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2007年6月10日(日) 「聖書の成就」  ヨハネ19:31-37  竹口牧師

この朝見ます個所は、イエス様が十字架刑で死を遂げられた後、その遺体が取り降ろされる所であります。死刑の執行は、ローマ側の権限でありましたので、ローマ主導のもとで行なわれていくのであります。しかも、普通は十字架刑は、殺すだけでなく、みせしめの意味もありましたので、そのまま野ざらしにするのが通例だったようです。

よほど特別な時以外、つまり、皇帝の誕生日のような時には、囚人の親族の者に遺体を引き取らせることもあったと言われています。ですから、ここ書いてありますことは、特例中の特例ということになります。

ユダヤ人たちは、自分達の律法にのっとり、遺体の引き下げを申し出たのでありました。その根拠は、申命記21章22-23節によると思われます。

「もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。」とあるからでありました。

それと共に今回の場合、ユダヤ人たちにとっては特別な日が直ぐそばに来ていたのでありました。31節をみますと、「備え日であった」とあります。安息日の備え日、つまりこんにちの私たちの言い方でしますと金曜日に当ります。しかも、土曜日の安息日は、今回は大いなる安息日とも呼ばれ、普段の安息日よりもっと大切な安息になっていました。

それは、過ぎ越しの祭りの第一日目か、あるいは、その次の日の種入れないパンの日か、更には、その次の初穂の束をささげる日か、分かりませんが、そういう日と重なる故に、特別ユダヤ人にとっては大切に考えていたようです。

いうまでもなく十字架刑とは、非常に残酷な刑でありまして、飢えと出血によって徐々に弱らせ、殺して行く事に主眼がありました。ですから、苦痛を長引かせ、その結果、死ぬのが長ければ2-3日はかかったとも言われます。

昼間は、灼熱の太陽にさらされ、夜は、大変な冷え込みの中で渇きに苦しみ、しばしば罪人は狂乱状態で死んでいったそうです。また、ローマ人たちは、遺体を埋めることをせず、取り降ろして、放置し、あとはハゲタカやカラスや野良犬の餌食にしたのだそうです。

しかし、今いいましたようにユダヤ人たちは律法に従いたいために、遺体をとり降ろすことをピラトに願い出て、許可を取り付けたのでありました。そして遺体を十字架から降ろすには、まず完全に死んでいることが確認されなければなりません。

そこで受刑者のすねを折るという、死を早める行為がなされたわけでありました。32節には、「それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。」とあります。

ところが、33節を見ますと「しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。」とあります。つまりイエス様の場合、そうされなかったのでした。

どうしてローマ兵が、イエス様の足には、手を加えなかったのか。私には不思議に思えるのであります。この時、十字架刑にされたのは、3人でした。その十字架が横一列に立てられていたとしますと、足を折る行為を、何も考えないで行動しますと、右端から順番に、或は左端から順番に折っていっても良さそうです。

しかし、ローマ兵は、そうはしませんでした。二人の強盗どもの足を折った後、イエス様の体に手をかけようとするのです。両側の者を先に済ませ、真中のイエス様を後回しにすると言うのは、もしかしたら、三角形の位置に立てられていたのかとも、私は勝手に想像するのであります。

つまり、強盗の二人は後ろに、イエス様を真中で手前に立てたと言う風にであります。そうすれば、後ろの二人をかたずけ、それから、イエス様の体に取り掛かっても不自然ではありません。

十字架の立て方からしますと、また、足を折る順番からしますとその方が自然に感じます。ある本によりますと足を折ると言うのは、木槌でたたいて折るとありますので、大変血なまぐさい作業であります。死を早める為のものと言われているからであります。

ところで、イエス様の順番になって、同じ様にしようとしますが、イエス様がすでに死んでおられましたので、すねを折ることを彼らはしませんでした。

考えてみますと、イエス様は、その前の晩は、一睡もしておられませんでした。しかも、裁判のために、あちこち引き回されておられました。鞭打ちの刑も受けられ、体は傷だらけであったはずであります。ですから、肉体的にも大変弱っておられたと思われます。その為に、イエス様の死は早まったといえましょう。

ところで、このイエス様の足のすねを折る必要は無かったというのは、もうすでに死んでおられたからですが、その骨を折ることをしなかったというのは、御言葉に書かれ、預言されていたとは、折る側の当事者であるローマ兵は知らなかった、というところに、大変大きな意味を持つのであります。

私たち人間の考えを超えて働かれる神の御業といいましょうか。不思議なところなのであります。ヨハネが36節に書いていますように、聖書の言葉が成就するためでありました。聖書にそうあったのでローマ兵はそうしたのではなく、彼らが目で見、自らの考えで行動したところに意味があります。そしてそこに、預言とその成就の密接な関係が見えてくるのです。決して人の業ではないのであります。

もう一つ、ここで注目したい点は、イエス様が人々の罪を贖う為の身代わりの小羊に当りますので、その場合、イエス様が、民を死から救う過越しの小羊として、骨は折られてはいけなかったと言う点にあります。民数記9:12にはこうあります。

「・・その骨を一本でも折ってはならない。すべて過ぎ越しのいけにえのおきてに従って、それをささげなければならない」とであります。これもまた御言葉の成就であるとヨハネは言っております。

この二つの点、普通でしたら、何日も野ざらしにされるはずなのに、その日のうちに降ろされたこと、そして、骨が折られなかったこと、このことがまさに、みことばの成就でありましたが、ヨハネは更に、興味深いことを書き、しかもそれを大変強調しているのであります。それは、34節に書いてある点であります。

「しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。」と記しています。ヨハネは、その目撃者であると強調し、更に、その証は真実であるとことさら強調しているのがお分かりでしょう。よほど、ヨハネはこの事にこだわった様であります。

ではなぜ、ヨハネがそれにこだわったのでしょうか。それと、死んだ体に槍を突き刺して、果たして実際に血と水とが出るものなのでしょうか。これは、医者なら実に興味深い点でありましょう。

まず後者の点については、つまり死んだ体から血と水が出るものなのか、と言いますと、心臓が停止すれば、少なくとも血は出ないのだそうです。それに、水が出るかと言いますと、分離しなければなりませんので、これも難しいようです。医学的には私は全く分かりませんので、本の引用でしかありませんが、バークレーという人はこう書いています。

「・・私たちには正確につかみ得ないことだが、恐らくイエスは、文字通り心臓破裂を起こして死んだのであろう。普通は勿論、死体から血は流れないものである。その事態はイエスの体験が肉体的にも感覚的にもあまりにも恐ろしいものだったので、イエスの心臓が破裂したことによって生じたものと考えられる。

それが起ると、心臓の血は心臓を取り巻いている心房の分泌液と混ぜ合わされる。兵卒の槍は、その心房を突き分泌液と血の混合物がそこから流れ出た。イエスが文字通りの意味で、心臓破裂を起こして死んだと考えるのは、本当に胸が痛くなることである。」とであります。

一方、ライルという人は、いろんな人の考えを取り上げています。それは、バークレーの考えを支持するものもあれば、血と水の流出は、超自然的であり、異常であり特別な奇蹟である、という見解も取り上げています。

そして、これは決して落着を見ない問題の一つであり、どちらの見解が正しく、受け入れられるか十分で正確な資料を持っていないといいます。

更に細かいことまで言いますと、
ローマ兵が、イエス様の右側ではなく左側のわき腹を刺した、という確証はないし、流れ出た血と水とは多量だったのか、微量であったのかも分からない。3人の医師に聞いたが、通常のあらゆる経験に反しているという結果だと言います。

ならば、私は思うのですが、これは奇蹟としか言いようがありません。しかもヨハネは、それを見たと強調するところに、これまた、大きな意味があるといえましょう。目撃者であるヨハネが嘘を書くとは思えませんし、しかも37節では、ローマ兵がイエスのわき腹を刺したその行為が、ゼカリヤ書12:10にその事が言われているとヨハネは書いているのであります。そこにはこう書いてあります。

「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。(その次ですが)彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。」とであります。御言葉がこうしてまた一つ成就したことになります。

ところで、ヨハネがなぜ、あの奇跡的な事実にこだわったのか、その点がまだ残っています。それはこういう点があったからだと言われています。ヨハネがこの福音書を書きましたのは、紀元90年半ば頃です。そして、その頃からグノーシス主義が台頭し始めたようです。

つまり、霊は善であり、肉体は悪であるとはっきり区別し、そして、神の御子であるキリストが、人間のような汚れた肉体をもって来るはずがない、そうグノーシス主義者は考えていたので、ヨハネは、その間違いを指摘して、キリストは、肉体をもたない、ただの霊ではなく、肉体を持って来られ、人間としての歩みをされ、最後にはあの十字架上で死なれた。それは、私たち人間の罪の贖いを果たすためであった。そのことを伝えたかった。そのことを神様から導かれて書いたと言えましょう。

ですからヨハネは、35節で、「あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである」と書いて、読んだ人が、救い主としてのイエス様を信じるように、書いているのであります。ヨハネが書きました第一の手紙5章6−13節でこう言っています。長いのですが、お読みしますのでご覧下さい。

「このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。

もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。

御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」と、以上であります。

あの十字架上にかかって死なれたイエス様、「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と罪状書きに書かれ、最後まで、神の御子として、み父に従い通されたイエス様、その方を、あなたは誰だと見ておられるでしょうか。

ヨハネは、私は見たんだと告白しています。「あなた方にも信じさせるために」と書いていると言います。そして今読みました第一ヨハネには、「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません」と言っています。

聖書の言葉、特にヨハネが言いますときには、旧約聖書を指していますが、それが単に、あちこち都合のよいところを拾い上げて、そら、ここにこう書いてある。それが成就したんだと言うのではなく、約1500年もかけて書かれた聖書の中心的なこと、メシヤが現れ、殺される。その体は放置されることなく、骨は折られることなく、彼は、突き刺した方を見るというように、それらの全てが成就したとヨハネは語っているのです。

その歴史のすごさを、もう一度私たちは確認したいのです。そして、「完了した」と言われて息を引き取られた方は、それで終わりではなく、私たちに新しいことをしてくださった。イエス・キリストの死は、その始まりと言っていいでしょう。

それは言うまでもなく、永遠の命の始まりであります。滅びるべきものであった私たちのいのちが、キリストの身代わりの死によって、永遠の命へと変えられる瞬間でもあったといえるでしょう。何と言う幸いなご計画を神様は、イエス・キリストという救い主を通して私たちにしてくださったことでしょうか。

聖書が成就するためであったとは、私たちが信じて永遠の命をいただくためであったと言えるでしょう。この恵を頂いている私たちは、ますますイエス様の果たしてくださったあの十字架の死を、敗北ではなく、勝利の死であった事を覚え、心から感謝しようではありませんか。キリストの犠牲の上に、私たちの将来は約束されているのです。何という恵みでありましょうか。



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