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2005年10月2日(日) 「分裂の中の光」  ヨハネ10:19-21  竹口牧師

2005/10/2   ヨハネ10:19-21  分裂の中の光
今見ていますヨハネの福音書の著者ヨハネは、この福音書の中で分裂が起った、分裂が起った、分裂が起った、と3回書いています。その3回の内訳は、まず第1回目は7章43節の所にありました。それは、仮庵の祭りにイエス様は最初、公にではなく内密に上って行かれ、そしてその時の祭りが終わる大いなる日に、こう言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」とでありました。

そしてこの言葉の意味を、著者ヨハネは、「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、
御霊はまだ注がれていなかったからである。」と説明を加えていました。

人々はイエス様のお言葉を聞いて、イエス様をどう思ったかと言いますと、ある者は、「あの方は、確かにあの預言者なのだ。」と言い、またある者は、「この方はキリストだ。」と言い、またある者は「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。」と言い、「そこで、群衆の間にイエスのことで分裂が起こった」と記していたのでありました。

次に第2回目は、9章16節の所で、生まれつき目の見えない人が、イエス様によって見えるようにされた。そのことに気付いた近所の人たちや彼を知っていた人達は、どうして見えるようになったかを聞きました。そして、見えるようになった人は、事の次第を話しました。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい。』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」と。

しかし、その日がたまたま安息日でありましたので、人々は、目が癒されたその人をパリサイ人の所に連れて行ったわけでありました。そしてまた、癒された次第を問われて再び話すわけでありました。すると、パリサイ人の中のある者は、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ」と言い、他の者は、「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行なうことが出来よう」と言って又、分裂が起ったのでありました。

そして3回目は、今回取り上げる箇所にあるのであります。この3回目は、先回の続きの部分でありますので、説明の必要は少ないと思いますが、復習の意味を込めて、申し上げておく事に致します。

イエス様はこの10章の最初の方で、一つのたとえ話をされました。しかし6節に有りましたように、そのたとえを聞いた人達は、「何のことかよく分からなかった」のでした。
何のことだかと言うよりむしろ誰のことを言われているのかが分からなかったと言えましょう。そういう意味も含まれた書き方でありました。

そこでイエス様は、ご自分のことを「わたしは門です」と言われ、また「わたしは良い牧者です」と言って、羊飼いと羊との関係、羊の所有者と雇い人との違い、また、イエス様は門であり、その門を通って入るなら救われる、などと言うように話され、更には、ご自分の命に言及されたのでした。

先回の10章17,18節は、分裂の象徴とも言えるところですので、もう一度読んでおくことにいたします。17,18節。「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」と言われました。

この御言葉を聞いて、ユダヤ人の間にまた分裂が起った、と今回の聖書箇所のまず最初、19節でヨハネは言ったのでした。この3つの例をよく考えていただきたいのですが、どの場合にも共通している点があります。それはイエス様を好意的に捉える人とその逆の人がいると言う点です。まあ、それだから分裂が起きるわけでありますが。

今日のところでは、その分裂した一方は、「あれは悪霊につかれて気が狂っている。どうしてあなたがたは、あの人の言うことに耳を貸すのか。」と言い、もう一方は、「これは悪霊につかれた者のことばではない。悪霊がどうして盲人の目をあけることができようか。」と言って真っ二つに分かれたのでありました。

イエス様はお一人なんですが、見方によっては、人によっては、また、受け取り方によっては、まるで違った人のように見える。このようなことは、この世には山ほど存在するのであります。ですから、決して驚くに値するものではありません。ただ、山ほど沢山あるといって無視できないのが今回の事実です。

イエス様に対して、判断を下すときに、決して間違ってはならないことだからです。イエス様ご自身をどう見るか、実に最も重要な事柄なのです。イエス様の言われていること、
行なわれていることに注目するのは正しいのですが、それで終わってはならないのであります。

実際、これから先14章のところでイエス様のお言葉を見るのですが、そこでは、こう言われているのであります。「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」と言われています。イエス様の願いは、何よりもイエス様ご自身を信じることであります。

もし、イエス様ご自身を信じられなければ、その原因がどこにあるのか、考えてみる必要があります。イエス様は、ご自分の言うことが信じられなければ、行なっている業によって信じなさいと言われるのです。

言葉がわからなければ、イエス様の行なわれる業によってでも良いから、とにかく、イエス様ご自身がどういうお方であるかを知ってほしい。こういう思いで、いつもイエス様は人々に接して来られたのであります。これからも同じであります。なぜなら、イエス様ご自身がどういう方かを知らなければ、皆さんの人生は、地に足がついたものとはならないからであります。

それだけでなくこの判断を間違えますと、この世の人生だけでなく、それよりももっともっと長く続きます、それ以後の問題、つまり、死後の事とも絡んできまして、永遠と言う時間の中で、苦しむことになるので、よくよく注意して、イエス様がどういうお方かを知らなければならない、そういう意味で、大変注意が必要なのであります。果たして、あなたはイエス様をどのように見ておられるでしょうか。

イエス様によって救われた人たちの証しを聞いていますと、実にいろんな道を通って救われていることを教えられるのですが、その中の一つに、こういう結論でイエス様を信じるに至った、というのがあります。

それは神様がこの世におられるか、おられないかと言う問題ではなく、神様が必ず、この世におられる。それは認める。しかし、イエス・キリストとはどういう方なのか。神の子といわれているけれども、本当にそうなのか。もし、そうでなければ、イエス・キリストは狂った人である。そうでなければ、あれほどまでのことは言われない。大ほら吹きか、真実に神の子かどちらかだ。

そこで、聖書を読み、いろいろ考えたけれども、神の子でなければ、あそこまでは言い切ることが出来ない。また、業も出来ないという結論に達したと言うのです。実際、イエス様の話されるお言葉は、「律法学者たちのようではなく、権威ある者のように教えられた」ので、群集はその教えに驚いたと、(マタイ7:28-29)マタイの福音書の山上の説教のところには書かれていますし、その当時の人たちも、イエス様の話を見聞きし、また、実際にイエス様のお言葉を聞きながら、その聴衆の中から、信じる人が起こされたのでありました。ですから、まあ当然ながら、二つに分かれたのでありました。

でも、二つに分かれること自体、決して不思議でも何でもないのであります。イエス様は、こうも言われているからです。マタイ10章34-40節でこう言われています。「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、たしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。」と言われています。

これをお聞きになって、ある人はがっかりされることでしょう。みんなと仲良く、幸せに暮らしたいと思っていたら、そうはならないとイエス様は言われている。それは、私の求めていることと違っている。そんなの嫌だ、というようにであります。

でも、実際、イエス様を信じて従おうとするとき、必ず、戦いが起ってくることは確かであり、イエス様もその点を予め指摘されているのであります。これは、しっかりと肝に銘じておかなければならない点です。

しかし、それは当然と言えば当然なことであります。この地上に属する者ではなく、天上に属する者と変えられれば、天上に属するものに変えられた特権のほうがはるかに優れているからです。この地上において苦難も経験しますが、しかし最終的に行くべき所の祝福が信仰者には待っているのです。

ですから、イエス様のお言葉を聞いたとき、神様によって、イエス様のお言葉を素直に聞き入れられるように変えられた人は、何という幸いな人でありましょうか。ですから、地上に属する間に、神様によって霊の目が開かれた人と、そうでない人との違いは、実に大きいものがあるのであります。

イエス様のお言葉を正しく受け取れない人、現代にも沢山おられますが、今回の聖書個所で言いますなら、ユダヤ人達はまだ変えられていないのであります。「あれは悪霊につかれて気が狂っている。どうしてあなたがたは、あの人の言うことに耳を貸すのか。」という言葉となって現れるのであります。

今日でも、その状況は全く変わりません。イエス様によって変えられていないものは、生まれながらの性質を持っていて、イエス様のお言葉が信じられないし、聞き入れられないし、拒否すらするのであります。

ローマ人への手紙8章6−9節にこう書いてあります。「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。 肉にある者は神を喜ばせることができません。

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません」とも、第一コリント2章14節には書いてあります。キリストに救っていただいた者にとって、キリストに従おうとしない者が、反対し、攻撃し、混乱させたとしても、それは、イエス様のお言葉によれば、起るべくして起ったことであり、何の驚きも値しないのであります。

多くの人が平和を求めています。でも、平和の中身を問いますと、みんな違うのであります。自分達の要求が満たされなければ、平和ではないのです。そして、その要求は、国によって、地域によって、家庭によって、家族、兄弟によってみな違うのであります。

生まれたままの状態の人間が如何に肉的であるか、そして、その肉的な要求をお互いが満たそうとするとき、争いが起らないはずはありません。ですから、小さな単位で言いますと、家庭から、大きくは、対国と国との争いが各地で起きているのであります。

我慢して、忍耐しての平和は、いつか必ず崩れます。偽りの平和、見せかけの平和、表面的な平和が崩れていくのは、そう時間は必要ないでしょう。血で血を洗う争いがなくならない現実がそれを物語っています。

私はキリスト者の一人として、いろんな人とお話しますが、その時によく耳にしますことは、宗教はよくない。戦争の多くは、みんな宗教から来ていると言われる事です。しかし、本当にそうでしょうか。私はそうは思いません。

私は国益が絡んだ政治的な問題から起きているのが殆どだと思います。そして、それは人間の持つ罪から起きていると言えるでしょう。ですから、大切な真理から目を逸らさないようにしたいものです。イエス様をあなたは、どういうお方だと見ておられるでしょうか。
今日のところでは、イエス様は悪霊につかれているという見方と、否、そうではない、という見方と二つに分かれました。

私は、イエス様を信じることによって、心に平安をいただき、将来に対する確信が与えられ、今を生きているものの一人であります。皆さんはどうでしょうか。イエス様を敵として歩んでおられるでしょうか。

まだ救い主として信仰を表明されていない方は、何が原因でしょうか。何が、最初の一歩を留まらせているのでしょうか。イエス様と共に、この世を主体的に生きる。神様が、あなたを一人の人間として愛し、その賜物を生かし、御用のために用いようとされているなら、喜んでそれをお献げし、与えられている人生を主にささげて歩むことが、あなたにとってどんなに幸いな人生でしょうか。

私たち人間は、生まれたままの状態では、完全に堕落し、罪に落ちていますので、希望がありません。イエス様はそれを知った上で、喜んで、救いの手を差し伸べてくださっているのです。イエス様に敵対するものではなく、祝福をいただける者に是非なっていただきたいものです。

一方、すでに救われている者にとって、イエス様のお言葉の一つ一つがイエス様によって救われたあなたにとってどんなに素晴らしい事かを確認し、味わい、感謝して欲しいものです。

2005年10月16日(日) 「確かな救い」  ヨハネ10:22-30  竹口牧師  

先回は10章の19,20,21節の3節から、イエス様のお言葉を聞いてユダヤ人達の間に
分裂が起ったという部分を見ました。著者ヨハネは、7章で仮庵の祭りについて言及した後、ずっとその続きとしてこれまで書いてきましたが、今日の22節のところから、新しい場面に入っていきます。つまり、22節で、「そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。」と書いて、秋から冬に入ったことを記しています。

とはいえ、10章に入りましてから羊の話がでていまして、今日の所も羊の話になりますので、ユダヤ人達にとって、イエス様の話がすっかり忘れ去られたあとに、今日の話がなされたのではなく、まだ彼らの頭にイエス様が語られたことが残っていた、そのようなときの事をヨハネは書いているように思われます。

ところで今回の話の時期的なことを表わします「宮きよめの祭り」は、聖書の他の個所では言及されていませんので正しくは分かりませんが、多分、旧約時代と新約時代の間に当たる中間時代と呼ばれる時代に、ユダ・マカビーによってその祭りは制定されたのであろうと多くの人は理解しております。

そこで、そのときの事をもう少し話しておきますと、アレキサンダー大王がマケドニヤから登場し、インドまで遠征すると言う勢いで、当時の周りの国々を支配し、一大帝国を築きましたが、しかし彼は若くて亡くなり、その大王の子供が支配を受け継ぎました。

ユダヤの国はシリヤの王になったアンティオコス4世エピファネスがヘレニズム化を進め、
それに対してユダヤ人が激しく抵抗したのでした。最初シリア軍が徹底的にエルサレム神殿を汚した時がありましたが、その時に立ち上がったのが、ユダ・マカビーでありました。
そして、彼らの勇敢な戦いによってユダは勝利し、神殿が清められ、祭壇が建て直されたのでした。それを記念する祭りが、「宮きよめの祭り」であると言われています。しかし、その祭りの聖書的な根拠はありません。

この「宮きよめの祭り」が聖書の教えに反しない制定でしたので、イエス様ご自身もその祭りについては非難をなさらず、その場に居合わせることも拒否されませんでした。もっとも、「宮きよめの祭り」が、いつ頃制定されたかは、聖書からは、はっきりしたことは言えないものですから、別の考えがないわけではありません。

つまり、もっと前の時代、エズラ、ネヘミヤ時代に、ゼルバベルと言う人が、バビロンによって壊されたソロモンの神殿を再建しましたが、その時、まず神の宮の礎を据えた(エズラ6:16)、その事を記念するために制定された、そのように考える人もおられます。

が、いずれにしましても、同じ事を言うようですが、イエス様は、その「宮きよめの祭り」に関しては何の異議をも唱えられませんでしたので、問題はないでしょう。ですから、読み手の私たちは、これから読んでいこうとする所が、時期的には冬であったという程度にしておきたいと思います。それも、ものの本によりますと、クリスマス時期であったと
書いてあるのであります。

更に、付け加えるとするなら、この「宮きよめの祭り」は、現代でもユダヤ人は行なっているのであります。

ところで、今回特に注目したいのは、その「宮きよめの祭り」ではなく、24節以降に書いてある事であります。つまり、ユダヤ人達はイエス様を取り囲んで言うのであります。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」と。

もともとユダヤ人達は、キリスト、つまりメシヤが来ることを待ち望んでいました。シリヤの王であったアンティオコス4世エピファネスが登場して、ユダヤは大変辱められ、また多くの人が殺されました。そのギリシャ時代からローマに支配される状況の中で、いつ、ユダヤ人たちが望んでいるメシヤが現れるのか、ユダヤ人達は、聖書から期待して待っていたわけでありました。それが24節の言葉となって現れているのであります。

それに対してイエス様は今日の聖書個所の範囲の最後の30節までで答えられるのであります。そして、その内容たるや、信仰者にとって大変素晴らしいものであり、生涯、この御言葉を握って歩む事の大切さを教えられるのであります。

イエス様のお言葉の前半は、後半と比較すればそうでもありませんが、後半は特に、信仰者は決して忘れてはならないお言葉であります。まあ、順序良く見ていくことに致しますが。24節のユダヤ人の言葉をもう一度読みます。

「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」と言っています。それに対してイエス様は25節で「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。」と言われました。

ユダヤ人達は、「あなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」と言い、イエス様は、「わたしは話しました」と言っておられます。この食い違いはどこからきているのでしょうか。

イエス様は、「わたしは話した。けれどもあなた方は信じない。」私の父の御名によって行なう業が証言しているのに、あなた方は信じない。」と言われるのです。イエス様の言葉のみならず、行ないをも信じない。どうして、こういうことが起きてくるのでしょうか。
これは、自己中心的な見方で、イエス様を見ているからではないでしょうか。

私はよく物を捜しますが、目の前に自分の今捜しているものがあっても、この部屋にはあるはずはない、自分はこの部屋に持ち込んではいないからと思い込んで見ているものですから、まさに目の前にあっても、見えないのであります。

ナザレのイエスとは、こういうものだと間違った見方をしていると、いろんな神の業が行なわれても、それが、メシヤの業とは思えない。これは大いにありえることであります。
このヨハネの福音書3章のはじめに(3:2)、ニコデモと言う人が夜やって来て、イエス様の事をこう言っています。

「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」とであります。

あるいは5章では、38年間もの間、病気にかかっている人がいて、その人を癒されたあとで、ユダヤ人との議論の中で、イエス様はこう言われました。(5:36)「父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行なっているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。」

更には7章31節においては、イエス様の話を聞いて、「キリストが来られても、この方がしているよりも多くのしるしを行なわれるだろうか」と批評するのであります。

まだまだいろいろありますが、イエス様は確かに、いろいろ業を行なわれました。けれども、最初に取り上げましたニコデモと言う人は別としまして、イエス様のなさることを最初から違った目で見るとき、メシヤとは認められないのは当然の成り行きでありましょう。

しかしながら、今日のところの26節のイエス様のお言葉には、もっと大切な理由があると言われています。それは、あなた方が信じないのは「あなた方がわたしの羊に属していないからです」と言う言葉です。これは、実に恐ろしい言葉であります。

ユダヤ人達は、自分達の考えるメシヤ観を持っていて、それに合わないので、「いつまで私たちに気をもませるのですか」と言っていらいらして言っていますが、実はそれは、あなた方のせいではないとイエス様は言われます。なぜなら、「あなた方がわたしの羊に属していないからです」と言われるのです。何と残念なことでしょうか。

メシヤを期待し、待ち望み、その方を目の前にしながら、そして、もしやこの方ではないかと思いながら、どうもはっきりしない、確信が持てない。キリストならキリストであると言ってほしいと彼らは望みますが、あなた方は、わたしの羊に属していないと宣言されるのです。

こう言いますと、ある方は、反発を持たれるかも知れません。これはもう最初から不公平ではないですか。信じたいのに信じられない。キリストならキリストとはっきり言われれば信じるかもしれないのに。選ばれていないのだから彼らは信じることが出来ない。そういう人は、救われたくても救われないのではないですか、そんな風に言われる人がおられます。

そういう時、私はその人に、少し自分を引いて考えてもらうことにしています。そして、質問をします。あなたは、本当に神様から選ばれていないと思いますか。何を根拠にそう思われるのですか。選ばれているかいないか分からないのに、選ばれていないと最初から決め付けるのは神様の前に正しいあり方ではないのではありませんか。聖書は、信じなさいと信仰を勧めていますよ。それを拒否するのは、あなたの不信仰ではないですかと言います。

ユダヤ人達は、イエス様のなさる数々の奇蹟を目にしています。力あるお言葉を耳にしているのであります。それでも信じようとしないのは、選ばれているかどうかを議論する以前の問題でしょう。

神様の真理に触れた時、人はそれを受け入れなければならないのです。そういう素直さが必要なのです。拒否するという事は、不信仰者であるあらわれだといえましょう。この世の全ての人が、信仰については右も左も分からずに罪の中に生まれてきました。ですから、自分が選ばれているかどうかを考える以前に、自分の罪の状態を認めて、主の憐れみをまずは求めることでしょう。そこから信仰が始まると言えます。そして、そのような者を神様は見ていてくださるといえましょう。

27節に、「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。
そして彼らはわたしについて来ます。」とあります。主の声か悪魔の声かを聞き分ける力は主が下さいます。大切なのは、イエス様のなさった業と、お言葉とをそのまま受け入れることであります。神にしか出来ないことをイエス様はされた。そのことを認めることでありましょう。

24節に出ているユダヤ人のように、いつまでもイエス様を疑いの目でみることではありません。イエス様の奇蹟を何度見ても信じない人は信じません。更にもっと大きな奇蹟を求めるのが関の山です。選ばれているかどうかは、主は「時」を用いて教えてくださいます。

わたし達のなすべきことは、イエス様のお言葉に素直にお従いするだけなのです。それが信仰であり、それはまた確信へと神様は導いてくださいます。27節の最後の部分「彼らはわたしについてきます」について、ライルと言う人はこう書いています。

「これは、キリストの民が羊のように、彼らの神である主の足跡に従い行き、信頼し、歩む事を表わしている。彼らは主の命じるままに聖なる服従をもって従い行き、主の模範に倣う者として努め励む。また、折にかなった主の導きに絶対の信頼を置き、主の導かれるどんなところへも行き、主の示されることは全て喜びをもって受け入れていくのである。
これらの描写が、真のキリスト者だけにあてはまることはいうまでもないことである。主が語られたパリサイ人たちや、今日洗礼を受けただけの多くの人々は、ここで主が述べられたような羊ではない」

ルターは次のように述べている。「羊は最も愚かな動物であるが、羊飼いの声を聞くと
他のものに従い行くことはないという点において全ての動物に勝っている。同時に、羊は羊飼いに全面的により頼み、その助けだけを求めることにおいて賢いものである。羊は自分で自分を助けることが出来ず、牧草を見つけることも出来ず、いやすことや狼から自らを守ることも出来ず、すべて他者の助けを必要とするのである。」以上です。

これを読んでいますと、まさに私自身を表わしていると思えてきます。そして、まさにそのような弱い私たちの手を、主はしっかりと握ってくださり、こう言ってくださるのであります。

28−30節「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。」と。

私たちは弱い者です。けれども主にあって守られます。私たちは人生において迷いやすい者です。けれども、主は正しく導いてくださいます。私たちはいつも命を心配します。しかし、主は永遠の命を用意して安心させてくださいます。私たちは人生を歩む中で一人だと思います。孤独だと思います。しかしイエス様は、私と父とは一つですと言って、人生の旅路を三位一体の神様が一緒にいてくださることを知ります。

この世の患難、危険、苦しみの中で、もう駄目だと根を上げる状況の中にあっても、
「だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」と、最後まで保証してくださいます。何という幸いでしょうか。それゆえに、どんな時にも主のみ声に従って行こうではありませんか。主が私たちの行く末を保証してくださるのですから、これほど確かな救いがどこにあるのでしょうか。

2005年10月30日(日) 「イエスは神の子」  ヨハネ10:31-42  竹口牧師  

先回見ました所の最後の箇所30節で、イエス様はこう言われました。「わたしと父とは一つです」と。これは、ユダヤ人たちがイエス様に向かって、「あなたがキリストであるならはっきりそう言ってください」といったことに対する言葉でした。そして、その「わたしと父とは一つです」というイエス様のお言葉に対して、今日の最初の所で、ユダヤ人たちはイエス様を石打にしようとしてまた石を取り上げた、と言うところから始まるのであります。

「また石を取り上げた」、というからには、その前にも同じような事があったということですが、それは8章58節の所でのことでした。そこでは、イエス様が「まことに、まことにあなた方に告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです」と言われますと、その言葉にユダヤ人は怒って石を投げつけようとしたのでした。

それは、まだイエス様がその時50歳にもならないのに、2000年も前の人であるアブラハムが生まれる前からイエスがいるはずがないということで怒って殺そうとしたのでした。この時は、イエス様は身を隠すようにして宮から出られましたが、今回は、危険が迫っても、話を続けられたのでありました。

イエス様は、今回の場合、ご自分を殺そうとする理由を彼らに聞かれるのであります。「わたしは父から出た多くの良いわざを示したのに、その中のどのわざのために、殺そうとするのですか」とであります。するとユダヤ人達はイエス様に「良いわざのためではなく、神を冒涜した罪」であると言いました。

この「良いわざのためではなく」という良い業といいますと、イエス様は、これまでにいろいろと人々が喜ぶことをされました。たとえばカペナウムに、病気の息子がいる王室の役人がおりまして、イエス様に助けを求めてやってきましたので、癒してあげました。又、38年間も長期にわたって病気にかかっている人が登場しましたが、彼もやはり癒していただき、歩けるようになったのでした。

更には、目の見えない人を見えるようにされたこともありました。それらの奇跡はみな、今日登場しているユダヤ人達はみな知っていたことでしょう。ですから、そういう良いわざに対しては、非の打ち所がなかった、といえましょう。まあ、それだけに、イエス様を無き者にしたい者達にとっては悔しい思いをしていたと言えましょう。

そこで、今回はそういうことでイエス様を攻めるのではなく、「あなたは、人間でありながら、自分を神とするからです」ということを、訴えの理由にして迫ったのでありました。

考えてみますと、私たちもそこに居合わせたなら、同じような思いをイエス様に対して持ったのではないか、そのように思うのであります。あながち、ユダヤ人達のいうことも間違っているとはいえない。少なくともイエス様を表面的に見るならば、イエスは、ガリラヤのナザレから出てきて、私は神だといっている。そんなことを誰が言えるか。全く神様を冒涜している言葉である。そのように彼らが捉えても、ありえることでありました。

しかしイエス様は、ここで、ご自分は神を冒涜していないと言われるのであります。そして、その根拠を聖書を持って答えられたのでありました。

当時の聖書と言いますと、言うまでもなく旧約聖書でありますが、それも今回はその中の詩篇82篇の言葉を引用されて反論されました。今回、実際に詩篇82篇は開きませんけれども、イエス様が言われている今日の聖書箇所の34−36節の言葉を、私なりに手短に要約して申し上げますとこうなると思います。

あなたがたが律法としている神の言葉に、つまり聖書に「わたしは言った。あなたがたは神である」と書いてあり、もし神の言葉を受けた人々を、神と呼んだとすれば、まして、父が聖別して遣わされた自分を、「わたしは神である」と言ったからといって、神を冒涜したことになりますか、ということになりましょうか。

このイエス様のお言葉の深い意味を、こういう非常に大雑把な言い方で表わしますと、誤解を受けやすいので、大変気をつけなければならないのですが、あまりイエス様の言おうとされた事と離れてはいないと私は思います。

まあ、ちょっと補足的に言いますと、旧約聖書では、神様の神聖な任命を受けて、裁判の務めを果たしている裁判官、あるいは神の民イスラエルを治めていた司達は、「神々」と呼んでいたのでした(申命記1:17)ですから、そこには当然ながら、全ての人を指して「神々」としていたわけではありません。それなりの大切な任務に与かっていた人たちでありました。

しかし、その神々と呼ばれて当然の人の中でも、イエス様ご自身は、特に父なる方が遣わされたのですから、神の冒涜には当たらないと言われるのであります。でもユダヤ人たちには常に、イエスはナザレ人と言うことが頭にありますから、到底受け入れられないことでありました。

そこで、イエス様は、では、ご自分の行なってきた業を見てほしいと言われたのです。神の御業を行なっていないと言うなら、信じないでいい。しかしもし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさいと言われたのであります。

今、私はイエス様が律法書の引用された言い方を大変大雑把に言い直しましたけれども、ライルという神学者は、クリソストムというこれも神学者ですが、その人の言葉を引用し、イエス様は、このように言われていると言っています。

「主が言わんとされたことは、次のようである。『神と呼ばれる名誉を恵みによって受けた者達が、そう呼ばれることになんの過ちも見出されないとすれば、本来そう呼ばれて当然の者が、どうして非難されることがあろうか』」という風にであります。

そして、まさにイエス様が非難されるのは間違いなのであります。言葉において、行いにおいて間違いが無いからであります。私たちは、大体にして、言行不一致であります。いろんなことをかかげますが、また目指しますが、計画倒れであったり、計画の途中で修整したり、変更したり、また仮に目標を達成したかに見える時でさえ、当初の考えから、大分違ってきている事にいつも気付かされるのです。

目標の設定によっては、低く取れば達成可能でしょう。しかし、人生全体から評価するとき、言っていることと行なっていることとの違いは、歴然としています。そういう意味では、自分と同じような目でイエス様を見ることは、大変間違っているといえましょう。

イエス様は37,38節で言われるのです。「もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。 しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」と。

イエス様を見て、父なる神様の姿を見る。知る。認識する。その事をイエス様は、ユダヤ人たちに求めておられるのであります。このイエス様の37,38節の言葉を、ある人は、このようにも説明するのです。これは、聞くに値する言葉ですので紹介しておきましょう。

それは、この37,38節のイエス様のお言葉を、イエス様の譲歩妥協と言う見方で読んではならないと言う風に指摘します。私は本当は神の子なのだけれども、それでも、わたしを信じられなければ一歩譲って、せめて私の業を見てほしい、と歩み寄っておられると取るなら、それは大分誤解した読み方になるのではないかと思う。

もし、イエスがそのような妥協と譲歩をして「業によって私を信じろ」と言われれば、それは単なる世間にある新興宗教とあまり変わらないことになる。イエスはそういうことをここで言ってはおられない。イエスのしておられる業とは、32節で言われたように、「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。」

この最後の「示しました」に鍵がある。「良い業をした」と言っておられるのではない。「良い業をしめした」と言っておられるのである。つまり、イエスがここで問題にしておられるのは、イエスが何者であるかを「示すための業」ヨハネはそれを「しるし」と呼んでいる。そういう象徴的啓示としての奇跡である。イエスが何者であるかを示すところの業は、敵のユダヤ人でさえ、33節に「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。と言わなければならなかったように、確かに敵も味方も良い業を認めざるを得なかったような立派な業だったのです。

確かに、その業をなさっているイエスが「よい」方であるということを、認めさせるだけの力ある業でありました。そして、その業は、詩篇82篇と密接な関係があるものとしてここに語られているのだと、私は思います」

まあ、そのように、その先生は言われます。イエス様がこれまでにしてこられた事は、ご自分が何者であるかを示すための業であった。

とすれば、その業を見た人たちは、イエス様が何者であるかを悟る必要があったわけです。しかし、彼らの心は更にかたくなになっていくのであります。そして39節では、イエス様を捕らえようとします。が、時はまだ来ていませんので、イエス様は、彼らの手から逃れられるのであります。

イエス様はこの後、どこに行かれたでありましょうか。40節を見ますと、「そして、イエスはまたヨルダンを渡って、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行かれ、そこに滞在された。」とあります。

今開いていますヨハネの福音書の前のほう1章28節を見ますと、バプテスマのヨハネは、ヨルダンの向こう岸のベタニヤで、悔い改めのバプテスマを授けていたことが分かりますので、イエス様が、エルサレムからそこに場所を移されたことが分かります。

ベタニヤといいますと、エルサレムの南東約3キロ、オリーブ山の東麓にあった村で、イエス様はこの村をよく訪ねられ、特にその生涯の最後の週には、ここからエルサレムへ通われたと思われるところで有名ですが、そのベタニヤとは違う、ヨルダン川を渡ったところにあるベタニヤであります。

オリゲネスという人はヨルダン川の東側には、当時ベタニヤという地名がなかったので、ヨハ1:28をベテアバラと読み替えていると言う風に言われています。イエス様もそこでバプテスマをヨハネより受けられたのでありました。つまり、最初の地点に戻られたと言うことでしょう。

最初の頃、バプテスマのヨハネを慕って、また、自分の罪を認めて、多くの人がバプテスマのヨハネのところに集まってきましたが、今や、今度はイエス様の所に、多くの人々が集まってきていました。そしてバプテスマのヨハネとイエス様との違いを彼らははっきりと見ることが出来たのでした。41節にこうあります。

「多くの人々がイエスのところに来た。彼らは、『ヨハネは何一つしるしを行なわなかったけれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった』と言った」と。

バプテスマのヨハネがイエス様のことを話し、エルサレムから逃れてベタニヤに来られたイエス様の生き方、言葉、行動は、まさにバプテスマのヨハネが話したとおりであった。人々はその真実に触れ、イエス様を信じる者が多く起こされたのでありました。イエス様は、次の過越の祭の際に再びエルサレムへ上り、自ら最期を遂げるまでの数か月間、エルサレムを離れて過されるのであります。

エルサレムにいたユダヤ人達は、イエス様を信じることなく、一方、ヨルダン川の向こう側にいたベタニヤの人達は、イエス様を信じたのでありました。信じる者と信じない者のこのギャップは何という大きい事でしょうか。

イエス様を信じるということと、信じない、つまり拒否することとの間には大変大きな違いがあります。私たちは、その違いの大きさをどれだけ意識していることでしょうか。「わたしは神の子である」とイエス様は証言されました。これをそのまま受け入れるのと、神を冒涜していると取るのとでは、全く立場が違います。

みなさんは、イエス様をどう見ておられるのでしょうか。もし、イエス様を神の子と信じておられるとするなら、その特権の素晴らしさを意識されているのでしょうか。信じない者にとっては滅びだけが待っているのであります。信じている者、否、神様によって信じさせていただいた者は、永遠のいのちが保証されているのであります。

イエス様は、命をかけてご自分が誰であるかを証言され、最後には、私たち罪人のために、ご自分の命を捨てて、犠牲となってくださり、父なる神の愛を明らかにされるのであります。私たち人間には、自分が本当はどういうものであるのか、イエス様の立場にあったなら、理解されないことで苛立ち、苦しむことでしょう。投げやりになるかもしれません。

しかし、イエス様はご自分の使命を着実に進めていかれるのです。「わたしは神の子である」というイエス様の証言を、私たちもまた、この世の人達に堂々と伝えて行こうではありませんか。そして、イエス様が下さる祝福の恵みを共に味わえる人をもっと沢山与えていただこうではありませんか。

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