2005年11月13日(日) 「最悪で終わらず」 ヨハネ11:1-6 竹口牧師
私たちは、朝の礼拝で、ヨハネの福音書を少しずつ見てきていますが、そのヨハネの福音書の全体のページ数から言いましても、また章の数からしましても、丁度真中辺りに達しました。今日から11章と言う新しい章に入ることになります。
今日登場します、マルタ、マリヤ、ラザロという3人の話は、大変有名であり、またそれもイエス様の甦りとも関連して、大切なことが教えられる個所であります。3人の構成は、姉がマルタであり、妹がマリヤであり、ラザロは何番目か分かりませんが、男ですので兄弟と言うことになります。
そして、そのラザロが死の病になり、彼女達は、イエス様のところに使いを出して、現状を知らせるのであります。「主よ。ご覧下さい。あなたが愛しておられる者が病気です」と。それに対してイエス様は、「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」と言われます。
5節には、イエス様はマルタとマリヤとラザロを愛しておられたことが書かれています。6節には、「そのようなわけで」とあって、だから急いでベタニヤに向かわれたとは書かれていないで、「なお二日留まられた」とあります。これが、今回の所のあらすじであります。
さて、まず最初に、今回の話しにありますベタニヤの位置と、また、今回の出来事が起きた時に、イエス様はその時どこにおられたかを確認しておく事に致します。イエス様は、前の章、つまり10章の終わりの個所でユダヤ人たちに殺されそうになられました。
そこで、彼らの手を逃れてエルサレムからヨルダン川を渡ってバプテスマのヨハネが以前にバプテスマを授けていた所、その所へと退かれたことが出ていました。イエス様は、そこで人々に福音を語られ、その結果、多くの人がイエス様を信じたとあります。そこに、マルタとマリヤは使いをベタニヤから送ったのでした。
ところで、マルタとマリヤが使いを送ったそのベタニヤの位置はといいますと、エルサレムの南東約3キロ、オリーブ山の東麓にあった村であります。私がエルサレムに行きました時には、学びの一環として実際にそのベタニヤから歩いてちょっとした山を越えてオリーブ山に行き、そのオリーブ山からエルサレムの町を見る経験をしました。
エルサレムの町からオリーブ山をいつも見ていましたので、その逆方向から見たエルサレムは、不思議な思いがしたものです。ラザロは後に死に、葬られますが、その葬られたと言われる墓も見て、エルサレムへと歩いたわけでありました。
ところで、イエス様が北の方、ガリラヤ地方で伝道されたときは、大体、カペナウムを拠点とされていましたが、南に下がってエルサレム伝道をされた時は、今回挙がっていますこのベタニヤを拠点とされていたように思います。そして、もしかしたら、今回登場する3兄弟、マルタ、マリヤ、ラザロの所に世話になっておられたのではないかと私は個人的には想像するのでありますが、どうでしょうか。理由は、イエス様はこの村をよく訪ねておられ、また3人を愛しておられたからです。特にその生涯の最後の週には、ここからエルサレムへ通われたようです。
さて今回のこの個所より、私は4つの点に注目したいと思うのです。その第一は、イエス様が愛された者が病気になったという点です。これは、裏返せばイエス様に愛されている者でも病気になるという現実があり、それに注目したいのです。
3節でマルタとマリヤは、イエス様に対して「あなたが愛しておられる者が病気です」と言って、ラザロが病気であることを伝えていますし、5節では、この福音書の著者であるヨハネが、イエス様は、マルタとマリヤとラザロの3人を愛しておられたことを書いています。しかし、そのイエス様の愛されていた者が病気になった。それも使いを出してイエス様に連絡しなければならないほど、危篤状態になっていると言う点です。
私は、この事実からイエス様に愛され、またイエス様を愛している者でも、死に至る病気になると言うことを教えられるのです。そしてこの事は、キリスト信仰者になれば病気にならないのではない。普通の人と同じように病気にはなる。この点は、当然過ぎるほどの現実でありますけれども、覚えておく必要があるのであります。
なぜなら、もう経験がおありかと思いますが、クリスチャンでも病気になるの?とか、信心が足りないから病気になるんじゃあないの?とか、何々教に入れば、直ぐに直るわよ、とかそう言われるからです。
今回の話で、よく注意しておきたいのは、ラザロはイエス様を愛し、イエス様もラザロを愛しておられた。愛し、愛されていたラザロが病気になったと言うことです。それも、命の危険がある病気であったのです。この事を通して、私たちは、死の病になる人は、イエス様に愛されていない。また、病気になるような人はイエス様を愛してもいない。そのように勝手に決め付けてはいけないことをまず確認しましょう。
そして、間違った人の言葉に動揺しないようにしたいものです。信仰、不信仰に関係なく、病気にはなると言うことです。私たちは、その人の目に見える信仰の度合いで判断してはならない。不信仰と言うラベルを貼ってはならない。病気は誰でもなりえるということをまず覚えましょう。
そして、第2に教えられたいことは、そういう病気になったとき、あなたはその苦しみを、悲しみを、どこに持って行くかという点であります。信仰者であるなら、まずイエス様に持っていくことが出来る。これは、クリスチャンならではの特権であると言えましょう。 マルタとマリヤの行動は、その良い見本であります。彼女達は、迷わずイエス様に持っていくことが出来ました。ためらわずに、イエス様に助けを求めました。これは、信仰者であるなら当然なことですが、
しかし、気をつけませんと、あちこち医者を探し回る。人に相談する。勝手に先の先を読んで、暗くなる、希望をなくするということは、信仰者でも大いにありえるのであります。まず、一番先にイエス様の元に行くことが出来るし、それをまた、イエス様は受け入れてくださるお方であります。
4節でイエス様は、ラザロの病気のことを、「これは死で終わるだけのものではなく・・」と言われ、すでに、ラザロは死の病にかかっていることを知っておられました。マルタとマリヤもそのことを察知してイエス様に助けを求めたことでしょう。
人生の荒波を生きるに当たって、私たちは、危険な時に、本当に助けていただけるところを知っている、あるいはそういう方と共にいるというのはなんと言う幸いでしょうか。今、ここにおられる方で、信仰者でない方は、将来において何かあった時、どこにそれをもって行かれるでしょうか。
イエス様という、しっかりとしたお方に頼れる人ほど素晴らしいことはありません。聖書の中には、医者に見せても直らなかった。何年も病気と一緒の生活をしなければならなかった人が出ています。そして、イエス様に癒されるのです。もし、病気になったら医者に行けばよいとお考えの方、その医者さえどうにもならないと言われたなら、どこに、いかれるのでしょうか。
マルタとマリヤは、まずイエス様に助けを求めました。キリスト信仰者にとって、まずイエス様の所に行くことが出来るのは、とても幸いなことです。まだ、そういう人生の相談、 大きな問題を持っていくところをお持ちでない方は、是非、イエス様のところに持っていけるように備えて欲しいものです。
私たちはいつかは死を迎えなければなりません。死は、この世との別れを意味します。 誰にも頼ることが出来なくなります。その時、主に助けを求めることの出来る人は、 なんという幸いでしょうか。
第三番目は、神様には、神様のご計画があるという点をしっかり自覚しておかなければならないという点です。私たちは病気になったとき、あるいは悩みの中にある時早く癒されたいと願います。悩みの中から早く解放されたいと願います。一分一秒でも、苦しみから早く解放されたいとそう願います。
しかし、神様には神様のご計画があるという点は見逃せません。6節をご覧になられるとお分かりでしょう。イエス様が愛されたラザロが病気になっている。それなのに、イエス様は直ぐには行かれませんでした。そのおられたところになお二日留まられたとあるのであります。
いつも、私たちは自分中心に考えやすいものであります。自分の定めた日にちや時間に、自分の考えている方法で、自分の考ええている通りにならないと、神様は、自分の願いに答えてくださったとは思わない。思えない。これが、私たちの陥りやすい過ちであります。
神様にはご計画があり、私たちはそのご計画の中で生かされています。私達が自分の計画を進めるために、神様がおられるのではありません。神様がおられ、その神様のご計画に、 罪人の私たちが参与させていただけるのであります。
ここを履き違えると、自分の思うように行かなくなりますと神様に対して不満が起って参ります。マルタとマリヤは、今日の時点ではまだ、イエス様のご計画はどうなのか、知らないでいます。後から教えられるということは、信仰者はよく経験します。それだけに、神様の前にはいつも謙遜に歩むことが求められるのです。
第4番目に教えられることは、イエス様は、3人とも愛されていたと言う点です。マルタもマリヤもラザロもであります。兄弟3人いれば、3人とも性格や、賜物、気性等みんな違います。マルタは、いろいろイエス様のもてなしに気が走りますし、マリヤは、座ってじっくりイエス様のお言葉を聞くほうですし、一方、ラザロについては性格については、一切書かれていませんが、何かの賜物があったでしょう。
というように、三人三様であります。長所も短所も持っているのが、私たち罪人であります。しかし、イエス様は、その弱さを持っているものでも、イエス様に真実な者を、イエス様は愛してくださるのであります。私たちは、他のキリスト者を見ながら、何か自分の持っている判断基準でキリスト者の評価を知らず知らずのうちにしているなら、これは大きな問題であります。
ある人は言います。「キリスト者であることの土台は常に一つであり、神の子らは、すべて悔い改めの経験をもち、信仰があり、きよく、祈り深く、御言葉を愛するものであることを十分承知しながらも、その気質や感じ方の方向にはかなり幅があることを受容すべきである。他の人たちが自分と同じでないからといって、過小評価してはならない。園にある草花はさまざまであるが、園の所有者は、すべてに関心を持っている。
一つの家庭の内にいる子供たちは互いに驚くほど異なっているが、両親は全員に気を配っている。キリスト教会においても同様である。信仰の程度や恵みの賜物の種類はさまざまであるが、最も小さく、か弱く、頼りない信仰であっても、全員が主イエスに愛されている。
だから、弱点があるからといって信仰者に気落ちさせないように、ことに兄弟姉妹を軽んじたり、見くびったりしないように心がけよう」まさに、イエス様が3人を愛されたように、私達もまた、それぞれがイエス様の愛の対象であることを自覚しつつ、接しようではありませんか。
さて、まとめに入りたいと思います。一つは、イエス様に愛されている人でも病気になると言う点でした。第2は、キリスト者は、病気とか問題に遭遇したとき、イエス様のところにもっていくことが出来る。そういう方を持っている、あるいは、いてくださるという点でした。第3は、神様にはご自分のご計画があるという点でした。そして最後の4番目は、イエス様は、真実な信仰者を愛してくださると言うことでした。
これから更に、マルタ、マリヤの信仰、そしてラザロにして下さる神様の業に目を向けていきたいと思います。たとい病気になっても神様に愛され、神様に助けを求め、神様のご計画の中で進められることに身をゆだねられることは、クリスチャンとして幸いであります。もっともっとイエス様に近づいた歩みをさせていただこうではありませんか。
蛇足になりますが、一つ、新聞の記事を紹介して終わることにします。4月25日JR宝塚線の事故に遭遇したある大学生の話です。その学生は、1両目の真中に乗っていて、怪我をしました。その5ヶ月前のクリスマスにバプテスマを受けてクリスチャンになったが、 しかし、周囲の目は、クリスチャンになったのに何故事故に遭うんだと言う目を感じたと言います。
彼は、それに対して自問自答したそうです。そして結論が、クリスチャンだから事故に遭わないということはない。その中にあって守られたことに意味があると確信しているとありました。また、大参事になっているのに、自分だけこんなんでいいのだろうか、なんで僕は軽傷で助かったんですか、と神様に問いつづけたそうです。
後日、怪我の診断で骨盤がずれて治癒まで後1ヶ月と言われ、身体の傷は重くなったけど、精神的な傷は小さくなったといいます。その学生は又、学校の聖書研究会の中で、何故神様は祈りを聞いてくださらないのだろうとつぶやきを聞くが、「自分の思い通りになる神ではなく、神の思い通りになる自分が在ると言う認識が、神の存在を知るということじゃあないか」と考えているとありました。(2005年8月7日クリスチャン新聞)
どこで、どうなるか分からない人生、人はいつ死ぬか分からない、このことを常に覚えつつ、いつも備えていたいものです。この世で言う死は最悪であります。しかし、キリスト者にとってはそれで終わりでは在りません。
神様の用意してくださっている素晴らしい世界があるのです。ならば、この世にあっても、信頼できるお方と共に歩む幸いをこれからも味わっていきたいものです。また、味わっていっていただきたいのです。
2005年11月20日(日) 「神の思い、人の思い」 ヨハネ11:7-16 竹口牧師
イエス様は、ヨハネ10章30節において「わたしと父とは一つです」と言われました。 それくらい御父と御子とは、その目的と意図において一つに結ばれ、素晴らしい関係にいつもありました。本来なら、罪人であった私たち人間も、神様によって救われた後は、神の御心を心とし、行ないもそうあるべきなのですが、残念なことにそうはならないのが現実であり、また、それゆえに人は悩みまた苦しみまた痛い目に遭うのであります。
今回見ます聖書個所は、イエス様の弟子となった者たちと、イエス様との間に、食い違いが見えるところであります。まず最初の食い違いは7−10節に見出されます。イエス様は言われました。「もう一度ユダヤに行こう。」しかし、弟子達には、その言葉の意味がよく分かりませんでした。
それは、つい先ほど、つまり、10章の終わり辺りの所に書かれていたのですが、ユダヤ人たちがイエス様の命を狙うので、イエス様は難を逃れて、かつてバプテスマのヨハネがバプテスマを授けていた所へと行かれたばかりであったからです。それなのに又イエス様はエルサレム近くに行こうと言われたのでした。
そこで弟子たちとしては、「たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」という思いに成り、聞いたわけでありました。先の見えない私たちにとって、めまぐるしく変わっていくこの世で、どうして、こんなことが起るのかと、疑問に思うことがあります。
これこそ、正しい選択だと思って行動しているのに、それがあたかも間違っていたかのように、元の状態に戻るように求められる。これは一体どういうことなんだと、私たちは考えさせられます。
私たちは決して、何をするにも思いつきで行なっているわけではなく、計画し、準備をして行動しています。少なくとも、社会で働いている人はみんなそうでしょう。その日の計画があり、それは、その前に準備されていたことである。しかし、突然にその企画が変更になったり、企画そのものがなくなったりしますと、予定を組んで実行しているものにとって愕然とするものであります。
とはいえ、会社の方針であれば、それも従わなくてはならないのです。聖書の言葉、箴言19:21に「人の心には多くの計画がある。しかし、主のはかりごとだけがなる」とありますが、私たちの計画とは、いろいろ考えて、練りに練って行動しているようでも、結局のところは、思うようにはならず、全ての計画は、主の手にあるのですから、私たちの思わぬ方向へと進むことも多々在るのであります。それもまた、御心なら私たちは喜んで従う必要があるでしょう。
今回の場合は、イエス様のいのちがかかっていたのですから、弟子達が心配しても不思議はありませんでした。しかし、イエス様に関する限り、その心配には及びません。むしろ、その危険に対してイエス様は前向きに考えられ、父の御心を行おうとされていたのでありました。
イエス様のこの世における時間と言うものは限られていました。弟子達は、それをどれだけ理解していたかは分かりません。イエス様が、ユダヤに行こうと言われれば、それが主のみ心なら喜んでお従いします、となるのです。
今、鈴木先生が講解しておられる創世記に出てきますヨセフと言う人、そのヨセフと共に主はおられたと何回も書かれておりますが、しかし、彼の身に起ったことと言いますと、 兄達には妬まれ、殺されそうになり、また奴隷としてエジプトに売られ、ありもしない濡れ衣を着せられ牢に入れられ、また、牢屋では、折角出られるかも知れないチャンスに恵まれながら、2年間放置されると言う苦難を経験します。
あるいは、エジプト脱出の時の指導者に選ばれたモーセ。彼は、イスラエルの民を40年間、主に導かれて指導しました。しかし、民たちの不信仰による苦難は数え切れませんでした。 主に従う者が特別、楽をするわけではありません。いやむしろ、主に従うもの故に、 普通の人が遭遇することとは違う苦難を経験することも在ります。
けれども、主に従う者は、神様からの苦難の目的や意図がその時わからなくても、主の道を歩むことにおいて、少しも迷いがあってはならないのです。なぜなら、今は分からないかも知れませんが、後に明白に主がして下さるからです。
分からない中にあっても、成すべき時間は限られているのです。ですから、全てのことを知っておられるイエス様は言われました。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」
イエス様が共にいてくださる。そのことを信じて、信仰と忍耐とを働かせる必要があるでしょう。イエス様は「昼間は12時間あるでしょう」と言われました。これは、イエス様のいわば、公的な残りの期間をさしています。
これから起きますラザロの甦りは、イエス様の最後の1週間より前の出来事ですから、それよりももっと残りの期間があったことが分かります。
いずれにしましても、活動できるときを昼といわれ、活動できないときを夜とイエス様は表現されました。私たちで言いますと、電気のおかげで昼夜働くことが出来ます。 ですから、そういう意味での昼夜はないわけです。
したがって、私たちにとって夜と言えば、死を指して言われているととってもよいでありましょう。生きている間にすべきことをしなければならないと言うことです。人生には、神の意図がわからない時があります。けれども、どんなときでも、主が共にいてくださることだけは、決して忘れてはならない点を私達は確認しておきましょう。
ここで、弟子達はイエス様のなさることが分かりませんでした。彼らは、素直に質問しております。そして答えを得ているのです。私たちにとって、同じようにすぐに答えが返ってくるとは限りません。しかし、神の沈黙にも意味があることは忘れてはなりません。沈黙の中にも神の言葉が秘められているからです。
ところで、話を元に戻しまして、イエス様は、危険な所にまた戻られる理由を11節で明らかにされています。それは、「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」というものでした。すると弟子たちはイエス様に言いました。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」と。
実は、先回のところで、マルタとマリヤが兄弟ラザロの病気の具合を心配して、イエス様の所に使いを出したこと。また、その使いがイエス様の所に来たこと見ました。そしてその事を弟子達は知っていましたので、今回の12節の言葉となったわけでありました。
つまり、彼は助かるでしょうと言って、命に危険のある状況ではないと理解したのでありましたが、実は、イエス様の言われた意味はそうではなかったわけであります。実に死を指して言われたのであります。
何故、イエス様が最初からそう言われなかったのか不思議です。でも、聖書には、色々なところで、死のことを「眠る」という言い方であらわされています。例えば、1コリント15:6には、「その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。」と言う風にです。
あるいは同じく1コリント15:17,18には、「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったらキリストにあって眠った者達は滅んでしまったのです。」
更にエペソ5:14には「明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。『眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。』」とです。
もう一つ、第2ペテロ3:4には、「次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』」というようにです。
眠った、眠った、眠った、とあるのであります。遺体を見ますときに、目を閉じている。動かない。でも先ほどまで、目が開き、言葉を交わし、話をしていたではないか。揺り動かして起こせば、起きるのではないかと錯覚するようなそんな感じがする場合があります。 まあ、ですから、死という言葉を使わないで、眠ったと言う表現をするのも一つの状態の表現の仕方かもしれません。それで、そういう言い方をされるのでしょう。
ところで、眠っていますという言葉に対する弟子達の誤解に対してイエス様は、はっきりと普通の眠りのことを指しているのではなく、死を指している、つまりラザロは死んだのです、と言われました。弟子たちはこれを聞いて、どう感じたでありましょうか。いいえ、それだけでなく、15節の言葉を聞いてもっと驚いたに違い在りません。
イエス様は、こういわれているのです。「わたしは、あなたがたのため、即ちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」と。
イエス様はここで、「ラザロは死んだのです」と言われ、更に、「わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。」とも言われるのです。弟子達は、「えっ!あのラザロが死んだのですか。ああ可愛そうに。でも、イエス様、あなたはそこに居合わせなかったことを喜んでいると言われる。それはどういうことですか?」と思わず問いたくなったと思うのです。
イエス様にはお考えがあり、ラザロが病んでいる事を聞かれても、なお二日留まられたところに、意味があったのですが、弟子たちは、その事を全く知っていませんでした。
師の心と弟子の心とが一体となって行動する。これが、理想のような気がします。しかしイエス様は今回あえて、ご自分のご計画を明らかにされません。イエス様と弟子達とは思いがばらばらのまま時が流れていくのです。これも、イエス様の弟子を教えるための方法の一つでもありました。
今私は、イエス様と弟子の思いの食い違いを二つあげました。一つは、危険になったので身を避けられたのに、又ユダヤに行こうとイエス様は言われる。これはどういうことかということでした。
もう一つは、イエス様はラザロが眠っていると言われて、それなら助かるでしょうと弟子が言ったら、否、死んだのだと言われる。これは一体どういうことだとなります。
そして三つ目の食い違いは、16節に在りますトマスの思いとイエス様の思いの違いであります。イエス様がユダヤに戻られることは、確かに危険でありました。しかし、イエス様の死の時はまだ来ていませんでした。
イエス様の心は、ラザロを生き返らすことによって、神の栄光を表そうと言う思いであったわけでした。しかし、トマスは、「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」 というものでした。
トマスの名前は、他のところでは、14:5に出てきますし、20:24−27に出てきます。特に後者のほうでは、イエス様の甦りがなかなか信じられず、懐疑的であったことが出ています。
そのトマスがここでは、「主といっしょに死のうではないか。」とまで言うのであります。ここには、恐れの裏返しの思いが表れていると言えましょう。死に対する恐れを感じながら、強さを出してみせる。イエス様が甦られたときの信じられなかった彼の態度は、それを物語っていると思います。
しかし、そんな彼でありますが、物の本によりますと、後に彼は、インドに最初に福音を伝えた使徒となり、つまり指導者となり、他の誰よりもはるか東方まで進んでいったそうであります。ユダヤに向かう。これは即ち、死をも覚悟するということ。トマスは、この時点では弟子達に死をも覚悟して呼びかけたのでした。
弟子たちはこうしてユダヤに向かうのでありますが、この弟子達の思いと、イエス様の思いとの違いはこれからも続きます。しかし、違っていても、そばにイエス様がおられたところに、彼らに救いがあったといえましょう。そして、それは現代に生きる私たちにも言えるのではないでしょうか。
主の御心を心して歩もうと一生懸命務める。しかし、なしていることはどうもうまくいかない。それでも、主は、その事を通して神の御心を行なわれ、神の意図を後から教えてくださるのです。ありがちですが、主に従おうとする思いと、実際の行なっていることの違い、そのギャップに悩むときに、また、そんな状況であっても主は暖かく、恵みによってその不完全な私たちを覆ってくださる。主の御前出たときに、弁護して下さることに感謝を私は覚えるのです。それは決して、真面目で熱心であればなんでも赦されることを指しているわけではありませんが。
私は自分の信仰生活を省みて、どれほど主のみ心を知っているのだろうか。また行なっているだろうかと考えさせられ、もっともっと主の思いを知らなくてはいけない。自分の思いではなく、主の思いを行うものでありたいと願うのです。
と同時に私の思いが、行いが、自分の救いに直結することなく、主の恵みによって救われていることを神様に感謝するのです。イエス様とこの世の人生の旅、それは決して私と父とは一つですとは言いがたい歩み。そんなちぐはぐの中にも主の憐れみがあることを私は心から感謝して歩ませていただいているのです。みなさんもそうではないでしょうか。
欠けたる器を上手に使ってくださるのが主です。主の御心を正しく知って完全に行う者でありたいと神様に願いつつ、これからも信仰生活を精一杯続けさせていただこうではありませんか。
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