ならば、より一層、全ての面で満たしてくださるイエス様に導いていただきましょう。恐れず、不安を持たず、神の子のひとりとして求めていきましょう。

2004年10月31日(日) 「イエスの思い」 ヨハネ6:11-15   竹口牧師 

2004/10/31    ヨハネ6:11-15   イエスの思い
イエス様が行なわれました奇蹟の一つであります、5つのパンと2匹の魚で約5千人の男の人を養われたという記事を先回と今回の2回に分けて見ているのであります。
先回の1節から10節までのことを少し振り返っておきますと、大勢の人がイエス様に着いて来たのでありましたが、そろそろ食事の時間となり、イエス様は人々の空腹の事を心配され、弟子のピリポに、弟子教育の一つとして言われたのでしょう。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」とイエス様は言われました。

先回もお話ししましたように、10節には男の数で5000人と書いてありますので、女、子供を合わせますとゆうに人々は1万人はいたと思われます。そして、その人達を、どのようにして養うか、それは大きな問題であった訳でありました。ピリポは、イエス様のお言葉に、自分の計算力といいましょうか、その賜物を生かして、「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」と答えたのでありました。

一方、もう一人の弟子でありますアンデレは、状況を判断するのに長けておりまして、何か食る物はないかと調べ、少年が持っていた物をもってくるのでありました。そして彼はイエス様に言いました。「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」こうして、現状の把握ができたところで、イエス様は、人々に座らせるように命じられたのでありました。そして今日の11節の所へと入っていくのでありますが、今日の所は、もういきなり子供が持っていたパンを用いて、それを祝福し、感謝をささげて人々に分け与えられるのであります。小さい魚も同じようにして彼らにほしいだけ与えられたとあります。

ところで、世の中には、不思議なことをする人がいるものでありまして、それは、手品であったり、奇術であったりでありますが、それらはみな、言うまでもなく種があることを私たちは知っているのであります。ですから、見ている人は、驚きはしますけれども、しかし、本当にそうしているとは思っていません。たとえば、回転鋸で胴体を真二つに切るということなどをして見せても実際に切るわけではなく、どこかに仕掛けがあって、無事に後で人が出てくるのであります。ですから、見る側は、どこに、どんな仕掛けがあるのか、それを想像しながら見ているのであります。

ところが今回の、イエス様の行なわれた事は、そういったことではなく、実際に多くの人が見ている前で、奇蹟を行なわれたのですから、14節をみていただきますと分かりますように、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言うに至るのであります。多くの人が見守る中で、それも弟子たちが、どのようして人々に食べる物を提供したら良いのかと考える状況で、イエス様が奇蹟を行われたのですから、そこにいる人達はみんな驚いて当たり前だったのでありました。

ところがどうでしょうか。では、この奇蹟を書いてある聖書を読む人がみな、それを奇蹟として受け取るかと言いますと、実はそうではありません。世の中には奇蹟というものを全く信じない人達はいるのであります。そしてそういう人は、このイエス様の行なわれたことをどの様に解釈するかと言いますと、一つの例でありますが、こんなのがあるのであります。

実は、大人達も自分の弁当を持って来ていたのに、出さなさいでいたところ、子供が自分の弁当を差し出したので、みんなは恥ずかしくなり、自分の弁当を出したので、
それを食べて満腹したのだ、このように言うのであります。確かに、みんなは食べて満腹感を味わいましたけれども、しかし、それでは、人々が食べた上、なお余ったもので、12のかごが一杯になったという事実をそういう人達はどのように説明するのでしょうか、分かりません。

まあ、それはともかく、私たちは、イエス様のなさった奇蹟をそのまま受け入れていますので、聖書の記述に何の問題も感じません。それよりもむしろ、イエス様が、この事を通して何を私達に教えようとされているかに目を向けたいと思うのであります。先回の時もお話しましたが、マルコの福音書6章40節には、100人、50人と固まって座ったことがでています。それは、イエス様がお与えになるパンを秩序良く受け取れるように、そういう配慮があったと言えましょう。

また、我先にと混乱した状況で、弱い者が押し退けられることのないように、そういう配慮もイエス様はされたと言えましょう。そのようにしておいてから、次の行動に入られたのでありました。人々には、何がどのように起こるかは何も知らされず、ただ黙って座って待っていたと思われます。私たちは、神様がなさることを静かに待つということも、実に大切さであるとここで教えられましょう。ああでもない、こうでもないと勝手に考え、自分の頭の中で同じ事をぐるぐるを考えるよりも、いっそのこと、イエス様は最善に導いて下さると信じて待つのも、一つの大切なことだと気付かされるのであります。

次に、イエス様は、生きるのに必要な物は必ず用意してくださる、そういう真の神様に、感謝の祈りを献げられてから、わずか五つのパンと二匹の魚を手で裂いて分け始められたのでした。イエス様の近くに座っていた人達は、イエス様のなさっている手元を、じっとよく見ていたに違いありません。そして、どのようにして少しのパンや魚から無限と思えるほど次々に出てくるのか疑問に思ったに違いありません。パンや魚を割いても割いても、次から次に出てくる。これは、見ている者にとって、実に不思議な光景だったと思います。5千人から1万人分の食を満たすのは並大抵の働きではありません。でも、イエス様は、それを行ない続けられたのでした。

作り続けられるのも大変ですが、また、それを配るのも大変であります。ヨハネは書いていませんが、マルコの福音書では弟子たちが配って歩いたように書いてあります。
全く不思議なことに、パンと魚は人々が欲しいだけ与えられ、五千人という多くの人が飽きるほど食べる量が提供され、しかも12の籠に一杯残ったというのですから、
イエス様のなさった奇蹟がどんなに大きなものであるかお分かりでしょう。水をブドウ酒に変えられた奇蹟も驚くべきものでありますが、今回の出来事はさらに、驚かされる一こまであります。

イエス様は、この出来事を通して、弟子達に、さらにまた人々に、ご自分のお働きの一端を示されたのでした。人間的方法が行き詰まっても、イエス様によります解決、
イエス様はそういう力を持っておられることを示されたのでした。イエス様を信じる私たちもまた、改めてイエス様の素晴らしさを確認しようではありませんか。食べることは人間の生活にとって目的ではありませんが、目的を持って生きるためには欠かすことは出来ないのであります。

イエス様は食べることについても、私たちのために配慮して下さり、私たちがそのことで困難な中にいるときに、満たしてくださる神様であることをしっかりと覚えておきたいものです。勿論、このことは、神様が食料を与えてくださるのだから、人は何もしないでただ、神様に呼び求めていれば与えられる、そういうことを意味しているのでは決してありません。聖書の一か所だけを取り上げて、拡大解釈するときに大きな間違いを起こすものであります。全体を読み通して、正しい教えをくみ取る必要があります。

今回の場合でも、2テサロニケ3章10節の言葉「働きたくない者は食べるな」と命じている所があります。ですから誠実な労働によって生活の糧を得るのは正しい手段であります。怠惰な生活で豊かに生きようとするのは、神の御心ではありません。必要な食べ物、日常生活に必要なものは備え、また与えて下さる方が神なるイエス・キリストであることを知らずに、あたかも自分の力だけで手に入れていると思っている人は間違っていることを知らなければなりません。

世の中には、自分たちが一生懸命働くことによってお金を得る。それによって食物を買い、食べることができるのだと思っています。確かに実際そうなのですが、しかし、それは表面的なことしか見ていないし、また表面的な考え方であって、そのような考えでいますと、必ず行き詰まってしまったとき、大変慌てることになるのであります。
つまり、そうした何でもない日常生活の中にも、神様の確かなお働きがあることを忘れてはならないのです。イエス様の恵み深い配慮なしに、私たちは食べることは出来ないのです。救い主を信じているか、いないかに関わらず、神様は人を愛する愛のゆえに、人に衣食住の必要をお与えになるお方なのであります。

それに加えて、魂の糧は人間の意志とか力では決して満足に得ることはできないと知るべきでしょう。自分の成し遂げたことによる満足は、人生に虚しさをもたらすからです。今まで自分が一生懸命してきたことは一体何だったのだろうか、何のためだったのだろうかと、振り返って見て虚しさを覚えた人がどれほど多くいる事でしょうか。

真の神様によらなければ心の満足を得ることはありません。イエス様によらなければ、充実した魂の真の満足は得られないのです。イエス様はそれを豊かに、望んでいる以上にお与えになる救い主なのであります。この魂の満足は、人間が真の神様に背き、不信仰のうちに歩んでいる限り、即ち真の神様に対して罪を犯している限り、魂の満足を持つことはできないのです。

イエス様は、真の神様を信じないで、神様を無視し、神様に逆らった生き方をしてきた人達の罪を救うために、この世に来られた神なる救い主でありました。イエス様は十字架の死において、私たちの罪を贖ってくださった救い主であります。そのイエス様を自分の救い主と信じる人は、神による魂の平安をいただき、罪の赦しを得、新しい命の満足を得るのであります。

しかしながら、今回の所で、人々は、イエス様を間違った捉え方、自分たちの、この世に於ける幸だけに目を向けて、イエス様の本当の姿を理解することはできませんでした。15節に、そのことが出ております。「イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。」とある通りであります。自分たちの病を癒して下されば、そのためのイエス様とみたり、誰も真似のできない、大きな奇蹟を行われれば、旧約で預言されている預言者だと考えたり、それも、自分たちの都合のいい預言者、ローマから独立を勝ち取るメシヤと考えたりしたのでした。

自分の願い通りにしてくれるお方が、イエス様である。そのように人々が求めるようになっていくとき、そうではないゆえに、人々から離れていかざるをえませんでした。イエス様は謙遜なお方であり、またご自分の使命を決して忘れられるようなお方ではないからです。「人々が王としよう」とする時、「仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるため」(マタイ20:28 )に来られたゆえに、人々が誤解を始めると、さっと身を引かれたのでした。

ところで、教会に初めて来られる方のことを考えますときに、多くの場合、何か問題を抱えておられたり、心の安らぎを求めておられたり、あるいは、聖書を学びたいと言う意欲を持っておられたりといろいろです。そして、そのことは単なるきっかけであって、つまり、イエス様にお会いする一つの入り口であり、その奥には、本当の真理が存在しますので、そこまで入ってほしいと私は願っているのであります。

教会に来るきっかけは、いろいろであっていい。しかし、イエス・キリストというお方が、あなたにとって本当はどういうお方なのか、そのことを早くつかんでほしいと私ども教会は願っているのであります。多くの人がイエス様のおられるところに付いていきました。しかし、それが単なる自分の欲望を満たすためだけのお方として見るならば、必ずがっかりされるでしょう。イエス様は、後に十字架にかけられ殺されるからです。

イエス様を救い主と信じる事はとても大切です。しかし、それは自分の思い通りのことが適うようになるためではないのです。むしろ真の神の御心に従って生きることができるようになるためです。ですから、信じてお従いするとき、この世の人から見れば、どうしてそんなことをするのか、そんなことをすれば、損ではないか、そのようなことでもクリスチャンは御前に正しければ行なうし、正しくなければ行ないません。

真の神様の御心に従って生きることが、神様のご性質にかたどって創造された人間にとって最も素晴らしい生き方だからであります。救い主イエス・キリストを自分の都合によって利用しようとするのではなく、イエス・キリストに自分のすべてを委ねて、
主の御心のままに歩ませてくださいと求めて生きることが、信仰者の最もさいわいな生き方なのであります。神様は、私たちの必要を満たして下さいます。しかし、それは、私たちが神様にあって、ご用の為に用いられるためなのです。

自分の御利益だけを追及する間違った教えではなく、イエス様が本当に望んでおられる生き方を、今日の聖書箇所から教えられたいのであります。もしそうでないなら、イエス様はご自身を隠されるでしょう。イエス様と共に歩むものとして、正しく御心を求め、またその御心を行うことができますようにと祈りつつ、イエス様に従っていこうではありませんか。



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