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2006年4月2日(日) 「私の救いのために」 ヨハネ12:44-50  竹口牧師 

この朝は、ヨハネの福音書12章最後の部分、44節から50節までの範囲を見る事にします。きょうの、この部分の最初の44節には、「またイエスは大声で言われた」とありますから、前からの続きであることがわかりますし、

また、以前に見ましたこの同じ章の36節の後半部分を見ていただきますと、「イエスは、これらのことをお話になると、立ち去って、彼らから身を隠された」とありますので、立ち去った後でまた大声で言うと言うのはおかしいと考え、ではどういうことか、ということになり、つまりは、今日の所はイエス様が立ち去りながら話されたと考える人もいます。

しかし、そんなことは難しいので、一応、公には36節までで、イエス様の話は終わり、
今日のところは、大声で言われたという大声と言うのを、これまでのまとめを意味し、
ヨハネはそのような考えで書いたという見方があります。

例えば44,45節は、8章42節ですでに教えておられる。次に46,47節は、3章16−18節で語られている。48節は、3章18節後半19節にかけて教えられ、最後の49,50節は、3章34−36節にかけて、あるいは7章16−17節にかけて書いてある。そのように言う人もおられます。つまり、著者ヨハネは、「また、イエスは大声で言われた」と書いて、今までのまとめをこれから50節までに書いていると言うのであります。

私はライルと言う人の本を大変参考にしているのですが、そのライルと言う人は、この意見には強く反対すると書いています。それは、「イエスは大声で言われた」と言う言葉でこの章句が始まることは、この節と完全に矛盾していると思われるからであると言います。

ところで、では私は、どう解釈するのかということになりますが、エルサレムから立ち去りながら、話すのが難しいとか、イエスは大声で言われたとあるので、ヨハネによるまとめではないかと、いろいろ考えがありますが、私は、まとめの部分ではないかと思うのですが、真実はどうでしょうか。

が、まあ、よく分からないので、そのままにしておく事に致します。それよりも、たとい重複するようになるとしても、ここで語られている真理は大切ですので、それに私は目を留めたいと思うのであります。ただ、そういう解釈もあると言う点は知っておいても良いと思って取り上げた次第であります。

さて、それでは本題にはいることにしましょう。イエス様はかつて、このヨハネの福音書の10章30節で「わたしと父とは一つです」と言われました。そして、それを聞いたユダヤ人たちはイエス様を殺そうとしたことがありました。

それは、ご自身を神とすることになるからだったのですが、しかし、実際にも、まさにイエス様は父なる神様と一つであるが故に、間違いではありませんし、また、今日の聖書個所の44,45節のことが言えるのであります。そしてこれはまた、真理であり、教理の一つでもあるのであります。

三位一体の神であられる真の神様は、御父と御子は、異なる位格でありますが、両者を分割できません。御子を信じることによって、御父との関連が生じるのであります。イエス様は44節で言われています。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。」と。そしてまた45節で、「また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。」と。

私達が、この44,45節のみ言葉を読みます時に分かりますことは、イエス様を信じている者は、父なる神様を信じているのであり、イエス様を見ている者は、父なる神様を見ていると言うことです。

つまり、人々は、イエス様を見て、父なる神を見、イエス様を信じて、父なる神を信じていることになります。そして、その両者は分割できませんので、イエス様を本当に正しく見たものが、父なる神をも正しく見た者という事になり、事実そうなのであります。

それなのに、キリスト教の異端の中には、イエス様を神と認めず、ただの人間、人の子であったと言うのであります。これは、全くの間違いであります。イエス様の言われた父と子とは一つですとは真理なのです。

しかしでは、父なる神様は肉体を持っておられるのかというと、いいえ、決してそうではありません。心で見ると言うことであります。そしてそれは、父なる神と子なる神とが同質である事を示しています。

46節でイエス様は「わたしは光として世に来ました」と言われました。また「わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです」とも言われています。闇と光の関係をヨハネは、この福音書の最初1章5節で「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」と書いています。

そして、その光なるお方が、人となってこの地上に来て下さいました。それが、イエス・キリストでありました。

神が人となってきてくださった。これは、罪人である私たちから言えば、大変感謝な事でありました。イエス・キリストは、人とはどういう者であるかを教え、また、神とはどういうお方かを身をもって示してくださったからです。

罪の中に沈んで暗くなっている人の心に、光となって入ってくださり、闇を照らしてくださったのであります。人は、この光がなければ、人生の方向がわからない。何を目指し、何に到達すればよいかという目標も分からない。そんな人間のできるのは、ただひたすら自分を喜ばすことであります。そして、その道の終わりは、死なのであります。

イエス様は、その事を教えてくださったわけでありました。これからもっと先の14章6節で見ることになりますが、イエス様はこうおっしゃっているのであります。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」とであります。

光となり、道となって、救いへと導いてくださる、そのお方がイエス様なのであります。イエス様がこの世に光として来て下さった目的は、「誰も闇の中に留まることのないためです。」と言われていますし、イエス様を信じる者が、光の中を歩むために来られたと言われます。

とするなら、イエス様を信じる信仰者は、本当に光の中を歩んでいるかどうか、チェックし、また考えて見ることも必要な事だと思うのです。イエス様が、確かに「光として世に来」たのは、「わたしを信じる者が、誰も闇の中に留まることのないためです」と言われています。

実際、私たち信仰者でも、闇に入ることはあるでしょう。しかし、闇に留まりつづけることはないのです。なぜなら、イエス様によって、闇に光を差し入れてくださるからです。もし、そうでないなら、イエス様が働いてくださるように求め、暗い心を変えて光を入れてくださるように願いたいものです。

ところで、イエス様は47節でこう言われています。「だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。」とであります。

この所にあります「わたしはその人をさばきません」とは、「今はさばきません」ということであります。と言いますのも、聖書の他の個所からしますと、世の終わりには必ず人は裁かれることは間違いないからであります。

ですから、主の憐れみ、主が下さっている悔い改めのチャンスの時を大切にし、時を逸することの無いようにしたいものです。

では、神様は、わたし達が救われるための道をどのようにして与えてくださっているのでしょうか。それは、これから先に見ていきます、イエス様の十字架へとつながっていくのであります。

わたし達の全ての罪を背負い、わたし達が受けなければならない刑罰を、わたし達に代わって十字架上で受けてくださることによって、あるいはまた、身代わりの贖いの死を受けてくださることによって、わたし達の罪が赦される、そのように神様はご計画されたのでした。

聖書を通して、この救いの福音の真理を聞いた人はみな、救われてほしいと私は願いますが、現実はそうではありません。頑なに拒否する人が必ずおられるのが実際であります。神様は、わたし達人間が、強制されて救いを求めるようにされるのではなく、自発的に求めるようにと願っておられます。

勿論、生まれたばかりの状態の人間は、自発的に、自分の意志を働かせる力があるわけではありません。神様のお働きが必要なのはいうまでもありません。それだけ人は、罪によって駄目になっているからです。

従って、救いの恵みのチャンスを与え、招いておられるこの時こそ、神様の御前に求めて頂きたいのです。イエス様は、決して審きがないとは言われていません。ですから、48節のお言葉は厳粛に受け止めてほしいのです。

「わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話した言葉が、終わりの日にその人をさばくのです。」と。

ですから、イエス様のお言葉を知らなかった、聞かなかった、もっと教えてほしかったと言っても、その時が来たら、それはもう手遅れになるのです。だから、そうならないようにしないさいとイエス様は言われているようにも読めます。

イエス様は、地上の生涯においてユダヤ人に宣べ伝えられましたが、終わりの日には、信じなかった者達に対して、その不信仰を証言をし、彼らを裁く者となると言われます。
その時、彼らは、それらが知恵の言葉や、憐れみの言葉や、彼らの誤りを覆す言葉や、キリストの御国を十分に説明する言葉や、聖書と完全に合致する言葉であった事に気付き否定できないでしょう。その結果、彼らは一言も言えなくなるのです。

キリストの言葉による証しには、反論は出来ず、その証しの結果、彼らは裁かれることになると言えます。ここにおいて、私たちは、神の言葉は、その時に信じられないように思えても、決して無駄にはならないことを知ることが出来ます。それは、聞く側にとって善い事であっても悪いことであっても、です。

キリストの言葉は、ユダヤ人に軽蔑され、拒絶されましたが、決して地には落ちませんでした。ユダヤ人たちが守らなかった言葉が、ユダヤ人たちを罪に定める。終わりの日には、忠実に語られた御言葉が甦り、彼らに迫っていくのであります。それだけに説教者の責任は何という大きな重い責任でしょうか。

御言葉が語られる時、ある人にとっては命の香りとなり、また別の人にとっては、死の香りとなるのです。聞く者の責任は、何と大きいことでしょうか。聞く人は、御言葉を馬鹿にすることも、またあざけることも出来ます。しかし、終わりの時には、その代価を支払うことになるのです。

人々は聞いた全ての言葉に対して、申し開きをしなければなりません。パリサイ人たちは、先回見ましたように43節で、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したとありました。彼らは、ユダヤ教の会堂から追放されることを恐れ、人々の目を気にして、公然と告白できない信仰でした。

しかし、時がくれば、はっきりとどちらがわについているか、主ははっきりと見分けられるのであります。主の審きに間違いはありません。それだけに、主の言葉を大切にし、また、その御言葉に忠実に生きていきたいものです。イエス様は、ご自分の言葉に権威がありましたが、ご自分が誰の権威によって語っているかをもう一度明らかにされます。

49節「わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。」と言われています。

父がお命じになったことを、子が話された。これは勿論、子なる神イエス・キリストが父なる神より、いくらかでも劣っていることを指してはいませんので注意が必要です。つまり、これは子なる神と父なる神との完全な一致を示すために言われているのであります。

私たち人間の親子関係とを重ね合わせて、真の神様の父と子の関係を見ているとするなら、それは間違いです。なぜなら、三位一体の神は、同一の本質、能力、永遠性を持つお方であるからです。

当時のユダヤ人たちは、イエス様をみて、自分達と同じ人間ではないかと考えました。
ですから、そうではないことをイエス様は、語り、また、さまざまな業を見せたりもされたのでした。

私たちが少しでも、父なる神よりイエス様を低く見たり、また父なる神を神とし、イエス様を神と見ないなら、それは聖書の教えることと違いますので、注意が必要です。イエス様が、どんなに不思議な奇跡をされても、神とは一応別であると考えるなら、当時のユダヤ人と同じであります。

イエス様を神様と信じる人は、正しい信仰であり、神様と信じない人は、聖書の教える神を信じない人であります。イエス様は、私たち罪人の罪を贖うため、罪の許しの業を行なうためにこの地上に来て下さいました。まさに、神が人となってきてくださったのでした。

私たちは、この方を通して、神様を見る事が出来るようにされたのでした。永遠の神様を、目では見ることの出来ない私たちに神様は、イエス様を通して見ることが出来るようにされたのでした。

当時のユダヤ人たちのように現在の私たちは、肉の目でその方を見ることは出来ません。しかし「見ずに信じる者は幸いです」とイエス様がトマスに言われましたように、私たちは、イエス様を神として信じさせていただいているのです。見ないでも、神様がそう信じさせてくださったのでありました。なんという感謝な事でしょうか。

さて、最後の50節の前半部分の言葉は、少し言葉を補足しないと意味が通じないと私は思うのですがどうでしょうか。こう書いてあります。

「わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています」と。ライルと言う人は、ここをこのように説明しています。大分言葉を補足していますので、それを紹介しておきます。

「わたしは、あなたが信じたいと思うかどうかに関わらず、この使信、命令、あるいは使命が、父なる神から与えられたものであり、それを受け入れて信じる者すべてに、永遠の命を与えるものであることを知っています。

あなたは、心が盲目なので、わたしが語る使信と、私が宣べ伝える教理の素晴らしさに気が付きません。しかし、それを拒むことによって、あなたがたは永遠の命を拒んでいることを、私は知っています。」と言うことであると思われる。

別の人は、端的に「永遠の命に至る道は、神の命令を守ることであると、私は知っています。」と言います。これだと、そのまま後半に続いても分かります。「それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」

イエス様のお働き、それは神様を正しく教えること、人の罪を正しく指摘し、その解決策を伝えること。そして、最終的には永遠の命を人が神様からいただけるようにすることだといえましょう。そのためには、イエス様のお働きは必要不可欠でありました。

しかし、ユダヤ人たちは、その方を拒否したのでした。今の時代でも全く状況は同じであります。神様の救いのご計画が語られ、明らかにされているのに、信じる人と、信じない人がいるのです。

今日の44節から50節までが、イエス様の言葉のまとめとするなら、私たちは、イエス様のこの重要な言葉をしっかりと受け止め、信じる者となって、永遠の命をいただいて歩みたいものであります。

すでに永遠の命をいただいている方は、その恵みの重さを確認していただきたいし、又、まだいただいていない方は、御言葉を聞いた以上、最後の審判の時には、知りませんでしたでは、通用しないことも肝に銘じていただきたい。と同時に、あなたの救いのために来られたイエス様を、私の救い主として心に迎え入れてほしいものです。

2006年4月23日(日) 「最高の愛を示すため」 ヨハネ13:1-11   竹口牧師 

 今日から13章に入りますが、この章からのことは、1節にありますように、時は過ぎ超しの祭りの前であり、しかもイエス様が「この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られた」時、つまり「この世を去る」「父の御許に行く」そういう時の事であります。

ですから、ある人は、これからなさるイエス様の行為やお言葉は、別れを意識してのものであると言います。実際そうですから、そういう思いで私たちはこれから読んで行くことにいたします。

そのようにしませんと、イエス様の語られることを表面的に受け取るだけで、本当に意図しておられる事を汲み取ることが出来ないからであります。

イエス様がこの世を去られる。それに当たっては、これからどういう道を辿るのか、イエス様はよくご存知であられましたので、その事を知っていて、一言、一言を弟子達に語られたのであります。また行動をされたのでありました。

私たちが年を十分に重ねて来て、そろそろ自分もこの世を去る時が来たと感じる頃でありますなら、その準備も冷静に、もしかしたらできるかもしれません。しかし、働き盛りの人が、病気などではない限り、死を意識しながら行動する、あるいは話すということは、なかなかできるものではありません。それこそ、仕事人間であって、明日はどうするかという計画のほうが先立って行くのが普通でしょう。

しかしイエス様は、この世に死ぬ為に生まれて来られた訳でありますから、また、その事を良く知っておられた方ですから、最後にすべきことを弟子達にしっかり伝えようとされるのであります。

そして、その一つが、「世にいる自分の者を愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」と言う言葉によく表されております。欄外注を見ますと、「その愛を最後まで示された」ともあります。

まさに、これから短時間のうちに、イエス様は、弟子達がご自分を裏切り、十字架への道を歩むようになっていく、その事を知りながらも、最後まで愛を表わされたとヨハネは書くのであります。

1節に続いて2節には、ユダの裏切りのことが書かれています。イエス様は、その事を全てご存知であられながら、それでも、愛を表わすことを止められなかった。むしろ、死んでいく故に、残しておくべきことをしっかりと、弟子達に示し始められるのでありました。

イエス様は、私たちの魂に配慮を与えてくださり、私たちがイエス様を愛する前からではなく、それどころか、私たちがイエス様について全く知らない前から、この地上に来ていてくださり、私達のために十字架で死なれた。それ程までに、私たちは愛され、その愛の中に入れて下さっていたのでありました。

今日の聖書個所で言いますなら、愛を示そうとしておられるのであります。これは、実に素晴らしい愛の表現でありました。私たちの愛は、せいぜい、今生きている人たちにしか表わせません。しかし、イエス様の愛は、時代を超え、国を超え、人種を超え、性別を超え、年齢を超え、全ての人に影響を与える愛でありました。

パウロがローマ人への手紙5章8節、「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちの為に死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」とのごとく、私たちはイエス様の愛を知らずに生まれ育ってきて、神様の用意してくださった兄弟姉妹の働きや、その他の方法を通して、その恵みに与らせていただいたのです。

約2000年も前に、もうすでにイエス様は、神様のご計画の下に、愛を表してくださっていたことを知るに至って、私は大変驚いたものでした。皆さんもそうではないでしょうか。

私は神様を愛していなかったけれども、神様はもうすでに愛してくださっていたのだ、そのことを知った時に、本当に感動したものでした。今一度、この朝覚えて、神様に感謝しようではありませんか。

3節を見ますと、「イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ」とありますように、はっきりと自分の時を意識されていることが分かるのであります。

そのためにイエス様は、ご自分の愛を、これから弟子たちに集中的に注がれるのであります。それは、弟子達がイエス様を愛してくれることを期待しての愛ではありませんでした。むしろ、裏切り、去って行く、見捨てて行く、そういう場面になる、その事をイエス様ご自身が知りつつ、ご自身の愛を明らかにされ、また、ご自分が去っていった後、どのようにお互いにすべきかを一つの方法で教えてくださったのであります。

しかし、その表わし方は、単なる教えに留まりませんで、イエス様の十字架による贖いと深くかかわっているところに、大変大きな意味があることを、私たち信仰者は、今回の所で、見過ごしてはならないのであります。否むしろイエス様は、その事を教える為に行動されたと言っていいでしょう。

では、イエス様は具体的に何をどう教えられたのかでありますが、4節以下にそれが示されております。イエス様は、「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。」とあります。

ここで注目しなければならないのは、イエス様が、弟子達の足を洗われたという事です。そのイエス様の行動を、私の勝手な思いで言いますなら、本来、弟子達がまず先に、イエス様の足を洗って差し上げ、そして、自らの足も洗って、その後で食事の席に付くというのが順番でありましょう。

しかし、当時のしきたりでは、食事に招かれて行った場合、イエス様も、弟子も自分の足を自分で洗わないで、その家の雇われ人、あるいはしもべが洗っていたのだそうであります。ですから、その家の主人は、決して手を出さなかったようであります。それだけ、身分で言いますと低い者がする行為であったわけです。

ところで、弟子達がいろいろな所に出かけた時に、いつも誰がイエス様や弟子達の足を洗っていたかは別としまして、ここではなぜか、足を洗うのはイエス様であり、しかも食事がまず先に行なわれたのでした。

少なくともここの会話からはそのように私には読めます。5節6節のつながりを読みますとイエス様の行為に弟子たちは最初は、あまり疑問を感じていないように思えるからであります。

現在では、衛生上食事の前には必ず手を洗いなさいと学校では指導されているでしょうし、私がまだ若く、生徒であったころも勿論そうでした。よく学校の先生に食事の前には手を洗いなさいと言われたものです。

しかしこのイエス様の時代は、衛生上というよりも宗教上、身をきよめる意味が大変強かったようであります。ですから、それは必ず行なわなければならない事の一つでした。

ところで、当時の食事の仕方はと言いますと、身体を横にし、左ひじで上体を支える格好で、つまり横に寝そべったような格好で食事をしたそうであります。そのような格好で、12人が食事を取るなら、その部屋はどういう状況になるか想像してみてください。

もしかしたら、誰かの足が、自分の顔に来るかもしれない、あるいは、そうでなければ、随分広い部屋であったように思います。

ある人は、3人一組になって、一つの机の上に食べ物が置かれ、現在で言いますと独特な格好で食べていたということになります。少なくとも私たちが正座するなり、あぐらを組むなり、あるいは机があり、椅子に座ってと言うのとは違っておりました。

まあ、どのような状態にしろ、イエス様も入れて13人が食事をすると言うのは、やはり結構広い部屋が必要であっただろうと思うのです。

さて、今回は食事の最中に、イエス様が夕食の席を突然立たれ、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って、腰にまとわれ、弟子達の足を拭き始められたというのであります。4節を見ますと、上着を脱ぎ、とありますので、本腰入れてはじめられた様子がうかがえるのであります。

順番はどうであったのか分かりませんが、何人かの弟子の足をイエス様が洗ってくださり、そして次にはペテロの番ということになったようです。するとペテロは言うのであります。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」と。

先ほども言いましたように、普通、お客として食事に招いた時には、その客の足を洗うのはその家の主人ではなく、雇い人やしもべがすることでありまして、それもユダヤ人がしないで、異邦人の奴隷がするものというしきたりであったそうですから、そんな中でイエス様自らが、たらい、水、てぬぐいを用意して弟子達の足を洗い始められたのです。

ですから、弟子によっては当然驚きますし、ことにペテロがびっくりしないわけはありませんでした。何しろ、感受性の強い彼ですから。また、感じたことをすぐに、言葉、口にする人のようですから。

本来なら、一番初めに洗ってもらった人が不思議に思って言うべきでありましたが、どういうわけか、ペテロが言うのであります。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」と。そして今言いましたように、ペテロは思ったままをそのまま述べるのであります。

すると、その言葉にイエス様は答えられました。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」とであります。

奴隷とか、しもべが洗ってくれる足を、今は先生とか、主と呼ばれるイエス様が洗って下さっている。しかも、その行為の意味は、今はわからないけれども、後で分かるようになる、とイエス様はおっしゃる。これは大変意義深い意味がある、と弟子たちは取ったことでしょう。

ですから、この言葉は、ただ単に弟子達が互いに仕えあうようにという教え以上のものが含まれている。と、そう彼らが受け取る必要があったと言ってもよいでしょう。

では、それが何なのかと言うことになってきます。そしてそれは、ペテロの8節の言葉に対するイエス様のお言葉で、何となく想像つくでありましょう。

イエス様は答えられました。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」とこう言われています。これは実にペテロとイエス様とは、イエス様のその行為によって大変大きな意味を持つものであることを指しているのであります。

これまでペテロは、イエス様に仕え、イエス様に教えを請い、イエス様に従って来ました。そんな彼でも、今回イエス様が彼の足を洗ってくださらなければ、イエス様との関係が絶たれるほどの大きな意味を持つと言われる。

ではそれは、一体、何なのかと言うことになって来ます。ペテロがびっくりするのも無理はありません。イエス様の弟子として、今まで行動してきていたからです。従ってペテロは、すぐにこう言うわけであります。「主よ。わたしの足だけでなく手も頭も洗ってください。」とです。

イエス様に体全体を洗っていただくことがいいのではないかと、ペテロはとっさに考えついたのでありましょうか。ここでペテロは「イエス様!それはどういうことですか」とも聞かないで、他の所をも洗って下さるように願いました。とにかく、洗ってもらえば大丈夫だろうと言う考えからでしょうか。

しかし、イエス様は、それに対してはっきりと答えられます。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」と。

このイエス様の10節の言葉の解釈は、大変難しいとどの本を見ても書いてありました。
何が難しいかと言いますと、イエス様のお言葉は、ただ単なる体の綺麗さ、汚れを言われているわけではないからです。霊的な意味のために行動されていたからです。つまり、肉体的な清さのことをイエス様が言われているのではなく、魂の救いに拘わることのために言われているからであります。

しかし、それでは、「水浴した者は足以外は洗う必要がありません」とはどういうことか、ということになってきます。ここで、二つの点が疑問になってきます。

一つは、水浴したのになぜ、足を洗わなくてはいけないのか。全身、洗ったのなら、もう足は洗わなくてもいいのではないか。という疑問であります。

そこで、その疑問に答えるために「足以外は」というのを省いて読むと言う方法があります。これだと、「水浴した者は、洗う必要がありません。全身きよいのです」となり、意味が分かりやすくなります。しかし、それでは聖書を正しく読んだことにはなりません。

では原典なるものはどうなっているのか、ということになるでしょう。原本はどうなっているのか、という風にであります。御存知のように、聖書は、どの部分も、第一次資料は存在しませんので、必ず写本から訳されています。そして、その中には、「足以外は」と言うのが無い物もあるのであります。

しかも、その割合が、半々だそうであります。しかし多くの場合、やはり入れて訳されているのが実情です。即ち、ただ単に省くだけでは解決できないことがお分かりでしょう。

さらに細かく言いますと、その10節には、「全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」とありまして、ここにあります「みながそうではありません」と言う言葉がひっかかってくるのであります。

12節を見ますと、「イエスは、彼らの足を洗い終わり・・」とありまして、ユダだけは洗わなかったとは書かれていないのです。ですから、イエス様はこの時、全員の足を洗われた事は確かでしょう。

としますと何を意図してイエス様は言われたのかという事になります。11節には「イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、『みながきよいのではない。』と言われたのである。と、ヨハネは書いていますように、水浴によって、罪が赦されるのでもなければ、まして、足を洗って下さることによって、完全とされるのでもない。

では、どう言うことを指しているのか、ということになります。恐らくこうでありましょう。私たちは、この世にいる時に、いろいろな失敗をします。罪を犯します。そして、神様の前に悔い改めております。

しかし、その悔い改めの前には、すでにイエス様が十字架にかかって私たちの為に死んでくださり、罪の贖いをしてくださり、私たちは罪赦された者とされているのです。ですから、その罪赦された者の行ない、犯した罪の一つ一つを悔い改め、御言葉によって、これからは罪を犯さないように歩むこと、それで十分だと言っておられるのだといえましょう。

そういう意味で、私たちは日々に、神の御言葉に従うことの出来ない弱さから出た罪、
真の神様を第一としないで来た歩み、神様に対する不忠実さなどなどに心痛められる事が数々ありますが、しかし、その事の一つ一つを神様のみ前に出して、赦しを請い、その事によって救っていただくという事ではありません。またそのように考えたり、行なったりすると言うのでもありません。

もうすでに罪赦されている者が、その罪の赦しを覚え、きよめて下さったことを覚えるためであった、その事を象徴している働きがこの洗足であったと言えます。

先ほども言いましたように、ユダだけイエス様は、足を洗われなかったとはいえません。つまり、全員の足を洗ってくださったわけであります。それはまた、イエス様が足を洗われた行為事態が、罪のきよめをされたわけではないことを指すのであります。

ユダの足を洗われたという事で、これから犯す裏切りが赦されているとは取れないのであります。これは、あくまでも象徴であって、その行為自体が、罪から人をきよめる意味は無いのであります。これは即ち、神から使わされたイエス・キリストが、身代わりとなって十字架におかかりになられ、死を遂げられた、その贖いの業の象徴と捉えるべきでありましょう。

ですから、私たち信仰者は、その働きが、イエス様のあがないを象徴していると受け止め、キリストによって罪が赦されている事実を、その象徴で深く味わうようにされていると言えます。

何故イエス様が足を洗いあうように言われたのかは、イエス様による罪からの救いのお働きと結び付けてイエス様の行為を考えなければならないと言うことになります。

イエス様はここで、ユダが裏切るにもかかわらず、分け隔てなく接しておられるのを見るわけでありますが、ここにはイエス様の広い豊かな心をお持ちである事がわかるのです。ユダの裏切りの罪が、このイエス様の行なわれた洗足によって赦されると言う事ではありません。

がしかし、そこに深いイエス様の愛を見ることが出来るでしょう。そのような者にも仕え、足を洗われたのですから。このようにしてイエス様は、「自ら上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ」、「たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って」、愛を示されたのでありました。

私たちはそのイエス様の洗足の行動を見ながら、これから行なってくださる十字架のイエス様の最高の愛を覚え、イエス様の犠牲の上に生かされ、また愛され続けていることを覚えて、これからも信仰生活を続けさせていただこうではありませんか。

2006年4月30日(日) 「主を受け入れる者」 ヨハネ13:12-17  竹口牧師 

先回はヨハネの福音書13章1−11節までを見ました。イエス様は、ご自分がいよいよ父の御もとに行くべき時が来た事を自覚され、ご自分の愛する弟子達に、その愛を残るところ無く示された、と1節にありまして、それはイエス様が、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ、たらいに水を入れ、そして弟子達の足を洗い、腰にまとわれた、てぬぐいで拭かれた、そのことに表されておりました。

しかしながら、イエス様は7節で、「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」と言われ、イエス様が弟子達の足を洗われたその意味を明らかにはされませんでした。

ところが8-11節の所でペテロとイエス様との会話が発展し、イエス様が弟子達の足を洗われた行為が何を意味しているか、それは、わたし達に示された最高の愛を象徴していた、ということを私達は見たわけでありました。

その最高の愛とは、これから、私達のために身代わりとなって、十字架にかかって死んでくださる。そしてその事によって罪赦された者とされる、そのことの象徴であり、また、それは、イエス様の復活、昇天、そして聖霊の導きによって分かるようになるものでありました。

今回は又違う点からイエス様の教えを見るのであります。それは、もう一度先回の聖書個所に目を向けていただきたいのですが、イエス様は、7節で、「今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」と言われましたが、

そしてその結論は10、11節にありましたが、今回の12節でも、「わたしがあなた方に何をしたか分かりますか」と聞かれ、17節で「これらの事を知っているなら」と言われていまして、結論的なことは、はっきりとは言われていないのであります。

今回のこの17節の「しっているなら」というギリシャ語は、「分かる」とも7節では訳されている言葉でありまして、「分かりますか?」と言われ、また「分かるなら」となりまして、その結論が、18節以下のユダの裏切りへと続いていくのであります。しかし、それは次回に譲ることしまして、今回の12節から17節までいくつかの点を教えられたいと思うのです。

まず最初は、先回見ましたイエス様が弟子達の足を洗われた事が、救いに関する象徴的なことを指していましたように、今回のイエス様のお言葉にも、それが言えることであります。

イエス様は12節でこう言われました。「イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。『わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。』とです。当然ながら、イエス様の行為自体は弟子達は見ているのですから、みんな分かるはずであります。

イエス様が自分達の足を洗ってくださったのでありました。つまりイエス様はご自分がなさった行為自体を言われているのではなく、それが、どういう意味を持っているのかを問われているのです。

イエス様が弟子の足を洗われた。本来ならその逆が自然の姿であります。ですから、その事がもっとよく分かるように13,14節でイエス様はこう言われるのです。「あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。」

そして15節では、「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです」とであります。ここに「模範を示したのです」とあります。模範、見本、手本を示したとイエス様は言われました。

ところで、聖書の他の個所から、この足洗いのことを言っているかと言いますと、他に1箇所だけ出ております。それは、1テモテ5章10節であります。「良い行ないによって認められている人、すなわち、子どもを育て、旅人をもてなし、聖徒の足を洗い、困っている人を助け、すべての良いわざに務め励んだ人としなさい。」という風にです。

従って、教会は昔から、このイエス様の教えを文字通りにとって守ってきた事実があります。そしてそれが何よりも習慣化したのは、6世紀の前半に聖ベネディクトゥスと呼ばれる修道層が現れ、その人の造った修道院の規則に、この足洗いの規則も含めていて、それ以後、キリスト教の流れの中には、この足洗いが定着し、今も続いていると言われます。

しかし、果たしてイエス様は、文字通りにそのようにしなさいと本当にここで言われたのでありましょうか。ある先生は、今日の聖書箇所の質問の回答を17節に見出されます。つまり「あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。」と言う言葉の中にであります。

「知っているのだから、それを行うならば」「あなたは祝福されるのです」とつなげられます。そしてそれは、何も足を洗うことだけに限定されない。それは、15節の言葉よりも言えると言われます。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」

というのは、確かに手本を示しておられるけれども、それは、何の手本かといえば、「わたしがあなた方にしたことを、あなた方もするように」ではなく、「わたしがあなた方にした通りに」同じようにあなた方もする事なのだ。その事の見本であるという風にであります。

つまり、足を洗うことにおいて示された原理と同じようなことを弟子達が行なっていくようにということ、これが今イエス様が示そうとしておられるお手本だというようにです。

では、それは何であったかということになります。一つは、身分の逆転であります。14節で「それで、主であり師であるこのわたしが、あなた方の足を洗ったのですから・・・」だからしなさい、という命令であります。そして、それは謙遜を教えておられるのであります。

もし、神の一人子、王の王なる方が、しもべのなすべき最も卑しい仕事をすることを、ご自分に似合わないことだと考えられなかったなら、実際に、イエス様はそう考えられませんでしたが、それならまして、主の弟子たる者が、それをするには、自分は偉大で立派過ぎると考えねばならない、そのような事柄は何もないのである。

つまりは、主の弟子たるものは、どんなことでも喜んでしなければならないと言うことでしょう。そして、それができないということは、高慢であり、神に疎まれ、嫌われ、魂を損なう罪はない、ということになってきます。つまり、イエス様がされたのですから、弟子である彼ら、そして勿論、私たちも同じでありますが、どんな人にも分け隔てなく仕える事を教えておられると言えましょう。

私たちは、最も低い人に親切を示すことを、自分のこけんに関わる事だなどと決して思うべきではありませんし、親切にする相手が恩を感じないからとかいって、あるいは相応しくないからというので、自分の手を差し控えるようなことはすべきではない。もし差し控えるならば、イスカリオテ・ユダの足を洗われたイエス様、後に失敗するペテロの足も共に洗われた、そのようなイエス様のお心ではないのであります。

私たちは気づかないうちに、あるいは、気づいてそのようにしがちでありますので注意が必要だと教えておられると言えましょう。

もう一つは、愛の人に徹しなければならないということでしょう。戒めだから、命令だから仕方なくするというのではなく、イエス様でさえ、自分に対して身をかがめて洗ってくださった、そのことに目を留める必要があるでしょう。自分の好きな人、愛する人には喜んで、何でも出来る。

しかし、そうではない人にはしたくない、そういう思いが私たちには先立ちます。イエス様は弟子の足を恐らく全員、分け隔てなく洗われた。そのようにして愛を示された。
そして、わたし達にもそのように、どんな人にも分け隔てなく仕える、その事を勧めておられるのであります。

私達は、人の悲しみを少なくし、喜びを増し加えることを、たとえそれが自己犠牲と自己否定を求めるようなことであっても、楽しみとして行なうことが求められているのです。私達がどんな人にも分け隔てなくそのように接することが出来るなら、それは、主のみ心を行なっているといえます。そして、それがイエス様の意図の一つでもあったといえましょう。

人が喜ぶことをする。困っている人を助けるなどなどということは、この世の人でも行なっています。キリストの教えを知らなくても、世の人々には理解できます。

では、どこがどう違うのかと言うことになりますが、私たちキリスト者の行為は、愛と謙遜の源泉は、イエス様から出ている、これがこの世の人たちと根本的に違うのであります。ですから、この世の人達とは全く違うと言うことを覚え、キリスト者という同じ仲間に寄与し、神様が私達を選んでくださったという選びと召しとをより一掃確かなものとしようではありませんか。

イエス様のように、私たちも全ての仲間に対して、謙遜であり、愛ある者でありたいものです。そしてもう一つ、16節の言葉を取り上げたいと思いますが、そこにはこう書いてあります。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。」とです。

ここに「まことにまことに、あなたがたに告げます。」とありますが、これは、以前にも申し上げましたように、大変大切なことをいおうとされている時に使われます。ですから、そのつもりで聞かないといけないでしょう。

また、この16節の言葉は、この世の上下関係に適用して言われることがありますが、つまり、「弟子は師に勝らない」などというようにですが、それとここで言われている事とは違いますので気をつけたいものです。

ここで言われているのはあくまでも、イエス様が中心であります。しもべは、イエス様に勝らないのです。弟子である遣わされた者は、遣わした者イエス様には勝らないということです。

では、これから何が導き出されるかと言いますと、キリスト者は全て、しもべであり、遣わされた者であるという事です。この世に上下関係が存在します。そして、規律が保たれています。

しかし、教会の中で、またキリスト者同士の交わりの中で、イエス様を主とする者は同じ立場である事を確認しておきたいのです。そして、その事を踏まえて次の文章を聞いていただきたいのです。いつものようにライルと言う人の書いた本を引用しますが、16節の解説がこのように書かれています。

「あたかも主がこのように言われたかのようである」と前置きして「わたしが今教えようとしていることを、軽く考えてはいけません。それは、些細な問題ではないのです。愛とヘリくだりとは、私への奉仕において重い事柄です。わたしは厳かに命じます。

しばしばあなた方に告げたように、しもべはその主人にまさらず、むしろ主人の模範に寸分たがわず従うべきなのだ、ということを思い起こすようにと。使命を帯びて遣わされた使者は、遣わした者に勝る者ではありません。彼は、命じられた通りに注意深く行なわなければならないのです。

もし、あなた方の主人であり、かしらであるわたしが、これらの愛とへりくだりの行為をしたのだとすれば、同じ事や似たことをするのを恥じてはなりません。もし、あなた方が本当にわたしの弟子であり、使者であるならば、わたしがするのをあなた方が見た何事からも尻込みしない事をもって、そのことを証明しなければならないのです。」以上です。

キリスト教会の中には、足を洗うことを礼典の一つとして行なっているところもあります。しかし、イエス様の求めておられる真の意味するところは、足を互いに洗いあうことではなく、イエス様が主であり師であるにも関わらず、弟子の足を洗われた。それは、当時の習慣からしますと驚くべきヘリくだりであった。

だから、それをしてくださったイエス様のごとく、その示してくださったイエス様の愛、謙遜、そして、同じ仲間に対して喜んで仕えていく。その事を教えて下さったとわたしはここから読むのです。

ですから、「弟子は師に勝らない」とこの世的にここから引用するのは間違いですし、また、この世の上下関係の中で、上の人が下の人に頭を低くして仕えるようにとも教えておられない、その点はしっかりと捉えておく必要があるでしょう。

そしてまた、真のイエス様の教えはいうまでもなく、愛と謙遜を持って、兄弟姉妹同士仕えあいなさいであります。私たちは、愛する兄弟姉妹といいながら、なかなか本心からそう言っていない場合があります。

あの人はいいけれども、どうもこの人とはうまがあわない。そして、好きなもの同士とだけで付き合う。嫌いな人とは口も利かない。時として憎しみにさえ変わる。これは、イエス様が互いに仕えあうようにといわれている事から、遠くはなれている姿だと言えましょう。この勧めは自戒を込めて、私自身にも主が語っておられると、そのように受け止めております。

イエス様は20節でこう言われています。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。」

わたし達のそばにいる兄弟姉妹はイエス様がお遣わしになった者です。そのことをいつも意識しながら、共にこの教会で、お仕えしていきたいものです。

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