2008年3月2日(日) 「神から生まれた者」 Tヨハネ3:1-10 竹口牧師
先回の所でヨハネは、イエスがキリストであることを否定する、反キリストについて述べ、そして、キリストに留まる事の大切さを言ってきました。 今回は、イエス・キリストによって救われた私たちは、神の子供とされたのでありますから、その事を自覚させ、また、そのように生きるように勧めているところを見ようとしているのであります。また、神の子供と悪魔の子供との区別をここで明確にしています。そういう意味で、まず私たちは、罪のうちを歩む者を見ながら、そうではなく神の子とされた私たち、あるいは又、変えられた私たちはどうあるべきかを、きょうのところから教えられたいのであります。
まず1節で、神の子とされた私たちの特権が述べられています。 1節「 私たちが神の子どもと呼ばれるために、 ――事実、いま私たちは神の子どもです。―― 御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。 世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。」とあります。
ここには、キリスト信仰者は神の子供であるといい、その神の子供は、すこし見方を変えて言いますけれども、つまり、私たちの側から言いますと、御父は、どんなに素晴らしい愛を与えておられるか、即ち、私たちがどんなに素晴らしい愛を受けているかが書かれています。 神の子供ですと言われましても、私たちキリスト者をこの世の人が見た場合、何か光り輝いて見えるとか、全く罪を犯さない聖人に見えるとか、そういう事はありませんから、見た感じでは、この世の人と何ら変わっていません。
勿論、キリスト者の皆さんが、この世の人と全く同じ歩みをし、全く区別がつかないというわけではありません。それこそ、キリスト者としてそれに相応しい言葉、歩みをこころがけておられることでしょう。特に、結婚式とか葬儀とかはそれが如実にあらわれます。しかし、普段は、どうもやはり違いが見えてこない、見えにくいのが現実であります。とはいえ、ヨハネによりますと、確かにキリスト信仰者とそうでない人との間には違いがあると言います。
では何が違うのかといいますと、神の子供にされているということであります。 そしてこの事は、キリストが現れたなら、キリストに似る者となることが分かっていると言います。なぜなら、その時、私達はキリストのありのままの姿を見るからだ、そのようにヨハネは書いています。キリストが現れたなら、とは、明らかに再臨を指しています。再び来られるその時には、はっきりするというのです。
ここでパウロの言葉を引用いたしますが、 パウロは神の子にされているなら、それは神の家族にされたのであり、キリストとの共同相続人でもあるとローマ8:17で言っています。
即ち「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私達がキリストと、栄光を共に受ける為に苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」とです。 そして、この言葉の中に、「私達がキリストと、栄光を受ける為に苦難を共にしているなら」とあるところから、神学者のバークレーと言う人は、キリスト者がこの世で受ける苦難について、こういう面白い書き方をしていますので、紹介しておきます。
「するとただちに、次のような疑問が起る。 もし、人がキリスト者になれば、その偉大な名誉を得ると言うなら、 なぜ彼らは世間でかくも踏みにじられ、軽蔑され、そして認められないのだろうか。 答は、彼らはただイエス・キリストがすでに経験されたことを、体験しているに過ぎないという事である。イエスが世界に来られた時、彼は神の子として認められなかった。 彼は世間の基準をくつがえすような基準を持って来られた。もしも、彼の生活が神のような生活であったなら、たとえ最も善良な人々でも、罪に定められたであろう。世間は自分の考えを好み、イエス・キリストの考えを拒否したのである。従って、イエス・キリストと同じ様な暮らしを選ぶ人にも、同じ様なことが起るはずである」とであります。
非常に教えられる言葉であります。 クリスチャンになって、悩みが全て解決され、喜びの毎日が送られるのではない。 そうではなく、偶像礼拝に対しては敏感に拒否し、この世の悪い習慣には、キリスト者として従わない、従えない。そのように、はっきりとした態度、立場を表明されるでしょう。 そしてそのようなことで、もし苦しんでいる方がおられますなら、神の子が人となって来られ、人としての歩みをされ、苦しみを受けてくださったキリストを思い出す必要があるでしょう。 そしてキリストが苦しみを受けられたのならば、神の子とされた私たちもまた、その苦しみを甘んじて受けることは正しいといえるのではないでしょうか。ただし、御父が御子を愛されたように、私たち神の子とされた者は、同じ様に愛され、また神の子としての特権にも与っている。その事を決して忘れてはならないと言えましょう。
イエス様は、空腹を覚えられました(マタイ4:2)。 イエス様は、涙を流されました(ヨハネ11:35)。 イエス様は、当時の指導者から苦しめられました。 ならば、私たちもまた神の子とされた者として、イエス様の苦しみを、少しでも味わい、また、私たちの苦しみを背負ってくださったことを覚えたいのです。
「世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。」と、1節の最後にありますが、御子を知った者だけが、父なる神様の愛を知る事が出来るというのは真理であります。まさに、世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。 ところで、先ほど1節からの流れで2節に入り、イエス様の再臨について少し、申し上げました。2節2行目の下のほうから、「しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならその時、私達はキリストのありのままの姿を見るからです。」という風にあります。
これは、私たちキリスト者にとって素晴らしい知らせであります。 何が素晴らしいかと言いますと、イエス様がもう一度来られたならば、「キリストに似る者となることがわかっている」ことであります。イエス様の地上の生涯を見ますと、私達と同じ様な歩みをされましたので、奇蹟とか、律法学者たちのようではなく権威ある者のようにと話された、そういう特例の場合を除きますと、イエス様と私たちとは人としては全く同じでありました。ただ、罪についてははっきりと違っていましたけれども。
罪を犯す私たちとは似て非なるお方でありました。 それが、キリストが再びきてくださることによって、私たちキリストは、その方に似る者とされるというのは、何と言う光栄でありましょうか。この世でキリスト者として悪戦苦闘していますが、しかし、イエス様が再び来られるなら、全く変えられるのであります。素晴らしい知らせです。
再臨の模様については、Tテサロニケ4:15-17にある通りです。お聞きくださるだけで結構ですが、お読みいたします。 「私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。 それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。 このようにして、私達は、いつまでも主と共にいることになります。」 以上であります。
私達はイエス様の再臨の時に、キリストのありのままを見る事になり、またその素晴らしさを味あわせていただけるのであります。キリストに似る者とされるのです。何という楽しみでありましょうか。 イエス様が再び来てくださるまでに、もし死ぬならば、今のテサロニケにありましたように、今生きている者ではなく、死んでいる者がまず最初に甦らせて頂き、その次に生き残っている者が、空中に携え上げられるのです。これを空中携挙(くうちゅうけいきょ)といいます。 私達は、そういう恵みに与る確かな約束を頂いているのですから、ヨハネは、それならば、それに相応しくなりなさいよと3、4節で勧めているのであります。 「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。」とヨハネは戒めています。
私達は、罪については大変敏感です。そして、敏感であればあるほど、自分の不完全さに嘆きます。落ち込んでいる方もおられましょう。 一方、罪に大変鈍感なキリスト者もいます。聖書をあまり読まないものですから、救われたときとあまり外見では分からないという方もおられます。がしかし、いずれにしましても、キリストは何の為に来られたかをヨハネはキリスト者に5節で確認します。 「キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。」とであります。そんな事ぐらい分かっている、とは思わないで頂きたいのです。ヨハネは、念を押して6節でこういうからです。
「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。」 なんという強烈な言葉でありましょうか。 ある方は、これを読んで、ドキッとされるのではないでしょうか。神様は聖なるお方であり、全く罪がありません。 そのようなお方のみ前に、ほんのちょっとでも罪ある者は出る事が赦されないのです。 とするなら、私はどうなるの? 「罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。」というヨハネの言葉が本当なら、私は一体どうなるの?そういう不安を抱かれる方もおられましょう。そして、そのように真剣に考える方こそ、主は真剣にそのあなたに目を止めてくださっていると言えましょう。
ヨハネは1章19節でこう言っていました。 「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私達の仲間でなかった事が明らかにされる為なのです。」
ここでよく考えていただきたいのです。 キリストを神の御子と認め、父なる神があなたの救いのためにその御子を送ってくださったとあなたは信じておられるのでしょうか。もし、信じておられるなら、決して恐れる必要はありません。イエス様は、こう言われているからです。(マルコ2:17) 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。 わたしは正しい人を招く為ではなく、罪人を招く為に来たのです。」
医者なるイエス様が、その罪を消してくださり、神の御前に出られるようにして下さっているからです。注意しないといけないのは、罪の痛みを感じない人です。自分は大丈夫だと思い込んで、罪に対して無頓着な人です。そういう人に対して、むしろヨハネはこの手紙によって厳しく臨んでいるといえるかもしれません。
ヨハネは、正しい人と言うのはどう言う人のことか、罪のうちを歩む者とはどういうものかを7,8節で述べています。 7節「子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。 義を行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。」 そして8節で 「罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。」
もし、あなたがキリスト者であると思われていて、積極的に悪を行おうとされているなら、それは、決してキリスト者とはいえないでしょう。もし、少しでも痛みを感じて行なっておられるなら、あなたのうちに入っておられる聖霊なる神様のお働きであり、その人にはまだ望みがあります。聖霊なる神様が守り、導いて下さるからであります。 神の子と悪魔の子との違い、それは、悪魔の子は悪を行う事に対して少しも痛みを感ずることなく、むしろ喜びでありますが、神の子は痛みを覚えるのです。そこが、神の子とされた者と、悪魔の子との大きな違いです。
ヨハネは9節で厳しく私たちに迫っています。「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩む事ができないのです。」神様の恵みによって救われた私たちキリスト者の内側には、神の子としての性質がしっかりと植え付けられています。そのために、罪に対して心を痛めます。警告を与えます。苦しませます。 それは、神様が働いておられる証拠でもあります。
では、9節の言葉を私達はどう受け止めればよいのでしょうか。「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。」とあるのです。 しかし、実際の姿はどうでしょうか。罪に敗れた姿ではないでしょうか。 この世の流れに沿って、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」式に生きる事のほうが ずっと楽な生き方ではないか、そんな気持ちではないでしょうか。 9節の終わりには「神から生まれた者は、罪のうちを歩む事が出来ない」とそうあり、 10節には、 「そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。 義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。 兄弟を愛さない者もそうです。」とあります。
ヨハネは、当時のキリスト者に厳しく迫っています。そして、現代の私たちにも迫っています。「義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。」と。 この言葉は、キリスト者を絶望のどん底に突き落とします。しかしまた、不死身のごとくキリスト者は立ち上がるのです。立ち上がる事が出来るのです。 なぜなら、キリストが私達の全ての罪を背負って死んでくださったからです。 私達が今、生かされているのは、その罪にまみれた姿を、キリストの贖いによって赦され、罪を犯しながらも、赦され、主の憐れみによって立ち続けるように励まされているからです。
きょうの聖書個所において「罪のうちを歩む」と5回書いてあります。これは、同じ罪を犯しつづける事をさしております。罪を罪と知りながら犯しつづけるのは悪魔のしわざです。神の子ではないのです。少なくとも神の子は滅びの子から変えられているのです。
ですから、私は、このヨハネの手紙を読むときに、決して忘れてはならない事を確認しておきたいのです。それは、この手紙はキリスト者に語りかけていると言う事です。 キリスト者に書き送っているということは、キリストによって新しくされている人に語っていると言う事です。
とするなら、ヨハネは、キリスト者に対して、キリスト者であることを否定するような事は書かないはずです。つまり、「あなた方は、キリスト者でしょう。」 とすれば、こうあるのが正しい歩みではないですか、と迫っているのです。 私達は、自分の弱さ、足りなさに心痛みます。 神様によって直ぐにでも滅ぼされても文句は言えない私達なのです。その私たちキリスト者が、神様の憐れみによって救われたのです。救われて恵みの中に入れていただいているのです。その私達の歩みは、どう見ても決して安全とは言えないものです。 けれども、一旦、恵みによって救われた私達はこのようにして神様の御言葉をいただき、生かされているのです。このことを決して忘れてはいけないと思うのです。
十字架の上で、私達の全ての罪を負ってくださった主を見上げ、赦されていることを確認しながら、神から生まれた者とされている今、ヨハネが指摘していることを真剣に受け止め、神様の喜ばれる歩みにより一層励ましていただくのが、キリスト者の勤めであるといえましょう。神から生まれた者に相応しく歩ませていただこうではありませんか。
2008年3月30日(日) 「愛のうちに生きる」 Tヨハネ3:11-18 竹口牧師
先回は、神から生まれた者という主題で見てきました。 罪を犯し続ける者は、神から生まれた者では決してない。それは、悪魔の子供であると厳しくヨハネは言っておりました。今回は、兄弟愛について見ていこうとしているのであります。ヨハネはまず11節で、こう言っています。「互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。」と。
ここにあります「初めから聞いている教え」という「初め」とは、いつのことか、聖書の欄外注を見てみますと、ヨハネ13:34-35と15:12が挙げられています。そしてそこを見ますとこう書いてあるのであります。最初のヨハネ13:34-35には、 「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。 わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」とであります。
そしてもう一つ、15:12にはこうあるのであります。 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」これらは、イエス様が十字架におかかりになられる前に、最後の説教をされた時のイエス様の弟子に対する勧めでありました。
ヨハネがそれをここでも書いているということは、非常に大切であると神様に導かれたからでしょう。そして愛のない悪い例、冷え切った例えを、創世記にある初めの話にまで遡って説明するのであります。人類最初の人間アダムとエバとの間に生まれたカインとアベル。その兄弟の間に起ったけんかによる殺人であります。それも嫉妬から来ておりました。 二人は神様に献げ物をしましたが、兄のカインの献げ物ではなく、弟のアベルの献げ物を神様は省みられました。それに怒った兄のカインは弟のアベルを殺したのでありました。
ヨハネは12節でこう書いています。 「カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。 なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。」と。何も殺人までしなくてもよいだろう思う方もおられましょう。しかし、憎しみは、そこまで突き進むものであります。いいえ、憎しみは殺しただけでは満足しない場合もあります。
最近では、遺体をバラバラにする事さえするのであります。あるいは、何回も何回も刃物で刺すとかするのであります。ひとたび死んだ遺体に、いくら刃物で刺しても意味がないと理性では分かっていても、憎しみが抑えられない、それほど憎しみは強いものであります。 アダムとエバの二人の間に生まれた子供、その子供のアベルが殺され、カインは生き続けるのです。兄弟げんかの結果であります。多分、アダムとエバは悲しんだに違いありません。家庭の痛みであります。私達はそのアダムとエバの罪、そしてカインの罪の血をしっかりと受け継いでおります。大変恐ろしい事でありますが、現実です。 罪の始まりは、アダムとエバから始まり、殺意はこのカインから今に至るまで続いているのです。そんな状況ですから、この世界で殺人の起らない日はありません。私たちとて、いつ、どこでそれに遭遇するか分からないのであります。殺すかもしれない。殺されるかもしれない。
この殺伐とした世の中、もっと世の中は悪くなると、聖書は言っているのです。 ですから、きょうの所でヨハネはこういうのであります。 13節「兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。」と。 神を知らないこの世が、神から生まれた者を憎んでも、そんなの当然なんですよ、と言います。だから、神から生まれた兄弟姉妹は、イエス様がおっしゃったように、「互いに愛し合いなさいよ」と勧めるのです。
14節では更に「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。」とあります。どのようにして私達は死から命に移った事を知ったでしょうか。 ヨハネは福音書5:24で、こう書いています。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」と。 イエス様によって救っていただいた私達は、死から命に移っているのであります。
では、その私達は、兄弟姉妹を条件なしで愛しているのでしょうか。憎むとまでは言わなくても、また、愛するとまでは言わなくても、どの兄弟姉妹ともわけ隔てなく付き合っているのでしょうか。ある人とは目も合わしたくない。 挨拶ならもっとしたくない、そういう感情があるとしたなら、それはもう、十分にヨハネの指摘に適合しているでしょう。
「互いに愛し合いなさい」と勧めなければならない状態なのです。 そんなこと言う必要がなければヨハネは書かなかったはずです。 でも、ヨハネが書いたという事は、書かざるを得なかった事情があったという事です。 そして、それは、非常に恐ろしい事だと言えますし、今の時代でもその勧めが必要な状況だと言えましょう。
具体的に刃物で人を殺さなくても、15節のヨハネの言葉に従いますなら、 「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、 永遠のいのちがとどまっていることはないのです。」 そして、その中に人を赦せない、受け入れられない。拒絶の思いがあると言われます。 つまり、憎しみと言うものが、病気の原因の多くの部分を占めているのだそうであります。 人を憎む事によっては少しも根本的なことは解決されない。否、むしろ、その事によって自分の体は不調になっている。いろいろな症状が体のあちこちにでてきている。そういう事が分かっていても、それでも多くの人は、赦せない病気で苦しんでいると聞きます。
もっとも、ここでヨハネが言っています事は、単に精神論を指してはいません。 イエス様があなたの罪を赦し、愛してくださったのですから、そしてそのイエス様が、「神様があなたを愛してくださったように、あなたも隣り人を愛しなさい」と命じておられるのですから、そのイエス様のお言葉に従って、あなた方は兄弟姉妹を愛し合いなさいと言う事であります。 永遠の命が留まっているあなた方は、そうしなさいよ、と勧めるのであります。 そして、それは単なる勧めではなく、自分の命をも捨てるほどに愛しなさいと言うのです。
ところで、以前にもお話しましたが、次に出てきます16節の言葉、「キリストは、私達のために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」というのは、私にとって格別なお言葉であります。 神様の存在を全く知らなかった私が、キリストとの出会いへと導かれ、 自分がイエス様に愛されている事を知ったときの喜び、 そして、その喜びをどのようにして表そうかと考えていた時、 与えられた御言葉が、この第一ヨハネ3:16だったからです。 「兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」とのお言葉、 どのようにして神様にお仕えしていくか真剣に考えたものでした。 それは勿論、現在、世界のどこかで行なわれている自爆テロのような、そういう死に方を、その当時の私が考えたわけではありませんし、そういう意味でもここでは書かれていません。 マインドコントロールされ、死ぬ以外には道は無いと思い込まされ、また、死ぬなら、あなたを神様は受け入れてくださると教え込まれての行動ではないわけであります。
しかし、それでも救われたばかりの私の熱意は、間違った兄弟姉妹批判へと一時的にではありますが、走った事は否めません。なぜ、多くの人が今も滅んでいっているのに、キリスト者はなぜ、みんな伝道者になって福音を伝えないのか。なぜ、いろいろな職業につくのか。今すぐにでも直接伝道をしないのか。そういう思いでいっぱいだった時のことを思い出します。今から考えれば、若気の至りであります。
神様はもともとそのように考えて兄弟姉妹を救ってはおられません。兄弟姉妹それぞれに賜物を与え、それを通し、それを用いて一人ひとりが、自分にあった方法で主に仕える事、それを主は求めておられる、その事を信仰が与えられた当初は、私は知らなかったわけでありました。
そんな按配ですから、献身と言う思いが私の心を支配し、随分、実際の自分のあるべき状況と進むべき道とで悩んだものでした。紆余曲折はあったものの、そして月足らずでこの道に進んだ私で足りないだらけの私でしたが、そして今も足りないだらけでありますが、 今日ここまで、主は用いてきてくださったのでした。 私にとってのこの主の御用のための働きは、最高のものであったし、今もまた最高のものであると言えましょう。 そういえば、同じヨハネが書きましたヨハネの福音書3章16節にあの有名な言葉があり、聖書の中の聖書と言われ、教会学校では、必ず暗記させられるみ言葉があります。 同じ3章16節ですので、ある先生がこのように覚えるように教えてくださいました。それは、ヨハネさんが16歳になりました、という風にでした。なるほど、ということで、今もしっかりとおぼえております。
さてそのヨハネ3:16は皆さんも良くご存知のみことばであります。 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」であります。 実に素晴らしい御言葉であります。今は天に召されました岳藤先生は、これに曲をつけて歌う事が出来るようにもしてくださいました。
何はともあれ、ヨハネはここで、兄弟は憎む者ではなく、愛するものである事を伝えているのであります。そういえば、箴言17:17に有名な言葉があります。 「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」 実にいい言葉であります。「兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」 今の世の中どうでしょうか。兄が妹を殺して刻んだり、子供が母親を殺したり、母親が自分の子を殺したりと、大変な時代であります。
ところで、私はよく思う言葉があるのですが、それは「初めの愛に帰れ」ということばであります。私達は、神様の怒りの中にあった者でした。その私達が、神様の不思議な恵みの選びの中で救い出し、神から生まれた者としてくださいました。こうして御言葉によって養ってくださるのも恵みであります。 これらはみんな、神様のなさる奇蹟中の奇跡と言ってもいいでしょう。滅びるべき者のために、キリストは十字架にかかり、ご自分の命を捨ててくださったのでありました。 そして、それによって私達は神様の愛を知りました。
その愛を知った私たちに神様が望んでおられることの一つは、まずは、兄弟姉妹が互いに愛し合うようにと言う事です。勿論、愛するべきはまず第一が神様である事は言うまでもありません。イエス様のおっしゃった通りであります。(マルコ12:29-31) 「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』 この二つより大事な命令は、ほかにありません。」と言われました。
イエス様が語られ、イエス様が実践されたように、私たちもまた、その行動が求められていると言えましょう。ヨハネは言います。17節、「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。」と。 この世に対して、どんなに素晴らしいイエス様の愛を語っても、それを信じている私達が、それを教会の中で表していなかったなら、また、家庭で表していなかったなら、職場でも、学校でも社会でも表していなかったなら、それは、この世に決して良い証にはならないのであります。
ヨハネがかくもこのように兄弟姉妹が愛し合うように勧めるには、それなりの理由があった事でしょう。ローマ帝国によります外部からの圧迫、攻撃、それとともに、内部からの異端者の発生。そういう中でヨハネは書いた事でしょう。 使徒であったパウロもコロサイの人にこう書いています(コロサイ3:12-14) 「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、 あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、 互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」とであります。
兄弟姉妹同士がまず愛し合う事が、どれだけ大切であるか、私たちの教会の中においても言えるのではないでしょうか。新しい方がお見えになり、もう一度あの教会に行ってみたい。もう一度あの教会で礼拝をお献げしたい、そのような感想を持ってこの教会から帰って行かれ、そしてまたこられるなら、なんという幸いな教会でありましょうか。 「神、まさに、ここにおられる」そう言える教会でありつづけたいと私は願っております。
ヨハネはきょうの聖書個所最後の18節でこう言っています。 「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」と。 すべての事を見ておられる神様のみ前に、喜ばれる礼拝が、毎週、毎週ささげられるようにと願っています。特に今日、神様をほめたたえる教会ではなく、自分達が楽しむための集まりの教会のほうが多い中で、そうではなく、主を愛する愛で満たされ、それがまた、兄弟姉妹の中で表されている教会、どこまでも神様が主体であられ、そこにまた、神の愛が満ち溢れる教会でありたいものです。
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