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2006年5月7日(日) 「ユダのうしろ姿」 ヨハネ13:18-30  竹口牧師

私たちはヨハネの福音書13章を読み始めて今日で3回目になります。1回目は、1-11節で、イエス様が弟子達の足を洗われた。しかし、その意味はどうかというと、7節にありましたように、「わたしがしていることは、今はあなたには分からないが、あとでわかるようになります」と言われた所でした。つまり、イエス様の十字架、復活、そして聖霊が臨まれて初めてわかることでした。

そして2回目は、12-17節の範囲の中で、12節「わたしがあなた方に何をしたか分かりますか」と問われ、17節で、「あなた方がこれらのことを知っているなら、それを行なうときに、あなたは祝福されるのです」と言われ、これまた、分かるかわからないかによって分かれてきて、わかるなら、あるいは知っているなら祝福されるというものでした。そこにはイエス様が示された謙遜と愛と仕えるということの大切さが示されておりました。

イエス様の弟子たる者はそうあってほしいとイエス様ご自身がまず行動で示され教えられました。しかし、イエス様は今日の所18節でこう言われています。「わたしはあなたがた全部の者について言っているのではありません。わたしは、わたしが選んだ者を知っています。しかし聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた。』と書いてあることは成就するのです。」とであります。

つまり、あなた方全部が祝福されるのではない。そこには選びというものがあり、祝福されない者もいる。そしてその者が、聖書に書いてあるとおりに行動し成就するのです、と言うことであります。

「わたしに向かってかかとを上げた。」とありますので、決して良い事が成就しようとしているのではないことを、ここでイエス様はおっしゃっておられると分かります。19節を見ますと、予めそのことを話しておく。それは、事が起ったとき、「わたしがその人であることをあなた方が信じる為です」と前もって言われているのであります。

今は明確にしないけれども、今話しているこのことが後に、なるほどあの時に言われたのはこの事だったのかとわかるようになる、そう言われているのです。聞き方によっては何か奥歯に物が挟まったような言い方で気になります。

しかし、そう感じさせるイエス様の説明でありますが、イエス様は、そのようにして、後に起ることを、所々で、点として、言い残しておられるのであります。たとえば、ヨハネ6:70で「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」とか、

13:10で「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」というようにであります。そして、最後になって弟子たちは、その点と点とを結ぶことによって、はっきりとした線となって、イエス様の言われていたことが明確になり、そして更にイエス様に対する信頼が強くされるのであります。

ただ、今回の18節にありますニ重括弧の中、先ほどもとりあげましたが、『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた。』を巡って、これからイエス様は、それがどういうことかを一部明らかにされるのであります。

そしてそれをこれから私たちは見ていくのでありますが、弟子たちは、イエス様の言われていることが、自分達の仲間の誰に当たるのかは、分かりませんでした。

イエス様は21節でこう言われています。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」と。ここで、裏切ると言うことを考えてみますときに、「私は裏切られた」と私達が使う場合、私たちは相手を信じ、信頼し、任せていたのに、それを利用して、その逆をやられてしまった。まさに裏切られたと言う場合に使います。

しかし、21節で「イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。』」と言われた時、イエス様はご自身を誰が裏切るのかは知っておられて、言っておられるのであって、私たちとは違っています。ただ、それを明らかにされなかったと言うのが、真実であります。

ですから、弟子のうちの誰が裏切るのか、思いもしなかった者が、自分に刃を向けたと言うのではないのであります。そういう意味で、イエス様はすべてをお見通しであったことを、私たちはこの時点で、心に留めて置いてよいでありましょう。

ただ、誰が裏切るのか分からない弟子達にとっては、あるいはもしかしたら自分ではないか、否、自分ではなく、他の者に違いない、すると誰が裏切るのか、そのように彼らの思いは発展し、大変気になるところであります。22節「弟子たちは、だれのことを言われたのか、わからずに当惑して、互いに顔を見合わせていた。」とある通りであります。

福音書の他の書を見ますと、例えばマタイ26章25節では「イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。『先生。まさか私のことではないでしょう。』イエスは彼に、『いや、そうだ。』と言われた。」とありまして、これ以上裏切るのが誰か、明確なことはないと思われるのですが、

そもそも、イエス様の答えられた「いや、そうだ」という訳が、実際は「あなた自身が言った」でありますので、つまりは、あなた自身、胸に手を当ててよく考えてみなさい、というような意味ですから、周りの弟子達も気付かなかった、と言うのが真実でありましょう。

ところで、今日あつかいます個所は、その同じ場面の過越しの祭りの前の晩の食事時でありまして、弟子達が集まって、席についていたのであります。前にも申し上げましたが、食事の席につくと言いましても、現代の私達が机と椅子が用意されていて、それに座るとか、座敷にテーブルがあって、姿勢は正座、もしくはあぐらを組んで座ると言うようなものではありませんで、

左手でひじをついて、横になり、テーブルにある食物を右手で取って食べるという仕方ですから、随分違うのであります。

ある本によりますと、食卓はコの字に並べられていて、その中央の座席の一番真中に、
その家の主人が横になってすわるのだそうです。過越しの食事でありますなら、その周りに子供たちがすわり、「なぜ苦菜を食べるのですか、なぜ種無しパンを食べるのですか」といって質問し、主人はそれに答えるのだそうです。

過越しの夜の話を聖書から語って聞かせるのが定めになっており、そのようにするのが、ユダヤ人の過ごし方であります。そこで同じような食卓の並べ方を考えますと、コの字型の食卓の真中にイエス様がまず、横になられ、その右側に、左ひじを付いて弟子の一人が横になる。

つまり向かって言いますと左の席に付くことになります。そして、その人が、イエスが愛しておられた者でありました。この「イエスが愛しておられた者」というのが誰かはこの福音書には書かれていませんが、一般的には著者ヨハネだと言われています。ですから、ヨハネは、自分の名前をいれないで、そういう言い方で、何度も書き表しているのであります(19:26、20:2、21:7,20)。

ところで、右側の席にヨハネが着いたとしますと、では、その反対側は誰かと言うことになりますが、これまた、なぞであります。少なくとも、イエス様を真中に挟んで、24節のペテロの指示をヨハネが受け取るには難しいので、ペテロは他の場所にいたのではないかと言う想像は出来ます。左ひじをついた状態で、合図が出来る状況である必要があるからです。

席の順で、一番、二番という言い方をしますと、真中が勿論、かしらの席でありますが、その左側が第一の席で、右側が第二の席であると言われています。つまり、右側にヨハネが座っていますので、では、第一の席は誰かということになります。

ある先生は、恐らくユダではないだろうかと言われています。それは、26節の行為が出来るからです。つまり「それは、わたしがパン切れを浸して与える者です」と言うことが出来るのは、その場所が一番出来そうだからです。

それからイエス様は、「パン切れを浸し、取って、イスカリオテ・シモンの子、ユダにお与えになった」のでした。27節を見ますと、「彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼に入った。そこで、イエスは彼に言われた。『あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい』」と。

これを読みますと、私たちは、聖書の話の流れから、裏切る者はユダであるとそう思います。あるいはもしかしたらユダの最後を私達は知っているからでしょうか。裏切るのはユダだと思っています、あるいは知っています。

しかし、今日の所だけでは、弟子の誰も、ユダが裏切るとは思っていないのであります。そして、ではなぜ他の弟子達がそのことに気付かなかったのか、と言うことになってくるのです。そしてそれは当然ながら、普段からイエス様はそうされていた。「パン切れを浸し、取って、ユダにお与えにな」っていた。それはまた、イエス様の愛の表現であった。

だから他の弟子達は、イエス様のなさっている行為に、なんの不思議も感じなかったのではないかと思うのです。

ということは、ユダは、イエス様のそばにいて、そのような行為を受けていた。弟子達からは、信頼され有能である故にお金が預けられていた。そういう信頼とイエス様からの愛を受けていたのがユダであります。そういう愛を受けていながらなぜユダは裏切るのか疑問になりますが、

一方、イエス様に目を向けますと、なぜイエス様は、ユダが裏切ることを知っておられながら口にされなかったのか、ということになります。

それは、先ほども言いましたように、イエス様はユダを愛され、悔い改めるのをぎりぎりまで待っておられたからであるとある人は言います。裏切ると言うことは、後のことを考えますと、別にユダだけではありませんでした。ペテロも裏切りましたし、他の弟子達もみな裏切って逃げたのでした。そういう意味では全員が、イエス様が捕らえられた時裏切ることになるのであります。

ではなぜ、ユダの裏切りは、他の弟子達とは違うのでしょうか。
私が考えますのは、イエス様ご自身を敵に売り渡すと言う行為だからではないか。これはまさに、神様に向かって手を振り上げている行為だと思います。更に、この世的に言いますなら、同じ仲間をも裏切る行為であり、しかもそれにお金が絡んでいるのは、まさにこの世の縮図のように思えます。

イエス様は、ユダにこう言われています。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい」急ぎなさいと言うことです。そして、その意味を知っている者は誰もなかったと書いてあります。むしろ29節には、「ユダが金入れを持っていたので、イエスが彼に、
「祭りのために入用の物を買え。」と言われたのだとか、または、貧しい人々に何か施しをするように言われたのだとか思った者も中にはいた。」とありますように、ユダが裏切行為に出かけたとは、誰も思っていなかったのでした。

イエス様だけが全てをご存知であったわけでありました。30節「ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった。」とあります。暗い闇夜に彼は消えて行ったのでした。ユダの後姿を私達はどうのように見ているのでしょうか。27節で「サタンが彼に入った」とあります。

では、それまでの彼の行動には、問題は無かったのでしょうか。サタンが入って、まるで今までのユダとは違った、別人にサタンによって変心させられてしまったのでしょうか。決してそうではありませんね。

なぜなら、12章のところで見ましたように、ベタニヤで、マリヤが非常に高価な、純粋なナルドの香油をイエス様に塗って差し上げたときに、ユダは、「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」と言っており、ヨハネは、その言葉の裏にある意味をこう説明しておりました。

「 しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。」と。

ユダは残念ながら、27節でサタンが彼に入ろうが入るまいが、その罪の性質をしっかりと持って、イエス様をはじめ、弟子達に対して、裏切行為を常日頃から行なっていたのでありました。

イエス様の最もそばにいたであろうユダ、しかし、イエス様の心を知らなかった。イエス様の心を知ることは無かった。イエス様と寝食を共にし、あるいは苦楽を共にし歩んだ3年少し、しかし、イエス様の本当の思いをユダは知ることなく、
去って行ったのです。

闇の中に消えて行ったのでした。今度現れるときは、全く違った立場、イエス様を売り飛ばした売人として、現れるのです。全てのことをご存知のイエス様の前に、彼は後に姿をあらわすことになります。外に出て行ったユダの後姿を想像しながら、私は、非常に怖いものを感じないわけにはいきません。

イエス様のもっともそばにいたはずのユダが、実は、全然そばにはいなかった。彼の心は遠く離れていた。イエス様と行動を共にしているユダの、その姿を群集が見た時、もしかしたら、人々はユダに憧れていたかもしれません。

私もあのイエス様のそばで働いてみたい。そう思われていたかもしれません。ユダ自身はそれをどう感じていたのでしょうか。愛ある行為を、イエス様はあちこちでなさいました。それをそばで見ながら、ユダは何を感じ、何を思い、どのようにこれからしようと考えていたのでしょうか。考えれば考えるほど、恐ろしい気がするのであります。

翻って、自分自身は今どうあるのか。イエス様は、私にとってどういうお方と考え、また信じ、また、イエス様のお言葉にどのように従おうとしているのか、深く心を探られるのであります。

命を捨ててまで、つまり、愛の極みまで愛してくださったそのイエス様に対して、私はどう、それに答えようとしているのか、問われていると思えるのです。これは、私だけでなく皆さんにも問われていることです。

イエス様に背を向けないで、イエス様に向かって、罪の赦しを願い、赦され、罪からくる責めから解放されて、イエス様と共に歩む人生の素晴らしさをもう一度確認していただきたい。そして、決してイエス様に背を向けないでほしいのです。

もし、神様が御言葉を通して警告を与えてくださるなら、その警告に真正面からぶっつかり、神様の憐れみに、よりすがろうではありませんか。主の憐れみによる以外に私たちの罪からの救い、赦し、慰め、励ましは来ないのですから。


2006年5月14日(日) 「互いに愛し合う」 ヨハネ13:31-38  竹口牧師 

先回見ました最後の所30節に「ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった。」とありましたが、そのように闇夜に消えていったユダでありました。

イエス様は、そのユダが出て行く前に、ユダに対して、「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」と言われ、それに対してユダは、自分の心をイエス様に見抜かれている、そのように思っていたかどうかわかりませんが、イエス様のお言葉に従って早速、行動に移るのであります。そして残ったイエス様と11人の弟子達との会話が始まります。それが今日の始まりであります。

イエス様は言われました。31節「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。」と。

ここにはまず、栄光という言葉が出てきます。そして、それは何を指しているかと考えます時に、イエス様の十字架を指しているといって間違いないでありましょう。そして、その栄光をイエス様は受けられた。更には神様も栄光を受けられたと過去形で言われているのであります。それもギリシャ語で言いますと、不定過去形なのです。そしてこの時制態は、点で表されます。

ですから、この時点では、イエス様はまだ十字架にかかってはおられませんが、ユダが出て行ったときに、もうすでにその一段階は終わったことを指しているといえましょう。もしかしたら過去形で言われるのはへんだとお思いの方もあるいはおられるかもしれませんが、文法的にはあっているのであります。

それと共に、普通、一般的に考えますと、栄光を受けるとは、それこそ華やかな、喜ばしい、みんなから羨ましがられる、そのような事を想像するのではないかと思うのですが、しかし、イエス様がここで言われている栄光とは、ユダの裏切りによって、まさに神様のご計画の十字架による刑が執行されることでありますから、イエス様にとっても、父なる神にとっても決して良い事とは思えない。そのように私たちには思えることを、それでも、イエス様はそう言われたのでした。

欄外注には、「受けます」とか「お受けになります」とかとして、これから起ることとしての意味もあることが示されています。32節では更にこう言われているのです。「神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります」と。

ところで、ヨハネ10:30でイエス様は「わたしと父とは一つです」と言われていましたように、イエス様と父とはまさに一つでありますから、この32節のお言葉はまさにそうだと言えましょう。そして、この事は、33節にありますように、今までとは違った事態に入っていく事を指しているのであります。

それは何かと言いますと、先ほども言いましたように、イエス様が捕らえられ、十字架に架けられ、殺されることでありました。そのことは、実際はまだ始まったばかりでありました。

ユダがいよいよ行動をはじめた。そして、そのユダの行動は確実にイエス様の身に及んでくる。そして十字架刑へと進んでいく。これはもう神様の行われることでありますから、変更はない。ですから、過去形で言われてもおかしくは無いのであります。

それと同時に、わたし達罪人にとっては、あの十字架によって罪が赦され、後には、死が勝利に飲まれるのですから、人の子であるイエス様にとっても、父なる神様にとっても、まさに、栄光を受けられる時を指して言われていると言えましょう。

イエス様は、予め言われています。33節「子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない。』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです」と。

このイエス様のお言葉は、今ここで言われていますように、実は7章33、34節ですでにユダヤ人たちに言われていたのでありました。しかし、そのユダヤ人たちに言われていたことと、弟子達に今言われていることとは同じでありますが、その意味は違っているのであります。その違いは、36節のイエス様のお言葉によって、よりはっきりしているのです。

ユダヤ人たちには『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない。』と言われていますが、しかしペテロに対しては、「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」とあるからであります。これは、実に大きな違いであります。

つまり、パリサイ人たちは、なんだかんだと言いながら、実は捕らえようとして役人を遣わしたりしているけれども、そのうちに、わたしを捜すようになる。そしてわたしがいる所に、あなた方は来ることは出来ない。それは、あなた方は罪の中に死に、滅びることになるからだ。

しかし、弟子達は、そうではない。確かに今は来ることが出来ないけれども、後になっては来ることが出来るようになる、そう言われているのであります。この違いは大きいですし、イエス様のもとに行ける者にとって実に幸いだと言えましょう。

さて、33節でイエス様は、「子供たちよ」と言われています。これは実に、「神の子供」とされている者にとって、何という親しみのこもった呼びかけでありましょうか。裏切るユダがいなくなって、今や、本当の弟子達だけとなっている。その上での主の勧めの言葉なのであります。

そして、彼ら弟子達が、これからさまざまな試練を乗り越えていかなければならないことを主はご存知であられて言われたと思われます。ですから、そのためにはどうしても必要なこととして今、話そうとしておられるのであります。

それは、34,35節にあるとおりであります。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」と。

イエス様はここで「新しい戒めを与えましょう」と言われていますが、それは、旧約になかったからというわけではありません。旧約にも、人を愛する教えはあります。例えば、レビ記19:18には、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」とあります。ですから、取り立てて新しい教えとは思えません。

がしかし、よくよくイエス様のお言葉を読んでみますと、やはり、そこには違いがあるのであります。それは、自分を中心に、自分と同じように愛するというのが、昔の教えでありました。

しかし、イエス様が今ここで言われる愛し方は、自分を中心にではなく、わたしがあなた方を愛したようにと言われて、イエス様が愛する手本と言いましょうか、根源と言いましょうか。そこから、愛が他の人に表されなければならないと言われるのです。

この戒めの前には、実際、師であり主であるイエス様がご自分に仕える弟子達の足を洗って見せて下さったのでありました。この事と深くかかわりあっていると言えましょう。イエス様は、ご自分が身を持って示されたのでありました。

そしてこれは、本来、立場が逆転した仕え方でありますから、弟子達もそうである必要があるだけでなく、イエス様によって神の子とされる全ての兄弟姉妹がそうあるべきだ。そして、そのように兄弟姉妹同士が愛し合うとき、この世の人達はそこに、神の愛を見ることが出来る。イエス様の弟子であることを認めるようになると言われるのです。

ユダヤ人たちは、愛の教えを知っておりました。しかし、彼らは決して愛の共同体を作ることはありませんでした。律法に従って人をさばくことはあっても、神の民の一人として、隣人を愛することには不十分だったのでした。

神様の教えを知っていることは大切です。そして、それに生きようとすることも大切です。しかし、それが人を裁く道具になってはならないでしょう。パリサイ人の多くは、そのような歩みになっていたことは否めません。だからこそ、イエス様の弟子たちには、これからご自分が去って行こうとされるに当たって、愛の実践の大切さを語られたのでありました。

ご存知のように、イエス様が天に昇っていかれた後、キリスト教はどんどん伸びていきますが、その一方で、迫害もどんどんエスカレートしていくのであります。そして、沢山の人が殉教の死を遂げる事になって行きます。

しかし、そのような状況の中で示されたキリスト者同士の愛によって、更に深くこの世に根を張っていくのがこのキリストの教えであります。キリストの示してくださった愛、それは、十字架の死によって示された愛であります。これから起ころうとしている愛です。

罪人のために、迫害する者のために、呪う者のために、「父よ、彼らを御赦しください。彼らは何をしているのか、自分で分からないのです」(ルカ23:34)、と、苦しみの極みでも、とりなしを行なってくださったイエス様。その愛に続くものでなければならないのです。見本となるのは、我々人間の示した愛ではなく、キリストの示してくださった愛なのであります。

もし、キリストではなく誰かを見て、あなたがあの人のようになりたいと願うなら、必ず、躓くことは避けられないでしょう。言うまでもなく、私たち人間は、完全ではないからです。人に注目されることもあれば、目を覆いたくなるような部分も必ず私たちは持ち合わせているのです。だからこそ、イエス様は、「わたしがあなたがたを愛したように、そのようにあなたがたも互いに愛し合いなさい。」と言われるのです。

私たちは、自分の弱さを知って、自分の罪を認めて、主の前に告白し、赦しを請わなければならないでしょう。誰一人として完全ではないからです。そして、そのような不完全な私達の集まりである故に、ますます、キリストの愛が教会には必要なのです。

キリストの愛が、あふれ出てこなければならないのです。それを妨げる何ものもあってはならないのです。キリストの教会の目印である愛の輝きによって「あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」と言われるイエス様のお言葉が、まさに、この教会を通して世に示されるならば、何と言う幸いでしょうか。

ところで、イエス様はここで、33節半ばで、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない。』という言葉に対して、ペテロは敏感に反応するのであります。

36節で「主よ。どこにおいでになるのですか」と聞いております。それに対してイエス様は答えられました。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます」と。

37節でなおもペテロは食い下がります。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます」と。

これは、ペテロの率直な思いであったと思います。しかし、残念ながら思いと実際とは違うものであります。どんなに熱意があろうとも、実際にその場に直面した場合、どういう風になるかは、その時でないと分からないと言うのが、現実ではないでしょうか。少なくとも、ペテロの場合はそうでした。

そして、それをイエス様は見抜いて言われたのです。38節においてイエス様はペテロにこう言われました。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」と。

恐らくペテロはこの時、イエス様のお言葉に、反発さえしたのではないでしょうか。「よし、イエス様がそう言われるのなら、絶対にそうならないぞ」そう、心ひそかに誓ってさえいたかもしれません。そして、その思いが強ければ強いほど、その決心に破れる、あるいは負けた時の悔しさ、悲しさ、虚しさは計り知れないものがあったに違いないのです。

ご存知のようにイエス様の言われるとおりに、数時間後には、ペテロは罪を犯してしまうのであります。そして、その失敗を励まされるのもまたイエス様なのであります。

このヨハネの福音書の最後の章21章において、イエス様は三度、あなたは私を愛しますかと聞かれるのであります。そしてペテロはそのことで心を痛めることになります。しかし、聖霊降臨の後、彼は生まれ変わったように、命をかけてイエス様を宣べ伝える人にされるのです。

このペテロには、後日談がありまして、2世紀の伝説の書物の中にペテロの殉教の死の物語があるのだそうです。ローマでペテロが説教をしていた時、そのペテロを亡き者にしようとの計画が持ち上がり、そのことがペテロの集会にもたらされます。

すると、集まっていた弟子達が、「ペテロ先生、是非、あなたはこの都から落ち延びていただきたい」とこう勧めるのであります。そこでペテロは考えました。そして、逃亡を断るのですが、弟子たちは「いいえ、あなたはまだ主にお仕え出来るかもしれません」と頼まれ、とうとうペテロは一人でローマの町を出る決心をします。

そして、それを実行に移すために、ローマの町の門を出たとき、丁度キリストがローマの門をくぐって都に入ってこられるのとすれ違いになりそのことに気付いたペテロはこう言ったと言うのです。「主よ。どこにお出でになるのですか」とペテロが尋ねた。

するとイエス様は「私はローマに十字架にかかりに行く」と言われたので「主よ、再び、十字架にかかられるのですか」と聞き返し、「しかり。ペテロよ、私は再び十字架にかかるのだ」と言われ、この言葉を聞いたとき、ペテロはわれに帰り、

幻の主は天に上って行かれるのを見、ペテロは早速に弟子達の下に帰り、私は十字架にかかるべきことを主から示されたと言って、囚われの身となり逆さ十字架にかかり殉教したというものだそうです。

これは、物語でありまして、イエス様が再び十字架にかかって下さる必要はないのでありまして、そのことは、ヘブル人への手紙にはっきりと書いてありますし、ペテロもそのことを十分知っていたことですから、そのことに気付いていたと言えましょう。

がともかく、ペテロは兄弟姉妹を愛し、そのためならいのちをも捨てる覚悟をする者になっていたとは、考えられることであります。ラテン語で、「ドミネ・クウォ・ヴァデス」それが日本語で「主よ。どこにおいでになるのですか」という意味だそうです。

今年の正月には、そのDVDを見ること3時間40分、物語とはいえ、私たちもまた、主が命じられた「あなた方は互いに愛し合いなさい」と言う命令、それも「わたしがあなた方を愛したように」という条件を覚えつつ、心を新たにしたものでした。

共にイエス様から受けている愛を、お互いに分かち合い、そしてその愛がこの世の人達へと広がって行く事を私は願うのです。

弱さは誰しも持っています。しかし、その弱さをも受け入れてくださったのがイエス様ですから、その方のご命令である「互いに愛し合いなさい」というお言葉にお従いしていこうではありませんか。

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