東京聖書教会TOP /毎月の説教

毎月の説教

[先月] [来月] [最新の説教]

2008年4月20日(日) 「真理の霊」 Tヨハネ04:01-06 竹口牧師  

きょうから4章に入る事に致します。
この世には、何でもすぐに信じる人がおられます。
幸いな人と言ったらいいのか、大変危険な人と言ったよいのか、分かりませんけれども。

また、その逆に、人の言う事にいちいち反論して、全く受け入れない、そういう人も中にはおられるのであります。実に話しにくいといいましょうか。人の揚げ足を取って、決して人の話に乗ろうとしない、そういう人もおられます。

何はともあれ、いろんな人がこの世にはおられる中で、ヨハネはきょうの所で、
「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。」と話を始めています。

実はヨハネは、これまでにも反対者について書いて来ました。
2章18節から26節においてであります。「小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。・・・」という風に書いておりました。

「・・偽り者とは、イエスがキリストである事を否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、御子を告白する者は、御父をも持っているのです。」とそのようにもそこに書いておりました。

イエスがキリストである事を否定する。
そんなのキリスト教といえるのか、そう思われるでしょうか。
でも、キリスト教の最初は、私達が現在、何の疑問も持たず、正しい教えに立って信じているのとは違って、いろんな間違った教えがあったわけでありました。キリストの教えからずれて、あるいは離れて、全く違う事を教える者が沢山出てきていたのでした。偽教師、偽伝道者、偽預言者ということになりましょうか。

そういえば、偽預言者と言いますと、何もヨハネのいた時代だけではありませんでした。旧約時代にもいたわけであります。たとえば、エレミヤはこのように神様のお言葉を書いております(エレ29:8,9)。
「まことに、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『あなた方のうちにいる預言者たちや、占い師たちにごまかされるな。あなた方が夢を見させている、あなた方の夢見る者の言う事を聞くな。なぜなら、彼らはわたしの名を使って偽りをあなたがたに預言しているのであって、わたしが彼らを遣わしたのではないからだ。――主の御告げ。――」
というように神様の遣わされない偽の預言者、それが、エレミヤの活躍した紀元前500年、600年にもいました。

勿論、それ以前にもいましたし、そしてそれ以後もいたのでした。
つまり、今の時代でも偽者がいると言う事が言えるのでありますが、ただ、この今、見ようとしていますヨハネの時代と言いますのは、イエス様がこの地上に来られ、昇天なさり、弟子達が各地で活躍し、中には殉教した者もいた。そしてもしかしましたら、ヨハネは一番長生きしたのではないか、そのように思えるのですが、
紀元80年後半から90年代初め頃に書いたであろうこの手紙の頃と言いますのは、沢山の偽教師、偽預言者、反キリストが現れたようであります。

パウロが書きました色々な手紙を読みましても、その事が十分に伺えるのであります。
そこで、ヨハネがこの手紙を書くに至ったと言う事でありましょう。

こんにちでも、教会はあちこちにあります。
特に、地方に比べたなら、この都心には、数多くの教会があるのであります。
その教会が全部、聖書の教えに立っているかと言いますと現実はそうではないので、気をつけなくてはいけませんし、恐ろしい事なのであります。
建物とか、人の親切さとか、見かけだけで信用してはならないのです。
それこそ、ヨハネが1節で言っていますように、一人ひとりが試してみるべきなのであります。先ほども引用しましたが、ヨハネはすでに2:18のところで、こう書いていました。

「小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。」と。一見して霊的に見える人であっても、大切な点で間違っているなら、大変怖いのであります。

では、その大切な点とは何でしょうか。見分ける方法があるのでしょうか。2節にはっきりと書いてあります。「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。」と。
ということは、それを否定する者がいると言う事ではないでしょうか。
人となって来たイエス・キリストを告白しないものがいるという事。
私達の教会では当然の事のように信じている事が、信じられていない、いいえ、告白しないものがいるというのです。

私達は、イエスはキリストである、メシア、油注がれた方である、そう、告白しています。しかし、そう告白しない者、集まりがこの世にはあると言うのです。
勿論、私達は、形式的に、機械的に、「イエスはキリストです」と言っている訳ではありません。聖書を通して、聖霊の導きによってそう確信させていただき、告白しているのであります。

パウロはTコリント12:3でこう言っています。
「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。
神の御霊によって語る者はだれも『イエスはのろわれよ。』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。」とです。

言葉にする事、話す事の出来る人なら、誰でも、「イエスは主です」と言う事は出来るでしょう。しかし、信じていない人の言葉は、本当の意味での告白ではないわけであります。
そのような告白は、何回、何十回、何百回言っても意味がありません。
本当に心に信じての告白に意味があるのであり、またそのように聖霊によって導かれた人しか真実には言えないのです。ヨハネは3節でこう言います。

「イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」と。

ヨハネが、なぜ、この様な事を言うに至ったのかと言いますと、その当時、こういう考えがはびこっていたからであります。「人間イエスは、他の人よりも善良で賢いだけだった。
人間イエスがバプテスマを受けたとき、神的キリストがイエスの上に下り、そして十字架の直前にイエスから離れた。その結果、人間イエスだけが十字架の苦しみを受けた。
神の子キリストは、人でなく人のように見えただけである。」と。

このように考える事によって、神の御子は死んだ、殺されたという事を認めないのです。彼らは、その殺されたイエスが、甦られたという驚くべき事実とセットにしようとはしないのです。神様にしか出来ない業を一緒に信じようとしないのです。
或はまた、グノーシス派のように、物質や肉体を悪とし、従ってキリストは肉体を取らなかった、悪である肉の身体をもつはずがないと考えるのです。そして、自分達の知恵に勝る神様のお働きを認めないのです。私達は、そういうことにだまされてはいけません。

イエス・キリストは、真の人であり、真の神であったのです。そして、十字架において、私達の罪のために、神の御子が贖いの死を遂げられたのでした。

ヨハネは言います。
「霊だからといってみな信じてはいけません。」と。
そして見分ける方法と言いますのは、「人となって来たイエス・キリストを告白する霊」、これが、神からのものですというのです。

どうかみなさん、この世にキリスト教を名乗る宗団が多くありますが、本物か偽者か、よく気をつけて聞いてください。ヨハネが指摘していますように、聖書の教えに反する事を言っているなら、それは間違いなく、神からの霊ではありません。そしてそのヨハネの指摘が、実に今の時代にも通用するだけに、私達は特に警戒しなければならないのです。そういう恐ろしい現実に生きています。

ところで、ヨハネは4-6節でもう一つの見分け方を言います。
それは、何に耳を傾け、何に聞いているか、それによって分かると言います。
ヨハネは4節でもうすでに勝利宣言をしております。「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、
この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。」と。

どうしてそのような事がいえるのでしょうか。ヨハネは言います。5節
「彼らはこの世の者です。ですから、この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾けます」と。真のキリスト者は、本当に少なく、この世の者が圧倒的に多い、多数派を占める人たちの声が大きい中で、また、声が大きければ大きいほど真理のように聞こえてくる。そういう中で、ヨハネが言うようにキリスト者が「勝利者」だと果たして言えるのでしょうか。少なくとも、人数においては負けております。この世の力においても負けております。

一方、この世の人達は、常に競争をしております。
自己の高揚、適者生存、弱者は滅びていく。そう考えているこの世の原理に、キリストの愛の原理、神の捨て身の原理、命をかけた救いの原理がこの世に理解されるのでしょうか。

この世の考えで言いますと、死んだらおしまいであり、物質が第一であり、お金だけが頼りである、そう思っているのです。
そのような中で、果たして永遠の光の世界を信じている私達の人生が理解されるのでしょうか。神の子でない「この世の者は、この世の言葉を語り、この世もまた彼らの言う事に耳を傾けます。」とヨハネの言う5節の通りではないでしょうか。

従って彼らは、人生において最も価値がある、見えざる命があることに気付きません。
理解できないのです。この世の人は聞きたいことだけを聞くのです。心地のよい言葉を好むのです。従って、キリストの言葉には耳をふさぎます。
一方、私達は神から出た者であり、神を知っている者でありますから、神からの言葉に耳を傾けるのであります。しかし、これは、神様の素晴らしいお働きであった事は、言うまでもありません。

エペソ2章1-8節にこう書いてあります。(P.342/374)
「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、他の人達と同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、
ともに天の所にすわらせてくださいました。
それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」
以上です。

恵みによって神から出た者とされた私達信仰者は、イエスを主と告白し、神はイエスを死者の中から甦らせて下さった、そう信じさせていただいているのであります。それを自分から得ようとしたのでもなく、自分で得たのでもなく、ただ恵みによって得させてくださったのでした。その私達は、この世の人たちが私達の言う事に耳をふさぐように、私たちもまた、この世のものに惹かれることなく、耳をふさぎ、真理の霊と偽りの霊とをはっきりと見分け、神から出た者としての歩みをこれからもさせていただきたいものです。

神から出た者と、この世から出た者とが、何時の時代でも交じり合っていて、気をつけないと、この世のものに引き込まれてしまいます。朱に交われば赤くなると言う言葉がありますが、少なからぬこの世の影響を受けやすい環境に置かれているのですから、そのことに注意しながら歩みたいものです。

キリスト教は、愛を大切にします。その愛は、神の愛から出てきています。父なる神様が、ご自分の御子を惜しまずこの世にお送りくださり、あの十字架にかけて殺してまで、この私を愛してくださった、みなさんを愛してくださった、キリスト者一人ひとりを愛してくださった。その愛から来ています。

しかし、この世の愛は、同情の愛であったり、道徳的な愛であったり、受けた恩に報いる愛であったりといったような、正にこの世の人間的な愛なのです。
本物と偽者、神からの霊とそうではない霊、神の子達とこの世の者達との違い、真理の霊と偽りの霊、相(あい)対立するものであり、はっきりと違っていのです。

一見似ているようで、実は全く違う恐ろしいものである事を、私たちキリスト者は神様の下さった聖書を正しく読んで、聖霊の導きによって判別し、正しい信仰生活をこれからも送らせていただこうではありませんか。

[先月] [来月] [最新の説教]

 東京聖書教会TOP /毎月の説教