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2005年1月16日(日) 「来る者を捨てない」  ヨハネ6:34-40  竹口牧師

イエス様はかつて、ユダヤ人の指導者であるニコデモに対して、「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」、と言われました。そして、その言葉の中でニコデモという人は、新しく生まれるという言葉に注目し、イエス様に対して
「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度母の胎に入って生まれることができましょうか」と質問しました(3章)。

あるいは、サマリヤの一人の女性が、人目を避けるようにして、昼間、水を汲みにきた時に、イエス様が言われたお言葉は、こうでした。「この水を飲む者は誰でも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」と。すると、それに対してサマリヤの女性は「先生。わたしが渇く事がなく、もうここまで汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい」とお願いしました(4章)。

そしてまた、今日取り上げます聖書箇所の一番最初の言葉に至る、その背景と言うものが、5000人以上もの人々の食を満たして下さった、そういうイエス様について回り、あるいは、噂を聞いて集まって来ていたであろう群衆に対して、イエス様が言われたお言葉は、「…モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。
というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」でありました。

それに対する彼等の願いが今回の最初の言葉でありまして、「主よ。いつもそのパンを私たちにお与え下さい」なのであります。そして今、この三つを取り挙げましたが、そのたとえのどれもにも共通した点があるのであります。それは、イエス様と話した人達はみな、肉的なことで考え、肉的な思いで質問し、あるいは願っているという点であります。

彼等は、目に見える形のものを考えて話しているのに対しまして、イエス様は、目に見えない、霊的な話をされているのであります。そこには、大変大きなギャップと言うものを私は感じます。そして、そのギャップと言うものが、このヨハネの福音書を読む人達のほとんどの人に、戸惑いを感じさせるのではないかと思うのです。
真の神様を知らない人達にとって、ニコデモの言葉に納得しますし、またサマリヤの女性の言葉にも同意されるでしょう。さらに、今回の群衆の言葉も、その前からの話を続けて読んでおられれば、当然、彼等がそういうだろうと思われます。

昔、出エジプトの時、指導者となったモーセ、その時代に、食べる物がなくて困っている時、食事の主食であったマナを神様は天から降らせ、人々のお腹を満たしてくださいました。そのように、このイエス様の時代にも天から食べ物がふって来るなら、彼等は何という喜びだろうかと考えたわけでありましょう。それだけ働かなくても良いわけだからであります。ですから彼等は、「いつも、そのパンを私たちに与えて下さい」と、そいう風にイエス様に言ったのでした。

しかしながら、それに対してイエス様は、「わたしがいのちのパンです」と言われました。彼等はこれを聞いて、面を食らったのではないかと私は思うのです。意味が良く分からない。何をイエス様が言われているのか理解できない。まさに空を打つような話になってきたと言ってよいでしょう。

今でこそ、私たち信仰者は、イエス様が彼等の要求を聞きながら、もっと大切なことがあるんだよと、そのように、そちらの方に話を向けておられることを私たちは読み取ることができるのでありますが、しかし、信仰者ではない方々、大抵の人は、この対話が分からず、読んでも話が頭の中で空回りをしているのだろうと想像するのです。実は、私自身がそうだったからであります。霊的な備え、知識というものが無い状態でこれを読みますと、話が噛み合わないのであります。

考えてみますと、34節の彼等の言葉は、イエス様が教えて下さった主の祈りの一部分に似ていなくもありません。「私たちの日毎の糧を今日もお与え下さい。」と先程祈ったばかりです。イエス様も、そう祈るように教えて下さいましたし、従って、そう祈り求める事は大切なのです。しかしながら、34節の彼等の言葉は、信仰の目でそう言っているのではない所に問題があるのであります。

その理由は、イエス様が、27節でこう言っているところから分かります。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしをみたからではなく、パンを食べて満腹したからです」と。実はそうなんです。イエス様の行なわれた奇蹟を見たからではない。見たのは見たのですけれども、彼等の心を支配していたのは満腹感でありました。ですからそのことを36節でイエス様は言われたのでした。「あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました」と。

見てはいるのですが、信じようとしないとの指摘であります。そういえば、見てはいるのですが、という点で言いますと、最近、私は物をよく捜すようになりました。
いつも置いている所に、物が無い。朝の出がけにそれが起こったらさあ大変であります。また、そういうときに限って、起きるのでありますが。それはたとい、30センチ程隣にあっても、目に留まらない、見えないのです。

いいえ。見えないのではなく、見えているのですが、認識していないのです。ここにおいたはずだと思い込んでいますので、僅か30センチ横にあっても気付かないのです。携帯電話であれば、家内に電話をしてもらって、音を頼りに捜しますが、殆どはそうではないものですから困るわけです。先入観というものは大変恐ろしいものであります。いつも椅子の背もたれの右側に掛けている物が、左にかかっているだけで、もう椅子は見たので、見なくてもよいと考えるわけです。そして、探し続けることになります。朝の緊迫した時間帯に、です。従って、最近では雑然とした部屋ではありますが、できるだけあまり整理しないようにしております。あまり上手に整理しますと、また物捜しに時間を取られることになるからです。

ところで今、イエス様のもとに来ている人々は、物に囚われています。物質的に満たされる事へ、のみ心が向いています。そのような彼等に、霊の事へと目を向けるようにイエス様は話されます。35節で、「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんな時にも、決して渇くことがありません」と。しかしながら、先々回26節で言いましたように、そしてまた今日の36節でも言われていますように、彼等は、イエス様の言葉が理解出来ませんでした。

イエス様を見ながら、信じないのであります。その結果、彼等はいのちのパンで満たされることはありません。余計な事ですが、ここには、パンと書いてありますが、
パンではなく、御飯の方が好きな人は御飯でもよいわけです。食物として無くてはならない物という意味であります。しかも、いのちのパンとありますので、それを食べる事によって、生き長らえることができるものであります。それも霊的に、であります。

人が生きていくためにどうしても必要なもの、肉体的には、食べる事と寝る事であります。断食をする人がいますが、生涯食べないわけにはいきません。やはり、食べる物によって体は維持されるのであります。しかしながら、食べる事、寝る事が確保されれば、人は生きて行けるかと言いますと実はそうではないのです。霊的な食物も食べないと人は生きて行けない。そして、それがイエス様だと言われるのであります。「わたしがいのちのパンです」と。そしてその命のパンであるイエス様が、
「わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」とこう言われているのです。

ところが彼等は、そのイエス様を見ながら、信じようとしないと言われます。そしてそれは、イエス様のもとに来ないと言われます。ここで、イエス様は来る事と、信じることとを殆ど同じ意味で言っておられます。なぜなら、人々は実際にイエス様の所に来ていますが、信じていないからです。ですから、物理的な移動である、イエス様のもとに来るというより、実際にイエス様のもとに行っても、言われることを信じなければ、来たことにならないのです。

では、イエス様を信じて来た者はどうなるのか、どういう人がイエス様のもとに来るのか、ということが問題になります。そしてそれをはっきりとイエス様は37節で述べられるのです。「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」

この言葉は、神様の選びを指していますが、この言葉を読んで、「父がわたしにお与えになる者」の中にもしかしたら自分は入っていないのではないだろうかと、否定的に読む人がおられますが、そのようには捉えないでいただきたいのです。なぜなら、選ばれているかいないか、それが分かるのは、イエス様のみだからです。それゆえに、私たちに赦されているのは、信じる事なのです。イエス様が「わたしがいのちのパンです」と言われれば、私にとってイエス様はなくてならない存在のお方なのだと、そう素直に信じてほしいのです。それが、イエス様の所に行く事であり、信じる事であり、受け入れる事だからです。

イエス様は「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」と、「来る者は拒まない」とはっきり言われているのですから。一般の方の中には、神様の選びの中に入れられているかどうか分からないのに、自分の都合のいいように、選ばれていると思っていても、もし選ばれていなければ、救われないではないか、そのように言う人がおられます。しかし、そのように自分を選ばれていないのではないのかと、最初から考えるのは正しいとは言えません。そういう人はむしろ、選ばれている者がどんなに素晴らしい特権をいただけるのか、あるいはいただいているのか知っていただきたいし、また求めてほしいものであります。

神様は救われるのが嫌だと言う人を無理やり救うことはなさいません。神さまは、ご自分の選んだ者に、救われることの素晴らしさを教え、本当にイエス様の恵みに与ることは、自分にとって必要なんだと気づかせてくださり、求める心を与え、救って下さるのであります。ですから、神様の思いを否定的ではなく、前向きに捉えてほしいのです。今回の聖書箇所の残りの聖句、38節から40節までで、イエス様の来られた目的と、信じた者の特権が述べられていますので、信仰者である私達は、それに目を留め、将来に期待したいのです。また信じていない人は、その特権に目を留め、求めてほしいのです。

38節はイエス様の来られた目的が書かれていますが、ある本は、これを分かりやすく説明していますので、それをそのまま、お伝えするのが良いかと思います。それにはこう書いてあります。「わたしは(イエス様は)、わたしの父の御心と関係なく、自分だけの思いと意志で何かをするために、人となってこの世に来たのではありません。そうではなくて、わたしは御父の御心を行なうために来たのです。神であるという点では、わたしの意志は御父の御心と、全く調和し、一致しています。
なぜなら、わたしとわたしの父とは一つだからです。人であるという点では、わたしを仲保者また罪人の友となるようにとお遣わしになった方の御心に、全くそったことを行なうこと以外は、思う事も願う事もありません」とであります。

実に素晴らしい説明です。そして39節も40節もいわば、イエス様の目的であり、お働きが書かれているのですが、一方、そのイエス様のお働きは、私達信仰者にとってみれば、喜びであり、希望であり、確信ですので、しっかりと心に留めておきたいものです。

39節は、父なる神様が選んで下さった者を、神の子とし、一人も失うことなく、一人一人を甦らせて下さると言う点です。この節で特に私が注目しますのは、「一人も失うことなく」という点です。信仰者はイエス様の尊い血潮によって神の子とされ、
永遠の命が与えられ、更には甦りの約束が与えられています。しかし、その信仰者がこの世を辿る道は、見掛上は、この世の人達とある部分似ていて、あまり差がありません。病気にもなりますし、人生の節目節目で、選択を求められますし、さまざまな戦いがあるわけであります。そのような状況ですから、信仰の試練も数々経験するわけです。

もしかしたら、私はもう信仰が駄目になったのではないか、そのように感じる時もあるのです。駄目だと自分を追い詰め、信仰からある時は離れた状況になるかも知れません。しかし、人も目にも自分の目にも、そのように見える時でさえ、イエス様の血潮によって救われた人は、だれ一人、神様から見られれば、失うことなく、終りの日には甦らせて下さると言われるのです。それだけに、私達は、自分の行ないを見ながら、自分の落ちた信仰生活を追い詰めるのではなく、こんな私でさえ、主は目を留めて下さり、今日があるのだと主に感謝してほしいのであります。

イエス様が「一人も失うことなく」と言っていて下さるのですから。そのお言葉に信頼して、立ち上がらせて頂こうではありませんか。ところで、私達は、いつも誰を見上げるべきか、それが40節に書かれていると言えましょう。「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです」とあります。これは私達は、いつもどんな時でも、子を見て信じる者でなければならないという事であります。

繰り返し、繰り返し、毎日、毎日、あるいは一刻、一刻、あの十字架に掛かられたイエス様の贖いの業によって罪赦され、終りの日には、イエス様が三日目に墓から甦えられたように甦えらせていただける。この素晴らしい特権をいただいていることを確認したいのです。イエス様は父からの命令として言われるのです。「わたしはその人たちを一人一人終わりの日に甦えらせます」と。何と言う力強い、素晴らしいお言葉でしょうか。

この世には、苦しい事、辛い事が一杯あります。しかし、主が素晴らしい約束を持って、私達を導いて下さっているのです。どうかイエス様に近付いて下さい。そして、救い主イエス様を見ていただきたいのです。更には、イエス様が指摘されていますように、見ながら信じようとしないのではなく、見て、そして信じていただきたいのです。イエス様は来る者を決して捨てないお方ですから。また、あれやこれやしなくてはならないのではありません。すでにイエス様がすべてをなし終えて下さっているのです。私たちは、その方に全てをお委ねして、39節で言われていますお言葉に信頼してついていくことだと言えましょう。

「わたしの所に来る者を、わたしは決して捨てません」と言われた方の39節のお言葉を最後にお読みして終わることにします。「わたしを使わした方の御心は、わたしに与えて下さったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、一人ひとりを終りの日に甦らせることです」お祈りいたします。

2005年1月30日(日) 「いのちのパン」  ヨハネ6:41-51   竹口牧師

今日の聖書箇所の始まりは、「ユダヤ人達は、イエスが……」と始まっています。
一方、これまで見て来ました6章の始めからは、イエス様に話し掛けていたのは「群衆」であったと書いてあります。ということで、今日の箇所からイエス様に話し掛けたのは、これまでの人達とは違うのではないか、という考えがあります。それも次回見ます59節を見ますと「これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、
会堂で話されたことである」とありますので、湖のほとりではなく、会堂での話しであると言う人もいます。

しかし実際は、どこから場所が変わったのかは分かりません。が、少なくとも、今日登場しますユダヤ人とイエス様との会話では、特に42節を見ていただきますと分かりますように、イエス様を見下げたようなイメージを持ちますので、少しは自分たちが上のような気持ちを持っている立場にある、そういう人達ではないかと思えるのであります。

ご存じのようにイエス様は、ベツレヘムで生まれられ、それも家畜小屋で生まれざるを得ませんでした。また、きよめの期間が終わりまして、両親が幼子を主に献げる為に献げ物を持って宮に行きましたが、ルカの福音書2章によりますと、その献げ物が「山ばと一つがい、また家ばとのひな二羽」となっていますので、貧しい家庭に生まれられたと思われます。つまり、神の御子であられるイエス様が本当にこの世の底辺の生活から歩み始めて下さった事を、これらを通して私どもは知ることが出来るのであります。

一方、その様なイエス様を見る回りの目と言いますのは、今日の42節にありますように、「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか」、そういう見方なのでありました。つまり、彼等は自分たちがイエスという人物を知っており、また、家柄や学問や社会的地位等々を知っていることによって、すべてを知っているかのように思っていたわけでありました。それは、あくまでもこの世的な見方だけであり、イエス様の本当の姿、それは神の御子が人となってこの世にお出でになった、そのことに気付いていなかった、という事であります。

私たちは、回りの人達を見る時に、その人の生い立ちの過程をしる事によって何らかの偏見を身に付けてしまいます。事実そうなのであります。学歴至上主義の家庭であるなら、その様に子は育つでしょう。拝金主義の家庭なら、なんでもお金に換算して考えるでしょう。出世主義なら、何がなんでも有名になることを求めるでしょう。家庭でなくても、世の中がそのようであるなら、また事実そうなのですが、大抵の人はそれを求めるのです。と同じ様に、イエス様に対してユダヤ人達は、強い偏見を持って見ていたに違いないのであります。

彼等はイエス様のことをこう言っています。「どうして今彼は『わたしは天から下って来た』というのか。」と。「あれはヨセフの子で、我々はその父も母も知っている」と。そういう目で見ますから、イエス様のお言葉がつまずきとなるわけであります。「わたしは天から下ってきたパンである」と言われるなら、なおのことであります。そういう彼等にイエス様は「互いにつぶやくのはやめなさい」と言われました。

イエス様はひき続いて言われました。「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」と。これは、注意深く読んでいただきますと、本当は、非常に恐ろしい事が書かれているのであります。それは、イエス様の所に来ることができるのは決まっていて、それぞれが持っている人の力ではどうにもならないと言われているからです。主権は父なる神様にあると言われているからです。

罪に陥っている人間は、自らの力で救いを求めるどころか、その曲がった心はさらに神様から遠く離れようとしますし、また拒否的反応さえするというのが現実です。
まして、父なる神様の憐れみによって引き寄せてくださらない限り、イエス様の所に行けない。ということは、逆に言いますと、父なる神様が引き寄せて下さった人、
そして、その結果イエス様の所に来ることができるように去れた者、そういう人は、何と言う幸いでありましょうか。これはもう、父なる神様からの一方的な恵みという以外に、何と言えるでしょうか。

しかも、そのように父が引き寄せて下さった者に対して、イエス様は終りの日に、その人を甦えらせますと、宣言されるのです。何と言う素晴らしいお約束でしょうか。よみがえらせて頂ける事の幸が、あるいは恵みが、あるいは神さまの力が、今若くて、また病気一つしたことのない人にはピント来ないかも知れません。しかし、死の谷の陰を歩んだ経験のある人には、この甦えりの意味は、本当に希望だと思えるでしょう。何しろ、死で終りではないのですから。甦えると言うのは、新しい命を頂けることでもあるからです。闇を経験した人ほど、その有り難みが分かるのではないかと思います。

45節にこうあります。「預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます」と。イエス様はここで、み言葉を持って神様が教えられる真理を語られるのであります。イエス様は、ユダヤ人たちに、彼等自身の持つ聖書が教えること、そして、彼等が知っていることを用いて語られているのですが、ただそれが、今回の場合、聖書の特定の箇所を指しているのかどうか、よく分かりません。

欄外注をみますと、イザヤ54:13 とかエレミヤ31:34 が挙げられていますが、人によっては、具体的な聖書箇所ではなく、聖書の中の預言書全体から見て言われているのだという人もいます。どちらにしましても、聖書の教理的真理ですので問題はありません。「父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところにきます」とは、『私のところに来る者はすべて、最初にみ父から聞いて学んでいます』となります。つまり、人は自分の力で罪からの救いを得ることは出来ず、父なる神様がイエス・キリストのもとに引き寄せてくださって救いが与えられるという教えであります。

周囲を罪に囲まれているだけでなく、人は生まれながら罪の性質を持っていますので、法律に違反するようなことはしないまでも、やはり、人には目立たないような罪は犯しているのです。清い人といわれるのには恥ずかしさを覚え、罪人といわれれば、怒りを覚える。それが罪人の姿ではないでしょうか。何よりも、聖書がいうところの真の神様に対して、人にして下さったことを聞いても、信じないし、信じようとしない、これはまさに、罪人の性質を持っていると言えましょう。

そんな罪人であっても、父なる神様が、イエス様こそ真の救い主と教えて下さった者には、神様が引き寄せて下さった人であり、そう言う人はみな、イエス様のもとに来るのであります。イエス様を正しく、またはっきりと信じることは、実は、神によって引き寄せられたことを表しています。46節を見ますと、「誰も神を見た者はありません」とあります。これが入れられていますのは、イエス様が教えて下さるものがどういった種類のものか、あるいはまた、イエス様が「御父」といわれる時には、どなたのことを言っておられるのかということについての誤解が、聞いている人々の心に生ずることを防ぐ為であったでしょう。

御父とは誰も見た事がなく、見ることもできない永遠の神の事です。その教えとは、心にかかわる内的な教えであって、御父が御自身の御霊によって教えられるものです。それはまた、イエス様がみ言葉の真理を語られているように、み言葉に聞き、み言葉によって確信へと導かれなければならないのです。この世の人がなかなかキリスト信仰を持つことができないのは、人の意見を気にし、人が書いたものに頼ろうとするからです。どんな有名な人が書こうとも、人の意見をどんなに聞いても、所詮、人の知恵にしか過ぎません。大切なのは、神の言葉はどういっているかであります。こんにち神に聞き学ぶとは、聖書に聞き、聖書に学ぶ事であります。

イエス様は、46節で、御自分が神からでた者であると言われます。そして「父を見たのです」と言われます。この書の著者ヨハネはすでに1章18節のところでイエス様の事を、「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」と書いていました。そのひとり子の神が、イエス様であることを、イエス様のお言葉によってここにヨハネは明らかにしているのです。

イエス様は47節で言われています。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
信じる者は永遠のいのちを持ちます。」と。そして、この永遠のいのちのことは、40節ですでに言われていたのでありました。「わたしの父のみ心は、子を見て信じる者がみな永遠のいのちをもつことです。」つまり、もう一度、この大切な話に戻っておられるという事です。何が大切かといいますと、信じる事であります。何でもいいから信じればいいのではありません。なぜなら、何を信じるかによって大きく違ってくるからです。

48節で「わたしはいのちのパンです」と言われました。35節でも同じように言われています。以前にも言いましたように、パンとは主食のことを指します。主食はなくてならないもの、生きていくのに必要な栄養分があります。まず、飽きることがありません。イエス様が、そのいのちの源であるパンだといわれるのです。そして、旧約聖書の時代の歴史に目を向けさせ、かつて先祖が荒野をさまよっていた時に神様が天から降らせて下さったのがマナでした。それによって養って下さったマナについて取り上げられました。

彼等は、みんなあのマナを食べて生きましたが、時が来て、みんな死んでしまいました。今聞いているユダヤ人達は、イエス様の話される言葉には、何の抵抗もなく、そういう話には引き込まれる事でしょう。50節「しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。」と言われますと、彼等は抵抗を覚えた事は考えられます。なぜなら、彼等の頭の中は、霊的な事と、肉的な事とが一緒だったと思われるからです。次回見ます52節を見ますと、そのことがうかがえるでしょう。

それはともあれ、あの当時、ユダヤ人達が荒野で食べたマナは、今、イエス様御自身が与えて下さるパンとは比べられない程の違いがあることをイエス様は指摘しておられるのです。マナは、肉体の維持に役だったけれども、結局は死んでしまった。まして、魂に就いては、何の役にも立たなかった。とはいえ、イエス様はそのことを通して、神様のなさった奇蹟を無駄のように言われているのではないので注意していただきたいものです。

神様は、荒野において、イスラエルを奇跡的に養われた、これもまた、彼等にとっては恵みであったわけですから。不満をこぼす彼等にでさえ、天から恵みを下さったのでした。そして今のユダヤ人たち。イエス様の前にいて神のお言葉を直接聞いている彼等にとって「わたしはいのちのパンです」と言われる方のお言葉を信じる必要があったのでした。

いろんな信じるべきものは、この世にありましょう。しかし、イエス様こそ、天から下ってきたパンであることを信じなければならないのです。議論をしている場合ではないのです。イエス様が「わたしはいのちのパンです」と言われる時、どのようにしてイエス様を食べようかと真面目に考える人はいなかったでしょう。つまり、イエス様はそう言われた時、聞いている人たちは、その言葉をどのように受け止めるべきか、迷ったはずであります。そして、それは幼子のように素直な心で、イエス様のお言葉を受け止めない限り、馬鹿馬鹿しくて受け入れられない言葉なのです。偏見を持って聞いていては、受け止められないのです。「あれはヨセフの子で……」ということで留まってしまうのです。

以前に、私は偏りの無い人間になろうと思ったことがありました。いつでも中立の立場を取ろうと考えました。理性でものを考え、行動しようと思いました。しかしながら、私が生まれ育ってきた環境そのものが、もうすでに偏りのあるものでした。学校を選ぶ時にも、選挙にいく時にも、何かを発言する時も、みんな何かの背景があり、偏りがあるのであります。

ですから、そういう目でイエス様のお言葉を聞く時、少なくとも私は最初、抵抗を感じました。しかし、今考えますと、私自身未熟であったなあと思わされるのです。イエス様はまさに「いのちのパン」である方です。その方が、そう言われて、どこに問題があるでしょうか。イエス様が昔荒野で、先祖が食べたマナよりも優れていると言われて、それが、間違っているのでしょうか。

50節では「天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです」と御自身を指して言われて、果たして間違いだと、信仰者の誰が言えるのでしょうか。
51節では「わたしは、天から下って来た生けるパンです」とも言われていますが、イエス様の生まれ、そして働き、そして十字架、甦えり、その後のしばしの弟子達との生活すべて、それらを考えれば、イエス様こそ「天から下って来た生けるパンです」と言える方である、そう言えるのでは無いでしょうか。

それが言えない、言わせない。あるいは否定し、拒否し、イエス様のお言葉に対して戦おうとするなら、それは、罪のゆえであることを素直に認める必要がるでしょう。
そして、そういう姿である自分を主に変えて下さるように願い求めることを神様はあなたに求めておられるのです。逆に、信仰者に取っては、イエス様のお言葉の一つ一つに納得しておられることでしょう。

しかし、そこで留まってほしくないのです。イエス様のお言葉の一つ一つをしっかりと握り締め、味わい、更に自分のものとして頂きたいのです。魂が飢えているならいのちのパンであるイエス様を食べていただきたい。将来に不安があるなら、永遠のいのちをいただいていることに感謝をささげていただきたい。

イエス様が51節の最期の方で「……わたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」と言われています。これは、これから後に十字架によって、罪の贖いをなされることの予告とも言っていいでしょう。その犠牲があるからこそ、私たち信仰者は罪赦され、永遠のいのちが与えられているのです。この事実に、感謝と讃美とをお献げしようではありませんか。


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