2006年6月11日(日) 「永遠の住まい」 ヨハネ14:1-11 竹口牧師
今日からヨハネの福音書の14章に入っていきます。この14章から16章までがイエス様の最後の晩餐の席で、弟子達に語られた説教であります。ある人は遺言のような説教だといいます。また長い説教であります。
今回は11節までを見るのですが、この部分は、イエス様がどこにお出でになるのか、という点についてイエス様と弟子達の間で交わされる会話であります。
先回は、ペテロがイエス様のお言葉に敏感に反応しましたが、今回はトマスとピリポが反応し、イエス様に質問する所であります。そしてその質問は、イエス様の弟子が質問したところに意外性があり、また彼らが質問してくれることによって、それ以外の人でもイエス様の言わんとされる事が理解できるようになる素晴らしい所であります。
その一方で、弟子達からの質問と言うことでイエス様は、ある種の失望感を持たれたかもしれませんが、私たちにとっては大変、好都合なのであります。その意味する所を私たちがより深く知ることが出来るからであります。
ところで、今回見ます聖書個所の最初の3節は、私達信仰者に大変な慰め、励まし、希望を与えてくれる所であります。なぜならこの世にあって誰ひとり闇を経験しない者はいないからです。ですから、まさにそういう闇を経験している最中の人には、1節の言葉は、大変な励ましの言葉になると言えましょう。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」とあるからです。
一つの不安が、次から次へと不安を掻き立て、もう夜も寝られない、そういう思いをされた方もおられるでしょう。もしかしたら、今まさに、そういう方もおられるかも知れません。
そういう方は、一旦立ち止まって、イエス様のお言葉に目を止めてほしいのです。イエス様の確信あるお言葉を信じ、また身を委ねて欲しいのであります。この世を生きていく為には、心配事はいつでもついて回ります。それだけに、もう生きるのは沢山だ、と悲鳴をあげたくなる、そういう時もありましょう。
心が騒ぐときはまだ何とかしようとの思いがありますので、まだ大丈夫ですが、それを通り越して、無気力、無感動、無反応の域に達しますと、それはもう危険な状況であります。実は、その域に入ってしまったら本人は気付きませんので、周りの人が気付いてあげなければならない事態だといえましょう。
ところで、どんなに苦しくても、寂しくても、辛くても、全ての良き理解者がこの世にはおられることを、私達教会に来ている者は、忘れてはならないのであります。そして、その方の下にいける状況を私たちは、毎日の生活の中で築き上げておく必要がありましょう。イエス様の元にいることを、御言葉を通して日々に確認することは、信仰者として大切な信仰の行為だからです。
静思の時、つまり真の神様を静かに思う時間、そして場所を確保することが必要です。あるいは、デボーションという言い方もされておりますが。それが、きちんと確立していないと、この世のさまざまなことに振り回されて、いつの間にか、自分自身を見失っている、そういう事にもなりかねません。
この世には、宗教という名のもとに、いろいろな問題からの解決を説いて差し上げますといって、何もよく分かっていない人を取り込もうと待ち構えている、そういう宗教で満ちているのであります。
ですから気をつけないと、足元をすくわれ更に悪くなり、どうにもならなくなる、そういう泥沼に入れられることにもなります。真に恐ろしいことであります。そのような時、間違いに気付かされ、真の神様に助けを求める方は幸いであります。
私たちキリスト信仰者は、何の迷いもなくイエス様の元に行きます。そしてそれが、正しいのであります。全ての問題の解決の答えは、必ずイエス様にあるからです。ですから、キリスト信仰者はいつでも、イエス様のもとに行くことであります。
イエス様の言われているもう一つの点は、私の父の家には住まいがたくさんあるという事実です。しかも、私たち信仰者のために、場所を備えに行くのだと言われています。私たちは、この地上にあって、時々旅をすることがあります。
ある人は、世界を又にかけて、あちこちと飛び回っておられます。それが単なる旅行であろうと、あるいはビジネスであろうと、その旅が終われば、自分の家に戻ってくつろぐのであります。
そういう、戻ってくる家を持っているからこそ、人は安心して旅に出、また帰って来れるのであります。もし、それがなかったなら、いつも不安でありましょう。次はどこで寝るか、食べるか、何を着るかなどなど大変です。
もっとも、人の歩みをもっと長い目で見ますと、そして、この地上での生活を一時的なものとして見ますと、実際に、ヘブル書の記者は、そのような目で書いているのですが、旧約において信仰に生きた人達が、この地上での歩みを、旅人としての歩みであり、寄留者であると告白していたと書いています(ヘブル11:13)。
現代の私たちにとっても、この地上での歩みは、永遠の世界から言いますと、ほんのひと時の歩みであり旅であります。実際は、もっと素晴らしい故郷、天の故郷がある事を聖書を通して知っているのであります。
神様はそれを信仰者の私たちに用意して下さっておられます。私たちは、自分の肉体がある限り、そこには行けないのですが、と言いますか、もっと前向きな考え方をしますと(Uコリント5:1)、私達の地上の幕屋が壊れたなら、つまり死んだなら、神の下さる建物、人の手によらない、天にある永遠の家があるのです。
それをイエス様が用意してくださっているのですから、何と言う安心でしょうか。どんなに信仰が弱くても、どんなに信仰が強くても、そういうことに関係なく、主につながらせていただいている者には、この地上にはない素晴らしい住まいを主が用意してくださっている。それは何と言う感謝な事でしょうか。
この地球上では、物理的場所には限界があります。人が住めるところというのは限られています。活断層があるとか、地震がそろそろ来てもおかしくないとか、台風や大雨や雪やそういった自然の災害を気にする必要もあります。事件や事故や思わぬトラブルに巻き込まれると言ったことも心配です。
肉体は日々に衰えております。病気は容赦なく襲ってきます。そういう事を考えますと心配になります。そしてまた、心配すればきりがありません。
しかし、そういう不安定な歩みの中にもイエス様がおられ、守られ、また困難の中にあっても共に考え、最善の道に導いてくださる方がおられるだけでなく、もっと安定した、何の心配も要らない場所をイエス様は用意してくださると言われるのです。それが、天国であります。そこは、本当に素晴らしい所だと聖書は教えてくれるのです。
ところで皆さんは今、ご自分の家を出て、ここに来られたわけですが、そのご自分の家を離れるに当たって、いくつの鍵をかけて来られたでしょうか。一つの扉に今やダブルロック、二つ以上の鍵をつけるのは常識になっていますし、あちこちの窓にも気を配られたことでしょう。。
いろいろな所に鍵をかけて出かけるわけであります。それでも、泥棒に狙われればひとたまりもありません。しかし、天国はそのように何種類もの鍵を持っていなければならない、そんなところではないことを、聖書の黙示録などを見ますと、はっきりと教えてくれるのであります。
「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。」そういう風に書かれています。
ですから、私たちクリスチャンが、これから神様が入れてくださろうとしている所は、何と言う楽しみな所だろうかと思うのです。この世で、どんなに貧しくとも、生きているだけで価値がある。生かされているだけで価値がある。それは、主の御名を褒め称える為に人は造られているからです。
その私たちが、この地上での勤めが終わった時、神様は、天国に入れてくださるのであります。私達は、そのお約束を信じて、現在は、イエス様のお言葉に従いつつ、そのときが与えられるのを心待ちにしている、それが私たちクリスチャンであり、また特権でありましょう。
もう一つ、このイエス様のお言葉で教えられますのは、希望を与えて下さっていることであります。その希望は、これから行かせていただける所の素晴らしさと言う点だけでなく、イエス様ご自身が私達信仰者を迎えてくださると言う点です。
私たちが、天国に迎え入れられる為に、私たち自身がいろいろな手配をし、備え、天国にお迎えしていただいても、恥をかかないように、イエス様の方から私たちが天国に入るために、用意をしてくださると言われるのです。
天国には、私達の必要なものは全て備わっていて、私たちはイエス様が場所を備えてくださっていますので、ありのままで行けばよいのであります。イエス様は再び来て、「あなた方をわたしのもとに迎えます」と言ってくださっています。イエス様の指示に従っていけばよいのです。
イエス様は、私たちが天国に入るために、ただ一度、ご自身をささげてくださり、審きを受けてくださいました。ですから、私たちが自分の罪のために何かをしなければ、天国に入れていただけない、そういうことはないのです。
イエス様ご自身が、私たちを迎えてくださり、私たちの居場所をきちんと用意してくださっているのです。何という感謝な事でありましょうか。本当に、この1−3節のお言葉を読めば読むほど、イエス様の救いの恵みに与った者の幸いを感じざるを得ないのです。
ある人は、死ぬことを大変恐れます。死の先に何があるか分からないと心配します。しかしクリスチャンであるなら、そんな恐れは無駄です。むしろ、この世の全てのわずらいから解き放たれ、永遠の休みであり、喜びであり、楽しみであり、主を讃美し、主の御名をほめ称えることができるのですから、これほど素晴らしい事はないのです。
これはイエス様を救い主と信じている者だけがいただける特権です。もし、まだ、その素晴らしい特権をいただいておられなければ、是非とも今すぐにでもイエス様からいただいて欲しいものです。イエス様はいつでも招いておられるお方なのですから。
ところで、イエス様は4節の所でこう言われています。「わたしの行く道はあなたがたも知っています。」すると、イエス様の弟子の一人のトマスが聞くのであります。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」と。
このトマスの質問を私たちは決して笑ってはならないでしょう。イエス様の弟子たる者がどうして、そんなことを質問するのだ、そう思ってはならないのであります。なぜなら、時間的な流れから言いますと、現代に生きる私たちには、イエス様がこの後どういう道を辿られるか、すでにわかっているのですが、トマス達には、まだよく分かっていないからです。
むしろ私達と比べるより、当時の人達と比べたほうが良いでしょう。そうすれば、彼ら弟子達の優秀さが分かってくるからです。と言いますのは、イエス様の弟子たちは、当時の人達よりもずっとよくイエス様のことを知っていたからです。また信じて、従っていたからです。イエス様はメシヤであり、生ける神の子であり、この方を知ることが、天国に至る第一歩であると知っていたからです。
問題は、更に次の点について知らなかったので尋ねたのでありました。聞くは一時の恥じ、聞かぬは一生の恥じなどといいますが、まさに、トマスとイエス様とは、弟子と師の関係にあるのですから、何の遠慮もせずに教えてもらえる特権があったのであります。
私たちもまた、イエス様の弟子であります。神の子とされたものであります。何の遠慮もなくイエス様に質問し、答えを得て欲しいものであります。トマスの質問に対してイエス様ははっきりと答えてくださいました。
イエス様は言われました。6節「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と。イエス様は、ご自分が道であると言われます。真理だとも言われます。更には命なのですと言われます。
よくここで考えていただきたいのですが、この世の中に、このように言った人は誰もいません。道について説明した人は沢山います。真理について語った人も沢山います。
しかし、自分自身が道だとか、真理だとか、まして、いのちだと言った人を私は見た事も聞いた事もありません。イエス様だけなのです。そしてまさにイエス様ご自身が、道であり、真理であり、命なるお方なのであります。
この世で、色々なことを言う人がいますが、その人自身について言いますと、・・・・については語っても、道でもなければ、真理でもない。まして、いのちでもないのです。
そういう意味では、イエス様は、この世の誰とも比較できないお方なのです。イエス様は更に7節でこう言われています。「 あなた方は、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなた方は父を知っており、また、すでに父を見たのです。」
イエス様は兼ねてから、父と私は一つですと言われて来られました。そして、そのことを又確認するかのように言われているのです。すると今度はピリポが質問をします。8節「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」すると9-11節でイエス様は言われます。
「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。
わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。
わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」と。
皆さんは、このイエス様のお言葉を聞きながら、イエス様の弟子が、ここまでイエス様に言われなければならなかったのかとがっかりなさらないで下さい。
と言いますのは、最初のほうでも言いましたが、イエス様のお言葉を聞いて、ここまでついてきたのは、彼らだけなのですから。
人々はイエス様から離れていく。そういう中で、弟子たちは従ってきていたのです。 イエス様が、どういうお方であるか、更に12節以下で、その真理に触れていくのであります。
私たちにとって大切なのは、イエス様が、天国への道そのものであられ、真理であられ、誰一人として、この方以外を通っては天国には行けないという事です。難行苦行をしてではなく、主が、天国への道となってくださり、迎え入れてくださるのです。
私達は、その恵みに感謝して行かせていただくだけなのです。それも、イエス様があの十字架の上で果してくださった私たちの罪を贖う業によって、そうさせていただけるのです。その事にしっかりと目を留めつつ、感謝のうちにこの地上での生活を送らせて頂こうではありませんか。そして、後に永遠の住まいに入れていただける日を楽しみに待たせていただこうではありませんか。
|