2005年12月4日(日) 「あなたが救い主です」 ヨハネ11:17-29 竹口牧師
ベタニヤという村に、マルタとマリヤの姉妹、それにラザロという兄弟の3人がいました。イエス様は、この3人をとても愛しておられました。しかし、ラザロは死の病におかされ危篤状態となりました。そこで、マルタとマリヤは急いでイエス様の所に使いを出し、現状を伝えたのでありました。そして、ほどなくしてラザロは死んでしまいました。
イエス様は、ラザロを愛しておられましたが、ラザロの状況を聞いても、その為の行動は直ぐにはされませんでした。むしろ、6節にありましたように、そのおられた所になお二日留まられたのでした。イエス様のおられた所からベタニヤまで歩くと一日かかる、そんな距離の所にイエス様はおられたわけでありましたから、ベタニヤに行こうと行動を起こされても、直ぐには到着できない事態でした。
恐らくマルタとマリヤは、イエス様に使いを送った当初は、今か今かとイエス様の来て下さるのを待っていたのではないか、そのように私は思うのであります。そんな中にあって、今日の聖書の出だし17節は、「それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた」となっていまして、ラザロは、使いが出されて間もなく亡くなり、イエス様が二日留まられ、一日かけてベタニヤに来られ、ラザロの墓の所に来られた時は、計算してみますと、4日も経ったことになります。
今日のようにドライアイスと言うようなものは当時は当然ながら在りませんので、ラザロの遺体の腐敗も早かったのではないかと思うのであります。18節にありますように、ベタニヤは、エルサレム近くにあり、3キロほど離れた所、イエス様にとっては、危険が直ぐそこまで迫っていたのでありました。
ところで、ラザロの死を悼んで、大勢のユダヤ人がマルタとマリヤのいる所に、集まってきておりました。マルタはイエス様が来て下さったと聞いて、すぐさまお迎えに行くのであります。
一方、マリヤはどうかと言いますと、家で座っていたとあり、悲しみのあまり動けなかったのでしょうか。それとも、ルカの福音書10章の最後のほうにあります記事のように、マルタは積極的にもてなしをなし、マリヤは、座ってイエス様のお言葉を聞くという、性格の違いからだったのでしょうか。イエス様が来て下さったという事の知らせに、これまた、二人の行動は大きく二手に分かれるのであります。もっとも、これは私の読み込み過ぎでしょうか。
28,29節を見ますと、マルタに教えてもらって初めてマリヤがすぐに立ち上がっているのであります。まさ、それはともかく、マルタは素早く、とにかく直ぐにでもイエス様にお会いし、実情をお話しなくてはと出かけて行きます。そして彼女はイエス様に言いました。
「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」この言葉は、イエス様に対する非難と取るかどうかは、解釈の分かれるところであります。ある人は、これは読む人の心がそこに反映されるのではないかと思う、そのように言われます。皆さんは、マルタのこの言葉をどのように捉えられるでしょうか。
イエス様に対する非難めいた言葉でしょうか、それとも、本当にそう思って、真実を言っただけなのでしょうか。これからマルタの言葉を読み進んで行きます時に、愛する者の死が、彼女の信仰にどう影響しているか、
と言いますか、混乱しているかが見えてくるように私には思えます。そして、私たちの信仰のあり方はどうであるべきか、その事を真剣に考えさせられるのであります。
まず、一つの点は、21節と22節の矛盾とも思える言葉です。彼女は21節で「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」と言っています。その一方で、22節では「今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」と言っていることです。
少し変だとは思われないでしょうか。イエス様が神様にお求めになられれば何でも、神様はイエス様の願いを聞いてくださり、お与えになる。でも、あなたがいてくださらなかったために、私の愛するラザロは死んでしまいました。今更どうすることもなりません。」そのように、私には読めてくるのであります。
神様は全能のお方であると頭では信仰者は知っています。しかし、その全能である方に対して、私たちは、自分で勝手な枠をつけてしまうのではないでしょうか。神様は全能のお方であると本当に信じているのなら、どんなことがあっても、最後まであきらめてはいけない。希望を捨ててはいけない。忍耐しなければいけない。そうではないでしょうか。
でも、実際は、頭では神様は全知全能成るお方である。しかし、今回のこの場合は例外である。この場合は、神様にはおできにならないと言う失望感、そういうものが、先に走っていないだろうかと思うのです。そしてそれは、信仰と生活とが分離した状態だとも言えるでしょう。それはまた、間違っている姿であるともいえます。信仰と生活とは密接に関わりあっていなければならないのです。
でも、ここで考えて見なくてはなりません。長くもあり、短くもある人生の中で、全てが悲しみの連続というわけではありません。大きな悲しみといえるものは、そう多くはないのです。しかし、その多くはない、数えるほどの中でも、自分の親、兄弟、夫、妻あるいは子供の死は、最も耐えがたい悲しみの一つでありましょう。それを、マルタは今、体験中なのです。
彼女がどれだけ冷静でいられたかは分かりません。そんな中で、イエス様は彼女に言われるのです。「あなたの兄弟はよみがえります。」と。そして、その甦りの事実に対して、彼女は自分の知っている知識で言葉を返します。
「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」と。そうです。マルタは知っていたのです。甦りが実際にあることを。しかし、それは今、実際にではなく世の終わりの日にある、とそのように信じているのです。
それは確かにそうです。それも真理の一つであります。でも、イエス様がお求めになるものは何でも神様がお与えになると言う信仰はどこに行ったのでしょうか。恐らく彼女は、イエス様のこれまでの数々の奇跡を見てきたし、また、聞いてきていたはずであります。それゆえに22節の告白となったはずであります。
しかし、甦りについては、世の終わりのことであり、今、実際のこととは思えないところに、まだイエス様に対する思いが浅かったように私には思えます。確かに死んでしまった人が生き返るということは、彼女は目にしていません。
歩けない人が歩けるようにされたとか、見えない人が見えるようにされたとか、長患いしていた人が癒されたとか、みんな生きている人たちに対してイエス様は業をされました。死んでしまったものには、今までに例がありませんでした。
ですから、そこまで希望を持つことは無理であったのかもしれません。とはいえ、神様には何でも出来ると信じているのなら、もしかしたら、死んだ人をも生き返らせることができるという信仰を持っても、それは全能の神様の力を信じるが故に無謀とはあながちいえないのではないかと、今の私には思えます。
考えてみますと、アブラハムが自分のたった一人の世継ぎを神様に献げよと命じられたとき、アブラハムは、神は人を死者の中から甦らせる事も出来ると考えたとヘブル人への手紙(11:19)にはありますので、そう考えてもよかったはずでありました。
ですから、キリスト信仰とは、起こりもしないことをさも起こるかのごとく思い込むことではありませんし、現実からの逃避でも在りません。全能の神様がここで働いてくださるなら、本当に何でも起きるのです。その生きて働かれる神様を私たちは信じていますし、マルタもそうあるべきでありました。
ですから、私たちはそのことを、今回のような聖書箇所より繰り返し繰り返し確認する必要があるように思います。といいますか、こうして礼拝に来て、同じ信仰者同士、神様のみ前に礼拝をお献げしながら、そのことでも確認しあっているのではないでしょうか。
イエス様は、25,26節でこう言われています。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」これは、死んだラザロに言われているのではありません。現に生きているマルタに言われているのです。改めて信仰の問いかけを主はされているのです。
今、マルタに求められているのは、世の終わりに神様が信仰者にしてくださる希望だけでなく、今、現実に生きている時にも神様は働いて下さっていると信じることなのです。イエス様は今までにご自分のことをわたしは命のパンです。(6:48)とか、わたしは羊の門です。(10:7)とかわたしは良い牧者です。(10:11)などと言われました。
そして今日のところでは「わたしは甦りです。いのちです」と言われているのです。甦るに当たっては、死ぬことが必要です。そして、それをイエス様はこれから実際になされるわけであります。マルタはそれを今は目にしていませんが、イエス様ご自身が、甦りだと言われ、また命だと言われる時、それを信じることを求められるのであります。
私たちはいろんなことで試みに合うとき、良い方向にはなかなか目が向きません。否、むしろ悪いほうに悪いほうに考えが行ってしまいがちであります。それは、決して全能の神様を信じていることから出ているとは言いがたいものです。
世の中には、大変悲観的な方がおられるかと思えば、とても楽天的な方がおられます。私は根拠のない楽天的な考えは慎むべきであると思いますが、あまりにも悲観的になるのも、信仰者としてはあるべき姿ではないとそのように思います。
イエス様は26節でこういわれています。「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」イエス様を信じる者は死んでも生きるということが信じられない。さらには、生きていて信じる者は、決して死ぬことがありません、というのはもっと信じられない、普通一般の人でしたら思うでしょう。
しかし、イエス様はマルタに対して「この事を信じますか」と迫られるのです。もし、皆さんがマルタであったなら、どう答えられるでしょうか。自分の愛する兄弟ラザロが死んでしまった。イエス様にラザロが病気であることを伝えたのに、イエス様が来て下さるのが間に合わなかった。それにラザロは死んでもう4日も経つ。そういう状況の中で、あなたは私を信じるのかと迫られるのです。
答えは明確であります。二つに一つであります。信じるのか、信じないのか。最悪の事態の中で、信じられませんというのも一つの選択肢です。しかしまた、イエス様にかけて信じますと言うのもあるのです。
多くの人が信仰に入られるきっかけは、もう、にっちもさっちも行かなくなった。後は神様に頼るか、自滅するかどちらかであると言うようなときに、もしかしたら、神様が何とかしてくださるのではないかと言う一途の望みをかけて神様に頼るというのが多いのではないかと思います。
神様は、そういうご利益的な信仰でもある時は応えてくださいます。それは、その人が普段から良い心がけであるとか、親切であるとか、働きが良いからとかそういうことではなく、私たちには分からない神様ご自身の判断によって決められ、かなえてくださることがあります。その場合、神様の側から言いますと、その事を機会に、真の神様に立ち返ってほしいと言うのが、神様の思いでしょう。神様はご自分の主権をお持ちになられながら、その中で、強制的にということをなさらず、自分から進んで立ち返ることを求めておられるからです。
ところで、マルタはどうしたでしょうか。彼女は言っています。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」彼女は、イエス様をメシヤ、即ちキリストであると告白するのです。これは実に素晴らしい告白であります。
それは、イエス様との会話の中で誘導されての告白ではなく、イエス様との会話の中で導かれての告白でありました。この告白はまた、この朝、皆さんにも神様は求めておられる、そのように私は思います。
単なる知識としてではなく、生きて働かれるイエス様が、今、ここにおられて、お一人お一人に語りかけておられるのです。「この事を信じますか」とであります。信仰には段階があると私は思います。
まずは、事実をありのまま受け入れる段階。そして、その次が、事実が実際に体験として与えられ、確信へと導かれる。そして更には、更に深い信仰へと進ませてくださるために、あるいは更に試練を与えられることもありましょう。
実は、今回のマルタの信仰告白は、まだ十分ではなかったことが後で分かります。しかし、現時点での彼女の告白はそれで十分なのです。実際にラザロを生き返らせてくださって、更に信仰の深みへとイエス様は勧めて下るのです。そういう意味で、信仰のどの段階でも、主はお喜びになられます。あなたは、どの段階の信仰を歩んでおられるでしょうか。
神様のお言葉に、全幅の信頼を置いて、迷うことなくお従いすることが、あなたの人生が最高であり、神様の祝福に満ちたものとなるといえましょう。どん底の信仰でも、主が引き上げてくださいます。イエス様の招きにお従いしようではありませんか。あなたこそ私の唯一の救い主ですと信じ、告白し続けたいものです。
2005年12月11日(日) 「涙を受け止める方」 ヨハネ11:30-37 竹口牧師
この世の人を、悲観主義者と楽観主義者との二組に分けるとするなら、私たちクリスチャンは、楽観主義者だといえるかもしれません。なぜなら、全く望みのないところにも望みをおくことが出来ますし、実際においているからです。
しかし、神様のなさることが分からない時、私たちクリスチャンであっても心は動揺したり、失望したりします。
だがしかし、それは信仰の表面的なものであって、神様によって真理に触れさせていただいた者は、嘆き、悲しみ、動揺、失望はやがて喜びへと変えられるのであります。この朝は、その喜びへと変えられる前の出来事を見ることにします。
先回のことを少し振り返っておきますが、マルタとマリヤとラザロの3人兄弟の中で、ラザロが死んでしまった、その失意の中にいるマルタとマリヤ、そのうちのマルタの信仰を先回みました。
今日はマリヤの行動とそれに対するイエス様の行動に目を向けます。イエス様は、ご自分の愛するラザロが病気であることを、ヨルダン川の向こう側にいて聞かれました。マリヤのいる所まで、距離にして1日の道のりでありますから、聞いてすぐに向かっても、それくらい時間がかかるのでありますが、
しかし、マルタとマリヤの伝言にイエス様はすぐには行動されませんでした。理由は「神の子がそれによって栄光を受けるためです」と言われ、つまり、ラザロの死を通してイエス様は、父なる神様の栄光を表そうとしておられたからでした。しかしそばにいる弟子達はその神様の栄光とは何かを知りませんでしたし、勿論、マルタとマリヤも知らなかったわけでありました。
イエス様が、ラザロの葬られている墓に到着されるのが、ラザロが死んで4日も経つことになりますので、それを日にちを辿っていきますと、こういうことになるでしょうか。マルタとマリヤの使いがイエス様の所に来るのに1日を要し、それを聞かれたイエス様は、そこになお二日留まられ、それから彼女達がいるベタニヤに向かわれて到着するのに1日、次回見ます39節を見ますと、死んで四日になるとありますので、どうもラザロは、マリヤたちが使いを出して間もなく、死んだように思われます。
ところで、そのマリヤたちのいた所は、ベタニヤであり、そのベタニヤは、18節を見ますと、エルサレム近くで、3キロメートルほど離れた所にあったと先回見ました。イエス様にとっては、そのエルサレムは、危険極まりない勢力があることを知っておられましたが、マルタとマリヤの願いに応えようとやって来られたのでありました。
ところで、マルタとマリヤの家にはすでに大勢のユダヤ人が集まっておりました。それは、彼女達を慰めるためであったと思われます。恐らく、マルタ、マリヤ、ラザロは、周りの人達にとても愛されていたであろうことは、その集まっている人達によっても想像できます。
さて、イエス様が、ベタニヤに到着されたとき、真っ先に飛び出したのがマルタでありました。そして、イエス様と話した後、今度は身を翻してマリヤのところへ彼女は行くのであります。
私は、この二人の関係を今こうしてみながら感じますのは、同じ父母を持つ姉妹でありながら、兄弟といっても、どうしてこうも違うのだろうかと、自分の兄弟と重ね合わせて思うわけであります。一人一人、育った環境、時代性、兄弟が多くなればなるほど、親の子に対する接し方は、同じようにしているつもりでも、違って受け取られますし、また実際に聖書の中にある他の兄弟の例を見ても違っているのであります。
が、それにしましても、マルタとマリヤの性格の違いの大きさをここに見る気がします。マルタはイエス様が来られたと聞くや否や、飛び出しています。そしてイエス様と話をし、その後にマリヤにも知らせるのであります。
先回もちょっと触れたのですが、イエス様がベタニヤに来られたことをマルタとマリヤが同時に聞いていたのかどうか分かりません。もし聞いていたとするなら、マリヤは悲しみのあまり、家の中で座り込んでいたことになりますし、マルタだけに最初に伝えられたのであったなら、マルタはマリヤのことを気にせずに、自分だけ飛んで行ったことになります。
その辺のところはよく分かりませんが、今回見る箇所は、マルタとイエス様の話が終わるとマルタはマリヤにイエス様のことを知らせ、マリヤは行動を始めます。
今日の箇所の30節の所を見ますと、「さて、イエスは、まだ村に入らないで、マルタが出迎えた場所におられた」とありまして、マリヤが出てくるのをイエス様は待っておられたようでもあります。
一方、マリヤと共に家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人達は、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に行くのだろうと思い、彼女について行きます。その当時、不幸がその家にあったとき、専門に泣く人を雇って、亡くなった人の悲しみを悲しむ習慣があったそうですので、あるいは、そういう人たちも、その中にはいたのかもしれません。
とにかく、人々の移動が一斉に始まるのであります。32節を見ますと、イエス様のおられる所に来て、マリヤがイエス様にお会いしますと、彼女は足元にひれ伏し、こう言うのであります。
「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と。そして、この言葉はお分かりのように、21節のマルタの言葉と全く同じなのであります。これまた、私には不思議に聞こえるのです。
もっと、別の言い方は無かったのか。「イエス様、遅いじゃあありませんか。私たちは、ラザロが死なないうちにと思って、すぐに使いを出したのですよ。もう少し早く来てくだされば、そして、手を置いてくだされば、こんなことにはならなかったでしょうに」とか何とか言えた筈です。
しかし、実際はマルタと全く同じでありました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」でした。イエス様がそばにいてくださることだけが、彼女にとっては頼りだったんでしょうね。そして、イエス様の力に期待していた。憐れみにより頼んでいたといえましょう。
しかしながら、現実は厳しいものです。残念ながらイエス様は間に合わなかった。ラザロは死んでしまった。もうどうにもならないという思いが彼女の言葉から伝わってくるのではないでしょうか。
しかし、ここで私が強く教えられますことは、彼女の信仰の状況はともかく、彼女の置かれている状況が如何に素晴らしいものであるか、気付かされるのであります。マリヤの悲しんでいる状況のどこが素晴らしいのかと、
恐らく皆さんは思われるでしょうが、それは、こういう理由からであります。つまり、彼女の心底、悲しみを受け止めてくれる方が、彼女にはあったという事なのです。わがままでもなんでもいい。そのまま聞いてくれる方が彼女にはあったということです。
皆さん、よく考えてみていただきたいのです。元気だった兄弟が、突然亡くなった。自分も愛していたし、イエス様も愛してくださっていた。イエス様にすぐに伝えたけれども、間に合わなかった。そういう悲しみを背負いながらも、しかし、それでも、彼女は自分の感情のありのままを、人々の前で何の恥ずかしげもなく、明らかにすることが出来たのです。
人々の前で自分の弱さを出すのは恥ずかしいとお思いの方は、では、そういう方があなたにもご自分のすぐそばにおられますか。それをお聞きしたいのです。心がうきうきしている時は、その理由を聞いてくれる人がいなくても大丈夫でしょう。しかし、心が沈んでいる、落ち込んでいる。否、それどころか、悲しみ、苦しみ、寂しさの真っ只中にある時、その気持ちを何の遠慮もなく話すことが出来る、あるいはいて下さる、これはとても素晴らしいことだと私は思います。みなさんには、そういう方がおられますか。
マリヤにとっては、それがイエス様だったのです。イエス様の話を真剣に聞く。また、自分の気持ちをイエス様に聞いていただく。いいえ、話さなくてもイエス様は、心のうちを全てご存知なのです。
でも、あえて、イエス様に話すときに、イエス様は黙って聞いてくださる。それが、たとえ不信仰な言葉であってもであります。何と言う、素晴らしいイエス様との関係でしょうか。
私の好きな賛美歌の一つに、先ほど歌いました312番の「いつくしみ深き、友なるイエスは」があります。1番の歌詞はこうでています。
「慈しみ深き、友なるイエスは、罪、とが、憂いを取り去りたもう。 心の嘆きを、包まず述べて、などかはおろさぬ、負える重荷を」です。
最後の部分は、なぜ降ろさぬか、負っているあなたの重荷をとでもいいましょうか。キリスト信仰者なら、まずイエス様に全てをお話しべきでありますし、いつでもそういう関係であってほしいし、また、信仰者でなければ、何でも聞いてくださるお方、イエス様を友といえる関係になって欲しいのです。
イエス様は神様ですから、それがわかった人には、自分のほうから友になって下さいとは言いにくいかもしれません。でも、イエス様は十字架を間近にして、弟子達に向かって「わたしはあなたがたを友と呼びました」(ヨハネ15:15)と言われているのです。
それくらい親しい関係に弟子達はなっていました。そして、今も、イエス様を救い主と認める者に対しては、喜んで友との関係を持ってくださるお方なのであります。マリヤは、そういう意味で素晴らしいと私は思うのです。
まだイエス様とそういう関係にない人はすぐにでもなって頂きたいのです。これはイエス様が今後、あなたに対して最善に導いてくださるお方であると言う信仰があれば単なる独り言に終わることはないのです。
ですから、悲しみの中にあるますマリヤでありますけれども、イエス様に出会えたマリヤは素晴らしいと私は思うのです。あるがままを受け止めてくださるお方を自分が持っている、あるいは、いてくださると言うのは、素晴らしく幸いなことではないでしょうか。これが、この朝覚えたいまず一つの点です。
もう一つの点を33節以下から見たいと思いますが、まず33節を見ますと、マリヤが泣き、そばにいたユダヤ人達も泣き、一見すれば、それは、どこの葬儀場でもありえる状況であります。
もっとも、ここではもうすでに、葬りは終わっておりまして、喪に服する期間、1週間くらい続くのだそうですが、そういう悲しみの中にある人達を見て、イエス様は、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じられたと言うことです。これが二つ目の点です。
神の御子であるイエス様が、人となってこの世に来てくださいました。全知全能のお方である方が、憤りを覚え、動揺を感じ、35節では、涙さえ流しておられるのです。不思議ではありませんか。次回見るのですが、イエス様は、ラザロを生き返らされるのです。そして、そのためにわざわざ二日もヨルダン川の向こう側に留まられたのでした。
そのイエス様が、霊の憤りを覚えられ、心の動揺を感じ、涙を流されたのです。パウロはローマ人への手紙12章15節で言っています。「喜ぶものと一緒に喜び、泣く者と一緒に泣きなさい」と。
実は、イエス様は、私たちの思いを知って、悲しみを共有し、深く憐れんでくださったのだと思うのです。人は、神に罪を犯したことによって、この世に死が入りました。イエス様は、この罪の世界を悲しみ、また憤りを感じられたことでしょう。
勿論、マルタもマリヤも同じ事を言い、人々も悲しむ中で、彼らの不信仰を嘆かれたという部分もあったかも知れません。しかし、それ以上に主は、悲しむ者と一緒に悲しむという、同じ次元に立ってくださって、私たちの思いを知ってくださる方であることを、私たち信仰者は決して忘れてはならないでしょう。
ヘブル人への手紙4章15,16節にこうあります。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」とであります。
神様のご計画の中で、私たちは私たちにとって好ましくないことに遭遇いたします。しかし、主はその全てを知っていてくださるのです。神様でありますので、経験の必要がないのに経験して下さったのです。なんというありがたいことでしょうか。
私たちは、一人で苦しんでいるのではないのです。一人で悲しんでいるのではないのです。主も一緒に伴なっていてくださるのであります。と言いますか、全てを背負ってくださるのであります。
ユダヤ人達は言っています。36節「御覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか」と。人々は、ラザロに対するイエス様の愛を、普段から感じ取っていたのです。皆さんも、その一人ではありませんか。愛されている者の一人なのです。
なぜ、そう言えるかと言いますと、神様を愛する者を神様はほおっては置かれないからです。あるいは、ユダヤ人の別の人はこうも言っています。「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」これは、何を意味するのでしょうか。
一つは、イエス様に対する失望に受け取られます。しかし、これもまた裏返せば、イエス様には、人には出来ないことがおできになると言う期待、そして、今まで行なって来られた事からして、少なからぬ希望をもっていたといえるでしょう。
そして、人は今起っている現象だけで判断し、喜んだり、悲しんだり、失望したり、沈んだりするのです。信仰は、本来、目に見えるものによらないものです。しかし、私たち信仰は、ともすれば見えることに大変左右されます。それは、本当の信仰ではないからです。
パウロはローマ人への手紙10章11節でこう言っています。「聖書はこう言っています。 『彼に信頼する者は、失望させられることがない』」と。私たちはイエス様に対してどれだけ信頼感があるのでしょうか。どれだけイエス様を信頼してお話しているのでしょうか。
イエス様は聞いてくださいます。イエス様は、受け止めてくださいます。これからしようとしていることを全て知ってであります。私たちには神様のご計画がよく見えない。分からない。そういうことがあります。だから、あせったり、躓いたり、不安になったり悲しんだりといろいろします。でも、実は神様はとっておきの素晴らしい計画を、皆さん一人ひとりに持っておられるのであります。
この話での具体的な例は、マルタやマリヤは、勿論、次回見ますラザロの甦りでしょう。同じように、神様には神様のご計画があって、私たちは、その中で生かされているのです。
そして、素晴らしいものを神様は私たち一人一人に用意して下さっていることを信じて、また期待して、救い主イエス様にお従いしていこうではありませんか。不信仰ゆえに涙に暮れる時も、主はしっかりとあなたの涙を受け止めていてくださるのは、なんという幸いでしょうか。
|