2007年5月6日(日) 「ユダヤ人の王」 ヨハネ19:28-30 完了した 竹口牧師
先回は、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、イエス様の事を「ユダヤ人の王と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください」と迫りましたが、ピラトは、その要求を飲まず、「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と掲げさせました。
しかもそれはヘブル語、ラテン語、ギリシャ語の3つの言語で書かれておりましたので、それはまさに、イエス・キリストがどう言うお方なのかを、多くの人に知らせることになりました。
そして今日見ますのは、イエス・キリストが命を落とされるところであります。しかも、天からこの地上に来て下さり、人間としての歩みをなさり、全ての任務を終えられる所であります。最後にはイエス様は「完了した」と言って息を引き取られます。
ヨハネは、イエス様の十字架上での言葉、それが7つありますが、そのうちの3つを書いております。その一つは、先回見ました所にありました、イエス様の母親に関することで、マリヤ達や弟子の一人に言われた、「女の方、そこに、あなたの息子がいます」「そこに、あなたの母がいます」と言われた言葉であり、残りの二つは、今日の個所にあるのであります。
「わたしは渇く」という言葉と「完了した」の二つであります。そして、この前者の「わたしは渇く」というのは、ヨハネが説明をつけていますように、聖書が成就する為でありました。
先回見たのですが、兵士達がイエス様の着物を分け合ったり、くじ引きしたりしたのは、彼らが聖書を知っていて、そうしたわけではありませんでした。知らないでしたことが、 まさに御言葉で預言されていたことの成就であったわけでありました。
一方、今回のイエス様の「わたしは渇く」と言いますのは、これは、明らかにイエス様は意識的であったと言えます。イエス様は、神の小羊として、身代わりの死を遂げる任務を負われ、ご自身それを知っておられての行動であったからであります。全ての事を知っておられるイエス様は、御言葉をも知っておられ、その御言葉の成就でなければならなかったからであります。
「わたしは渇く」と言う言葉は大変人間的な言葉であります。しかしそれはまた人として来られたイエス様に相応しい言葉でもあります。飢え、渇き、痛み、悲しみ、怒り、喜びなどなど全てを経験されたイエス様でした。
痛みと言いますと、それに関してライルと言う神学者は、十字架刑が引き起こす肉体的な苦痛の大きさと、身体に及ぼす影響を、スミスの聖書辞典にこう載っていると紹介しています。6つほど挙げていますが、何個か挙げておきます。
(1) 不自然な姿勢と身体の激しい緊張は、少し動いただけでも痛みを引き起こした。 (2) 心臓から離れた所にあって神経や腱がいっぱいの両手足の部分に打ち込まれた釘は、この上もない激しい苦闘をもたらした。 少し省略しますが、血液循環全般に支障が起ると、内的な興奮や焦燥、不安を引き起こし、死そのものよりも耐えがたくする。 (5)そこには苦悶が徐々に増加して長引くという、言葉に表せない悲惨さがあった。 (6)これらすべてに加えて、燃えるような激しい渇きがあったということが出来よう、と言う風に、であります。
イエス様のこうした状況は、正に人間であるなら、十字架と言う刑を受けるなら、死に至るまでに必ず通る苦しみであります。
さて、ここで問題となってきますのは、イエス様は神であったのか、人であったのか、あるいは両方であったのかということです。逆に、両方も違っていたのかという考えもありましょう。人によっては、宇宙人であったなどという者もいるくらいですから。
勿論、私たちはイエス様が神であり、人であったと信じています。しかし長い歴史の中では、それを否定する考えがあったのであります。今もそれは変わっていないと言っていいでしょう。今はともかく、キリスト教の初期の頃、グノーシス主義というのが、盛んになり、人々を惑わしたものでありました。それをバークレーという人が分かりやすく書いていますので、紹介しておきます。
「ヨハネがこの福音書を書いた紀元100年頃には、宗教及び哲学思想の中に、ある一つの傾向が生じていた。それはグノーシスと言う名で呼ばれている。グノーシスの主な教義の一つは、霊は全く善であり、物質は全く悪であると言う思想である。
グノーシス主義者はそう信じた為に、そこからいくつかの結論を引き出すこととなった。 その結論の一つは、純粋霊なる神は、ご自分に体をとるはずがない、というものである。 体は物質であり、物質は悪だからである。
そこで彼らは、イエスは現実の体をもたなかったと考えた。イエスは神の霊が人間の形に具現した幻影である、と彼らは主張した。たとえば、彼らの主張によれば、イエスは歩かれた時、地面に足跡を残さなかった、なぜならイエスは幻影の体をまとった純粋霊だからだというのである。
彼らはさらに発展させて、神が実際に苦しむはずがないのだから、イエスも実際に苦しみを受けたわけがない。イエスは十字架の経験を全部したが、実際には何の苦しみも味わわなかったのだと論じた。
グノーシス主義者達はそう考えることによって、自分たちは神とイエスに栄誉を帰しているのだと信じていた。しかし、彼らはそうすることによって、実は、イエスを破滅させていたのである。
いやしくも、イエスが人間を贖おうとしたのなら、イエスは人間にならなければならなかった。私たちをイエスのようにする為には、イエスがまず、私たちのようにならねばならなかった。イエスが渇きを覚えたことをヨハネが強調するのは、この理由からである。」以上であります。
人の罪をあがなうという点から、イエス様は人間でなければなりませんでした。旧約時代には多くの羊が、人の罪を贖う為に殺されていました。それも罪を犯すたびに、そうしなければなりませんでした。なぜなら、その贖いは完全ではなかったからでした。
ヘブル書の記者は9:25-26でこう書いています。「それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所にはいる大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。
しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです」と。まことにイエス様は、人としての歩みをなさり、私たちの罪を贖う為に、この地上に来て下さり、十字架におかかりになられたのでありました。
「わたしは渇く」とは、まさに人としてのお言葉であり、それはまた、詩篇69:21の言葉の成就でもありました。その詩篇にはこう書かれているのであります。
「彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました」とであります。そしてこれはまた、ヨハネが書いています29節へと続くのであります。イエス様の「わたしは渇く」とのお言葉に続いて、「そこには酸いぶどう酒のいっぱい入った入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、 それをイエスの口もとに差し出した」とであります。
このことはまた、イスラエルがエジプト脱出する時、彼らに神様が命じられた過越しのいけにえに関する方法ともあい通じるものがあります。あの時神様はこう言われました。出エジプト12:21-23で、「あなたがたの家族のために羊を、ためらうことなく、取り、過越のいけにえとしてほふりなさい。 ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。主がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、主はその戸口を過ぎ越され、 滅ぼす者があなたがたの家にはいって、打つことがないようにされる。あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のためのおきてとして、永遠に守りなさい。」 と言われたのでした。
ヒソプと言いますのは、はっか科の多年生草本で、石垣や岩間に生育し、茎の高さが50センチから1メートルあり、花や葉には芳香があり、副食物や薬用に用いられると言われます。そのヒソプが用いられ、しかも、先ほど読みました詩篇69:21につながっていくのであります。
先回もそうでしたけれども、御言葉が一つ一つ成就していくのであります。それは、人々がというより、十字架刑を執行するローマ兵が、いわば御言葉を熟知し、その御言葉に従ってマニュアルのごとくに見て準備し、そうなっていくのではなく、彼らはそれを知らないで行なっていて、成就していく様は、正に神様のお働きだと言えましょう。
ところで、マタイの福音書によりますと27章34,48節と2回にわたって、イエス様にぶどう酒を差し出したことが出ています。そのうちの最初のほうは、苦味を混ぜたぶどう酒であり、これは、十字架に付けられる者の痛みを麻痺させる飲み物で、イエス様は、それを飲もうとはされなかったと出ています。
そして、二度目のほうは、 今回のヨハネが書いていますのと同じものだと思われ、過越しの儀式で重要な役割を占めるもので、ローマ兵はそれを知らないで、好意で差し出したと思われます。こちらの方は、ラテン語でポスカと呼ばれ、ぶどう酒から作った酢を水で薄めたもので兵士たちの飲み物であった、そのように言われます。
イエス様は、最初の方の場合は、十字架刑の苦痛を軽減することが目的で、飲むことを拒絶され、ヨハネが書いています二度目のほうは受けられたのでありました。そして、完了となっていくのであります。
イエス様は、神の子である故に全てをご存知であり、「わたしは渇く」と言われ、又ご自分の使命が達成される事を知って「完了した」と言われました。ライルと言う人は、このイエス様の言われた「完了した」と言う言葉の正確な意味を私たち人間が恐らく理解することは出来ない深さが有ると言います。そして4つの終了を述べております。
一つは、主が私たちの身代わりとして来られて耐え忍ばれた、私達にすでに知っているもの、まだ知っていない全ての苦しみの終了であった。二つ目は、罪のためのいけにえとしてそれを終結させ、完成させる為に来られた儀式律法の終了であった。三つ目は、それを成就する為に来られた多くの預言の成就であった。そして最後の4つ目は、今や終わりに至った、人の贖いという大事業の終了であった。
これら全ての事柄が「完了した」と言われた主の御心の中に疑いもなくあった、という風に述べているのであります。私たちの死とイエス様の死とを比べたなら、何と言う大きな違いでしょうか。私たちの死は、全ての人の命を永遠にわたって救うことは出来ません。 全ての人の命を救うどころか、自分の命さえも救えないのであります。
律法を守ることにおいても、どれ一つとっても完全に守る事はできず、不完全なのであります。ヘブル書の記者はこう書いています。2章17,18節において、
「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主は全ての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」とです。
全ての点で、私たちと同じようにになられ、助けるものとなってくださったのでした。 新改訳では30節の所のイエス様のお言葉を、「完了した」と言われた、という風に訳しています。
一方、口語訳は、「全てが終わった」と訳し、新共同訳は「成し遂げられた」と訳し、文語訳は「事おわりぬ」と訳されています。これらの訳を読みますとさまざまな感じに受け取れます。否定的に取りますと、万事休す、全てが終わりである。もう何とも施すべき方法がない。そう聞こえなくもありません。
特に「全てが終わった」とか「事おわりぬ」という訳はそうです。逆に「完了した」とか、「成し遂げられた」という訳は、肯定的であり、イエス様が意識されて「終えるのだ」と言う意味に聞こえます。
では一体、ギリシャ語はどう書いてあるのかということになりますが、そこには、3人称、単数、完了、受身で書かれています。つまり、「それは終わらせられた」とか「それは完了させられた」となります。神であり、人であるイエス様が、最後に言われた言葉が、 神主体の言葉であり、人主体の言葉の合体したようなこの言葉は、そこに、非常に深い意味があるように私には思えるのです。
イエス様にしか出来ない業をなし終えられたイエス様、父の命に従って、この地上での贖いの業を終わらせられたイエス様。それが、この最後の言葉にあるように思います。そして、このイエス様の歩みを通して、最後には、自らがいけにえとなってくださり、私たちの罪は完全に贖われたことを私は感謝するのです。
イエス様は最後には、「頭をたれて、霊をお渡しになった」とヨハネは書いています。殺されて、やむをえなく死んでいくのではなく、あくまでもイエス様が主権を持って、ご自分の霊をお渡しになったのでした。まさに、イエス様が以前にこう言われていたことの成就なのです。
10:18で、「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」という言葉の成就です。
全ては、神様のご計画の通りに行なわれていきます。そしてそれは、イエス様によって私たちの罪が清算され、審きから、私たちが解き放たれたことを意味します。なんという幸いなイエス様のお働きであったことでしょうか。イエスの御名を心から褒め称え様ではありませんか。
完了した。私達のためになすべきことは全て終えてくださった。この地上の歩みをしている私たちには、もはや審きではなく、神の憐れみなのです。その恵みの中で今日も礼拝させて戴いているのです。何という感謝でしょうか。
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