2005年8月14日(日) 「光あるうちに」 ヨハネ9:1-12 竹口牧師
今日から9章に入りますが、ここには生まれつき目の見えない人が登場いたします。そして、その目の見えない原因がどこから来ているのかを巡って会話が始まるのであります。
まず、生まれつき目が見えないのですから、その人は、生まれてから犯した罪のためではないことが分かります。ということは、生まれる前に何かその原因があったのか、ということになります。
そこで弟子達は、その目の見えない人を見てイエス様に質問をしたわけでありました。 「先生。彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」とであります。生まれた時には、もう彼の目は見えなかった。ということは、彼が生れ育って行なった罪のためではないことが分かります。
しかし弟子達の質問を注意深く読んでいただきますと分かりますように、その目の見えない人の罪が原因で目が見えないのではない、とは言っていないことにお気づきになられるかと思います。つまり、目の見えない人にも何か原因があるかもしれない。だから、弟子達の質問の中に「この人ですか」と言う言葉も含まれているのであります。
そこで私は、これは一体、どういうことだろうか思うわけです。「その両親ですか」と言うのは分かります。と言いますのも、かつてイスラエルの王でありましたダビデは、姦淫の罪を犯し、人の妻を横取りして子どもをもうけましたが、その罰として、神様はその生まれてきた子の命を取られました。
ですからそのように、両親が原因であると言うことは考えられます。でも、弟子達の質問は「この人ですか」と言って、本人も含めているところに、この質問の不思議さがあるのです。そして、どうしてそのような質問が出てくるかと調べてみますと、どうもユダヤ人達の中には、人間はまだ母の胎の中にいる時からすでに罪を犯すことが出来る、そのように信じていたようです。
その根拠を私は知りませんが、私なりに考えてみますと、イサクの妻リベカが双子を身ごもった時(創世記25:22)、子ども達が彼女の腹の中でぶっつかりあうようになり、そこで彼女は「こんなことでは、一体どうなるのでしょう」と心配するほどだったことが創世記を見ますと出ています。
そして実際に生まれてきた後の歩みは、決して中の良い関係とはいえなかったことが挙げられますし、更には、一般的に考えてみましても、母親の胎の中にいる時にでさえ、胎児は外界に非常に敏感に反応することを聞きますと、あながちユダヤ人たちの中の一部のラビが、胎内にいるときから罪を犯すことが出来ると言うのも考えられなくも無いなと私は思わされるのであります。
しかし、それ以上に一般的に考えられていますことは、先祖の罪がその子に及ぶと言う考えであります。先祖に何か非常に悪いことをした人がいて、それが、後々の代に現れると言う考えです。そういう考えが聖書に無いわけではありません。
例えば、出エジプト記20章5節には「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし・・」とあるからです。
こうして考えてみますと、目が見えない状態で生まれたのは、本人が原因か、それとも、その人の両親が原因か、更には、遠い昔の先祖の原因かなどなど色々考えられます。
では、弟子達の質問にイエス様はどう答えられたでしょうか。3節にこうあります。 「イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです』」と。
人は、その原因を色々考えますが、しかし少なくともここに登場している生まれつき目の見えない人は、「自分の罪のせいでもなければ、両親の罪のせいでもない、更に付け加えるなら、まして先祖のせいでもない。神のわざがこの人に現われるため」だと言われるのであります。
この世の中には、先祖を大切にしないからだと、その人の現状の悪さ、苦しさ、ひどさを指摘します。また、たといそうではなくても、将来においてそういう恐ろしいことが起ると、半ば脅迫的に迫って信仰に入るように勧める宗教があります。誰が、何を根拠にそういえるのでしょうか。この世の人には、過去について、未来について、はっきりとそれを言い切れる人は誰もいません。そのことを、私たちはここでわきまえておきたいと思います。
「あなたは先祖を大切にしないから、そのようなことが起るのよ。先祖を大切にし、供養しなければ駄目よ」と言う人がいれば、「そんな先祖だったら要らないよ」と言う人もいます。何か危険から免れたとき「先祖さんが、守ってくれたのね」と言う人もいます。勿論、一般的にですが。
ですから、私たちキりスト者が言うのではないのは言うまでもありません。良いこと、悪いこと、何でも先祖のせいにされる。これは、真の神様を信じるものにとって 正しい教えではないことを確認しておきましょう。真の神様の御心だけが、この世では起っている。そう信じるのは正しいことであります。それも、人は生まれながらにして罪人であると言うことは、聖書の証言でありますので、その中で起っているのは確かです。
それにしましても、ここに登場している人を「神のわざがこの人に現われるため」とイエス様は言われましたが、ではここでいう、その「神のわざ」というのは何なのでしょうか。神様にはこんなに素晴らしい力があるんだよ、ということを人々に教えるために、わざわざそのようにその人を生まれさせられたのでしょうか。
それは間違いです。神様は、ご自身の力をそのような仕方で、私たちに示されるようなお方ではありません。なぜなら神様は、憐れみ深い御性質だからです。私たちに、今、ここで言えることは、見えなかった人が見えるようにされるという事実だけです。 見えなかった光が、見えるように、その人にして下る、この点だけです。そして、それを通して、現在見えている人に、何かを教えようとされているのであります。
そして、その何かと言うのが、4節、5節にあるわけです。イエス様のお働きであります。4節、5節「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です」と。
ここでイエス様は、昼と夜と言う言葉を使っておられます。昼、日中働かないと、夜は暗くて働けない。昼の間に、わざを行なわなければなりませんと言われています。これはその当時の状況を例にして言われたのであります。現在では、電気と言うものがありますから、職業によっては昼夜関係なく人々は働き、あるいはまた、昼間寝て、夜働くという職業もありますので、働くことにおいては、昼とか夜とかはあまり関係ありません。
ですから、そういう感じでここを読まれると、現代にマッチしません。ここで言われている昼と夜は、当然例えであり、イエス様がおられる時が昼を指します。と言いますのは、イエス様は後に、天に挙げられるからですが、その昼の間に、イエス様はご自分の遣わされた方の業を行なわなければならないと言われているのであります。
「わたしが世にいる間、わたしは世の光です」と、目が見えながら、それでもイエス様を正しく見ていない人たちにご自分の使命を明かされているのであります。そして生まれつき目の見えない人を見えるようにする事によって、その人が、見えない世界から、見える世界に入れてくださる。そういう恵みの力を主はお持ちであることを現されるのです。
これは、何もその生まれた時から目の見えない人だけでなく、生まれた時から見えている人にとっても、イエス様がどういうお方か、見えるようにしてくださる、そういう霊的な目、魂の救いに目を向けさせて下さっているのです。5節でイエス様は「わたしは世の光です」と言われていますが、まさに目の見えないこの人にとってイエス様は世の光となられるのであります。
さて、イエス様は6節から具体的に、その目の見えない人に対して行動されるのでありますが、どうもそのなさることは、いつもと違うように私は思うのです。と言いますのも、イエス様が多くの人の病を癒された例は、その殆どが、触られたり、声をかけられたりされて、癒されている場合が多いからです。
今回はなかなか手が込んでいます。まず地面につばきをして、そのつばきで泥を作られ、更にその泥を盲人の目に塗ると言うことをされるのです。その後で、シロアムの池で洗いなさいと命じられました。どうしてイエス様はここで、このような手の込んだことをされたのでしょうか。
もし、その場で癒されたなら、それも、目撃者が一人や二人でもいいですから、そういう人たちがいる所で癒されたなら、その人たちが一斉にあちこちで語りますから、 この9章の41節まで書かれているような事は一切起らないと言っていいでしょう。
しかし、今回は、その場で癒す方法を取られなかったのでした。後で見ることになりますが、それはもう、宗教関係者の間で分裂は起るし(16)、その目の見えない人の両親は呼び出されますし(18)、大変な騒ぎに発展するのであります。
今回はまあ、そこまでは行きませんで、イエス様のお言葉に従って、目の見えない人が行動し、目が見えるようになり、騒ぎが少し始まるところで終わります。イエス様は、目の見えない人に言われました。7節「『行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。』そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。」と。
私はこれを読んで、とても感動するのであります。何が感動的かといいますと、この目の見えない人は、イエス様のお言葉を聞いて、何の疑いもなく従っているからです。
しかしながら私は皆さんに、全ての人の言うことに耳を傾け、その通りにしなさいとは言いませんし、言えませんし、言うつもりもありません。なぜなら、この世にはいろんな考えがあるからです。あの人、この人、どこそこの人の意見を聞いていますと、 自分は一体どうしたらいいのか、わからなくなってくるからです。
しかし、イエス様のお言葉だけは間違いが無い。この方の言うことだけは信頼するに値する、そう信じて疑わない。そして、実際に行動をすぐ行なう人は、真に幸いな人であります。
多くの人はそうではありません。まあ、イエスという人がそういうけれども、2,3日考えてみようではないかと思いつつ、そのうちに、聞いたことさえ忘れてしまうのです。
ところが、ここに登場している人は、イエス様のお言葉を聞いた。そこで、彼は行って洗ったのでした。イエス様は、目の見えない人の目に泥を塗られましたが、「あなたの目が見えるようになるためにそうしたのだ。行って洗えば、必ず目が見えるようになるから」と言われたのではありませんでした。
「行って、シロアムの池で洗いなさい」と言われただけなのです。イエス様の弟子達が「先生。彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」という会話を聞きながら、その目の見えない人は、どう感じていたのでしょうか。
目が見えない現実を踏まえてその原因がどこにあるのかを探って、もし目が見えるようになるとしたら、それは大いに原因を探るべきでしょう。しかしいくら過去を遡っても、そしてその原因がわかったとしても、目の見えない人が見えるようにならなければ、それは、その人にとってあまり意味の無い事です。その人にとって必要なのは、見えるようになることです。光を見出すことなのです。
8節をみますと、この人は、目が不自由なために物乞いをしていたことが分かります。両親がいたのですが、生活が大変だったのでしょう。物乞いをしてその家庭を少しでも支えていた。あるいは、自分の食べる物だけは確保していた、そういう人だったのでしょうか。家庭の状況はよく分かりませんが、でも、イエス様のしてくださることに文句もいわず、この人は目が見えないのですから、多分、イエス様のしておられる行動は、その音だけで十分に見ていたはずですから、その上で、イエス様のお言葉に素直に従っている。これは、本当に素晴らしいなあと思わされるのであります。
私たちは、イエス様のお言葉にどれだけ信頼して従っているか、考えさせられるものがあります。まあ、ここでちょっと気になりますのは、その人の人生にとって大変な事をイエス様がしてくださったのに、お礼の一言も無い点は、ちょっと気になります。
12節で癒してくださった人がどこにいるのか尋ねられても、「わたしは知りません」というのは、少しさびしい気がします。しかし、それを裏返して言いますと、イエス様は、そのような人にでも憐れみをかけてくださるお方だということでしょう。決して見返りを要求されないお方であります。と言いますか、よく考えてみますと、 罪人のために、またご自分をののしるもののために、あの十字架上で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです」というとりなしの祈りをされるお方なのです。
身代わりの死という大きな代価を払ってくださったイエス様に何を、どのようにして それに見合うだけの御礼が私たちに出来るのでしょうか。私たちが受けた恵みは、計り知れない大きなものであります。私たちが、その恵みに答えていくのは、イエス様のお言葉をしっかりと聞き、そして、そのお言葉に信頼して歩むことでしょう。それこそが、主が何よりも喜んでくださることであります。
イエス様は言われました。「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」とであります。
イエス様がこの地上におられる時に、与えられた時間を有効に用い、この世で見捨てられた者、さげすまれている者、弱い者の友となり、仕えてくださいました。私たちもまた、主の憐れみによって救われたのであります。光の見えなかった私たちに光を与え、見えるようにしてくださったのが、イエス様でありました。
「誰も働くことの出来ない夜が来ます」とイエス様は言われています。このイエス様の時代の人たちにとって、イエス様が天に挙げられる時までが、世におられる間でしょう。そして現代にとっては、つまり私たちの時代にあっては、イエス様が再び来られる時までが昼だといえましょう。
その再び来られる時は審きの時であります。それだけに今の光のあるうちに、世の光である方と共に歩む人は、なんという幸いでしょうか。光のあるうちに、光の中を歩ませていただこうではありませんか。イエス様のお言葉に少しも疑わずお従いする、そういうこの一週間でありますように。
2005年8月21日(日) 「ありのままの証言」 ヨハネ9:13-25 竹口牧師
2005/8/21 ヨハネ9:13-25 ありのままの証言 先回は、生まれつき目の見えない人が、イエス様によって癒され、それを知った周りの人たちは、どのようにして癒されたかに非常に興味を持ち、その癒された人との会話があった所を見ました。
生まれつき目の見えない人をよく知っている人は、「これは座ってものごいをしていた人ではないか」と言って認め、また、他の人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ」 と言って認めませんでした。
そこで、当然ながら、確かめるべく本人に聞いたわけでありました。「あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」と。するとその人は説明しました。「イエスという方が泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われましたので、行って洗うと見えるようになりました。」と。
「じゃあ、その人はどこにいるのですか」と更に質問されました。しかし、癒された人は、それを知りませんでした。知りたいと思ったか、どうかは分かりませんが、何しろ、目が見えるようにされたのが安息日でしたので、そのことで話は更に進んでいくことになるのであります。それが今日の所であります。
私は、この時の状況を少し遠くから見て考えるのですが、それはもし、癒された日が安息日でなかったら、ユダヤ人たちはどのような反応をしただろうかとであります。もし仮に、と言うことが出来るとすれば、つまり、癒しの行為が安息日でなかったなら、ユダヤ人たちはイエス様の行為を果して責めなかったのだろうかと思います。
恐らく、ユダヤ人たちはそれでもイエス様を攻撃したでしょう。なぜなら、人々の心がイエス様の方に向くこと自体がユダヤ人たちにはもうすでに気に入らない状況だったからです。イエス様の行為をいろんな理由をつけて批判したと思われるからです。私でしたら、同じような悩みを持っている人をイエス様の元に連れて行きたい。そして癒されることを願います。
しかし、ユダヤ人たちはそうではないでしょう。イエス様が有名になることを助けるような行為は、間違ってもしないはずであります。イエス様のお名前をおとしめることはあってもであります。まあ、今日の所は、安息日でありましたので、仮の話は論外であります。 そして、安息日であるからこそ、彼らにとっては、イエス様を訴える絶好のチャンスであったわけでありました。
ですから、彼らはイエス様のなされた癒すという行為が、どこから来ているのか、そこに大変興味を持ったようであります。それと共に、その日が安息日であるがゆえに、なぜ、そのような日に、癒す行為をされたのか、そういうことにも、大変注目したのでありました。
目が見えるようになった人は、その癒されたことの喜び、嬉しさを表すのもつかの間、パリサイ人達の所に連れて行かれたわけであります。そして、また10節にありましたように、 15節でも同じような質問を受けることになるのであります。その結果、その人はまた同じことを話します。15節「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」と。
こういう証言の繰り返しと言いますのは、状況こそ違いますが、ある方は、経験がおありかと思います。それは、勿論裁判のような仕方ではなく、自ら進んでの証言ですが。イエス様を知らなかった者が、イエス様に出会えたときの喜び、変えられた喜び、もう、今までの自分ではないという喜びに満たされ、それはもう、黙ってはおれない、何とかしてイエス様の素晴らしさを伝えたい、そういう喜びと言うものを経験した者は黙ってはおれないからです。私もその一人であります。
証言といえば少し感じが違いますが、いわゆる証しであります。下宿の3畳一間で、孤独に生きていた大学1年時代、それが2年生になってイエス様を知り、本当に自分の人生に光が差してきた、といってもいいでしょう。
私は、両親にその喜びと感謝の手紙を書き、周りの人には、喜びの証をしたものであります。勿論、救われた時にそういう感情を全ての人が与えられるわけではありません。が、少なくとも神無しの世界観で生きてきた私にとっては、まさに、イエス様を知った喜びは、抑えられなかったわけです。
と同じようにと言っていいかどうかは分かりませんが、生まれつき目の見えない人が、目が見えるようにされた。その喜びは、どんなものであっただろうかと思うのであります。見えなかったものが見えるようになった。これは、大変な喜びであったに違いないのであります。
しかし、残念なことに、この時その人を取り巻いていたのは、その喜びを祝福するものではなく、むしろ冷ややかなものであったのは、まことに残念であります。パリサイ人のある人は癒された人の事をこう言っています。16節「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ」と。
律法に違反しているとイエス様の行為を解釈したわけであります。それもそのはずであります。安息日にはどんな仕事もしてはならないと聖書にあるからです。しかし、聖書にはその仕事とは何かを具体的にはあまり書いてありませんので、彼らはそれを一生懸命考え、細かく規定して、39項目にあたるものを作り上げ、安息日には、それをしてはならないと堅くつつしみ、それを守ることが、安息日の過ごし方だと信じていたのであります。
例えば、その中には、今回のイエス様の行為は、泥をこねることは、一つの仕事とみなされますし、また、目に塗る行為もまた仕事でありました。更に病気を、それ以上に進まないようにするのは赦されていましたが、癒すことは仕事として禁じられていたわけでありました。というように、イエス様の行為は、安息日律法を破る大変大きな罪を犯しているとパリサイ人たちは捉えた訳でありました。
しかし、またその一方で、目が見えるようにされたその奇跡を聞いてイエス様を「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行なうことができよう。」といって、いわば、イエス様に対して少し好意的とも思える捉え方をする人も出てきて、ついには16節の終わりを見ますと、分裂が起ったとあります。
こうなってきますと、もはや収拾はつかなくなります。そこで、再び、目が見えるようにされた人に質問をしました。「あの人が目を明けてくれた事であの人を何だと思っているのか」と。イエス様が行なわれた行為については、いろんな見方があるだろう。では、癒されたお前さんは、その人をどう思っているのか、そのように視点を変えて問うているわけであります。
すると、その見えるようにされた人は「あの方は預言者です」と答えました。現代では、預言者といいますと、未来に起ることを指して言いますが、ここで言います預言者とは、勿論、そういうことだけでなく、神様のお言葉を預かり、それを神の民に語る人のことを指します。そういう意味で、現代の世の人が使う預言者とは違います。
つまり、この見えるようになった人は、イエス様を、その当時の宗教指導者以上のお方であると感じていたことが分かります。そして、それはその周りにいるパリサイ人の心を 満足させるものではありませんでした。
人間とは不思議なものであります。たとい自分の考えが、あるいは間違っているかもしれない、そのような雰囲気になりましても、いや、そんなことはない。それは何かの間違いだ。そんなことがあるはずがない、そのように考え、自分と同じ意見を持っている人の声を聞こうとするのであります。そして、癒された本人の言葉が、自分達の求めていることと違うと、更に次の手を打つのであります。
それは、その癒された人の両親に聞くことでありました。彼らは両親に尋ねています。「この人はあなたがたの息子で、生まれつき盲目だったとあなたがたが言っている人ですか。 それでは、どうしていま見えるのですか。」と。
それに対して両親は、ある恐れを抱きつつ答えるのであります。20,21節「私たちはこれが私たちの息子で、生まれつき盲目であったことを知っています。しかし、どのようにして今見えるのかは知りません。また、誰があれの目をあけたのか知りません。あれに聞いてください。あれはもう大人です。自分のことは自分で話すでしょう」そしてヨハネは、この言葉の裏側にあるものを22節で説明を加えています。「彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人達は、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。」と。
こういうことがあったために、当り障りのない答をし、正確に知りたければ、本人に聞いてくれと言い逃れるのであります。そこでまた、癒された人を呼び出し、こう言います。 「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」と。
この言葉でお分かりのように、彼らはすでにしっかりとした結論を持っているのです。何とかして、自分達の都合の良い答を得ようと、あの手この手を使って話をさせるわけであります。
しかし、癒された人は首尾一貫して、事実のみを語りつづけます。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」と。
これは実に説得力のある言葉ではないでしょうか。これ以上の証言は、この人にはないといえましょう。しかし、とはいってもパリサイ人は受け入れたくないのは当然でしょう。
ところで、もし私がイエス様に対して少しでも疑いを持っていたなら、この25節の言葉だけでは信じることは出来ないのですが、皆さんはどうでしょうか。
なぜ、私がそう言うかといいますと、悪魔だってそうすることが出来るからであります。 不思議なことをして見せるからです。この世には、そのような事をして見せて、人の心を虜にしている者もいるからです。そして、真理から人の心を引き離すのであります。それは決して種のある奇術とは全く違うものです。呪術を売り物にして商売をしている者が世の中にはいます。しかし、イエス様は言うまでもなく、そういうお方ではありません。
ところで、私は、今回の例でまず思い出しますのは、出エジプト記に出ています記事であります。イスラエルの人たちがまだエジプトにいて奴隷状態であった時、何とかエジプトから出られるようにモーセが神様からいただいた力によって10の不思議な業を致します。
例えば、ナイルの水を杖で打ちますと、血に変わりました。するとそれを見ていたエジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って同じ事をするわけであります。二番目に神様が命じられたのは、エジプトの地に、かえるを這い上がらせることでありました。するとエジプトの呪法師たちも行なったのでありました。第三番目は、エジプト全土をぶよで満ちるように命じられました。そして同じく、エジプトの呪法師たちはしたのでありました。
というようにしてこの世には不思議なことをする人はいるものです。しかし、だから不思議を行なうものが全て、救い主かというと決してそうではないのはお分かりでしょう。この例で、ここでいうのは余計なことですが、あのモーセが行なった10の不思議を、エジプトの呪法師たちは同じように10のうちのある部分しましたが、どうしてその逆をしなかったのか不思議なのであります。
ナイルの水を血に変えたり、蛙でいっぱいにしたり、ぶよで大変なめにエジプトの人たちをするよりも、モーセが行なったことを打ち消すような業を呪法師たちがすれば、それは、それは、エジプトの人たちには喜ばれたと思うのですが、彼らはそうはしませんでした。 否、出来なかったのかもしれませんね。人を困らせることは出来ても、喜ばせることは出来なかったのかもしれません。
まあ、それと今回の話とは関係ありませんが、話をもとに戻しまして、生まれつき目が見えなかった人が見えるようにされた、ただそれだけで、イエス様がどういうお方かは判断するのは難しい。これは事実でしょう。
しかし、私達はここで確認しておきたいことは、イエス様を偏見を持ってみている人は、一つの不思議を見ようが、二つ、三つ、あるいはそれ以上の不思議を見ようが、イエス様を救い主とは信じられないということであります。偏見をまず捨てることが大切であるということであります。
二つ目の大切な点は、人がどう判断するかは別としまして、イエス様が私たち一人一人にしてくださったことは、自信を持って、はっきりと証しする必要があるという点です。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」と、目が癒された人は告白していますが、
その時の状況を考えます時に、その人は、状況を非常によく加味しながら、控えめに言っているようにさえ私には思えます。けれども、この時点では、これが彼の精一杯の証言だと言えましょう。私達もまた、キリストにある幸いというものを知っているのですから、 きちんとそれを証ししていかなければならないと思うのです。
この目の癒された人は、この時点ではイエス様がどういうお方かまだ正しくは分かっていなかったようです。
次回見る所で、はっきりと示され信仰を告白することになるのです。そういう現時点での彼の告白は、周りの異様な雰囲気の中で、つまりイエスをキリストであると告白するものは、会堂から追い出す、そのような取り決めがなされている中での彼の証言、「私は盲目であったのに、今は見えるということです。」という言葉は大変説得力のある、また勇気のある言葉だといえましょう。
安息日律法を間違って解釈し、人々をがんじがらめにしていた当時の宗教指導者たち、それから解放し、また人々が持っている罪の重荷から解放するために労されたイエス様を私達は正しく知って崇める必要があります。
安息日を、何をしても良い日と現代の私たちが考えるなら、それは間違っています。その場合、聖書がどういっているかもう一度よく読む必要があるでしょう。安息日、それは今日で言えば、主の日であります。日曜日であります。この日を信仰者は、共に同じ神様に仕える、そして喜び、感謝する、神の御名が高らかに崇められる日として聖別したいものです。
また、主が私たちにどんなに素晴らしいことをしてくださったかを、伝えて行こうではありませんか。主が自分にして下さったことを特別飾り立てて証する必要はありません。ありのままで証しすれば良いわけです。それが生きた証です。神様が自分にして下さったことを、喜びを持って伝えたいものです。
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