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2006年11月5日(日) 「悲しみから喜びに」  ヨハネ16:16-24  竹口牧師 

ヨハネ16:16-24  悲しみから喜びに                   
先回の所で私達は、イエス様が聖霊の働きについて話された所を見ました。その時に扱った聖書範囲をちょっと注意深く見ていただきますとお分かりいただけるのですが、イエス様の話された話の終わりを示します閉じカッコが、先回の15節の時点ではありませんで、今日の16節の所にあるのであります。つまり、話が途中で途切れていることになるのでありますが、私は、それを意識して、そのように区切ったのでありました。

では、なぜそうしたかと言いますと、16節は17節以下のイエス様と弟子との会話でつながるからであります。それでは、イエス様の話の最後部分16節、つまり今回の話の最初の出だしはどうなっているかと言いますと、「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」
という風になっているのであります。

そして、その後、話はどうなったかと言いますと、弟子達はそのお言葉をどのように感じたかが、17,18節に書かれているわけであります。「そこで、弟子たちのうちのある者は互いに言った。『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』また『わたしは父のもとに行くからだ。』と主が言われるのは、どういうことなのだろう。」とであります。

特に18節の最後の方の弟子達の言葉に注意していただきたいのですが。彼らは、「『私たちには主の言われることがわからない。』と言った。」と、このようにヨハネは記しているのであります。

イエス様が16節で話された。しかし、弟子たちには分からなかった。あの、寝食を共にした弟子達でさえ、イエス様の話された話がわからない。そういうこともあるものだという事がまず教えられるのであります。

イエス様は、多くの人々に普段の生活の中から、分かりやすく話してくださいました。人々は、そのイエス様の話してくださるお言葉を喜んで聞いていた。反対する者も勿論いましたけれども、それは、イエス様の話が理解できたから、反対できたのであって、時と場合によりますが、みんなイエス様の話が理解できたのだろうと思うのであります。

しかし、今、この時の16節のイエス様のお言葉に対して「どういうことなのだろう」と弟子達は言うのであります。こういう所を見ますと、約3年半、イエス様と寝食を共にして歩んできた弟子達でも、イエス様の言われることがよく理解できないという部分がある。とするなら、私たちがイエス様のお言葉を読んでいて、理解できないことがあっても不思議ではない。そのように思えてくるのであります。

ところで、では何がわからないのかということになってきますが、19節でイエス様はこう言われているのであります。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』とわたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。」

皆さんは、このイエス様のお言葉をお読みになって、そこで言われています「しばらくすると」の意味が、どれくらいのことを指すと思われるでしょうか。これによって、イエス様の話されたことの捉え方が随分と分かれてくる事がわかります。大変大雑把に言いますと、大きく3つの解釈に分かれます。

一つは、十字架で死なれたイエス様が三日目に復活された時のことを指すという考えです。十字架に架けられ、殺され墓に葬られた時、弟子達は、悲しみで途方にくれます。一方、十字架にかけた連中は大変喜び、勝利にわきます。「ざまあみろ、大きなことを言っていたけれども、結局、自分を救えなかったではないか」といった感じでしょうか。

ところが、イエス様は三日目に甦られて、弟子たちの所に現れ、弟子達は悲しみから喜びに変えられる。この三日間のことを「しばらく」という意味にイエス様は言っておられるのではないかと考えます。

二つ目の解釈は、イエス様が十字架にかけられ、殺され葬られることは同じなのですが、先回も引用しましたが、使徒の働き2章の所で、ペンテコステの時に聖霊の特別なお働きがありました。弟子達は、聖霊に満たされ、大活躍を始めるわけであります。その時に、弟子達は喜びに変わりますが、それまでの事を「しばらく」という言い方をされたのだと解釈します。

そして三つ目は、主の再臨の時を指しているという考えです。これは、まだその時が来ていませんので、いつか分かりません。従って、イエス様の言われました「しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。」という「しばらく」と言う言葉がイエス様の復活された時か、ペンテコステの時のことか、あるいはまた、まだこれから起ること、再臨の時のことかという3つの解釈があるわけであります。

これほどまでに時間的な捉え方が大きく分かれるのですが、では果たして弟子達は、この時にどう理解したのでありましょうか。「しばらく」と言う言葉の感じ方、それは人によってそれぞれ、さまざまでしょう。

別の例で、私の個人的な思いを取り上げてみたいと思うのですが、皆さんはどのように感じられるか分かりませんけれども、私がある会社に電話をかけましたときに、担当者がいないとか、即答できない時に相手側はこういう言い方をする場合があるのであります。

大抵は女性の声ですが、「しばらくおまちください」とか、「少々お待ちください。」あるいは「少しお待ちください」なのです。どれもみな、意味的には時間を下さいと言っているのですが、受けた感じは、みんな違うと思うのであります。少なくとも私はそうであります。

「しばらくお待ちください」というのは長く感じます。「少々お待ちください」は、ちょっとお待ちくださいと短く感じます。「少しお待ちください」というのは、少しぶっきらぼうに聞こえます。が皆さんはどう感じられるでしょうか。少なくとも、私にはそう感じるのであります。

しかし、翻って、イエス様の言われた「しばらく」とはどのくらいのことを指して言われたのでありましょうか。17節で、弟子達の言っている言葉の中にこういう言葉があります。「『わたしは父のもとに行くからだ。』と主が言われるのは、どういうことなのだろう。」と。

私は、この言葉に、解く鍵があると思うのです。しかも今回の聖書個所の最後の24節の言葉とを重ね合わせてみますと、どうも第三番目の解釈が正しいのではないかと思うのです。つまり再臨の時です。この場合、イエス様の言われた「しばらく」とは、今になって見ますと、随分期間が長いような気もします。

しかし、ペテロの手紙第二、3章8節を見ますと、「主のみ前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」とありますから、私たちの考える「しばらく」という感覚とは違って当然でありましょう。

ライルと言う学者は「『しばらく』と言うギリシャ語は、再臨がはっきり語られているヘブル10:37節の言葉とほぼ同じであることに注目すべきである。そのうえ、『わたしは行く』と言う言葉も、主がこの世から最終的に離れることに数回適用されている言葉で、主の十字架の死にあてはまることは、もしあったとしてもまれなのである」とこう言っています。

こんにちのわたし達が、聖書を通して、客観的な目で見て、それでも意見が分かれるということは、まして当事者であったイエス様の弟子たちには、その時にはなかなか分からない、難しい問題であったと思われます。

20節の言葉、「 まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなた方は悲しむが、しかし、あなた方の悲しみは喜びに変わります。」と言う言葉の解釈は、イエス様の再臨とを重ね合わせて考えますと、イエス様の昇天後、聖霊が一人ひとりの心に入ってくださっているとはいえ、人生のさまざまな試練、苦難を経験する時に、やはり悲しみを味わうことは、今も経験していることですし、それゆえに、イエス様にお願いせざるをえないのであります。イエス様がもし、再びこの地上に来てくださったなら、もうそれだけで、喜びが満ち満ちたものとなると言っていいでしょう。

ですから、20節をこういう風に言い換える人がいます。「わたしの昇天後、わたしのいない間、あなた方、愛する弟子達、及びその後に続く全ての信者たちは、花婿を取り去られた花嫁のように嘆き悲しむ理由が沢山あるでしょう。その一方で、悪しき世はわたしの不在を喜び、再臨を喜ばないのです。この非常に長い期間、あなたがた及びその後に続く全ての信者たちは、しばしば悲しみ又、患難に会うでしょう。しかし、ついに再び戻ってくる時、あなた方の悲しみは喜びに変わるのです。」という風にであります。

イエス様が殺され墓に葬られ、そして三日目に甦られたと言う期間は、考えてみますと、敵にとって喜びの日と言うのは、ほんの短い期間であり、それもよくよく考えてみますと、イエス様が、生きておられる間に、パリサイ人たちは、イエス様が葬られた翌日、「自分は三日の後に甦る」と言っていたので(マタイ27:63)、三日目まで番をするように命じて下さいと願っているくらいですから、そんなに敵の喜びの時期はなかったといえましょう。

さて、ところで、21節は、女性のお産の苦しみを例えに挙げて、苦しみと喜びとをイエス様は表現されておられます。イエス様ご自身は、勿論男性であり、出産の経験はありませんが、しかし、イエス様は神様ですから、人の痛み、悲しみ、苦しみ、嘆きなどなど、勿論、喜びも、楽しみも、満足感などなども全て、何でもごぞんじなのであります。ですから、イエス様が話されるとき、私たちは信頼して聴くことができるのであります。

一方、これが、イエス様ではない私のような男性が、つまり子供を産む身体を備わっていない者が、女性のその産みの苦しみなど話そうものなら、女性の方に馬鹿にされるのではないかと思います。

ある説教集に書いてあったことでありますけれども、その産みの苦しみをこのように表現されていました。「もうすぐよ、とお産婆さんが言ってくれる。わたしはその『もうすぐ』と言うのが待ちきれない。この子供を産む苦しみから解き放ってくれる時が来るのかとさえ思う。もう長い間ずっと苦しみ続けているのではないかと思い込んでしまう。もう、辛抱できない、とさえ思っている。

そこには、もうすぐ子どもが与えられるのだと言う期待の喜びさえも実はなくなってしまっている。ただ自分の中にある願いは、どうでもいい。この痛みが終わってくれればいいのだ、ということに尽きる。そして、もう耐え切れないと思う時に最後の陣痛が訪れる。

圧倒的な幸福感が訪れる。子供が生まれた。苦しみは突然消えて平安が訪れ、自分までがすっかり新しくなったとさえ思う。この新しく生まれたいのちに、自分が責任があるのだ。どのように、この子を育てたらよいのか、などということを考えるいとまはない。それは、少し時間が経ってからのことであった」そのように書いてありました。

女性の産みの苦しみがよく言い表されていると思います。がしかし、男性の一人である私には、全く分からない世界であります。しかし、今は、わたしの若かった頃とは時代が大変変わりましたので、最近は、夫同伴の出産と言うのは珍しくなくなりました。ですから、妻の苦しみを前にしながら、夫は励まし、自らも痛みを共有するとでも言いましょうか。少しでも奥さんの痛みを分かろうとするよい傾向になったと思います。それでも、実際の痛みは、男には分からないのですが。

まあ、実際の出産の話はともかく、イエス様は、その話を例えとして21節で話され、キリストの初臨、つまり救い主として来られた事と、もう一度来てくださると言う約束の再臨との間には、教会にとっては出産を経験しようとする女性の状況のような苦しみ、悲しみ、不安の時なのであり、そして、この世の終わりにはキリストの再臨があって、つまり、キリストが再びおいでになるその時には、真の教会の喜びはまことに大いなるものとなり、千年王国に入っていきますので、その前の苦しみや患難は、比較的早く忘れることになると思われます。

もっとも今は、主を待ち望む時でありますので、その部分は想像であります。22節を続けて初臨と再臨との間にある今を考えますと、「あなたがたにも、今は悲しみがあるけれども、わたしはもう一度再び戻ってきます。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」と言う風に読めますし、

また、23節は、「その日には、つまり再臨の日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。その必要がありません。今分からないことも完全に分かるからです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしが再び来る時まで、あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります」という風になります。

これらはみな、大体の考えが、私と言うよりライルと言う人の考えに沿っていますが、私もそう思いますので、紹介しているのであります。24節の御言葉については、大変素晴らしいものの一つとして私はおぼえているのですが、イエス様が、弟子たちにどうしてこのようなことを言われるのか、つい最近まで、何となく疑問に思っておりました。
イエス様のそばにいて、必要なものは何でもイエス様に求めていたのではないかと思っていたからです。

しかし、今回の学びを通して、それは消えました。それは、こういうことだからです。イエス様の言われたことは、今の、この時の弟子達は、キリストのお名前と仲介者を通して何か願うことをしてこなかった、と言うことであります。

今まで先生、師あるいはメシヤとして信じてきていたのです。だから、これからは、イエス様が神と人との間の唯一の仲介者として求めなさいとイエス様は勧めておられると言えましょう。24節の最後の部分は、わたし達信仰者にとって、なんという幸いなお言葉でしょうか。

「求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」これは、イエス様を救い主と信じた者だけが赦される特権であります。私たちはその特権に、感謝しつつ与らせていただきたく思います。イエス様が再び来られる時までです。

今まさに、弟子達は、イエス様の十字架を目の当たりにしようとしています。それは非常に悲しい事であります。しかしやがてイエス様を仲介者として何でも求める事が出来、更には、再び主が来て下さる事によって喜びは更に増し加えられます。

今、この世に生きている私達は、救い主を信じる事によって悲しみから喜びに変えられ
更には、再臨の主にお会いできる時には、もっと素晴らしい喜びが用意されている事を感謝し、この世をしっかりと主にあって歩ませていただこうではありませんか。

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