2007年10月7日(日) 「イエスの羊を飼う」 ヨハネ21:15-17 竹口牧師
先回は、イエス様が死より甦られて、何日かしまして、テベリヤの湖、つまりガリラヤ湖ですが、そこで弟子達と会われた所の話を見ました。
すなわち、弟子達は漁をしていた。しかし、何も捕れなかった。 そこでイエス様は魚のいる所を教えてくださり、大漁になった。 しかもその時に、イエス様は、食事の用意をしていてくださり、 弟子達は、イエス様を囲んで、食事をしたのでありました。
食事をすると言う行為は、しかも、良く知っている者と共にするというのは、非常に楽しいものであります。何の遠慮もなく、語らいながらするものであります。
とは言いましても、先回言いましたように、甦られましたイエス様を前にして嬉しくてドンチャン騒ぎをするというのではなく、あくまでも厳粛に、事実を噛み締めるようにして食事に与かったのではないかと私は思うのです。
イエス様は、弟子達が心ゆくまで食べ、満足し、気持がみんな和やかになっているところで、話を切り出されたのでありました。
その話とは、ペテロに対する質問でありました。 しかも、それが三度も同じ質問でありましたので、質問されたペテロは勿論の事、周りの弟子達も、一体これはどういうことかと、考えさせられたのではないかと思うのであります。
イエス様は、そこに集まっている7人の弟子達の中で、一番話しやすいと思われるペテロにされたのか、あるいはペテロを通して、他の者にも教える意図があったのか、それとも、今までのペテロの言動から、ペテロには、これだけは言っておきたかったのかなどなど、色々想像できますが、真意はわかりません。
ただ言えます事は、和やかに食事をした後で、大変、心を痛めるといいますか、真剣に心を問われる、重々しい時間となるのであります。特にペテロにとってはそうであったでしょう。イエス様は、天に帰られるまでに、これだけは話しておかなくては、という思いでされたのであろうと私は思うのであります。
イエス様のペテロに対するまず第一の質問はこうでありました。 「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」でありました。そしてそれを第二、第三の質問と比べて見ますと、ほんの少しちがうだけであります。即ち「この人たち以上に」という第一番目の問いかけ以外は、3回とも全く同じなのであります。
なぜ、3回も、同じ問いかけをしなければならなかったのか。しかも、最初は、他の弟子達との比較から始まっております。その理由を考えてみます時に、やはり、彼の今までの言動が大きく影響していたと思わざるをえないのであります。
それは、かつてペテロが、イエス様にこういう事を言っていたからであります。 マタイ26:30-35までを皆さんと一緒に見ておきたいのですが。 そこは、12弟子達がイエス様と最後の晩餐を終え、祈る為にオリーブ山に行かれた時の事が書かれているのであります。30節からお読みします。
「 そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。 『あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。 《わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。》と書いてあるからです。 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。』 すると、ペテロがイエスに答えて言った。 『たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。』 イエスは彼に言われた。 『まことに、あなたに告げます。 今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。』 ペテロは言った。 『たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。』 弟子たちはみなそう言った。」以上であります。
つまり、ここにありますように、ペテロは、イエス様を「知らないなどとは決して申しません」と言っていましたので、その誓いをペテロは、今、食事が終わった時点では破っている訳ですから、そういうとがめがあったでしょう。
しかしお気づきのように、35節には、「弟子達はみなそう言った」とありますように、ペテロだけが特別、そういうような事を言ったのではないのです。私たちはあたかもペテロだけが大見得を切って言ったと思いがちですが、実はそうではない。みんな言った言葉なのであります。
つまり、あの時は、弟子達みんなが、そういう思いであったわけであります。だがしかし、ペテロに向かって特別に言われたという事は、彼に対して何か別の意味があったに違いありません。
ある人は言います。「彼ほど立派な信仰を告白したものはいなかった。主を三度も否む事によって、彼ほど惨めな失敗をしたものもいなかった。こうした事をみな覚えていて、このような状況の中で、主はペテロに対して特別に語られたと私は思う。」という風にです。私もそんな思いを持つのであります。
しかしそういう中で、イエス様は今、7人の弟子の中のペテロに対して、しかも、イエス様が特別に付けられた愛称、ケパではなく、「ヨハネの子シモン」と正式に言われているところにも何か意味があるようにも思えてきます。
今、イエス様は、ここにいる他の6人の弟子達と比べて、「この人たち以上に、わたしを愛しますか」と問われていますが、その問いは、かつてイエス様がペテロを弟子とされたその日に、彼を、ケパ、即ちペテロとなづけられましたので、その愛称で呼ばれてもいいはずではないかと思うわけです。シモンと言う元の名前を言われているのは私には不思議に思えるのです。
もっとも、イエス様が、弟子達に話し掛けられるときに、弟子の名前を付けて呼ばれていると言う所は、それほどありません。福音書の記者が記さなかったのかもしれませんけれども。
弟子の名前を言われている所と言いますのは、大体、重要な場面で付けて言われているように思われます。例えば、ピリポ・カイザリヤでの事でありますが(マタイ16章)、 「あなたがたは、わたしを誰だと言いますか」とイエス様は言われ、ペテロが「あなたは生ける神のみ子キリストです」と応えますと、「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです・・」とペテロに向かって言われています。
そしてまたその続きでイエス様がご自分の受難のことを言われますと、ペテロはイエス様をいさめ始め、「そんな事があなたに起るはずはありません」と言いますと、今度はそれに対してイエス様は、「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をする者だ」と言われ、イエス様はペテロをサタン呼ばわりされるのであります。
或は、カペナウムに来られた時、宮の納入金の事で、「シモン、どう思いますか」と問われています。そして、人に躓きを与えない為に、湖に行ってつりをして取れた魚の中からスタテル一枚を納めるようにとも言われました。
こうしてみますと、 ルカ22:31で「シモン、シモン」と続けて二度言われ、その続きでは、34節で「ペテロ。あなたに言いますが・・」と呼ばれ、両方が使われていますが、大体はシモンであります。
ご自分のつけられた愛称ケパ、つまりペテロ、ではなく、ヨハネの子シモンと呼ばれたのには、どういう意味があったのか、考えさせられるのであります。もしかしたら、最初に出会った日、つまり、兄弟のアンデレがイエス様と会って、それからすぐにアンデレがペテロにイエス様を紹介した、その最初の時を思い出させようとされている、そのようにも考えられるのであります。いわゆる、初心に帰れ、であります。イエス様を初めて知って、従おうとしたときに帰れ、であります。
ところで、イエス様は、なぜここで他の弟子とを比べて言われたのでしょうか。 「この人たち以上に、わたしを愛しますか」とであります。 イエス様を愛する上において、人と比べるというのは、あまり意味のないように私は思います。それは、イエス様ご自身がよくご存知のはずであります。それとも、ペテロの心の中をご存知のイエス様は、かつてペテロが「たとい全部の者が躓いても私は躓きません」と言っていましたので、その事を自己確認させる為であったのでしょうか。
あの時は、自分自身本気で、そう思って言った。しかし、イエス様が捕らえられたとき、大祭司カヤパの庭で、三度知らないと否定してしまった。今のあなたは、どうなのか、そういう問いかけが含まれていたのかもしれません。
勿論、ペテロにとって今この場面では、最初の質問ですから、以前に戻って考えると言うような事は、この時点ではないでしょう。ペテロが心を痛めるのは、三度同じ事を聞かれてはじめて、その意味する所を考え、愛する事の意味を再確認したと思います。
素晴らしい教育者とはどんな人のことを言うか、皆さんに伺いますと、いろんな意見が出ると思います。そしてその中にはこういう意見もあるのではないかと思うのです。 それは相手の間違い、弱さを直接、あからさまに指摘するのではなく、相手にそれを気付かせ、その間違いを自ら修正できるようにさせる。それは強制ではなく自らの意志で行なうのですから反発は起きません。
人前で恥をかくということもないでしょう。そしてその方法は、良い方法であり成長すると私は思うのであります。本人が気が付けば、学習するのであります。ペテロは、最初のイエス様のお言葉の時点では、3回目の質問ほどには、真剣に考えていなかったかもしれません。恐らくそうでしょう。
常識で考えればいじめとか、いたずらとか、そう言った類でなければ、同じ質問を3回も繰り返したりはしないものです。もししようものなら、相手は自分が馬鹿にされていると思うでしょう。「いいかげんしろ!」という叫びが起ってくるのであります。
目上の人であれば、行動や言葉にしなくても、むっとすることでしょう。 しかし、ペテロはここで、怒りではなく、むしろ逆に、謙遜へと導かれるのであります。イエス様の一つ、一つのお言葉が、ペテロの心に静かに響くのです。イエス様は、質問と共に、命令もしておられます。しかし、その命令は、最初の質問が理解され、受容されてはじめて、可能となる命令であります。
つまり「イエス様を愛しますか」と言われた時、本当に、心からイエス様を愛せなかったら、イエス様の羊を飼うことはできないのです。イエス様の羊を愛せないのです。 イエス様を愛する事ができるけれども、イエス様の羊はどうも愛せないと言う事は出来ないのです。なぜならイエス様は、ご自分を愛するように、ご自分の羊をも愛しておられるからです。
イエス様は、ご自分の小羊を愛しておられるのです。 イエス様は一度目は、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われ、 二度目は「わたしの羊を牧しなさい」と言われています。 また三度目は、「わたしの羊を飼いなさい」であります。 少しずつ変わっていますが、意味するところは全く同じです。 イエス様の羊を飼うことであります。そしてイエス様の羊とは言うまでもなく、キリスト者であります。
かつて漁師であったペテロとアンデレが湖で網を打っていた時、彼らに向かってイエス様は、「私についてきなさい。あなた方を、人間を捕る漁師にしてあげよう」と言われ、人間を捕る漁師にしていただいたのでした。その人間を飼う仕事をしなさいと命じられているのであります。
人間を飼うといいますと、何か言葉は悪いですが、羊とイエス様はここではおっしゃっておられますので、人間をその羊に置き換えてみればよく分かるでしょう。
羊は遠くがよく見えない。正しい道から逸れて、迷子になりやすい。また、食べ物のあるところに導いてもらわなくてはなりません。危険から守ってもらわなくてはいけません。安心して休むところが必要です。これらはみんな羊飼いのする仕事であります。
ペテロはその仕事を改めて命じられているのであります。 羊を飼う者が迷ったり、恐れたり、逃げたりしていては勤まりません。 それ故に、イエス様は三度も確認されたのでした。この仕事は、大変大切な働きであり、また、責任の重い仕事であります。神の大切な羊であるキリスト者をよく牧しなければならないのです。
そのためには、これまでのような行動は赦されないのです。イエス様がいのちを捨ててまで愛してくださったように、イエス様の羊を守っていかなければならないのです。ヨハネは書いています。17節途中から
「ペテロは、イエスが三度『あなたはわたしを愛しますか。』と言われたので、心を痛めてイエスに言った。『主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。』イエスは彼に言われた。『わたしの羊を飼いなさい。・・』」とです。
ペテロは、心を痛めました。 自分の至らなさ、浅はかさ、直情的な行動などなどに心を痛めたことでしょう。 しかし、イエス様はそういうペテロをも用いようとされているのです。この世に完全な人はどこにもいません。みんな弱さ、欠点、恥ずかしい部分を持っています。
私個人の事を申し上げますと、わたしは、ある時まで自分の弱さを隠して、完全であろうとした事がありました。しかし、それは土台無理でした。疲れ果て、限界がやがてきました。そして「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに着なさい。わたしが、あなたがたを休ませてあげます」 と言ってくださったイエス様がずっと遠くに見えました。
確か、イエス様はわたしの重荷をおって下さった筈ではなかったか。 そして、軽くしていただいたはずではなかったか。 気付いたら、又自分の荷物をイエス様から取り戻し、再び背負っている事に気付かされました。
イエス様は、私が完全であるから愛して下さった訳ではありませんでした。 理由は分かりませんが、気が付いたら選ばれていたのです。 不完全のままで受け入れてくださっていたのでした。
ペテロも同じでした。 挙げれば、失敗の数々があります。 失敗をもう絶対しないかといいますと、そんなことはありません。 けれども、そんなペテロを神様はご自分の御用の為に変えてくださり、用いてくださろうとしておられるのであります。
私もその一人です。 キリスト者一人一人がそうであります。みなさんお一人お一人がそうです。 イエス様から「あなたはわたしを愛しますか」と、私たち一人一人に聞かれた時、 いいえ、私には出来ませんとはいえませんし、また、その一方で、「はい」と応える前に、そう言えるだけの根拠をもっていなければなりません。
イエス様が「あなたはわたしを愛しますか」と聞かれた時、イエス様が十字架の死を持って、私を罪の奴隷から解放し、自由の身とし、更には永遠のいのちをもくださった方が、「あなたは、その私を愛しますか」と言われている事を確認して言わなければならないのです。
実は、私たちがイエス様を愛する前に、すでに愛されていた。 イエス様を知る前に、すでに私たちは知られていた。知ってくださっていた。 その方が、「わたしを愛しますか」と言われるのです。
ですから私たちは、それに対して、拒否する理由は少しもないのです。 「はい」と言う答しか持ち合わせていないのです。 そしてその者にイエス様にとって大切な羊を任せると言われるのです。 「わたしの羊を飼いなさい」と言われるのです。
私たちはこの朝、まず私はイエス様に愛されていると言う事を確認しようではありませんか。そして、その上で、イエス様の問いかけに応答し、そして、更にイエス様のご命令である羊を飼いなさいとの命令を、ペテロ個人だけではなく、あなたにも言われている事を重く心に受け止めていただきたいのです。
ペテロは心を痛めました。 それは、自分の過去の失敗があったからでしょう。 しかし、それをも知りながらの問いかけなのですから、私たちもまた同じく、不完全な私たちを知りつつ、大切な使命を与えてくださる主に、この朝真剣に応えていきたいものです。
そして「こんな私ですが、どうぞご自由にお用いください。私はあなたを愛しております。」と心から申し上げようではありませんか。とりわけ今月は特伝の月です。私たち一人一人が自分の周囲の人によい証しをしたいものです。
2007年10月28日(日) 「汝、我に従え」 ヨハネ21:18-25 竹口牧師
今日はいよいよヨハネの福音書の最後の学びになります。先回は、イエス様が「あなたはわたしを愛しますか」と三度もペテロに聞かれましたので、ペテロは心を痛めました。そのペテロに対してイエス様は、三度ご自分の羊を飼うようにと命じられた所で終わりました。
ヨハネは、その後、続いてイエス様のお言葉を書き記し、ペテロの行く末を書いているのであります。それが、今日のまず最初に見る点であります。イエス様は言われています。18節、「まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」と。
これは、明らかにペテロにとって、今後不自由な状態になると言っておられることが分かります。いいえ、単なる不自由ではありません。ヨハネは次の19節で、どう言う意味かを解説しているのであります。「これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。」とであります。
実は、ヨハネがこの福音書を書いたとき、ペテロはもうすでに死んでおりました。 つまり、ペテロの行く末を見て書いているのであります。
一方、ペテロは、このイエス様のお言葉を聞いたとき、どのように受け取ったのでしょうか。将来に対する不安を抱いていたでありましょうか。イエス様のあの十字架の姿を思い出して、自分も最後は、そのようになる事を想像したでありましょうか。そうなっても構わない、それが御心ならばと思ったでありましょうか。
イエス様は、わたし達の過去の全てを記憶に留めておられますし、また、これから起る事もご存知であります。そのイエス様が今、ペテロに言われている事は、彼のこれからの事であり、それはまた確実に起る事を指していました。
彼のすべき事は、イエス様のお言葉に従い、キリスト者の群れを牧することでありました。それは即ち、時代的に言いますと、投獄や殉教への道でありました。
ところで、18節のイエス様のお言葉を細かく分析し、説明をした本もありましたが、今回のこの時は、その必要性はないでしょう。ローマ時代のキリスト者の最後がどういうものであったか、特に、この聖書時代のことを言いますなら、ネロ皇帝時代のキリスト者に対する弾圧は、筆舌しがたいものがあったことは、もうすでに皆さんご存知のとおりでありますから。
がしかし、ペテロの最後についてあえて取り上げるとしますと、彼がローマで死んだのか、そうではなかったのか、いろいろな説がありますので、結論は出せません。ただ、酷い死に方をしたことは、疑いの余地はありません。伝説では、逆さ貼り付けにされたとも言われていますけれども。
ところで、イエス様が言われました「まことにまことにあなた方に告げます」とか「まことにまことにあなたに告げます」というヨハネ独特の言い方、全部で25回使われていますが、今回がその最後の部分であります。それも、あなたに告げますと個人を指定して言われているのは、たったの5回であり、そのうちの3回はニコデモに対して3章で言われ、残りの2回は、ペテロに言われているのであります。
その2回のうちの1回は、13章で、イエス様が去って行かれる事を言われますと、ペテロが、どこにおいでになるのかとお聞きし、それに対してイエス様は「今はついてくることは出来ません」と答えられ、それに対してペテロは、「主よ。なぜ今はあなたについていく事は出来ないのですか。あなたの為には命も捨てます」そう答えた後にイエス様が言われた言葉が、これに当るのであります。
即ち「イエスは答えられた。『わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。』」
そして、もう一回が、今日のところであります。ペテロ個人に対して言われているのであります。ペテロは、「あなたの為には命も捨てます」と言っておきながら、三度知らないと否定しました。その彼が、今や、「あなたは私を愛しますか」と三度質問され、更には、自分の将来について預言されているのであります。
イエス様の以前の言葉がその通りになった事を思えば、今度のイエス様のお言葉を素直に受け入れるしかなかったでしょう。しかし、ペテロにとって、それがいやいやながらではなかった事は、使徒の働きを見れば十分に分かってまいります。あるいはまた、彼が書いた手紙ペテロの手紙第一、第二を読めば十分におわかりいただけるといえましょう。
ペテロはその第一の手紙を、紀元65年頃書いただろうと言われていますが、その1章8-11節でこういう風に書いています。新約420ページ
「身を慎み、目をさましていなさい。 あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。 堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。 ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。 あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。」以上であります。
ペテロがいかに力強い伝道者になって行ったか、彼の書いた手紙を見れば十分であります。しかし、その彼も、イエス様がまだこの地上におられた時は、そこまで成長してはいませんでした。ですから、今日の聖書個所に戻って戴いて、ヨハネ21:20節以下の事が起きるのであります。
イエス様がペテロに「わたしに従いなさい」と言われますと、ペテロは、21節でヨハネを見て、「主よ。この人はどうですか」と聞くのです。
勿論、ここにヨハネは自分の名前を出していませんが、以前にも申し上げましたように、ヨハネは自分の名前を伏せて書いているのであります。 自分の名前を伏せながら、「・・この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、『主よ。あなたを裏切る者はだれですか。』と言った者である。」と13章24-25節の事を書き添えています。
言わばこの時、ペテロの命令によってヨハネがイエス様に尋ねた所であります。 今日の所では、ペテロがそのヨハネを見ながら、わたしに従いなさいとイエス様は言われますけど、では「この人はどうですか」とヨハネを指して聞いたのでした。
自分がどうか、だけでは気がすまなかったのでしょうか。 他の仲間の事が気になったのでしょうか。 ペテロにとっては、仲間のことが心配だったのでしょうか。
しかし、イエス様はそれに対してピシャリと答えられます。 「それがあなたに何のかかわりがありますか。 あなたは、わたしに従いなさい。」とであります。
ペテロは、別にヨハネだけを指して「この人は・・」と言わなくても、その場所には、トマスもいましたし、ナタナエルもいましたし、ピリポもアンデレもいたはすであります。そういう仲間たちを入れてもいいはずですが、ヨハネを指して言ったのでありました。いいえ、ヨハネを指して言っているという事は、みんなを指して言っているということでありましょうか。
しかし、いずれにしましても、それは、今回のイエス様のお言葉は他の彼らは関係ないことでありました。なぜなら、わたし達一人一人は神様の目から見られた場合、大勢の中の一人ではなく、かけがえのない一人一人が集まった大勢なのだからであります。
今、イエス様が命令しておられるのはペテロに対してであり、ヨハネに対してではないのです。また他の5人ではないのです。ペテロに向かって、「あなたはわたしを愛しますか」と聞かれ、「わたしの羊を飼いなさい」と命じられ、更には「わたしに従いなさい」と言われているのであります。
私の事は分かりました。 でも他の人の事も気になりますので教えて下さい、ではいけないのです。 イエス様のご命令を忠実に行なうには、自分に対して語られているのですから、その事を自覚し、他の人に対する命令ではなく、自分に対する命令である故にしっかりと目を留める必要があるのです。
神様のお言葉を聞きながら、これは、あの人にぴったりのお言葉だとか、今度あったら、あの人にこの言葉を言ってやろうとか、そういうことではないのであります。 神様があなた個人に語りかけておられるのですから、その事を正しく受け止める必要があるでしょう。
残念ながら、私たちは、イエス様のご命令を正しく、自分の事として受け取らない事が多いものであります。だからイエス様は言われるのです。「それがあなたに何のかかわりがありますか」と。「あなたは、わたしに従いなさい」それだけでいいのです。否、それが一番大切なのです。他の仲間の事など考えてはいられませんよ、と言う意味も含まれていたかもしれませんね。
私たちはとかく、人の事が気になります。 しかし、そのような事は人に任せればよいわけです。 神様が、その人、その人のご計画をお持ちだからです。
先ほど、ペテロが書きました手紙を少し読みました。 しっかりした事を書いています。 さすが、神様が立てられた器であります。 ガリラヤで漁師をしていたとは思えません。
使徒の働き2章の所では、あらゆる国から集ったユダヤ人達はペテロを見て、こう言いました。「どうでしょう。今話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。それなのに、わたし達めいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう」と驚かれるほどになるのです。神様がこのように変えてくださるのであります。神様のなさる事は、本当に素晴らしいとしか言い様がありません。
ところで、22節の前半のイエス様のお言葉は、人々にいらぬ誤解を招いたようであります。従ってヨハネは、その事を説明しております。イエス様は22節前半でこう言われています。
「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、・・・」とであります。23節では、「そこでその弟子は死なないという話が兄弟たちの間に行き渡った。」
イエス様は去って行かれる。或は、去って行かれた。そして又きてくださる。 そこまでは正しいのですが、いつ来られるかが分からない。 そこから「その弟子(ヨハネ)は死なない」という話しになったようです。
しかし、実はそうではないのだ。 イエス様が来られるまでヨハネが生き長らえるのをイエス様が望まれたとしても、 ペテロよ。あなたには関係のない事だよ。 そう言われたのだとヨハネは書き記すのであります。
考えてみれば当然の事であります。 人が何歳まで生きるか、自分には余り関係のない事であります。 平均寿命が今年は男性が何歳で、女性が何歳となったと言われても、そこまで生きられることを保証されるわけではありませんし、長く生きたから幸せだったとか、 早く死んだので不幸であったとか、誰が言えるのでしょうか。
一人一人神様の定められた寿命というものがあるのであります。 大切なのは、その与えられているこの地上の歩みを、どのように過ごすか。何の為に生きるのか、これが問われるのです。ペテロにとっては、イエス様の羊を飼う事でありました。それも、ペテロのために命を捨てて愛されたイエス様のためでしたので、ペテロも命をかけてイエス様を愛しご命令を全うする事でありました。
イエス様のペテロに対する問いかけを、わたしはこの朝、真剣に自分への問いかけとして考えています。皆さんお一人お一人も同じでありましょう。 先生!ヨハネはどうですか、トマスはどうですか。 ピリポは?アンデレは?ヤコブは?ではないのです。 あなたは、わたしに従いなさい、なのです。
とかく私たちは人を気にします。 しかし、神様は、あなたという一人の羊をご自分の命を犠牲にしてまで、こよなく愛し、従って来るようにと求めておられるのであります。
ヨハネは、この福音書を閉じるに当ってこう書いています。 24節「 これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている。」とであります。
彼は一貫して、自分の名前を書きませんでしたが、しかし、イエス様がどう言うお方であるか、これが書かれた目的は何か、十分に伝えております。その目的を外れては意味がありません。大切なところですからもう一度読んで置きましょう。このヨハネの福音書20:31であります。
「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」以上であります。
ヨハネは自分の名前を書きませんでしたが、神様に導かれてその目的を十分に果たしました。彼は更にヨハネの手紙第一、第二、第三を書き、神様の愛を存分に書き表しました。そしてそれは、神様のお言葉として、新約聖書の終わりの方にあるわけであります。
ヨハネは、今日の聖書個所の最後のところ25節でこう書いています。 「イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。」と。
神様は、ご自身を人に伝える為に必要最小限に、そして、それはまた決して不足なく一つの書にまとめ、現代のわたし達に神様のお言葉として下さいました。ヨハネが書き記していますように、「イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、・・・」と。
ですから、私でしたらもしかしたら、あれも残したい、これも残したい、そういう思いになったかも知れません。しかし、神様は、そうはなさいませんでした。
神のお言葉は、66巻で完結して下さったのであります。 私たちはその聖書から大切な事を神様から毎日戴くのであります。 この朝の神様のご命令は、「汝、我に従え」であります。 「あなたは、わたしに従いなさい」なのであります。
私たち一人一人は、この朝、もう一度、イエス・キリストによって神様があなたの罪を赦し、あなたを愛し、そしてあなたにしか出来ないご計画をお持ちであり、そのご計画に従って生きることを願っておられる。そのことを確認し、与えられた賜物を喜んでお献げし、用いて頂こうではありませんか。 ヨハネの福音書 完
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