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2005年6月12日(日) 「わが罪、人の罪」  ヨハネ7:53−8:11 竹口牧師

 今日の聖書個所に入る前に、まず最初に申命記22章22節から29節までを読んでおく事にします。非常に生々しい場面でありますが、今回の聖書個所を見るうえで、非常に参考になるところでありますし、時々、この個所に目を留めていただく必要がありますので、読んでおくことに致します。申命記22章22節以下です。

「夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければならない。あなたはイスラエルのうちから悪を除き去りなさい。 ある人と婚約中の処女の女がおり、他の男が町で彼女を見かけて、これといっしょに寝た場合は、
あなたがたは、そのふたりをその町の門のところに連れ出し、石で彼らを打たなければならない。彼らは死ななければならない。これはその女が町の中におりながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。

もし男が、野で、婚約中の女を見かけ、その女をつかまえて、これと一緒に寝た場合は女と寝たその男だけが死ななければならない。その女には何もしてはならない。その女には死刑に当たる罪はない。この場合はある人が隣人に襲いかかりいのちを奪ったのと同じである。この男が野で彼女を見かけ、婚約中のその女が叫んだが、救う者がいなかったからである。もしある男が、まだ婚約していない処女の女を見かけ、捕えてこれといっしょに寝て、ふたりが見つけられた場合、 女と寝たその男はこの女の父に銀五十シェケルを渡さなければならない。彼女は彼の妻となる。彼は彼女をはずかしめたのであるから、彼は一生、この女を離縁することはできない。」以上です。

さて、それでは、その個所に何かを挟んでいただいて、今日の個所ヨハネの福音書8章に入ることにします。先回も見たことですが、祭司長やパリサイ人たちはイエス様を何とか捕えようと画策しておりました。そして今日の聖書個所でも、何とか罠にはめてでも捕えたい、そういう思いがひしひしと現れているところであります。

イエス様はよくオリーブ山に上って祈られましたが、この時もそうかもしれません。その後で、朝早く宮に行かれました。すると、イエス様の話を聞こうと人々が集まってきたのでありました。イエス様が話し始められますと、律法学者とパリサイ人がやってくるわけであります。言うまでも無く律法学者ですから律法については詳しい人であります。パリサイ人もまた言うに及びません。パウロがパリサイ人であり、律法について厳格な教育を受け、神に対しては熱心な者(使徒22:3)と言っていますように、まさに、律法の実践者がパリサイ人であったからです。そういう律法の実践に非常に長けている者が、姦淫の場で捕えられたといわれる一人の女性をイエス様のところに連れてきて、真中に置いて質問するのであります。

「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか」と。まず、私達はこの4節5節の言葉をよく吟味しなければなりません。先程律法の書といわれている物の一つであります申命記を読みました。それに当てはめますと、彼らの言い分は一体どれに相当するのでしょうか。今見ました申命記の22節からにしますと、「男もその女も二人とも死ななければならない」とありますので、女性だけ連れてくるのは公平ではありません。不公平です。

23,24節の場合でも、男も女も殺される事になっています。この場合は、女性が叫び声を挙げなかったからという理由でです。25,26,27節では一方的に男性が悪いのですから、
今回は関係ありません。28,29節からは、男性が女性の父親にお金を払い、その女性と結婚すれば済むことであります。

こういう風にしてみてきますと、今回律法学者やパリサイ人が一人の女性を捕えて、姦淫の場で捕えられたというのは、一つの口実であって、もしかしたら、イエス様を訴えるために仕組んだのではなかったか、そのように考える人もいないわけではありません。
考えてみますと、別にイエス様の所に連れてくる必要もありませんでした。イエス様が裁判官でも何でもなかったからです。しかるべき所に彼らがその女性を連れて行けばよいことであって何もわざわざイエス様に聞きに来る必要は少しもなかったのです。つまり、彼らの本音は、6節にあったのでありました。「彼らはためしてこう言ったのである」とであります。さらには、「それは、イエスを告発する理由を得るためであった」とさえあるのであります。

その当時のイスラエルの裁判状況がどんなものであるか、彼ら律法学者やパリサイ人はよく知っておりました。ローマの支配下にあった彼らにとって死刑執行という大きな刑は、ユダヤ側にはありませんでした。ですから、もし律法にのっとって死刑であるとイエス様が言われれば、それはもう、立派なローマへの反逆罪となるのでした。逆に、イエス様を訴えるために嵌められた女性であったとしても、赦してやるようにと言われますと、律法を破るものとして訴えることも出来るという、真によく考えられた追い詰め方でありました。

それに対してイエス様はどういう態度を取られたかと言いますと、「身をかがめて、指で地面に書いておられた」とあります。何をイエス様は書いておられたのか、大変興味はありますが、誰も、何も分からないのが現実です。いろいろ人は想像しますが、それは想像にしか過ぎませんが、ただ、ここで言えます事は、イエス様は決して時間稼ぎをしておられたと言うわけではない。それだけは言えるでしょう。なぜなら、彼らがどういう意図を持って一人の女性を自分の前に突き出しているかをよくご存知であったからです。彼女は確かに姦淫の罪を犯しました。仮に、そのように仕向けられてはめられたとしてもです。そしてそれは、神様の前に正しく裁かれるべきであります。しかし、その事とイエス様を訴えるための口実にすることとは別のことであります。彼らはイエス様ご自身のなさっておられることから告発すべきでした。

ところで、イエス様が黙っておられたのは、もしかしたら、彼らが自分たちの罪に目を向けるようその時を与えておられたのかもしれません。ところが、彼らの態度はそうではなく、7節にありますように、「彼らが問いつづけてやめなかった」のでありました。そこでイエス様は言われました。「あなたがたのうちで罪のない者が最初に彼女に石を投げなさい」と。この強烈なお言葉を聞いて皆さんはどう思われるでしょうか。自分の心を探ってみてください。何かしら、罪らしきものが浮かんでくるでしょうか。それとも、人は生まれながらにしてみんな罪人だから、そんなことを言われたら、誰だって、石を投げられる人はいないよ。そのように思われるでしょうか。

もしイエス様がここで、そのような人が生まれながらに持っている罪について言われているとしたら、それは、誰もこの女性を裁けないことになります。イエス様以外はであります。否、それどころか、今回の場合だけでなく、全ての裁判が開けなくなってくるのであります。裁判官といえども罪びとであります。目に見える、行動に表れるような罪は犯していなくても、あるいは、裁判にかけるほどの罪ではないかもしれません。それでも、深く追求するなら、人を裁くなど出来ないはずなのです。

しかし、現実は、裁判が開かれ、いろいろなことが審理され、判決が下っているのであります。ですから、イエス様はここで、人が生まれながら持っている罪とか、また、罪を犯していたとしても、その大きさの大小を言っておられるのではない、という事になります。
姦淫の罪よりも小さい罪の人から順に石を投げなさい、というのでもないのです。イエス様が今、ここで問われているのは、神様の前にあなたは、本当に罪を犯してはいないのですか。あなたは今、自分は正しいことをしているようで、実は人を貶めるようなことをしていませんか。そのように問い掛けておられるのではなかったでしょうか。

あるいは、イエス様が山上の説教の所で言われていますように、『姦淫してはならない。』と言われたのをあなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」というのを覚えている人たちもいたかもしれません。

いずれにせよ、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
というイエス様のお言葉を聞くと、彼らは「年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き」、イエス様ひとりが残されたのでした。彼らは、この時、非常に正直であったといえましょう。そうでなければ、こんなことは起こりえません。自分の罪は棚に上げ、相手を攻撃することはいくらでも出来るからです。

人から言われて初めて自分の気づいていなかった罪が分かることさえあります。しかし、分かっても認めたくないのが人の心理であります。ところが、今回の場合訴えた人たちは一人、また一人と出て行ったのでした。これは回りの人達のことを考えますと、正しい行動を取っているとはいえ、なかなか勇気のいることであったといえましょう。どんな罪かは明らかにしないまでも、人の前に自分の罪を認めるということですから。しかも、石打という重い刑さえさばけないと思っているのですから。

そして女性ただ一人が残されることになったのでした。ある意味では、私は彼ら律法学者やパリサイ人のように、自分の罪に対して、これほどまでに自己吟味したことが最近あるだろうかと考えさせられました。人の罪に対しては厳しいが、自分の罪に対しては甘い。
しかし、神様はそういう私を厳しく見ておられるのではないか。大いに反省させられるのであります。

ところで、イエス様は、事の成り行きを見守りながら言われました。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」と。すると彼女は言いました。「誰もいません」と。イエス様と二人だけになった時、彼女の心は、どのような思いだったでしょうか。「何だ。誰も私に石を投げることの出来る人はいないではないか。それみたことか。やっていることはみな同じよ。みんな罪人なのよ。さあ、あなたは私をどうするの!」という思いではなかったのでした。

もしそなら、イエス様の次のような言葉は出なかったでしょう。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と。真摯に自分の罪を認め、悔いた心でいたからこそ、このようなイエス様のお言葉になったと言えましょう。
それと共に、このイエス様の罪の赦しの言葉は、ただ単に、律法学者やパリサイ人とは違って、後にあなたのその罪のために十字架にかかられることが含まれていて、「わたしもあなたを罪に定めない。」と言う言葉だったのであります。

罪の支払う報酬と言うものが何であるか、イエス様は、この時、きちんと捉えておられ、
口にこそ出されませんでしたが、「罪に定めない」と言う言葉に含まれていたと言えましょう。そして、大切なのは、罪赦された人の、今後の歩みでありますから、その注意を与えられたのでありました。「ごめんなさい。もう二度と同じような罪を犯しません」という言葉だけではいけないのです。イエス様の言われた言葉「今からは決して罪を犯してはなりません。」と言うことの意味の重さを真剣に彼女はここで受け止めなければなりませんでした。

口先だけの悔い改めではいけなかったのです。真剣に自分の犯した罪に対して、それは間違いなのだ。やってはいけないことなのだ。二度と同じ間違いをしてはならないのだ、という思いが必要なのです。罪を徹底的に憎み、それから離れようとする思いが彼女に無ければ、イエス様から、あのような憐れみのある言葉は出なかったでしょう。

いつでしたでしょうか。ある人から言われました。「クリスチャンていいね。何でも神様ごめんなさいと言えば赦してくださるそうだから。」私はその時、「本当にそうだと思いますか」と思わず聞き返しました。もしクリスチャンが罪に対して本当にその程度にしか考えていなかったら、これは、実に恐ろしいことであるからです。真剣に罪に対して立ち向かい、罪と常に戦っているのがクリスチャンだと思うからです。イエス様は、命を落としてまで、私たちを救ってくださったのだからです。

その事実を忘れて、真に安易に、「イエス様、また罪を犯してしまいました。ごめんなさい」では、赦されないからです。ヘブル書の記者は12章4節でこう言っています。「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」本当に、血を流すまでに抵抗しなければならないのです。」イエス様の十字架の死の意味の重さがお分かりでしょう。

人をさばく前にまず、自分を真剣に吟味し、自分ではどうしても救われない。イエス様、どうそ助けてくださいとの言葉が、うめき声となって出てくるほどに、罪に対峙しなければなりません。罪と向き合わなくてはなりません。罪と戦わなくてはならないのです。今日のイエス様の最後のお言葉、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」この言葉を今一度、噛み締めてその重みを味わおうではありませんか。そして、こんな私でもイエス様は、憐れみをかけ、赦し、恵みのうちに歩ませていただいていることを感謝したいものです。

2005年6月19日(日) 「証言は真実」  ヨハネ8:12-20  竹口牧師

イエス様は誰か、あるいは何者なのかを巡って話が続いていましたが、途中、先回見ましたように、姦淫の現場で捕えられた女性の話になりまして、話が一時、中断したような感じになりました。しかし、再びイエス様は何者なのかを巡って議論が続いているところが今回であります。

イエス様は、このようにご自分のことを言われました。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」と。皆さんは、このイエス様のお言葉を読まれまして、イエス様がご自分を証言されていると、果して思われるでしょうか。

イエス様はその前にも、ご自分の事をこの様に言われておられました。ヨハネ6:35で、「わたしがいのちのパンです」また41節では、「わたしは天から下ってきたパンである」48節では「わたしはいのちのパンです」51節では、「わたしは天から下ってきた生けるパンです」というようにです。まだまだ他にもこれから先にも出てきますが、10章、11章、14章、15章と続きます。

例えば、10章では「わたしは羊の門です」11章では「わたしは甦りです。いのちです」というふうにであります。自分を証言するときに、このような証言をする人が、果して、この世にいるのでしょうか。恐らく、いないのではないだろうかと私は思います。しかしながら今回イエス様が、ご自分のことを「わたしは世の光です」と言われました時に不思議なことに、それを聞いたパリサイ人は少しも違和感をもって聞いていないのであります。

ということは、イエス様がなさった自己証言と、それを聞いたパリサイ人たちとの間には、
十分に話し合うだけの了解事項というものがあった、と言うことが出来るでしょう。
もしそうでなければ、イエス様の自己証言をそのまま受け取るわけには行かないからです。
そうではないでしょうか。「あなたは、何者ですか」と聞かれた時、「わたしは世の光です」と答えられれば、これは、この人は何か少し変だと思うのではないでしょうか。そういう意味で、先程私は、一般的なことを考えて、自己証言にはなっていないのではと申し上げたわけです。

自己証言という重々しいものではありませんが、ちょっと軽い意味で、自己紹介という言葉を使わせてもらいますと、最近といっても、いつ頃からでしょうか。非常に紛らわしい自己紹介の仕方で物を売りつける業者がいました。現在もいますので大変注意が必要なのですが。「消防署のほうから来ました、だれだれですが」とか「水道局のほうから来ました」という言い方の訪問販売です。確かに、消防署のほうから来たかもしれませんが、
決して消防署の職員ではないわけです。

が、あたかもそう思わせて、消火器を高く売り付ける。或いは効き目の無い浄水器を売りつけるなどといった犯罪があります。そのような、「何々の方から」というのではなく、
今回、イエス様は、まさにはっきりとご自分のことを「わたしは世の光です」と断言しておられるのであります。そして今も言いましたように、パリサイ人たちは何も違和感を感じないで「あなたは自分のことを自分で証言しています。だから、あなたの証言は真実ではありません。」と言っています。

ということは、今私は最初にイエス様が、ご自分を証言しておられるとは思えないと言いましたが、そうではなく、まさに自己証言をしておられると言っていいでしょう。だからこそ、パリサイ人もイエス様のお言葉をそのまま受け取り、また反論しているのであります。そして、イエス様はまさに「世の光」そのもののお方である。そのように、わたし達は受け取るべきなのであります。

では、なぜイエス様が「世の光なのか」を考えなくてはなりません。なぜ、そう言えるのかを確かめて見なければなりません。パリサイ人さえ、それを認めているのですから。
これが、今回明らかにしなければならないまずひとつの点です。イエス様は、仮庵の祭りにエルサレムにやって来られました。その時人々は、仮庵の祭りとは何たるかを知っていました。つまりそれは、その昔、イスラエルの民たちが、エジプトを出て荒野の旅をするようになって仮の住まいに住まなければならなかった。そのときの事を決して忘れることのないよう記念とするようにと神様がイスラエルに命じられた祭りでありました。

あの時、イスラエルの民たちの荒野の旅を導いてくれたのは昼は雲の柱、夜は火の柱でありました。神様が旅の途上の彼らを導くために用意されたものでした(出13:21,22)。そして、その導き手となった火、あかりを指して、イエス様はご自分のことを「世の光」と言われたのでありました。又その事を理解してパリサイ人たちは、今イエス様と話しているのであります。聖書によって伝え聞いていたことを思い出していたのでした。

もしこの背景がなければ、パリサイ人には分からなかったでしょうし、また、今の世にあっても、このヨハネの福音書を読む人には意味がよく分からないでしょう。昔起きたことの歴史的事実との関連で読まなければならないのです。

ところで、では次の問題があります。13節でパリサイ人たちが言っていますように、「自分で自分を証言することが果して信じるに値するか」であります。パリサイ人のいうように、「あなたの証言は真実ではありません」と言うことも、一つの答であります。でもイエス様はそれに対して14節で堂々と答えられるのです。「もしこのわたしが自分のことを証言するなら、その証言は真実です。わたしは、わたしがどこから来たか、また、どこへ行くかを知っているからです。

しかしあなたがたは、わたしがどこから来たのか、またどこへ行くのか知りません。」と言われるのです。先程、わたしは、消防署と関係ないものが、消防署のほうから来たといって、自分を紹介する悪い例を言いました。それとは別に、わたし達が、自分の名刺を差し出して、わたしは、これこれのものですと言うとき、果して、それがこの世では通用しないものなのでしょうか。確かに、偽の名刺を持っている人もいますので、疑えばきりがありません。

しかし、世の中一般には、そういう名刺を持って、あるいは、証明書を持って自分を紹介しているのであります。イエス様には、そういう名刺があるわけではありません。証明書があるわけでもありません。唯一あるといえば、これまで行なってこられた行為であり、
言葉であり、話された内容であります。イエス様のなさったことを信じるか信じないか、
それは、もう自己証言をされたイエス様の問題ではなく、それを聞き取った相手側の問題となってくるのではないでしょうか。

イエス様は言われています。「どこから来て、どこへ行くか」自分は知っているけれども、
あなた方は知らない」とであります。イエス様の十字架のことが分からなければ、正にこのような発言は聞く側にとって雲をつかむような話であります。そしてその事をイエス様は15節で「肉によってさばく」と言われます。欄外注には、「人間的判断で」、という風にあります。このイエス様とパリサイ人との会話が、わかるか分からないかは、これはまさに、この人間的な考えで判断しているのか、真の神様を知ってイエス様のお言葉を判断しているのかどうかであります。

現代の私たちで言えば、イエス様のお言葉をどう見ているか、イエス様のお言葉に信頼して読んでいるかいないか、にかかっていると言えましょう。それによってイエス様の側に立つことも、パリサイ人の側に立つことも出来るのであります。果して、ここにおられる皆さんは、どちら側の立場に立って、聞いておられるでしょうか。イエス様のことを7章40節以下では、メシヤだというものがおりましたが、しかし多くの人は、イエス様はナザレ人であるということで信じられなかったわけでありました。そして今度は自分で自分を証言しているので真実ではないと言います。

イエス様を信じたくない人は、どこまでも信じようとしない。いいえ、むしろ反対側に回って信じようとする者の邪魔さえします。これは、実に大きな罪であります。イエス様は、自分の真実さを、そして審きを例にとって言われます。「あなたがたは肉によってさばきます。わたしは誰をもさばきません。しかし、もしわたしがさばくなら、そのさばきは正しいのです。なぜなら、わたしひとりではなく、わたしとわたしを遣わした方とがさばくのだからです。

あなたがたの律法にも、ふたりの証言は真実であると書かれています。わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます。」とであります。考えてみますと、これも不思議な言葉であります。目に見えるのは、イエス様ただ一人です。でも、そのイエス様が、わたしは一人ではない、といわれるのです。ご自分を遣わした方がいると言われるのです。そして、その方と共に裁くとも言われます。霊的に目の開かれていない人にとっては、イエス様のお言葉は全く理解に苦しむでしょう。

しかし、霊的に目が開かれた者は、イエス様の言われることが手にとるように分かるのです。この違いは、何と大きいことでしょうか。ヨハネの福音書を読む難しさはここにあると言えないでしょうか。霊的に目が開かれている者には、父なる神様のご存在と、そしてイエス様のお働き、使命が理解できるのです。

パリサイ人たちは言います。「あなたの父はどこにいるのですか」と。これは、恐らく皮肉たっぷりな言葉だと言えましょう。本当に知りたくての質問とは到底言いがたいものです。地上の父親が進み出てつまりヨセフが自分の子どものことを、つまりイエス様のことをキリスト、あるいはメシヤであると証言するとは思えないからです。イエス様は言われます。「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。」と。

まさに、その通りであります。彼らは、聖書を通して神様を知っていると思っています。
しかしその彼らが、イエス様の事をどれ程も知っていなかったのです。天の父のことを指して言っておられることが分からなければ、結局は、イエス様も、イエス様の父をも知らないという事であります。

逆に、イエス様が分かれば、イエス様の父をも分かるのです。ある人は言います。「キリストについて無知でありながら、神について何事か知っていると思う人は、全く思い違いをしているのである。彼が知っていると思っている神は、聖書の神ではなく、彼自身の想像の産物なる神なのである。」と。

私たちは、よく自分の本当の姿を知らなければなりません。それは、自分が知っていると思っているほど、本当は知っていないのであって、無知である、そのことに気づく必要があるのです。私たちは、不完全な神概念しか持っていないのであります。それだけに、神様から教えていただかなければなりません。そして、それは聖書を通してのみ教えられるのであります。

聖書以外の方法で神様を知る方法は、私たちにはないのです。神様のお言葉である聖書だけが、イエス様は神であることを明確に、また正確に、確実に教えているのであります。
イエス様は、ご自分のことを「世の光です」と言われました。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、命の光を持つのです」と言われました。

この世の中を暗くしているのは、闇です。その闇を追い払うがごとく、光となってイエス様は来られたのでした。イエス様は、ご自分をご自分で証言されたからと言って、信じないのではなく、それが正しければ、受け入れることこそ正しいのではないでしょうか。
何か、証明が無ければ信じられないのでしょうか。もし、そうならどれだけの証明が必要なのでしょうか。また、証明なしで信じたり、信頼しているものは、この世には全く無いのでしょうか。もしあるとすれば、その違いは何でしょうか。イエス様をただ信じたくない所から来ているだけではないでしょうか。そして、それは人が生まれながらに持っている罪から来ていることを知る必要があるでしょう。

わたし達は、見えるものによって人を裁きます。しかし、イエス様は、父なる神様と共に、
表に現れなかった罪をも加えて裁かれるのであります。そして、それは正しいとイエス様は言われます。わたし達は、感情が入ったり、利害関係が加わったりして公平性に欠けることがあるでしょう。

しかし、イエス様と父なる神様のなさることはそうではありません。全てのことが見通せる神様に、証言者は必要ないのです。わたし達の心は、罪によって暗くなっている故に、
神様は、人の裁く裁きが少しでも正確性を持たせるためにでしょう。申命記19:15節では、
「どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。」と言われているのです。

イエス様ご自身は、証人の必要は無いのですが、旧約聖書からご自分の正しさをあえてされました。わたし達はイエス様をどう見ているか、神様は、そのわたし達の全てをご覧になっておられます。そして、本当にイエス様が神であることを認めるよう求めておられるのです。パリサイ人の立場ではなく、イエス様を神様と信じて、その立場から物事の判断をしてほしいものです。そしてそのためには、イエス様が神様であると認めて、神の御言葉である聖書を読む人になってほしいものです。その時に、聖書が何を言っているのか、イエス様が何を伝えようとされているのかはっきりと示されるのです。そしてそれは、あなたの人生を幸いなものとしてくれるのです。


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