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2006年10月1日(日) 「あなたの益のために」 ヨハネ16:1-7  竹口牧師

私たちは今、イエス様が十字架にかけられる前の晩の事、イエス様がされた最後の説教の部分を見ております。

今日の16章1節を見ていただきますとおわかりのように、「これらのことをあなた方に話したのは、あなた方が躓くことのないためです」とありますように、「これらのことを」と言う部分から考えますと、前からの続きであることがわかります。

そして、その前にはどのような事が書かれていたかと言いますと、キリスト者は、この世から憎まれるということでした。キリストの名の故に、迫害されると言うものでした。そして、26,27節で、父のみもとから真理の御霊が遣わされることが書いてありました。その御霊が、イエス様について証しすると言われていました。

今回の聖書範囲も、大体の構成は同じであります。2節で迫害のことが述べられ、最後の7節では、助けぬし、即ち聖霊が遣わされることが述べられているのであります。ただ、先回と今回との違いは、先回は、迫害者と神様との関係が述べられていたのに対して、今回は迫害者と迫害される者との関係が述べられています。

現代のこの日本で、キリスト教と言いますと、そんなに悪いイメージはないと私は感じていますが、みなさんはどうお感じでしょうか。結婚式はキリスト教式でしたいという憧れというものを、多くの若い人は持っているように思いますし、教会に行ってみたいという思いを何となく持っている。あるアンケートによれば、それは随分大きな数字であります。

しかしながら、かつて世を騒がせました、オウム真理教とか、白装束の集団とか、「最高です」という言葉を唱えさせた集団とか、というように実にいろいろな集団が宗教という名を借りて、被害者を作り出した。

弱い者、困っている者を虜にして世間を騒がして以来、宗教に対する不信と言うものがこの日本に渦巻き、伝道活動がしにくい時代になったとわたしは感じております。彼らは本当に人の幸せを考え、あるいは心配して真理を伝えているのではない。これは誠に残念であります。

ところで、ヨハネがこの福音書を書いた頃の時代と言いますのは、すでに、キリスト者に対して、大々的な迫害が起っていた時代でありましたので、ヨハネが神様に導かれ、イエス様の言われたことを書き記すときには、正に、イエス様のあの言葉が成就していると納得しながら、この福音書を書いたに違いないのであります。

イエス様は2節でこう言われています。「人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます」と。そして実際に、イエス様が十字架に架けられ殺され、天に戻られた後には、ひどい迫害が起ったのでした。使徒の働き22:3−4に書いてあるのでありますが、パウロはこういう風に自分のことを述べております。

「私はキリキヤのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町で育てられ、ガマリエルのもとで私たちの先祖の律法について厳格な教育を受け、こんにちの皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした。 私はこの道を迫害し、男も女も縛って牢に投じ、死にまでも至らせたのです」とであります。

パウロは、熱心なキリスト教徒になりましたが、しかし、その前には熱心なユダヤ教徒であったわけであります。そのユダヤ教徒の時には、キリスト者は間違って信仰をしていると信じて、いわば、間違った善意によって確信を持って迫害したのでありました。

その行なう所は、エルサレムだけに留まらず、シリヤにまで出かけて行ったのでありました。そうする事が、神様の前に正しいとパウロは信じきっていたのでした。まさに、イエス様のおっしゃった通りの事をパウロはしていた訳でありました。

イエス様いわく、「そうすることで、自分は神に奉仕しているのだと思う時がきます」でした。キリスト教が産声を上げて間もない時に、迫害の嵐が、彼らキリスト者を襲ったのでありました。しかし、そういう中にあって、パウロの場合、神様が直接天から臨んで下さり、変えられたのでありました。

大勢としては、最初の頃は、ユダヤ教の中の一つの分派くらいに思われていたキリスト教、それが、どんどん広まっていくにつれて、やがて警戒心が生まれ、時代が移り変わる中で、次から次にキリスト者への迫害者は起きていったのでありました。それこそ、ローマのコンスタンチヌス帝がキリスト教を認可し、国教とするまで続きました。

しかし、御存知のように、ではもう迫害は無くなったかと言いますと、全然そうではないのであります。こんにちに至るまでキリスト者に対する迫害のない時代はありませんでした。こんにちも、ある国では聖書を持つことさえ禁じられているのであります。

その原因を3節でイエス様はこう言われています。「彼らがこういう事を行なうのは
父をもわたしをも知らないからです」と。

まさにそうであります。本当に恐ろしいことです。もし知っていれば、そんな事は起きないはずであります。キリスト者を迫害すると言うことは、イエス様を迫害することであり、そしてまた、父なる神様をも迫害することです。それはまた、愛する御子を遣わして、身代わりの死を遂げさせるほどに私達を愛してくださっている方を迫害することになるのです。

もしその愛がわかっているなら、そんな事ができるはずはありません。つまり、彼らの無知ゆえにそういう事が起るのでありました。先ほども言いましたように、
残念なことに、キリスト教の2000年の歴史の中で、キリスト者に対して迫害のなかった時代と言うのは、全く存在しないと言うのは決してオーバーではないでしょう。

ある時はユダヤ教徒であり、またある時は、同じキリストを信じる仲間であったり、またある時は異教徒であったりといろいろであります。また、その迫害の方法、拷問の酷さは、それこそパウロ自身が言っていますように、キリスト者を「死に至らせた」程に、厳しいものでありました。間違った使命感に基づくものですから余計に恐ろしいのであります。

それは、現代においても決して変わらないのは、人は生まれながらにして持っている醜い罪ゆえであるといえましょう。私たちは現代にあって、それもこの日本において、比較的自由に、守られた信仰生活を送る事が出来ているのは幸いです。

しかし、もしそのことが、黙示録3章15,16にでていますラオデキヤの教会のごとく「冷たくもなく、熱くもない」そういう信仰であるなら、「わたしの口からあなたを吐き出そう」と言われていますように、厳しくその信仰が問われる事を覚えておかなければならないでしょう。平和の中で、わたし達の信仰が決して堕落してはならないのです。

もっとも、仏教の強い地方にいるクリスチャンは、今でも、厳しい状況に置かれていることはご承知の通りであります。私達は、そういう彼らのために祈り支えていく必要があると言えましょう。

イエス様は、迫害が来ることをはっきりと言われました。そして、それは、実際に起こった時に、イエス様の言われていた事を思い出すためですと言われました。

イエス様は4節でこう言われています。「しかし、わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来れば、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。わたしが初めからこれらのことをあなたがたに話さなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからです。」と。

何という深い牧会的配慮でありましょうか。この言葉より、イエス様の意図されていたことが二つあった事がわかります。一つは、イエス様の言われていた事が真実であったと確認し、ますます、イエス様の言われていた事に、信頼するようになることでありましょう。

イエス様が、こういう風に言われていたけれども、全然そんなことないじゃあないか、ではなく、まさに、イエス様の言われた通りに世の中はなっていく。イエス様のおっしゃったことは誠に正しかったと、キリスト者が認めて、ますます信仰を堅くすることでありました。

もう一つは、イエス様が一緒にいたからだと言われます。つまり、イエス様がおられた時は、困ったこと、助けて欲しいこと、聞きたいことなどなど、なんでもしていただけた。しかし、おられなくなったなら、キリスト者はさ迷う事になります。それではいけないということでした。

5節でイエス様は、こう言われています。「しかし今わたしはわたしを遣わした方のもとに行こうとしています。しかし、あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません。」と。

ある方は、このイエス様のお言葉に疑問をもたれるでしょう。と言いますのは、すでに弟子達は二度その事を聞いているからです。1度は、13章36節でペテロが聞き、もう一度は、14章5節で今度はトマスが聞いているからです。

イエス様はその事を知っておられて、なおこう言われているのであります。6節で「かえって、わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています」と。

つまり、弟子たちは、これから起るさまざまな事をイエス様から聞き、言いようのない寂しさ、悲しさを味わっている。もう「主よ。どこに行かれるのですか」と尋ねる気力も失われている。その事を言われているといえましょう。

そういう状況の中で、イエス様は弟子達を励ます為に、7節の言葉を言われるのであります。「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」と。

イエス様は、神様であられます。しかし、この地上に来られている時は、わたし達と同じように、物理的、時間的、空間的制約を受けておられました。ですから、イエス様がカペナウムに来られますと、その所とは違う、ある家に病人がいた場合、病人を癒してくださいと、そのカペナウムにお願いに行かなければなりませんでしたし(マタイ8:5−)、

イエス様一行が舟に乗っておられて、嵐に遭われていた時、他の所で何かが起った場合、助けを求めて、イエス様の所に行くことは出来なかったのでした。

だから、イエス様のお言葉によりますと、「わたしが去って行く事は、あなた方にとって益なのです」と言われるのです。理由は、イエス様が去って行かれる事によって、助け主が遣わされるから、であります。

助けぬし、即ち聖霊であります。しかも、その方は、時間的、空間的、物理的な制限はないのであります。これは、大変素晴らしいことであります。私たちの目には見えませんけれども、聖霊ご自身が、イエス様を救い主と信じる者の中に住んでくださり、いつでも、どこでも助け主がいて下さる事になる、そう、イエス様はおっしゃっているのであります。

事実、今そうなのであります。イエス様が、天に上られることは、キリスト信仰者にとって幸いなのであります。しかし、それにしましても、イエス様と共に生活をした弟子たちは、私達とは違って大変羨ましい存在であります。なぜなら、神様と共に生活をし、共に歩んだのだからです。

現代にあって、真の神様を信じる事が出来ない理由の中に、神様が目に見えないということが挙げられます。あるいはまた、神様が生きて働いておられるということが実際に目で見ることが出来ないからだとも言われます。

そういう点からしますと、弟子たちは何と言う恵まれた環境であったことでしょうか。それと共に、イエス様との別れを経験しなければならないという、悲しい現実もあったことは言うまでもありません。

しかし、彼らは、生ける神を見ることが出来、また、イエス様が昇天された後には、見えない神様を信じて、伝えることが出来る。しかも、聖霊の神様のお働きをいただくことになるのです。その両方の恵みに与ったのでありましたから、彼らは特別な恵みに与ったと言えるでしょう。

がしかし、残念ながら、時代が時代であっただけに、彼らの多くは、殉教したと言われています。けれども、その時代に生きたからこそ、生きて働かれる真の神様を見たり、またその業を、目の前で味わうことが出来たのでした。

現在の私たちは、神様とはこんなお方だと、形に現して人に見せることは出来ませんが、それでも、わたし達一人ひとりの心の中に内住して下さっているお方によって守られ、神様のお働きの数々を見ることが出来るのであります。また、それを通して神様のお働きを現すことも出来るのです。なんという素晴らしいことでしょうか。

かつてはキリスト者の迫害者であったパウロが変えられて、ローマ人への手紙8章9-11節でこう言っています。「肉にある者は神を喜ばせることができません。けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。

キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」以上です。

イエス様が、この地上を去られた後、神様は、助け主である聖霊を確かに私共の所に送ってくださいました。そして、折に適った助けを私たちはいただいているのであります。

イエス様の告別説教といわれているこの中に、確かなお約束と、そして現在、それが成就しているのをわたし達が実際に見る時に、何という神様の素晴らしいご配慮かと思わずにはおれません。そうではないでしょうか。

この世にあってイエス様のお働きを見られる素晴らしさと共に、その逆の見て信じない者になり、反対者の立場に立つ恐れが十分に私にはあったことを考えますと、今のこの時代に生まれたことの幸いを私は思うのです。

キリスト教の歴史を学ぶ時に、人の犯した罪の大きさに、思わず目を覆いたくなります。しかし、さまざまな試練を経て、こんにちのキリスト教があります。

神様のお言葉である聖書、そして、イエス様を救い主と信じる人は例外なく誰にでも、聖霊ご自身が、その人の内に住んでくださり、導き、助け、力、などなどすべてのよきものを下さっているのは、私達キリスト者の特権であります。

7節のイエス様のお言葉をもう一度お読みいたします。「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けばわたしは助け主をあなた方の所に遣わします」。

この言葉の成就している世界に生かされている恵みに感謝し、また、その恵みを恵みとしてしっかりと味わいながら、イエス様の素晴らしさをこれからも伝えさせていただこうではありませんか。

2006年10月29日(日) 「聖霊の働き」  ヨハネ16:8-15  竹口牧師

先回の最後の所で、つまり7節の所でイエス様は、こう言われました。「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします」とでありました。

ここで言われています助け主は、三位一体の神の聖霊を指すのですが、その方をあなた方の所に遣わすとイエス様はおっしゃいました。

ところで、このイエス様の言われた聖霊は、これまでには、この世にはおられなくて、初めてこの世に来られることを指してはいませんので、その事を今日のまず最初に確認しておきたいと思うのであります。

なぜ、そういう誤解が起こるかといいますと、こういう経緯があるからであります。
イエス様がこれから後、十字架におかかりになり、殺され、葬られ、三日目に甦られ、40日後には昇天なさいます。そしてその10日後には、使徒の働き2章にありますようなことが起り、この時に初めて聖霊がお下りになったという風に思いがちだからです。

因みに、その使徒の働き2章にはこのように書いてあります。「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。

また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」(使徒2:1-3)以上であります。

ここから、あたかもこの時に初めて聖霊さまがおくだりになられた、とそのようにある人は思っているからであります。

しかし聖霊は、実は旧約の時代にも、神様に用いられた人達と共におられましたし、また、聖霊の恵みなしには、誰も神様を信じたり、神様への奉仕など出来なかったのでありました。つまり、真の神のしもべのいる所に、聖霊もまたおられた、これが真実なのであります。

そこでこのことをまず確認した上で、更に使徒の働きのあの出来事が、どんなに素晴らしいか、イエス様のお約束がどのように発展していくかをみたいのであります。

さて、今日の聖書個所に戻っていただきまして、最初の所8節でイエス様はこう言われています。「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」と。そして、その言葉の意味を9-11節で解き明かされておられます。

イエス様の言われたまず第一の事は、聖霊はユダヤ人に「罪について」認めさせるということです。聖霊は彼らの心に、ナザレのイエスを拒むことによって大きな罪を犯したのであり、最大の不信の罪の故に有罪である。そのように感じさせ、また認めさせるのだと言われます。

そして第二に、義については、聖霊は、ユダヤ人の心のうちの良心に、ナザレのイエスはユダヤ人たちが言うような詐欺師ではなく、聖にして義なる、そしてなんら責められるところのないお方であり、神が天に召し上げられる事によって、キリストこそまさしく神の御子であられたのだと言うことが分かるようにされると言われています。

第三に、審きについては、悪魔は、キリストを十字架にかけたとき、これによって勝利したと思ったことでしょう。しかし、キリストは死人の中から復活されることによって、悪魔の最後の武器である死に打ち勝たれ、悪魔を敗北させられた。やがて終わりの時の審きが悪魔を待つばかりとなった。このように前もって言われたといえましょう。

12節を見ますと、イエス様はまだまだ話したいことが一杯あると言われています。しかし、それを聞く側の弟子たちには、それに耐える力が無いとも言われるのです。弟子達は、イエス様と別れる時が、刻々と迫っていることをどれだけ感じてイエス様のお言葉に耳を傾けていたのでしょうか。

イエス様は弟子達の心の状態、肉体の状態の全てを把握して、弟子たちにお話になっておられることがよく分かります。今や、もうあなた方には、聞いてもそれに耐える力がない。しかし、これだけは言って置こうと言われて13節14節で話されるのです。そしてその最初の部分はこうです。

「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」と。これは、どういう事かと言いますと、聖霊は、弟子達を全ての真理に導き入れる。聖霊は、彼らを福音の全教理と、知る必要のある全ての真理に関して完全な知識とに導き入れるということであります。

ここで、全ての真理という場合の全てとは、科学とか、政治とか経済とかそう言ったあらゆる分野の真理を彼らに示している訳ではありません。聖書と共に働かれる聖霊のお働きは、救いに関する全ての真理と限定するのが正しいと言えましょう。

又次に言われていますお言葉、「御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」とあります。これは、よく注意して読みますと、聖霊が私たちに働いて語らせてくださると言っておられるのではなく、

聖霊ご自身が自分から語るのではない、聞くままを話すのだと言われていて、あくまで聖霊ご自身のことを言われていることに気付かされます。ですから、ある人はこの部分は、私たちの理解能力では会得することが殆ど出来ないと言います。
そしてこのように説明しております。

「私たちの目の前にあるこの節は、聖霊と三位一体の他の二位格との間に存在している親密な結びつきを示しているようである」そして「聖霊は、わたしとわたしの父から独立した形で自分から語るのではありません。聖霊はわたし達から聞いた事どもだけを語るのです」と言い、聖霊は文字通り「語ったり」「聞いたり」はしない。

「『聖霊の教えと導きとは、父と子と最も親密に結びついている方のものなのである』という意味でなければならない。」とそのようにある本に書かれています。傾聴に値する言葉であると言えましょう。

もう一つ、この13節の最後のほうで、聖霊の働きが、「やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」とありますが、これは、聖霊が弟子たちに与えた、教会の将来の歴史の預言的な啓示を指している、と推測をするのみであるとも言われます。

また別の人は、そんなに遠い将来ではなく、主が最後の晩餐を弟子達と共にしておられる時から間もなく起る一連の事柄、つまり、主の十字架の死と復活、昇天を指しているのだ、と考えることも出来ると言われます。なかなか理解の難しい所です。

イエス様は14節で更に聖霊のお働きを述べておられます。「御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」と。これは、イエス様の栄光を現わし福音の真理を明らかにすることこそ、御霊の中心的な働きでありますので、イエス様は、その事を指して言われたといえましょう。

ここにあります「わたしのもの」というのは、単数ですから「わたしについての真理」つまり、今も言いましたように、イエス様以外の意味を取るとは考えられないともいえましょう。

さて、最期の15節になりましたが、イエス様はこう言われています。「 父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。」と。

このイエス様のお言葉は、深い意味を持った言葉であります。ですから、その深みまで理解することは困難ですが、わたし達人間に、真理の啓示をすることにおいて、父、子、聖霊の全き統一を示すことにあったといえましょう。

聖書を読んでいまして、どうしても分からない部分と言うものがあります。それを分かりやすくする為に無理をしますと、異端になってしまうのであります。神様とはどういうお方かを、人間の小さな頭で知り尽くすことは出来ません。

それだけ神様は、大きく、深く、広いお方であるといえましょう。聖書のある個所の完全な意味を知ることについては、最善を尽くしたとしても、いかに自分が知っていないかを感じさせてくれます。そういう意味では、どんなに優れた神学者でも、一生、学びつづけなくてはならないのが、この聖書だと言えます。

聖書によって、また神様の遣わされた聖霊によって、私達信仰者はキリストの栄光を現わし、またキリストに関する真理全体を示すために、聖霊の特別のお働きが必要であると言えましょう。

そういう意味では、「 父が持っておられるものはみな、わたしのものです。」というのは、キリストのものと父のものとの間に、真の意味において分離がありえるとは考えさせない為に、特別に置かれた言葉ではないかとライルという人は言っています。

「わたしと父とは一つです」とイエス様は言われました。この密接な関係に聖霊なる神様も加わられるのであります。ですから、父と子と聖霊なる関係の中で、特には聖霊のお働きのネガティブな言い方ですけれども、ライルという人はこう言っているのであります。

「聖霊は『わたしのもの』をあなた方に示すと言った時、聖霊はわたしの父のものをあなた方に示さない、と言ったように考えてはなりません。それは不可能なことです。父と子との間には、非常に密接な結びつきがあり、聖霊は、一方を抜きにして他方を示したり、教えたりする事は出来ないのです。一言で言うと、聖霊は父からと同様に子からも出るのです」と主が言っているかのようです。」そのように言って、ライルはここを結んでいます。

聖霊なる神様は、旧約時代もお働きになっておられました。しかし、イエス様が天に戻られた後に起こった出来事、ペンテコステの時の出来事は、わたし達信仰者すべての人を喜ばせる素晴らしいものでした。それは、イエス様を救い主と信じる全ての人の内に住んでくださり、わたし達の歩みを導き、助け、教えてくださるようになったからです。

イエス様はきょうの所で、罪について、義について、審きについて、教えてくださいました。信仰生活を長く続けるためには、私たちそれぞれが持っている知力、能力、持久力、体力が必要なのではありません。

もしそうなら、諦めやすい、持久力のない、まして体力など少しもない私などとっくの昔に信仰生活から脱落し、教会から失望して去って行った事でしょう。しかし、実際はそうではないのであります。実は、そんなものが必要なのではなく、神様が与えてくださるものによって今日があるのであります。

何度も教会から離れようとして、離れられなかった。それは自分のうちに持っている意志や力や信念と言ったものではなく、少々誰かに何かを言われてへこたれるような神経のずぶとさでもなく、神様の与えてくださった信仰によったのでした。

内側に与えられた信仰の故に、さまざまな問題を抱えながらも、それを神様が乗り越えさせてくださり、今日があるのであります。わたし達のうちに住んでくださっている聖霊によると言っても、決して過言ではありませんし、それ以外の何ものでもありません。

イエス様の身体を現在の私たちは見る事が出来ません。しかし、イエス様を自分の救い主と信じるようにして下さったのは、聖霊なる神様のお働きであります。罪について、義について、さばきについて、分かるようにして下さったのも聖霊なる神様のお働きであります。

「能力によらず、権力によらず、わたしの霊によって」(ゼカ4:6)と言う言葉がゼカリヤ書にありますが、罪ある人間が、そして罪を罪とも思わなかった人間が、また、神様なしとして生きていた人間である私達に対して、神様はご自分の憐れみの故に、愛を持って予め定め、救いの中に入れてくださっていたのでした。そして、この恵みの座である礼拝へと招いてくださっているのです。神の民の一人として、であります。何という特権であり、感謝でありましょうか。

能力によらずということを、どれだけ強調しても強調しすぎることはありません。神様が用いられるなら、どんな器も、その場に相応しく用いてくださるからです。自分の力に頼ることなく、御霊のお働きを信じて、御霊の働きに導かれて、この世の荒波を乗り越えさせていただこうではありませんか。

肉体は滅びます。しかし、肉体の中に住みたもう聖霊なる神様は、わたし達の魂をしっかり守ってくださり、天の御国へと連れて行ってくださるのです。イエス様の送ってくだった助け主に助けられながら、この世の歩みを感謝のうちに歩ませていただきましょう。

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