2008年1月6日(日) 「古くて新しい戒め」 Tヨハネ2:7−11 竹口牧師
ヨハネは、この手紙の最初のほうで、神との交わりについて述べていました。 神との交わりがキリスト者にとっていかに大切であるか、それは言うまでもない事でありますが、もし、神との交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、それは、偽りを言っているのであって、真理を行なっていません、そのように6節で書いていました。
そして次に、光の中を歩むようにと勧めていました。 なぜなら、神が光の中におられるからということでした(7節)。キリスト者は闇を愛さず光を愛し、光の中を歩むべきなのです。
そして次に取り上げられていましたのが、罪の赦しと贖いについてであり、1章終わり頃から、2章の始めにかけて書いておりました。私たちが罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、全ての悪から私たちをきよめてくださる、とありました。
罪に沈んでいる私たちに、希望の光を述べていたわけでありました。 真剣に生きているクリスチャンほど、自分の罪に悩んでいる人が多い。そのことを考えますと、本当に素晴らしい真理をヨハネは、この手紙で書いてくれているといえましょう。
さて、2章3-6節においては、神様の命令を知っているなら、それを行いなさいということでありました。もし、行ないがなければ、偽り者である、つまり、偽善者ですよと指摘しておりました。
イエス様の兄弟ヤコブも、その手紙の中でこう言っていました。 「私の兄弟たち。誰かが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰が、その人を救う事ができるでしょうか」と。まさに私たちの心をぐさり、刺す言葉でありました。
ヨハネは先回の最後のところ6節でこう書いていました。 「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」と。つまり、キリストが歩まれたように歩む事、それが、私たちに求められているのであります。そして今日取り上げます事は兄弟を愛しなさいという命令であります。
その命令は、ある人には非常に心が痛む勧めだと思います。難しさを覚える命令かもしれません。出来ないと言いたくなるような命令かもしれません。でも、神様は、ヨハネの手紙を通して、私たちに勧められるのであります。「兄弟を愛しなさい」とであります。
と同時に、ヨハネの時代に、その事を書かなければならなかったという事は、その当時も、そういう問題があったという事であります。ですからこれは、古くて新しい問題、永遠のテーマでもあるという事もできるかもしれません。
ヨハネは7節で言うのであります。 「愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。」と。
ヨハネの時代の人たちが、ヨハネから手紙を貰って読んでみると、彼の書いていることは、「あなたがたが初めから持っていた古い命令です」とありますように、実は古い命令であり、初めから持っていたものである。その事を考えますと、現代からヨハネの時代の事を考え、つまり、2000年前といいましょうか、1900年前といいましょうか。それくらい古い話であり、
それはまた、その古い時代のヨハネが言うには、更にもっと古い命令であり、 「あなた方がすでに聞いている、御言葉の事です」と言いますから、旧約聖書を指しているという事が出来ましょう。
としますと、彼らよりも更に1,400年から500年は昔の事、それだけの時代が経っている話であります。ですから、そういう意味では非常に古い命令になるのであります。 その一方でヨハネは8節で、「しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります。 これはキリストにおいて真理であり、あなたがたにとっても真理です。なぜなら、やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。」とヨハネは書き送ったのでありました。古いけれども新しい命令。
では、何が変わったのか。中身が変わったのか、状況が変わったのか。言っていることの本質が変わったのかといろいろ考えられます。何が新しくなったのか、という事になりましょう。そしてそれが8節で言い表されていると言えましょう。
実は9節、10節、11節を読んでいただきますと分かりますが、旧約の教えと全く変わっていないのであります。つまり旧約では、レビ記19:18にこう書いてあります。 「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。 あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」こうあるのであります。
この命令が与えられたのは、モーセがシナイ山で与えられたものです。 しかしながら、互いに愛するということですから、何もそれが与えられた時からというのではなく、神が人をご自身のかたちに想像された、そのときからすでに、人間は互いに愛し合うようにされていた。神様を愛するように隣人をも愛するように造られていた。 にもかかわらず、罪がこの世界に入って以来、人と人との間の調和が取れなくなった。 ですから、アダムとエバの子供のカインとアベルの関係のように、 殺人さえ起きたのでありました。
従って、そのような事を考えますと、兄弟を愛するという事は、ヨハネの時代だけでなく、律法が与えられた時からではなく、もっと前というように、随分と遡れるものであります。 しかしこの古い命令を、新しい意味内容を持った命令として書き送る、とヨハネは言うのであります。
この命令の新しさは、キリストにおいて「真理」であり、光りの中を歩む私たちにおいても「真理」だからであります。なぜなら、闇が消え去り、「まことの光」であるキリストが来られて、「すでに輝いている」からであります。
かつてイエス様は言われました。ヨハネの福音書13章34節でありますけれども、「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」でありました。
兄弟愛は、全ての人を照らすそのまことの光が世に来られた、その光の時代に相応しい業であり、その兄弟愛の命令は、この光の時代の到来と共に新しい意味を持つようになったのでした。
では、どこが新しくなったのかと言いますと、それは、人々が互いに愛し合うのは、イエス様がまず人を愛されたからです。イエス様のうちに愛を見るまでは、人々は愛の何たるかを本当には知らなかったと言えます。
人生のどの場面においても、あるものが長い間存在してきた、という意味では古いものになっているけれども、ある人が使う事によって全く新しいものになるということは、しばしば起るのであります。
バークレーと言う人は、イエス様において、愛は二つの新しい方向を持つに至ったと言います。その一つは、イエスにおいて、愛は新しい広さを持つに至ったというふうにであります。
イエスにおいては、愛は罪人にまで広められたのである。正統的ユダヤ教のラビにとって、罪人とは、神様が滅ぼさんと願っている人間に他ならなかった。「罪人が一人でもこの世から抹殺されるなら、天には喜びがある」と彼らは言った。 しかしイエスは社会の片隅にうごめく男女の友であり、罪人の友であった。そして罪人が一人でも家に戻るなら、天には大いなる喜びがあると宣言した。イエスにおいては、愛は異邦人にまで届いた。
ラビ達の見解によれば、 「異邦人は、神が地獄の火の燃料として創造したもの」に他ならなかった。 しかし、イエスにおいては、神はその一人子を賜ったほどにこの世界を愛されたのである。 愛はイエスにおいて全く新しいものとなった。なぜなら、彼はその愛の抱擁に溺れるものが一人もいないまでに、その囲いを広くしたからである。
もう一つは、イエスにおいて、愛はその達する長さが新しくなった。何の応答がなくても、イエスのために人間が何も出来ないとしても、イエスの愛はそんなことで憎しみに変わったりはしない。イエスは、自分を十字架に釘付ける者のためにすら、神に憐れみを乞う事が出来たからである。
愛せよという戒めは、人々が長い間、それを知らされてきたと言う意味では、確かに古い戒めである。しかし、それは同時に新しい戒めでもあった。なぜなら、愛はすでにイエスにおいてまだ達した事のない標準に達したからであり、人間が愛へと駆り立てられるのは、その標準があるからである。」以上であります。
真の光であるイエス様が来られ、輝いている。闇の中に真の光が現れた事により、まだ完全には光の世界になりきっていませんが、福音の宣教によって、光はいよいよ広く、明るく、耀きをましてきています。
あなた方も光の中に入れられ、来るべき時代の前味を味わい始めている(ガラ1:4、ヘブ6:5)この命令は新しい時代の命令であるから新しいのであり、新しい立場に置かれたあなた方に、新しい関係で書き送られたので、新しい命令なのです。
ヨハネが言おうとしているのは、光の時代だから光の中を歩むべきであり、光の中を歩む事は新しい命令を守る事である、という事になります。イエスの愛、無条件の愛で愛されている事を知った私たちは、自分が無条件で愛されているだけでなく、他の人もまた無条件で愛されている。その愛されている者を、この私が憎む事は果たして正しいのだろうか。
自分はイエス様に愛されたい。けれども、あの人だけは愛されて欲しくないと考える事が果たして赦されるのだろうか。非常に考えさせられるのであります。
9-11節は、殆ど説明が要らないくらい読めば分かります。 「光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。 兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。 兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。闇が彼の目を見えなくしたからです。」とあります。
問題は、なぜそうなるのか、という事ではないでしょうか。なぜ、愛せないのかという事につきます。 ヨハネは、対人関係には中間性というものはありえないと言います。愛と憎しみ、光と闇、その中間はない。どちらの態度をとっているかと問い掛けます。
具体的な例としてこのようなことが言えるでしょう。 海外にまで出かけていって熱心に愛を伝えはするが、隣の住民とはいかなる種類の交わりも持たない。あるいは、他国の人に愛を伝えながら、自分の家族や親類とは決して平和に過ごしえない。これは、どこかおかしいと誰しも気づくことではないでしょうか。
その原因がどこにあるのか考えるように、私たちは、それをこの朝、神様から指摘されているように思います。 私たちは、兄弟姉妹の誰かを無視していないでしょうか。 私たちは、ある兄弟姉妹を軽蔑の念をもってみていないでしょうか。 私たちは、ある兄弟姉妹を厄介者としていないでしょうか。 人からしてもらいたいと思うような事ではなく、人から受けたくないようなことを、行なっている。ここに大きな問題があると言えましょう。
イエス様は、ヨハネ12:48でこう言われました。 「わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。」と。
最後に裁かれるのはイエス様であります。 その事をしっかりと覚えつつ、この朝の御言葉に目を留めようではありませんか。 ヨハネは9節でこう言っていました。 「兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。」と。
まずは、人を責める前に、自分の行ないを省みましょう。 そして次に、悪い自分を責める前に、十字架にかかって下さったイエス様を見上げましょう。こんな自分のためにも、イエス様はあの十字架にかかり、死んでくださった、その事実に触れさせていただきましょう。イエス様の赦しが分かった人だけが、あるいはまた、 イエス様が自分を受け入れてくださった事を知った人だけが、自分の隣り人をも受け入れる事が出来るようになるのですから。
2008年1月20日(日) 「御心を行なう者」 Tヨハネ2:12−17 竹口牧師
先回私たちは、自分達の心を深く探られる所を見ました。ヨハネは「 光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、闇の中にいるのです」と言って、罪を指摘し、兄弟を愛するように勧めていましたし、また「兄弟を憎む者は、闇の中におり、闇の中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。闇が彼の目を見えなくしたからです。」といって、その行く先は滅びであることを暗示していました。そして、そうならないように、もう一度イエス様の愛によって救われている事の確認を迫っているのが今日の聖書個所であります。
私たちはいつでも、何度でも立ち止まって、自分達に与えられている地位、特権、希望について確認する事は大切のように思います。特に、人生の中で出口の見えないトンネルに入った時などは、その事を確認する事はとても大切であります。
ヨハネは、今日の箇所の前半で、3種類の読者に語りかけているように見えます。子供たちよ、父たちよ、若い者達よ、とあるからです。また、書き送るという言葉のギリシャ語の動詞形を、現在形で3回、不定過去で3回というように、違えて書いています。そんなものですから、色々な解釈がなされているのだそうです。
しかし、結局のところ、ハッキリした事は言えないのでありまして、今回、私はそういう事を取り上げて考えるつもりはありません。今も言いましたように、信仰の確認と言うのは、非常に大切な行為ですので、それだけに注目してみていきたいのであります。それと共に後半で、具体的な例を見る事に致します。
信仰者の中には、救われたばかりの人もいれば、何十年もいろいろな問題に直面しながらも守られてきた、そういうように、信仰の強さ弱さ、期間の長さ短さといった点は、さまざまだと言えましょう。キリストが昇天されてから、ヨハネがこの手紙を書くまでに、長ければ60年と言えばオバーかもしれませんが、それだけの信仰生活を送ってきた者もいたかもしれません。短ければ、1年、或は半年、あるいはそれ以下という人もいた事でしょう。
ですから、そういう事を考えますと、単なる年齢のことを指しているのではなく、あるいはまた、信仰経験を指して言っているのではなく、ヨハネが、子供たちよとか、父たちよとか、若い者達よ、と呼びかける時には、一見して誰かを指定して言っているようですが、もしかしたら、読む人全部を想定していっているのではないか、そのように私は思うわけであります。
「子供たちよ」とヨハネが言っているから、私には関係ないとか、「父たちよ」と言っているから、年配の事を指して言っている、そのように受け取らなくても良いのではないか、そう私は思うのですが、少し乱暴な解釈でありましょうか。
ヨハネは、3種の人たちに語りながら、あるいは、そのような語りかけをしながら、しかし、「父たちよ」と言う部分を取り上げて見ますと、13節と14節、同じことを言っているのであります。ヨハネはそのようにして、特に強調していると取っても構いません。信仰の長短に関係なく、また老若男女という年齢性別に関係なく、あなたの信じている事は何か、こうこうこうですよね、とヨハネは言っているように思えます。
勿論、それぞれに合わせてヨハネは言っていると考えても、それは、それでよいでしょう。大切な事は、ヨハネは、信仰の基本を確認させているという事です。 では、信仰の基本とは何でしょうか。最も大切な事は、キリスト者はみんな主の名によって罪が赦された存在であるということです。罪が赦されている事を覚えるには、まず自分は以前は罪人であった、この事を認めなければなりません。
それでこそ、滅びの状態から救いの状態へと入れられた、そのことの確認が出来るからであります。自分の罪が分からないのに、赦される事の価値がわかるはずもありません。また、罪の赦しが分かる為には、その赦しを実現する為に、それをご計画なさった方がおられる。その方は父なる神様であると、その御存在も認めなければなりません。
そのことなくして、ヨハネの語っている事を理解する事も、また、教えられる事も、命令も、あなたにとって何の意味もなさないのであります。ただの事実の羅列でしかありません。そうであっては欲しくないのであります。
自分は生まれながらにして罪人であり、だからこそ、真の神様の存在を認めず、神様のお働き、ご計画、御子イエス・キリストを私のために送ってくださった、そういう事実を全く知らなかったけれども、今は違う。今は、初めからおられた方をまず知らされ、神様なしの歩みから、神なしでは生きられないと知らされ、その道を歩む者とされた、その事を確認して欲しいのです。
皆さんそれぞれが、私のために、初めからおられる方が、主の名によって罪赦されるための計画をし、また実行してくださった。だから、罪の赦しと、それから、これから罪に打ち勝つ力も、みんないただいている、その事を信仰者一人一人が、きょう、この朝、確認していただきたいのです。
ヨハネは、子供たちよ、父たちよ、若い者達よと特定の人を指しているようですが、そのことにあまり目を留める必要はないのではないかと思います。なぜなら、年齢の面から言っても、ヨハネはもう最高齢であり、信仰の面から言えば、ヨハネは指導的立場にあり、信仰の父と呼ばれても不思議ではない。ですからそういう目で、信仰者全体に語りかけていると受け取っても差し支えないといえましょう。
従って、私はこの部分を読むときに、キリスト信仰者全ての人の状態に当てはまる事を感じるのですが、それは果たしてヨハネの意図したことと違うのでしょうか。
14節の終わりの方に、「若い者達よ」というのがあります。 「若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」とあります。
ここには、御言葉の重要性というものが語られています。 「神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです」だから、あなた方は強いと言うのです。あなた方が強いのは、神の御言葉があなた方のうちに留まったから、なのであります。
信仰暦が長ければ長いほど、又受けた試みが多ければ多いほど、御言葉の大切さ、働きを実感させられると言えましょう。当時の激しい異端攻勢の中でも信仰的に「強い者」と言われるのは、自らに与えられている信仰的立場が何たるかを明確に自覚し、「神のみことばが……うちにとどま」っている人たちの事です(14)。もし、そうでなければ、「風に吹かれて揺れ動く、海の大波のよう」で、常に流され、漂い、自分と言う者が定まらないのであります。そしてまた、そういう人は、二心のある人で、その歩む道の全てに安定を欠いた人なのであります。
やはり、御言葉と言う基礎でがっちりと据えておかないと、その人の信仰は、詩篇1篇4-6節にあるようになると言えましょう。そこには、こう書いてあります。
「悪者は、それとは違い、まさしく風が吹き飛ばすもみがらのようだ。それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。」というようにであります。
しっかりとした御言葉の上に立った歩みでなければ、ならないわけであります。そしてその具体的な例をヨハネは15-17節で述べるのであります。原文では、「愛してはならない」とまず言います。そしてその次に、何を愛してはならないかを言います。 それは、「この世を愛してはならない」であります。
ヨハネは、この手紙を書く前に福音書で有名な言葉を書きました。 ヨハネの福音書3章16節でありますが、そこには、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とでありました。
「神は実に・・・世を愛された」とそこで書いていました。そして、このヨハネ3:16の世と、この手紙にでている世とは、ギリシャ語では、同じ「コスモス」なのですが、指している意味あいは全然違います。
ヨハネの手紙のこの世とは、俗世間であり、神に敵対する世であり、憐れんでおられる世のことであります。もっと範囲を狭くしますと、ヨハネの福音書でいう「世」というのは、この世の人々の事であります。そして、その中に私たちも以前いたのであります。だから、こうして教会に来て、恵みのお言葉をいただけるようにされたわけであります。神様に愛されて、であります。なんという感謝なことでありましょうか。
神様は、この世の人々を愛されましたけれども、全ての人を、ではありませんでした。 つまり、御子を信じる者を愛されたわけでありました。真の神様を愛する者と、敵対する者がいる事を考えれば、全てを指していない事は、当然のこととして分かります。
ある方は、神様のなさる事は不公平だなどと言われます。 でも、滅びるはずの者を憐れんで救ってくださったという行為は、神様の主権であり、私たち救われる者の側にとっては恵みですから、選ばれる側がどうのこうのという立場にはないのであります。それだけに、選ばれた人は喜びが大きいのです。
今から歴史を遡って考えますと、ヨハネは、キリスト教が生まれて100年も経っていない、そんな時、異端がはびこり、仲間割れや、またローマの圧迫の中で、信仰を持ち続ける事は大変だったと思うのであります。そのような彼らに、神様はヨハネを立て語るようにされたのでした。
ヨハネは15節で言うのであります。「愛してはならない!」と。 「世をも、世にあるものをも!」と言う風にであります。 「もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。」とまで言い切ります。
現在の私たちの国では、信教の自由が認められていますし、言論の自由が保証されています。こうして礼拝も自由に守られています。かつて、憲兵が説教をチェックし、国に背くような説教であれば、即刻中止を命じられたそうです。そのような事も今はありません。そういう恵まれた状態の中で、真の信仰に立っているのかと考えさせられます。 私たちは一体、本気で神の側にだけに立っているといえるのか。そう考えさせられます。
なぜなら、あまりにも平和すぎて、そして、その平和の中で、あまりにも誘惑が多いからであります。ヨハネが問い掛けるように、「この世を本当に愛していないだろうか」と問う必要があるでしょう。この世とは何か、もっと具体的にヨハネは16節で言っています。それは「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」と。
なぜ、そのように強くヨハネは、この手紙の読者に訴えるのか、それを考えてみたいのです。それは、人は、同時に二つのものを愛する事は出来ないからです。マタイの福音書6章24節にこうあります。
「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなた方は、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」とある通りであります。
従って、御父を愛しながら同時に世を愛することは出来ない。むしろ「世を愛することは神を敵にすること」(ヤコ4:4)なのであります。だから「世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません」(15b)と言うのです。
その具体的なものとしてヨハネは3つ上げています。「肉の欲」「目の欲」「暮らし向きの自慢」であります。まず肉の欲と言うのは何か。これは、私たちがしばしば肉欲と言う言葉で意味しているような性的な、或は肉体的な欲望だけの事ではなく、肉から出る欲望、つまり、その欲望の対象を自分のものにしてしまおうとする全ての欲望を含んでいます。
お金でも名誉でも何でも罪に汚れた肉が欲しいと思うものはみな、自分のものにしてしまおうとする、全ての欲望です。ダビデは、自分の部下ウリヤの妻を不正に自分の妻とすると言うそういう罪を犯しました。これは、一つの典型的な肉の欲であります。
次は目の欲であります。イエス様はこれについては、マタイ5:28でこう言われました。「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」と。「情欲をいだいて女を見る者は」、これは目の欲であります。「目の欲」とは、「目」をその欲望を満足させる器官とする欲望です。
美しいものと醜いものとを区別する感覚が人にはありますが、美しいもの、それが心に訴え、想像に訴えます。それは、芸術的な作品の鑑賞といった、一見、非常に高尚と思われる事柄にも現れる欲望であります。勿論美術の鑑賞がただちに目の欲ではないのは言うまでもありません。しかし、それを神に変わるものとして、それ自身を至高なものとして神を忘れたり、否定するようなら、それに溺れ、それに身をゆだねるなら、それは目の欲です。
もう一つヨハネは言っています。 暮し向きの自慢であります。これは、他の訳で見ますと「持物のほこり」とか「生活のおごり」とあります。ですから、単なる所有物を指しているのではなく、「生活の手段」と言う感じをもつ「持ち物」で、それを誇る。つまり、そのような生活の手段である持ち物を、究極的な目的であるかのように、間違った価値を与えて、それを追求し、それによりかかり、それに満足し、それに安全を見出し、それに頼り、それに自ら惚れ、それを自慢する。こういう事を指します。
ルカの福音書12:16−21にイエス様が語られた例えがありますが、それが良く言い表しております。その例えとは、ある金持ちの畑が豊作になり、その豊作に備えて、もっと大きな倉を建てて、穀物を満たし、「さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」と金持ちは言いましたが、これが、生活の手段である持ち物を絶対化して、価値あるものとして「持ち物の誇りに」生きている事であります。
しかし、これらは全部「世から出たもの」であって、「父からでたもの」ではありません。17節には結論が出ています。「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます」と。
結局のところ、「世と世の欲は滅び去ります。」ということです。この世のものはみな、「今、滅び去りつつある」ものであり、これを愛するのはむなしいことなのです。 それに対し、「神の御心を行なう者は、いつまでもながらえます」(17b)と永遠につながるものが何であるかを教えてくれるのであります。キリストにあって神との交わりに生き、神を自分の生きることの中心とする者は、自分の生を永遠なるお方から絶えず生命を与えられ永遠の祝福、喜びを与えられているであり、永遠の祝福、喜びを約束されているのであります。
すべて世と世にあるものとは過ぎ行きます。しかし、「神のみ旨を行う者は、永遠にながらえる」のです。私たちは本気で信じ、愛し、従っていくべきは、永遠であり、光である神様に連なって、永遠の命に生きるべきでありましょう。
今一度、何を愛しているのか、何を愛すべきなのかを確認し、神の御心を行なう者でありたいものです。
|