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2007年12月2日(日) 「罪の赦し」  Tヨハネ1:5-10  竹口牧師

前回、私は、私自身の罪のために苦しんでいた時、1章7節の言葉で、大変慰められたとお話しました。私が苦しんでいたと言うことは、それだけ罪に敏感であったと言うことでもあります。

では、今はどうかと言いますと、罪に対して鈍感になり、それほど悩まなくなったかと言いますと、確かに悩まなくはなりましたが、決して罪に対して鈍感になったわけではありません。正しい信仰の姿勢に入ったということであります。

では、何がどう正しくなったかをこれからお話しする事にいたします。
ヨハネは、今日の聖書箇所の一番最初5節で、神様はとはどういうお方かを言っております。即ち「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。」ということです。

光と言いますと、太陽の光もあれば、蛍光灯の光もあれば、ホタルイカの発する光もあれば、最近の信号機に使ってあります発光ダイオードの発する光もあります。しかし、ヨハネが言っています光は、そういう光ではありません。つまり、光と言う言い方をされていますが、物質が放つ光ではなく、神様の御性質を表す光であります。いわば、闇に対する光とでもいいましょうか。

ですから、ヨハネは続けて、こう言うわけであります。「神のうちには暗いところが少しもない。」とであります。神様の御性質といいますと、ヨハネは、福音書の中で(ヨハネ4:24)、「神は霊ですから、神を礼拝するものは、霊と真によって礼拝しなければなりません。」と書きました。「神は霊です」と言っていますから、私たちの持っている肉の目では見えないお方でもあります。

更に神様とはどんなお方ですかと聞かれますと、こういう事ができるでしょう。
鈴木先生の訳されましたバプテスト教理問答にはこうあります。「神は、その存在、知恵、能力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、普遍の霊です」と。その中で、神様とはどういうお方かというのを今日の所で言いますなら、聖なるお方という部分に注目している訳です。

聖なるお方、全く聖く、暗いところがない。まさに光なるお方であります。
しかし、神様は、光なるお方でありますが、決して太陽ではありませんので、太陽に向かって手をあわせるようなことはしてはならないのです。太陽も神様が造られたものだからです。真の神様を拝まないで、神様の造られたものを拝むなら、それは偶像礼拝の罪になります。

まあ、それはともかく、神様は全く聖いお方でありますから、そういうお方に近づくには、聖くなければならないのです。しかし、私たちは実際のところ、自分を見つめてみて、神様のように聖いといえるのでしょうか。どうも、そう言えない事に気付かされるのです。正直な人、まじめな人、正しく生きようとしている人、そういう人は、すぐに気付かされます。

一方、罪なんてどうでもいいやと考えている人、そういう人は、神のみ前に出られませんし、自分は出ていると思っているとするなら、それは、思い違いです。パウロは、ガラテヤ人への手紙6章7節でこう言っています。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるようなお方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」とです。

ですから、私たちは罪に対してきちんとした態度を取らなければなりません。それは、拒否の態度です。ヨハネは6節で言っています。「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。」

自分では、全く正しく生きていると思っていても、神様の目から見られたとき、「本当に正しく歩んでいるのですか?」と問われるのです。「思っているだけではありませんか?」というふうにです。

ヨハネはここで、「もし私たちが神と交わりがあると言っていながら」と言っています
もし、仮にであるけれども、「神と交わりがある」と言いながら、その生活が、そのようでなかったなら、それは、偽りの生活であって、闇の中を歩んでいるのであり、真理を行なっているのではない、そうヨハネは指摘するのです。果たして、皆さんの歩みはどうなのでしょうか。

外に現れる罪は、人が指摘し、また、法律に触れるなら、その法律にもとずいて裁かれます。しかし、人は、他人の心を完全には見る事は出来ない。ですから、人をごまかす事は出来ます。あるときには、自分さえごまかすことができます。しかし、神様の目はごまかす事は出来ないのです。なぜなら、神様は光であるからです。暗いところが少しもないお方だからです。

ヨハネが6節で言っている言葉は、私たちの普段の歩みがどうなっているのか、今一度省みさせてくれる言葉ではないでしょうか。もし、私たちが一方では、神様との交わりがあるといいながら、即ち、その歩みにおいて、クリスチャンとしての歩みをしながら、具体的には、聖書を読み、祈り、教会に行き、活動もしている。

しかし、その一方で、普段の生活はどうかといいますと、神様にはお見せできないような生活をしている。家庭でも、学校でも、職場でも、表向きはそれらしくしている。しかし、どうも聖書の教えとはどこかが違っている。もしそうであるなら、それは、今日のみ言葉は、私たちに対する警告を神様は下さっているといえましょう。そしてヨハネは7節で正常なクリスチャンの歩みを述べているのです。

「しかし、もし神が光の中におられるように、
私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」とです。

これは、神様と人との大変良い関係を言い表しております。この御言葉の真理を、もう少し後で考えてみたいと思いますが、その前にまず、ヨハネが、この6節と7節との関係、対比とでも言いましょうか、その関係を、8節対9節、あるいは9節対10節というように繰り返し、繰り返し、もし・・・ならば、こうであるけれども、もし・・・なら、こうなりますよと続けていますので、それをみておきたいと思います。非常に分かりやすくヨハネは書いておりますので、どうか、自分に当てはめてみていただきたいのです。

8節でヨハネは言っています。
「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。」しかし、その一方で、9節「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」と言います。

そしてまたヨハネは、9節で私たちに希望を与えた後で10節で再び釘をさすのです。
「もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。
神のみことばは私たちのうちにありません。」と。

ヨハネは、私たちの心を鋭く突いてきます。ヨハネだけではありません。
神様の器として立てられたパウロもエペソ人への手紙5:8でこう言います。
3節からお読みしますが、
「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。
むしろ、感謝しなさい。あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です。――こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。
ですから、彼らの仲間になってはいけません。あなたがたは、以前は暗やみでしたが、
今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」とであります。

主にあって光とされた者が、その光の子としての歩みではなく、この世と同じ歩みをしているなら、真理を行なっていませんし、自分を欺いているのですし、偽り者なのです。本当に心探られる御言葉ではないでしょうか。そして、真剣に自分を見詰め、神様のみ前に正しいかと問うなら、恐らく、答えは、NO といわざるを得ないのです。
そして落ち込むのです。落ち込まざるを得ないのです。

しかしながら、ヨハネは、この手紙を書きながら、キリスト者を責めているのでしょうか。まじめに生きようとしている者に更に追い討ちをかけるように、罪に目覚めさせ、苦しめる為に書いているのでしょうか。そうではないはずです。正しい神様との関係を持つように勧めているのです。とするなら、私達はこのヨハネの手紙を読んで落ち込むだけで終わってはならないのです。また、神の御心もそうであります。

ここで私たちは、7節後半と9節にしっかりと目を留める必要があります。
即ち、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」と、9節「 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」であります。

私たちは、神様の一方的な恵みによって救いに与った者です。
罪を罪とも思わない、神を神とも思わない者から、イエス様は、私の全ての罪の贖い主、人生の全ての助け主として心の中にお迎えしたのでした。神様が入ってくださったのでした。その私たちが積極的に罪を犯そうとして犯しているとするなら、それは、本当に救いに与っているのかと疑われます。

そうではないはずです。どうしても弱さがそうさせてしまう。それが現実ではないでしょうか。悔いても悔いても、なお犯す弱い者であるのです。だからこそ、ヨハネはここで勧めているのではないでしょうか。自分の弱さを認めて、主のみ前に出るようにであります。自分を偽り者としないようにであります。そして、信仰者の私たちに希望を与えているのです。

イエス様がペテロに対して言われた言葉を思い出しましょう。ルカ22:32で、イエス様はペテロにこう言われました。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。
だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

御存知のように、ペテロも弱さがありました。パウロも弱さがありました。ヨハネもそうであります。私たちはみんな弱さを持つ者です。そこで、だからいいや。みんな同じなんだからと開き直る事ではありません。光であるお方と交わるには、光の子のとされた私たちが、光の子らしく生きる事が求められているのです。そして、そのためには、その弱さを持つ者がいつも信仰の原点に帰らなければならないのです。

私たちの信仰の原点とは何でしょうか。
それは、私たちがイエス様によって救っていただいたのは、私たちの行なった良い業のためではなかった。私たちが、普段行なっている言葉、行動、思いやり、感謝、などなど、全く関係なかったということでありました。主イエス様を私の罪からの救い主であると私たちが信じたからでした。

しかもその信仰も私達の内側から発生したものではありませんでした。私達の内側の中にそういう力があったからではありませんでした。ただ、恵みによったのでした。
聖書はそれを、「神の御前で誰も誇らせないためでする」(Tコリ1:29)と言っています。

神様は、私たちの弱さの全てをご存知の上で、キリストを十字架にかけ、殺し、私たちの罪の身代わりとして下さったのでした、だから、ヨハネは言うのです。
「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」と。

イエス様の流された血の効力は、私たちがイエス様を信じさせていただいたその時までではありません。今も、その効力はあるのです。ヘブル書7:27にこうあります。
「ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。」

全く罪のないお方、イエス様が、ただ一度ご自身をささげられた事によって、私達は完全に赦されたのです。赦されているのです。私達は自分の罪に嘆く必要があります。弱さに打ちのめされる事も必要です。高慢になって、神様のくださった恵みを恵みと思わないよりは、ずっといいと私は思います。

けれどもイエス様の尊い血によってつみ赦され、救われている私達は、悲嘆に暮れていてはならないのです。イエス様が、そういう私のためにも死んでくださった。身代わりとなってくださった。完全に罪を贖ってくださった。と、その主の憐れみに対して感謝へと導かれなくてはならないのです。

神様は罪に対しては厳しいお方です。私達はつみ赦されたからといって、何をしてもいいのではありません。ヨハネが10節で言っていますように、「もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」

まさに、その通りなのです。
私達は、その現実をよく知って、自分の罪の大きさと、またそれに対する赦しの大きさも覚えて、感謝のある信仰生活を送らせて頂くことなのです。私達は、神の子とされた事の特権に感謝し、神の子として神様と交わる事をもっと深めていこうではありませんか。

ダビデはかつて、こう歌いました。
「神へのいけにえは、砕かれた魂。砕かれた、悔いた心。
神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17)

イエス・キリストの故に罪赦されていることを
心から神様に感謝し、喜びを持ってお仕えしていきたいものです。

2007年12月30日(日) 「弁護者」 Tヨハネ2:1−6  竹口牧師 

今日の聖書は、2章1節から6節までを範囲としましたが、1節は、このような言葉から始まっておりまして、つまり、「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」とあり、これは、明らかに、1章からの続きである事がわかるのであります。

ですから、多くの聖書注解者は、1章5節から2章2節までを一括りにするのだそうです。
聖書は最初、章や節がありませんで、ずっと後になってから付けられ、それが、このような章の区分けになったのだそうであります。

ところで、ヨハネは、この手紙を書くに当たって、4つの目的を持っていたと言われています。一つは、第1回目に見ました範囲の中で4節がそれであります。即ち、「 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。」であります。

そして二つ目が、今日の一番最初に書いてあります2:1であります。
「私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」三つ目は、何回か後に見ることになりますが、2:26でありまして、「私は、あなたがたを惑わそうとする人たちについて以上のことを書いて来ました。」であります。

そして最後の4つ目は、5:13であります。
「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」であります。

そして、この最後の4つ目の目的を読みますなら、どれだけ、私たちがイエス・キリストの故に、神に愛され、守られ、そして何よりも罪赦されている事は、何という幸いだろうかと、感じない訳にはいかないのであります。

ヨハネは1章で、私たちキリスト者に対して、厳しく罪の指摘を行ないました。
5節で「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。」だから6節、「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。」と書いていました。

そしてヨハネは、「もし何々なら・・」と書き、その次に、その問題の解決を次の節に書いておりました。6,7節がそうでしたし、8,9節がそうでしたし、1章と2章にまたがっておりますけれども、本来は、書かれていた時はつながっていましたので、1:10、2:1が対になっている、そのように考えられます。

先回は、2:1と絡めてはお話しませんでしたけれども、どうもそのように読めるのであります。ヨハネがこの手紙を書きました頃と言いますのは、相当高齢であったからでしょうか。それとも、キリスト者はみんな神の子とされている事からでしょうか。やさしい言葉で語りかけるのであります。

「私の子供たち」よ、とであります。「神の子供たち」よではなく、「私の子供たち」なのです。パウロがピレモンに宛てた手紙10節で「獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。」という言い方をしていますが、あるいはまた、Tテモテ1:2では、わが子テモテへとありますし、テトス1:4では、わが子テトスへともありますから、パウロもまた自分が、イエス・キリストを伝えて、信仰を持った人達の事を、まるでわが子のように感じて手紙を書いている、そのように思えるのであります。

皆さんはどう感じておられるか分かりませんが、私も一人の牧者として、わが子と呼ばないまでも、大切な神様からお預かりしました羊として、その責任の重さをひしひしと感じているのであります。

パウロはわが子テモテへとか、我が子テトスへと書き、一方、ヨハネは、「私のこどもたち」と呼びかけるのです。もっとも、ヨハネは、「私のこどもたち」という言い方のほかに、この手紙では、父たちよとか、小さい者たちよとか、若い者たちよ、とかいろんな言い方をしております。

どうしてヨハネがそういう言い方をしたのかは、またその時点になってお話したいと思いますが、まあ、それにしましても、愛情こもった言い方であります。読む側も安心して、聞こうとするものであります。そして書いた目的をはっきりとヨハネは記すのであります。

「私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」と。ヨハネがこの手紙を書いて、それを読んだ人たちがみんな、罪を犯さないようになったかといいますと、残念ながら、決してそうはならなかったといえましょう。それは、今日まで続いてきた罪の歴史をみても歴然としています。自分自身の信仰生活を見ても明らかであります。

罪を犯すのを少なくする事は出来ても、全く罪を犯さなくなる事は出来ない弱さを私達は持っているのです。私達はみんな、その現実を受け入れる必要があります。けれども、だから仕方がないと諦め、欲するままに行動するなら、それは神の子とされた私たちの歩みとは到底いえません。光の中を歩む者とされた私達は、それに相応しい歩みが求められているからです。

罪ある者は、神様のみ前に出る事は出来ません。
なぜなら、神様は聖なるお方だからです。それは今回の聖書個所の3−6節にもある通りであります。後で、その部分を見ますけれども。まずは、今日の1,2節が実に大切でありますので、それをしっかりと捉えておきたいとおもいます。

まずは、1節後半にある言葉であります。
「もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。」と言う言葉です。
2節も続けて読んだほうがいいでしょう。「この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。」とあります。
なんという素晴らしい言葉でしょうか。

この世で罪を犯した場合、金持ちであれば、自分で弁護人を立てることが出来ます。弁護人を立てることが出来なければ、公的な弁護人が用意されるのであります。そして、罪の刑を如何に軽くするかで、法廷での争いとなるのです。これが、人間の世界であります。

弁護士の能力、力によって刑の重さが重くなったり軽くなったり、審理の流れによっては、無罪にさえなる事もあります。冤罪という結果に終わる事もあります。大変恐ろしい事であります。

一方、神様の前に私たちが罪を犯した場合どうなるのでしょうか。神様が訴えられるのでしょうか。不思議な事に、御父の前に出るときに、弁護してくださる方がおられるとヨハネは言います。その方は、義なるイエス・キリストです、というのです。これは、人間の世界と全く違う事がお分かりでしょう。

どんなに人間社会で高く評価されていても、また、道徳的に聖い生活をしていても、神様の義からすれば、やはり御前に出られる状態ではありません。それは、人は生まれながらの罪人であるからであります。

しかしそういう私たちのためにイエス・キリストは弁護してくださる。いいえ、弁護して下さるだけではない。2節にありますように、身代わりとなってその罪を引き受けてくださる。なだめの供え物となってくださるのです。罪の支払う報酬が死である。その死を変わって受けてくださるのであります。

ヨハネは、2節で、私たちの罪だけではない。全世界の為のなだめの供え物なのです、というのです。人の犯した罪によって、この世界も苦しんでいる。しかし、幸いな事に、イエス・キリストのお働きを信じた全ての人は、そのなだめの供え物となってくださったイエス・キリストのゆえに、罪赦された者とみなされるのです。神様の法廷の前で、であります。そのような特権を、神の子とされた私達は戴いているのであります。なんという素晴らしい特権でありましょうか。

だからとヨハネはいうのです。
それに相応しい歩みをしなさいよと。
4節、「神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。」とまで言います。
3節「もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。」

しかし、どうでしょうか。
神様のご命令を全て、完全に守っているでしょうか。
守っていると思っておられる方は、もう一度、見直していただく必要があるでしょう。
とはいえ、神の命令とは一体何でしょうか。旧約聖書に、色々と守るべき事が書かれています。ユダヤ人は、一生懸命それを守ろうと必死でした。

ある時、律法学者がひとり来て、イエス様とサドカイ人の議論を聞き、見事に答えられたのを知ってこう尋ねました。(マルコ12:28-31)「全ての命令の中で、どれが一番大切ですか」と。するとイエス様はこう答えられました。

「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」と。ユダヤ人は、神様の命令を細分化し、それを守る事に一生懸命でした。ですから、守れない人を差別し、冷たい目で見ていました。

一方、こういう人もいました。
マタイ19:16以下に書いてあることですが、少し長いのですがお読みいたします。
「19:16 すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。『先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。』
イエスは彼に言われた。『なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。
良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。』
彼は『どの戒めですか。』と言った。
そこで、イエスは言われた。
『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。
父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』
19:20 この青年はイエスに言った。『そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。』
イエスは、彼に言われた。
『もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。』
ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。」以上です。

人にはみんなどこか弱いところがあります。そして、その弱いところが、その人にとって致命的な欠陥なのです。勿論、神様の目から見られたらです。その事の故に、天に御国には入れないのです。悲しんで去って行くしかないのです。ヨハネの手紙に戻っていただいて、ヨハネは第一の手紙2:5,6節でこう言っています。

2:5 「しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。 2:6 神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」

最後の言葉は強烈ですね。
「キリストが歩まれたように歩まなければなりません。」キリストが歩まれたように歩もうとする事は私たちには出来ます。しかし、歩まれたようには歩めないのです。どんなに頑張っても、です。こんな時、あなたならどうしますか。

どうせ守られないのだったら、意味がないではないか。そんな律法はないほうがいいのだ、そんな命令など従う必要はない、そう思われるでしょうか。どうして、守れないような命令を神様は私たちに命令されたのかと言われるでしょうか。それは、神様に対する高慢であります。それはまさに、あなたを創ってくださった神様への反逆です。私たち人間は、もっと神様のみ前に謙遜にならなければなりません。そして、守れない自分を神様憐れんでくださいと叫ぶのです。

すると神様はいわれるでしょう。
あなたのその弱さのために、イエス・キリストを送ったんだよ。あなたの罪のために、否、あなただけではない、私を信じる全ての人のために、イエス・キリストを送ったんだよ。なだめのそなえものとして。あの十字架にかけて、ほふる為に・・・。

私達は、その神様の深い愛とご計画と、摂理に、ただただ感謝するのみではないでしょうか。守れない律法を、命令を人に課して、守れない人を見て、笑われる、喜ばれる神様ではありません。むしろ、神様とはどんなに聖いお方か、どんなに義なるお方か。その律法を通して人に教え、神様の用意してくださった救いの道に喜んで従うよう求めておられるのです。

行ないによらず、恵みによって救われた私達は、その恵みに相応しい言葉と行ないをするのは、当然のことなのです。ヨハネはそれを私たちに語りかけていると言えましょう。
行なおうとしても行なえない。疲れてくる。そんな時は、主のみ前に出させていただこうではありませんか。そして弁護人となってくださるイエス・キリストにすべてをお話しし、全てをイエス様にお委ねしようではありませんか。イエス様は私たちの最も善い弁護者なのですから。


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