2005年7月3日(日) 「天の者、地の者」 ヨハネ8:21−30 竹口牧師
先回に引き続きイエス様が何者なのかを巡って話はまだ続きますが、今回はイエス様がこれから行かれる所はどこか、また、それを聞いているユダヤ人はどこに行くのかを巡って 話が交わされるところであります。
もうある方には、お気づきかと思いますが、今日の聖書個所には、「自分の罪の中で死ぬ」と3回でています。一つは、21節であり、残りの二つは、24節です。そして、この死をめぐって、イエス様の行かれる所と、イエス様の言われる事を信じようとしないユダヤ人が行く所の違いを語られる個所であります。
私たちは、一人ひとりそれぞれに一つの命が与えられています。そして、言うまでも無くその命には限りがあります。命を宿した肉体は成長し続け、ある時が来ますと最高の地点に達しますが、その後は又徐々に、人によっては急激に衰えていきます。気持ちだけはいつも若いつもりでいますが、肉体は容赦なく、そうではないことを教えてくれます。そしてまた、人が死ぬのを見て、あるいはその話を聞くたびに、自分も必ずそういう時を迎えることになると教えられます。
死んで、人は一体どこに行くのか、ある人は不安に感じますし、又ある人は、不安に感じません。あるいは無視する人もいます。不安に感じる感じないが、しっかりとした根拠をもってのものであるといいのですが、つまり、神のお言葉である聖書から得たものであるならいいのですが、安易な考えであったり、また間違ったものであったなら、それは大変危険なのであります。
この世に何の魅力的な事は無い。将来に対して何の価値も見出されない。なら、いっそのこと自殺でもしようか。そのように考えて命を絶つとするとするなら、それは、大変大きな誤りであり、罪であります。最近はインターネットで自殺志願者を募って、一緒に自殺をする。 それも若者がしているのは大変残念であります。
ところで、ユダヤ人たちは自殺をどう見ていたかといいますと、もっとも忌み嫌うべきものと考えていたようです。モーセの十戒にも、殺してはならないというのがありますように、殺すことは他人は勿論のこと自分をも殺してはならないからであります。
さて、イエス様はまず今日の所でこう言われています。21節で、「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」とです。
それを聞いて22節でユダヤ人たちは、イエス様が死のことを言われた。それも、自分は行くけれども、あなた方は来ることが出来ない。これは、普通の死に方ではない。もっと悪い死に方に違いない。とすれば、それは、イエスが自殺をするつもりなのだろうか、 そのように思ったと書かれています。何しろ先程も言いましたように、人を殺してはならないという戒めとともに、それならなおのこと、自分の命を絶つことは悪いと思われていたからです。
そこで、イエス様は彼らの思っていることの間違いを正すように23節の言葉を言われました。「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなた方はこの世の者でありわたしはこの世の者ではありません」と。はっきりと、イエス様ご自身と ユダヤ人のみならず他の人との違いを示されました。
この23節にあります「上」とか「下」とかありますが、これは「天」と「地」に置き換えて読んでいただければよく分かっていただけるでしょう。「あなたがたが来たのは地からでありわたしが来たのは天からです。あなた方はこの世の者でありわたしはこの世の者ではありません」このようになります。
イエス様は、み父の下を離れ、天から下って処女マリヤを通して、この地上に来られました。一方、私たちは、肉の父や母を持ってこの世に生まれて来た者であります。ここには実に大きな違いがあります。イエス様と私たちとの出所の違いは、24節を見ますとさらに大きくはっきりとしてきます。それは、この地上において生まれた者はみな自分の罪の中に死ぬと言うことです。
しかし、そこには、全く望みがないかと言いますと、実は決してそうではありません。なぜなら、イエス様ははっきりと罪の中にある者の希望を述べてくださっているからです。 それが24節の後半部分です。「もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」と。
この言葉は逆にいえば、イエス様を信じれば死なないと言う事です。つまり、人の生き死にが、正にこのイエス様にかかっていると言われるのです。そこで「それじゃあ、一体、あなたは何者なのですか」、という当然の質問が、彼らからイエス様になされたわけでありました。
イエス様を信じない前の、かつての私たちでありましたら、同じようなことを言ったのではないでしょうか。もし、謙虚な気持ちで尋ねているなら、「自分の罪の中で死ぬと言われるあなたはどなたですか」となりましょうし、半分、馬鹿にしたような気持ちであるなら、「そういうあんたは誰なんだ」という問であったでしょう。
しかし、イエス様はいつも忍耐を持って不信仰なユダヤ人に答えておられます。もう、最初から信じようとしていないと分かっていても、そういう場合でも、イエス様は父の御心を明らかにするために話しつづけられるのでありました。私たちはともすれば、聞いてくれない、理解してくれない、そういう知人や、友人や、家族に対して話すことをすぐに諦めやすいものであることを考えますと、イエス様にそう言う忍耐心を教えていただかなければならないように思います。
イエス様は「あなた方が自分の罪の中で死ぬ」ということについてこのように言われます。25節の「」の中の部分、「それは初めからわたしがあなたがたに話そうとしていることです。」これはつまり、「私が誰かと尋ねるのか。わたしがいつも自分のことを何といっていたか、よく知っているではないか。私は、初めからあなた方に話してきた通りの者である」と過去のそれまでの言葉や行ないを振り返れば言われているようにも見えます。
そして更に26節で、「わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」とも言われます。
イエス様は、ご自分の思いではなく、父の御心を、それも聞いたままを世に告げるのだと言われます。イエス様が、何か父の言われたことに解釈を加えて、あるいは、ご自分の思いをプラスして言うのではない。「その方つまり父から聞いたことをそのまま世につげるのです」と言われるのです。
ですから聞いた側は、それをどのように受け取るか、それにかかってくると言えましょう。ナザレのイエスが話していると取れば、当然信じることは難しいでしょう。その背景を持ってどうしても聞いてしまうからです。
一方、神の子が父から使わされて、父のみ旨を語っているとするなら、自ずから、謙虚さも出てくることでしょう。それが、まさに彼らユダヤ人には必要でした。人の言うことを疑いを持って聞くことも場合によっては必要でしょう。人の言うことを鵜呑みにするのは危険でありますから。
しかし、時と場合、相手を正しく受け取りませんと、取り返しのつかない、大きな失敗を招くのであります。24節でイエス様が言われていましたように、イエス様を信じなければ自分の罪の中に死ぬという事実は特に注意を持って聞く必要があります。
また、聖書の他のところで言われていますように、イエス様の救いなしに罪に死んだ者は、もう救われることは無いのですから、イエス様はここで大切なことを言われているといえましょう。イエス様の話された「金持ちとラザロ」の話がそれをよく物語っていると言えます。イエス様が、ご自分の父のことを言われても、ユダヤ人たちは、悟らなかったとはなんという残念でありましょうか。
そして、皆さんはどうでしょうか。ぼやっとではなく、はっきりと確信を持って、 イエス様が、あなたに何をしてくださったのか、そして、それはあなたにとってどんなに有益なのか、どんなに素晴らしいことをしてくださったかをしっかりと、又常に確認しておきませんと、その有難さや感謝は非常に小さなものとなるだけでなく、この世を歩む上で、大変な違いが出てくることは間違いありません。
これから見ます28,29,30節は、イエス様がこれからご自分の身に起ることを話されるところです。今のこの時点では彼らはイエス様の身に起る事を見ていませんので、理解には少し、私たちよりは難しさがありましょう。
しかし、それであっても、30節にありますように、「多くの者がイエスを信じた」とあるのですから、敵対的に見ているユダヤ人達も先入観や自分の考えに留まらなければ信じることが出来たはずであります。イエス様の語っておられることが首尾一貫しているなら、やはり方向転換すべきはユダヤ人の側にあったといえましょう。
さて、イエス様は28節でこう言われています。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。」と。
ここでイエス様は、「あなたがたが人の子を上げてしまう・・」と言われて、父なる神様が上げられるとは言われていません。「あなた方、自分の罪の中に死ぬ者」があげてしまうと言うことです。これは、どういうことかといいますと、これから先に起ります十字架を指していると言うことでしょう。その時に、あなた方は、イエス様がどういうお方かを知る。
実際に、イエス様が十字架に架けられ殺されたとき、マタイ27章54節によりますと、 「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」とあるくらいです。
イエス様の十字架と言いますと、まず、私たちの心に思い浮かびますのは、私たちの罪の身代わりとしての十字架でしょう。それは、私たち罪人が死ぬべきなのに、イエス様が、代わって死を受けてくださった。ですからあの情景は、まさに十字架にかけられ、上げられた姿です。と同時に、見方によっては、下げられたとも言えます。
人々が、あの十字架上のイエス様の姿を見て言った言葉を思い出していただければお分かりでしょう。「ユダヤ人の王様、ばんざい。」(マタイ27:29)「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王様なら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから」(マタイ27:40)とあざけったのでした。これなどは完全にイエス様を見下げた状態であります。つまり、イエス様のあの十字架は、人々の前に、また父なる神様の前に、上げられた姿であり、下げられた姿であります。
後に、甦られ、天にあげられますので、イエス様ご自身は、実際的な意味での下げられることはないでしょうが、イエス様の十字架そのものは、私たち信仰者にとっては、自分の罪の姿が上げられているまさにその姿です。私たち信仰者が十字架を目にするとき、それは、罪の刑罰としての姿であると共に、それによって赦された、その象徴でもあるのです。
イエス様は、今はまだ、十字架にかかってはおられません。しかし、そのときが来たら分かると言われるのです。そして、イエス様のなさっていることが全て、自分自身からのものではなく、父が教えられたように話していると言われるのです。イエス様は29節でなお、ご自分のことを語られるのです。「わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。 わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。」と。
「あなたは誰ですか」との質問にイエス様は、きちんと自分を証しされました。証言されました。でも、先回見たところでは、パリサイ人は、「あなたは自分のことを自分で証言しています。だから、あなたの証言は真実ではありません」と言いました。ある意味ではどおりは通っていますが、彼らが信じないことは間違っておりました。
そして今回、「もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです」とイエス様は言われるのです。果してイエス様は、どこから来られて、どこに行かれた方か、もう、あなたは知っておられるでしょうか。イエス様は上に属するお方であり、私たちはこの世に属するものです。
しかし、その私たちが、イエス様の恵みに与かるとき天に属するものに変えられるのです。 つまり、真の神であり、真の人であって、神の子として天から降りて来られた方、イエス様によってこの地に属するもの、この世に属する者である私たちが変えられるのです。 なんという素晴らしいことでしょうか。
あなたも、そのような恵みに与かりたいとは思われないでしょうか。最後にライルと言う人の言葉を引用しておきます。「不信仰は人の魂を滅ぼす特別の罪であることを決して忘れないようにしよう。もし、ユダヤ人が主を信じたならば、罪と冒涜とのあらゆる振る舞いは赦されていたであろう。しかし、不信仰は憐れみの御顔に対して戸を閉ざし、 望みを断ち切ってしまうのである。不信仰に陥らぬように、目を覚まして熱心に祈ろう。」以上です。
そして私からも皆さんにお勧めいたします。信じることをかたくなに拒否している方は、 どうぞ、信じる者に変えられてください。一方、すでに信じている方々は、熱心に祈りましょう。救われていることの感謝と、救われる人が増し加えられるようにと、そしてまた、不信仰に陥らないようにと祈りましょう。
2005年7月10日(日) 「本当の自由」 ヨハネ8:31-38 竹口牧師
イエス様は何者かを巡ってなお話が続いておりますが、今回もまた、その話の続きであります。しかしまた、長く続きますこの部分は、私たち信仰者がイエス様をどのように見ているか、非常に考えさせられ、確認させられ、また、信仰の深みへと導いてくれるところでもありますので、注意深く読んでいきたいと考えております。
先回の聖書個所の最後の30節のところでは、こうありました。「イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。」とであります。そして今回の31節の出だしは、「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。」とありまして、先回の話を聞いて信じた人達を対象に話しておられることが分かるのであります。
しかしまた、これからずっと読み進んでまいりますと、その信じたと言う意味がイエス様の言われることをそのまま受け入れ、お従いする者にされたのではないことが分かるのであります(8:45)。つまり、本当の弟子とされてはいませんでした。けれどもイエス様は、本当の弟子とはどういうものであるかを、信じたと言われる人達に愛を持って話し始められるのであります。
まずはこう言っておられます。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です」と。イエス様のお言葉に留まる。そうすれば、ほんとうにイエス様の弟子であると言われます。イエス様のお言葉を聞いて、その時は本当に信じたような気になっている。しかししばらく時間が経ちますと、すっかり聞いたことを忘れている。そして、自分の考えに生きている。これは、決してイエス様の弟子とはいいがたいですね。
イエス様の弟子であるためには、イエス様を信じなければなりません。イエス様の言われる事を無条件に信じることからまず始まります。イエス様はあんなことを言われている。こんなことを言われている。それはおかしい、というのでは駄目なのです。
前にも言いましたけれども、理解する力が無いのに、あたかも全てのことを知っているかのごとく思って、イエス様の言われる事を批判するようではいけないのです。分からなければ、あるいは信じられなければ、自分の能力の足りなさを覚え、分かるようにしてくださいと願い出ることが大切なのであります。
今のこの時点で、イエス様が後に十字架にかかられる事を話されても、100パーセント起る事が分かって信じられる人はいないでしょう。それは今日という日が同じように明日も来るのとは全然違うからです。勿論、明日のことは誰にも分かりませんので、来ないかもしれませんが。ですからそこまで、イエス様は要求はされていません。ただ、話されたことに対しては、その言葉に留まることを求めておられます。そうすれば、本当にイエス様の弟子であると言われるのです。
イエス様の弟子であるためには、まず聞くことであります。次に信じることであります。そしてその言葉に留まりつづけることであります。イエス様のお言葉に留まりつづける時、 「真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」とイエス様は言われます。
ではここでイエス様の言われている真理とは何だろうか、ということになりますが、これには二つの考えがありまして、イエス様ご自身を指すと言う解釈と、教理的真理全体を指すという考えがあります。
どちらにしましても、その真理を知った者は自由にされるのです。これは素晴らしい事実であります。イエス様を知ったり、またイエス様が語られるお言葉により、霊的な自由がその人に与えられる。それは何という喜ばしいことでありましょうか。
イエス様はある時こう言われました。(マタイ23:13,15)「 しかし、忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせないのです。」と。あるいは「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです。」と。
このようにイエス様は言われ、当時の多くのユダヤ人が宗教的指導者から重荷を背負わされ、真理から離れて苦しんでいることを言われたのでした。イエス様を信じることによって、また、イエス様の話されるお言葉によって奴隷状態にある人間が、その奴隷状態から解放される、そのように言われたと言えるでしょう。
ここでまたイエス様は「あなたがたを自由にします」と言われていますので、それを聞いて彼らは更に質問をするのであります。「私たちはアブラハムの子孫であって、決して誰の奴隷になったこともありません。あなたはどうして『あなた方は自由になる』と言われるのですか」と。
ユダヤ人たちは、アブラハムの子孫であることに相当誇りを持っていたようです。ですから、思い出していただきたいのですが、バプテスマのヨハネが、ヨルダン川で悔い改めのバプテスマを授けていたときにも、こんなことをヨハネは言っていましたマタイ3:7-9)。 「まむしのすえたち。(だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、 アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」とです。
救いは血統ではないのです。更にまた、ユダヤ人は奴隷になった事はありませんと言っていますが、ユダヤ人の歴史は奴隷の歴史であったといってもいいかも知れません。現在は、鈴木先生が創世記の講解をしておられますので、そしてちょうど、ヨセフの登城している場面ですので、ヨセフのことはよくご存知でしょう。そのヨセフを頼ってエジプトに身を寄せた後の時代がそうでしたでしょうし、
また、ヨシュアに導かれて約束の地カナンに入ってから、約束の地すべてを支配できないでいた士師時代、その終わり頃まで、もっと言いますと、ダビデ時代初期まで、周りに翻弄されていたのでした。更には、アッシリャ、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマと、 長年にわたって、自分達の思うような生活は望めなかったのでした。ですから、政治的に言ったら、奴隷でなかったというのは正しくありません。
では、宗教的には、霊的にはどうであったかといいますと、神殿がなくなってからの捕囚時代、彼らはよりどころをなくして、どうしたらいいか最初は分からなくなったのでした。 そうだ。神殿ではなく、御言葉に聞くことだと気づいた彼らは、御言葉をよく読むようになりましたが、しかし、その彼らは律法によって自分達をがんじがらめに縛って、平安はなくなったといっていいでしょう。罪の奴隷という面から言いますと、もとパリサイ人であったパウロがこういうことをいっていますので、それを読みますとまさにぴったりだといえましょう。
昔、私がよく読んだ個所ですが、この朝、ご一緒に開いて見ておきましょうローマ人への手紙7章15−20節をお読みします。「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。
ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。 私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」以上でありますが、
現代に生きる私たちは、自分が今、どういう状況にいるのか、考えてみなければなりません。そして、本当に自由というものを味わっているのか、真剣に問いかけて見なければならないでしょう。
昔に遡って、イエス様の時代の人たちもまたイエス様のお言葉を聞いて考えて見なければならなかったのでした。イエス様は言われるのです。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です」と。そしてその奴隷は、いつまでも家にいるのではないと言われます。奴隷はいつかは、使い物にならなければ捨てられるし、また、売り飛ばされるし、主人の思うがままになるのが奴隷なのです。
ところが、自分の子供は、そうはいかない。というか、自分の息子はいつまでもそばにいて欲しいというのが父親の願いなのです。それが親子というものです。ある学者は、この35節のイエス様のお言葉は、旧約聖書に出てくるアブラハムの世継ぎのことで問題になった話を考えます。
つまりアブラハムの正妻のサライにはなかなか子供が与えられず、奴隷のハガルとの間に先に子供イシュマエルが与えられ、後から正妻のサライにイサクが与えられた時の事を考えます。あの時、奴隷の妻や子供は出て行かなくてはならなかった。そのことをユダヤ人はよく知っていましたので、その話とを絡めて、聴衆の心に刻みつけようとされた。 つまり、ご自分の願いは、彼らがイサクのように永遠に息子の権利を所有し、永遠にわたって自由になる。そのことを言われたのだといいます(創世記21章)。
まあ、ここでサライとハガルの関係を出されなかったとしても通常の考えで言いましても、 奴隷は弱みが実の息子よりはあるのは確かです。逆に言いますと、子であることは大変な特権であるということです。ヨハネは、この福音書の1章12節の所で、「しかし、この方を受け入れた人々、即ち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」と書いていますので、私たち信仰者は、素晴らしい特権をいただいていることになるのです。
さて、次に36節に進むわけですが、ここでは一変して、「もし、子があなたがたを自由にするなら・・」といわれて、人の子である私が、罪の重荷から救い出すという意味で、あなたがたを自由にするなら、その時あなたがたは本当に自由なのだ」という風に言われるのです。
これこそがまさに、イエス様が彼らに求められていた自由であり、本当の自由なのであります。自由といいますと、何をしてもよいと多くの人が考えがちです。制限のあるものは、自由とは考えたくない思いがあります。しかし、この世には無制限の自由というものはないのです。もし、この世に無制限の自由があるとするなら、社会は混乱した状態になるでしょう。そうでなくても人は、自分のことしか考えない、人はどうでも良いという自己中心の人が多いのが現実です。
と言いますか、人は生まれながらにして罪を持っていますので、そのようにしか考え付かないし、考えられない、出来ないと言った方が正確かもしれません。厳しい統制化にあった国が、何らかの事情でその統制が解除された。その時、人は大変喜びます。しかし、統制がなくなって自由になった時、人はまた、それぞれが約束事を作って、守っていかないと混乱してしまいます。
私事ですが、昔、私が二十歳になった時、酒もタバコも自由になったと喜んだものです。 それほど、我慢していたわけではありませんけれども。しかし、一応、社会的にも認められたわけであります。その時、その自由を味わおうと、酒とタバコを無制限に取り続けたら私の身体は一体どうなったのでしょうか。最初のうちはいいかもしれません。若さゆえに、大丈夫なときがあるでしょう。しかし、それも度が過ぎると身体は、がたがたになるのであります。
自由にも制限があることを私達は、そのようにして知るのであります。この世の自由とは、つまりは制限のある自由なのです。この世に無制限の自由などありえないのであります。 節度が必要になってくるのであります。自己管理、自主規制の範囲の中にあるのです。 しかし、イエス様のくださる自由は、そういう自由ではなく、本当の自由なのです。 だから、喜びも続くのです。
ところが、その本当の自由というものが何であるかをイエス様から直接聞きながら、理解できていないのが、ここに登場している人たちなのです。そのことをはっきりとイエス様は示されます。37節でこういう風に言われています。「わたしはあなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。 わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです」と。
イエス様はここで「あなたがたはわたしを殺そうとしています」と言われます。まことに物騒な言葉であります。しかし、この「殺そうとしている」事実は、もうすでに5章18節にも書いてありましたし、7章1節では、殺されそうなので、ユダヤを避けてガリラヤを巡っておられたことが出ていますし、更には、7章19節では「なぜわたしを殺そうとするのですか」とさえ言われ、ユダヤ人たちは「誰が殺そうとしているのですか」と、 自分達の意思を否定さえしているのであります。
更には7章25節では、仮庵の祭りにこっそり行かれた時、人々の中には、イエス様のお言葉を聞いて「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか」といわれるほど、イエス様に対する死の圧迫感は満ちていたのでありました。
次回見るところの40節でも「殺そうとしています」とイエス様ははっきりといわれているのであります。今回の一番最初に取り上げたところですが、先回見た最後の所、30節では、イエス様のお言葉を聴いて多くの者が信じたとありました。そして、今回話しておられるのはそういう人への言葉なのでした。それなのにイエス様は彼らに「あなたがたはわたしを殺そうとしています」と言われるのです。
という事は、もうすでにイエス様は彼らの企てを完全に知っておられ、それでも語り続けなければならない使命を果たしておられるのだ。そのように私達はここから見て取らなければならないと言えましょう。わたし達は、出来たら周りの人たちと摩擦を起こしたくない。何とか平和でいたいと思います。しかし、自分の身の上に困難が襲ってくることを恐れて、真理を語ることを控えているとするなら、それは、イエス様のお姿に見習うものであるとは決して言いがたいと思うのです。
イエス様は38節でこう言われるのです。「わたしは父のもとで見たことを話しています。 ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行なうのです。」と。イエス様は、天から人となって、救い主として来て下さいました。しかし、そのことが分からない当時のユダヤ人たちは、イエス様の言われる父とは違った父、その父を悪魔といってイエス様は言っておられますが、その父である悪魔から示されたことを行なうのだと言われています。これは、非常に恐ろしいことだといえましょう。
イエス様のお言葉を聴きながら、決して聞く耳を持たない。いいえ、拒否さえしている姿。何という状況でしょうか。わたし達はイエス様を信じている者です。とするならイエス様の言われていることをそのまま受け入れられるはずです。そして、イエス様の言われる自由を実際に味わっているのです。
罪の奴隷から解放され、本当の自由を味わうものとされているのです。罪の支払う報酬が死であると宣言する御言葉を知り、なおかつ、その続きにある御言葉、神の下さる賜物は、私達の主キリスト・イエスにある永遠の命であることを知っているのです。何という幸いなことでしょうか。
真理によって自由にされていることをもっともっと喜びたいものです。また、イエス・キリストの真理に触れておられない方にとって、罪の奴隷から自由にされることがどんなに素晴らしいか、イエス様の語られるお言葉の一つ一つに素直に耳を傾け、信じ、受け入れることによって本当の自由の素晴らしさを味わってほしいものです。
2005年7月17日(日) 「神から出た者」 ヨハネ8:39-47 竹口牧師
今回もイエス様が何者かを巡って、イエス様とユダヤ人との間に議論が続くところです。今日の最初の所、39節には「私たちの父はアブラハムです」とありますが、この「アブラハム」という名前を、この福音書の著者ヨハネは、8章だけに集中的に使い、 9回も記しております。(8:33,37,39,40,52,53,56,57,58)
それだけ、ユダヤ人とアブラハムとは、ユダヤ人にとっては切っても切り離せない関係である、ということでしょう。ユダヤ人たちが「私の父はアブラハムです」と言う時、当然ながらそれは、その時のユダヤ人の肉の父を指してはいません。遠い先祖がアブラハムであったと言うわけであります。
なぜ、そんなに遠い先祖を誇りとしているのか。イエス様の時代から言いますと、2000年も前の人のことであります。そのような昔の人を彼らが誇りにしているのはなぜなのでしょうか。それは、アブラハムの子孫であれば、安全だ、必ず来る神の御怒りから逃れられると、そのように堅く信じていたからでありました。
自分達はアブラハムの子である。だからどんなことがあっても安全だと、それにより頼んでいたのでありました。それは勿論、御言葉にそう書いてあるからでありますが、 しかし、その御言葉の通りに生きない者に対して、無条件に神様はユダヤ人を守られるかと言いますと、決してそうではないのであります。
世には、親の光は七光りと言う言葉がありますが、せいぜい父親か、その前の祖父辺りの家柄や名前は、有効かもしれませんが、2000年も前の人を拠り所としているのは、 ユダヤ人独特の、また聖書を信じる故にでありましたが、果してそれは彼らにとってただしいものであったのでしょうか。イエス様は、彼らの言うその言葉を盾にとって 「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。」と言われるのであります。その祖先に相応しいわざが必要だと言われるのです。
かつてバプテスマのヨハネも、「我々の先祖はアブラハムだ」と心の中で言うようでは駄目だ、悔い改めに相応しい実を結びなさいと厳しく戒めたものでした。アブラハムは信仰の人として崇められていました。神様がアブラハムに対して約束してくださった祝福が、そのアブラハムの子々孫々に受け継がれている。自分達は、そのアブラハムの子孫であるので、恵みに与かる事が出来ると信じていたのでありました。
ところが、彼らの信じていることは、あるいは行なおうとしていると言ったほうが良いかもしれませんが、「アブラハム」の名前に、より頼んでいながら、実は「神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています」とイエス様は言われるのであります。大変恐ろしいイエス様の指摘の言葉であります。
「アブラハムはそのようなことはしなかった」と言われます。勿論、この言葉はユダヤ人の言葉を受けてのことであります。アブラハムが生きた時代に、イエス様もこの地上で一緒に生活されたわけではないからです。
イエス様のおっしゃりたいことは、パウロが言っていますように、「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく」(ローマ2:28,29)「肉の子どもがそのまま神の子どもではな」い(ローマ9:8)ということであります。やはり「アブラハムの子」であるというのなら、それに相応しい実を結ぶ必要があるといえましょう。
ここまででまず一つの点が教えられるでしょう。血縁、家系、により頼むことは無意味であると言うことです。由緒ある何々の家系に属し、我が家はその何代目であり、 というようなことは一切関係ないのです。
教会も同じです。私達は由緒ある教会に属しているので、審きから免れる、ということもないのであります。肉によればアブラハムの子であっても、御霊によればアブラハムの子ではないと言うのでは駄目なのです。
そうではなく、アブラハムの霊的な子どもである必要があるのです。そして、私たちの行なう業が決して私たちを義とはしない。イエス・キリストによる贖いの死によって義とされた者が義人であり、また、そうならそれに相応しい業も伴う必要があるのです。私たちの行なうことは、完全を目指しますけれども、決して完全なことは出来ないというのが真実です。
けれども、義の業を行なおうとする点では、それが表に出て来る必要があるでしょう。ましてイエス様から、「あなた方は私を殺そうとしています」と言われるほどに、殺意で満ちているなら、それは大きな間違いであります。
さて、次に41節を見ることにしますが、そこにはこうあります。「あなたがたは、あなたがたの父のわざを行なっています。」彼らは言った。「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」と。
この最初の言葉、「あなたがたは、あなたがたの父のわざを行なっています。」というあなた方の父とは、どの父か疑問になってきます。当然ながら、ユダヤ人の側から言いますとアブラハムを指すでしょう。しかし、決してイエス様はそうは言っておられないのです。44節を見ていただくとはっきりしてきます。その44節からしますと、 彼らの父は「悪魔」であると言われるのです。「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって」と言われます。
これもまた、大変厳しいお言葉でありますが、それに対して彼らはこういうのであります。「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」と。
ここで彼らは、「不品行」と言う言葉を口にしています。これは、イスラエルの歴史を知らない者にとっては、少し突飛な感じがしないでもありません。なぜなら不品行と言いますと、当然ながら男女間のことが想像されるからです。言葉自体は本来は、他の意味も含まれていますが、ここでは、「生まれた者ではありません」とあるから一層そのように想像します。
ですから、ここのところでの意味は、こうだとある学者は言います。まず、イエス様の言われた言葉をこのようにユダヤ人は解釈しますとして、「彼らの父祖とは誰か。彼らは誰からその霊的特質を受け継いだのか。彼らの性癖と傾向をたどれば誰に至るのか」このようにユダヤ人はイエス様のお言葉を解釈し、そして彼らはこう考えたのであろう。「私達は不品行によって生まれたのではない。アブラハムほどに善ある者ではないにしても、とにかく、私達は異教徒や偶像崇拝者ではない」というふうにであります。
偶像崇拝は、契約の神に対する不真実であり、偽りの神々のために御神を捨てることである故に、不品行だと呼ばれているのだ」とそのように解釈します。まあこの様に解釈しますとユダヤ人達の言います41節の終わりの方、「私たちにはひとりの父、神があります。」というのはうなずけます。
イスラエルの歴史は、外国の支配に翻弄され、度々、偶像礼拝を強要されることがあったからであります。でもイエス様は、彼らに42節で言われるのです。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。」このイエス様のお言葉をどのように受け取るか、イエス様が誰であるのか、知っている人と知らない人では、真っ二つに分かれます。
今、これを読んでいる人でさえ分かれるのであります。なぜなら、イエス様はご自分を神からの使者、いいえ、神だと言っておられるともとれるからです。ユダヤ人たちは、旧約聖書に出て来る預言者の言葉を信じます。しかしその預言者の中にあっても、特別な地位が与えられているのは、モーセであります。何しろ、神と会い、神様から直接、律法をいただいたからです。
しかし、イエス様の42節の言葉は、モーセ以上の立場を明らかにするものです。ですから、イエス様をただの人と捉える人たちは、反発します。一方、イエス様を神の子と信じる人は、そのまま受け取れるのであります。ここに登場しているユダヤ人はともかく、これを読んでおられる皆さんは、どういう立場で読んでおられるでしょうか。
私は、皆さんがイエス様の言われる43節の言葉のようであってはほしくありません。 イエス様は言われます。「あなたがたは、なぜわたしの話している事がわからないのでしょう。それはあなた方がわたしの言葉に耳を傾ける事ができないからです」イエス様のお言葉を聞いて、それを信じるかどうか、それによって、大きく二つの立場に分かれるのです。それも、敵対関係にわかれるのです。
イエス様ははっきりと、しかも攻撃的に真実を語られます。「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」と。 なかなか厳しいお言葉であります。
ところで、このところに悪魔のことが出ていますが、現代では、なかなかその存在は信じられていません。想像上のものとして捉えられていますが、聖書では、色んな言い方で出てきますし、実在するものです。
ちなみに、この悪魔について聖書辞典で調べてみますと、こう書いてあります。悪魔は神に敵対する霊的実在として聖書に明らかにされている.もとは御使いであったが,高慢のゆえに堕落し,神から離反したと理解されている(イザ14:12‐15)。 悪魔はエバを誘惑して罪を犯させたのを初め(創3:1‐7),ヨブに神をのろわせようとし(ヨブ1:6‐19,2:1‐7),イエスをも試みたのである(マタ4:1‐11)。
そして今に至るまで,信仰者を堕落させようとして働いている(Tペテ5:8)。その性質は執念深く(ルカ4:13),狡猾である(Uコリ11:3,14).しかし悪魔の力は,決して神にまさるものではなく、最後にはキリストによって滅ぼされるのである(ルカ10:18,黙20:7‐10).信仰者も神に従い悪魔に立ち向かえば必ず勝利を得ることができるのである(ヤコ4:7)。聖書ではもともとヘブル語で「敵対者」を意味する「サタン」が,悪魔の別名として用いられている(マタ4:10‐11,黙12:9)」と言う風にであります。
ところで、イエス様がここで言われている悪魔の特徴は、少なくとも4つは挙げられているといえましょう。一つは、神に反する欲望を成し遂げたいと願っている。二つ目は、人殺しである。三つ目は、真理が無い。四つ目は、偽り者である。そういう特徴をもち、人格的存在であることを示しておられます。
ですから、私たちもまた、想像上のものではなく、今も歴然と働きかけていることを忘れないでいたいものです。悪魔は真理を語られるイエス様に対抗する大変危険な存在です。ですから、その悪魔の働きに無関心であってはならないのです。悪魔は恐れるに足りないどころか、大変恐ろしいものであり、自分は悪魔とは関わりがないと思わせるのが悪魔なのです。
まことに巧妙に悪魔は自分を隠し、実在していながら、多くの悪の種を撒き散らし、人を混乱させ、死に追いやるような活動をしているのです。それらをわからせないようにしているところに、悪魔のしたたかさが見えてきます。そして、その悪魔の罠に多くの方がはまっているのです。だまされているのです。
そういう人はたとえばまず、真の神様の存在を信じません。否定し、拒否さえします。 宗教だと言って、私には間に合っていますと言います。まだ必要ないといいます。これらは全て悪魔が真の神様に人が近づく事を止めている現われです。
でも、そう人は気づかない、否、気づかせないのが悪魔です。イエス様は45節から47節で、どういう人が悪魔の側につく者か真の神の側につく者かを明確にしておられます。それは、かつてこの様な言葉をイエス様が言われたことと合致しているように私は思います。イエス様は、マタイの福音書12章30節でこう言われています。「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です」と。
そして今日の45節でもそれが言えるでしょう。「しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。」イエス様の側につくのか、悪魔の側につくのか。実に対照的に言われています。「あなた方は私を信じません」とはっきり言われています。あなた方が私を信じないのは、神の真理に対するあなた方の徹底した嫌悪にある。あなた方は、正真正銘の自分達の父である悪魔の子どもである。どうして、そんなことがいえますかと問われるなら、46節で明確にその理由を言っておられます。
「あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。」イエス様はここで、二つのことを問うておられます。一つは「わたしに罪ありといえる者がいますか」であり、二つ目は、「いないなら、なぜ信じないのですか」とであります。
信じない理由は何ですか。悪魔の子だからではないですか、と言っていると受け取っても良いでしょう。少し言いすぎでしょうか。しかしイエス様だからこそ、ここまで言うことが出来るのです。それは、イエス様だけが完全なお方であり、罪を犯したことが無く、その口に何の偽りも見出せないお方だからです。まさに、罪人と神様との間の仲介者に相応しいお方と言っていいでしょう。
「神から出た者は、神のことばに聞き従います。」と言われます。逆に、「あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」とも言われるのです。その中間は無いのです。神から出た者なのか、悪魔から出た者なのか。私達は今一度、自分がどちらに属しているのか問い掛けてみようではありませんか。
昨日までは悪魔の側についていたが、今はイエス様の側についている、この後はどうなるか分からないなどと、ころころ変わるものではありません。なぜなら、一旦神様の側についたものは、神様が責任もって守ってくださるからです。
お互いに弱さを持つ者です。しかし、その弱さによって罪を犯しますが、神の側に立つ者は、その弱さを自覚し、力強い神様のお言葉に頼るのであります。イエス様が、私の罪のために、あの十字架で死んで下さったと信じる者は、イエス様のお言葉の一つ一つに納得し、また、自分の足りなさを教えられ、謙遜に従っていくことを喜びとするのです。
皆さんはもう、その一人に変えられているのではありませんか。とするなら、神から出た者としての歩みをさせていただこうではありませんか。神様のお言葉を聞き、そのお言葉に忠実であろうとする者こそ、神から出た者なのです。そして神から出た者であるなら、神そのものであられるイエス・キリストを通して神の子としての特権の数々にも与れるのです。なんという素晴らしい恵みでしょうか。何よりも神から出た者に変えられていることを感謝しようではありませんか。
2005年7月31日(日) 「真理はどちら側に」 ヨハネ8:48-59 竹口牧師
今回でヨハネの福音書8章を終わりますが、先回も言いましたように、この福音書の著者ヨハネは、アブラハムの名前をこの8章だけに用いています。そしてそのアブラハムを巡ってイエス様とユダヤ人との間での議論をこの章全体で59節ある中で、後半31節以下全部を使ってヨハネは書いております。
今まで、真理と偽り、奴隷と自由、神から出た者と悪魔から出た者、といった対照的な概念の中で話が進められてきましたが、今回は、死をテーマとして話が行なわれています。 今日は先回の話から続きますので、一応、その流れを簡単にお話しておくことにいたします。
イエス様はユダヤ人達に、「あなた方は、あなた方の父である悪魔から出た者です」と言われました。悪魔は人殺しであり、真理が無く、偽り者である。だから、わたし、イエスが真理を話しても、あなた方は信じないと言われました。神から出た者は、神の言葉に聞き従う。従って、あなた方が聞き従わないのは、神から出た者ではないからだ、そのようにも言われたのでありました。
そして、今日の最初はそれを受けて、ユダヤ人が反論する所であります。「ユダヤ人たちは答えて、イエスに言った。『私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか』」と言います。
これを読みますと何か違和感というものを私は感じます。と言いますのも、イエス様はユダヤ人であり、また、お育ちになったところから言いますと、ナザレ人だと彼らは知っているはずなのに、ここでは、サマリヤ人と言っているからです。
イエス様がサマリヤ人で、しかもそのサマリヤ人が悪霊につかれているとはどういうことなのでしょうか。そこでまずサマリヤ人であるといった理由についてですが、ある人はこの様に説明します。
ユダヤ人達がイエス様をサマリヤ人と呼んだ時、その意味するところは、イエス様は真のユダヤ人ではなく、異邦人に何ら勝るところのないものである、と言ったのとほぼ等しい、 とであります。
以前見たのですが、このヨハネの4章9節のところに、「ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかった」とありましたように、ユダヤ人とサマリヤ人とは同じイスラエル民族でありながら、長い歴史の過程において、イスラエルが北と南に分裂し、信仰的な対立もあり、 さらには、民族的な純粋性を失わせるようなことがありまして、ユダヤ人とサマリヤ人とは一線を画しておりました。そのことも歴史の中ではありましたので、ここでは、彼らがイエス様を自分達と同じだとは認めたくない故に、そのようにサマリヤ人と言ったと思われます。
では、悪霊との関係はどうかと言いますと、イエス様が7章19節で「なぜわたしを殺そうとするのですか」との言葉に対して、その時の群集は20節において「あなたは悪霊につかれています」と言っていますが、今日の所でも、イエス様の言われることが理解できない、 いいえ、理解を超えているがゆえに、悪霊につかれていると取ったといえましょう。
しかし、イエス様にしてみれば、悪霊呼ばわりされることはとんでもないことでありますので、49節ではっきりと否定されたのでありました。「わたしは悪霊につかれていません」とであります。そして、なぜそう言えるかを続けて話されるのでありますが、しかし、これがまた彼らに通じない故に52節の言葉へとさらにエスカレートするわけであります。 「あなたが悪霊につかれていることが、今こそ分かりました」と。そして話がどんどん進み、今日の最後の所では、イエス様の命さえ奪おうとするのであります。
その当時、イスラエルはローマに支配されていました。そして死刑のような重い権限は、そのローマが握っていて、ユダヤ人達には、死刑執行のような権限はありませんでした。それなのに、彼らは、いわばそういう事は無視して、殺そうとして石を投げつけようとするのであります。
では、なぜそれ程までにも彼らをイエス様は怒らせたのか、ということになってきますが、 そこには、全く歯のかみ合わない議論があるからであります。ユダヤ人たちは、自分達の立場を正しいと主張します。一方、イエス様もご自分の真理を明らかにされる訳です。その結果、行き着くところは、平行線のままか、あるいはどちらかが消えなければならないのであります。結果的には、それが、死刑へとつながっていくわけであります。
さて、では具体的に話の違いはどこにあるかをみることにします。イエス様は51節でこう言われています。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません」と。そしてユダヤ人はまず、その言葉に噛みつきます。
「あなたが悪霊につかれていることが今分かった。アブラハムは死に、預言者も死んだ」、 それなのに、『死を味わうことが無い』とはどういうことだ。」すると、イエス様は、この様なことを言われます。わたしが、もし自分のために自分自身に栄光を帰すなら、その栄光はむなしいものですよ。なぜなら、わたしに栄光を与える方は、わたしの父であるからです。しかもその父は、あなた方が『私達の神である』と言っているその方なのです。 あのアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と言われている神ですよ。」そんな風に言われているといえるでしょう。
そして更にイエス様は次の55節で、「あなた方が『私達の神である』と言っているその方をあなた方は知っていないのですよ」とも言われるのです。これは大変厳しいお言葉でありますので、これを聞いているユダヤ人達を十分に怒らせるに足るものでありますが、それ以上にもっと怒らせるようなことをイエス様は言われるのです。
それは、「あなた方は知らないけれども私は知っています」、と言うように言われるからであります。それどころか、もし、わたしが知らないと言うなら、それこそ、わたしは偽りを言うものであるとさえ言われるのです。自分はその方を知っているが故に、偽り者ではないし、また、その方の御言葉を守ってもいるのです。そのように言われているといえましょう。
私はここで、この所を読みながら、読み手の皆さんは、果して、どちらの立場に立って読んでおられるのだろうか、そのように思います。一体、この議論は何なのか。自分にとってどういう関わりがあるのか、そのように思われる方もおられましょう。あるいは、ユダヤ人達の言うのが正しい。こういう高慢な言い方は好きではないと言う方もおられましょう。
実は、イエス様を知る前の私がそうでした。あるいはまた、イエス様の言われていることが手に取るように分かる。まさに真理そのものだ、というように受け取られている方もおられましょう。そのように読まれるのが正しいのですが。
なぜなら、イエス様は、真理そのものを語っておられるからです。クリスチャンは、この場所を読む時に、決してユダヤ人側に立つことはありえませんし、まして、一体このところの議論はどういうことなのか、そのように考えられる方はおられないでしょう。
一般的には、相対立する会話の中に人が入って行く時に、どちらかの側の立場に立つか、あるいは理解できないので外からながめるか、どちらかでしょう。私は、皆さんにこの対話を注意深く呼んでいただきたいのです。そして、自分なりの立場にたっていただきたいのです。というより、聖霊なる神様の導きと助けによって、イエス様の言われている事が手に取るように分かる、そのようになっていただきたいのです。
一旦、イエス様がどういう方が分かりますと、ここに書かれている一連の議論が手にとるように分かってくるからです。56節でイエス様は、真の神様を知らない人にとっては、 真に不思議なことを言われています。「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」とであります。
これは、「アブラハムがイエス様の来られることと、その栄光の日とを見ることを思って喜んだ。更には、彼はそれを信仰によって見ることさえしたのであり、それを見たとき、喜んだのである」と言われていると言えるでしょう。
でも、そのように受け入れないイエス様のお言葉に対して57節で、これを聞いたユダヤ人たちは、即座に言います。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」とであります。つまり、この若造が何を言うか。何を知ったかぶりをして言うか。アブラハムはずっとずっと昔の人だよ、といった感じでしょう。
そして、ここで、イエス様はご自分がどういう者であるかをその特徴ある言い方で表明されるのです。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」これは、イエス様がどういうお方であるかを、明確にしておられる表現であります。まさに、これが受け入れられるか、また、受け入れられないか、 もし、受け入れられなければ躓きとなります。
これが理解できない人は、59節にありますように、イエス様を殺そうとするか、あるいは、イエス様のもとから去っていくのであります。そして、信じる者とされた方は、いよいよ神の子としてのイエス様に信頼を寄せる者となれるのです。
というのは、実はイエス様は、ここではこう言われているからです。ライルと言う人の言葉を引用させて頂きますが、その先生はこう書いています。「これは、主の永遠性、全被造物に先立つ先在についての明確な主張である。『わたしはおごそかにあなたがたに宣言するが、アブラハムが生まれる前、存在する前からわたしはいるのである。おおいなる「わたしはある」であり、きのうも今日も、いつまでも、同じものであり、永遠の神なのである。』」とであります。
アブラハムよりも前から、永遠の昔からいるとイエス様が言われるとするなら、これは、ユダヤ人たちが怒るのも無理はありません。要するに、イエス様はご自分を神としておられるからです。イエス様をサマリヤ人呼ばわりし、悪魔としている彼らにとって、このイエス様のお言葉は到底受け入れられるものではありません。
しかしまたその一方で、イエス様としてはどうかといいますと、決して間違ったことを言っておられるわけではないのですから、そのように話される以外に無いのであります。ここが、本当に難しいところであります。
難しいと言うのは、真理を知らされた者とそうでない者との違いが、てきめんに現れるからであります。同じ聖書を読んでいるのでありますけれども、ある人には、全くその真理が届かないのであります。入っていかないのであります。そういう意味で、聖書は実に不思議な書であります。
聖書は神のお言葉であります。それだけに、祈りつつ、求めつつ読むことの大切さを思わされます。イエス様がどなたかを巡って現代でもはっきりわかれます。これは何も、ユダヤ人とイエス様とだけの対立関係ではありません。イエス様がお生まれになったときから、 もうすでに、イエス様に反対する勢力がありました。
ヘロデ王がイエス様の誕生を恐れたことから始まって、数々の不思議を行なわれたイエス様に対して、人々はいろいろな見方をしてきたのであります。そして、いつの時代でも、問われるのであります。イエスとは何者か。あなたはイエスをどう見るか。これは、みなさんにも問われていることであります。そして生涯、問われつづけられる質問でもあります。
なぜなら、イエス様を信じている方であるなら、悪魔は容赦なく、イエス様とあなたとを引き離そうともくろんでいるからです。世の中にはイエスかノーか、一かゼロか、二者択一の考えから、ファジー、つまりその間のあいまいの部分も入れて考えられるようになりました。
しかし、イエス様をどうみるかについての曖昧さは赦されません。イエス様は、あなたの罪のために、神でありならが人となってこの世に来られ、十字架にかかって、あなたの罪の身代わりとなって死なれた。否、死なれただけでなく、墓に葬られましたが、三日目に甦って、父なる神のもとに帰られた勝利のイエス様。更には、もう一度来られて、生きている者と死んでいる者とを審くお方であると聖書は語ります。
あなたがもし、イエス様が単なる人であるお考えなら、イエス様のお言葉一つ一つを丁寧に読んでいただきたい。必ずや、人としては語れない部分を見出されるはずです。なぜなら、神として語っておられるところがあるからです。それに反発を覚えた方を何人も知っています。しかし、そういう反発する方に申し上げたいのです。
もし神であることが事実であるなら、そして真理であるなら、その反発はあなたを殺すことになりますよと。逆に、真理に触れ、信じる者とされたなら、そのあなたは、生きるものに確実に変えられます。イエス様とユダヤ人との対話を読みながら、真剣にその対話の中に入っていただきたいものです。
そして、決してユダヤ人の立場にたたず、イエス様の側の立場にたつものになってほしいのです。そしてイエス様の下さる恵みの一つ一つを味わい、感謝し、将来に対する希望を与えられて過ごしてほしいのです。
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