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2004年11月7日(日) 「人生の嵐にも主が」  ヨハネ6:16-21   竹口牧師

先回は、イエス様が5つのパンと2匹の魚で、男だけでおおよそ5000人を養われた所を見ました。人々は、このイエス様のなさった業を見て、驚き「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」(14)と告白するに至りました。そして彼等は、そんなイエス様を王にしようとしましたので、イエス様は身を隠され、一人山に退かれたというところで終わりました。

これを読んでいる方が、イエス様をどう見るかはさまざまでしょう。イエス様のなさった不思議を信じられない人もいれば、何の抵抗もなく、イエス様だから出来たのだという人もおられましょう。また最初は信じられなかったけれども、イエス様の事を聞いていく内に、まさにそうされたのだと導かれていった人もおられます。いずれにしましても、当時の、その場所に居合わせた人々が、イエス様のなさったことを通して、この方こそ、自分たちの王にするに相応しいと、そのなさった不思議から考えた事実は、変わらないのであります。それだけ、イエス様のなさったことは、驚きに満ちておりました。

もっとも彼等が、自分たちの王にしたいという思いは、当時ローマ帝国の治世下で圧迫されていましたので、そこから独立したいという、そういう思いからのものでありました。ところで、今回扱いますイエス様の不思議な行動もまた、信じるか、信じないか、大きく二つに分かれてくるのであります。信じない人は、初めから鼻の先で笑うのでありますが、しかし逆に、聖書の言葉を何の嘘、偽りも書かれていない、そのように信じる者にとっては、いいえ、人がどの様に感じ、どの様に捉えようと、聖書は神の言葉であり、決して事実は変わりません。そして信じる者は、大きな力をいただくことができるのであります。またそうでない人は、只の話に終わってしまいます。果たしてここにおられる皆さんは、どのように受け取られるのでしょうか。

さて、イエス様がなさった奇蹟の中で、先回見ました奇蹟の記事は、4つの福音書全部が取り扱っていますし、あるいはまた、今回扱います、湖での出来事は、マタイ、マルコ、そしてヨハネの3つの福音書が取り上げています。しかも二つの奇蹟を続けて書いているのであります。それはまた、2つの奇蹟から、先回みたものは政治的なメシヤとして立てようとした群衆の姿、そして今回は、イエス様の神性、つまり神のご性質を現わしておりまして、先回と今回との出来事を対比的に現しているのではないか、そのようにいう人もおります。

なぜなら、今回の話の鍵にもなる言葉でもありますが、20節の言葉、「わたしだ。恐れることはない」という「わたしだ」とはギリシャ語では「エゴー・エイミー」でありまして、それはまた、この同じヨハネの福音書の8章24節の欄外注によりますと、「わたしがある」という出エジプト記3章14節と関連させて、キリストが主なる神であることを言われたと解するものが多い、とそのようにあるからであります。

今、その出エジプト記3章14節に至までの経過を短く話しますと、モーセが神の山ホレブに来ましたときに、彼は、燃える柴を見まして、それに注意を引かれ近付いて行きますとその柴の中から「モーセ モーセ」という声が聞こえ、そこで神さまがモーセをイスラエルの指導者として立て、エジプトから連れ出せと彼に言われるのであります。

しかし、モーセはそんな大それた事はできない。私はいったい何者なのか、イスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは」。そういう会話がありまして、モーセはそこで、では行きましょう。でも、「あなた方の父祖の神が、私をあなた方のもとに遣わされました」と言えば、彼らは、「その名は何ですか」と私に聞くでしょうから、その時何と答えたらいいでしょうか、という言葉に対して神さまは、「わたしは『わたしはある』という者である」と言われたのでした。

この「わたしはある」とは、神は過去に存在し、現在も存在し、未来永遠に存在するとの意味であろうと言われます。つまり、他の何物がなくても神だけで存在するという意味からでたことばであり、神さまご自身のお名前なのです。ところが実際は、十戒の中に主のみ名をみだりに唱えてはならないとありますので、神さまのお名前のところを他の言い方に変えて言っていましたので、そのうちに正しく発音できなくなりました。

まあ、その経緯はともかく、イエス様が「わたしだ」と言われた事は、この所と関係があり、ご自分をそのように言われているということでしょう。イエス様は実際、これから後に、十字架にかけられ、殺され、三日目に甦えられ、天に帰られますが、
また戻ってきて、王として統治されるお方でありますので、福音書の記者が、そのような事を考えて、イエス様の王としてのご性質と神としてのご性質を続けて書いたと言っても良いでありましょう。

前置きはそれぐらいにしまして今回の話し、出来事を通して、イエス様を信じる者の幸を見ることにいたします。イエス様は、人々がご自分を王にしようとされた時、身を隠されました。そして今日の最初の所の16、17節で「夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。」とありますように、イエス様と弟子たちとが別々の行動をしていたことが分かります。というより、イエス様は弟子たちをあえて先に行かせられたようです。

湖とはガリラヤ湖のことでありまして、大きさを大変大雑把な言い方で現しますと、山手線の内側くらいの大きさでありましょうか。形は、東側の丘陵地帯は380 メートルに達し、西側も南端辺りまでは同様ですが、北西部は低くなだらかであります。湖は、地中海、海面下211メートルであります。実際に、あの高い丘から湖を見下ろしますと、すり鉢状になっておりまして、真夏、私が行きました時にもガリラヤ湖を見下ろす高台では強い風が吹いていましたので、本当に嵐に遭えば、大変だっただろうと思わされました。

ところで、マタイの福音書に因りますと(マタイ14:22 )、「…イエスは弟子たちを強いて船に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ…」とありますので、恐らくイエス様が弟子たちに、あえて先に行くように命じられたのでしょう。夕方になって、弟子たちは舟に乗り込み、沖へこぎ出すのであります。ところが、その途中で、強風となり湖は荒れ狂うのです。

考えてみますと、同じ嵐に遭うにしても、昼間と夜とでは随分、その恐怖感には違いがあるでしょう。回りがよく見えない暗がりで、しかも、舟が木の葉のように揺れる。ガリラヤ湖は、そう大きくはないとはいえ、陸から4、5Kmほど離れたところで、嵐に遭いますと、方向感覚さえ狂ってくるのではないかと素人の私は思うのであります。

まあ、弟子の中には元漁師もいましたので、舟を操ることには慣れていたとは思いますが、その彼等でさえ波と嵐に悩まされていたのでありました。それに加えて、今回、彼等弟子たちが、目にしたものは、何か得体の知れないものが近付いてくる、
この事に大変動揺したのでありました。確かに、湖の上を何かが近付いてくる。
それも最初はおぼろであったのでしょうか。だんだん近付いて来るので、恐ろしさも倍増であります。もし、他の舟が近付いて来るのでしたら、ぶっつかりあうことさえしなければ、それ程心配はいりません。もしかしたら、助けてもらえるかもしれない、そういう希望さえ持つことができたでありましょう。

ところが、であります。考えたこともないような、聞いたこともないような事態に彼等の心は動転するのであります。人影だったからです。その人影も、小さく見える段階でおぼろげであったならあるいは、はっきり識別できたとしても、近くなればなるほど、やはりその驚きは大変なものでしょう。

昔、テレビや漫画で見たのですが、忍者が水の上を歩く時に履いて使ったと言われます、かんじきのようなものをみたことがありますが、実際に、それで歩いた人は見たことがありません。テレビでも実際にやってみましたがやはり駄目でした。結論としては無理だということでしょう。ですから、弟子たちがこの時驚いたのも当然だったことでしょう。マタイやマルコは、「幽霊だ」と言って恐れたと書いてあります。

実際のところ、その幽霊だって、私は会った事はありませんし、会いたくもないのであります。彼等弟子たちだって、幽霊の話を聞いたことがあるでしょうが、実際に会ったことはないでありましょう。でも、なんとなく直観的に、そう感じさせる状況だったのでしょう。そして、そういう彼等に対して、さらにイエス様は近付き、
「わたしだ。恐れることはない」と言われたのでした。このイエス様のお言葉を考えますときにいろいろ教えられます。

この世の中に恐ろしいものはいっぱいあります。目に見えない恐れ、不安というのがあります。最近は特にそうですが、人込みの中に入りますと、突然、刃物を振り回す人がいるのではないか。事件、事故に遭うのではないかと思います。家にいても、空から何か降ってくるのではないかなどです。人が自殺のために落ちてきたり、飛行機の部品が落ちてきたり、建設中の機材が落ちてきたりといろいろです。

しかしながら、心配すれば切りがありません。サブターン回しの犯罪が広がっていると言えば、鍵は大丈夫か。車上あらしが流行っていると言えば、車をお持ちの方はそのことでまた心配でしょう。これらはみんな遭遇するかも知れなけれども、遭遇しないかもしれない。用心に越したことはありませんが、起こるかもしれないことで心配してノイローゼになるのもまた問題です。

ところで、そういった問題に加えて、私たちがこの世に生まれて来てから死ぬまでにどうしても通らなければならない道がある事に気付きます。それは義務教育から始まり、上級に進学するかどうか、どこに就職するか、結婚するかしないか、家を買うか、借家ずまいで済ますか、転職するか、今のまま続けるかどうか。仕事はいつ止めるか、老後をどの様に過ごすかなどなどであります。これらは、多くの人が、必ず通る選択の道であります。

人に相談できることもあれば、できないこともあります。人生、すべて順風満帆で終わることは有り得ません。必ずどこかで、決断を迫られ、選択を迫られ、そして選択の場合によっては、苦しい目にも遭うのであります。そんな時、どうしたらいいのでしょうか。今、例えばとして挙げてみましたが、これを聞いてみなさんお分かりのように、これらはすべて、別にキリスト者でなくても、誰でもが、経験するかもしれない、遭遇するかもしれない、あるいは通らなければならない事として受け取られるでしょう。そして実は、そうなのであります。

ということは、信仰者とて神様から特別扱いされるわけではなく、信仰生活の中に組み込まれていると言う事。その事をはっきりと信仰者も、またそうではない人も理解しておかなければなりません。と同時に、では信仰者でない人達と、どこがどうちがうのか、そういう点についても、しっかりと目を止めておく必要があるでしょう。

信仰者であることの特権の一つは、今回の聖書箇所にありますように、「わたしだ。おそれることはない」と言って下さる方がそばにおられるということであります。
雨の日もあれば、風の日もある、嵐もあれば、夏も冬もある。人生、いろんな事があり、試練、困難、恐れを経験します。しかし、そこには、主がいて下さる事実です。「恐れることはない」と言って下さる方がおられるということです。これは、何と言う心強いことでしょうか。

そしてもう一つ、ここの箇所で覚えたい点は、弟子たちは、強風で荒れ始めた湖で、苦戦しましたが、その様な状況下でも何事もないかのように歩くことのできる方が
おられるという点です。まるで乾いた地を歩くがごとく、嵐の中でも、まして、水の上を地上と同じ様に歩くことのできる方がおられるという点です。

信じられない方もおられるでしょうが、信じていただきたいのです。そして、そのようになぜできるかを知っていただきたいのです。実はイエス様は、この天地万物すべての被造物の主であるだけでなく、それを造られた方だからそれができるのであります。(ヨハネ1:3 )このヨハネの福音書の1章3節に書いてありますように、
「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」のとおりです。だからこそ、それを支配しておられるイエス様が、その上を歩くことなど、何の不思議もないのであります。

人間中心に考えるとき、人が、水の上を歩くことは驚きです。しかし、その水さえも造られた方が、その上を歩かれることなど、考えてみれば当然でありましょう。
自然の法則と言われるものが、不変でもなく、永遠でもありません。私たちは、その中に生きていますけれども、イエス様は、その中に生きながら、それを越えておられるお方でもあったのでした。そして、その方が、「わたしだ」と言われるのです。
「神であるわたしだ」と言われるのです。

そして覚えたい3つ目は、私たち信仰者はその方に、すべて知られているという点です。嵐の中で、自然の猛威と一人で格闘しているようでも、そして、イエス様の存在を身近に感じなくても、イエス様は、あなたのそばにおられるのです。そこには距離間はないのであります。弟子たちは、イエス様を最初は見て驚き、恐れたでしょうが、はっきりと自分の先生であり師である事が分かったとき、喜んでイエス様を舟の中に迎えたのでありました。そして舟はほどなく目的地についたのであります。

新改訳では「ほどなく」と訳されていますが、新共同訳では「間もなく」と訳され、
口語訳は「すぐ」と訳されています。そして、実際、あまり時を置かずしてですから「すぐに」というのが正しいのでしょうが、そうしますと、そこにもイエス様の素晴らしいお働きを見ることになります。実際のところ、マタイとマルコはイエス様が舟に乗り込まれると「風がやんだ」と書いていますので、突然嵐はやんだことになります。

私たちは、人生を歩んでいるとき、嵐は避けられません。また、その嵐を予期していつも恐れているのは正しくありません。人生の嵐は避けられないものであり、必ず遭遇しますが、その時に、「わたしだ。恐れることはない」といって下さる方が
あなたのそばにいて下さるなら何と言う心強いことでしょうか。イエス様は私たちの罪のために、十字架にかかり死なれました。墓に葬られ、三日目に甦えり、天に帰られました。しかし、その主がまた来て下さる。何と言う感謝な事実でありましょうか。また来て下さる方が、あなたと共にいるともおっしゃって下さっているのです(マタイ28:20 )。わたしは、あなたがたを捨てて孤児とはしません(ヨハネ14:18 )とも言われています。孤独を味わっているとき、人生の荒波にもまれているとき、方向を見失っているときと、どんな時でも、そこには、主も共にいて下さり「わたしだ。恐れることはない」とおっしゃてくださる主のお言葉により信頼しようではありませんか。私たちキリスト信者は決して一人ではないのであります。

最後に私の好きな歌の中の一つであります聖歌472番「人生の海の嵐に」の一番だけ歌詞をお読みして終わる事にします。先ほど、聖歌隊の讃美がありましたが、今日のプログラムの中にも歌詞が入れてありますのでご覧下さい。「人生の海の嵐に、もまれきしこの身も、不思議なる神の手により命拾いしぬ。いと静けき港に着き、我は今、安ろう。救い主イェスの手にある身はいとも安し。」

私は悩みに打ちひしがれた時はいつもこれを歌っておりました。そして励まされたのでした。イエス様にある力に信頼して、最期の最期まで歩ませていただこうではありませんか。

2004年11月21日(日) 「いのちに至る食物」  ヨハネ6:22-27   竹口牧師

今朝のみ言葉の範囲をヨハネの6章22節から27節としましたが、この22節の初めの所を見ていただきますと、「その翌日、湖の向こう岸にいた群衆は……」となっていまして、話が前からの続きである事がお分かりでしょう。ということで、その前の部分とはどこからかを溯っていきますと、この同じ章、6章の1節にたどり着くのであります。そこには「その後、イエスはガリラヤの湖、即ち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。」というそこまで戻って参ります。

そして、ちょっと復習にはなりますけれども、その部分を見ておきますと、イエス様はその「テベリヤの湖の向こう岸」で、男だけでも5000人余りの人を、大麦のパン5つと魚2匹で養われたのでありました。この事は、普通では考えられない力ある不思議な出来事でありましたので、人々は、このイエス様を自分達の王にしようとしました。

ところがイエス様は、御自分の使命がそのようなものではない事を良く知っておられましたので、さっと身を引き、山へと退かれ祈られたのでありました。そして夕方になり、イエス様は弟子達を舟に乗り込ませ、カペナウムの方へ行かせられたのでありました。イエス様は、その時、一緒に舟にはお乗りになりませんでした。そして、後から、向かい風にあって困っている弟子達の所へ歩いて行かれたのでありました。これもまた、イエス様のなさった大変不思議な出来事でありました。この福音書の著者ヨハネは、この話しの流れを繰り返すように、あるいは、復習させるかのごとく、きょうの最初の部分22節、23節で繰り返し説明するのであります。

イエス様が奇蹟を行なわれたその後、夕方になって、御自分は舟に乗られないで弟子達だけを行かせられた。しかも、その時、そこには1隻の小舟しかなかったので、
イエス様が向こう岸であるカペナウムにいることはできない。それなのに、25節を見ますと、イエス様をカペナウムで見つけた。また、勿論、弟子達もいた。これは一体どういうことだと、人々が不思議がっている。

それだけではありません。24節を見ますと、あの大勢の人達がパンを食べた所に、
テベリヤからわざわざ舟をこぎだしてやってきたのに、イエス様も弟子達もいないということで、あわてて自分達もその小舟に乗ってイエス様を捜してカペナウムに来た。そのように記すのであります。人々がどれだけイエス様に注目し、また追い回していたかお分かりでしょう。そして、そんな彼等は率直に、このイエス様に疑問を投げ掛けたのでありました。「先生。いつここにおいでになりましたか。」と。
自分達は、あちこち捜し回ってやっとイエス様をみつけた。一体どうやってここに来られたのか彼等には不思議だったのでしょう。

これを読んでいます私達は、何の疑問もなく答えられるでしょう。弟子達の後を追って、後から海の上を歩いて行かれた、とであります。でも、イエス様は、そのことには全く触れておられません。それよりもむしろ、彼等がなぜ、御自分をそれ程までに、捜し、またついて回るのか、その理由を説明なさるのであります。26節「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」とであります。

まず、イエス様のお言葉に私が疑問に思いますのは、人々がイエス様を捜し回っているのは、しるしを見たからではないのだろうか、という点であります。あのような奇蹟を行なえるような方だからこそ、自分達の王にしたかったのではないだろうか。そのように考えるのでありますが、イエス様は「しるしを見たからではなく…」とはっきり打ち消しておられるのです。そうではないんだ。「パンを食べて満腹したからです」と言われました。

言うまでもない事ですが、キリスト教の中にはいろんな教派が存在します。そして、その中には、まさに癒しを売り物にした教会もあります。信じて祈れば必ず、どんな病気でも癒されると勧められます。治らなければ、それはまだ祈り方が足りないか、信じ方が足りないかと、その求める人の側に責任を押し付けるのです。

しかし、本当にそうなのでしょうか。真の神様は、確かにどんな病気をも癒すことは出来るお方です。しかし、全ての人の病気を神様が癒されるかと言いますと、私はそうは思いません。医者も薬も病気改善の為の運動も必要もない、そう言う世界では、今はないからです。人間の罪の為に生じたあらゆる神様との不調和は、真の神様を信じる全ての人を健康にされるとは思いません。また神様もそのように求めてはおられないでしょう。

その一つの例として、現に、生まれつき目の見えない人がこの聖書に登場し、「彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」との質問に、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」(ヨハネ9:2−3)と言われています。とすれば、癒されることを求めることは許されても、癒されなかったから、求め方が不十分だったとか、信仰が薄かったから聞かれなかったとかと決め付ける事が果たして正しいのでしょうか。そうではないでしょう。

神様が、御自分のご栄光を表す為にすべてをなさっている。だから、癒しを求める事は大切ですが、自分の願っているようにならないからと神様の力のなさや自分の努力の足りなさのせいにするのは正しくないと言えましょう。

ところで、イエス様は、「あなた方が私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」と言われました。実は、イエス様は、その点を見抜いて、26節の言葉をいわれたのではないでしょうか。神様の偉大さ、お働きの大きさ、人々が目にした時、一様に驚き、心引かれたのであります。でもそれが即ち、イエス様の救いのお働きに結び付くとはいえなかった。

いいえ、それどころか、目先の不思議に引かれて、どんどんイエス様のしようとされていることからそれて行く。そのことを見られた時、物質的に満たされることをどんどん求めていく、そんな人々の姿に、イエス様は警告を与えざるを得なかったようです。実にイエス様は私たちの心をよく見抜いておられると言っていいでしょう。
「衣食足りて礼節を知る」と言う言葉がありますが、なかなか「衣食足りてもなお不満」というのがこの飽食時代です。

生活が安定しないのに、教会なんか行っていられるか、などと聞きます。生活が安定してきたら、今度は、自分の時間を自分で使うのがどこが悪いのかと言います。困った時には、まあ神様にでも助けを求めようかとある人は言います。苦しい時の神頼みでもいいのですか、と遠慮深そうに言う方もおられます。私は、そのような方に、どうぞどうぞ、神様に近付こうとする者に、神様はいちいち動機を聞かれません。みんな罪人なんですから。大切なのは、神様が呼び掛けておられるのに、それに応答しないで、また近付いていこうとしない事の方が問題です。どうぞ、来て下さいと勧めます。

そういう私も「一杯のカレーライスに惹かれた人間ですから」と答えます。イエス様がここで言われていますように、人々は、イエス様のなさったしるしを見たから
イエス様を捜しているのではなく、パンを食べて満腹したからだ。次は何を満たしてくれるのか、と人々は物質を求める。ここに彼等の問題があったわけでありました。彼等の目的は、物質的な満足、満たされる事だけに心が向いておりました。ご存じのように物質的な満たしには、よく深い人間には限界がありません。もっと欲しい。もっと満たされたいという思いになるのです。生きるためにパンは必要だと人々は一生懸命働きます。しかし、食べて十分有り余るのに、なお人は働き続けます。生きるためという自分の立てた目標を通り越して、もっと豊かに、もっと贅沢な暮らしをと求めるようになるのです。これではいつまでたっても満足感は与えられません。

かつてイエス様は「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による」と書いてある、そのように40日40夜断食した後での悪魔の誘惑の時に、み言葉を持って答えられました(マタイ4:4 )。イエス様が答えられた状況を考えていただきますと、その言葉の持つ意味がどれだけすごい状況の中で、それをイエス様が言われたかがよく分かります。40日40夜断食した後のことだからです。もう私はこのまま何も食べないでもいい。このまま死のうというのは自殺行為であります。

人は生きる事が求められている時、食べるものを求めるのは当然です。だがしかし、イエス様は悪魔の言葉に乗られなかったのです。なぜなら、ものには順番があるからです。イエス様はマタイの福音書6章31−33節でこう言われています。「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」とであります。

いつも、私たちの求めるのは、今以上の生活の豊かさです。そして、それには限りがないのです。人々はイエス様の奇蹟を見ました。そして驚きました。この者こそ、自分達の王に相応しいと思ったのでしょう。むりやり連れて行こうとしているのを知られたイエス様は、その場を立ち去られるのであります。当時ローマ帝国からガリラヤ地方を治めるように任せられていたヘロデ・アンティパス、あるいはガリラヤ湖の北東部を任されていたピリポ、あるいはローマの属州に組み入れられたユダヤ地方の総督、それらの代わりになるものとして人々はイエス様を考えたのでありましょうか。

人々の思いは分かりませんが、イエス様は拒否されました。イエス様は、自分はそのような目的のために来たのではない。御自分に心を向けさせ、魂のために真の糧を得るように導く為である。そのために来た事を27節で明らかにされるのです。
神様に何を求め、何が与えられなければならないのか、それを明確にされたのであります。

イエス様は言われました。「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」と。これは実に素晴らしいお言葉であります。そして、このお言葉によって、どれだけ多くの方が、み言葉の伝道者に導かれたことでしょうか。

皆さんにも、今朝そう呼び掛けておられるかも知れません。しかし、またここで誤解していただきたくないのは、このお言葉を聞いた全ての人が、そういう、ある特別な任務をする伝道者になることを意識してイエス様が言われたお言葉ではないことも知っておかなければなりません。信仰者全ての人が聞かなければならないお言葉であり、また、イエス様のお言葉を実践する必要がありますが、ある特別な人をさして言われているのではないのです。

逆の言い方をしますと、全ての信仰者が「なくなる食物の為ではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物の為に働きなさい」と言っておられるのであります。ですから、どうぞ、この27節のイエス様のお言葉を、今朝は、皆さんに与えられた言葉として受け取っていただきたいのです。イエス様を追いかけてやってきた人々だけでなく、私ども信仰者みんなへのイエス様のお言葉なのであります。

今朝の話の最期になりますが、ライルと言う人は、この27節から5つの点を取り上げて、教えていますので、皆さんにそれを紹介して閉じる事にします。彼は言っています。「この節は特に、有益な教訓で満ちている。その一つは、ここには禁じられていることがある。私たちは、自分の肉体的必要を満たすためや、使えばなくなってしまい、わずかばかりの益を、しばしの間、与えてくれるだけの糧のためだけに働いたり、そのようなものの為に働き過ぎてはならない。肉体的に必要なものだけでなく、霊の為にも働きなさいということでしょう。また、必要以上に物質を求めないことでしょう。」

第2番目の教訓は、命令されているといいます。「私たちは霊的な糧を得るように、しっかりと働かなくてはならない。その糧は、私たちの魂の必要を満たし、ひとたび私たちのものとなれば、いつまでも私たちのものであり続けるのである」と。「み言葉をたえず読み、神様から霊的な祝福を求めるように、命令されている」といいます。

そして第3番目の教訓は、約束されていることがあると言います。「人の子、即ちイエス・キリストは、いつまでも残る霊的な糧を自分のものとしたいと願っている人であれば誰にでも、それをお与えになろうとしておられる」と。この約束はまさに真実であり、求めれば必ず与えられる。その確信をいつも抱いて祈り求めたいものです。

第4番目は、宣言されていることがあると言います。「人の子なるイエス・キリストは、まさにこのことのために、父なる神によって指名され、任命されたのであり、望んでいる人すべてに、この霊的な糧を分け与えられるお方である、イエス様の宣言は、まさにその通りになる」という事ですから、私たちはイエス様のお言葉に感謝の応答が必要でしょう。

そして最期にもう一つ、この節全体がはっきり示していることがあると言います。
それは「人々がどんなに肉的に邪悪であったとしても、私たちは、福音の示す救いを、豊かにかつ十分に伝えることを決してためらってはならない」とです。「主も、このユダヤ人たちの動機が悪かったとしても、まず彼等の罪を明らかにしてから、
その救済の方法を彼等に示しておられるではないか」、という風にであります。

以上、禁じられている事、命令されている事、約束されている事、宣言されている事、福音を伝える事にためらってはならない。私たちは、今朝、当時の人々の足取りを追いながら、イエス様が言われた最期の言葉を今一度味わおうではありませんか。そして、イエス様のために働く事の幸いをいただきましょう。父なる神様は、御子イエス様をこの世にお遣わしになり、イエス様のそのお働きを認証されているのですから。


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