2007年1月21日(日) 「我が為の祈り」 ヨハネ17:20-26 竹口牧師
今、私達はヨハネの福音書の17章を学んでいるわけですが、この17章全体はイエス様の祈りとなっており、しかも、ヨハネの福音書ではこれが最後の祈りとなります。実際は、十字架にかかられて祈られる祈りがあるのですが、ヨハネはそれを載せていません。
しかも、不思議なことにヨハネの福音書は、イエス様の祈りであるにもかかわらず、祈るという言葉を使って訳されていません。この章の1節にありましたように、「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた」とあるに、であります。
ところで、今まで私達は1−5節まで、イエス様はご自分のことを祈られた。そして6-19節で、11弟子のために祈られた、という所を見ました。そして今日は、イエス様の祈りの最後の部分、20節―26節で、イエス様の11弟子たち以外の人達のために、つまり弟子たちのこれからの活躍によって宣べ伝えられて、イエス様を信じ、神様が遣わしてくださる人達の為の祈りが今日の所であります。
つまりそれは、現在もなお、救われて、神の子の一人にさせていただいている私たちのための祈りでもある、そういう事が出来ましょう。今日の説教題で、「我が為の祈り」としましたが、これは、言葉を短くして書いたものでありまして、「私のための祈り」、これをひっくり返していいますと、「あなたの為の祈り」と言う事になるわけであります。ですから、これは、大変ありがたい祈りなのであります。
と同時に、祈らざるをえない現実と言いますか、イエス様にとっては、これから十字架におかかりになり、墓に葬られ、甦られて天に戻られた後の事が分かる故に出来る祈りなのであります。
では具体的にイエス様は、何を私たちのために祈ってくださったのでしょうか。第1番目は、20-23節に書かれている事であります。それは、イエス様を信じた人たちみんなが一つになることであります。21節に、「彼らがみな一つとなる為です」とあり、22節に「私達が一つであるように、彼らも一つである為です」とあり、23節には「彼らが全うされて一つとなる為です」と言う風に、繰り返し、繰り返し、一つと言うことが言われているのです。それだけ、一つになる事の難しさと言うものがあるという事でしょう。
小さい群れの時は、それ程問題にはならなくても、教会が大きくなればなるほど、一つになる事の難しさがあります。いいえ、残念ではありますが、世界とか、国とか、地方とか、そう言った規模の問題ではなく、一つの家庭すら、最近は一つになっていないのです。夫婦でさえ、結婚式で誓ったあの誓いは何だったのか、そう叫びたくなる現実が、今日の姿であります。
家庭がそうであるなら、まして教会も、例外ではないのであります。父なる神様とイエス様とが一つであられるように、キリスト者同士も、キリストにあって一つになること、これが、私たちに求められているのであります。見かけ上、忍耐して一つに見せることではなく、心からの一致が必要なのです。
そこには、イエス様が弟子の足を洗われた、それほどまでに謙遜にならなければ出来ない、とても大きな、そして大切な点をイエス様は、十字架にかかられる前に話しておられると言えましょう。
22節には「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。」とイエス様は祈られていますが、この「栄光」が何を意味するか、色々な解釈があります。その中の一つに、「栄光」は、聖霊を意味し、他のところで「栄光の御霊」(Tペテロ4:14)と呼ばれるもので、それは、御霊の一致(エペソ4:3)を指しておられるのではないか、というのがありますが、その解釈に私は立つことに致します。
エペソ4:3には、「平和のきずなで結ばれて、御霊の一致を熱心に求めなさい」というパウロの勧めがありますが、それによってこそ、一つになれるのではないかと教えられます。
ところで、言うまでもなく、家庭の不和は、教会にも反映し、そしてそれはまた、この世に対する良い証しにはならないのであります。23節後半でイエス様は「あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」と祈られていますが、イエス様は、ご自分が父なる神様に愛されている。
たといこれから十字架にかかることになると知っておられながら、そう祈られているのであります。そこには大きな犠牲があり、また、その犠牲によって神様の愛が一層明らかにされ、キリスト信者は、その神様の犠牲の愛の中に生きている、それを見ながら、この世の人達がその愛を知るようになるように、そういう祈りではないかと思います。
もし、私たちキリスト信者の中に、愛がなければ、そして、争い、審き、分裂で満ちているなら、どのようにしてこの世の人が、教会に魅力を感じるでしょうか。キリストの身体である教会が、キリストの示して下さった愛を、この世に向かって満ち溢れさせていく。又そのようにまずは神様にしていただくことであると言えるでしょう。
一つとなると言うことは、別の言い方をしますと一致ということです。そしてまた、この一致は、教団、教派、形式、戒規、政治などなどを越えて協力する一致ではありません。つまり、ここから世界教会運動を言うべきではないでしょう。所詮、外形を一つに見せても、内部が全く違ったものが集まれば、それは決してイエス様の言われている一つにはなっていないからです。イエス様が祈りの中で、これほどまでに一つになる事を祈られたのは、それだけ大切なことであるからですが、
しかし、実際は、残念なことにキリスト教の歴史を振り返れば、分裂、分派、そして教理的な闘争、それに利害関係も加わって、真理から遠ざかった戦いが、2000年の歴史の間には何度も起きたのが現実であります。それは決してキリスト教だけではなく、他の宗教も同じであります。
しかし、とりわけキリストの愛を語るキリスト教は、厳しい目で見られているのであります。それだけに、私たちの内側が、愛ではなく、争いで満ちているなら、この世の人たちは、即座にそれを見破り、失望するのであります。この世の人たちは、教会には愛があると信じているからです。少なくとも私はそう思っています。
最近、さまざまな宗教まがいのものが世の中を騒がせ、宗教に対する悪いイメージが子の日本では持たれていますが、キリストの愛は、昔も今も変わらないのであります。そして、その変わらない愛をキリストから私達は頂いているのです。
その愛に満たされているなら、主は必ず、そこに一致を与えてくださると私は信じます。もし、争いが少しでもあるなら、そこには、キリストの愛がない、あるいは忘れ去られている、そのように言えるでしょう。父なる神様がイエス様を愛されたように、私たちもまたイエス様に愛され、それはまた、父なる神様にも愛されているのであります。
その愛を私たち自らが感じ、味わい、喜びに満たされなければ、どうしてこの世の人達が愛を私たちから知ることが出来るでしょうか。父なる神様がイエス様に下された十字架刑は、私たちを愛するが故であります。ご自分の一人子を十字架にかけてまでも、愛する愛を持って私たちに臨んで下さっている神の愛をしっかりと、又、繰り返し確認して、神様に愛されていることを味わおうではありませんか。それが、イエス様の祈りの中にある一つになれる道であります。
さて、二つ目の点に行く事にしますが、それは24節に書いてあることであります。「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしと一緒におらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられた為にわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになる為です。」
この祈りは、弟子たちにとっては、よく意味が分からなかったのではないかと思います。現在の私たちであるからこそ、イエス様は、今は天におられ、神の右に座しておられる。そのような天国に、イエス様を信じる者がいるようにして下さい、ということでありますから。
イエス様は、十字架にかかられた時、一人の強盗にこう言われました。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、私と共にパラダイスにいます」(ルカ23:43)と。また、パウロはこうピリピの人たちに書き送っています。「私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」と、こう言っているのであります。
あるいはテサロニケ人への手紙では(Tテサロニケ4:17)、「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」
まあ、これなどは天国ではなく、空中携挙ですが、場所ではなく、イエス様と共にいることが私たち信仰者にとって幸いなのであります。また、そうなるようにしてくださいとイエス様ご自身が祈ってくださっているのであります。なんという感謝でありましょうか。また、何と言う力強い祈りでありましょうか。私たちの祈りではなく、イエス様の祈りでありますから、これほど確実な祈りはないのであります。
ところで、イエス様はここで、私たちが共にいるようになるための理由を述べておられます。それは、「あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられた」と言っておられますように、時の始まる前、人間の創造以前の永遠から備えられていたものであり、永遠からおられる父なる神様の子として、イエス様が永遠から持っておられた栄光なのであります。
一体それはどんなものであろうかと私たちは非常に興味が湧きます。しかし、これは私たちには理解できない深い意味があって、恐らく、その状況にならないと分からないのではないかと思います。けれども、先ほども言いましたように、イエス様が父なる神様に祈って下さっているのですから、確実にそうしてくださるのであります。なんという素晴らしいお願いでしょうか。最初に「父よ。お願いします」と改めて祈られている祈りは、父と子の信頼関係を改めて見るような気が私はします。
さて、第三番目、最後になりますが、25,26節から一つのことを教えられたいのです。この2つの節の中で特に注目しますのは、26節の最後のところであります。「あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」という祈りにあると思います。
イエス様は、父なる神様の愛を一杯受けておられ、その愛が、信仰者である私たち一人一人に注がれ、満ちるだけでなく、「またわたしが彼らの中にいるためです。」と言われるのです。マタイの福音書1章23節に「インマヌエル」と言う言葉が出てきますが、意味は、「神は私たちと共におられる」であると書いてあります。そしてまさに、イエス様は、インマヌエルのお方なのであります。
イエス様は、十字架にかかられ、殺されますが、三日目に甦られ、天に戻られます。しかし、マタイの福音書の最後のところで、イエス様はこう言われているのであります。 「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなた方と共にいます。」
この最後の所は、目を引きます。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなた方と共にいます。」天に戻られる、そして戻られたイエス様が、あなたと共にいますとも言われ、実際に「共にいてくださるお方」なのです。素晴らしいお方ではないでしょうか。
私は、自分がどういう者であるか、他人が知らない自分と言うものを知っています。そして、その私のような者の中にもイエス様がおられると思うと、なんともいえない思いになるのであります。
ある人はこう書いています。「もし、この地上の王に一夜の宿を提供するとすれば、礼を失しないように、部屋を片付け、心地よく綺麗にしてお迎えするであろう。ましてあなたの天の王が来られて、あなたの心に永遠の住まいを設けるとしたならば、どれほど注意深く、心をきよめ、主に喜ばれるもてなしをし、愛や信仰や他の恵みを実践しなければならないであろうか。そうすることによって、あなたの心に続いて住まわれる天の王をお喜ばせすることができるのである。」とであります。
正にそうだなあと思わせられるのであります。神様を神様として礼拝をお献げできる恵みに感謝すると共に、イエス様のとりなしの祈りによって、守られ、生かされ、神様の御用にも当たらせて頂いていることに感謝するのです。イエス様は、ご自分の為に祈られました。また、11弟子たちのために祈られました。そこで終わりとしないで、まだその時点では生まれていない私たちのためにも祈ってくださっていたのであります。
私たちが一つ心となるように、そしてイエス様の素晴らしさを私たちがもっと見るように、更には、汚れた心の私たちの中にいることも願われたのです。ですから、私たちは、イエス様の思いをよく知って、イエス様の喜んでくださる道を歩めるよう、ひたすら求めて行きたいものです。
不完全な私たちが、完全な歩みが出来るはずがありません。でも、イエス様は、祈っていてくださるのです。あなたのために、そして私のためにです。そのことにまず感謝しようではありませんか。
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