2006年3月5日(日) 「死を目前にして」 ヨハネ12:27-33 竹口牧師
イエス様は、過ぎ越しの祭りの六日前にベタニヤに来られました。そこでは、マリヤが高価なナルドの香油をイエス様に塗って差し上げましたので、それを見ていたユダは言いました。「なぜ、この香油を300デナリに売って、貧しい人に施さなかったのか」とでありました。
しかしながら、イエス様は、ご自分の「葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです」と言われて、マリヤの行為を正しく受け止めてくださいました。またイエス様は、ご自分がもう間もなく捕らえられ、殺される事を知っておられましたので、エルサレムに入城された時、
「一粒の麦がもし、地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」と言われ、ご自分の死のことを自分の周りにいる者に示されました。
イエス様がこの地上に来られたのは、まさに人々の罪の身代わりとなって死ぬためでしたので、イエス様にとってそれが、だんだん近づいて来るという事は、それを果たす為の使命に燃えると共に、大変辛いことでもありました。
ところで、ヨハネは、マタイが書き記しましたような、イエス様が捕らえられる晩の事、つまり、ゲッセマネの園での祈りを書いていませんが、それに対応するようなことを今日の聖書箇所には書いています。
例えば、今日の所では「今、わたしの心は騒いでいる」とありますが、ゲツセマネの園での祈りは(マタイ26:38)、マタイは、「わたしは悲しみの余り死ぬほどです」と書いていますし、今日の所では「父よ。この時からわたしをお救いください」ですが、
ゲッセマネの園での祈りは(マタイ26:39)、マタイは、「わが父よ。出来ますならば、この杯を私から過ぎ去らせてください」と書いています。
また今日の所では、「このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現してください」であり、ゲッセマネの園での祈りは(マタイ26:42)、マタイは、「どうしても飲まずには済まされる杯でしたら、どうぞみこころの通りをなさってください」であります。
このことから分かりますように、ゲッセマネの園で祈られた祈りは、十字架を見つめての祈りでありました。十字架上の死がどれだけ恐ろしいものであるかをイエス様はご存知であり、また実際に苦しみ通されたのでした。
それは、肉体上の苦しみ以上に、死ぬ為に天から下ってきたこと、人類の罪を背負い、その刑罰がどんなに恐ろしいものであるかをご存知であったからでありました。それだけに、現在の私達救われている者は、そのイエス様の身代わりの業を決して忘れてはならないと言えます。
どれだけ大きな犠牲を払ってくださり、神の子供となる特権を私たちに与えてくださったか、その事を覚えながら、今日のところを見たいと思うのであります。
私たちは、自分がこの世に誕生した時、どういう状況であったのか、まだ多く見積もっても100年も経っていないのですが、それでも自分の生まれた当時の事は聞きませんと分かりません。又聞いても、世界的に言えば、そんなに大きなことではありません。
とはいえ、親は大変喜んだでありましょうし、また親戚の人も近所の人たちも喜んでくれたに違いありません。しかし、その生まれたばかりの私たちが大きくなって何になるかは、誰も知りませんし、本人も分からなかったのでした。
いろいろなことを学び、人々とのつながりの中で、職業に就き、働くものとなり、やがて年を重ね、引退していくというのが通例であります。
しかし、イエス様の場合は違っておりました。イエス様の誕生は預言されていましたし、また最後には、人々の罪を背負い、十字架にかかって死ぬと言う、いわば、普通の人が辿る道とは大きく違っていました。死ぬために生まれてきたお方でありました。
誰でも生まれてきた以上、死ぬことは避けられませんが、しかしイエス様の場合、死ぬ為にこの世に生まれて来られたのでした。そのことをイエス様ご自身よくご存知であり、ご自分から受難に遭われる事を弟子達に幾度となく明らかにされました。
しかしながら弟子達はそれを十分には理解していなかったのです。その当時の人たちは、旧約聖書から、メシヤが来て、武力によって政治的独立を勝ち取る者だと信じ、また、それを期待していたのでした。ですからイエス様に対して、それを望んでいました。
ところが、イエス様はその期待通りには行動されませんでしたので、多くの人々はやがて失望することになるのであります。
一方イエス様ご自身、ご自分がこの世に来た使命をご存知でしたので、それを明らかにされると共に、神様の御心に沿ってそのように行動されるのでありました。イエス様は、今日のところの最初の27節でまずこう言われています。
「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。」と。イエス様は、はっきりと十字架の死を意識され、今日までに至ったことを述べられるのであります。
しかし、この時のイエス様の思いを知る人はいませんでした。弟子達でさえ、正しくは知っていなかったのであります。幾度と無く、イエス様が死のことを語って来られてもでありました。
私達信仰者もまた、イエス様の死の苦しみを後で知ったのでした。否、聖書を通して神様が私たちに知らせて下さったのでした。イエス様が受けなければならなかった苦しみの杯は、私たちの罪のためであったということであります。
イエス様は、私たちの罪を背負い、私たちが受けるべき罰を身代わりに受けてくださるために、あえて、神の子でありながら、いけにえとなるべく、この時、その道を歩んでくださっていたのでありました。
イエス様は言われました。「父よ。御名の栄光をあらわしてください」と。そして、そのとき、天から声がしたのでありました。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」と。
この父なる神様のお言葉を理解するのは、少々難しいところであります。それはいつ、どのようにして栄光を表されたのかが分からないからです。ですからこの父なる神様のお言葉をどう捉えるか、考え方が二つあります。
その一つは、イエス様の受肉、奇跡、話された言葉、行われた業すべてによって栄光を表した。そしてこれからまた、人類のために受けられる苦しみ、死、復活、そして最後には昇天されることによって再び栄光を表すと言うものであります。
もう一つの解釈は、天地創造の初めから、歴史の全過程において、神が取り扱っておられることに関して語られたものであり、つまり、あらゆる時代に、それは洪水以前の時代、族長時代、モーセの時代、律法の下における時代、士師時代、王制時代に、わたしの名の栄光を現してきた。しかし、わたしはこの時代の終わりに、すべての予型とひな型を完成し、人類の贖いの業を成し遂げることによってもう一度わたしの名の栄光を現そう。」という解釈であります。
まあ簡単に言いますと、イエス様がこの地上に来てくださった時からと、もっと時代をさかのぼって、世界の初めからの事をも含めて考えるかどうかであるといえましょう。どちらとも言いがたいのですが、しいて言えば後者でしょうか。
いずれにせよ、神様が語られたにもかかわらず、それを聞いた群集には、雷の鳴った音としか聞こえなかった者と、御使いが話したのだと言う者とに分かれたと言うことであります。神様が語られても聞く側によって音としてしか聞こえないというのは、不思議なものです。
ところで、イエス様にはこれまでに天から二度声がありました。一度は、イエス様がバプテスマを受けられた時でありました。しかし、この時は、人々がどう反応したかは書かれていませんので分かりません(マタイ3:17、マルコ1:11)。
二度目は、ペテロとヤコブとヨハネがイエス様と山に登られた時、雲の中から神様が語りかけられ、弟子の3人は大変怖がったという出来事がありました(マタイ17章)。 弟子たちは、声を聞いてひれ伏し、非常に怖がったとあります。
何故怖がったのか。そこには神の威厳が満ち溢れていたのでしょう。イエス様がその時、「今見た幻を誰にも話してはならない。」と言われて、まだ時が来ていない故に口止めされたのでした。
一方、翻って、今回の場合、30節でイエス様はこう言われています。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。」とであります。 イエス様がバプテスマを受けられた時は、イエス様に聞こえればよかったわけでありますが、今回はそうではありませんでした。私のためにではなく、あなたがたのためにです、とイエス様は言われました。
それなのに、ある人には雷の音としてしか聞こえず、またある人には、御使いの声として受け取られたのであります。これだけでもうすでにはっきりと、神の選びがあるのを私は見ます。
現在の私たちにとっては、聖書と言うみ言葉を目にしながら、ある人には神の言葉として読み取ることが出来、またある人には、ただの書物としてしか見られない。ここには、神様の不思議な選びがあるように私には思えてならないのですが。 もっとも、後に変えられる人もおられますので、一方的に言い切ることは無謀であることは言うまでもありません。
少なくとも言える事は、聖書を読んで、神様のお言葉と聞き取れる人は何という幸いだろうかということです。しかしまた、更にその中から、神様のお言葉と認めつつも従えない。そういう人もまた出てくるのであります。ここに、神様の真の選びと言うものを感じないわけにはいきません。皆さんは果して、神様のお言葉を聞かれて、それに喜んでお従いされておられるのでしょうか。
神様のお言葉どおりに完全に行なえるかどうかは別としまして、行なえない自分の弱さと言うものを認めつつも、お従いさせていただきたいと言う謙虚な気持ちがおありでしょうか。キリスト者は常に、それが問われてくるのであります。
さて、イエス様に対して父なる神様は、重大なご計画をお持ちでした。それは、イエス様の死ということでありました。ですから、ヨハネは、イエス様が32節まで話された後に、33節で「イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。」と書いています。つまり、ここでイエス様の語っておられることは、イエス様の十字架であると分かるのであります。
イエス様が、十字架で死なれる事によって、まず、「この世を支配する者が追い出される」ということです。「この世を支配する者」とは、悪魔でありますので、イエス様の十字架の死は、悪魔の力をこの世から無力にするという事。それが、「今がこの世のさばきです」ということとつながってきます。
言い換えますと、天地創造以来、勝ち誇ってきた悪魔に対して、イエス様はその死によって有罪の判決を下されるのだという訳です。このことはまた、イエス様が「今、この世を支配する者は追い出されるのです」と言われたことが、直ちに、悪魔がこの世から完全に追い出されて、もはや誘惑はなくなるという意味ではないことも明らかです。
なぜなら、判決が下されるだけだからです。悪魔を侮ることは極めて危険ですが、そうかといって、過剰に恐れる必要もないわけです。すでに征服され、ある限られた力しか持っていないからです。
悪魔が完全に力を失い、誘惑できなくなるのは、黙示録20章からしますと、イエス様がもう一度来てくださるという再臨の時であります。それは、悪魔がこれまで人間の心に対して行使してきた支配と力と、妨げられることのない権威の大部分を失うからです。
キリストの死は、私たちの罪の贖いであり、罪の刑罰を果たし、神に対する人間の負債を支払うものであります。ですから、イエス様が十字架につけられた週に、この世の支配者に対して、力ある業がなされようとしているという、深い意味を持ったイエス様のお言葉が「今、この世を支配する者は追い出されるのです」と言うことです。
さて、32節「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」とあります。これは、イエス様が十字架にかかられた後、あらゆる国民、あらゆる民族、あらゆる言語の人々を主を信じ、主の弟子とするために、ご自身のもとに引き寄せられると言うことでありましょう。
ここで、イエス様の言われている「全ての人」とは、当然ながら、限定された「全ての人」であることは言うに及びません。なぜなら、そこには当然ながら神様の選びと言うものがあるからです。イエス様の選ばれたものが全て引き寄せられると言うことです。
選ばれた人は、それを拒むことは出来ません。というか、拒みたい人は、信じるように変えてくださり、ご自分のもとに引き寄せてくださるのです。イエス様と父なる神様が、引き寄せてくださること無しに、人はキリストの元に来ることはありません。
最後の33節では、「イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。」とありますように、はっきりと十字架を意識してイエス様はこれまでのことを述べられたのでありました。
小学校の子供たちに、将来何になりたいか作文を書かせたときに、宇宙飛行士になりたいと書いて、実際にそうなった方もおられます。そのように、ずっと思いつづけてやり遂げた人もおられます。小さい頃には、みんな夢があります。
残念ながら、最近の子供は夢がなくなっている現実もありますが。しかし、持とうと思えば、いくらでももてるわけです。可能性を十分に秘めているからであります。しかし、イエス様はご自分は死ぬ為に生まれてきたと言うことを知り、そのように行動されるのです。 ご自分にとっては決して華やかな、素晴らしいものとはいえません。
しかし、イエス様のその死によって、多くの人が神様の恵みに与かれるようになる、 これを知っておられたイエス様はご自分の与えられた道を進まれます。自らも弟子達に、25節で「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」と言われるのです。
イエス様は、豊かな実を結ぶために、一粒の麦の死を経験され様としています。私たちもまた、そのイエス様をしっかりと見上げて、豊かな実を結ぶ者とならせていただきたいものです。
なぜなら、私たちがこの世に生まれて来たのも、そして神様に選んでいただいたのも 神様が特別に私たちを神様の御用のために立たせてくださったのですから。生きている間に何をすべきかを教えられたならイエス様がご自分の使命感達成のためにまっすぐに向かわれた、そのように、私たちも与えられた使命達成のために、身も心もお献げして行こうではありませんか。
2006年3月12日(日) 「光あるうちに」 ヨハネ12:34-36 竹口牧師
先回の最後のところで、つまり32節で私達は、イエス様が「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」と言われ、ヨハネはその事を33節で「イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。」と言う風に書いていました。
そして今日の所では、イエス様のそのお言葉を聞いた人たちが、質問し、イエス様がそれに答えられたと言う部分です。
まず群集が、このように聞きました。「私たちは、律法で、キリストはいつまでも生きておられると聞きましたが、どうしてあなたは、人の子は上げられなければならない、と言われるのですか。その、人の子とはだれですか。」とでした。
つまり、彼らの言っていることはこうでしょう。自分たちが信じている神の言葉である聖書、ここでは旧約のことですが、それによれば、キリスト、即ちメシヤは、いつまでも生きておられる、永遠のお方であると聞いていますが、どうして、あなたは、人の子はあげられなければならないと言われるのですか。おまけにその、人の子とは誰ですかと言う風に聞いたと言えましょう。
ここで言われています「あげられる」とは、多分、彼らは十字架上で殺されることを意味していると取っていたことでしょう。また、イエス様ご自身が人の子と呼ばれ、キリストであると主張されたということも理解していたと思います。そこで、彼らが躓いたのは、永遠のキリストが殺されると言うことでした。
彼らは栄光に満ちた、永遠のキリストを考えておりました。ですから、彼らには、まさかキリストが苦しみを受け殺される、そのような考えをもっていなかったのです。確かに旧約聖書では救い主は永遠に生きておられると教えています。(参照詩篇110:4、イザヤ9:7、エゼキエル37:25、ダニエル7:14)ですから、それも真理であります。
しかしまた、救い主は、王座につき永遠の王として支配する前に、苦しみを受け、十字架にかけられなければならないことをイザヤ書53章を見ますと書かれているのであります。つまり、救い主は、苦しみを受けてあげられるというのが、旧約聖書の教えでもあるわけであります。
ですからこれもまた真理なのです。イエス様は、彼らの質問を受けながら、群集の質問であります「その、人の子とは誰ですか」に対して直接的にはお答えにならないで、と言いますか、その人の子であるご自分のことを「光」に例えて話されるのであります。
ですから、イエス様のお言葉の光の部分に、イエス様を入れて読みますと、よく分かります。「まだしばらくの間、わたしイエスは、あなたがたの間にいます。闇があなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、わたしイエスがいる間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。」と言っておられると言えましょう。
考えてみますと、当時のイスラエルの人たちにとって、光であるイエス様がおられたときは、幸いでした。神様が共におられ、病人は癒され、神の国が正しく説かれ、神の子であるイエス様から直接みことばを聞くことが出来たのですから。
しかし、やがては闇が襲うときが来る。つまり、イエス様は、ご自分の死が近づきつつあると述べられ、そうしますと、あなた方はどこに行くのか分かりませんと、そのようにイエス様は言われるのです。
繰り返しますと、彼らは、キリストは永遠に生きておられると言うことを知っていて、それは正しかったのですが、しかし、キリストが王座につく前に苦しみを受け、十字架にかけらなければならないことは理解していませんでした。
そこで、ユダヤ人たちは、ここで何か矛盾を感じ、質問をしていると言えましょう。一方は、キリストは永遠に生きるとあり、また他方では、イエス様は、死ぬことを指して言われているからです。
とはいえ「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります」と言われ、チャンスはまだあると言われるのです。私達は、光がある時には、それ程ありがたさを感じませんが、一旦、停電にでもなろうものなら、途端に光を探し回るのであります。そして、ローソクでも、懐中電灯でも、マッチ一本でもあれば、それはもう御存知のように、大変な役割を果たしてくれるのです。
まだしばらくの間、光はあるとイエス様は言われていますが、そしてその光は、この世を照らす電気や、太陽や、マッチのような火の光と言った類ではないことは言うまでもありません。
魂を照らす光であります。永遠の命を与える光であります。それがなくなり、闇が襲うときが来る。そうなってはもう遅い。だから、光がある間に歩きなさいとイエス様は言われるのです。
イエス様は、ここでユダヤ人たちに対して、もし、イエス様の言葉を無視するなら、 恐ろしいことが起ると警告されます。
闇が襲い掛かり、捕え、彼らの上に迫ると言われます。イエス様は、父の御許に帰る事になっておられるからです。ユダヤ人たちは、後に民族として、審きによる暗黒と悲惨の状態に置かれ、選ばれた人を除いた他の全ての人が、離散と悲しみに渡される、そういうことのないように。「闇があなたがたを襲うことがない様に」と言われるのです。
御存知のようにイエス様の十字架の後、30年くらいしてでしょうか。ローマによってエルサレムは、破壊し尽くされるのであります。そのためにイスラエルの民は、離散を余儀なくされます。
ある本にありました。「エルサレムの最後の日々のユダヤ民族の状態は、まさに『経験しえる最大の暗黒』としかいいようがないものであった」とであります。その時に起ってみないと分からないのが人間であります。
しかし、起ってからでは遅いのが現実であります。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。毎日行なっていることを同じようにするのとは訳が違います。毎日行なっていることを行なうのであれば、ある程度身体が覚えていますので、出来ます。
しかし、状況が一変しますと。手探りでは無理なのです。自分の行くべき道が分からない。進むべき道が分からない。ただ立ち止まって、茫然とするのみであります。そしてやがて命を失うのです。
ですから「あなたがたは、光がある間に歩きなさい。」とイエス様は呼びかけられるのです。もっと具体的に言いますと、36節で、光がある間に歩く事とはどういうことかが言われています。
「あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」とであります。ここには3回、光と言う言葉を使ってありますが、先ほど「光」をイエス様と置き換えるとよく分かると申し上げました。どうぞ、そのように置き換えて読んで頂きたいのです。
世の光であるわたしイエスが、あなたがたと一緒にいる間に、そしてイエスの子供となるために、ここの場合は、神の子供と言ったほうがいいでしょうか。そしてきわめつけは、わたしイエスを信じなさい、であります。何と分かりやすい、イエス様の直接的なお言葉でありましょうか。
しかし、現実は、厳しいものがありました。イエス様のエルサレム入城を、多くの人が喜び、歓迎し、迎え入れたかと思えば、捕えられ、十字架に付けられるや否や、罵倒するのであります。
「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ」(ルカ23:35)と叫ぶのであります。無知な心で、頑なな心で、石のようなかたい心に、いくら良いこと、正しいこと、その人のためになると思っていっても、相手の心にはなかなか届かないのであります。
ある人はこう言っているそうです。「今や詭弁や言い逃れのための時間はない。これは大切な事柄である。彼らは残されたわずかの時間の中で、どれだけ自分たちの振る舞いを変え、気取った反駁のために時間を浪費しないようにしなければならなかったことか。彼らはどれほど真剣に、光のもとに直ちに隠れ場を求め、来るべき暗黒から身を守らなければならなかったことか。」と。
しかし、なかなか危険な状況であると言われても、多くの場合、それを聞き逃してしまうものであります。そしてその時が実際来たら、もうどうすることもできないと言うのが現実であります。
だから、イエス様は前もって、光がある間に、光の子供となるために、光を信じなさい、と言われるのであります。
イエス様は、何百年も先のことを言われていたのではありません。彼らの拠り所であったエルサレム神殿が、もう、30,40年しますと破壊し尽くされるのであります。そして彼らは、自分達の拠り所をなくするのです。そして、自分達の神はどうしておられるのかと、何をしておられるのかと思いつつ、さまようことになるのであります。
また、あるものは殺されてしまうのであります。光があるうちに、光なる方を信じなければならなかったのです。
この聖書に書いてある人たちにとっては、光であるイエス様が十字架にかけられ、殺されるまでを言いますが、そして更に歴史を下るなら、エルサレム陥落も指していると言っていいと思いますが、
一方、現代に生きる私たちにとっては、それは、死と言う闇が襲ってくる時であり、また、イエス様が再びこの世に来てくださる時であります。そのいずれかの時に、イエス様を信じなければ、永遠に救いの機会がなくなるのであります。これは、大変恐ろしいことなのです。
でも多くの人は、それは私とは関係ない。そのように思っているのです。どんなに年を重ねても、そして、周りの人が亡くなって行っても、その日が、必ず来る。そしてその後はどうなるのか、分からなくても、決して自分の事として受け止める人は少ないのです。
今、これから来る死とか、イエス様の再臨とか、そういうことは考えないとしても、実際に今、人生の岐路に立って、どちらに進むべきか全く基準となるものがない。自分は一体、これから何のために生きていくのか分からない、そういう闇の中に生きていても、しかし、光のところに来ようとしないのはなぜなのでしょうか。
暗闇の中で手探りし、悲しみの中にあって、苦しんでいる。それでも、決して光を求め様とはしない。そこには、頑なに拒む人の罪があるゆえではないでしょうか。イエス様が招いておられる、その時はまだチャンスがあります。しかし、そのうちに招きが審きに変わるのです。そして、その時が必ずやってくるのです。
36節の後半は、ユダヤ人たちにとって、とても恐ろしい瞬間であったともいえるでしょう。「イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。」とあります。
公には、ここまででイエス様の話は終わります。あとは、弟子達だけに13章から話されるのであります。チャンスと言うものは、そう何時までもあるものではありません。 そうでなかったら、それはチャンスとは言えません。機会が限られているからチャンスなのです。
イエス様は、現代の私たちに語りかけておられるのです。招いておられるのです。「あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」とであります。
ヨハネは、この福音書を書くに当たって、まず1章でこう書いていました。1章9節から14節までお読みします。
「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのにご自分の民は受け入れなかった。
しかし、この方を受け入れた人々、すなわちその名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は血によってではなく肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」以上です。
この朝、もう一度イエス様を見上げていただきたいのです。そして、イエス様は、あなたにとってどんなお方なのか、考えてほしいのです。この世のさまざまなわずらいの中にあってイエス様は光であるお方なのか。やがて死を迎えなくてはいけないこの身体、しかし、その身体を暖かく抱きしめ、天国へ入れてくださるお方として信じているか。
また、やがてイエス様がお見えになるその時に、喜んでお迎えできる状態なのだろか。そのように、考えていただきたいのです。キリスト者であるなら、もう一度その点を確認していただきたいし、キリスト者でなければ、今すぐにでも、神の民の一人て、光の子供となるために、光を信じていただきたいのです。
そして、自分の最終的に行き着くところをしっかりと見据えて、この世を歩んで欲しいものです。
2006年3月19日(日) 「神の栄誉、人の栄誉」 ヨハネ12:37-43 竹口牧師
いつの時代でも、真の神様を信じる人、信じない人がいます。多くの不思議な奇蹟がたとい行なわれたとしても、奇蹟を行なう者が即ち、神であるとは、言い切れないからでしょうか。確かに、そう考えればそうかも知れませんが、そう簡単には頑固な人の心は、開かないものであります。それは、私達の周りの人たちを見てもそういう事が言えるでしょう。
イエス様は、色々な所で奇蹟を行なってこられました。それを見た人々の中のある者は、イエス様を信じましたが、しかし、どの場合でも信じない者が相変わらずいましたし、また更には、次の奇蹟を期待したものでした。
ですから、人が神を信じるようになるためには、奇蹟が万能と言うわけではないのであります。きょうの聖書個所の最初の37節にもある通りであります。「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。」とあります。まさに人の心とはそういうものであります。
ところで、今私は、「頑固な人の心というものは、そう簡単には、開かないもの」と言う風に申し上げましたが、今日の聖書個所の38節以下を読んで頂きますと、「いや待てよ、人が神を信じないのは、もしかしたら人に問題があるのではなく、神の側にその問題がある」そのようにヨハネは書いていないだろうかとお読みになるならば、それは、ヨハネが書いた意図から外れていますので注意が必要です。
ヨハネは、ユダヤ人が信じなかった理由と言うものを38節でこう書いています。「それは、『主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。』と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。」と。
これは、何となく旧約時代の預言者でありますイザヤが言った言葉、このイザヤとは、イエス様の時代から700年も前の人のことですが、その人の言った言葉、それが成就するためにユダヤ人が信じなかった。だからユダヤ人には罪はない、と言う風に受け取る。
こういう話の捉え方は、もしかしたら次の39節でも言えるでしょうか。「 彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。」と言って、イザヤの言葉が引用されているからであります。
これらを読んで、ユダヤ人の心の頑なさを、御言葉が成就するために彼らはそうしたのだと正当化するなら、それは、間違いなのであります。そして、その間違いをある人はこのように説明いたします。
つまり、そのような読み方をするのは全くの運命論の考え方であり、人間の責任を無視しているとさえあると言います。
では一体、どういうふうに読めば正しいのでしょうか。ライルと言う人はこう言っています。38節の「それは、・・・と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった」というのを「それゆえ、この不信仰によって、イザヤが語ったことが成就したのである」というふうにであります。
そしてその根拠となる参照聖句に次のようなものをあげています。今開いていますこのヨハネの福音書5章20節にあります言葉、「それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。」とです。
この、最後の部分は今回の場合と似ているでしょう。「また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。」とあるからです。そしてまた、他の個所では、ローマ5:20節があげられています。「律法が入ってきたのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」 という例です。
「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」も同じです。これらの御言葉は注意深く読みませんと、じゃあ、恵みが満ち溢れるために、罪をどんどん犯そうではないか、と言う風に読み間違えるのであります。
私達は御言葉を読みますときに、神様とは一体どういうお方なのかを、いつも確認しながら御言葉を読む必要があるでしょう。神様は私たちに、ご自身をなるべく信じないように、あるいは、ご自身に従わないように働かれているのか、それともその逆で、一人でも多くの人が信じるようにと願って事を行なわれているのか、どちらなのでしょうか。
それは言うまでもなく、多くの人が信じ、増し加わるように求めておられる訳でありますし、今現在も変わらずに、私たちに求めておられるのであります。
と言うことは、イザヤが預言していたのだから、彼らがいくら信じようとしても信じられなかったのだと言う意味ではないことは明らかであります。つまり、イザヤが述べていますのは、彼らがなぜ信じることが出来なかったかと言う理由であります。
それは、神の審きによって、彼らの心が見えなくされ、頑なになってしまっていたからであります。従って、第一原因は、彼らユダヤ人にあるでしょう。
そして、もし現代の私達も信じないなら、その原因は私たちにもあるのであります。イザヤの時代がそうであったように、あのイエス様の時代もそうであった。イザヤはまさにそれを予告していたのでありました。
繰り返しますが、イザヤが預言していたので彼らユダヤ人はいくら信じようとしても信じられなかったと言うことではありません。むしろ、彼らがなぜ信じることが出来なかったのか、その理由を述べていると言えましょう。
ヨハネは40節でこうイザヤの言葉を引用しています。「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、 そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」と。
ある人は、これをこういうふうに言い換えています。「彼らがなぜ信じることが出来なかったかと言う理由はこうである。彼らは、イザヤが述べたように、神の審きによって心が盲目にされ、頑なな状態にあったからである。彼らは多くの罪の故に、当然のこととしてこのような状態にされたのであり、この事の故に、彼らは信じる能力が少しもなかったのである」とです。
私は、こういう所を読みます時に、ケネルと言う人が言ったのだそうですが、その人の言葉に全く同感なのであります。それは、こういう風に言っております。「私達は、意志が無能力であることを嘆き悲しまなければならない。アダムが罪を犯したことにより、私達はみな生まれつき意志が無能力であり、それによって、私達の罪は、日々に増し加わっていく。
私達は『わたしを離れては、あなた方は何もする事が出来ないからです』および、『父が引き寄せられない限り、誰もわたしの所に来る事が出来ません』と言われた主に、絶えず信頼しようではないか」というものです。
本当に、自分の弱さ、無力、罪深さを認めて、謙遜に主に頼っていく思いがなければ、主にお従いする事は難しいでしょう。
神様は忍耐を持って、何度も警告を与えて来られた。しかし、ユダヤ人たちはそれに聞き従わなかった。だから、彼らの目を見えなくされた。真理が見えなくされた彼らにとって、もはや魂の救いはないのです。
結局のところ、この問題を解く鍵はどこにあるかと言いますと、「神が罪人を罰するのは正しいか」という質問に対する答えになってくるでしょう。本当のキリスト者は、この質問に対して、肯定的な答えをします。「神が罪人を罰するのは正しいか」答えは「正しい」であります。
なぜなら、神は不敬虔な者に対して、正当な刑罰を与えられるからであります。この世の終わりの日に、罪人は永遠の火によって焼かれると言う、そういう宣告を与えられるのと同様に、不信仰な者に、邪悪な心を与えることによって刑罰をお与えになることができるのであります。
そして、そういう厳しい神様でありますけれども、罪人である私達が決して忘れてはならない神様の御性質、それは、神様は「いかなる罪人も死ぬことを望んでおられない」ということであります。
神様は頑なな心を柔らかにし、罪人の見えない目も開くことを望んでおられるのです。私達は、いつもその点を忘れてはならないと言えましょう。いつも神様は罪人に悔い改めを求めておられるということです。そして、悔い改める者に豊かにご配慮くださるのであります。
一方、その逆もあることを肝に銘じておかなければなりません。頑なで悔い改めないなら、神はそのような人々を見捨てて、なすがままにされると言うことであります。 そして、その責任は全てその人の上にあると言うことです。
誰の責任でもありません。自分の責任であります。神様の御前に出て、審きを受ける時、自分で自分を弁護するのか、神様の用意してくださったキリストが弁護してくださるのか、はっきりと分かれてくるのであります。
まず初めに神様の語りかけがある。それを人は無視してはならないのです。無視した結果が40節のイザヤの言葉であるともいえましょう。神様の語りかけに感謝しない頑なな心の持ち主に、神様は、その心のかたくなさ故に、それに相応しい罰として、不信仰と、永遠に神様を見ることのない状態に置かれるのです。
人が神に裁かれるのは、神様ご自身のせいでも、他人のせいでも、或いは住んでいる環境のせいでもありません。今、イエス様の前にいる自分の責任なのです。
さて、41節にはこう書いてあります。「イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。」とであります。
これは実にすごいことをヨハネは書いていると言えないでしょうか。「イザヤがイエスの栄光を見たからで・・・」とあります。これは、イザヤ書6章全体を読んでいただければ分かりますが、イザヤは、神様と対面し、神様を見たことを大変恐れている場面であります。
彼は言っています。「ああ、私はもう駄目だ。私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王を、この目で見たのだから」とであります。
このイザヤが「万軍の主である王を、この目で見た」というのは、ヨハネがいうには、「イザヤがキリストの栄光を見、キリストについて語ったのである」というのです。これはまさしく、キリストは神であると言っているのです。ですから、イエス・キリストが神ではないと言う人がいたなら、それは異端であります。
こういうところからも、イエス・キリストは、ただの人間ではない。栄光の神が人となられたお方であるということが分かります。このヨハネの証言はとても大切だと言えましょう。
ところで、今までユダヤ人の不信仰について述べて来ましたが、42節には、指導者達の中にもイエスを信じる者が沢山いたとあります。どの程度の信仰であったのかは分かりません。ライルに言わせれば、「この信仰が頭だけの信仰であり、心からの信仰ではなかったことは、疑う余地がない。しかし、彼らはとにかく信じたのである」とこう書いています。
私達は、人の信仰の程度をどのような物差しで測れるのか分かりませんが、この42節を読みますと、「パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。」とあります。
自分達の立場を守るために、いわば隠れキリシタンとでも言いましょうか。信じている事を告白しないで、ユダヤ教徒として行動していたのです。そこには、現在東京にいる私たちには分からない状況があったと思われます。
と言いますのは、ユダヤ人が彼らの会堂から追放されると言うことは、それはそれは大変恐ろしいことであったからです。彼らは一つの会堂から追放されたなら、世界中のどこにも他に行くべき会堂がなかったのでした。言うなれば、会堂から追放されるということは、天国から締め出されるに等しかったとある人は言うくらいです。
しかし、それでもイエス・キリストに聴き従う人がいたのは事実ですから、そういう人たちの信仰は、本当に堅いものであったと言えましょう。この世の目を気にする。これは、この日本でも同じでありましょう。都会でしたら、近所の人がどうのこうのということは余り気にしなくて良いでしょう。
しかし、地方に行きますと、江戸時代の名残でしょうか。よく分かりませんが、特に私の田舎などは、組内というのがありまして、ある家に不幸が在りますと、その地域全体で、葬式の初めから終わりまで総出で手伝うのであります。また、そうしなければ、村八分にされるのです。そういう所で、信仰が与えられたなら、戦いは大変なものになるのは言うまでもありません。
しかし、大変であるけれども、主を愛するなら、それもまた乗り越えなければならない壁なのです。また、神様は、それを乗り越える力も与えてくださると信じて、お従いする必要があるでしょう。
43節には、「彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。」とあります。パリサイ人たちは、会堂から追放されることを恐れ、周囲の人からよく思われることを優先し、またそれを求めていた。神様に賞賛されるよりも人からよく言われることを重んじていた。
彼らは、周囲の人々から笑われ、馬鹿にされ、ののしられ、迫害されることを思いますと耐えることが出来ませんでした。周囲の人々と関係を保ち、賞賛を得るために、臆病な人たちは自分の信仰の確信を犠牲にして良心を偽っていました。この感情が、彼らパリサイ人の心をどれだけ傷つけていたでしょうか。恐らく相当のものであったに違いありません。
翻って、こんにち、キリスト教世界で、自分がキリスト者であることをいうのは、それ程難しいことではないでしょう。しかし、この日本で、しかも和を大切にするこの日本で、自分の信仰を明らかにし、行動することは勇気のいることです。しかしまた、それが求められているのであります。
イエス様は、以前5章の44節でこう言われていました。「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることが出来ますか」と。
今日の私たちでさえも、人を恐れて罠にかかりやすいものです。人を喜ばせ、人との関係を重んじ、また人に誉められたい、そういう思いに負けて、自分の信仰を曲げることのないようにしたいものです。
下手に隠さないで、堂々と明らかにする事によってこそ、周りからの理解を得、行動もしやすくなるものであります。祈りつつ、謙虚に行動し、神からの栄誉を大切にしようではありませんか。
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