東京聖書教会TOP /毎月の説教

毎月の説教

[先月] [来月] [最新の説教]

2005年2月12日(土) 「まことの食物」  ヨハネ6:52-59   竹口牧師

今見ていますヨハネの福音書の6章の最初の所でイエス様は、5000人以上もの人を養われたという部分を見ました。それから、その場所を離れて、弟子達は舟で、またイエス様は、後から湖の上を歩いて行かれ、弟子達に追いつき、彼等の舟に乗り込み、向こう岸に行かれたのでありました。それが夜中の出来事であり、明けた翌日には前日と同じように、イエス様は人々に話をされたのでありました。

沢山の人々が話を聞き、その中でイエス様は、「あなた方がわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」と言って、彼等の目的としているところの違いを指摘されました。そして、「なくなる食物の為ではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物の為に働きなさい。」と言われたのでした。

そこでではそれはどんな働きなのかと彼等はイエス様に質問をしました。するとイエス様は「あなた方が、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」と言われました。神様の遣わされたイエス様を信じることにカギがあり、また、これなくしては、何の意味も成さないほど大切なもの、そしてイエス様は、その信じるとはどういうことかを明らかにされました。それが、神のパンを食べることでありました。

しかし、それは、かつてイスラエルの人達が天からいただいて食べたマナのようなものではなく、神の下さる、天から下ってきて、世にいのちを与えるもの、そういうパンを食べるようにとイエス様は言われました。しかしながら、人々は、イエス様のお言葉を正しく受け止めてはいませんでしたので、「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」と言いました。人々の考えているこの世的な事と、イエス様の言っておられる事との違いがやがてはっきりしてきます。それは41節でのユダヤ人の言葉に表れておりました。「ユダヤ人達は、イエスが『わたしは天から下って来たパンである。』と言われたので、イエスについてつぶやいた。」とある通りでした。つまり、イエス様の言われている霊的な意味が彼等には分かっていなかったのでした。彼等の心に引っ掛かっていたのは、「わたしは天から下って来た」ということでした。

では、どうしてその言葉が引っかかったかといいますと、それは、イエス様はヨセフの子で、父も母も知っているということがあったからでありました。更にもう一つ、彼等の心に引っ掛かったことがありました。それは、「わたしがいのちのパンです」と言われた事にありました。イエス様のこのお言葉に、今日の聖書箇所のまず最初52節にありますように彼等の間で議論がまき起こるのであります。『この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。』とであります。

以上ざっとではありますが、6章の流れを今お話ししました。実は、それ以下の53節からのみ言葉は、それまでの話に対してイエス様が答えられる場面でありますが、非常に誤解されやすいお言葉でもありますので、信仰者である私たちも注意して読まなければなりませんし、事実、ユダヤ人たちだけでなく、キリスト教の歴史の中でも、だいぶ歪曲された時もあったようです。

今回は、この53節以下のイエス様のお言葉を中心に見ることになります。まずこうイエス様は言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」と。このイエス様のお言葉を聞いたユダヤ人達は恐らく大変な驚きを覚えたに違いありません。なぜなら、ユダヤ人達は、人の血どころか、動物の血であっても飲む事はしなかったからであります。

それは、生活習慣の違いからではなく、旧約の律法が堅く禁じていたからであります。例えばですが、一番最初の所では、創世記9章4節のところで、ノアが神様のご命令に従って、箱舟を造り、洪水に遭い、それから箱舟から出て来た時に神様がノアに言われた言葉なのですが、彼が、神様にいけにえをお献げし、礼拝していた時に、神様は、「肉は、そのいのちである血のあるまま食べてはならない。」と言うようにノアに命じられたのでありました。

あるいはまたレビ記17章10節以下14節までに神様は、モーセを通して、主の幕屋の前に主への献げ物としてこのように献げなければならないと言われた後で、このように神様は言われたと書いております。ご一緒に開いて見ましょうか。レビ記17:10節以下(p.185 下)、「また、イスラエルの家の者、または彼らの間の在留異国人のだれであっても、どんな血でも食べるなら、わたしはその血を食べる者から、わたしの顔をそむけ、その者をその民の間から断つ。なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。それゆえ、わたしはイスラエル人に言った。
『あなたがたはだれも血を食べてはならない。あなたがたの間の在留異国人もまた、だれも血を食べてはならない。イスラエル人や彼らの間の在留異国人のだれかが、食べることのできる獣や鳥を狩りで捕えるなら、その者はその血を注ぎ出し、それを土でおおわなければならない。すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。それゆえ、わたしはイスラエル人に言っている。『あなたがたは、どんな肉の血も食べてはならない。すべての肉のいのちは、その血そのものであるからだ。それを食べる者はだれでも断ち切られなければならない。』」
以上です。

ここには、おもに肉の中にある血が取り上げられていますが、肉にしても、血にしても、たとえばぶたであったなら、ユダヤ人から見れば、みな同じです。食べてはいけないと禁じられており、彼等はそれを守って来ていたのでありました。

ところで、ヨハネの福音書に戻っていただきまして、イエス様は今までに、48節のところで「わたしはいのちのパンです」と言われていますので、あるいはまた、今日の所の53節では、「人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ……」とありますので、今まで彼らがどう考えていたにしろ、イエス様は今、どういうことを言おうとしておられるか、よく聞き分けなければなりませんでした。
そして、それはまさしく、「イエス様ご自身を食べ、またその方の血を飲むように」、
そう言われていると受け取っても、それは間違いではないでしょう。イエス様は決して、ご自分が持っておられる何か他の肉とか、血を指していっておられるわけではないからであります。

さて、そこで私が思いますのには、私たちは、人の話を聞いていて、どうも、自分達の考えている事とあまりにもかけ離れているなら、やはり、そう感じた地点でどういう意味か確かめる事をしなければ、お互いに違ったことを考えながら話が進み、
実にその会話は全く成り立たなくなって行く思うのです。

次回見ることになりますが、今回のイエス様のお言葉をイエス様の弟子達の中にでさえ理解できない者がいました。これはまことに残念な事であります。そこでまず、私たちがここで確認しておかなければならないのは、イエス様がここで、食べるとか飲むとかと言われているのは、私たちが、普段食事をするような行為の事を言われているのだろうか、という点であります。そうではないでありましょう。飲み食い以上の大切な事をイエス様は語ってきておられるからです。

ではもう一つ、ここでイエス様は現在の教会の礼典の一つであります聖餐式のことを語っておられるのだろうかという点であります。それも違うといえましょう。
確かに、私たちは、毎月第一の主日に聖餐式に与かりますが、そして、そこでパンと杯に与かっているのであります。しかし、たといそうであっても、そのパンと杯が、キリストの体であったり血であったりはしないのです。そういう現実の物を食べたり飲んだりしているのではありません。

パウロは第1コリント11章24、25節で言っていますように、イエス様の十字架の死、私達の罪を贖う為の死、裂かれた体と流された血とを覚える為のものなのであります。決してパンが肉に、杯が血に変わることはないのであります。これは、少なくとも私達の教会では、自明の理であります。つまり、今回の聖書箇所に戻りましてイエス様が、ここで言われていますのは、比喩的に言われているのであって、誤解してはならないのです。

前にも申し上げましたが3章の所でイエス様はニコデモに対して「新生」のことを「人は新しく生まれなければ…」と言って、人の誕生に例えておられました。また4章においては、サマリヤの女性に対して、井戸水の話から、「永遠のいのちへの水」の話へと進められ、私達の普段口にします食べたり飲んだりすることに例えられました。ですから、「わたしはいのちのパンです」とイエス様が言われて、イエス様御自身を、その体そのものを食べるように言われていないことは明らかなのです。

ですからある人は、今まで述べてきたことの正しい根拠となるものとして、次の3つの点を取り上げておりますので紹介しておくことにいたします。一つは、キリストの体と血を文字通りに「食べたり飲んだりすること」は、すべてのユダヤ人たちにとって全く嫌悪すべきことであり、それは彼等の律法に繰り返し述べられている教えに全く矛盾する事である。これを旧約聖書から私たちは先ほどみました。

二つ目は、「食べることと飲むこと」を文字通りにとるのは、人間の魂と救いの間に、体による行ないをおくことになる。救いはあくまでも恵でありますので、それは違います。

三つ目は、その人は「食べることと飲むことと」を日常生活の一部として捉えることは、最も冒涜的で、神を汚す結果を伴うことであり、悔い改めた強盗を天国から締め出すものである」といいます。彼は、つまり強盗は、この言葉が語られてからずっと後に、具体的には、食べたり飲んだりすることなく死んだのである。」そういう彼に対して、「彼にはキリストにある『いのちがない』と、あえて言う者がいるだろうか」と言うのです。もっともな話ではないでしょうか。つまり私達はイエス様が、何を考え、何を意図して話されているか、よく考えて聞かなければならないということであります。

これは、人の話を聴く上で、最も大切な行為だといえましょう。そしてまた、このイエス様のお言葉は御自身のとても苦しい、十字架の出来事を考え合わせて読まなければ、決して正しくは読めない部分なのであります。また、食べるとか飲むとかということも、十字架の出来事と密接な関連がありますので、イエス様のお言葉を聞くとか、信じる事に置き換えるほうが分かりやすいと言えましょう。

ですから今日の所でイエス様は彼等に3つの約束をしておられる。それはまた、私たちに対しても同じである。そのように私は受け取るのであります。その一つは、53節において、イエス様の話されるお言葉を聞き、信じなければならない、と言っておられるという点です。そうしなければ、あなたがたには命がないと言われるのです。これを聞いている彼等は、当然生きているのですから、肉体的な事を言っておられるのではない事は承知できるはずであります。

二つ目は、54節にあります、甦えりの事実であります。肉体である体は、やがて皆、死んで土に帰ります。しかし、イエス様のお言葉を聞き、また信じる者は、永遠の命をもち、終わりの日には、甦えらせて下さるという事です。それは、イエス様のいわれる事が、人の魂にとって真の食べ物であり、飲み物であるからだ、と55節で言われています。

三つ目は、あなた方はどこに留まっているのかという点であります。この世に留まっているのか、それとも神の民の市民として歩む者になっているのか、であります。
56節を見ますと、イエス様のお言葉を信じる者は、イエス様も、その人のうちに留まってくださり、イエス様ご自身が、遣わされた父なる神様によって生きておられるように、イエス様を信じる者は、イエス様によって生きる者となっている、そのようにイエス様は言われるのです。何という素晴らしいお言葉でしょうか。

かつて神様が、先祖達に天からマナを降らせて彼等を養って下さいましたが、それとは全く違う。イエス様の言葉を聞き、信じる者は永遠に生きると言われるのです。皆さんは、そのイエス様のお言葉を確信持って信じておられるのでしょうか。もしそうなら、このイエス様の素晴らしいお言葉を読みながら、もう一度振り返って確認しておきたいのです。それは、イエス様の言われた「人の子の肉を食べ、またその血をのまなければ…」という点です。キリスト教会は、その昔、しばしば人々の非難を招いたそうです。あのキリスト信者たちは何をしているのだろうか。イエス・キリストという方の肉を食っているそうだ。血を飲んでいるそうだ。なんと残酷な人たちだ、と言われた事がかつてこの日本でもあったそうであります。

それが間違いであることは、現在の私たち信仰者は知っております。と同時に、その「人の子の肉と血」が何を指しているか、しっかりと確認しておく必要があると思うのです。それは言うまでもなく、キリストが私たち罪人のために死なれた時、十字架でささげられたご自分の体の犠牲のことであります。この死によってなされた贖いの業、私たちの身代わりとして受けて下さった苦難によってなされた償い、十字架の上で、私たちの刑罰のすべてを、ご自分の体において担って下さった。
そしてそれが有効になって、私達はいのちあるものとされましたし、永遠のいのちの約束も頂くことができたのです。

「食べることと飲むこと」なしに私達のうちに命はないと言う時の、「食べることと飲むこと」とは、キリストの犠牲を受け取ることであり、そのことは、救いのために十字架にかけられたキリストを信じることであります。私たちは、自らの罪深さを覚え、キリストにすがり、キリストの死によって自分のために成し遂げられた贖いに頼るなら、その人はただちに「人の子の肉を食べ、またその血を飲む」ことになるのであります。

私たちは日常生活の中で、食べたり飲んだりしますが、それらは肉体の維持にはなっても、魂には何の役にも立ちません。私たちの魂は、キリストの犠牲によってのみ救われるますし、また救われているのであります。この事をイエス様の今回の話からしっかりと覚えたいものであります。

2005年2月20日(日) 「イエスにつまずく」  ヨハネ6:60-65  竹口牧師

人はよく、相手の言葉に躓くものであります。あの人がああ言った、こう言ったといって気分を悪くします。また、それだけで済むのならいいのですが、全く口を利かなくなったり、去って行ったりする場合もあります。私達知り合い同士で、そのような事が起こるのは残念です。できたら早いうちに誤解であるならとけて欲しいものであります。が、ことはそう簡単にいかないのが現実であります。

まあ、それでも対人間同士であるなら、場合にもよりますが、それ程、一人の人間の生涯に渡って悪影響を与える事はまれであり、まして永遠に渡っての影響というのは少ないと思うのです。勿論、それが言えるのもイエス様に躓き離れていくのと比較しての話でありますけれども。

ですから、これから話すことになるのですがイエス様との関係において躓き離れていくというのは、実は大変恐ろしい事なのであります。それだけにイエス様に対して躓きそうになった場合、私達の方が謙遜であれとライルという聖書学者は勧めています。もし、キリストの言葉のどれかが、難しくて理解できないと思ったら、自分が今は無知である事を謙虚に思い起こし、少しずつもっと知るようになるよう信じるべきであると勧めます。また、もしキリストの言葉が従う事の出来ないものだと思ったら、主は決して不可能な事を私達に求められないということ、更に、私達にするように命じられるならば、それを行なうことができる為の恵みも与えて下さる、そのように謙虚に思い起こすべきであると勧めております。

なぜ、そのように勧めているかと言いますと、今日の聖書箇所の最初60節にありますように、イエス様の弟子たちのうちの多くの者が、イエス様の話を聞いて「これはひどい言葉だ。そんなことを誰が聞いておられようか。」と言って去ることになるからであります。ですからライル先生の勧めは本当に聞くに値する言葉であります。自分の浅い知恵によって今まで得てきた小さな知識によって、真の神様のお言葉に躓き、神様から去ることほど、その人にとって計り知れないマイナスであるのは言うまでもないからであります。

もともと罪のある人間は、神様の言われることを正しく理解する力が備わっていませんし、なおかつ行なう事などできないのであります。神さまからその力を頂かなくてはなりません。だからこそ、無知である事を認め、謙遜にお従いするしか、
人間には道はないのであります。

なぜ、イエス様の弟子達が去っていくようになったかは、先回見ましたイエス様のお言葉にあったといえましょう。例えば54節にありますように「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。」とか、56節の「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は……」などというところにであります。

これらは、後に起こりますイエス様の十字架の死、裂かれた体と流された血とをあらわすことになるのですが、それはまた私達の罪を贖う為の大切な霊的な意味をもつことになるのであります。ただ、この時点ではまだ、イエス様は十字架にかかっておられないからですが、弟子達の多くは、イエス様のお言葉に躓き、つぶやいたのでした。もっとも、イエス様から去って行くということは、本物の弟子ではなかったとも言えるでしょう。真の生まれ変わりもなく、肉的な動機からイエス様に従っていたにすぎない人達でありました。神さまによって一旦救われた人は、神さまによって、その信仰は最後まで守られるからであります。

ということは、どういうことが言えるのでしょうか。教会に来ているから、聖書を読んでいるから、祈っているから、奉仕をよくしているから、などなどによってあの人は間違いなく信仰者、クリスチャンであるとはいえないということでしょう。
私達は、人の心の中まで見通すことはできません。上辺しか見ることは出来ない者なのです。それだけに、主にしっかりと目を向けて歩まないと、そして神様の前に謙遜な歩みをしないと、人に躓くだけでなく、また人に躓きを与えるだけでなく、
神さまのお言葉に躓き、神さまから離れてしまう、あるいは心を閉ざすことになってしまう危険があるのであります。

今回の箇所では、イエス様のお言葉に対して「これはひどいことばだ」と弟子達は言っています。勿論、ここでいう弟子達とは、次回見ます67節にありますように、イエス様直々の12弟子を指してはいません。それ以外の、イエス様のなさることを見たり、聞いたりしてして従っていた人達であります。

ところで、この言葉の中の「ひどい」と訳されている単語は(σκληροσ)、「きびしい」「厳格な」「激しい」「耳ざわりな」「困難な」「危険な」という意味があります。英語では堅い(hard)という意味の言葉が使われています。堅くて飲み込めない。それは、自分達の聞く耳が問題なのではない。それをかみ砕く歯がないのではない。イエスは、我々に手に負えないことを言われたのだ。だから受け入れるわけにはいかない、ということでありましょう。

ですから、「呆れてものが言えない、馬鹿馬鹿しくって聞いていられない」という
「何か感情において受け入れがたい」というのではありません。彼等にとって堅い食物であったと言えるかも知れません(1コリ3:2)。そこでイエス様は62節で次の言葉を言われます。「それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。」とであります。この節で、直訳するとするなら、最後の「どうなるのか」という言葉はありません。ですから「もし人の子がもといた所に上るのを見たら」となります。従って話はとぎれた感じになります。

そこで、その続きとして考えられますのは、「それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら」、『もっとひどい躓きが起こるだろう』というのと、「それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら」、『躓きもとけるだろう』という二つの考えがでてきます。が、まあ、このどちらの解釈をとるにしましても、イエス様のおっしゃりたい意味は同じであります。

要するに、イエス様の言われました53節の言葉、「人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません」とはどういうことかを知る必要があるということです。それはまた霊的な真理であり、イエス様の十字架の死を意味することは、先程、述べた通りであります。

ところで、62節のイエス様のお言葉を意訳しますと、「このわたしの体が、わたしがそこから下って来た天に上って行くのをあなた方が見るなら、あなたがたはどのように感じるだろうか。あなたがたは、もっと躓くのではないだろうか」(参照ヨハネ2:12)ということになるでしょう。彼等は、イエス様のなさった多くの奇蹟を目にしていました。と同時に、父なる神さまとの関係も明らかにされました(38)。つまり、御自分が神の子であることを明らかにされました(46)。更には、「わたしがいのちのパンです」と言われ(35)、天から下って来たとも言われました(38)。そして今、「もといた所に上るのを見たら」と予告されるのです。

「いのちのパン」であるイエス様が、天に上られていなくなられたならどうなるか、
果たして彼等は、そこまで考えたでありましょうか。まず、下ってきたことが信じられないのですから、上ることはなお信じられなかったでありましょうか。イエス様は63節で「いのちを与えるのは御霊です」と言われます。「肉は何の益ももたらしません」と言われるのです。

しかし、律法に生きている者にとって、それも聖書が言っているものではなく、ゆがめられたものに従って生きているものにとって、それが否定されることは、生きていくよりどころを無くすようなものです。だから、彼等は反発をするのであります。これからイエス様が行なわれることでありますが、イエス様がご自分の命を十字架の死にわたして、私達罪人に救いのいのちを与えて下さるお働きは、私達の善い行ないや努力、意志によってではありません。しかし、そう考える人にとっては、あまりにも簡単に思え、受け入れがたいのであります。

さらには、永遠の命は神の恵みによって与えられるというお言葉も(44)彼等には我慢ができないものでありました。人が永遠の命を得るには、全く力がなく、神様の憐れみによって引き寄せていただかなければ救われない。しかもその救いは神の永遠のご計画であり、神の御心によっていると言う教えは、人間は偉大な可能性をもっていて、望んで努力すればいかなる事も出来ると自負する者たちにとってはまことに容認することは難しいのであります。これは何時の時代でもいえることでしょう。

人は、いろいろな動機でイエス・キリストに近付きます。その教え、お働き、人柄に接して感銘を受け、共感し、キリスト信者としての道を歩み始めます。しかし、ほどなく、キリストの真理を深く知るようになると、受け入れられない、認められない、我慢ができないという人が必ず出てくるのであります。そして去っていくことになるのであります。まことに残念であります。

「いのちを与えるのは御霊です」とイエス様は言われます。「肉は何の益ももたらしません」とはっきりと言われます。このように霊的な世界のことをイエス様が話しておられるのに、肉によって考えることがすでに間違っているのです。「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ3:6 )とかつてニコデモにイエス様がおっしゃった通りであります。

イエス様が今回63節で「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」とありますように、「わたしがあなた方に話す言葉は、あなた方の心に受け入れられて、信じられるものですが、それはまた、御霊のお働きによってあなた方にいのちを与えるのです。」とでも言えるでしょう。なぜなら、それは、64節にありますように、「しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」
−−−イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである。−−−」とあるからです。

キリストの真理を深く知るようになると、受け入れられない、認められない、我慢ができない、という人が必ず出てきますと、先ほども言いました。理由はいろいろでしょうが、自分の考えや思いに合わないとか、自分の努力での救いの達成が認められない、という点が少なからずあるように思われます。信じると言うのは、イエス・キリストにすべてを明け渡すことです。そしてイエス・キリストに服従して歩むことです。これは簡単なようですが、なかなか簡単にはいきません。

どうしても自分というものが前にでてくるからです。しかし、それは本当は明け渡しているとは言えないのです。主人となって下さるイエス様に明け渡すとは、そのイエス様の言われる通りに従うことが求められるからです。自分の思いと違った場合、自分の思いではなく、イエス様の思いであるみ言葉に従う。ここに明け渡したかどうかの違いがあるのです。

いろんなことで迷うことがあります。しかし、イエス様を信頼して自分の全てを委ねなければなりません。自分の思い、考え、方針よりも主であるイエス様の求め、意見が最優先されなければならないのです。そのようにする時、全責任は神さまが負って下さるのです。しかし、その前に、神の子とされる必要があるでしょう。
救いは神様がご計画になり、実行され、御心によって私たちに与えられるものですから、救いの道のすべては神の恵みのお働きであることを認めて、感謝してそれを受け入れることが大切であります。

救われたいと思っているのに、私を神様はまだ救って下さらないとか、救われたくないのに、神さまは無理やり私救って下さったなどということは有り得ません。
神様はちゃんと救われるべき人は救って下さり、神の子の仲間に加えて下さいます。
ですから大切なのは、神様のお言葉であるみ言葉に信頼し、そのお言葉に聞き従うことであります。時が良くても悪くてもであります。イエス様は、今回の聖書箇所より後に、十字架にかかって、人々の罪の身代わりとなって死んで下さいますが、
それによって、完全に罪の贖いが完成するわけです。

しかし、62節にありますように、それがなくて、イエス様が天に上られたら一体どうなるのでしょうか。イエス様はそう言われているようであります。本当に人は神様の憐れみ深い救いのお働きなしに自分の力で神様に認められる歩みが全うできるのでしょうか。できるはずもありません。私達のそれぞれの歩みを振り返ってみていただければお分かりでしょう。本当に、神様に喜ばれることをしているよりも、喜ばれないことをしている方がずっと多いのであります。

思いにおいて、言葉において、行動においてであります。イエス様の弟子として、イエス様について行きながら、イエス様はもうこの時点で、信じないものが誰であるのか、裏切る者は誰かを知っておられたとヨハネは記すのであります。65節でイエス様は言われました。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。』と言ったのです。」真に恐ろしいイエス様の告白であります。

裏切る者とともにこれからも生活をなさるイエス様。そのイエス様は、父なる神様の御計画と、御自分の働きについて熱心に聞いている者の中にも信じない者がいるということを知りつつ、それでも、語り続けなくてはならなかったのです。御自分の使命を果たす為にであります。

いつ頃でしたでしょうか。私は本当は救われてはいないのではないか、そう思う時期がありました。何を根拠にそう考えたかといいますと、当然ながら、み言葉の鋭い指摘によってでありました。恵みであるはずの信仰が、律法の呪縛によって窒息死しそうでした。イエス様がこの地上に来られた意味、行なって下さったあの十字架のお働きから目を逸らした時、イエス様に従うことは、地獄以外のなにものでもありませんでした。父なる神様と罪深い私との間にイエス様が入って下さり、罪のゆるし、将来の祝福の約束を確認した時、恐れから開放されたのです。

一番最初の方で申し上げましたように、イエス様のお言葉が理解出来なければ、無知であることを認め、理解出来るようにしてくださいと祈ろうではありませんか。
従うことができないものでしたら、従うことができる力を求めようではありませんか。主体はイエス様であり、私達は従う者なのですから。決して、どんなことがあっても、イエス様だけには躓いてはならないのです。

[先月] [来月] [最新の説教]

 東京聖書教会TOP /毎月の説教