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2006年8月13日(日) 「喜びに満たされて」  ヨハネ15:1-11  竹口牧師

私は、農家に生まれ育ちながら、殆ど農業のことを知らない、とは、度々申し上げているのですが、とはいうものの、都会で育ったわけではありませんので、お米が工場で作られるなどと言うことは、決して考えもつきません。

以前、子供にお米はどこで作られるの?とある人が聞いたら、工場という答えが返ってきて、教育上の大きな問題となった、そんな事を思い出すのですが。

私は、お米を作るのは、それこそ八十八もの手をかけて育て上げるもので、一粒でも決して粗末にはしてはならない、と教えられましたし、親のしていることを手伝いもせず見ていたものであります。

ところで、今日の話では、ぶどうの木、枝、実が出てきます。そして、それを用いてイエス様はたとえ話をされている所であります。ぶどうの木をご覧になった方は思い浮かべてくださって、それと共に、何十年も経った杉の木や檜などの幹の太さを比べてみていただきたいのですが、非常に大きく違っていることにお気づきでしょう。

と言いますのも、ぶどうの木は決して太いものではないからです。いや、むしろ細いです。しかし、その細い木でありながら、それが伸びて、枝が出来、更に伸びてつるとなり、そのつるには多くの実を実らせるのであります。

旧約聖書では、神のぶどうとしてのイスラエルを語るときは、いつも決まって、一つの狙いがありました。それは、神様が良いぶどうの実を期待して、どうの実を植えて、あの手この手で世話をされたのに、しかし、ユダの人々よ、あなた方が結んだ実はすっぱい苦い出来損ないではないか、という罪を指摘するために語られています。

つまり、預言者に言わせれば、イスラエル民族は、神様から期待されながら、出来損ないのぶどうになっていたのでした。そこでイエス様は「わたしはまことのぶどうの木です」と言われ、イエス様と民との関係を説明されたのであります。

とりわけここでは、イエス様が比喩的に語られた、ぶどうの木とその枝との関係は、イエス様とその弟子達とのあり方を明確に教えておられます。そしてそれは、私たちに対しても教えられるのであります。

ぶどうの幹がどんなに細くても、栄養分がその枝に届きさえすれば、多くの実を結びます。私は農業の専門家でもなければ、園芸の専門家でありませんので、りんごや梨やぶどうの木の枝の剪定などは分かる筈もありません。

しかし、良い実を実らせるにはどうしても、その作業が必要である事は、常識として知っているのであります。そして、そのことを通してイエス様は私たちに話されるのです。

1、2節「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」と。

素人が刈り込みをしますと、とんでもないところを切り落とします。そして、剪定の間違いによって、その枝は、もしかしたら駄目にさえなってしまうかもしれません。

しかし、ここでイエス様の言われていることは、枝の剪定者は、父なる神様であるということです。ならば、良い枝を間違って切り落とされると言うことはありません。

ですから、そういう意味で言いますと、切り落とされる枝は、当然ながら悪い枝であるので切られるのであり、良い実を実らせるのに邪魔物だということになります。
そして、そういうものは、火に投げ込まれ、処分されます。

ところで、3節には「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」とありますが、これは前後関係からして、つながりがよく分からないように感じます。

ある本によりますと、恐らく、2節の「刈り込みをなさいます」というのと、3節の「きよくする」というのは、ギリシャ語では同じ言葉(カサロイ)でありますので、それとの関連で用いられていると思われる」とありました。要するに、彼らは刈り込みの対象ではなかったと言うことでしょう。イエス様にお従いし、イエス様と共に歩んでいるからです。

ライルという人は、このイエス様のお言葉を、比較的な意味で用いておられることは間違いないと言っています。そしてその比較の対象を、律法学者やパリサイ人たちと比べています。

「彼らがイエス様によって召し出される以前の彼らと比べるとき、弟子たちはきよめられた民であった」と言っています。「不完全であり、確かに極めて部分的にではあるが、彼らはきよいのである」とであります。

さて、4節以下に目を留めていただきますと、11節までに「留まる」と言う言葉が何と11回も用いられています。それも、「留まりなさい」、そうすれば「とどまります」(4節)「留まっていなければ」、「実を結ぶことは出来ません」(4節)「留まっているなら」、「多くの実を結びます」(5節)「留まるなら、・・・求めなさい」(6節)などなどというように、留まることの大切さが強調されています。勿論、言うまでもなくイエス様に留まるということであります。

どうして、留まらなければならないかが4節に書いてあります。「わたしに留まりなさい。わたしも、あなたがたの中に留まります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしに留まっていなければ、実を結ぶことはできません。」とであります。

理由は実を結ぶ為に留まるのであります。実を結ぶには幹にしっかりと繋がっていなければならないのです。実のなる木という物はみんなそうですが、ここに出ているぶどうの木で言いますなら、幹につながっていなければ、栄養分は来ませんから、つながっていない枝は枯れてしまい、死んでしまうのであります。

そういう意味では、キリスト者は、まことのぶどうの木であるイエス様に、しっかりとつながり続けなければならないといえましょう。そしてそのイエス様から必要な養分をいただき、キリスト者としての実をつけるのです。

では、その実とは何でしょうか。何を具体的に指しているのでしょうか。ある人は、これを御霊の実であると言います。ガラテヤ5章22-23節にあります。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制です。」とあります。

これは御霊の賜物とは違い、みんなが同じものを持つはずです。御霊の賜物は異なっていると言われていますから(1コリ12:4-6)同じ教会の中で、みんな同じ賜物を持っていると言うことはありえないので、それとは違うと言われます。考えてみればそうかもしれません。

ところで、イエス様は前の章、14章のところで、18節「わたしはあなた方を捨てて孤児にはしません」と言われ、26節で、助け主である聖霊を送るとおっしゃってくださり、27節では、平安を与えるとも言われ、誠に素晴らしい約束をしてくださっていました。
それほどまでに愛されている私たちキリスト者ですから、イエス様につながり続けることがどんなに素晴らしいか、よくお分かりだと思います。

従って、私たちキリスト者は、イエス様という幹に繋がり続けなければなりませんが、
必死でしがみついていなければならないというものでもないのです。もしそうなら、必ず脱落者が出てきます。そしてその脱落者の中には、私がいるかもしれませんし、あなたがいるかも知れないのです。そうなれば、当然不安になってくるでしょう。

ですから私はあえて14章の18節を取り上げたわけであります。「私はあなた方を捨てて孤児にはしません」という所であります。イエス様を信じる者を、イエス様はしっかりと放さないで、捉えていてくださるのであります。だから、心を騒がせることも、恐れることも必要ないのです。

従って今日の15章を読むときには、もっと前向きに読みたいものであります。そしてそれは決して間違いではないのです。キリストに従う者の特権であるからです。無駄な枝の刈り込みを父なる神様はなさいません。養分がよく自分達のほうに来るようにしてくださいます。

農場の持ち主である父なる神様は、手入れをよくしてくださるのであります。神様の手入れによって、私たちは少し痛い目に会うかもしれません。それは、苦難、試練、難しい問題などなどによってであります。

しかし、神様との信頼関係にあるなら、つまり、聖書全体に渡って神様が信仰者にしてくださっているさまざまなお約束を思い出すなら、決して安易に諦めてはならない、又そうすべきではないことを教えられるでありましょう。

今日のところでは7節は素晴らしいお約束だと言えます。「あなた方がわたしに留まりわたしの言葉があなたがたに留まるなら、何でもあなたがたの欲しいものを求めなさい。そうすれば、あなた方のためにそれがかなえられます。」とあります。

勿論、「何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。」と言われていても、その願いに条件がないわけではありません。その条件とは8節にあるとおりです。「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」つまり、父なる神様が栄光をお受けになる必要があるのです。

では私たちは、そのイエス様の言われるお言葉を聞いて、何か、重荷に感じられるでしょうか。それとも、感謝な思いでしょうか。もし私たちが、救われる以前のことを思い出すなら、決して重荷とはならないと言えないでしょうか。救われる以前とは、イエス様なしの生活の時のことであります。あの姿から、現在の私たちの姿に変えてくださったのは神様なのです。

以前は、間違った目標に向かって、ひたすら間違った努力を行ない、ある時は、優越感を味わったかもしれませんが、決して満足する事のない、飢え渇きを覚えながらの連続でありました。そんな私たちが今日のように変えられたのは、神様の下さった恵みなのであります。そしてそれは、神様からの一方的なものでありました。9節を見ますと、その愛がどこから来ていたかを教えてくれます。

この順番の大切さを思わずにはおれません。御父は御子を愛され、御子は私たち一人一人を愛して下さいました。決してこの逆ではないのです。つまり、私たちがまず神様を愛したので、イエス様は私たちを愛し、そのイエス様を御父が愛されたのではないのです。

まず、神様が私たちを愛してくださった。ここに、私たちは大きな希望があるのです。神様の方から愛の御手が差し伸べられ、しかも、決して孤児にはしないと言われているのですから。

罪人である私たちをまず、ご自分の命を捨ててまで、イエス様は私たちを愛し、神の子にして下さったのです。そしてそれを計画し実行されたのが父なる神様でありました。御父と御子は、愛を表すだけでなく、実際に罪より救ってくださり、なおかつ、何でも欲しいものを求めなさいとまで言われているのです。

神様の愛がまず先行していることを私たちは見過ごしてはなりません。だから、私の愛の中に留まりなさいと言われるのです。9節「父がわたしを愛されたように、わたしもあなた方を愛しました。わたしの愛の中に留まりなさい。」

あなたも、わたしもイエス様に愛されているのです。そして、いらなくなった枝として、廃棄される剪定の中には入っていないのです。むしろ、良い実を結ぶようにと生かし、また、良い実を結ぶことを期待されているのです。

しかし、それは努力を要することではありません。イエス様に結び付いていれば、幹につながっていればよいのです。そこから送られてくる養分によって、私たちは豊かな実を神様によって結ばせていただけるのであります。

この考えは余りにも楽観的でしょうか。決してそうではないでしょう。イエス様がそうおっしゃってくださっているのですから。植物学的には正しくは知らないのですが、枝が幹につながっていて、一生懸命自力で幹から養分を吸い上げているとは思えません。むしろ幹は枝に送っているのではないでしょうか。

植物の機能をよく知らないで私は言っているのかもしれません。が、少なくとも聖霊が内側で働いて下さっている信仰者にとって、私たちが歩むべき道も示してくださり、教えてくださることは間違いないのであります。

詩篇18:30にこういう御言葉があります。「神、その道は完全。主の御言葉は純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。」とであります。

私たちが、神様につながりつづけるとはどういうことか、それが10節に書いてあります。「 もし、あなた方がわたしの戒めを守るなら、あなた方はわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」と。

ここに、私たちのなすべき全てが記されているように私は思います。そして、このお言葉に従うときに、いいえ、このお言葉にお従いさせていただくときに、私たちの心は喜びで満たされるのです。イエス様は、そうおっしゃっておられます。

イエス様は言われています。9節「私の愛の中にとどまりなさい」10節「あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。」そしてそれが「わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです」と。

私は、イエス様のお約束を注意深く読んでいく時に、イエス様がどれだけ、私たちを愛して下さり、その愛を知って私たちが喜び、それをまた、イエス様がどれだけ喜びとしておられるかを感じないわけにはいきません。

キリスト者であることが、苦しみであり、悲しみであり、消極的であるとするなら、それはイエス様の望んでおられる事ではありません。

イエス様の求めておられる事は、私たちキリスト者一人ひとりが、御言葉を通して生き生きとされ、イエス様の愛を感じ、喜び、心から溢れて主を讃美する者となることです。実際、今日のところを読んで、イエス様は、素晴らしいお約束を下さっておられます。

それ故に、もっと前向きに、もっと積極的に、もっと明るく、喜びに満たされた信仰生活を送らせていただこうではありませんか。


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