2005年3月13日(日) 「イエスから離れず」 ヨハネ6:66-71 竹口牧師
今日見ます聖書個所は、今まで見てきました6章の最後の部分66-71節であります。 しかも、今日の話の出だしは、大変否定的な言葉で始まっています。つまり「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった」とであります。この言葉の否定的な意味の大きさは、同じ6章の1節から今日までの所だけを見ていただきましても、イエス様の人気の高さからお分かりいただけると思います。
更に、ヨハネの福音書の最初の方、1章から言いますと、イエス様の弟子が、一人、またひとり選ばれていく。そして、2章に入りますと、イエス様の行なわれたしるしを見て信じる者が多く出てきました(2:23)また更に、この福音書の4章あたりになりますと、イエス様は、バプテスマのヨハネよりも多く弟子を作られていたことが書かれていますので、このようにイエス様の弟子達は、大変な勢いで増えていったことがお分かりでしょう。
ところが、その弟子達が今度は海の潮がサーッと引いていくように、離れていくのですから、大変な変わりようであります。「もはやイエスと共に歩かなかった」とあるとおりであります。これはまた、数を気にする人にとっては大変な事態になったことを感じたでありましょう。なぜそうなったのかと言いますと、理由はいろいろあるでしょう。が、少なくともこの6章だけで言いますなら、イエス様を自分達の王にしようとしたのに、イエス様は乗って来られなかった事が挙げられるかも知れませんが、それ以上に強く考えさせられますのは、イエス様の話された言葉についていけなくなったことでしょう。
理解できないことからくる不信でありますなら、聞けば良い事でありましたが、弟子達は、理解できないことを、理解しているかのごとく捉え、イエス様の言われることを馬鹿にして去っていったのでありました。こういう過ちと言うのは、私たちでさえ、普段行なうのであります。自分の持っている知識で判断し、その知識を超えることに対しては、そんなことがあるはずが無いと切り捨て、また、聞こうとしないのであります。今日の出だしでは明らかにそのすぐ前の出来事が、弟子達を去らせた事に大きく関わっているのが分かります。
ところで、今日の聖書個所で大変気になりますことは、イエス様の弟子と言われている人たちとは、一体どういう人たちのことを指すのかであります。いわば、神様の選びの問題であります。弟子というからには、神様に選ばれ、滅びでは無く、救いをいただいた人達なのかということであります。彼らの信仰は、本物なのか、偽物だったのか、であります。
恐らくイエス様の弟子として加わった人たちの中には、本当の弟子とはいいがたい人たちも多くいたのではないでしょうか。そして時々彼らが本当に弟子であるのかどうか問われたのでありました。
ある人は言います。「光るものが必ずしも金ではない。必ずしもすべての花が、実を結ぶようになるのではない。イスラエルと呼ばれる者すべてが、イスラエルであるわけではない。人が宗教的感情、欲求、確信、決意、望み、喜び、悲しみを持っていたとしても神の恵みを全く持っていないという事がある」とです。根の無い信仰でありますと、いつ、どんな時に、主を捨て、主から離れていくか分かりません。困難が来るとすぐに倒れてしまう、いわば岩地に落ちた種みたいなものであります(マタイ13:21)。
私は、戦後生まれであります。しかも、クリスチャンになったのは、ずっと後であります。ですから、戦時中のクリスチャンがどんな目にあったか、話は聞いても、体験しておりません。従って、非難めいたことは一切申し上げるつもりはありませんが、あの戦時中、信仰をもっていたキリスト者にとって一つの大きな信仰の試練であったことは確かであります。
そして、教会から去って行った人たちも多くいたのであります。そういう現実があることをまず、私達は認めなければなりません。そして、そのような状況にならないようにと現代の私達は、主に祈る必要を覚えるのであります。ところで、いろんな試み、誘惑、戦いがありましても、神様によって選ばれた人は、最終的にはキリストにつながり続けることが出来る。これは、聖書の大切な真理でありますので、 決して見逃してはならないでしょう(ヨハネ14:18)。
今日の所でイエス様は、多くの弟子達が去っていく中で、12弟子達にこう言われたのでありました。「まさか、あなた方も離れたいと思うのではないでしょう」と。 これは勿論、弟子達の心をイエス様は計りかねて、心配しながら言われたのではありません。なぜなら、人の心の中を読むことの出来る方がイエス様だからです。 とすれば、どういう意味なのでしょうか。どうして、こういうことをイエス様は言われたのでしょうか。
それは、この同じヨハネの福音書6章6節にあったのですが、大勢の人たちを前にして、イエス様が弟子のピリポに向かって、「どこからパンを買ってきて、この人に食べさせますか」と言われて、ピリポを試されたことがありましたが、ここでもやはり、イエス様は弟子達を試されたと言うのが真理でしょう。67節の括弧の部分を直訳しますと、「あなた方も去ることを欲しないか」となり実に明確にイエス様は弟子たちに聞かれているのであります。
そしてそれに対して、いの一番に答えたのがペテロでありました。ペテロと言う人は、いつも最初に話す人であります。いつも行動的な人であると言えるかもしれません。勿論、彼にも弱いところがありますので失敗もありました。けれども、イエス様に対して身も心も一つになって、言われることに従おうとしている姿を見るとき、私は、本音と建前で振舞いがちな日本人の心を探られているようにも思えてくるのであります。その当時の状況を考えますと、なおさらであります。
ユダヤ教と言う背景の中で、また、パリサイ人やサドカイ人が強くイエス様に対抗している中で、こう言い切れる信仰と言うのは、素晴らしいものだと思います。ともすれば、はっきりと言うのが難しいというのが現実だからです。ペテロは言っています。 「主よ。私たちが誰の所に行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」と。ここで言った「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。」というのは、他にお従い出来る方は、あなた以外にどこにおられましょう、と言うくらいの熱のこもった答であります。
どんどん仲間が増えていく中での告白ならまだしも、弟子達がどんどん去っていく中での告白でありますから、とても重みのある信仰告白であると言えましょう。と同時に、これは単に自分の熱い思いだけでなく、真理を理解しての告白であったことはいうまでもありません。ただし、イエス様のこれまでの話から、十字架の死まで理解していたかどうかは、分かりません。ペテロの、この告白を読まれまして、ある方は他のところで、ペテロが告白したときのことを思い出されるでしょう。
つまり、ピリポ・カイザリヤ地方において(マタイ16:16)、イエス様が人々はご自分のことを誰だといっているか聞かれた後で、それでは「あなたがたはわたしを誰だと言いますか」と聞かれた時、ペテロははっきりと「あなたは生ける神の御子キリストです」と答え、しかも、そのことを明らかにしたのは、「天にいますわたしの父です」とイエス様は言われたのでした。
そうして考えて見ますと、今回の聖書箇所でも、ペテロが模範的な回答をしているのも、神様がペテロに示してくださったから言うことが出来た、そのように言えるでしょう。「あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます」とです。これは、イエス様と共に歩みながら、教えられ、主に示され、ペテロの内側から出てきた告白でありましょう。イエス様のお言葉が私たちの心の中に入っていくとき、やはり同じように永遠に至る力を与えられるのであります。
私たちは、この信仰告白を、どのような時でも果たして言えるのか、言えるような生活をしているのか、考えさせられます。「私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」という、確信を持った歩みを、普段の生活の中でしているのだろうか、と考えさせられます。自分の先生であり、師である方を尊敬しつつ、歩みにおいては、その方の教えとは裏腹に、恐れながら、心配しながら、悩みながらの歩みであったなら、決して、イエス様は喜ばれないのではないでしょうか。
ところで、喜ばれないといえば、次の70節に出てきますイエス様のお言葉は、実に大変な宣言なのであります。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」という言葉です。これは実に恐ろしい言葉であります。何が恐ろしいかと言いますと、
まず、第一に、イエス様についていきながら、そして、イエス様のお働きを助ける歩みをしながら、「わたしが、あなた方・・・を選んだのではありません」となお念を押すように言われていることです。多くの者がイエス様から離れて行き、イエス様と共に歩かない者が出てくる中で言われたこ言葉は、十ニ弟子達の心を強く刺したと思われるからです。これは、私たちにも問われる言葉です。
第二に恐ろしいのは、12人のうちの一人は悪魔であると言われている点です。これもまた、恐ろしい言葉であります。外側から見たら、何の落ち度も無い、まじめで一生懸命やっているように見える。しかし、その内実は全く違っていた。内側では悪いことを考え、いいえ、考えは必ず行動へと発展するものでありますから、それをイエス様は見抜いておられたのでありました。
ところで、私は、イエス様のお言葉が聖書の中に数々ある中でも、とりわけこの個所は目を引くところであります。それは、なぜかと言いますと、人によっては、イエス様でさえ、12弟子を決めるのに、人選を間違えられた。あのユダの様なものをも弟子にされたのだから、と言う人がいるからです。
果たしてイエス様は本当に人選を間違えられたのでしょうか。イエス様は、そのような不完全なお方だったのでしょうか。決してそうではありません。では、どうしてユダが選ばれたのかということになります。後に裏切ることが分かっていて何故、選ばれたのか、ということになります。ある人はこの所を、このように説明します。それは「職務の為に選ばれた、選択された」と言うことであって、それ以上のことは意味しない。つまり、救いとは、切り離して考えるのです。
私もイエス様の完全性から言って、そのように考えます。また、聖書もそう言っているといえましょう。職務のために選ばれた選びであったと言えるでしょう。それなら、ユダは神様に利用されただけなのかということになります。しかし、そうではないのであります。なぜなら、ユダの行動自体がそれを物語っています。
イエス様の弟子として行動しながら、罪ある行いを続けていたのがユダでありました。いつでも悔い改めるチャンスはありました。最後の晩餐の時だってそうであります。私達は、ユダの行動を考えますときに、罪ある行動をしたとき、神様の御前に本当に悔い改め祈りへと導かれる。何とかして、罪を犯さないように考える。そこに、永遠の命に至る救いをいただいていることの姿があるように思うのです。
私はもう救われて永遠のいのちをいただいているのだから、もう何をしても救われる。選びから漏れる事はない。そう言って罪の生活を愛する者が果たして、その人が救われていると言えるのでしょうか。まことの神さまのみが、人を選び、決定されるのです。罪人である私たちは、神さまの憐れみにすがるしかないのです。罪ある者は、その悔い改めの実を結ぶべきでしょう。 ヨハネが後に書きました第一の手紙1章9節で「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいす。」 という、イエス様にある赦しをいただく必要があるのです。
この世において、完全な歩みの出来る人はいません。わたしは、そのことでどれだけ悩んできたでしょうか。パウロもローマ書7章で言っているではありませんか。少し長いですがお読みいたします。ローマ7:15節以下です。
「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。
私は、私のうち、即ち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、 その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。」(ローマ7:15-21)以上です。
パウロは、適切にわたしたちの姿を言い表しています。そして、そういう罪ある私たちを神様は選び、救いに入れてくださり、絶えず、キリストの恵を確認させてくださっているのであります。ヨハネは、イエス様の弟子の一人、悪魔を今回のところでこのように書いています。 「イエスはイスカリオテ・シモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二弟子のひとりであったが、イエスを売ろうとしていた。」この事実は本当に恐ろしいものです。 そして、この事実から、ユダは可愛そうだなどとは思わないでいただきたいのです。
もし、可愛そうだとお思いでしたら、自分自身の姿を可愛そうに思ってください。いいえ、イエス様の恵みに感謝してほしい。神様が選んでくださったこのわたしが、神様の御用のためにどれほどのことをしているのか。いいえ、させていただいているのか。受けた恵みのほうがずっとずっと多いではないか!罪ある人間が、その自分の罪に神様によって気づかせていただき、 イエス・キリストのあがないの業によってすでに赦されている。それを、感謝のうちに受け止めることが出来るように主はしてくださったのでした。何という素晴らしいお方でしょうか。
罪を犯し続けるものではなく、気づいたときに、真摯に反省をし、赦しを求め、罪に背を向けて歩もうとする強い思いを与えてくださる主に、心から感謝し、歩みたいものであります。ペテロが告白しましたように、イエス様こそ、永遠のいのちのことばを持っておられ、私たちを、その永遠へと導いてくださるのですから。イエス様から離れずについて行こうではありませんか。いいえ、これからもずっとお従いさせていただこうではありませんか。
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