2005年4月10日(日) 「神の時」 ヨハネ7:1-13 竹口牧師
私達は今日から7章を読み始めるのでありますが、先回まで見てきました6章は、71節もあり、随分長い章でした。で、その6章の始まりはこのように書いてありました。6章1節は、「その後、イエスはガリラヤの湖、即ちテベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。」と。そしてまた、今日の7章の始まりは、7章1節は、「その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。・・・」とありますように、その後と言う言葉で、場面が変わっております。
しかも、実はこの6章最期の節71節と、今日の7章1節との間には、約半年の期間が経過しての始まりであることを、話のまず最初にお話しておかなければなりません。と言いますのも、6章の4節でヨハネは、「ユダヤ人の祭りである過ぎ越しが間近になっていた」と、過ぎ越しの祭りの頃のことを書いておりましたが、これは、私達の暦で言いますと、3−4月ごろのことであり、一方、今日の7章2節を見ていただきますと、「さて、仮庵の祭りというユダヤ人の祭りが近づいていた」とありまして、これはまた、9−10月頃のことだからであります。ということで、6章と7章との間には、半年間近くの経過がある、そのようにまず心に留めておいていただきたいのです。ヨハネは、この間のことは何も書かないで沈黙しています。何か意図があってでしょうか。理由は分かりません。
もう一つ、この6章から7章に移り変わるとき、知っておいていただきたいのは、イエス様の活動をいくつかに区切って表すときに、たとえば、初期ユダヤ伝道とか、その次にガリラヤ伝道前期次にガリラヤ伝道後期と続きまして、そして今日これからヨハネは、後期ユダヤ伝道の中のペレヤ伝道、いわゆるエルサレムへの道という部分に入っていくところであるという点です。つまり、ガリラヤからエルサレムへと伝道が移っていくところなのであります。ですから、半年の期間が過ぎている事とともに、伝道拠点が変わってきているその始まりである点もおさえておいてほしいのであります。
ところで、仮庵の祭りといいますのは、かつてイスラエル人がエジプトで奴隷状態であったとき、神様がモーセを指導者としてお立てになられ、エジプトから脱出させ、カナンへと導かれました。その途中の事ですが、彼らは荒野で40年間生活をしました。その時の仮の住まいのことを覚えて、行なう祭りであります。あるいはまた、この祭りは、秋の収穫の終わりに神様に感謝して行なわれる祭りでもありました。小屋の造り方は、レビ記23章にでているのですが、なつめやしの葉や、茂った木の枝、川柳の枝を取ってきて、仮小屋らしく作り、7日間住むのであります。現在でも行なわれている年中行事の一つであります。この祭りは、荒野の生活を想像する暗いイメージではなく、むしろ、収穫のときでもありますので、喜びと感謝を現し、実際に、そのレビ記23章40節では喜ぶようにと書いてあります。
ところで、この祭りはユダヤ人にとって大変重要な祭りでありまして、ある本によりますと、イエス様の時代、エルサレムから32キロ以内に住むすべての成人男子は、それに出席しなければならないという法的義務のある祭りの一つであったそうであります。私達の教会を中心に考えますと、どの辺りになるでしょうか。西は八王子あたり、北は大宮 東は船橋辺りまで入るでしょうか。また、イスラエルの地図から言いますと、北はシロ、南はヘブロン、西は地中海岸とエルサレムとの中間あたり、東は、ヨルダン川あたり、エリコなども入る距離です。行く方法は勿論、徒歩が中心でしょうから、大変でしたでしょう。しかし、信心深いユダヤ人は、その範囲以外に住んでいても喜んで祭りに行っていたそうであります。
さて、そういう祭りに、イエス様はガリラヤにおられたのですから直線距離にして120kmは離れたところにおられ、その祭りの時に、どうされたかが、今回書かれているのであります。私達の考えるような人間的都合によって判断されたのか、あるいは、人々の反応を予想して考えて行動されたのか、ご自分の肉親の兄弟はどう言ったかなどをこれから見ることにします。
まず1節の半ば当たりのところにこう書いてあります。「ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである」とであります。これを読みますと、イエス様は私達が一般的に感じることがあるような状況、そういった雰囲気の中から、危険を察知して、エルサレム行きを避けておられたように考えられますが、実はそうではないことが、後で分かるのであります。ですから、行きたいのだけれども行く勇気が無い、そういうようなことで、行くのを留めておられたのではありませんでした。
一方、イエス様の姿を見ていた兄弟達、この場合の兄弟達とは、肉親の兄弟のことでありますが、彼らはこう言ってイエス様のエルサレム行きを勧めたと書いてあります。因みに、イエス様の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダでありますが(マタイ13:55)、それはともかく、3節、4節で、その兄弟はこう言いました。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見る事ができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現わしなさい。」とであります。
これを読みますと、かつてイエス様が山上で説教された時のことを私は思い出すのでありますが、みなさんはどうでしょうか。マタイの福音書5章以下で、この様なことを言われた部分があります。14節から16節までをお読みいたします。「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、 天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」というお言葉であります。
今この時点において、ユダヤ人たちがもっとも大切にしている3大祭りの一つである 仮庵の祭りが行なわれているこの時こそ、沢山の人が集まっているのですから、イエス様はエルサレムに行かれて、神の栄光を現されるのが、最も良い時期ではないか。ご自分が、光を人々の前に輝かせる時ではないのかと、イエス様によります山上の教えから、導かれて彼らがそう考えても不思議ではないでしょう。もっとも、イエス様の兄弟達がイエス様の教えをどの程度聞いていたかもわかりませんが。
まあ、それはともかく、この著者ヨハネは5節ではっきりと、イエス様の兄弟達がイエス様に勧めた事は間違っていると書いているのであります。つまり、「兄弟達もイエスを信じていなかったのである」とです。イエス様の兄弟であっても、まだこの時、イエス様が本当はどういうお方なのか、彼らは知らなかったようです。ですから、単に自分を知ってもらう為には、丁度良い機会ではないかと弟たちは思っていたといえます。
しかしイエス様には、この時エルサレムに上れない理由がありました。その理由をヨハネは6−8節の中で、3回、「時」と言う言葉を用いて、説明しているのであります。そしてまさにこの「時」が大きく関係していたのでありました。時といいますと、私達は、旧約聖書の伝道者の書3章の言葉が思いつくのではないでしょうか。こういう言葉であります。 「天の下では何事にも定まった時期がありすべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。 殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。・・・」 と更にまだ続くのでありますが、
イエス様は、この父なる神様の定めらた時というものをご存知でありましたので、「わたしの時はまだ来ていません」と言われたのでありました。ご自分の時と言いますのは、イエス様が捕らえられ、苦しめられ、十字架にかけられる時でしょう。それにはまだ早いと知っておられたのでありました。しかし、ご自分の時は来ていないけれども、あなた方の時は、いつでも来ているのですよとイエス様は言われます。
私達はここで、イエス様の方に目を向けがちでありますが、イエス様の指摘された私達自身のほうに目を向けることはとても大切な点であるといえましょう。確かにイエス様はこの時、ガリラヤで多くの奇跡を行なわれていました。ですから、沢山の人々がイエス様に会いに来ましたし、あちこちとイエス様の名前が伝わっておりました。エルサレムでも同じように行動されますと、多くの人の目にとまり、神様の力を現すことが出来たはずでした。
しかし、ご自分の使命を達成するためには、今がその時ではないと感じられていたのでした。いつもイエス様は父のみ心を大切にされ、父のみ心以外はなさらないのがイエス様でありますから、私達がその時の思い付きや考えで行動するのとは違っていたのでありました。イエス様がエルサレムに行かれない理由を7,8節にヨハネはこのように書いています。「世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。 わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。」と。
この「わたしの時がまだ満ちていないからです」とは、先ほど言いましたように、父なる神様のみ心を行うという点でとても大切ですし、また、「あなた方の時はいつでも来ているのです」と言う言葉も、非常に重みを持った言葉であります。と言いますのも、イエス様の動きばかりに気をとられ、実は、私たち自身はどうあるべきなのかを忘れているからです。「あなた方の時はいつでも来ているのです」とは、私達はいつでも神様の栄光を表す状態にあるということです。とはいうものの、この時のイエス様の弟達は、まだイエス様を救い主とは信じていませんでした。恐らく、イエス様が十字架に架けられ、殺され、三日目に甦られてから後に、彼らは信じたのではないだろうかと思います。
ところでヨハネは、イエス様の行動を9節において「こう言ってイエスはガリラヤにとどまられた」と書き、10節では「しかし、兄弟たちが祭りに上ったとき、イエスご自身も、公にではなく、いわば内密に上って行かれた。」という風に書いているのであります。
一方では時が来ていないからと言われ、実際の行動は、内密に上っていかれたとはっきり書いてあるのであります。次回あつかいます14節に入りますとさらに、宮に上って教え始められた、とすら書かれているのであります。ですからここで、神学者はイエス様のこの行動をいろいろと想像するわけでありますが、11節から13節を読みますと、エルサレムの町がどういう状況かお分かりいただけると思います。
エルサレムの人たちの多くのイエス様理解が正しいにしろ間違っているにしろまだ混沌としていて、定まっていなかったのでありましょう。ですから、これはまだ、ある意味ではご自分が十字架にかけられるまでには、まだ十分に動ける状況である、そのようにエルサレムの状況を見られたのだと私は思います。とは言いましても、救い主を待ち望んでいる人たちの多い所、それだけにまたイエス様を救い主と認めない、認めたくない人たちの多い所、そういうエルサレムへと行かれるのですからこれからは大変なのであります。危険なのであります。まさに、議論につぐ議論となるのでありますが、それはこれからおいおい見ていくことになります。
さて、今日の今までの話しで、イエス様は時を知っておられて、その時を考えて行動されていたことを申し上げました。そして、その時というものを私たちも大切にしなければならないという点と共に、更にもう一つの点を今回取り上げておきたいのです。それは、11節から13節までにありますように、人々のイエス様を見る目が、いろいろであったという点です。「良い人だ」とか、「群集を惑わしているのだ」とさまざまでした。そして13節によりますと、「しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はひとりもいなかった」というくらいのあまり良くないムードがあったのでありますが、
では、現在に生きる私たちの思いはどうであろうかと考えさせられるのです。イエス様をどのように見ているか、これは、大変重要な質問であります。あなたにとってのイエス様とは、どのようなお方ですか。かつて弟子たちにイエス様は聞かれました。「人々は人の子を誰だと言っていますか」すると弟子たちは、「バプテスマのヨハネだかと、エリヤだとか、エレミヤだとか、預言者の一人だとかといろいろあげました。そして、「あなた方は、わたしを誰だといいますか」と弟子たちに迫られたのでありました。
よく、私たちは人のことは気にしますが、改めて、ではあなたはどう思いますかとか、あなたは敵なのですか、味方なのですかと具体的に迫られますと、はっきりとした考え、行動をとっていない人にとっては、一瞬たじろぐのであります。イエス様がガリラヤから 仮庵の祭りが行なわれているエルサレムに行かれるという事は、人々は、そのイエス様の前に、どう言う思いで立つか、それが問われてくるということでもあります。
あるものは敵愾心丸出しで立ち向かったでありましょう。またあるものは、間違った意味でのメシヤだと思ったかもしれません。では、今日のあなたは、イエス様の前にどういう思いで、あるいは、どういう立場で立っておられるのでしょうか。それが問われているのではないでしょうか。多くの人が反対しているから、私も反対の立場を取る。あるいは信じない。信じたくないというのではなく、周りに左右されず、聖書の語っているイエス様は、本当に信じるに値する方であるという確信と共に、神様の与えて下さった時というものを大切にして、歩むべきではないでしょうか。
イエス様は、父なる神様のご計画をよく知っておられ、十字架にかかられる時を考えつつ行動されました。私たちもまた、この世にあって限られた時間の中で、「時」を正しく用いさせていただき、キリスト者としての歩みをさせていただこうではありませんか。また、まだ信仰者で無い方は、十字架への道を一歩、また一歩と神様の時を考えつつ歩んでおられるイエス様が、実はまさに、私のためだったのだと、そのようにあなた自身、知って欲しいのです。そして、神さまの時を市って、イエス様を信じて行動していただきたいものです。
2005年4月17日(日) 「真の神を知る道」 ヨハネ7:14-24 竹口牧師
先回私達は6章と7章との間には約半年間の経過があり、この7章は秋の仮庵の祭りの時の事であるとお話しました。この仮庵の祭りにイエス様は最初は行こうとされませんでした。それは危険な状況であったからでありました。十字架に架けられ殺されるという、そういう神様の定められた時が来ていなかったからでありました。それでも、肉親の兄弟の勧めもあってでしょうか、分かりませんが、公ではなく内密にエルサレムに上って行かれたのでありました。
そして、そこで見られた状況といいますのは、「あの方はどこにおられるのか」といって捜していたり、また、人々がご自分のことをひそひそ話しで、「良い人だ」とか、「違う。群集を惑わしているのだ」とさまざまにうわさをしていた、ということでありました。今日は、そういうエルサレムの町の状況の中で、それも仮庵の祭りの半ば頃になって、ですから恐らく4日目辺りからではないでしょうか。宮に上って今度は公に行動を始められた、そのところから始まるのであります。
イエス様が宮で教え始められますと、イエス様の生まれや育ちを知っている人たちは、 イエス様の話を聞いて、こう言って驚くのであります。「この人は正規に学んだ事がないのに、どうして学問があるのか」と。これは明らかに見えるもので判断していると言えるでしょう。現在で言いますと学歴でしょうし、その当時で言いますと、ラビ何々から教えをこうたというものがない。それなのに、どうして学問があるのか、という驚きであります。
ある有名な大学の総長が、卒業生を前にして、こんなような事をいわれたそうであります。 あまり確かではありませんが、「みなさんは何々大学を卒業しますが、その有効期限は3年です。」つまり、これは、いつまでも学歴にたよってはいけませんよ。世の中、そんなに甘いもんではありませんよ、ということでしょう。
政治家も、選挙で当選すれば「先生」ですが、落選すれば、ただの人とはよく言ったものであります。イエス様は、そう言ったこの世的なものは一切何ももたれないで、神様の奥義を語られていましたので、人々は大変驚いたわけでありました。イエス様は、この世の何ものにも教えられる必要はありませんでした。16節で言われている通りであります。 「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです」と。そして、それを確かめる方法も明らかにされるのです。17節で「 だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります」とであります。
この17節の前半部分はとても意味ある言葉であります。と言いますのも、イエス様は 「 だれでも神の御心を行なおうと願うなら」と言われているのであって、「行なっているなら」とは言われていないからです。御存知のように、神様のみ心を完全に行なえる人は イエス様以外にはこの世には誰もいません。しかしそれでも神の御心を行おうとする事は出来ますし、大切です。また、そのためには、神の御心が何であるかを知る必要があります。御心が分からないのに、行なおうとすることは出来ないからです。そして、実はその神のみ心が何であるかが分かれば、イエス様のしておられることが何であるのかも分かるのです。なぜなら、イエス様はまさに、神の御心を行なっておられるからです。
ですから、イエス様はその事を17節で言われているのであります。「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります」と。自分で、自分のことを紹介して、そんなこと信じられるかい、という方もおられましょう。例えになるかどうか分かりませんが、最近は、おれおれ詐欺から、振り込め詐欺に言い方が変わりましたが、更には、なりすまし詐欺とまで言われるようになり、警察や弁護士や病院関係者になりすまして、お金を振り込ませる、そう言う被害が多発しております。
声だけを頼りに会話をするのですから、信じやすい人はすぐにひっかかるのであります。 と言いますか、劇場型詐欺と言われるように、グループで組織だって演出するものですから信じてしまうのであります。ですから、そう簡単には人を信じないという自信過剰は危険です。しかしまた、余り信じないのも危険防止にはよいでありましょうが、しかし、命にかかわること、それも永遠の命がかかっているのならイエス様のお言葉に真剣に耳を傾ける必要があると言えましょう。
イエス様が、ご自分の名誉のために行動されているのなら、それが、自然にイエス様の態度に現れているはずでありますし、自分の名前を売るためなら、そのような行動をされているはずです。しかし、そうではなく、聖書に教えられているように、この場合に聖書とは、イエス様の時代ですから旧約聖書ですが、神様がイエス様に求めておられることを イエス様がおこなわれているのであれば、それは正しいのです。言うまでも無いことでありますけれども。そしてそれをイエス様は指摘されているのです。18節「自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません」と。
「イエスは誰か」という質問は、いつの時代でも問われますし、また大変重要な質問であります。そして、それが分かるのは、イエス様の言動と御言葉によるのです。それ以外に確かめる方法はありません。当時のユダヤ教は、ラビと呼ばれる教師が、権威ある伝統をもった見解を引用して聖書の語る律法を教えるのが一般的でした。ですから、その為には有力なラビの弟子となって学んだ人でなければ、聖書について語ることができないと思われておりました。「ラビ誰々がこういった」、とか「聖書には何々と言う教えがある」といって教えていた訳であります。もし、新しい教えであれば、と言いますか、違った教えでありますと、それは異端のごとく排斥されたのでした。これは、教えを一定に保つ意味では良いのですが、一旦間違ったことが、その教えの中に入り込みますと、それがいつまでも続くことを意味するのであります。
ところで、世の中、人と違ったことを言わなければ注目されない。何とか新しい視点で物事を捉え、言わなければならない。ことに最近はそうではないかと思うのでありますが、 しかし、神様の教えは、昔も今も全く変わっていないのですから、何か、誰も言わなかったようなことを得意げに言うとするなら、このキリスト教2000年の歴史の中で、十分に考えられていますので、あまりにも突拍子もない考えですと、それは、間違いなく異端でありますので、注意が必要です。
まあ、話をイエス様の時代に戻しまして、19節でイエス様はこう言っておられます。「モーセがあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも、律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」と。これには、イエス様の周りにいた人たちは大変びっくりしたのではないでしょうか。自分達は律法を教え、律法を守っていると自負している。しかし、そういう自分達に対してイエス様は、「あなたがたは誰も、律法を守っていません」と言われたのですから。
自分達は、もうこれ以上は無いと言うほどモーセの律法を守っていると思っていました。 それが、全く否定されたのですから、それはどういうことかということに当然なってきます。長い間の習慣で、あるいはしきたりでやってきて、自分達は律法を守っていると思っている人たちにとって真に強烈な一撃でありました。
当然ながら群集は反発し、直ちに言い返します。「あなたは悪霊につかれています。だれがあなたを殺そうとしているのですか」と。いわばこれは守りの態勢に入ったわけであります。イエス様の指摘に対して応戦しなければなりません。イエス様の言っておられることは決して新しいことではありません。聖書が本来、教えていることでありました。それから離れてしまった現実に当時の人たちは気づいていなかったわけであります。イエス様はそれを指摘されたのでした。
例えば、と言って、イエス様のなさったわざと、ユダヤ人たちが行なっていることとの間の違いがどこにあるか、具体的に取り上げて話されるのでありますが、イエス様のお言葉の中で、22節の「モーセはこのことのために・・・」という、このことを巡っていろいろな解釈があるようですが、非常に難しい所ですから、ライルと言う人が、大体こういうことをイエス様は言われているのではないかと分かりやすく書いていますので、それを引用したいと思います。少し長いのですが、23節までをこの様に言っておりますので紹介いたします。
「あなた方がその名とその律法を大いに尊敬しているモーセが、他の事とともに割礼の定めをあなた方に与えました。モーセが割礼を与えたのは、このことの故であったことを覚えていますか。つまり、割礼はあなた方の先祖達、アブラハム、イサク、ヤコブからモーセに引き継がれた古い定めであり、レビ記に記されている律法のように、モーセに最初に与えられた定めではないからです。さて、あなた方は、子どもが生まれて八日目に執り行うことになっている割礼の儀式への服従のためなら、安息日に子どもに割礼を施しても第4戒を破ることにはならないと考えています。
因みに、第4戒は、安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ、ですが。事実、あなた方は安息日の律法を割礼の律法の次に置いている。あなた方は、憐れみの業と必要の業が安息日に行なわれても良いと認めている。シナイ山で与えられた第4戒は、それ以前に与えられた割礼の律法ほど大切ではないことを認めているのです。」以上であります。
つまり、安息日に仕事をしてはならないとあなた方は律法によっていう。でも、律法は又、八日目には、割礼を施すように言っている。生まれて八日目が安息日であったなら、あなた方はどうしていますか。伸ばしていますか。伸ばしてはいないでしょう。安息日に割礼を施しているではありませんか。これは律法を破ることではありませんか。いいえ、安息日にしてもよい業として認めているとするなら、私(イエス)が病人を癒したからと言ってなんで腹を立てるのですか、大体そんな感じにイエス様は言われたといえましょう。
体に傷をつけたのではなく、全く完全な体にしたのであり、一部分にきよめの業を行なったのではなく、身体全体を健康にしたのです。イエス様は24節で極めつけの言葉を言われます。「うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい」と。今日の所の20節で、ヨハネは群集は答えたとありますが、それ以下のイエス様の応答からいますと、 律法を全く知らない人にではなく、むしろ律法の専門家に語っておられるような内容であるのを見ますと、恐らく、その道の人がいたに違いありません。それならばなおのこと、イエス様の最後の言葉は、心に突き刺さったに違いないのであります。
次回見ます25節には、まさにイエス様を殺そうとしている人たちが集まっていたことが分かるのであります。そういう危険を押してでも、エルサレムに来て、律法の正しい解釈を教えなければならなかったイエス様のお心は、なんという悲しいものだったでしょうか。聖書を私達が読みます時に、いつも問われますことは、本当に聖書がそこでそう言っているのか、ということであります。聖書が書かれたときに、その意図されたことを正しく読取っているのか、これが絶えず問われてくるのであります。それは、自分が滅びへの道を行くだけでなく、他の人をも滅びへの道へと導く危険が大いにあるからであります。 イエス様は、この世の名だたる人から教えを受けられた訳ではありません。神様ご自身がイエス様になすべきことを教え、それを行なわれたのでした。ですから、これ以上に正しい教えは無いのであります。
ところで、イエス様の教えは、当時のこの世の人なら、律法学者たちの教えより新鮮でありましたので、好感を持つ人、反感を持つ人といろいろ分かれた事でしょう。が、少なくともここに集まっている人たちは、イエス様を殺そうとしている人たちでありました。ですから、敵意を持っていたわけであります。それはまた、イエス様の正しい教えを受け入れるのではなく、反発以外のなにものでもありませんでした。イエス様は、いつも神様のみ心を行うことを喜びとされました。ご自分が、この世に使わされた目的を果たすことを 何よりも第一とされたのでした。
それとともに、イエス様だけが神の御心を正しく表すことが出来るお方でした。神の御性質やお働き、人に求めておられる事など示すことがお出来になられました。私達はそのイエス様から教えていただかなくてはならないのです。イエス様に反対するものではなく、謙虚に耳を傾け、お従いすることなのです。それと共に、今回のように聖書の意図しているところがなんであるか、罪に落ちている私達には正しく読取ることが出来ない状態ですから、御言葉によって、また御霊の助けによって、イエス様のお言葉を正しく受け取れるように、していただかなければならないのです。
まだ真の神様を信じておられない方にとっては、イエス様がどういうお方かを知ることが、 真の神様を知る唯一の道であることを知って、それを求めてほしいものであります。 また、イエス様を神の子と信じている私どもは、いよいよますます、イエス様のお言葉に信頼し、従って行こうではありませんか。
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