2006年9月10日(日) 「主の愛に倣う」 ヨハネ15:12-17 竹口牧師
今日の聖書個所を読まれて、もうすでにお気づきかと思いますが、最初の個所12節と最後の17節とは、ほぼ同じようなことが書かれています。それは、私たち兄弟姉妹は互いに愛し合うようにということ。もう一つは、それがイエス様からの戒めであるということです。
なぜイエス様が、そのように強調してまで言われたのでしょうか。それは、これから述べますことが実行に移されるためであります。先回見ました所の最後の節、11節をまずご覧下さい。そこには、このように書かれています。
「わたしがこれらのことをあなた方に話したのは、わたしの喜びがあなた方のうちにあり、あなた方の喜びが満たされるためです」と。つまりイエス様は、私たちがまず、神様から喜びをいただき、それによって喜びに満たされるのを求めておられるという事。
私たち信仰者は、どんなに困難であろうとも、どんなに苦しい目に遭っていようとも、その過程においても、その終着点においても、喜びが常に伴なっている。そういう道である。また、そうあるべきであるので、今まで話して来たと言われるのです。
ここで、喜ぶ事について言いますなら、パウロもまたイエス様のお心を知って、テサロニケ人に向けて「いつも喜んでいなさい。」と言っております。イエス様は、イエス様に従う者に喜びを用意してくださいました。ですから、その喜びを持って歩む必要があります。
しかしながら、私たちキリスト者は、イエス様によって罪赦された人間でありますけれども、まだまだ、その罪の中に生きる者でありますから、なかなかイエス様の願っておられるようにはいかないのであります。そこでイエス様は、なおのこと、「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合うこと」というふうに言われるのです。
イエス様は、弟子達をどのように愛してくださったのでしょうか。いいえ、これからどのようにその愛を示してくださるのでしょうか。13節にこうあります。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」と。
御存知のようにイエス様は、この数時間後には、命を捨てられるのであります。その十字架を前にして、ご自分が弟子達に示される愛を前もって語っておられるのであります。それはまた、現代の私たちにも示される愛であります。
イエス様はそれを、こういう言い方で表されたのでありました。イエス様が、友のために命を捨てられる。でもまだ、弟子たちは、イエス様とは友人関係ではありません。先生であり、師であり、主であるお方であります。
でもそういう関係でありながら、イエス様は14節で言われるのです。「わたしがあなた方に命じる事をあなた方が行なうなら、あなた方はわたしの友です。」と。
イエス様の命じられる事とは何でしたでしょうか。今日の一番最初に見ました。12節の言葉であります。あるいは17節の言葉であります。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」兄弟姉妹が、互いに愛し合うことなのです。
世の中、あらゆるところで競争を強いられ、そして、相手を突き落とさなければ、自分が突き落とされる、そういう、社会の中で否応なくキリスト者は生きています。
しかし翻って、私達教会の中ではどうでしょうか。教会の中にあっても、この世の中と全く同じでしょうか。もしそうなら、それは誠に残念といわなければなりません。私たち兄弟姉妹が何かのことで、互いに競い合い、口論し合い、反目しあっていることはないでしょうか。もしそうなら、それは、この世と全く何の違いもないのであります。
もし仮にそうなら、一時も早く主の求めておられる姿に変わるべきでしょう。主にあって一致の方向に向かうべきでしょう。なぜなら、イエス様が命を捨ててまで、あなたを愛されただけでなく、あなたの隣り人をも愛されているからであります。
兄弟姉妹と呼ぶ仲にして下さった私達キリスト者一人ひとりが、イエス様の正に愛の対象なのであります。その愛の対象である者同士が、憎む、敵対する、のけ者にする、これは、イエス様の喜ばれることではありません。
イエス様は、命を捨てて、私達を愛して下さいました。私達というべきか、否むしろ、あなたを、そしてわたしを。つまり、私達キリスト者一人一人を、イエス様にとって、かけがえのない愛の対象として愛してくださっているのです。その兄弟姉妹を、私たちは互いに愛する、愛し合う、つまり、イエス様の戒めを守る事なのであります。その者をイエス様は「あなた方はわたしの友です」と言われるのです。イエス様と自分とが友人関係になるのです。そんなこと、考えられるでしょうか。
今でこそ、学校の先生と生徒の間が、友達関係のようでありますが、昔は、とんでもないことでした。少なくとも、私の学校時代はそうでありました。先生を尊敬し、敬う、また敬われる存在でありました。
生徒同士でも先輩後輩の区別がしっかりついていて、後輩は先輩の言うことには従わなくてはならなかったのであります。現在もその点については、クラブ活動などでは続いているかもしれません。
ところで、イエス様は、「先生」とか、「主よ」とか、人々に言われてきました。そして、イエス様の弟子達もまた、そのような関係でありました。それが、今や「あなた方はわたしの友です」と言われるのです。
では、それまでと今とではどう違うのでしょうか。15節に、その関係が出ています。「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」と。
イエス様は、これまで弟子達を、しもべと呼ばれていました。しもべとは、ギリシャ語でデゥーロスと言います。そして、それは奴隷をも意味するのであります。この奴隷と言う響きを皆さんはどのように感じ取られるでしょうか
聖書で言いますと良くも悪くも受け取れます。新約時代、一般的なのが、お客が来たとき、まず足を洗うのが奴隷の仕事でありました。また主人の言う通りに従うのが奴隷でありました。そして今も言いましたように、デゥーロスという言葉は、奴隷という訳と共にしもべとも訳されますので、その言い方が旧約でなされています。
たとえば、モーセのことを申命記34:5で「主のしもべモーセは・・」と言われていますしまたヨシュア記24:29では、ヨシュアのことを「主のしもべ、ヌンの子、ヨシュアは・・」と言う風に言われています。新約ではパウロも同じ言い方を自分自身にしております。「神のしもべ、また・・・」と言う風にであります(テトス1:1)。
そうして見ますと、私たちが神様に対してのしもべ、或いは、聞こえは良くないかもしれませんが、奴隷であるというのは、むしろ、当然であり、また光栄にさえ私は感ずるのであります。
しかし、イエス様は、そういうしもべではなく、奴隷ではなく、「友と呼びました」と言われるのです。イスラエル人にとって、イエス様がこの地上に来られるまでは、神様を恐れ、神様は誠に近寄りがたい存在でありました。しかし、イエス様がひとたび、人となってこの世に来てくださり、神様との仲介者となってくださった時に、私たちにとっては、神様はもはや恐れではなく、喜びに変えられたのでありました。
神様を喜ぶように、ほめ称えるように変えられたのであります。そして、しもべではなく、私たちを友と呼んでくださるのです。そこには、深い理由がありました。
イエス様がこの地上に来てくださり、神様とはどんなお方か。父なるお方とはどんなお方か。全ての事を明らかにして下さったからでありました。イエス様は言われています。15節最後、「父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」と。
そして、それには大きな目的があったのでありました。神様は常に何事をするにおいても順序立てて事を行なうお方であります。そのご計画が今、明らかにされようとしているのであります。そして、そのご計画を実行に移す為に、神様は人を選ばれたと言うことであります。
誰を選ばれたのでありましょうか。以前にも申し上げましたが、この16節のお言葉は、私の人生にとって、大変大きな意味を持つ言葉であります。ある宗教とキリスト教とを秤にかけて、どちらを自分の宗教にしようか考えました時に、キリスト教を選んで、今日の私があるのであります。
といえば、私が何か偉く感じますが、実はそうではないことが、後で分かったのでありました。つまり、この16節の御言葉にとって間違いが正され、教えられ、大変驚かされたのでありました。
と同時に、そこには神様の計り知れないご計画があったことを私は知らされ、御名を崇めたものであります。イエス様は言われています。「あなた方がわたしを選んだのではありません。わたしがあなた方を選び、あなた方を任命したのです。」と。
私は自分でキリスト教を選んだと思っていました。しかし、実際はそうではなく、選ばれていたのだと教えられました。もっと驚いたのは、エペソ人への手紙1章4節を読んででありました。そこには、こう書いてあるのであります。
「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました」とであります。この世界、宇宙の全てを造られる前から、すでに自分という者が選ばれていたと教えられた時、これには、開いた口がふさがらない思いでありました。
それは私が選ぶ、選ばないの問題ではなく、それ以前のことであり、私、竹口という者が選ばれていた、またそこには神様のために働く使命が準備されていた、そう、教えられたのでありました。
そこには、当然、恐れというものが起ってきます。何も私でなくても、他の人でもいいのではないかとであります。確かに、私でなくてもよいかもしれません。しかし、私にしか出来ない事も神様は用意してくださっているはずであります。それを信じて、今日があるわけであります。そして、みなさんお一人おひとりも同じであります。
神様の選びは、そして任命された理由は、あなたにしか出来ない、「あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであ」るのであります。そのためにこの世に生まれさせてくださり、更には今も生かされているのであります。
イエス様は言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」とであります。
イエス様と同じ働きは、罪人の私たちには出来ません。つまり、私達罪人が人の罪を贖うことは出来ないのです。しかし、一粒の麦として、イエス様のお働きを伝えることは出来ます。そしてそれを私たち一人ひとりに委ねられているのであります。それが、実を結び、また、実が残ることを指しているといえましょう。
キリスト者それぞれの賜物は違います。その違う賜物を生かし、お仕えしていく事が求められています。そして、そのことのために求めるのなら、主は何でも父があなた方にお与えになります、とそうイエス様は言われるのであります。
ある人は、この16節の真中あたりから最後までにあるのは祈りを指していると言います。「あなた方がわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなた方にお与えになるためです。」という部分です。
祈りはクリスチャンの血液であるとか、クリスチャンの呼吸する空気のようなものだ、というふうによく言われていますが、それ程、祈りは、キリスト者がキリスト者として生きていく為に大変大切なものだと言われます。私もそう思います。
あるいはまた、血液は、身体の中をぐるぐる回っているけれども、また、空気は、私たちが意識しなくても、自然に呼吸して吸っている。これもなくてならないものである。けれども祈りは、それなりのある心構えが必要であり、空気や血液とは違うものであるとも言われます。
確かに言われてみればそうであります。血液や空気とは違って、祈りは意識しなくては出来ないものであり、無意識に祈っているというものではないからです。もっとも、それくらい常に祈りながら物事を進める信仰者であるなら別でありますが。大抵はそうではないのです。だからこそ、神に選ばれ、任命され、出て行って実を結ぶには、助けを祈り求める事は必要であると教えられるのです。
今回の聖書範囲として17節をも含めましたが、これは、18節以下に続く言葉であります。それを、今回あえて、17節をも含めましたのは、選ばれた一人ひとりが出て行って福音を伝えるためには、又そのためには、二人、または三人、あるいはそれ以上のグループで活動する、あるいは、団体で活動するならなおのこと、兄弟姉妹同士が互いに愛し合い、仕えあうことが必要だからです。
そのために、互いに愛し合うことの大切さを戒めとして、イエス様は与えられたと思うのであります。そういう意味で、今回の聖書個所の中に含めたわけであります。そしてそれこそ、救いの福音を伝える者にとってまさに必要であるといえましょう。
私たちが互いに愛し合うことによって、この世に対しても良き証となるからであります。イエス様は、弟子たちを友と呼んでくださり、父から聞いたことを全部伝えましたと言われました。そして、これからの使命は、出て行って実を結ぶことにあると言われています。その時に必要なのが互いに愛し合うことであります。
さまざまな困難を経験する中で、互いが愛し合っているなら、その困難を共に担うことが出来、その重さは、想像以上に軽くされるのであります。イエス様の弟子達が、イエス様が十字架にかかられる時は、ちりぢりになりましたが、後に大活躍をするように変えられます。
私たちもまた、神様が私たちを目的をもって造ってくださり、選んでくださり、大きな働きを任命し、派遣してくださるのですから、それぞれの遣わされたところで実を結び、その実が残るように、神様に用いていただこうではありませんか。
「あなた方が互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなた方に与える戒めです。」 と言われたイエス様から愛をいただいている事を確認し、もっともっと互いに愛し合っていこうではありませんか。
2006年9月17日(日) 「迫害に遭おうとも」 ヨハネ15:18-27 竹口牧師
この朝の御言葉の範囲は、大変恐ろしい言葉で満ちています。それは、憎むとか迫害とかという言葉が繰り返し出てくるからであります。それも、人々から憎まれる当事者は、弟子達であり、キリスト者なのです。
そして、その弟子達やキリスト者が憎まれる対象者であるなら、それはまた、憎む人たちは、イエス様を憎む者であり、さらには、父なる神様をも憎む者であると繰り返しイエス様は述べておられます。
この世の人にとって、キリストに従う者は敵であり、キリストが敵であり、それはまたキリストを遣わされた方である父をも敵である、ということになります。つまり、そういう関係でありますから、私たちキリスト者は、迫害されることは覚悟していなければならない、そういう点があることを、今の平和な時代であっても、覚えておく必要があるでしょう。
というのは、そういうことを知っていれば慌てることはありませんし、そのための心の準備も出来るからであります。以前に申し上げたことですが、私がキリスト者になろうと決心するに至るまでに、やはりこの点が決心するのを躊躇させたことは言うまでもありません。
つまり、大迫害が起ったとき、果たして私はそれに耐えられるのだろうか、ということが大変心配だったわけでありました。いつでしたでしょうか。ある先生が話しておられたことですが、ある神学生が、キリスト教に対する大迫害が起ることを心配して、もし迫害に遭ったあった場合に少しでも耐えられる様に備えておこうと、やかんに水を入れ、火をたきながら、その中に指を入れ、だんだん熱くなってくる、どれだけそれが我慢できるか、訓練をしている人がいたという話を聞いた事があります。
その神学生は今はどうしておられるのでしょうか。とても純粋な受け止め方であり、笑っては済まされない思いで、聞いたのを思い出すのであります。
実際に迫害が起った場合、そんなことでは済まされない、もっと厳しいものですから、現実的には何の役にも立たないものですが、なんとなくその気持ちが分かるような気が致しました。
現在でも、世界のどこかで戦争があり、その時の捕虜に対する扱い方が、時々問題になります。マスコミで報道されるのを見、聞きますと、正に身の毛のよだつような拷問が行なわれていると言われます。
まあ、同じ様なことが、私たち信仰者に行なわれる、そのような時が来るかどうかは別としまして、現在の日本で、命が奪われるような迫害はないにしましても、その家の宗教によっては、「キリストを信じるならこの家から出て行け、勘当だ」、と言われる事は今でもあるのであります。
葬式や結婚式やさまざまなことで、キリスト者として取りたくない行動に対しては拒否しますから、摩擦が起きるのはやむをえません。キリストに従うゆえですから。
ところで、ライルという神学者が次のように書いておりますので、少し引用しておきましょう。このように書いています。
「主の警告が根拠のないものではないということは、全ての時代の悲しむべき事実が多くの証拠を残している。使徒たちとその同行者たちが行くところには、どこにも迫害があった。多分ベッドの上で死を迎える事の出来たのはほんの一、ニ名であろう。キリスト教の1800年間の歴史を通して、真の信仰者は迫害を受ける定めであった。
(補足しておきますと、この1800年というのは、ライル先生は1900年に昇天されていますのでそういう数字ですが)
それはともかく、ローマの皇帝達、ローマの教皇達、スペインの異端審問官達の振舞、メアリ女王の統治下の殉教者達、全ては同じ物語である。今日でも迫害は多くの本当に敬虔な人達の定めになっている。嘲笑、愚弄、誹謗、誤解は、真のキリスト者に対するこの世的な人々の感情を示すものである。パウロの時代がそうであったように、今日も同じである・・」と、まだまだ続きますが、そのへんまでにしておきましょう。
まさに、キリスト教は迫害の歴史なのであります。キリスト者がキリストの名前の故に迫害されたというのは、正に、そうでありましたし、現在も世界のどこかで、自由にキリストの名前をいえないところがあるのは、真に残念であります。
時代によっては、何々の罪を犯したので、審きの対象となる、というのではなく、その人がキリスト者であることがすでに罪人(ざいにん)であるとして裁かれました。そして、それは、死刑を意味していた時代があったのであります。
ヨハネがこの福音書を書いたのは、85年から90年の間だろうと言われていますので、その頃はもう、イエス様も昇天なさり、キリスト者は世界のあちこちに散らばり、エルサレムでは不穏な動きがあり、紀元70年には、エルサレムが破壊されておりました。
それから約20年経ってヨハネが、イエス様のお言葉を書いているとき、まさに、イエス様のお言葉は嘘ではないことを、神様に導かれて、書いたといえましょう。
ところで、かつてイエス様がまだこの地上におられた時、このように述べられていました。マルコ13:9-13 で、「だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。
こうして福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。彼らに捕えられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。
また兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを死に至らせます。また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。 しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」とであります。
イエス様は、キリスト者になるなら、どういうことになるか、あらかじめ話しておられました。では、イエス様がそのような事を話されたので、人々はそれを聞いて、そんな恐ろしいことになるのなら、私は信じない、といって誰も信じる者が出なかったかと言いますと、歴史は、そうではありませんでした。
最初、ローマ帝国はキリスト教をユダヤ教の分派ぐらいにしか考えていませんでした。そして不忠実な市民として見られるようになっていきます。しかし、広大な土地を支配するようになるにつれ、そのことが、だんだん障害となってきます。そして、迫害へと進むわけですが、その経緯をある本はこのように書いております。
「小アジアにおいて初めて、カイザル即ち皇帝がローマを顕現した神であると考えられるようになった。彼らは、ローマがもたらした祝福を心から感謝して神として崇めた。最初、皇帝たちはこの崇拝を阻止し反対した。即ち、自分たちは人間であって神々のように崇められたりすべきではないと主張した。
しかし皇帝達はこの動きを留める事は出来ない事が分かった。・・・それから政府はそれを利用できると見て取った。ここに必要とされている統一の原理があった。こうして帝国に住む全ての住民は、皇帝の神性に対して年に一度、ひとつまみの香をたかなければならない日が徐々に到来した。そうすることによって、人々はローマの忠実な市民であることを示したのである。」ここまでにしておきましょう。
キリスト者にとって、ローマ皇帝を神とする事は、当然ながら、容認できません。従って、キリスト者への迫害となっていきました。キリスト教は危険であり、キリスト者はローマに不忠実とみなしました。そしてキリスト者に対する締め付けは厳しくなっていきますが、そういう中でキリストの愛は確実に人々の心を捉えて行きました。
いいえ、何よりも19節にありますように、「キリストによって選び出された者」が沢山いたのでありました。ですから、人に憎まれようが、殺されようが、どんどんキリスト信仰者が生まれてくるのでありました。どんなに厳しくしても、キリストの教えは広がりつづけ、ついには、ローマのコンスタンチヌス帝の時には、キリスト教の教会を公認せざるを得なくなっていくのであります。
今日の聖書個所の22節でイエス様はこう言われています。「もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。しかし今では、その罪について弁解の余地はありません。」と。
また、24節でもこう言われています。「もしわたしが、ほかのだれも行なったことのないわざを、彼らの間で行なわなかったのなら、彼らには罪がなかったでしょう。しかし今、彼らはわたしをも、わたしの父をも見て、そのうえで憎んだのです。」と。
わたしは、このイエス様のお言葉を厳粛に受け止めるべきであると思います。私たちは実際にイエス様を見たわけではありません。実際にイエス様が奇蹟をなさったのを見たわけでもありません。しかし、信じる者にさせていただいた者であります。とするなら、それに相応しい歩みを求められるのは当然でしょう。
一方、そうではなく、まだイエス様を知らない方々にとって、というより、救い主として認めておられない方にとって、よく聴いていただきたいのです。神の言葉と言われている聖書、永遠のベストセラーと言われている聖書、イエス様の時代と違って今では、その聖書をいつでも手にする事が出来る環境にありながら、しかも、それを通して今もイエス様が語りかけて下さっているのに、それに背を向けているというのは、果たして、それで大丈夫なのでしょうか。
イエス様は、他の個所でこう言われています。マタイ12:30で「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です」今日の23節では、「わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいるのです。」と言われています。
まさかキリストを敵視するような方は、この礼拝などには来られないとは思いますが、やはり、キリストの招きに従えない何かがあるとするなら、それは、イエス様と共に集めないで、散らす者であることを知っていただきたいものです。
ユダヤ人たちの歴史は、迫害されてきた歴史であったと言ってよいでしょう。しかしそれは、神の御子を自分達の手で殺したからでした。これは、大変大きな罪であります。ですから、その事の故に差別を受け、ひどい仕打ちを受けてきました。それは、もしかしたら24、25節の言葉から来ているのでしょうか。
「もしわたしが、ほかのだれも行なったことのないわざを、彼らの間で行なわなかったのなら、彼らには罪がなかったでしょう。しかし今、彼らはわたしをも、わたしの父をも見て、そのうえで憎んだのです。これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ。』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。」と言う言葉であります。
彼らは、実際に主の語られた言葉を聞き、その行われた業を見たのに、信じませんでした。故に、彼らに責任が無いわけではない、と言っておられるといえましょう。長い歴史を詳しく調べてみればはっきりしたことは出てくるでしょう。人間はみんな罪人であり、神様の前に、大きな罪を犯してきたと教えられます。そして、これからも人は大きな罪を犯すことが考えられます。
ですから、キリストに選ばれた人は、まず、キリストの言われるごとく、苦しみをも賜ったことを忘れないようにしようではありませんか。パウロはピリピ人に宛ててこう言いました。(1:29)「あなた方は、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。」と。
あるいはまた、第2テモテ3:12に「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」とある通りであります。
こんにち、信教の自由が認められているこの日本でさえも、地方には根強くキリスト教を受け入れない所があります。私たちの住んでいるこの都会は、他人に無関心という風潮もあり、目立った迫害というものは経験しません。政治的に安定しているのも一つの要因でしょう。
大きな迫害が起きたらどうしよう。大丈夫だろうか、そういう心配もあります。しかし、先々のことを想像して恐れていたなら、私たちは自分の身体が持ちません。大切なのは、イエス様が言われていますように、現在の私たちキリスト者に迫害が起きたとしても決して驚くことではないということです。
キリスト者として歩むならば、迫害は必ずある。しかし、それは、私たちキリスト者に対してされることは即ちキリストにすることであり、それはまた、キリストを送られた父なる神にすることであり、その報いは十分神様が与えられると言うことであります。
私たちは、キリストに選ばれたものですから、その名のゆえに迫害をもし受けるなら、甘んじて受けようではありませんか。ペテロはこう書いています。1ペテロ4:1に-17で、
「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。
もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行なう者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。
しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえってこの名のゆえに神をあがめなさい。なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。」と。
そこまでにしておきますが、イエス様を信じさせていただいていて、また選んでくださって、良いものを受けている私たちなのですから、その逆に、イエス様の名前の故に辛いことに遭うことからも、決して目を逸らさないで、忍耐しつつ、信仰を続けさせていただこうではありませんか。
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