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2007年2月11日(日) 「杯を飲むために」  ヨハネ18:1-11   竹口牧師

イエス様の祈りが出ていました17章を3回に分けて見ましたが、今日からいよいよ、新しい段階に入ります。

イエス様は祈り終えられますと、ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれたと今日の最初の1節にはあります。イエス様が最後の晩餐をされたところから、この1節に書いてある所、他の福音書では、ゲツセマネの園と言われていますが、その場所へと移動されるのであります。ケデロン川は、雨期に雨が降ったときだけ水が流れ、普段は乾いた川床であり、エルサレムの東側、町とオリーブ山の間にあります。

ダビデが息子のアブシャロムに追われてエルサレムを明渡さなければならなかった時、泣いてわたったのがこのケデロン川でありました。その川があり、深くくぼんでいますので、見た感じより実際は距離があるのであります。そしてそのイエス様が行かれた場所を、裏切ったユダは知っておりました。理由は、イエス様が度々、そこを利用されていたからであります。

それにしましても、ユダのこの時の気持ちというものは、果たしてどんなものであったのでしょうか。イエス様と3年間も寝食共にしながら、歩んだ歩み、この世の裕福な人たちではなく、貧しい人たちを相手に、あるいは、罪人として嫌われている人たちに対して、病人に対してというように、いわばこの世の底辺の人たちに対して憐れみの行動をされていたそのようなイエス様を裏切る。

勿論、宗教的な対話は、当時の宗教指導者との論争がありましたが、何がユダをイエス様を裏切る事へとさせたのか私は理解に苦しむのであります。

当時の指導者からお金を貰うのが目的だったのでしょうか。それにしては一生遊んで暮らせるようなお金を彼は貰っていた訳ではありませんでした。たかだか銀貨30枚でありました。(マタイ26:15)この銀貨が、デナリ貨幣であったとしますと、約5週間分の労賃であったと言われますから、どうも、金目的ではなかったようにも思えます。
もっとも、人によって金額の感じ方は違いがありますので、一概には言えませんけれども。

では他に考えられることと言えば、何があったか。人間的な何かがあったのかといいますと、何も分かりません。ただ私たちが言える事は、イエス様はユダの裏切りを知っておられた。そして、それにイエス様は真正面に向かわれたということであります。

イエス様はどのような方法を使っても逃げる事は可能でありましたから、そういう事ができるのであります。しかし、そうされないで、あえて立ち向かわれた所に、ユダの裏切りの理由が何であれ、私たちは、イエス様の行動のほうに目を向けさせられますし、また、向けるべきでありましょう。

そこには、私たちの罪からの救いが込められているからであります。イエス様は、ご自分の使命をよく知っておられましたので、ご自分の為の行動ではなく、罪人の救いのために行動された。それゆえに、ユダではなく、イエス様の方に私たちの目が行くのは当然でありましょう。

ところで、今、私は、「イエス様はどのような方法を使っても、逃げることは可能であります。」と申し上げましたが、イエス様は確かに、今までに何度か危険な目に遭われましたが、私たちには出来ない方法で、その場を逃げて来られました。

たとえば、8章の終わりの所で見たのですが、イエス様が話をされて、ユダヤ人たちはそれが受け入れられず、ついに、怒って石を取ってイエス様に投げつけようとしました。

しかし、そういう中でイエス様は、殺される事も無く、怪我をされる事も無く、無事に宮を出て行かれるのであります。ユダヤ人達には、殺す意思がありながら、殺せなかったのでした。そういう意味で、イエス様に対して弟子のユダは、万全の対策を練って準備をし、イエス様逮捕のためにやってきたのでありましょう。

と言いますか、お金を貰っていたユダは、出来るだけの事を準備するようにユダヤ人達側に教えていた、あるいは、ユダヤ当局者側もイエス様のことを、今までの経験で知っておりますから、それ相当の準備をして臨んだと言えましょう。

3節には、その準備の状況が克明に記されています。「そこで、ユダは一隊の兵士と、
祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。」とあります。聖書の欄外注を見ていただきますと、一隊の兵士とは、ローマの軍隊では、通常600人であると書かれています。

なぜイエス様逮捕のためにローマ軍が動かなくてはいけなかったのか、あるいはなぜ動いたのか、政治的意図は何であったのか、武器がどうして必要だったのか、何もわかりませんが、ユダヤ人側の祭司長やパリサイ人や役人だけでなく、それだけ多くの人を準備しなければ捕らえられないと考えたからこそ、準備してやってきたと言うことでありましょう。

ヨハネは、ここには、群衆を加えていませんが、マタイなどは書いていまして、しかも、群衆はみな、祭司長、民の長老達から差し向けられたものであったことが分かります(マタイ26:47)。

一方、その彼らを迎えられたイエス様はどうかといいますと、「イエスは自分の身に起ころうとする全ての事を知っておられたので、出て来て、『だれを捜すのか。』と彼らに言われた。」とあります。イエス様は、すでに何が起るのか、全ての事をご存知であり、その時が来たことを自覚されて、彼らを迎えられたのでした。そして平然と「誰を捜すのか」と言われるのであります。

これとても、知らないで言っておられるわけではありません。ご自分を目当てに来たことは十分承知で言っておられるのであります。5節で彼らは「ナザレ人イエスを」と答えます。イエス様が捕らえられる頃は、確か満月の頃であります。月明かりで明るい時期の筈であります。それなのにともし火とたいまつをもってきているというのは、道は明るくても、木陰に入れば、やはり見えづらかったのでしょうか。暗闇に消えられると取り逃がすと思ったからでありましょうか。

しかし彼らがイエス様を捜す前にイエス様はご自分の方から出てきて、「誰を捜しているのか」と言われたのでした。しかも、彼らの質問に、「それはわたしです」と答えられるのです。新改訳では、この所を「それはわたしです」と訳されていますが、実際、ギリシャ語では、「それは」に当るものはありません。そして直訳しますと「わたしは、である」となるのであります。ですから、もっと日本語的に言いますと「わたしです」となります。

イエス様が今まで何度も使われて来られた言葉であります。イエス様が5つのパンと2匹の魚とで約5000人の人を養われた奇跡の後、弟子達を舟の乗せ、先にカペナウムの方に向かわせられ、イエス様は、後からその舟に歩いて向かわれた。弟子達はその近づいてくるものを見て恐れた時、イエス様は「わたしだ。恐れることはない」と言われた。

その時の「わたしだ」というのが(ヨハネ6:1-21)、今日のところの「それはわたしです」と同じなのであります。ギリシャ語では「エゴー エイミー」であります。そしてこれは、ヨハネが繰り返しイエス様の言われた言葉の中で、「わたしが命のパンです。」とか「わたしは世の光です」とか「わたしは良い牧者です」とか、「わたしはよみがえりです。いのちです」などと言われている言葉の最初はみな「エゴー エイミー」なのであります。

「わたしは、である」「わたしである」「わたしだ」と、どのように訳しても良いでありましょう。しかし、これはまた、神様のお名前であることを見逃してはいけないのであります。

かつてモーセが、ミデヤンで羊飼いをしていた時に、神の山ホレブにやってきた時、燃える柴を見つけ、燃えても燃え尽きない不思議さにひきつけられ、それに近づき、その時、神様がモーセを指導者として召してくださった。その時に神様がご自分のことを(出3:14)、「『わたしは、ある』という者である」といわれましたが、これがまさに、ギリシャ語では「エゴー エイミー」なのです。

そしてこの言葉「わたしです」という神の御名を口にされた時、6節を見ますと、取り巻き連中はみな、あとずさりし、そして、地に倒れたとあるのであります。彼らがどれだけ、この言葉に強く反応したかお分かりでしょう。

ライルという神学者は、これをイエス様の奇跡だと言い、「主が波を静め、風をとどめ、悪霊を追い出し、病人を癒し、死人を生き返らせたのと同じ神の力を発揮された最後の機会であった」と言っています。実際に、奇跡であったと私も思います。
そうでなければ、そのようなことは起きないでありましょう。

イエス様を捕らえようと勇んでやってきた。そこに逃げ隠れしないで堂々と出て「わたしだ」と言われた。この時の雰囲気といいましょうか、空気の状況は、本当にぴりぴり張り詰めた状況ではなかったかと思います。それこそ、イエス様が一歩進み出られると、その一歩によって空気が氷のように固まり、押されて、彼らが倒れた、そんな感じすら私はするのであります。

イエス様は彼らのその倒れた姿を見ながらでしょうか。あるいは、立ち上がってからでしょうか。もう一度同じ質問をイエス様はされるのであります。「誰を捜すのか」そして彼らは「ナザレ人イエスを」とまた答えます。

そしてその答に、イエス様はまた言われます。「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」と。イエス様の弟子たちに対する暖かい配慮が伺えるのであります。

と同時に、イエス様が17章12節で祈られた祈りのお言葉の成就のためでもあったとも言えましょう。「わたしは彼らと一緒にいた時、あなたがわたしに下さっている御名の中に保ち、また守りました。彼らのうち誰も滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです」とありますように、イエス様はご自分の言ったことを守られるのであります。

イエス様は、ご自分の命を敵に託し、弟子たちの命を守られるのであります。これは、人間的な指導者としても素晴らしい配慮であると言えます。そして、それを言うなら、戦争中における指揮官と部下との関係の美談はいろいろあります。

自分の命を投げ出して、部下を守ったとか、自分が先に殺されることを申し出たとかと言うようにでます。しかし、イエス様がここでなさった行為は、人間のなしたさまざまな、どんな美談とも比べられないのであります。

それは、イエス様の行為は、ご自分の死によって、人々に永遠の命を与えるものであり、人間の行なった行為は指揮官としては優秀であったかもしれませんが、人々に永遠の命を与えるものではないからであります。

イエス様は、逃げもされず、恐れもされず、刻一刻と進んでいく時間の流れに、ただひたすらご自分の使命を覚え、着実に実行されているのであります。弟子達は、その時間の流れの中で、どうしていいかわからず、思いつくままに行動するのであります。その一つが、10節にありますシモン・ペテロの行為だといえましょう。

彼は衝動的で、熱心で、結果を考えないで行動し、まもなく熱も冷め、次には恐れがやってくるというまことに変化の富んだ人であります。ここでも彼はとっさの行動を致しました。彼は剣を持っていましたので、それで、大祭司のしもべの右耳を切り落とすのであります。

ただルカの福音書では、そのしもべの耳をイエス様は癒されたことが書かれています(ルカ22:51)。これもまた、イエス様の肉体の癒しの中の最後の癒しとなります。このヨハネの福音書には、大祭司のしもべの名前「マルコス」さえも書いてあります。

その理由として、他の福音書よりずっと後なので、切り付けたペテロの名前や、切られたマルコスの名前を載せたのであろう。その頃にはもう二人ともなくなっていたのでとライルは書いています。

それにしましても、一瞬の出来事であり、一層緊迫感が増したであろう事は想像できます。ペテロは、何のために剣を振るったのでありましょうか。自分を守る為にしては、敵の数に圧倒されているはずです。一人でもいいから殺して自分も死のうとしたのでありましょうか。どうもペテロの今までの行動から考えるなら、やはり説明は難しいような気が致します。

仮に、ペテロの剣がマルコスの命に、致命傷を与えたとするなら、しかし、それでもイエス様には、生き返らす力がありますので、問題はなかったでありましょうが、この時の状況は、本当に何が起っても不思議ではない、そんな状況であっただろうと思うのであります。恐らくイエス様は、穏やかに言われたと思うのですが、こう言われているのであります。

「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」他の福音書では「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」(マタイ26:52)と言われたとあります。

あくまでもイエス様は、ご自分の使命を覚えて、冷静沈着に行動されているのであります。そして、この後、逮捕となるわけでありますが、しかし考えてみますと、ユダヤ人達にとってイエス様を捕らえる事が目的であったとしましても、大祭司のしもべに切りつけたペテロは、何も咎めもなく、その場を離れる事が出来たのはなぜなのだろうかと思わされるのです。

8節のイエス様のお言葉にユダヤ人達は素直に従っただけなのかと、いろいろ思い巡らしますと、分からないことだらけでありますが、まあ、大切なのは、ユダの手引きによって、このようにイエス様は捕らえられるに至ったと言うことでしょう。

そして、その捕らえられる直前にも、イエス様は、イエス様らしい奇跡を行なわれたことも決して見逃してはならないのであります。それは、この世の人が人に裏切られたり、また、捕らえられたりしたのとは、全く違っていますし、奇跡をも行なっておられるからであります。

ユダが裏切ってイエス様の所にユダヤ人達を案内しましたが、イエス様はそれも知っておられましたし、敵に包囲されても、逃げようと思われれば、逃げられるお方でしたし、イエス様が進み出られると、敵は地に倒れるほどでしたし、ペテロの軽率な行動にも、ちゃんと配慮してくださったお方でありました。それがイエス様だからであります。

これらの全ては、イエス様が十字架にかかられ、殺されなければならないと言う、神様の厳しい審きの杯をお受けになる事へとつながっているのであります。

知らないものが受ける、時の流れの怖さがありますが、これから起る事の全てを知っていての、時の流れは、もっと怖いと言えましょう。それは、単に処刑されると言う事実だけでなく、殺され方もご存知であったイエス様にとって、「父が私に下さった杯を、どうして飲まずにいられよう」と言う言葉に、その思いが込められているように思います。

「人がその友のために命を捨てるという、これよりも大きな愛は誰も持っていません。」(ヨハネ15:13)とかつてイエス様は言われましたが、イエス様の死は、他の誰の死にも代えられない死であり、それをもって私たちを救って下さろうとしているイエス様の思いを、今のこの時点でも十分に覚えて感謝しようではありませんか。

イエス様は杯を飲むために、否、私たちの罪の身代わりとなって死んでくださる為に、少しも動揺なさらず、現実を受け止め、十字架への道を進まれるのであります。私たちはこのイエス様の今のこの時の思いを想像しながら、私たちの全ての罪が、イエス様の肩にあり、イエス様が飲んでくださる血の杯は、私の罪のためであった、その事を、この朝もう一度深く覚えようではありませんか。

今私たちは、イエス様の身代わりの死によって生かされています。決して自分の力で生きているのではありません。罪人の私たちが生かされている。その事に心から感謝しようではありませんか。

生きる事は苦しい。そう思っておられる方もあるかもしれません。病の為に早く楽になりたいと思っておられる方が、おられるかもしれません。悩みの中で苦しんでおられる方があるいはおられるかもしれません。

しかし、イエス様は、その私たちが生きる為に、ご自分の死の杯、ご自分の流される血の杯を飲むために、ご自分の身を敵に委ねられるのです。私たちは、このイエス様の思いを知って、生かされていることの意味、幸いをしっかりと確認したいものです。

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