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2004年12月26日(日) 「天からのパン」 ヨハネ6:28-33    竹口牧師 

イエス様は5つのパンと2匹の魚とで5000人以上の人を養われました。この不思議な業は、多くの人の目に留まり、また噂となってその出来事は広がりました。そして、わざわざイエス様に会おうと、その奇蹟をされた所へ、ある者達は舟でやってきましたが、おられないので捜しているうちにカペナウムにやってきた。そしてイエス様に会い、「いつここにおいでになりましたか」と尋ねました。

イエス様は、彼等が何に興味を持っているかを見抜いておられましたので、その彼等の質問に直接お答にならないで、それよりももっと大切な事へと話を進められました。27節にありましたように、「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、
永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。……」云々というものでした。このイエス様のお言葉に対して彼等はまた質問を投げ掛けました。そのやり取りを今回も見ることになります。

イエス様は「食物のために働きなさい」と言われました。しかも、その食物とは、普通一般の3度の食事を指す食物ではなく、「いつまでも保ち、永遠に至る食物の為」のものだと言われました。人々は、これを聞いて「働く」というのが、自分達の考えているのと違うことに気が付いたようでありまして、こう言うのであります。
「私たちは、神のわざを行なう為に、何をなすべきでしょうか」と。これは当然ながら、「いつまでも保ち、永遠に至る」というのですから、神を喜ばせ、天国への入場券を買う為には何かをしなければならないと考えたようです。

何かよい事をすれば、永遠のいのちに至る。そうでなければ滅びてしまう。それでは、それを教えて下さればやりましょう、と言った具合であります。これは、イエス様のお言葉を正しく捉えていない、あるいは的はずれな質問であるといえましょう。
とはいえ、真面目にイエス様のお言葉に聞こうとしている姿には、私たちも見習うべきでありましょう。聞く姿勢と、また聞いたなら行ないたいと言う前向きな姿を
私たちは彼等から見えるのではないでしょうか。

普通は、そういう点には目を向けず、また聞こうともしないのが現実であります。
ただ、今私が言いましたように、的が外れているところに彼等の問題点があるのは確かです。間違った熱心は害にこそなれ、益には少しもならないのと同じ様に、熱心に聞くことをしていながら、彼等は自分の心の内に、イエス様の思いとは違った思いをもって質問している。これは、真に残念であります。

先回もお話しましたが、彼等がイエス様を捜して、ついて回ろうとしていましたのは、イエス様の行なわれたしるしを見たからではありませんで、パンを食べて満腹したからでありました。そしてもっと欲しい、もっと物質的に満たしてほしいという思いが彼等にはあったのでした。これは、イエス様のなさった不思議の意図されることとは違っていました。イエス様のなさった奇蹟はあくまでも正しく教えるための導入であり、本来は、そのことを通して、イエス様からではないと得られない、そういう恵みを受けるように願っておられたわけでありました。

しかし、彼等の願うところは、物質的な満たし以外のなにものでもありませんでした。そして、多くの人は、それをイエス様に求めるのであります。確かに、イエス様はなんでもおできになりますので、物質的なものをお与えになることは勿論できます。でも、それがイエス様の本来の使命ではありませんでした。多くの人は、まずパンを求めるでしょう。肉体を支えるために必要だからです。それが満たされていると、今度はその他の物質的なものを求めます。しかも、それを必要以上に求め、限りがないのです。

テレビを見ていますと、この世の贅沢の限りを尽くしている人達を目にすることができます。部屋がいくつもあったり、風呂やトイレがいくつもあり、プールはあり、自家用飛行機はあり、ビジネスはうまくいっている。何か、そういう人達を見ますと、自分たちより偉いような、そんな錯覚さえしてきます。しかし、彼等でさえ、私たちと同じ様に死を迎えるのであります。今、自分が持っている財産すべてを、
墓の中に持って入ることはできないのです。彼等は物質的には成功者かも知れませんが、魂の事について全く考えていなかったなら、それは人生の大きな失敗であります。

イエス様は、6章の初めで人々のお腹を奇蹟によって満たしてくださいましたが、
だから、これからもイエス様についていけば、満たされるだろうと思うのはそれは間違いです。イエス様の使命はそうではないからです。イエス様は、ご自分のすることを通して、人々の心をご自分に向けさせ、魂のための本当の糧を得るように
することでありました。財産が豊かになること、これは決して悪いことではありません。しかし、それよりももっと大切なことがあるのです。イエス様はある時、こんな話をされました。

それは「ある金持ちの畑が豊作であった」という例え話です。あの中で、金持ちは、自分の魂にこう言おうと言っていいました。「たましいよ。これから先、何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」と。それに対して「愚か者。お前の魂は、今夜お前から取り去られる。そうしたらお前が用意した物は、いったい誰のものになるのか」とそのような話しをイエス様はされ、このように「自分のために蓄えても、神の前に富まない者はこのとおりです」と教えられたのでありました。(ルカ12:16-21)

ところで、彼等の言っています「私たちは、神のわざを行なう為に……」という「行なう」とは、27節で「働きなさい」という「働き」と同じ言葉です(εργαζομι)。また、「神のわざ」という言葉が「神のなさるのと同じわざ」を意味するのではないことは、勿論のことであります。そんな事できるわけがないからです。
つまり、「神のわざ」とは、「神に喜ばれるわざ、神のお考えに一致する業、神のみ心にそったわざ」のことです。(おなじことは1コリント15:58,16:10 にも言える)。
これがグラシウスの見解であるとライルは書いています。

それにしましても、同じ事を繰り返すようですが、まず「私たちは……何をすべきでしょうか」という質問は、非常に大切なものであると言えます。最初から頭ごなしに否定し、拒否し、受け入れないのではなく、あるいはもしかしたら、出来るかもしれない、そのような希望を持つ事は大切であります。例え間違っていたとしても、イエス様にきき続ける者には、イエス様はきちんと正しい導きを与え、答えをくださるからです。イエス様に導かれて、救われる事の大切さ、永遠のいのちが欲しいという思いが、その人の中に与えられることはなんという幸いでしょうか。

マタイの福音書19章にでている事ですが、そこには一人の青年がイエス様の所にきて、「先生。永遠のいのちを得る為には、どんなよいことをしたらよいのでしょうか」と質問しています。あるいはまた、パウロの伝道旅行のとき、ピリピで捕らえられ牢獄に入れられた時の事ですが、看守達がことの重大さに気付いて、パウロ達に向かって「先生方、救われる為には何をしなければなりませんか」と言ったとあります。(使徒16:30 )

まずは、その質問から始まると言っていいでしょう。イエス様は今日のところで、人々の質問にこう答えられました。29節「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」とであります。人々は、「神のわざを行うために、何をすべきでしょうか」といい、その答えは、「神が遣わした者を信じること」だとイエス様は言われる。行なう事と信じる事との間に、繋がりが果たしてあるのでしょうか。行なうと言えば、形ある作業を想像しますし、信じるとは、精神的な活動であり、目に見える働きではないように思えます。

しかしながら、30節の彼等の続いて行なった質問は、そのようなちぐはぐなやり取りの中で、イエス様のお答えに彼等は少しも疑問に思っていないようです。それどころか、積極的に行おうとさえしています。しかし、そこには彼等の条件が提示されていました。「信じるために何をしてくださいますか」とでありました。彼等はすでに、5000人以上の人達の食べ物の必要を満たされたのでした。彼等はそれを見ていたはずなのです。いいえ、仮に見ていなくても聞いていたはずであります。イエス様を捜してカペナウムにまでやってきた人達ですから、たとい見ていなくても、聞いていたであろう事は想像できます。

その彼等がなお、ここではしるしを求めているのであります。しかも、旧約聖書の記事を取り上げてであります。まるで、1回の奇蹟では信じられない。もっともっと永続的に続く奇蹟が見たいものだと言わんばかりであります。「私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた。』と書いてあるとおりです。」と、この様に言います。

何か見せてくれれば信じてもいい。いいえ、信じてやってもいい。あなたはどのようなことをなさいますか、と彼等は詰め寄るのです。先程の熱心さとは違ってきております。本来なら、29節のお言葉を聞いたとき、彼等は、それはどういうことですか、という質問に変わっても良かったと思います。

「信じると言われてもよく分からないのですが、何をどう信じれば良いのか教えて下さい」、これが彼等の次にくるべき言葉であったでしょう。しかし、そうではなくむしろ更にしるしを求めたのでありました。それも、もしかしたら皮肉と嘲笑が込められていたかもしれません。「このようなことを言うあなたは一体何者ですか。あなたがメシヤであることを示すどんな奇蹟的な証拠を、あなたは見せてくれますか。」と言う風に、であります。

この話の流れを6章の最初から読んでいますと、イエス様に質問している人達が、実際にパンを食べた人達なのか、それとも、パンを食べた人達から話を聞いて集まってきた人達なのか、そこのところがはっきりしません。けれども、昨日行なわれたこと、それも一人や二人の前で行なわれたのではない、女や子供を入れますと1万人にはなったのではないかと言われる、そのような人々の前で行なわれた奇蹟を、
見た人が忘れるはずがない。聞いた人も、そんなに馬鹿にして信じられない事でもない。それだけ説得力のある業であったと思うのです。

しかし、今ここにいる人達は、更に要求するのであります。そして、これはまた人間のかたくなさを現しているのかも知れません。なぜなら、荒野を旅してきたイスラエルの人達が、何度、神様につぶやき、叱られ、また助けられたことでしょうか。水が欲しいと言えば、水を与え、食べ物が欲しいといえば食べ物を与えて来られたのでありました。彼等は、何度も神様のして下さった大いなる業によっていのちが守られ、救われてきたのでした。それでも、困難がくるとまた、神様の力を忘れて不満を述べたのでした。つまり、人は簡単に神様からの恵みを忘れる動物であるということでしょうか。これが、私たち罪人の姿でありましょうか。

ところで、32節の前半部分、「イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません』」というのをある人はこう解釈しています。「あなたがたに天からのパンを与えたのはモーセではありません。しかも、あなたがたに与えられたそのパンも、
永遠の命に至るまことのパンではありません。」とです。実に分かりやすいと言えないでしょうか。

「昔、イスラエルが荒野で頂いたパンは、モーセからではなく神様からなんです。
また昨日お腹を満たすために与えたパンは、永遠の命に至るものではない。なくなる食物でした」とまあ、更に私は言い換えますけれども。そしてその理由と言うものをイエス様は今日の最後の33節で言われるのです。「というのは、神のパンは、
天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」とです。彼等は、このイエス様のお言葉を聞いても、正しくそれを受け取っていないことが次回見ます箇所で明らかになります。

それはともかく、私たちは少なくとも、イエス様のおっしゃっていることを正しく受け取っておく必要があります。イエス様の時代に、ユダヤ人達は、他の国々の人達、彼等からすれば異邦人ですが、そういう人達からは比べられないほど、神様の求めておられることを満たすために、いろいろやってきた。そういう自負心と言うものをもっておりました。そういう彼等に対してイエス様は、なくなる食物のためではなく、つまり永遠の命のために働きなさいと言われたのでした。

永遠の命と言うものは、イエス様を通して神様が与えて下さるものですから、私たちが何か努力して得るもの、いただけるものではありません。ですから、そういう意味での働きではないことは十分分かります。言い換えますと、働くとは、具体的な何か労働することではなく永遠の命に留まる、神様の下さる真の霊的な糧を求めなさい、ということでしょう。29節でも言われていますし、他の所でもイエス様が言われていますが、神様がお遣わしになった方を信じることが、神さまの求められる唯一の業と言えます。

私たちは、自分の力によって何かを手に入れることを働きと言います。しかし、イエス様は、神様がイエス様の救いのお働きを通してなさる業に信頼し、自分をその方に委ねていく、その歩みを働きだと言っておられます。食べ物、着る物、住む所などなど、この世のさまざまな物質的なものが満たされてもなお飢えを覚えるのが、私たちの魂です。肉体的な飢えと、霊的な飢えとははっきり違うからです。そして魂の必要を完全に満たして下さるのはイエス様なのです。

多くの人は、肉体的必要のみを求めて、それで終わっています。しかし、本来人間は、肉的必要だけでなく、霊的必要も満たされなくては生きていけないのです。「神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるもの」ですと言われたイエス様。
その方を知って、イエス様の下さるお言葉の一つひとつによって生かされ、歩むことの幸を私たちは確認しようではありませんか。また、信じておられない方は、その方を信じて、委ねた歩みを始めてほしいものです。


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