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2005年9月4日(日) 「霊的無知」  ヨハネ9:26-41  竹口牧師 

今朝取り上げます聖書範囲は、非常に長い部分ですので、司会者の方には、前半部分だけを読んでいただきました。実は、今日の話の範囲は、週報の通り9章の最後41節までと致します。前半部分は、先回の話の続きであり、イエス様は登場されませんが、後半35節から最後まではイエス様が登場されるのであります。まずは、前半部分26節からを見ることに致します。

今回の話は9章の最初からの続きでありまして、生まれつき目の見えない人がイエス様によって癒されたのですが、それが、安息日であったために、パリサイ人達の意には添いませんでした。仕事をしてはならないという神様の律法を破ったと捉えたわけでした。

また、22節にヨハネが説明を載せていましたように、つまり「すでにユダヤ人たちは、
イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである」とありますように、イエス様をメシヤとは認めない方針で、そのような動きがあれば取りしまる方向で進んでいた訳でありました。まず、最初にその前提があって、彼らは行動しておりました。

ですから、目が見えなかった人が、見えるようにされたという事実を本人から聞いても、あるいは親から聞いて確かめても、なおその事実を認めたくなかったわけでありました。
そんな状況でしたから、いくら見えるようになった人が証言しても、ユダヤ人達は受け入れませんでした。

否、ただ受け入れないだけでなく、何度も同じ質問をしますので、いいかげん、目を癒された人は嫌になってくるわけでありました。今日の26節の彼らの質問に対して、見えるようにされた人は、27節でこう言わざるをえなかったのでした。「もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか」とでありました。

これは痛烈な皮肉だと言えましょう。ユダヤ人達はイエス様を殺そうと考えているくらいですから、全く彼らの心を逆なでしたような言葉でもあります。ですから、ののしりの言葉となって帰ってきました。「おまえもあの者の弟子だ。しかし私たちはモーセの弟子だ。
私たちは、神がモーセにお話しになったことは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らないのだ。」

私は、この言葉のやり取りを読んでいまして、かつての自分自身の言動を思い出したわけでありました。信仰に入る前の自分の姿であります。それは、こんな風だったと言えるでしょう。

最初は全く信仰がなくて聞くばかりなのですが、少しずつ知識となって溜まってきますと、
それまでは全く信じられなかったのに、また信じてはいないのに、不思議な事が起きるものであります。それはあたかも信仰者かのようになって、キリストの教えを馬鹿にしたり、反対するようなことを言われますと、いつのまにか、キリスト者側に立って話している自分がそこにいる。そういうことに何回か気づかされたことがありました。

これってどういうことなのだろう。私はキリストを信じているわけ?と自問自答したものでした。信じている訳ではないのだけれども、キリスト側に立って話している。不思議だなあと思ったものです。

今から考えてみますと、そのようにして神様は徐々に私を変えてくださっていたともいえるのであります。今回の場合、目が見えなかった人が見えるようにされた。そのことによってイエスと言うお方がどういう方か、考えるようになったと思うのです。

最初はイエス様について、どれほどの知識があったか分かりません。道の途中で弟子達がイエス様の質問をしたことから始まって、そこでの出会いが最初であり、自分の目の見えない原因がどこからきているのか、改めて考えたかもしれません。

しかし、話が進んで行くうちに、イエス様は地面につばきをして、そのつばきで泥を作り、
彼の目にそれが塗られたのでした。彼はその時、嫌だと思ったかどうか感じは分かりませんが、「シロアムの池で洗いなさい」との言葉に素直に従ったのでした。

彼は、イエス様を癒し主と信じて従ったわけでもありません。救い主と信じて従ったわけではありません。ただ、言われるままに従っただけなのでした。すると今まで一度も見えた事のない目が見えるようになったのでした。人とは、こういう形をしているのか。道は、こちらにもつながっているのか。いつも物乞いのために座っていた周りの建物は、こんな形なのか。というように、何しろ一度も目にしたことのない世界から、見える世界に入ったのですから、その驚きは、例えようがなったでありましょう。

ですから、「あなたの目はどのようにしてあいたのですか」と質問されれば、喜んで何度でも答えていたと思うのです。

ところが、ある人たちだけには、もう辟易していた事でしょう。と言いますのも、目が生まれつき見えなかった人と言うのは、私の想像で申し上げるので間違っているかもしれませんが、物音とか、人の声の上がり下がりによって、その微妙な違いを見分ける力が備わっていたと思うからです。

ということは、彼に質問している人の中で、自分の話すことを、この人は信じたいのか、信じたくないのか、もしかしたら、見通すことさえ出来ていたのではないかと思うのです。
ですから27節にあるようなことを彼は言ったのだと言えましょう。皮肉たっぷりにです。
そして、それを聞いたユダヤ人は怒ったわけであります。

そりゃあそうでしょう。出来たら殺したいくらいに思っているのに、「あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」なんて言われれば、怒るのも当然でしょう。

しかし、人の会話と言うものは不思議なもので、心に思っていなくても、売り言葉に買い言葉ではありませんが、目が見えるようになった人の言葉に対してユダヤ人は、「お前も、あの者の弟子だ。しかし、私達はモーセの弟子だ」と言うのです。

もし、本気にイエス様の弟子だと認めるのであれば、目が見えるようになった人に彼らが聞く必要はないのでありまして、そうではないと思っているからこそ、自分達の都合のいい返事を期待して尋ねている訳です。でも、どうも自分達の気に入った答が返ってこない、だからまた、質問したと言うのが話の流れだと思います。

一方は、イエス様という方がどういうお方かよく分からない。分かっていることと言えば、
見えない目を見えるようにしてくださったかたである。もう一方は、メシヤだとは認めたくない。むしろ、律法を守らない不届き千万なものである。何とかして訴えたい、その思いで一杯なのであります。

そして、そういう両者が会話を続けているうちに、目の見えなかった人は、徐々に思いがある方向に導かれていきます。そのある方向とは、真の神様とはこういうお方であると聞いている。そして、実際に自分は、それまで考えもしなかったようなことを、そのお方はしてくださった。これは、もしかしたらキリストかもしれない、そう思うようになっていくのです。

何度も何度もイエス様のしてくださった事を話しているうちに、神様は、その人の心を変え、徐々に信仰の目を開いてくださっていた。その現れが、今回の前半の個所に出ているのではないかと思うのです。ユダヤ人たちの29節の言葉を聞いて、目が見えるようになった人の答と言うものが、まさにそれを表しているようにさえ思えるのであります。

彼はこのように言うのであります。「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、「もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。あの方は私の目をおあけになったのです。」そういう強い確信を彼は与えられるまでに至っているのです。

でも、その人の言っている言葉をよく読んでいますと、どうも、その目が見えるようになった人には少しも当てはまらないようなことを彼は言っているようにも私には思えるのです。特に31節の彼の言葉はそうです。「神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。」

真理はそうですが、果してでは、目の見えなかった人はこの言葉のとおりに行動していたのでしょうか。私は、この自分の質問に、肯定も否定も出来ません。が、これだけは言えるでしょう。

彼は何もしなかったが、癒された。いいえ、何もしなかったがと言うのには語弊があるかもしれませんが。少なくとも彼は、イエス様のお言葉に素直に従っているのですから。
しかし、イエス様を信じて、求めて、癒されたのとは違うのです。イエス様からの一方的なご厚意をいただいたのであります。これは、彼にとっては本当に恵み以外の何ものでもありません。

イエス様の行なわれた一つの行為が、これほどまでにも人を変えるのかと思わされます。そしてまた、私自身も肉体的癒しではありませんが、それまで、目的のない人生を送っていた自分に、光を与え、生きる意味を教えていただき、それまでと全く変わった人生、
キリストのある人生に変えられたことは、大きな奇跡だと思っております。

今日に至るまで信仰生活を振り返ってみますと、決して順風満帆な人生を送ってきたわけではありません。しかし、キリストにあっての現在があることは事実であり私にとって神の恵み以外のなにものでもありません。ここに一人の人が、今正にキリストと出会おうとしているのです。それも、偶然、ばったり会うというのではなく、イエス様の方から捜してきてくださったのであります。

35節以下、今日の後半の聖書個所であります。目が見えるようにされた人は、イエス様にお会いするまでに、もう十分心が備えられていました。ですから「あなたは人の子を信じますか」とイエス様に言われたとき、36節で「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」と答えるのです。

そしてイエス様は37節で言われます。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」すると、目の見えるようにされた人は言います。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。

この一連の流れを読みながら、疑い深い人は言うでしょう。なぜ、この癒された人は、イエス様を見たこともないのに、信じることが出来たのか。「あなたは人の子を信じますか」と聞かれ、「あなたと話しているのがそれです」と言われて、果して信じられるものだろうかと。

どこだか記されていませんが、道の途中でイエス様に会い、シロアムの池に行って目が見えるようになり、泥を塗ってくださった方の姿を見ていない、今、初めてお会いしている。
どうして、この人は信じることが出来たのだろうか。私は、これは目が見えなかった故に、それが幸いしたと思っています。

彼は目が見えなかった故に、癒してくださった方の声をよく聴いていた。覚えていた。それは、目が見える人よりは何倍も聞き分ける力があった。そして、見えないからこそ、見えないお方を見ることが出来た。出来るようにされたと言っても良いでしょう。

「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。との38節の言葉は、非常に重みがあるのであります。目が見える故に、イエス様を信じられない。色んな知識がある故に、それが邪魔をして信じられない。高い地位がある故に、それを失うのではないかと言う恐れで、信じることが出来ない。自分にはやりたいことがあり、それにまい進したいので、
今はちょっと信じるのは遠慮したい、と言うように、信じない、信じたくない理由は色々ありましょう。

しかし、39節のイエス様のお言葉は大変厳しいお言葉であることはご理解しておいていただきたいのです。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」とあるからです。

すでに見たのですが、このヨハネの福音書の3章17節やこれから見ます12章47節には、
「世をさばくためではなく、・・・世が救われるためである」とその目的を明らかにされてありますが、今現在から先のことを言いますと、イエス様の来臨によって、人がさばかれることは確かです。

今回登場してきた、特に40節にありますように、パリサイ人の中で、イエス様と共にいた人々が不安そうに、「私たちも盲目なのですか。」と聴いております。そしてそれに対してイエス様は、「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」と言われ審きの対象になる人がどういう人かを明らかにされています。

これまでの話が生まれつき目が見えなかった人が見えるようにされた、そういう人の話から進展していますので、自分達は見えていると考えている人たちには、恐れが生じたと言えましょう。

イエス様を実際に目の前にしながら、そのイエス様がどういうお方か分からない。これは、見えていないのと同じであります。逆に、イエス様がどういうお方か分かった人は
イエス様が見えているのであります。それは、実際に肉の目で見ているのとは全く違うことであることは言うまでもありません。聖書知識がどんなにあっても、イエス様が、自分にとってどういうお方かが分からなければ、その知識はなんの用も足さないのであります。

見えていると思っている人は、本当にイエス様を見ているのか考えてほしいし、あるいはまた、見えないと思っている人は、そばにおられるイエス様に気付き、その声に従って欲しいものです。

今の時代ほど、情報過多の時代はありません。これからますますその度を増していくことでしょう。その中で、心静かに、主のみ声に耳を傾け、平安と喜びと力をいただける人は何と言う幸いでしょうか。富があなたを救うのではありません。権力があなたを救うのでもありません。聖書に関する豊富な知識を持っている事が救いの条件ではありません。

私達が考えている以上にイエス様は、身近におられ、語りかけておられ、信じるべきことを教えてくださるお方です。それはちょうど、今回の聖書個所35節にありましたように、
イエスは彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた、とありましたように、イエス様から近づいてくださる方なのです。

私はイエス様を知っている、信じていると、自信過剰になり、聖書の教えるイエス様から離れていくことのないように、絶えず、小さな神のみ声に耳を傾け、謙遜にお従いしていこうではありませんか。それが、見えなかった者が見えるようにされた者の道であると言えましょう。

2005年9月11日(日) 「救いの門」  ヨハネ10:1-9  竹口牧師

2005/9/11   ヨハネ10:1-9   救いの門
今日からヨハネの福音書の10章に入りますが、この10章の始めの部分は、イエス様が「わたしは門です」とか、「わたしは良い牧者です」と言われて、例え話をしておられますので、何か新しく話が切り替わったかのような感じを受けますが、実は、話そのものは、9章からの続きでありますので、そのつもりで読んで頂きたいと思います。

つまり、イエス様が話しておられる相手と言いますのは、9章41節で「イエスは彼らに言われた。『もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。
しかし、あなたがたは今、<私たちは目が見える。>と言っています。あなたがたの罪は残るのです。』」と言う風に話された相手の人に話されている続きなのであります。つまり、同じユダヤ人に向かって話がまだ続いているという事です。

そして、今日の所は、そういう人たちに、イエス様ご自身が門であると言われている個所です。それも、9節に結論が書いてありますように、イエス様を通って入るなら、救われる。また、安らかに出入りし、牧草を見つけると言われるのであります。

そこでまず最初にその門にまつわる事で考えてみたいのでありますが、門と言いますと、私はどうしても、私どもの教会の門のことを考えざるを得ないのであります。田舎者の私が東京に出てきて、どこか良い教会はないかと思いつつ、世田谷一丁目の住んでいる所から歩いていると、なんと教会があるではありませんか。

そして入って行った所が教会ではなく、ピーチ宣教師宅でありました。というように、教会に来るつもりで、結構、ピーチ先生宅を尋ねる方が多いと思います。今ざっと数えて、教会の会堂にたどり着くのに、駐車場の入口も入れますと何と入り口が8つもあります。
ですから、初めて来た人の多くは迷われるのであります。

最近は、案内図を整備しましたのでもう大丈夫だと思うのですが、それでも、携帯電話で、今私は、これこれの所にたっているのですが、玄関はどこにあるんですか、と聞かれるのであります。新しい会堂になった時には、もう、これならば間違いようがない、それくらいはっきりとした入り口にしたいと思っております。

どこの入り口から入っていただいても、教会に通じるのですが、広い敷地ですから、初めてという方の多くが入り口を捜されます。更には、建物にたどり着いても、これまた玄関がどこにあるのか、以前、幼稚園がありました関係で、あちこちに玄関らしきものがありますので、私たちが予想もしないような所からドアをノックされるのであります。

ところで、多くの入り口がある私どもの教会ですが、そして、そのどれから入っていただいても、教会の会堂の中に入ることは出来るのですが、やはり、回り道となるのは止むをえません。

まあ、そういう話と絡めてもう一つ申し上げるとしますと、よく言われる言葉に、「分け登るふもとの道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな」というものであります。真理は一つであるけれども、そこに至る道はいろいろあってもよい。どの道から入ったとしても、要は、真理に到達すれば良い。そのように信仰を捉えて言われる事がありますが、しかし、それは大きな間違いであることは言うまでもありません。

なぜなら真理は一つであり、真の神は唯一のお方だからであります。会堂に行き着く行き方や、富士山の頂上にたどり着く話などと、信仰の真理に到達する事とは全く別の話であり、例えにならないのであります。ですから間違った例えから、納得しないようにしたいものであります。

まあ、そういう意味で、イエス様の言われる例えには、全く間違いがありませんので安心して聞いていただくことが出来ます。

ところで、イエス様は例えで話されていますが、その例えを聞くときには、原則があることをまず確認しておかなければなりません。それは、一つの例えには、一つの教えがあるということです。その他のことを考えれば、必ず矛盾と言いましょうか、話が合わなくなってくるという事です。

ですから、こういう面白い格言があるそうです。「たとえ話というものは、4つ足では立てないものだ」あるいは「たとえ話を絞りすぎるとミルクじゃあなくて血が出てしまう」
というものであります。従って、たとえ話は、色んな事を考えさせますが、何がその中心点にあるかだけに注目する必要があります。

これから私たちは、イエス様から例えを聞くのですが、そういうことを心得た上で、読んで行く事にしましょう。イエス様は、1節でこのように言っておられます。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。」と。

ここに「まことに、まことに」とまず出ています。これは、以前にもお話しましたように、
イエス様がこれを言われている所は特に大切であることを意味している、と申し上げました。そういう意味で、注意して読みたいものです。

イスラエルに行って、エルサレムの町をご覧になられますと、旧市街は塀で囲まれています。そして 7つの出入りできる門と一つの封鎖された門があります。その門の一つ一つに警備の人がいるわけではありませんでしたが、重要と思われる所には、兵隊が銃を持って立っていましたし、荷物検査もありました。それを受けないと、そこから先へは進めない訳であります。ビデオカメラを持ち、普通のカメラも持ち、水を持ち、本当に奇妙な姿で、エルサレムの町を歩き回ったものです。

ところで、今回のイエス様の話は、そのように入り口がいくつもあるというのではなく、たった一つしかないという話をイエス様はされているのであります。しかも、その入り口、門はイエス様であると言われるのです。たった一つしかないのですから、それ以外のところから入ろうとするならば、1節にありますように、他の所を乗り越えなければなりません。

これはどういうことか、みなさんお分かりでしょう。イエス様以外のところから入ろうとするなら、それは不正な入り方であるということです。そしてそれは、盗人や強盗のすることだとイエス様は言われます。

ちゃんと門があって、2節によりますとその「門から入る者は、その羊の牧者です」と言われます。門から入る者その者が、羊飼いであると言うことです。羊飼いでない者は、たった一つのその入り口からは入れません。ここは、一般的な羊を飼う羊飼いたちについて言われています。

3節を読みますと「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。」とありますが、

ところで、ここに出ています、門番とは誰か、彼のために開きという彼とは誰のことか、
この例えで、いろいろな解釈がありますが、最初のほうでも言いましたように、イエス様のおっしゃりたいことが何か、それだけをつかめればその例えは十分でありますので、深く詮索しないことにします。そうしませんと、本論からずれるからであります。

ただし、羊飼いの働きというものは、私たち日本人にはなじみがあまりありませんので、知っておくことは必要であります。4節「彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は彼の声を知っているので彼について行きます」とあります。
これは、イスラエルに行って気付いたことですが、本当にこの聖書に書いてあるように、羊飼いが先頭に立って歩き、その後を、羊が付いて行くと言う光景を何度も目にしました。
本当に絵に描いたような情景でありました。

ただ、遅れたり、群れから離れようとする羊もいますので、私が見た時は、犬が走って、羊の群れが散らないようにしていた、そのように記憶しております。よくもまあ、あんなごつごつとした石ばかりあるような所を、また、草も何も無いような所を、どうして連れて歩くのかと、不思議な思いを強くしましたが、その辺の地理を知らない私ですから、そう感じても致し方ありません。

当然、羊飼いは、水のある所、草のある所をよく知っていて、そこへと導いているまさに、その途中であったのでしょう。羊飼いは、先頭を切って歩いていながら、そして、後ろを見ていませんが、それでいて、着いて来ている羊の声に耳を傾け、注意を払っているのであります。

私の田舎は酪農ですから、ホルスタインという乳牛が30頭くらいいるのですが、全部、名前がついていまして、名前を呼びながら世話をしています。まあ、乳牛ですと、黒と白の模様の違いで区別がつきましょうが、羊はそうは行かないと思います。しかし、それでも、飼い主は、微妙な顔つきの違いを知っていて、名前を呼んで連れ出すと言いますからすごいというほかはありません。

やはり、その道のプロと言われる所以でありましょう。羊飼いが、一匹一匹の羊を知っていると同時に、羊のほうも、飼い主の声を知っているものですから、これは飼い主の声である、これは飼い主の声ではない、というように聞き分けるのであります。

イエス様は5節で、自分の飼い主ではない声には「・・決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」と言っておられます。それだけ、羊は、飼い主を良く知っているということでしょう。ユダヤ人たちにとって、羊飼いという職業は、あまり喜ばれるものではありませんでした。彼らは、定住出来ませんでしたし、生き物を飼っているのですから、安息日も守れなかったからです。

そういう意味では、もしかしたら、私の考えですが、今、ここでイエス様の話を聞いているユダヤ人達にとっては、自分達とあまり関係のない話のように聞いていたのでしょうか。
6節を見ますと、「イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。」とあるのであります。

羊飼いと自分達と一体どういう関係があるのか、あんな身分の低い者達の話を、と思っていたかどうか分かりませんが、それは恐らく霊的高慢から来ていたことでしょう。彼らと自分達とを一緒にしないでくれ、といった感じでしょうか。

そこでイエス様は結論をはっきりと言われました。7節8節「まことにまことにあなたがたに告げます。わたしは羊の門です。わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。」と。

私たちはこれを読んで、一体どういうことなのだろうかと考えます。これを聞いているユダヤ人達、中でもイエス様を殺したいと願っている人たちもいる、そういう人たちを相手にしてイエス様は語っておられる。

「わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。」これはどういうことかということになります。羊は、羊飼いに名前を覚えられ、世話をしてもらえます。緑の草のあるところに連れて行ってもらい、水のある所にも連れて行ってもらいます。夜は、囲いのある所で休むことが出来ます。

イエス様が羊の門となって下さるわけであります。ですから、7節は、非常に分かりやすいです。しかし、8節になりますと途端に難しくなります。「わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です」とはどういうことか。ある人は言います。この言葉は、全て文字通りに受け取るべきではなく、制限して解釈すべきであるとであります。

預言者やバプテスマのヨハネは、盗人または強盗ではなかった。ですから、この言葉の意味するところは、「自分をメシヤと主張する者はみな」ということであると言います。さらに、「盗人で強盗です」と現在形であるところから、イエス様がおられた以前に生きていた者達を除外すると思われる。更に「わたしの前に来た」という言葉を巡ってもいろんな説があり、大変難しいのですが、大体こういう事でしょう。

1節からしますと、門であるキリストを通らず、それを避けるものたちを盗人で、強盗と言われていますので、8節では、ユダヤ教の指導者達のことと思われます。それはまた、昔も今も変わらないと言えましょう。聖書に示されているキリストに聞こうとしない者を指しています。そして、そういう者をイエス様は、盗人で強盗ですと言われるのです。

そして今日の結論になりますが、9節で、「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」と言われるのです。
イエス様が門ですから、その門を通って入る者だけが救われる。しかも、安らかに出入りし、食べる物も見つける。なんという幸いな門でありましょうか。

イエス様は山上の説教の所でこんな事をおっしゃいました。「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そしてそこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭くそれを見いだす者はまれです」沢山の人が通っている道、人生の道、それは、何となく安心感を与えてくれます。しかし、それが間違った道であるなら、何という恐ろしいことでありましょうか。

赤信号、みんなで渡れば怖くないという変な言葉もありますが、皆さんが、他の人と同じであることで平安を得ているとされるなら、本当にそれが正しいのか考えてみる必要があるのではないでしょうか。もし、間違っていると気付いたなら、直ぐに直すべきではないでしょうか。イエス様は言われます。「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。」

最近、いろいろな建物の入口が厳しくなりました。事件や事故を未然に防ぐための措置であります。嫌な時代になったものです。しかし、救いの門は昔も今も同じです。狭い門なのです。しかし、その狭い門を通って、救われたいと願う者には、不思議なことに、困難なく入れるのであります。いいえ、イエス様が入れて下さるのであります。

沢山門があっても、真理の門は唯一なのです。天国への門は、ただ一つなのです。その入口を間違えると、とんでもない所へと行くことになります。否、もうすでにその道を歩んでおられるのではないでしょうか。

この世の人生をもっとも素晴らしく生きるには、キリストにある人生以外にありません。
そしてそれは、キリストの門から入る事です。この朝、キリストの門をくぐらせていただいた者の特権は、魂の救いが与えられ、キリストのお守りの中で平安に過ごすことが出来るのです。すでにそのキリストの門をくぐらせていただいた者は、その特権を今一度確認し、感謝しようではありませんか。あるいまた、まだ、その特権に与かっていない方は、
今日、御声に従ってキリストという救いの門を通って欲しいものです。

2005年9月18日(日) 「良い牧者」  ヨハネ10:10-18  竹口牧師

今日の話は、イエス様がご自分を羊飼いに例えておられる。しかも、ご自分が良い羊飼いであると言われたところであります。今、その羊について考えてみますと、多くの方は、実はあまりよく知らないと言うのが現実でありましょう。

私個人のことを言いますと、羊が身近にいないから知らないと言うだけでは有りません。
と言いますのも、田舎で育った私の家は、農業でしたので、米の作り方、葉タバコの作り方、こんにゃくの作り方などなど、さらには、途中から酪農をするように家は変わりましたので、その牛についてなど知識が少しでもあるかと言いますと、身近にいながら殆ど知らないで育ったと言うのが実情であります。

つまり、あまり興味が無かったといえましょう。ましてや、羊についてはなおのことであります。その昔、私が「ひつじ」と言う言葉をよく耳にしましたのは、「おお、迷える小羊」と言う言葉でしょうか。それも、世間一般に言われているのですから、聖書から意味を知って言われているのではなく、単なるキリスト教に対する皮肉が込められている。あるいは、少し聖書を読んだ人が、からかいの意味で言っている、そのように私は受け取っているのですが、本当はどうでしょうか。

このイエス様の時代、「わたしは、良い牧者です」と言われたとき、聞き手側は、羊とはどういうものかをよく知っていました。と言うのは、当時のパレスチナは、肥沃な土地ではなく、岩の多い、ごつごつした土地が多く、ことに、ユダヤの山地では、大抵の人は羊飼いであったからです。

また、パレスチナの羊飼いの生活は大変厳しいものであったそうです。羊飼いなしに羊が放牧されることはなかったし、羊飼いには、休みが無かったといわれます。草が少なく、絶えず遠くまで行かなければなりませんでした。行った先々に柵があるわけではなく、羊を常に監視していなければなりませんでした。

羊飼いの身支度は簡単なものであったようです。らくだの皮で作ったずた袋をさげていて、
その中に食料を入れて持ち歩きました。その中身は、せいぜいパン、乾燥させた果物、わずかのオリーブ、チーズなどであったと言われます。それに石投げ器を持っていて、攻撃と防御の両方の武器としておりました。盗賊や狼などから羊や自分を守るためのものでした。

当時、パレスチナには番犬がいませんでしたので、羊が群れから離れようとすれば、その羊の鼻先めがけて、石投げ器を使って石を投げ、離れないように合図したのだそうです。盗賊や野獣から身を守るために、杖も持っていました。それは木製のこん棒で腰にぶら下げていました。そしてもう一つ、さおを持っていて、群れから迷い出ようとする羊を捕え、引き戻したり、日暮れになると、羊を入れる囲いを作り、その入口にさおを十文字に立て、「羊が一匹ずつ、その下を通るようにした」

そして、羊がその下を通るとき、羊飼いは羊が日中何か怪我をしなかったかすばやく調べたのだそうです。パレスチナでは、羊の大部分は羊毛を取るために飼育されたため、羊と羊飼いが何年も一緒に暮らすことが珍しくなかったと言われます。

まあ、以上、羊と羊飼いについて大雑把にお話しましたが、イエス様は今日のところで、「わたしは良い羊飼いです」と言われていますので、どういう風に良いのかを具体的に見てみたいのであります。

まず10節にこう書いてありました。「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得又それを豊かに持つためです」と。

ここには、イエス様がこの地上に来られた目的が語られています。イスラエルの歴史を振り返ってみます時に、かつてイスラエルの羊の群れを守った人たちのことを考えますと、モーセや真の預言者たちは、心を用いて羊を養いました。つまり、彼らは良い指導者、或いは牧者でイスラエルの民を正しく指導し、導いた人達であったと言えましょう。

その点では、彼らは羊が、つまりイスラエルが命を得、またそれを豊かに持つため(10)に来られたイエス様ご自身の先駆者であったとも言えます。しかしながら、偽りの預言者たちもいまして、正しく羊を、つまりイスラエルの民を養わなかった者達もいました。
彼らが牧場に来たのは、羊の群れを滅ぼし散らすためでありました。そしてイエス様の時代、ご自身は、そういうものではなく、羊がいのちを得、また豊かに持つためですとここで言われております。

イエス様はここで、盗人は群れを益するために囲いに入るのではなく、かえって害を与えるためであり、自分自身の利益を求めて羊に傷つけるためであると言われます。羊にとっては大変恐ろしいことであります。盗人はいのちを奪うために来、逆にイエス様は、それを与えるために来られたと言われます。

まるで相反する行動をするのであります。イエス様は、永遠の命を与えるために来られました。それは、ご自身の血で買い取られなければならない「義なる命」であり、また、ご自身の御霊の恵によって与えようとする「聖なる命」の為に来られました。そしてそれは、イエス様ご自身が、十字架の犠牲によってこの命を買い取るためでありました。

死んで、失われており、また滅びつつあるこの世に、命と希望をもたらすことは、キリストの受肉の最高の目的でした。ですからパリサイ人の宣教は死であり、キリストの宣教はいのちという違いが有りました。私達は幸いにして、今日、御言葉を通して、イエス様が、まさに命を与え、また豊かに持つようにしてくださった、何ら心配の要らない状況、立場、地位、身分を真の神様の前にいただいているのは何という感謝な事でしょうか。

さて、次に見たいのは、イエス様は、11、12節でご自分と、羊の所有者でない雇い人との比較をされていますので、それを次に見ることにします。イエス様は言われます。「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。
それで、狼は羊を奪い、また散らすのです」と言われます。

まさに、イエス様が良い羊飼いである理由がここにあります。イエス様は良い牧者でありますので、羊のために命を捨てられます。捨てようと捨て身で頑張ってくださるのでは有りません。危険だけれども、出来るだけ、最大限に命を張って守り、支え、助け、導いてくださるのでは有りません。羊のために、つまり私たちのために命を捨てると言われているのです。

一方、雇い人は、身の危険を感じたら、一目散に逃げます。良い牧者でありイエス様が、いのちを捨ててまで羊を守られるのは、雇い人ではなく、また自分の利益や報酬のためではなく、羊のために、私達のために仕えるためだからであります。

イエス様は、あるところでこう言われました。マルコ10章45節で、「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

取るためではなく、与えるために、仕えられるためではなく、かえって仕えるためである、
その為に来たと言われるのです。私は、この状況を、ただ単なる普通の人が、その為に生まれてきたと言うのであれば、それは、それで素晴らしいことだと思うのですが、神のみ子が、父なる神様から遣わされて来られ、しかも、ご自分に向かって手を挙げる、立ち向かってくる、殺そうとする、認めようとしないものに対して、仕える為に来たと言われることには大変驚かされるのであります。

キリストが来られたことも知らず、全く眼中に無かった者であった私であるにもかかわらず、神様はすでに知っていてくださり、導いておられた。これは、私だけでなく、皆さんも同じであります。私達はイエス様を知らなかった。しかし、イエス様はすでに私たちを知っていてくださった。これは、何と言う驚きでしょうか。

イエス様は、14節でこう言われています。「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。」知らない者が、認識出きるようにされた。霊の目を開けてくださり、見えないものが見えるようにされた、
これは、何にも変えがたいものを神様からいただいているのです。「わたしのものは、わたしを知っています」と言われます。

本当にわたし達はそのようにされている恵みを感謝しようでは有りませんか。イエス様と父なる神様とは、思いが一つです。何一つ考えが違うと言うことは有りません。御父の思いをされるのが、子であるイエス様だからです。そして、御父の思いは、子が羊のために命を捨てることでした。そして今、ここではっきりと「わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます」と言い切っておられるのです。

羊飼いは、羊を狼や猛獣の危険から守るために、命がけで働きます。羊を養うために、牧草地に導いたり、いこいの水のほとりに連れて行ったりします。同じようにイエス様の目は、羊一匹、一匹に目を注がれます。そして、羊の必要をよく見ておられるのであります。

ところが、雇い人は、羊よりも自分のほうが大切なので、身の危険を感じますと、逃げ出します。これは勿論、たとえばの話ですが、激しい迫害が起こったとして、牧師が殉教の死を遂げなければならないようなことがあってもイエス様の死と、牧師の死とは当然ながら違うわけであります。

牧師の死は、神様に導かれての死であり、人を救う力はありませんが、イエス様には、それがあるからであります。ここには大きな違いがあります。

ところで、牧師である私は、一体どういう働きをしているのか、しなければならないのか、具体的に考えさせられました。羊をよく養い、さまざまな誘惑、危険から守り、羊自身は、のびのびと草むらで草を食む。安心して群れの中で過ごせるように務めることではないか。
今まで不十分であったなら、今からでも遅くない。否、今から始めるべきだとの思いを新たにされたのでした。皆さんは羊としていかに有るべきかを考えてみていただきたいのです。この機会にです。

ところで、考えてみますと、ユダヤ人から見ますと、私たち日本人は、救いの面から言いますと蚊帳の外であります。ユダヤ人以外はみな異邦人でありからです。しかし、そのような蚊帳の外にいる私たち異邦人に対しても、イエス様は、こう言って私達の救いのことを考えてて下さっていた。その事を教えられるのであります。まあ、ですからキリストにある今日の私たちがあると言えるのですが。

16節でイエス様はこう言われるのです。「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです」と。

イエス様はここで「この囲いに属さないほかの羊があります」と言われ、来るべき異邦人の回心の時を明らかにされたのでした。イエス様が死なれたと言うのは、少数の信じたユダヤ人だけでなく、選ばれた異邦人でも有りました。そして、実際、私たちもその恵みに与かっている訳です。そして、その私たちもイエス様を主として、牧者として、キリストにつながり、群れとなっているのであります。これも、私たちにとって何と言う素晴らしい恵みでしょうか。神様が、キリストにあって一つとなるように、その恵みの囲いの中に入れてくださったのであります。

異邦人だからと言って卑下する必要はありませんし、ユダヤ人だからといって無条件に救われるわけでも有りません。自分の本当の飼い主はどなたかを、神様から教えていただいたものだけが、その方に付いていく事が出来、また、その飼い主である方が豊かに祝福してくださるのであります。

さて、最後に、イエス様の命に関する奥義が語られていますので、それを見ることにします。これは、キリスト者とされた人にしか理解できない真理であります。17,18節をまず読みます。「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。18節、だれも、わたしからいのちを取った者はいません。
わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

まず17節でイエス様は、ご自分の死と復活について述べておられます。イエス様はご自分からいのちを捨てられますが、復活によって再び得られるということ。そのことはまた、私たち羊はそのイエス様の死によって命が与えられ、また、義とするために復活していのちを再び得られる。今の時点で言いますと、再び得られたと言うことです。そしてそれは、父なる神様の深い喜びであり、御旨でもあったのでした。

イエス様は、復活の事実を語りながら、ご自身が最高の羊飼いに留まらないことを示されています。普通の羊飼いも、命をかけ、命を捨てるかもしれない。けれども、それはそれで終わりである。しかし、イエスであるわたしが捨てる命は、後に再び得るのである。つまり、死で終わりではないと言うことであります。これはキリスト者で無ければ分からない奥義であります。

18節もまた同じく奥義であります。神様が教えてくださらなければ分からない真理であります。イエス様の身の上に起るこれからの事を思い浮かべてみてください。イエス様は、ご自分の弟子の一人であるユダに裏切られ、エルサレム当局に捕えられ、死刑の判決を決められておいて、裁判に臨ませ、見かけ上そこで決まったかのごとく事を進められ、ついには十字架に欠けられ、殺されるのです。

聖書の歴史を追っていきますと、そうなります。しかしながら、イエス様は、殺されるのではない。自分から捨てるのだと言われ、また捨てる権威があるとも言われ、更には、もう一度得る権威があると、まだ、その事実がおきていないときに言い切っておられるのです。

次回見ることですが、イエス様のお言葉を聞いて、そのまま受け入れられる人はなかなか難しいのであります。しかし、今のわたし達はどうでしょうか。イエス様のお言葉の一つひとつをそのまま受け入れられるでしょうか。それとも、やはり躓かれるでしょうか。

今回の所でイエス様は二度、12,14節で「わたしは良い牧者です」と言われました。そして、その意味がもうお分かりでしょう。それは、イエス様はこの地上にいる牧者以上の牧者であられる、ということです。

その牧者であられるイエス様にわたし達は今、養われているのです。命を捨ててまで愛し、そして又得る事の出来る権威をお持ちの御方がわたし達にも命を与えてくださっているのです。イエス様は言われました。「わたしは、甦りです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていて私を信じる者は決して死ぬことがありません。このことを信じますか」(ヨハネ11:25,26)

どこまでもイエス様に着いていき、養われ、育てられ、平安な日々をこれからもさせていただこうでは有りませんか。もし、悩むことがあるなら、遠慮なく良い牧者で有られるイエス様に聴いていただき、そして、良き解決、又そのための力をいただこうではありませんか。

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