2006年12月3日(日) 「父の栄光、子の栄光」 ヨハネ17:1-5 竹口牧師
きょうから17章に入ります。またこの17章は、イエス様の祈りが書かれています。最後の晩餐は、この祈りをもって終わりますが、この祈りは、大祭司の祈りとも呼ばれ、そういわれる事の意味が、これを読み進んでいくうちに、だんだんに分かってくると言えましょう。それは天において私達の為に常にとりなしの祈りをして下さっている、そのような祈りにも似ているからであります。
ところで、今、私達が読んでいますのはヨハネの福音書ですが、この福音書には「イエス様が祈られた」とか、また「このように祈りなさい」と言われたとか、「このように祈ってはいけません」とかという風に「祈る」と言う言葉を使って訳されていません。
それは、そういう場面がないということもありますが、それにしましても、英語ではpray と訳されている所が5箇所あるのですが、ヨハネの福音書だけは、全て「願う」と訳され、まして、今回のところのように「言われた」と訳されていますと、何となく祈りに感じないのですが、皆さんはどうお感じでしょうか。
まあ、それはともかく、一番最初に申し上げましたように、この17章は、祈りに違いはないのであります。それも今も言いましたように17章全部が祈りなのであります。イエス様の祈りの中で、一番長いのではないかと思います。イエス様の祈りについて考えますと、ルカの福音書を読みますと、あちこちに、祈られたことが書かれております。
例えば、ルカ3:21,22で「さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、・・」とありますし、また、5:16 では「しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた」とか、更には6:12では「 このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。」とあります。まだまだ、9:18、11:11などにも書いてあるのであります。
こうしてルカの福音書を読みますと、特に「祈りながら夜を明かされた」などと書かれていますと、イエス様は本当によく祈られたお方であることをルカを通して私たちは知るのであります。あのイエス様でさえ祈られたのですから、まして私たちは、一日も祈ることを止めてはいけない。否、一日どころか、一日の中で、何度も機会があれば祈るように、そのことの大切さを私は思わずにはおれないのであります。ルカの福音書を読みますと、そう私は教えられるのであります。
ところで他の福音書では、イエス様の十字架上でのお言葉で、祈りとも呼びかけとも思える言葉を書いていますのに、ヨハネは、その場面では「私は渇く」とか「完了した」とか、ご自分の母親について触れておられることを書いているだけで、祈りそのものは書いていません。
ですからヨハネがイエス様の祈りを書くのはこの17章が最後であります。それも、私達が祈るような祈りではなく、イエス様だからこそ祈れる祈りなのであります。イエス様は、目を天に向けて祈られ、御父に向かって祈られています。それはまた1-5節においては、ご自分のために祈られ、6-19節までは、残される弟子達のために祈られ、最後に20-26節においては、弟子達の宣教によって信者となる人々の為に祈られるのであります。
今回は、まず最初に、ご自分のために祈られた部分、1-5節を見る事に致します。そして次回から6節以降を見たいと思います。まず1節でイエス様は、「父よ。時が来ました」と言って祈り始められました。この「時」と言いますのは、勿論、十字架を指しております。イエス様がこの地上に来てくださった大仕事であり、またクライマックスと言っても言いすぎではないでありましょう。
がしかし、クライマックスと言いますと、この世の人にとってみれば、華やかな花道であるはずですが、死でありますから誠に暗い場面であり、敗北に見えるのであります。 ところが、私たち信仰者にとっては、イエス様のあの十字架がなければ救いはないのですから、イエス様のあの十字架の姿は、この世の人達が見るような敗北ではなく、まさに勝利の主であり、最高の時なのであります。
あの、死によって私たちの罪はまさに拭い去られたのであります。あるいは、洗い流されるのであります。このように、この世の人たちの見た十字架と、私たち信じる者とされた者の見た十字架の意味の違い、そのギャップは何と大きいことでありましょうか。 見た目には、イエス様の姿は、馬鹿にされ、ののしられ、虐げられ、どこにも王としての風格、見栄えはないのでありますが、しかし正にその事を通して神様は、栄光を現わそうとしておられたのでありました。
イエス様は、ご自分の使命を、父なる神様と共に確かめられるように、ここで祈られるのであります。「父よ。時が来ました」とであります。そして、「あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。」と言われます。
ここで私たちは、イエス様が、私たちとは違う立場におられる。人としてこの世に来られましたが、今祈っておられる祈りは、三位一体の神の第ニ位格のものであることを意識して祈られている、その事を教えられるのであります。
「あなたの子である私が、十字架にかかり、そしてなすべき業を勝利のうちに終えて完成させることにより、あなたの子である私の栄光を現わしてください」そう祈っておられるようです。イエス様は、1節で祈られた後、2節でその祈りの理由を祈られます。
「あなたの子があなたの栄光を現わす為に、子の栄光を現わしてください」なぜなら2節、「それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため」です、と言う風にであります。3節には、この2節にあります「永遠の命」の説明がついています。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」とです。
ある方には、意外に思われるかもしれません。永遠の命とは、死後のことを言うのではないのか、とであります。しかしここでは、永遠の命というのは、まことの神と、イエス・キリストを知ること、この2つの点にあると、そのようにイエス様は祈られています。
ではその2つのうちの一つ、「まことの神」とは、どんなお方なのでしょうか。「まことの神」を知れば、それでよいのでしょうか。それについてヤコブという人は、悪霊を例にしてこう言っております。ヤコブ書 2:19 によりますと「あなたは、神はお一人だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています」とであります。
つまり、知識だけでは駄目であるということです。あるいはまた、信じていても駄目であるということです。まことの神様が、その人の心のうちに住んで下さり、その事によって神様の喜ばれる歩みをしなければ意味がないのです。
あるいはまた、イエス・キリストを知るとは、イエス様の贖いの業を信じ、神様と罪人との間の仲介者としてのお働きを受け入れ、あなたが罪人であるにもかかわらず、イエス様は、愛して下さっている。その事を知る必要があるでしょう。
イエス様は3節でご自分の事をイエス・キリストと言われていますが、これはイエス様がここだけで言われているのであります。本来なら、イエス・キリストの代わりに、「わたし」を入れても良い所であります。しかし、イエス様はここで、「わたし」ではなく、「イエス・キリスト」と言われているのです。そこには何らかの意図があったのではないでしょうか。
イエスとは、ヘブル語のイェシュア、つまりヨシュアを音訳したギリシャ語からの音訳であり、「主は救いである」の意味であります。しかも、御存知のように、この名前は、イエス様がお生まれになる前に御使いガブリエルからマリヤに「イエス」と付けなさいと言われてつけられたものでありました。
また、キリストは、「油注がれた者」の意味から「救い主」を意味するようになったヘブル語、「メシヤ」に相当するギリシャ語からの音訳であります。イエス様が改めて、ここでそう言われますと、やはり、ご自分が「救い主」であることをはっきりと意識されていることが読み取れるのであります。
「永遠の命」、それは、「唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ること」なのです。イエス様は、14章の所で、弟子達にこう言われていました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と。
この、イエス様を通してだけ、救いに至るのであることに、多くの人は躓きますし、拒否反応を示すのであります。だからこそ、イエス・キリストとは、どういうお方かを知る必要があるのです。そして、まだ永遠の命に与っておられない方は、是非、今のうちに、永遠の命に与っていただきたいのです。
4節でイエス様はこう言われています。「あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました」と。イエス様はここで、「地上であなたの栄光を現わしました。」と過去形で祈られています。これからまだ、十字架があるのにであります。復活もあり、昇天もあるのにであります。 しかし、これらは全て、イエス様にとっては、必ず実現することです。だから、過去形で言われたのであると言う事になります。
私たちの場合はそうはいきません。明日のことさえ分からないのです。いいえ、一分一秒先だって分からないのです。事件、事故、地震、災害、何に遭遇するか全く分かりません。「あなた方は、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧に過ぎません」(ヤコブ4:14)と、ヤコブの言う通りなのです。
しかし、イエス様の場合、この地上に来られた時から始まって、天に帰られる時まで、いわゆる私たちの言う、想定外のことは全く起きませんでした。これから起る、ユダの裏切りさえ、主はご存知でした。従って、イエス様は、完全にして不変の聖よさによって父の栄光を現わされたのでした。
さて、イエス様が永遠の昔から存在しておられたということを信じない人にとって、イエス様の5節の祈りは理解できないでありましょう。イエス様は、こう祈られます。「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、御一緒にいて持っていましたあの栄光で輝かせてください」という祈りであります。
ここでイエス様は、「世界が存在する前に、御一緒にいて」と言われているのであります。これは、私たちの理解を越えた祈りである事は言うまでもありません。しかも「御一緒にいて持っていましたあの栄光で輝かせてください」なのであります。
これは、キリストの先在、父と子のふたつのはっきりした位格があり、父と子の同位つまり同じ位の栄光で輝かせて下さいと言われているのです。三位一体の神様を信じることの出来ない者にとって、ここは、理解しがたいイエス様のお祈りであると言えましょう。
私たちは、三位一体の神様を信じるが故に、イエス様の祈りをそのまま受け入れることが出来るのはなんという幸いでありましょうか。また、そのように導いてくださった神様の恵みに感謝します。
もし、イエス様の祈りを真似て、私達が同じ様に祈るなら、どんなにその私たちの祈りが間違っているかがよく分かります。それは父が定められた時というのは、イエス様が十字架にかかられる時であり、私たちには、罪人のために贖いの死を遂げるなどと言う資格も力も、何もないからです。また、永遠の命を与えたり、全ての人を支配する権威もいただいていないからです。
イエス様は、この地上で多くの業をなさいましたが、何一つ、真似ることの出来ないことばかりでありました。イエス様が5節で、こう祈られました。もう一度引用しますが、「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、御一緒にいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」とであります。
私たちには、そういうようには祈れないのです。いいえ、祈る事が出来ないのです。世界が存在する前には、私たちは存在しなかったからです。まさに、イエス様にしか祈れない祈り、それがこの祈りであります。
イエス様は、十字架を通して、神様の栄光を現わされます。父なる神様は、ご自身の子によって栄光を現わそうとしておられます。私たちは、その父の栄光、子の栄光によって、多大な恵みを受けようとしているのであります。いいえ、もうすでに、十字架にかかってくださったイエス様によって、その恵みに与っているのです。
イエス様は、私達が永遠の命を受ける為に、唯一のまことの神である父と、その父に遣わされたイエス・キリストとを知るようにと、聖霊なる神様をお遣わしになり、信じることが出来るようにされたのです。何という素晴らしい恵みに与ったことでありましょうか。
十字架目前のイエス様の祈り、それはすべて、神の栄光の為の祈りでした。神様の恵みに与っている私たちは、イエス・キリストを通して与えられたその恵みに相応しく、神様の栄光を現わす者とならせていただこうではありませんか。
2006年12月17日(日) 「歴史の主を待つ」 T列王8:22-26 竹口牧師
「待降節礼拝」 ある人が言いました。「5年や10年前の約束ならまだしも、2000年、3000年も前の約束を、あなたはどうして信じるの?ましてや、神様がいるかいないか分からないのに、その約束を信じるとは、本当に不思議ですね。」神様を信じない方の率直な感想であります。
その一方で、現在のイスラエルという国の首都でありますエルサレムは、ユダヤ教の聖地として崇められ、キリスト教の聖地と言われ、イスラム教の聖地とも言われています。そして全世界の34億人が、この3つの宗教のどれかを信仰していると言われます。 そしてその3つの宗教はどれも、旧約聖書が出発点となっています。
イスラエルの始祖と言われるアブラハムから始まりまして、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ヨシュア、更に多くの人に知られている人物はといいますと、ギデオンとかサムソンなどなどが挙げられるでしょうか。王国時代に入りますとサウル、ダビデ、ソロモンへと続いていきます。
旧約聖書には、大変大雑把に言いますと、イスラエルの歴史が書かれております。それはまた、神様のお働きの歴史でもあります。神の民として選ばれたイスラエルが、いろいろな失敗をしながら、ついには神の審きとして捕囚となるのであります。
ところで、今年もあと残り僅かとなりました。そして降誕節礼拝を迎える時期となったわけであります。今日は、その一週間前の待降節礼拝であります。待降節とは、言うまでもなく、神様の一人子であるイエス・キリストが、人となってこの地上に来てくださるのを待つ期間であります。
しかし、言うまでもなく、もうすでにきてくださったのですが、毎年、救い主がきてくださったことを記念し、覚えて、待ち望み、また祝っているわけであります。そのイエス・キリストが来られた目的といいますのは、人々を罪から救う為十字架にかかるという働きでありました。私たちキリスト者は、神様が、私たちを愛してくださり、その愛を、十字架において現してくださったことを覚え、そのために、御子イエス・キリストをこの地上に送って下さった。今年もその事を特に覚えて、この時、感謝したいのであります。
滅びるべきはずの者が、神様の憐れみによって救われ、永遠のいのちをいただけるようにして下さった、イエス・キリストが、この世に来られたとは、まさに私たちの罪のためであったということです。それ故に、私たちキリスト者は、大変嬉しいのであります。 と同時に、現在の私たちは、もうすでに、罪の贖いの業を終えて帰られたイエス・キリストが、再び来られる、その事を待つ時でもありますので、かつて、イスラエルの人たちが、救い主の来臨を待ち望んだごとく、私たちもまた、再び主が来られる事を待ち望んでいる、その事を、この待降節にはあわせて覚えたいのであります。
ところで、私たちは聖書のお約束を信じて待ち望むわけでありますが、聖書が旧約新約あわせて66巻としてまだ完結していなかった時代、今は特に旧約時代の人達の事を考えていますが、どんな思いで、待ち望んだのでありましょうか。それは、信仰なくしては語れないのであります。
信仰の父と言われるアブラハム。彼は、カルデヤのウルという所から召し出され、神様が言われた「私が示す地に行きなさい」との命令に従って、今日のイスラエルに導かれました。神様はアブハムを祝福するといわれましたが、また多くの子孫が加えられると言われましたが、なかなかその実現には、至りませんでした。
しかし、彼は神様を信じて、期待して生涯を閉じました。神様は、ご自身の約束を徐々にではありますが、しかし、きちんと着実に果たしていかれました。アブラハムは、それを見ることはありませんでしたが、イサクが与えられ、イサクからヤコブが与えられ、次々にその家系は守られ、増えていきました。
旧約聖書を読みますときに感じますのは、真に神様は真実なお方であるということであります。神様のお約束の果たされたのを見ることが出来たのは、旧約の人たちにとって、本人は、約束のほんの一部分でしかありません。ですから、本当に主が聞いてくださるのだろうかと思う人もその歴史の中では、いたことでしょう。特に、イスラエルが試練の中にあって生まれ、そして、試練の中で死んで行った者達はなおの事そうでありましょう。
しかし、幸いな事に、私たちは現代に生きるものであります。そして、神の民として選ばれたイスラエルが、どんなに苦労して約束の地が与えられ、さらには、アッシリヤやバビロンやペルシャ、ギリシャ、ローマと戦ったか、聖書や他の歴史書を通してみる事ができるのであります。そして、そのイスラエルの辿った道は、現代までを見ますと、神様が、この地上でなされた御業の足跡として、今日の私たちは見るのです。
歴史の事を英語で、ヒストリーと言いますが、これは又、ヒズ ストーリーとも言われ、神の物語などともいわれます。先ほど、司会者の方に読んでいただきました聖書個所は、栄華を極めたと言われますソロモンの祈りの一部であります。しかも、神様の為に神殿を造り、その献堂式の時の祈りであります。
なぜ、待降節のこの時に、このような個所を選んだのか、不思議に思われる方もあるいはおられるかもしれません。しかし私は、彼の祈りを読みながら神様のご真実を見ないわけには行かない。待降節のこの時でも、読みたい思いにかられたのでした。なぜなら、ソロモンは大変立派な神殿を建てて、神様にお献げ致しましたが、そこに至るまでに、父親の大いなる働きがありましたし、そしてまた、その父親のダビデをしっかりと支え、導かれたのが、真の神様であったからであります。
父親のダビデは、自分は杉材の家に住みながら、神様は、相変わらず天幕の中にお住まいである。神様の為に神殿を造らなければと考えた時に、神様は預言者ナタンを通してこう言われたのでした。「わたしがイスラエル人のすべてと歩んできたどんな所ででも、わたしが民イスラエルを牧せよと命じたイスラエル部族の一つにでも、『なぜ、あなたがたはわたしのために杉材の家を建てなかったのか。』と、一度でも、言ったことがあろうか。」(Uサムエル7:7)と言われ、ダビデが建てるのではなく、彼の子供が建てるのだと言われました。
そして、この時に、神様はまた、2000年先に起る事を語ってそのご計画を明らかにされたのでありました。そのご計画とは、こういうものでありました。少し長いのですが大切なところですので、ご一緒に見たく思います。Uサムエル7:12-16にこうでているのであります。490ページです。
「 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。
もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。 しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」とであります。
そして、その一つに実現として、ダビデの世継ぎのソロモンが神殿を建て、更には、それがずっと先には、来週祝いますイエス・キリストの誕生へと続いていくのであります。何という神様の遠大なご計画でありましょうか。
私たちには、明日の事さえわからないのであります。しかし、神様の目には、全てが見え、ご自身のご計画に従ってことを進められているのであります。ダビデは、この神様のお約束を聞きましたときに、こう祈ったのでありました。続いて18節から読みますが、
「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。神、主よ。この私はあなたの御目には取るに足りない者でしたのに、あなたは、このしもべの家にも、はるか先のことまで告げてくださいました。神、主よ。これが人の定めでしょうか。神、主よ。このダビデは、このうえ、あなたに何をつけ加えて申し上げることができましょう。あなたはこのしもべをよくご存じです。
あなたは、ご自分の約束のために、あなたのみこころのままに、この大いなることのすべてを行ない、このしもべにそれを知らせてくださいました。それゆえ、神、主よ。あなたは大いなる方です。私たちの耳にはいるすべてについて、あなたのような方はほかになく、あなたのほかに神はありません。」
ダビデは、神様の大きなご計画の中の一端に加えられ、それを担うものにされている事を覚え、恐れと感謝をもったのでした。そして、そのダビデの子供のソロモンが又、神様のみ前に恐れを持って、神殿を造り、お献げし、祈ったのでありました。司会者の方に読んでいただきましたが、今日の聖書個所をもう一度ご覧下さい。T列王8:22―26にこう書いてあります。
「ソロモンはイスラエルの全集団の前で、主の祭壇の前に立ち、両手を天に差し伸べて、言った。「イスラエルの神、主。上は天、下は地にも、あなたのような神はほかにありません。あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と愛とを守られる方です。あなたは、約束されたことを、あなたのしもべ、私の父ダビデのために守られました。
それゆえ、あなたは御口をもって語られました。また御手をもって、これを今日のように、成し遂げられました。それで今、イスラエルの神、主よ。あなたのしもべ、私の父ダビデに約束して、『あなたがわたしの前に歩んだように、もしあなたの子孫がその道を守り、わたしの前に歩みさえするなら、あなたには、イスラエルの王座に着く人が、わたしの前から断たれない。』と仰せられたことを、ダビデのために守ってください。今、イスラエルの神。どうかあなたのしもべ、私の父ダビデに約束されたみことばが堅く立てられますように。」以上です。
現在のユダヤ人たちは、この約束がまだ果たされていないとして、メシヤの来臨を待っています。一方、私たちキリスト者は、イエス・キリストこそ、その真の救い主、神様のお約束されたお方であると信じています。その救い主が来て下さったが故に、私たちは罪が赦され、永遠の命をいただく事が出来たのでした。
過去の出来事を振り返りながら、そこに、神様の足跡を見ることの出来るキリスト者は、なんという幸いでありましょうか。その時代、その時代に有能な指導者が現れました。全世界を支配しそうな勢いがありました。しかし、それは神様の御手の中での行動でしかありません。
全世界を支配できそうな勢いでも、いまだかつて、全世界を手にした者は一人もいません。それができるのは、王の王、主の主、昔いまし、今いまし、そして永遠におられる真の神様のみです。ヘブル書の記者はこう書いています。
「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」とであります。
来週、イエス・キリストのご降誕を記念いたします。それは、神が人となって来て下さった驚くべき日であります。そして、その方が私たちの罪を贖う為に、その道を一歩、又一歩と歩み始められるその日でもあります。
私たちにとっては、とても喜ばしい事ですが、イエス・キリストにとっては、大変な始まりでありました。十字架への道ですから。しかし、その事を決して重荷とはなさらず、むしろ、私たち一人一人を愛するが故に、積極的に歩んでくださるのであります。
現代に生きる私たちにとってイエス・キリストは、もうすでに来て下り、その働きを終えてくださいましたので、再び来て下さる事を待ち望む状況です。かつてのイスラエルが救い主の来臨を待ち望みましたように、私たちもまた、彼らとは違った思いでありますが、主の来臨を待ち望みたいものであります。
それとともに、2000年前に戻って、暗闇の中に光となって来て下さったイエス・キリストを待ち望み、受け入れた彼らユダヤ人たちの心にもなってみたいものであります。この一週間、神様が送ってくださった御子を心から待ち望む思いですごそうではありませんか。歴史の主は今も私たちの上に働いていてくださり、ご自身のご計画を着実に進めてくださっているのですから。
2006年12月31日(日) 「弟子のための祈り」 ヨハネ17:6-19 竹口牧師
今私たちは、ヨハネの福音書よりイエス様の最後の祈りを見ています。先回申し上げたことですが、この最後の祈り17章は、一般的に大祭司の祈りとも言われていると申し上げました。そしてその祈りの最初の部分、1-5節までを先回見たのでした。そこには、子なる神イエス様がご自分のことを、父なる神様に祈られている部分でありました。そして今回は少し範囲が長いのですが、6-19節までをさっと見ることにいたします。
ここは、イエス様がこの世を去られるにあたりまして、残される弟子達のために祈られている所であります。今日の最初の6節の前半部分は、こう書いてあります。「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。」と。この部分だけを見ますと、イエス様の11弟子達だけではなく、他の弟子達も含まれていることが分かります。
しかし、今日の範囲の19節までを見ていただきますと、おもには11弟子たちのことを念頭に置いて祈っておられる、そのことがお分かりいただけると思います。ですから、そのつもりで読んでいくことにいたします。まず最初に6-8節を見る事に致します。ここには、こういう風に書いてあると言えましょう。言葉を置き換えて読みますので、注意して聞いていただきたいのですが、6節の終わりの部分から、
「弟子たちは、イエス様の言われるお言葉を守りました。それも、イエス様の話されるお言葉は、父なる神様から出ていると、そのように弟子たちは知っているからです。それは、父なる神様が下さったお言葉を彼らに与えたからです。ですから、イエス様が父なる神様から出てこられたことを確かに知り、また遣わされた事を信じています」
これは、イエス様の祈りを完全に第三者側からみた言い方です。そうすれば、こういう風になると思うのです。分かりやすくしすぎることで、誤解や危険を伴ないますが、三位一体の神様を、どのように言い表すか、非常に難しさをわたしは感じています。
私がここで、とても危険に感じますのは、かつてイエス様がエルサレムで、宮きよめの祭りに行っておられて、ユダヤ人たちに取り囲まれた時に、いろいろ話された後で、「わたしと父とは一つです」と言われた時、ユダヤ人たちはイエス様を石打ちにしようとして、石を取り上げたことがありましたが、(ヨハネ10:22-31)つまりは、理解できないことは、間違いだとすることの危険です。
イエス様は確かに、父と一つのお方なのです。ですから、その事を覚えつつ、今回の祈りを読んでいかなければなりません。もしそれが理解できないならば、そのままを受け入れることが、神様のお言葉に向かう正しい姿勢と言えます。
今、ここでイエス様は、子として祈っておられるのですが、決して子は、父より劣っておられるわけではありませんので、そういうことも含めて、心に留めつつ読んで行く事に致します。
私たちの知恵では理解し尽くしえないお方である故に、イエス様に対していつも慎重でありたいと思うのです。そして分からない時にはいつでも、鈴木先生の訳されましたバプテスト教理問答書を開いて読んでいただきたいのです。
因みに、その本の[問7]には、唯一の神のほかに神々がいるかとあり、その問いに対して、[答]、唯一の生ける真理の神だけがいる、とありますし、 [問8]には、神にはいくつの人格があるか、と言う問に対して、 [答]は、神には三人格がある。それは、父、子、聖霊であって、この三人格は、一人の神であり、本質において同一、能力と栄光において同等である、という風にあります。
イエス様は今ここで、父なる神様に、弟子達のために祈ってくださっています。祈りは、弟子達を思い、弟子達のこれからの事を気遣いながら、執り成してくださっている祈りなのであります。8節の終わりの方に、「あなたがわたしを遣わされた事を信じました。」と弟子たちのことを祈られていますが、逆を言いますと、信じない多くの人達がいたと言うことでもあります。
多くの人達の中の選ばれた人たち、それが11弟子でありました。私たちもまた、選ばれて、こうして神様の御前に出て、礼拝をお献げできるのは、何と言う感謝でありましょうか。
ところで、イエス様は9節で「 わたしは彼らのためにお願いします。」と言われて、改めて、その願いと言うものを強調しておられます。その願いの対象者は誰かを引き立たせる為でありましょうか。世の為ではない。父なる神様がイエス様に下さった者達のための願いなのです。それは即ち11弟子であります。なぜなら、弟子たちは、父なる神様のものだからです。
そして、父なる神様と子なる神様とが分けられないように、こう祈られているのであります。10節「わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。」とであります。
父なる神と、子なる神とは、切っても切れない、切り離せない関係、神の御性質の、二位格の全き統一の教理と三位一体の位格の区別の教理をここでも明らかにされています。イエス様は続けて祈られています。「わたしは彼らによって栄光を受けました」と。
多くの人がイエス様から去って行った。そういう時もありました。しかし、11弟子たちは、決して離れることはありませんでした。この世的に見れば、イエス様が試練を受けておられると思える、そのような時でも、弟子たちはいつもイエス様と共にいて、イエス様に栄光を帰し、栄光をもたらしたと祈られるのです。目立った働きでなくても、またどんなに小さな働きに思えても、主のためにしているなら、主はその働きに目を留めてくださり、覚えていて下さるのは何という幸いでありましょうか。
人が正しく評価してくれないからと文句の一つでも言いたいのが私たちの心です。しかし、その必要はないのです。ちゃんと神様は、私達が主に仕えていれば、主はそれを正しく評価してくださるのであります。人の目ではなく、主のことを覚えて仕えて行きたいものです。
イエス様は、弟子達にいろいろなものを与えられただけでなく、父なる神様から栄光を受けられたことも、しっかりと覚えていてくださったのでありました。こういう評価をしてくださることは、弟子たちにとってなんと言う幸いでありましょうか。私たちは、天に帰った時、「よくやった。良き忠実なしもべだ」(マタイ25:21)そう言われるように、主にお仕えしていきたいものです。
11-13節では、イエス様がこの世を去る事をはっきり意識して祈られ、残される者、弟子たちの事を案じておられることが分かります。11節「 わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとに参ります。」あるいはまた、13節では「わたしは今、みもとに参ります。」というふうに、この世を去ることを祈りながら、そのことによって残された弟子たちが、路頭に迷う事のないように、色々な事を込めて祈っておられます。
弟子たちが、この世の悪いことから守られ、信仰から外れることのないように、偽りの教えに惑わされることのないように、誘惑に遭っても、決して負けることなく、迫害に遭ってもつぶれることのないように、悪のあらゆる策略、陰謀から守ってくださるように、と言うようなことが含まれていると思われます。
11節で特に目を留めたいのは、「御名の中に、彼らを保ってください」であります。 ライルと言う人は、ここを「『あなたご自身の属性である力と愛と知恵によって』 と受け止めている」という風に書いています。
聖書の中に「御名」と言う言葉が良く出てきます。主の祈りの中にもありますので、毎週、私たちは「御名が崇められますように」と祈ります。神様のお名前によって、そこには神様の本質と属性が現わされます。ですから、それこそ神様とはどう言うお方かについて、きちんと知っておく必要がありますし、そのためには教理問答を開いてみるのが最適であります。
もう一度教理問答書を引用したいと思いますが、その問答の[第6問]ではこのように現わされています。「神は、その存在、知恵、能力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変の霊である」と。そういうお方の中で、弟子たちを守ってくださいと言う祈りです。神様とはどう言うお方かを本当に知っておられる故に、その祈りに重さを私は感ずるのであります。
ところで、12節の終わりの方に、「ただ、滅びの子が滅びました」とあります。これは勿論、ユダの事を指して言われているのであります。イエス様は、ご自分で12弟子を選ばれました。しかし、以前にも申し上げましたが、そのうちの一人のユダがどう言う人間か知らないでイエス様は弟子にされたわけではありませんでした。
ですからヨハネは、この福音書の6章64,70節でこのように明らかにしているのであります。6:40「しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」――イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである。――とありますし、また6:70では、こうも書いています。「イエスは彼らに答えられた。『わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。』」と。
ですから、イエス様は、人選を間違えられたわけではないのです。失敗されたわけでもないのです。イエス様が、どう言うお方であるかを私達が正しく知っているなら、今申し上げたような考えは浮かばないといえましょう。気をつけたいものです。
さて、14節から16節の所で目に付きますのは、「この世」と言う言葉です。14節「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。」と。
この世の人たちは、イエス様のお言葉を、驚きを持って、興味を持って聞いたかもしれません。しかし、神様のお言葉としては聞きませんでした。従ってイエス様の弟子達は、この世から迫害を受ける事になるのです。
この14節のイエス様の祈りの中に、「世は彼らを憎みました」とあります。今までにも少しはあったかも知れませんが、実際にこのことが起きるのは、これからなのです。イエス様が昇天された後、起ると言っていいでしょう。しかし、イエス様には、今現在、手にとるように先のことが分かるのです。だからこそ、こう祈らざるを得なかったと言えましょう。
ところで、イエス様はこの14節で、弟子たちがこの世のものではないと言われています。では、彼らはどこのものなのでしょうか。この点については、ピリピの人たちに送ったパウロの手紙が適格に言い表しているでしょう。彼は、3章17-20節でこう書いています。お聞きくださるだけで結構です。
「兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなた方と同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」とであります。
ここは、特に有名なところですが、これをお聞きになって、私たち信仰者がこの世のものではなく、どこのものであるかお分かりでありましょう。言うまでもなく、私たち信仰者は、天に属する者なのです。
ヘブル人への手紙11章では、著者は、何人かの信仰の偉人を挙げ、その後で、「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」と書いています。
ですから、信仰者はみんな、この世のものではなく、天に属する者、その事を意識して、このイエス様の祈りを読みますならお分かりでしょう。弟子たちのこれからの苦しみ、試練を考えれば、この世から取り去ってくださいと祈りたいところでありますが、そうではなく、「悪い者から守って下さるようにお願いします」と祈られるのであります。いわば、この世からの逃避ではなく、この世に向かって、世の光として現わしていく、そういう使命を与えておられるとも言えましょう。
さて、16節では「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。」と言われています。この世にあってキリスト者はみんな、寄留者であり、旅人です。ですから、この世との摩擦がおきることは避けられないのです。そこで、この世の流れに流されることなく、また、さまざまな戦いに敗れることのないように、特別に守ってやってくださいと願っていてくださるのであります。イエス様の、決め細やかな祈りに、ただただ私は感謝するのです。この祈りが、たとい弟子たちのためであってもです。
最後に17-19節を見ますが、ここでは「聖め別つ」と言う言葉が3回出てきます。イエス様がこの世に遣わされたように、弟子たちもまたイエス様が遣わされたので、彼らをこの世から、聖よめ別って下さい、と祈られます。
弟子達は、イエス様から真理の御言葉をいただきました。彼らは、その御言葉によって、この世と一線を画くし、聖さをより一層求め、神の民に相応しく整えられていくことを祈り求めてくださっているのであります。これらの祈りは最初に申し上げましたように大祭司の祈りとも呼ばれ、イエス様が、弟子たちのために祈られると共に、私達の為にも今も祈ってくださっていることを覚えずにはおれません。そういう意味では次回見ます20節以下の祈りは、まさに、私達の為の祈りであり、より身近な祈りなのです。
以上見てきましたように、イエス様はこの地上を去るに当って、弟子たちをどれだけ愛し、また今後のことに目を留めておられるかを思わずにはおれません。イエス様が、父なる神様との間に立って、とりなしの祈りを今もしてくださっていることを思いますと、また、イエス様の犠牲の上に立って、私達が天に迎え入れられる特権をいただいている事を思いますと、神様のなさる不思議さを思わずにはおれないのです。
なぜ、私のような者がと思います。神様の絶対的主権によって、恵みと憐れみによって、神の子とされ、弟子たちを愛されたように、私たちも同じ様に愛されている。何という感謝な事でしょうか。
イエス様に愛され、祈られ、守られ、この一年が今まさに終わろうとしているのであります。この一年間、いろいろな試みを受けたかもしれません。肉体の苦しみに、苦しんだかもしれません。しかし、きょう、この日まで来ることが出来たのは神様の恵みなのです。イエス様の祈りの賜物なのです。そのことに感謝しつつ、新しい年を迎えようではありませんか。
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