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2007年8月5日(日) 「平安あれ」  ヨハネ20:19-23 竹口牧師

この朝、私たちが見ようとしています聖書個所は、イエス様が、死から甦られた日の事であります。イエス様が甦られたのは、週の初めの日の朝早くでしたが、この朝見ます所は最初の19節にありますように、その週の初めの日の夕方の事であります。

ということは、今日の個所の前に書かれています事は、つまり先回見ました所は、朝早くまだ暗いうちにマリヤたちが墓に来て、イエス様にお会いした記事ですので、この日、イエス様がお現れになったのは、今日の所を入れて、二度目の現れですということになります。

と言いたいのですが、他の福音書とよく読み比べますと、どうやらこの2回だけでなく、この2回の現れの間に、あと3回、イエス様が現れられた事が分かるのであります。

そして、その3回とは、1回目はマタイが書いているのですが、墓から急いで帰っているマリヤたちに現れられ(マタイ28:9)2回目は、マリヤたちの言葉を聞いて、ペテロ達は急いで墓に行ってイエス様を目にする時の事であります。ルカの福音書24:34によりますと、その時にシモン・ペテロに姿を現されたことが出ていますし、3回目は、エマオ途上の弟子達に現れて下さったと言う出来事もあります。

ですから、今回見ます個所は合計で5回目でありますので、この日は、実に色々な状況の中でイエス様は人々の前に姿をあらわされたことが分かるのであります。そしてこの主が現れてくださった日は、それまでとは違った特別の日となった、というのは言うまでもありません。

現代では、今日のこの日を一般的には、日曜日と言っていますが、その当時は週の初めの日であり、キリスト教会は、「主の日」と呼び、この日に集まって礼拝を守ることへとつながっていったのでした。ですから、日曜礼拝ではなく、主日礼拝と私どもは言っている訳です。

ある教会では、日曜日だけでなく、月曜日にも礼拝したり、水曜日にも礼拝したりしています。その理由に中には、主の日にはどうしても職業上出席できない、そういう方がおられますので、そういう方に対する配慮から始めた、そういう教会もあるのでありますが、聖書の教えからいいますと、それが即ち、主日礼拝に取って代わるとは決して言っておりません。

つまり一週間のうちで1回は、曜日はどこでもいいから礼拝しなさいとはいっていないという事であります。主が甦られた週の初めの日、それが主日であり、礼拝の日だからであります。

安息日を覚えてこれを聖なる日とせよとの言葉に、ユダヤ人が事の他、土曜日を大切にしてきましたし、現在もしていますように、私たちもまた、主の甦られた日を大切にする、また、この原則から離れないようにしたいものであります。

さて、今日の本題に入りたいと思いますが、ユダヤ人たちは、イエス様を神を冒涜したとして処刑しました。と言う事は、その時その弟子であったペテロ達に危険が及んでも決して不思議ではありませんでした。ですから、実際の所、11弟子の中のヨハネだけが、イエス様の十字架刑に立ち会い、その他の弟子達は恐れて逃げていたわけでありました。

しかしその後、みんな全くバラバラではありませんでした。トマスはいませんでしたが、他はみんないたようであります。そして19節には、不思議な事が起ったと書かれております。「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。『平安があなたがたにあるように。』」とです。

イエス様は果たしてどのようにして部屋に入られたのでしょうか。
弟子達は、ユダヤ人を恐れて戸を閉めていたのに、イエス様は入って来られたと、こうあるのであります。そこである学者は言うわけであります。

イエス様は突然、戸を開けて、その開いている間に入って来られたのだと。
又ある学者は、戸は閉じられていたが、その戸を奇跡的に通られて入って来られたのだ、という風にです。

最初の考えでいいますと、戸を開けてイエス様が入られたとしても、弟子達は、無防備に戸に鍵をかけない事はなかったでしょうから、外側から鍵なしで戸を開けてイエス様が入られたとするなら、これはやはり奇跡でありましょうし、後者の場合、戸を開けないで、素通りされたとするなら、これもまたイエス様のなさった奇跡であります。

ですから、イエス様が部屋にどのようにして入られたか、人はあれこれと考えるのでありますが、実際の状況をそのまま言いますなら、イエス様の身体は、死より甦られて変化していたとしましても、私たちと同じ物質的な身体の性質を持っておられ、見たり、触ったり、話されたり、21章で見る事になりますが、物を食べる事もできるという身体であり、
超自然的な体であった事だけは確かであります。

それは決して、見かけ上の影のようなものではありませんでした。私は、こういうイエス様の身体を想像する時に、私たち信仰者もまた同じ様な身体に神様はして下さると、そういう確かな確信と夢を持つのであります。

ただ、20節の言葉はどうも私にはひっかかるのであります。それは「平安があなたがたにあるように。」と言われた後で、「こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。」とある部分であります。

「その手とわき腹を彼らに示された」というのは明らかに、十字架に付ける為に、打たれた釘の跡であり、また、ローマ兵が死の確認のために刺した槍の跡の事でありますから、甦られても、それは消えずに残っていたと言う事でありましょう。そして弟子達はそれを見て、確かに主であると認めて、そして喜んだとも言えるのであります。恐らくそうでありましょう。

でも、ちょっとここで考えてみていただきたいのですが、イエス様のように、私たち信仰者も、死んで後に甦らせて戴いたとして、一体、いつ頃の年齢で甦らせていただけるのでしょうか。イエス様が、身代わりとなって負って下さったあの十字架の傷が甦られてもなお、残っていると言う事は、つまり、私たちの身体の古傷はいつまでも残り、死んだ時の状態で甦るのでありましょうか。

イエス様の甦られた姿から私はいろいろ考えてしまいます。
ある人はこう言います。イエス様が天に帰られて、この地上にあるもので持って行かれたものはただ一つ、「手の釘の痕とわき腹の傷だ」とであります。

それは、聖書の一番最後の書、黙示録には、天の栄光の中でさえ、主が「ほふられたと見える小羊」(黙示録5:6)とあるからです。ヨハネはそれを見て、主が天に上られた時、それらの傷は主から消えず、・・」と言います。

私は、その考えに、「うーーん・・・」と考え込んでしまいます。この地上の悪い一切のものは持っていきたくないからであります。ですから、もしかしたら、イエス様は、自分があの十字架にかかったイエスであるということを弟子達に分からせる為の今回は配慮であり、天に戻られた時にはもうないのではないか。

しかし、それでいて天の御国に入れていただいた者は誰一人、間違いなく、自分を救ってくださった方はこの方であると分かる、間違い様のないようにして下さるに違いないと思うのですが、果たしてどうでしょうか。

なぜ、そのように私が考えるかと言いますと、今も言いましたように、この地上で肉体的なハンディがあってどんなに苦労したとしても、天では、そういうものは一切なく、共に主を心から褒め称える事のできる、それでいて、個人個人の識別はできるような身体に神様はして下さる。そのように想像しているからです。

が、果たしてどうでしょうか。
少なくとも、今現在私に言えます事は、黙示録21章にありますように、「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」そういう素晴らしい世界に、キリストを主と信じ、受け入れた人には、入れてくださるということであります。これだけは、間違いないでありましょう。

ところで、本題に戻りまして、イエス様は、弟子達の所に現れてくださり、「平安があなたがたにあるように」と言われましたが、これは、弟子達の今の気持ちから言いますと、挨拶以上の言葉です。彼らにとって、今一番怖がっているのは、イエス様が処刑されたように、自分達も捕らえられ、何らかの刑を受けるようになる、その恐れであります。

それがたとい、十字架刑ではなくても、ユダヤ式の刑の仕方、石投げによる死刑執行であったとしても、イエス様の次に命が狙われるのは自分達だと、彼らは思っていたと思われるからです。そういう意味で、彼らはびくびくしていたと思うのです。

心は動揺し、小さな物音にも敏感に反応し、これから先どうなるのか、不安以外には何ものもなかったでありましょう。そこにイエス様が現れてくださり、「平安があなたがたにあるように」と言われたのでした。しかも、二度も言われているのです。弟子たちにとって、今必要なのは平安でありました。ですから、単なる挨拶ではなかったとも言えるでしょう。

かつてイエス様は、十字架にかけられる前の晩に弟子達にこのように言っておられました。
この同じヨハネの福音書14章26節から少しお読みいたしますが、そこには、こう書かれています。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、
あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを
思い起こさせてくださいます。
わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。
あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る。』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。
あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。
父はわたしよりも偉大な方だからです。
そして今わたしは、そのことの起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったときに、あなたがたが信じるためです。」以上です。

弟子達は、今大変怯えています。かつての元気よさはありませんでした。イエス様が弟子達に、ご自分が十字架にかけられる事を言われた時、「そんなことが、あなたに起るはずはありません」(マタイ16:22)とそうペテロが言い、イエス様はそれを厳しく叱られたものでした。

しかし、今やそのペテロも、あのような事を言う元気もありませんでした。それだけ、これからどうなるか分からない不安があった事でしょう。そんな彼らにイエス様は、ご自分が「父から遣わされたように、私も、あなた方を遣わします」と言われるのです。

弟子達は果たして21節のイエス様のお言葉を聞いて、喜んだでありましょうか。嬉しかったでありましょうか。或は、不安に包まれていたでありましょうか。私は、複雑な思いではなかったかと思うのです。

殺された筈のイエス様が今目の前にいてくださる。これからまたイエス様と共に行動できると考えたなら、それは大きな間違いだからであります。それは、先ほども読みましたように、イエス様は後に去って行かれる事を弟子達は知っていたからです。

と同時に又、考えようによっては、「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」とは、イエス様と同じ様な道を辿ると言う事でもあるからです。そしてそういう言わば、主に会えた喜びと、不安とも取れるこの時に、イエス様が弟子達にされたことは、彼らに息を吹きかけられたことでした。「『聖霊を受けなさい』・・」と言ってであります。

ここにあります「息を吹きかけて」という「息」という言葉は、風とか、霊とか、という意味があります。ですから、これをライルという人は、創世記2:7節の神様が人を造られた時のことと結び付けて言っています。つまりこう言っています。

「私自身は、その本当の説明は、創世記の人間の創造の記事の中に見出されるべきであると信じている。そこには、「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった」と書かれている。主は彼らに息を吹きかけるというこの行為によって、神が人間の中にいのちの息を吹き込むまで人間の中にはいのちがなかったように、全ての奉仕者の資格の始まりが私たちのうちに聖霊を吹き込んでいただくことであること、そして、聖霊が私たちの心に植え付けられるまでは、私たちは奉仕の働きのために正しく人職されていないものである、ということを、弟子達に教えられたのだと私は信じる。」とです。

そして、これは勿論、「弟子達に息を吹きかけられた時の主の意図を完全に言い尽くしているとは確信できない」とも言っております。

このイエス様の言われた「聖霊を受けなさい」と言う事の意味は、実際の所、大変難しく、いろいろな解釈がありますので、こうだと言い切ることは私には出来ません。ただ、ここで言えますのは、息を吹きかけて言われていますので、弟子達が「聖霊を受けた」だろうと思います。それと共に、使徒の働きの2章にありますあのペンテコステでの出来事で、聖霊降臨が起きますので、その時もまた彼らは聖霊を受けたと思います。そして、それぞれに神様はその都度、その時その時に必要な力と恵みを下さっただろうと思うのであります。

例えば、復活の日の時には、イエス様にお会いするまでは、びくびくしていたでしょうが、少なからず励まされ、平安が与えられたと言うようにです。

イエス様は甦られた後、40日間弟子達と共に過ごされ、その後、昇天されるわけですが、その時に言われた事は、「エルサレムを離れないで、私から聞いた父の約束を待ちなさい」
(使徒1:4)でありました。ですから、彼らが、本格的に活動できるようになるまでには、なお時間が必要であったと言う事が分かるのであります。

さて、最後にもう一つ大変難しい問題を取り上げなければなりません。それは23節のイエス様のお言葉であります。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、
あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」と言う言葉であります。

そしてこれは、カトリックの解釈とプロテスタントの解釈とに、大きく分かれ、議論されたと言う経過を辿っています。私たちの教会はプロテスタントの教会ですし、また、それだからというわけではありませんが、聖書をよく読みますと、人の罪を赦す権威は人にはありません。

たとえば、マルコの福音書2:7では、律法学者が言っていますが、「神お一人のほか、誰が罪を赦す事ができようか」とありますように、神にしか罪は赦せないのであります。
ですから、どこかの偉い人に罪を告白し、それを聞いた人が、あなたの罪は赦されましたと宣言できる人はこの世には誰もいないのです。

ですから23節を私たち信仰者が読みますときに、私たちの赦し如何によって、相手の罪が赦されると取っては、それは大きな間違いなのであります。その事はしっかりと確認しておかなければなりません。ですから、ある先生が言われている事ですが、ここでイエス様の言われている事は、ユダヤ的な言い回しで、「神によって」と言う言葉が、隠されている。「神様」とむき出しに言うのが恐れ多いので隠した、遠まわしの表現、と言う風に書かれています。

しかし、どうもこれも弟子達が言ったのではなく、イエス様ご自身が言われた言葉なのでどうもすっきりしません。むしろ、イエス様は神の子であり、神ご自身なのですから、
そう言われたのだということも出来るのではないでしょうか。罪を赦すその人によって、自分の罪が赦されるのではなく、神様があくまでも赦してくださる。それによってお互いに平安が与えられるのではないでしょうか。

イエス様は、弟子達がもっとも恐れていたときに、平安あれといってくださり、安らぎを下さいました。その安らぎは、これから福音を伝える者にとってとても大切なものであります。それをイエス様は今、与えてくださったのでした。

周りの状況はまだ全く変わっていません。時の指導者が、キリスト信者に何をするか全く分かっていません。けれども、そういう中で、彼らは平安を戴いたのでした。

私たちもまた、たとい外界は変わらずとも、主との関係は平和で、心安らかでありたいものです。この世の人とは違って聖霊を戴いているわたしたちは、心温かい「平安あれ」のお言葉によって騒ぐ心がいつでも「静められ」平穏な歩みにならせていただきたいものです。



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