2006年7月2日(日) 「助け主、聖霊」 ヨハネ14:12-17 竹口牧師
先回の所でイエス様は、この地上を去るとおっしゃいました。そしてその理由は「あなた方のために場所を備えに行く」のであって、備えたら、「又来て、あなた方をわたしのもとに迎えます」と言われました。
この事を聞くと弟子たちは動揺するとイエス様は感じてでしょうか。それを言う前に「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じまたわたしを信じなさい」と14章の最初の所で、励ましてから去って行く事を言われたのでした。
イエス様が備えてくださる住まいというのは、天上にある父の家であり、神様と共にいる場所を表しておりました。ですから、何の心配もないように感じるのでありますが、弟子達にとっては、今までイエス様と一緒に過ごしてきた、そのイエス様がおられなくなるというのは、大変寂しいことであり、
それだけでなく、彼らにとってみれば、大変大きな指導者、師であり先生であるお方が おられなくなるのですから、大変心配になったのでありましょう。ですからトマスは、聞いたのでありました。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。 どうして、その道が私たちにわかりましょう。」と。
それに対してイエス様は、ご自分が道であるので、そのイエス様を通してでなければ、父の御許には行くことが出来ない。それと共に、イエス様を見た者は、父なる神を知る者であり、父を見た者である、とそのようにイエス様は言われたのでした。
すると今度は、ピリポが、「父を見せてください」と言いました。そこで又イエス様は答えられました。「わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは『私たちに父を見せて下さい』と言うのですか」と。
弟子達のこのようなやりとりは決しておろそかに出来ないものです。と言いますのも、多くの人たちがイエス様に近づき、そのイエス様との近さが増せば増すほど父と御子との関係、その答えを必要とするからです。また、求める思いが強くなればなるほど、その答えが、自分との関係で必要になってくるからです。
そして、御子が御父におり,御父が御子におられるという一体性(10)それが分かってこなければ、真の神様を理解するに至らないからです。そこでイエス様は、もし分からなければと言って、11節にありましたように、「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」と勧められたのでありました。
イエス様のなされた業とは、それはそれは、大変不思議で満ちておりました。水をぶどう酒に変えられたり(ヨハネ2章)、水の上を歩かれたり(マタイ14章)、男だけで5000人を養われたり(ルカ9章)、病人を癒したり(ルカ8章)などなどいろいろされたからでした。
そのイエス様が去って行かれるに当たって言われたことが、イエス様と父なる神様とが一体であることを信じなさい。さもなければ、業によって信じなさいと言われたのが先回でした。そして、いよいよ今日の聖書個所へと入っていくわけですが、12節にはまずこう書いてあります。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」とであります。
これを読まれますと、一瞬、みなさんはどう感じられるでしょうか。イエス様がここで言われていることは、もしかしたら、先ほど挙げましたような奇蹟、水をぶどう酒に変えるとか、水上を歩くとかなどのことを指して言われたと思われるでしょうか。
実は、「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。」とは、イエス様が行なわれた奇蹟を指すものではないことが、イエス様が昇天なさった後の弟子達の行動から分かってきます。
なぜなら、彼ら弟子たちが、水の上を歩いたとか、水をぶどう酒に変えたとか、そういった事は書かれていないからです。確かに、使徒の働きの書をみますと、「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行なわれた」(使徒5:12)とありますし、ペテロやパウロが奇蹟を行なったことなどが出ています。
しかし、どうもイエス様は、そういうことを指して言われたのではないようであります。もっと別のこと、それこそ誰にでもは出来ない業であったようです。つまり、イエス様が考えておられたことは、はるかに多数の「回心者」が出る、またはるかに広範囲な福音の伝播がなされるようになる、そのことを指しておられたようであります。
とするなら、私達は間違っても12節のイエス様のお言葉より、さまざまな不思議な業が出来るよう求めるべきではない、そう教えられるのであります。むしろ、失敗の多い、弱さの目立つ者でありますけれども、神様が用いてくださる器、遣わしてくださる僕として、謙遜に御言葉を伝える者としてくださるように願い、実際にそうして行かなければならないと教えられるのであります。
もし、不思議な業が必要と神様がお認めになられれば、確実に神様はそうさせ下さいます。大切なのは御言葉を宣べ伝える、この事に専念すべきでありましょう。イエス様が天でとりなしてくださっている限り、この地上にいる私たちにとって、難しすぎることや、大きすぎることは何もないことを覚えたいのであります。
御言葉の真理を宣べ伝える事は、決して困難なく推し進められる働きではありませんが、しかし、主が共にいてくださるのですから、信仰をもって伝えていきたいものです。
さて、第二番目に大切なことは、イエス様が13、14節でこう言われている所に見ることが出来ます。「またわたしは、あなた方がわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなた方が、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう」であります。
私たちが普段、神様に何かを求める時といいますのは、祈りを通してであります。つまり、祈り求めなさいと言うことであります。それもイエス様のお名前によってであります。それは父が子によって栄光をお受けになる為だとイエス様は言われます。それも13節をよく読みますと、「何でも」と言う言葉が入っています。
イエス様のお名前によって何でも求める事ができる。そうすれば、イエス様はそれに答えてくださるとあるのです。
ところで、ここにあります「何でも」と言われる場合、求めることに制限はないのかという問題があります。この世の人達が求めるものの中には、真に残念ですが、健康、金銭、世俗的な繁栄を求めていることが多いものです。
しかしそれらは、この世を生きていく為に必要な部分ではありますが、それが満たされることが第一義的ではない事は言うまでもありません。もっと大切なことがあるのです。
キリスト者にとって、もしそれが必要なら、神様は決してその求めを拒否なさることはないでしょう。しかし、私たちがまず、食べる、着るなどを第一に求めることは、イエス様の言われる、何でも求めなさい、というお言葉に忠実に従っているとは言えないと私は思うのです。
なぜなら、イエス様は山上の説教のところでも言われましたが、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、それらのものはすべて与えられます」と言われているからであります。ですからイエス様は、ここで祈り求めることを勧められていますが、決して自己中心な、ご利益を求めて、生活がもっと豊かになるように、そういう求め方での「何でも」と言われているのではないことは大切な点です。
あくまでも、御心を求め、行なうことにおいて、主は何でも答えてくださるお方であり、祈り求めていくようにと勧めておられると言えましょう。
私達は、御言葉を宣べ伝えようとするとき、その言葉の足りなさ、思いだけが先走って、真理が伝わらない、そういうもどかしさを感ずることはないでしょうか。主のお言葉を伝えようとするとき、私達は確信を持って、御言葉の剣、聖霊の助けによって、自分が主から遣わされている事を覚えつつ、用いられたい。そう願うべきであると思わされるのです。そのために必要なものを備えてくださるようにと、祈り求めざるを得ないのではないかと思うのです。
さて、今日の第三番目に取り上げたいことと言いますのは、16,17節にありますように、聖霊なる神様のお働きであります。16節にこうあります。
「わたしは父にお願いします。そうすれば父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなた方と、ともにおられるためにです。」
ここには、三位一体なる神様のお働きが言い表されている注目すべき個所でもあります。お願いされる御子、そしてそれを聞いてお与えになられる御父、そして遣わされる助け主なる御霊であります。
勿論これは、それぞれのお働きを示しているのであって、三位格は等しい力と権威を持っておられる事は言うまでもありません。それと共に、私たちが誤解してはならないのは、「わたしは父にお願いします。そうすれば父はもうひとりの助け主をあなた方にお与えになります。」と言うところから、聖霊なる神様は、ペンテコステ以前には教会にはおられなかった、と取ってはならないと言うことであります。
聖霊様は、旧約時代からおられ、働かれていたのでありました。つまり、その方のお働き無くして誰も神様の受け入れて下さるお働きは出来なかったのであります。ですから、言うまでもなくイエス様と同時代のバプテスマのヨハネは、聖霊に満たされていたのであります。
従って、ここでイエス様が言われています「もうひとりの助け主をあなた方にお与えになります」と言うときの「与え」とは、聖霊が以前に臨まれた以上に、満ち満ちた仕方と影響力、それに恵みの現れが伴なってくる、そういうことになります。
従って誤解して欲しくないのは、使徒の働き2章に出ています、ペンテコステの時に起った出来事を中心に考え、それ以前は全く聖霊のお働きはなかったと言うようには考えないでいただきたいのです。
三位一体の神様は、永遠の昔よりおられ、働いておられるお方なのです。そしてまた16節の最後のほう、「その助け主がいつまでもあなた方と、ともにおられる為にです」とは、キリストが死から甦られ、天に帰られたように、聖霊なる神様も一緒に天に帰られると言うのではなく、キリストが再び来られる時まで、いつも神の民と共におられる、ということであります。
ですから、信仰者である私達は、とても恵まれた中にいることが出来ているのです。なんと言う感謝な事でありましょうか。
17節を見ますと、この聖霊なるお方を、真理の御霊という言い方がされています。そして「世は、その方を受け入れることが出来ません」とあります。「世はその方を見もせず、知りもしないからです」と。
考えてみますと、当然な状況でありましょう。聖霊について何事をも受け入れず、知らず、見ない、否、むしろ、積極的にそのようにするのが、この世の者の姿なのです。ですから、それがこの世の人の特徴であると言えるでしょう。
聖霊の内住の有る無しが、敬虔な者と、この世の邪悪な者とを区別する目印になるといえるかもしれませんが、実際はそう簡単に見分けが付くわけではありませんので、間違った判断は出来ません。
少なくとも、本当に聖霊なるお方がその人に内住されない限り、真の生まれ変わりはありませんし、キリストについて語っても、それは知識上のことであって、本当の意味で、聖霊のお働きなど語ることは出来ないと言えましょう。
パウロは1コリント2:14でこう書いています。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。また、それを悟ることが出来ません」と。
あるいは、1コリント12:3でもこう書いています。「聖霊によるのでなければ、誰も、 『イエスは主です』ということはできません」と。『イエスは主です』と口で言うのは誰でも出来ます。しかし、聖霊によらなければ、真の意味では言っていないわけです。この違いもまた、聖霊のお働き無くして理解は不可能であります。
そういう意味で、私達は今一度、自分の中に住んでくださっている聖霊様のお働き、イエス様が送って下さった聖霊の恵みを覚えたいのです。イエス様は、17節の最後のほうで、聖霊なるお方が、「あなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです」 と言って下さっています。
信仰の初期の段階のとき、私は自分の信仰について何度も疑ったものでした。本当にイエス様は、私を救ってくださったのだろうか。本当に聖霊様が内住してくださっているのだろうか。こんな罪人を神様は赦してくださったのだろうか。そういう疑問を抱えながら、よちよち歩きの私の信仰を、神様がここまで守り導いてくださったのは、聖霊なる神様のお働きであることが、今は分かるのであります。
イエス様が、十字架を前にして、語られたこの説教は、その当時の弟子達を励ましただけでなく、今日の真のキリスト者全部を、いいえ、11弟子達以降の信仰者をどれだけ励まし、また、信仰を支えて下さったことでしょうか。
朽ちていくこの身体の中に、聖霊なる神様が内住され、今日の私たちの信仰があるのです。何と素晴らしいお方を私達は、この身体に持っていることでしょうか。
最後にもう一つパウロの言葉を引用して終わりたいと思います。2コリント6:16です。 「神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。『わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。・・』」以上です。
見た目には分かりませんが、この世の人達と大きく違うのは、この点であることを覚え、イエス様が再び来られる時を待ち望みたいものです。
2006年7月16日(日) 「イエスを愛する」 ヨハネ14:18-24 竹口牧師
イエス様は十字架刑が数時間後に迫っている中で、弟子達にこう言われました。 18節「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」と。
このイエス様の言われているお言葉、「孤児にはしません」というのを、逆に考えてみますと、とても大切なことをイエス様は言われている事が分かります。つまり、イエス様が殺されることによって、イエス様に従っていた者たちは、ちりぢりとなり、孤児となる可能性がある事を指しているのであります。ですから、そうはさせないよと言われているということになります。
と言いますのは、イエス様の弟子たちは、いつもイエス様と共にいて、必要なものを受けておりました。食べる物を始め、さまざまな問題に対して、どのように対処したらよいのか、教えていただいていました。
そのようにして下さっていたイエス様が、今や、十字架刑によって、殺されてしまう。そうしますと、弟子たちは、両親を失った幼児のごとく、身寄りのないみなしごの様になってしまいます。だから、そうなっても「あなた方を孤児にはしません」と、そう言われているのであります。これは、弟子達にとって幸いなお言葉であります。
いつでしたでしょうか。小さい頃の私の体験をお話した事があります。それは、こんなものでした。
昔は、現代のように、電気式の蚊取器などありませんでしたので、蚊帳(かや)の中に入って寝るのが普通でした。両親と共に、その蚊帳の中に入って川の字になって寝る訳ですが、そして当然ながら、両親は朝早く起きて仕事に出かけます。ですから、私が目のさめた時は、いつも一人でその蚊帳の中に取り残されているわけであります。
そのときの怖さというものを、昔はよく感じておりました。誰もいない世界、蚊帳に取り囲まれ、部屋全体を見ても誰一人いない、シーンと静まり返った状況。それこそ自分の状況がよくわからない年頃には、必死で泣いていた事を思い出します。
両親がいつもそばにいてくれる、それで子供は安心するものです。しかしそれが、仕事とはいえ、そばに誰もいないのですから、やはり怖かったのは言うまでもありません。
ところで、イエス様は確かに、この数時間後には、十字架刑によって、殺され、墓に葬られます。そして、三日目に甦られますが、40日間、弟子達と共に過ごされた後、天に戻られるわけであります。
つまり、弟子たちにとっては、親のいなくなった子供のようになるのです。そのような中で、一体弟子達は、どんな気持ちになるのでしょうか。恐らく、不安であっただろうと思うのであります。だからこそ、イエス様はこうして前もって、彼らに語って下さらなければならなかったといえましょう。
ところで、イエス様が言われた、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」と言う意味が、語られたその時には、よく分からなくても、あるいは、自分との関係がすぐには理解出来なくても、あとから、よく理解できたと思うのであります。弟子たちは正に、それを後で経験することになるからです。
さて、19節でイエス様は、「今しばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。」と言われました。
先ほども言いましたように、イエス様は、天にお戻りになられます。ですから、この世の人達がイエス様を見なくなるのは当然であります。弟子達もまた同じように、肉体の目では見えなくなってしまうのです。ところが、弟子達に、実はそうではないと19節で、「あなた方はわたしを見ます」と言われるのです。
では、その理由はなんでしょうか。それは、同じ19節に書いてあります「わたしが生きるので」という点にあるのです。「イエス様が生きられる」だから、「あなた方も生きる」と言われるのです。
イエス様は殺されますが、三日目に甦られます。しかしまた、天に帰られますので、見ることが出来なくなります。それでも、イエス様は「あなた方は見ます」とおっしゃるのです。
これはどういう事でありましょうか。弟子たちは、確かにイエス様の昇天の後、イエス様を肉眼で見ることはありませんでした。今日の私たちも、肉眼でイエス様を見ることは出来ません。しかし彼らの心の中にはイエス様が脈々と生き続ける事になるのです。それは、思い出としてではなく、教訓としてでもなく、まさにイエス様が生き続けて下さるのです。
だからイエス様はご自分で「私が生きるので、あなた方も生きるからです」と言われるのです。そのことの事実を明確に表した告白がありますので、その人の言葉を引用しておきましょう。それは十二弟子のひとりではなく、その後で霊的に生まれた人ですが、パウロという人の言葉であります。
パウロは、ガラテヤ人への手紙2章20節でこう言っています。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」とであります。
パウロはそこで、「キリストが私のうちに生きておられるのです」と告白しております。そして私たち信仰者もまた、心のうちにキリストがおられ、キリストと共に歩んでいる事を告白できると言えましょう。まさに18節の「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」とは、その通りでありましょう。
リストにある者はみんなキリストによって生きる者とされています。それは、キリストは殺されたのに、生きる者となられたからであり、従って、私達もまた、死んでいたのに、生きる者とされたからです。そして生きる者とされた私たち信仰者は、20節にありますイエス様のお言葉が理解できる者とされたのでした。
「その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」父とイエス様との関係、イエス様と私たちとの関係、そのつながりの神秘的な関係が、信仰者ならお分かり頂けると思います。
父と子とはひとつですと、イエス様は、何度かいわれて来られました。その一体性がここでも言われていると言えましょう。そのようにされている私たちが、神様から求められていることは、21節の言葉のとおりです。
「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」と。
ここには、イエス様と父なる神様と、愛されている私たちとの三者の関係が表されています。しかも愛されている私達が、どのようにイエス様と関わっていくか、それによって、子であるイエス様と父なる神様が私たちにどう関わってくださるかがここに書かれているのであります。
私たち信仰者は、まず、イエス様によって救われているなら、孤児には決してしない、と言われるイエス様のお言葉に信頼し、そのイエス様をしっかり見上げつつ、お従いする事が求められているといえましょう。
私たちのイエス様に対するお従いの仕方は、一生懸命完全であろうと目指しますが、決して完全にはなれません。むしろ不完全であり、時にはその事によって失望すらします。イエス様のして下さったことに対して、また、求めておられることに対して、大変申し訳ないという思いすら持つこともあります。
しかし、そんなことは重々、承知なのがイエス様であります。そういう弱さを持つ者を敢えて憐れみ、救ってくださったのでした。そして神様は、私達の内側にある心を見られるのであります。どれだけイエス様を愛しているか、ご自分の父を愛しているか。イエス様は21節でこう言われます。
「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします」と。
イエス様は、ご自分の子を、いろいろなことで訓練し、神の子に相応しく整えてくださっています。それはまた、人それぞれであり、周りの人と比較する問題ではありません。私と神様との関係であり、また、皆さんお一人お一人と神様との関係であります。
ですから自分は神様に用いて頂くには相応しくないと思ったり、自分の能力を過小評価しないで、ましてや卑下することなど決してすることなく、神様にあなたは愛されていることを覚えながら、ならば、どのようにして神様にお仕えしたらよいかむしろ真剣に、積極的に考えてお仕えして行きたいものです。キリストが皆さんお一人お一人のうちに住んでいて下さるのですから。
ところで、イエス様の弟子の一人がここで疑問を持ったようです。その弟子の一人とは、22節にありますように裏切ったイスカリオテのユダではないユダであり、また、その疑問は、こういうものでありました。「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」と。
これは、もっともな質問であります。そこには、何となく差別があるように思えます。ですから、ある人は、これは不公平ではないかと言います。また神様は、人を分け隔てなさっていないかと言います。そしてこれは、もっともな意見であります。しかしながら、不公平だとか、分け隔てをしているとか言う前に、神様はご自分のなさる事に、一々人の意見を聞く必要のない事も事実です。
罪人は、そして神様に造られた私たち人間が言う事ではないのです。イエス様は23節で、はっきりとこう言われます。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます」と。
神様を批判する前に、まず、人は誰でも、イエス様を愛するべきなのです。 なぜなら、今、まさに、罪人のあなたのために十字架におかかりになろうとしておられる愛なるお方だからです。
イエス様を愛するということは、イエス様の喜ばれることをすると言うことですから、 イエス様のお言葉を守ることになります。イエス様をもし、愛せないのなら、その理由は何でしょうか。
イエス様が、何か気にいらないことを自分にされたのでしょうか。そうではないでしょう。そうではなくむしろ、ご自分の命を捨ててまで愛してくださっているのです。その事に目を向けないで、イエス様を批判するのは大きな間違いです。
イエス様を愛する人の所にイエス様は来られ、しかも、その人と共に住むと言われるのです。私は自分の部屋を見ながら、その整理の悪さにいつも困っていますが、恐らく、心の中も同じではないかと内心思っています。
そのような中にイエス様をお入れするのは果たして大丈夫か、そんな心配をしないわけではありません。しかし、私の心の汚さ、罪に汚れきった心でも、イエス様が綺麗にしてくださるのですから、私はお任せすればよいのであって、心配は無用なのです。そしてそのイエス様のお働きで、今日の私があるのであります。
もし、イエス様が私に、あなたの心は大変汚いから、もう少し綺麗にしてから呼びなさい、そうしたら入ってあげよう、などと言われれば、ずっとイエス様をお呼びすることは出来なかったでしょう。そうではなく、あるがままで呼びなさいと招いてくださったからこそ私はイエス様をお迎えできたのでありました。そして、自分で抱え込んでいる重荷を全て降ろしたのでありました。
私の心の中は決して綺麗だとは思っていません。しかし、少なくともイエス様がいてくださる故に、それは、イエス様に愛されているしるしであり、また、それだからこそイエス様を私も愛することが出来るのです。ここに、イエス様を愛する者と、愛さない者との間に大きな違いがあると言えましょう。
24節でイエス様は、言われています。「わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。」まさにそうだと思います。イエス様のお言葉を守りたくない為に、愛せないのです。そしてもっと自由に生きたいと言います。もっと自由な考えを持ちたいと言います。そんな堅苦しい生き方は嫌だと言います。まるでキリスト者はそんな生き方をしているとでも思っているかのようです。
でも、本当にそうでしょうか。クリスチャンの皆さんは、そのようにお思いでしょうか。そんなことは少しも感じておられないのではないでしょうか。むしろ、イエス様のお言葉に従うことによって、より自由を経験し、より心の平安を味わい、将来に対する夢があり、神様の御名を褒め称えたくなってくるのではないでしょうか。
イエス様ご自身が話されるお言葉は、「・・・わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。」と言われて、父の御心を伝えているのだといわれるのです。
私たち信仰者は、イエス様のお言葉を聞きつつ、それはまた、御父のお言葉でもあることを自覚し、三位一体の神様の喜ばれることをするのが、私達の使命であり、また喜びであることを確認するのです。
ヨハネは第一の手紙4章19節でこう言っています。「私達は愛しています。神がまず私たちを愛して下さったからです」イエス様が、私たちを生涯、捨てて孤児とはしないと約束してくださっています。ご自分の命を捨ててまで愛されている私たちであることを覚えつつ、私たちもまたイエス様を愛していこうではありませんか。
2006年7月30日(日) 「本当の平安」 ヨハネ14:25-31 竹口牧師
この朝は、いよいよ14章の最後の部分、25節から31節までを見ることに致します。 イエス様は、十字架におかかりになられる前の晩に、弟子達に最後の説教をされました。それは、イエス様ご自身がおられなくなった時に、弟子達がどういう状態になるかをよくご存知で、そのために、前もって彼らを励ます意味があったと思われます。
しかしその励ましも、私たちが誰かを励ますような励ましではなく、イエス様のお言葉を聞いた者は、まさに、そのイエス様のお言葉の通りになって行くのですから、イエス様の励ましは、素晴らしいものだと言えましょう。
イエス様は先回の、18節において、「わたしは、あなた方を捨てて孤児にはしません」と言われました。「わたしは、あなた方の所に戻ってくるのです」とも言われました。
一時的にイエス様がおられなくなる、そのような時でも、イエス様のお言葉を信じて歩んで待つなら、そのおられない時でさえ、一緒に歩んで下さったように歩める。彼らにとって、イエス様が行なわれた数々の出来事を思い出すなら、信じることが出来るのではないでしょうか。まして「わたしは、あなた方を捨てて孤児にはしません」と言われているのですから。イエス様がおられないこと事態が決して、不安をかき立てることにはならないといえましょう。
しかし、それでもなお、不安である人にとっては、今日のイエス様のお言葉は弟子たちを励ますのみならず、ここにおられる皆さんをも更に励ますものとなるでしょう。イエス様は26節で、こう言われました。
「しかし助け主、即ち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」と。
イエス様が聖霊なる神様を送ってくださる。その方は、あなた方に全てのことを教えると言われます。教えられた人は、その通りに歩めばよいわけであります。これは、実に幸いな歩み方であると言えましょう。
この世を歩んでいますと、実に不思議なくらいに次から次へと問題が起きてきます。少しくらい、何にもない日があってもいいのではないか、そう思うことさえあるのでありますが皆さんはどうでしょうか。本当に、次から次に想定外のことが起ってくるのであります。それも、私たちの生活に少なからず影響を与えるものですから、先々のことを考えますと不安になってきます。
株の上がり下がりは、私には関係ないと思っていましたら、経済のさまざまな分野に影響を及ぼし、社会に影響をあたえること、大だそうであります。原油が高騰してもやはり、経済は大変な打撃であります。耐震計算偽造問題でも、あちこちに問題が飛び火しております。アスベスト問題も人ごとではありません。私たち団塊の世代は、学校でしっかりと吸ってきていますから。
新聞、テレビ、雑誌などを見ていますと、経済的にも不安を与えますし、健康的にも不安を与えますし、安全においても不安をかき立てるのであります。一切、そういうニュースから目をつむり、見ない、聞かない主義で、生活することも一つの方法であります。
しかしキリスト者は、この世から分離した生活をしている訳ではありませんので、そういう生き方が正しいとは私は思いません。この世がどのように流れているのかに目を留めつつ、勇敢に、またキリスト者として賢く、生きる必要があると思うのです。その為には、この世の情勢をしっかりと見ておく事も大切であります。
そして、そうしている時に、どうしても判断、決断に迫られることが必ず出てくることでしょう。そのような時にどうすればよいかイエス様はおっしゃるのであります。 父なる神様がイエス様のお名前によってお遣わしくださる聖霊は、あなた方に全てのことを教えてくれますよと。更にはイエス様が話された全ての事を思い起こさせて下さいますよ、という風にであります。これは、キリスト者にとって、なんと言う幸いなことでしょうか。
私達はキリストの流された血によって贖われ、神の子とされた者です。それだけに、私たち人の親が子供を愛するように、神様もまた、私たちを大切に扱って下さるのであります。
もっとも、最近は人の親が自分の子供を、あるいは逆に子供が自分の親を殺すと言うことが、度々報道されるようになりましたので、現在の人間の親子関係を考えながらお話しますと、どうも、あまり説得力がないように感じますが、少なくとも、ここにおられる皆さんには分かっていただけるのではないかと思います。人間の親子関係以上に、神様の愛は、完全な愛ですから、まさに心配は無用だといえましょう。
ところで、イエス様は、この世を去るに当たって、導き手を送ってくださるとおっしゃいました。それが、聖霊なる神様であります。
では、聖霊なる神様が、それまでに人々に働いて来られなかったかと言いますと決してそうではありません。旧約時代にも、人々に働いておられたわけでありました。ただ、限定的にではありましたけれども。
しかし、あのペンテコステ以来、イエス様を信じる者すべての人の心に内住してくださるようになっていくのであります。そして、その方が内側で働いてくださるのです。なんという素晴らしいことでしょうか。
第2番目にイエス様の言われた点は、平安を残し、また与えるという点であります。27節のお言葉です。
「平安」、これは、ヘブル語で「シャローム」であります。イスラエルでは、これが挨拶として交わされています。日本語で言います、「こんにちは」「こんばんは」など、 挨拶の何でも指す言葉であります。
13年前にイスラエルに行きましたときには、爆弾かも分からないので不審物には絶対触らないように、否、それどころか近づかないようにとも言われ、大変警戒が厳しいものでした。現在は、更にエスカレートして自爆テロですから、爆弾が向こうからやってくる。それこそ、今日、命があって幸せと言うような感じすらするイスラエルです。
と言いますか、現在ではヒズボラを攻撃する為にレバノンに攻め入っている。そのために、ロケット弾がイスラエルにも飛んできているという大変危険な事態なのです。それだけに、ユダヤ人もパレスチナ人も平安を求めています。
比較的治安が保たれているこの日本でも、何が起きるか分からない怖さがあり、ですから、「平安」は、誰にとっても必要なものであります。常に緊張を強いられるようであれば、その人は必ずといっていいほど、精神的なダメージを受けます。そして、生活さえ困難になってきます。
人それぞれに不安材料というものはありますし、また違うでしょうが、また、国によって、地域によって、家庭によって、それぞれ、その不安を取り除いて「平安」を得るには、その人にあった取り除き方、平安への導き方があるでしょう。
しかし、イエス様がここで言われています平安は、この世が与えるのとは違うと言われるのであります。神様の下さる平安であります。この世が求める平安は、病気に対しては健康であり、貧困に対しては繁栄であり、危険に対しては安全であり、不和に対しては、和解であり、混乱に対しては調和といった、極めて具体的であります。
しかし、その問題の解決には、どうしてもなくてならないもの、その問題の解決の根底になくてはならないものがあります。それが神様の下さる平安であるといえましょう。これなくして、真の平安はないのです。
さまざまな問題が真の解決に至るのは、その根底に、神様の下さる平安が必要なのであります。だからこそ、イエス様は、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」と言われたのでした。
ところで、世が与えるのとは違う平安を私たち信仰者は、すでにいただいているのではないでしょうか。もし、その確信がなければ、今一度確認していただきたいものです。イエス様は「あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」と言われているのであります。
イエス様の下さっている平安によってこそ、さまざまな問題の解決は与えられ、またこの世を正しく歩む事が出来るからであります。イエス様が平安を下さっているのに、一生懸命、自分の内側に不安を作り出しているということはないでしょうか。
さて、この朝、第3番目にイエス様の言われていますことは、28,29節において、ご自分の使命を確認し、その通りの事が起きたなら、あなた方は、今信じている以上に信仰が増すと述べられています。これは、信仰者にとって何という幸いなことでしょうか。
もっとも、イエス様の言われていることは、十字架への道であり、死であり、そして甦りもありますが、昇天と言う事態を迎えることを指しているのであります。弟子達が、それをどの程度この時点で知っていたかは分かりませんが。
少なくとも、この14章でイエス様は弟子達に言われているのですから、彼らの信仰がこの時点より更に強められるということです。また、それを聖書で読んでいる現在の私達は、その結果も知っているのですから、彼らと同じように、いいえ、彼らの活躍を見れば、現在の私達はそれ以上に強められているのではないでしょうか。
勿論、イエス様は、いつまた来られるか分かりません。けれども、聖霊を送って下さり、聖霊様と共に私たちは歩んでいるのです。歩ませていただいているのであります。力強い神様のお守りの中にいるのです。
この世には、大風呂敷を広げ、何も出来ない人がいます。しかし、イエス様の言われたこと、行なわれたことを一つ一つ挙げて見るなら、決して大風呂敷ではないことがお分かりでしょう。
イエス様は、ここで、『わたしは去って行き・・・』と言われ、実際に去って行かれました。その後で『また、あなたがたのところに来る。』と言われ、実際に甦ってまた現れてくださいましたし、
また、今は天に帰られましたが、又来て下さるという約束をしてくださっているのであります。もし、弟子たちがイエス様を愛しているなら、しばしの別れ、それがどれくらいの期間を指すか分かりませんが、父なる神様のご計画を歩んでおられるイエス様を知るなら、弟子であるあなた方は当然喜ぶはずです、と言われています。
今、わたしがまえもって話しているのは、それが起ったとき、あなた方が信じる為ですと言われています。イエス様は、前もって彼らに話しておく事によって、十字架刑や、墓に葬られたことによるショックなどによって、彼らは、一時的に失望、落胆、そしてイエス様を見失うかもしれない。
けれども、我に返ったとき、それまで以上の堅い信仰を神様は、聖霊を通して与えてくださる、そういう配慮がこの時点であったように私は思うのであります。弟子たちに対するイエス様の細かい配慮が、そこに見られると言えましょう。
さて、イエス様が言われた第4番目の点で私たちが注目すべきは、31節の終わりにあります、「立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」と言う言葉に表れています
イエス様は、悪に対して毅然とした態度で臨まれ、イエス様の弟子たちも、そうあるべきだと励まされ、教えられているのであります。この日本において、少数派であるキリスト者は、いろんなことにおいて遠慮がちではないかと思うのであります。
がしかし、決してそうであってはならないといえましょう。偶像礼拝に対しても、企業倫理に対しても、あるいは、日常の人間関係に対しても、イエス様が堂々と歩まれたように、キリスト者も歩むことが求められているのではないでしょうか。
イエス様は言われます。「立ちなさい。さあ、ここから行くのです」イエス様は、まさに、死ぬために行動を起こされるのです。十字架と言う最も過酷な刑を受ける為にであります。そこには、多くの人たちの罪を贖う為と言う使命がありました。私たち一人ひとりの罪を贖う為であったのでした。
イエス様は祈られました。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたの御心のようになさって下さい」とでありました。
イエス様は、これから起る一部始終を知りながら、「立ちなさい。さあ、ここから行くのです」と言われました。そこには、少しも恐れが感じられません。実際の所は、イエス様は、この後直ぐに出かけられるわけではありませんで、17章の終わりまで話が続きます。つまり、更に弟子達を励まされるのであります。
イエス様が見えなくなった弟子たちは、一時的に孤児の状態になります。けれども、イエス様はちゃんと弟子達に備えをして、天に戻られるのであります。なんと言う行き届いた配慮でありましょうか。
だからこそ、今日に生きる私たちクリスチャンもまた、平安な日々をイエス様と共に過ごせるのではないでしょうか。この世の、その場限りの対処方法ではなく、何時までも変わらない真実の平安、本当の平安をいただいている事を、確認し、感謝のうちにこの与えられました一週間を過ごさせていただこうではありませんか。
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