2008年6月1日(日) 「この愛に生きる」 Tヨハネ4:7-10 竹口牧師
先回は、真理の霊と偽りの霊との見分け方をみました。 人となって来られたイエス・キリストを告白する者が神から生まれた者であり、また神から出た者であるなら、神の子供であり、偽預言者達に対して力があり、勝利者であると、そのようにヨハネは書いていました。 あるいはまた、本物と偽ものとの違いは、神から出た者は、神の言葉に耳を傾けるけれども、そうでない者は、耳を貸さないということでした。
さて、では、神から出た者である私達は、あるいは神の子とされた者である私達は、それに相応しい歩みをしているのでしょうか。どうあるべきなのでしょうか。それをヨハネが兄弟同士との関係において書いて勧めている所がきょうの個所であります。
ヨハネはまず7節、8節でこう勧めています。 「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」と。
ヨハネはここで「私達は、互いに愛し合いましょう」と言っています。たったこの2節のところに「愛」という言葉が6回も出てきます。それだけ「愛」という事を言われているのですから大切なのですが、では、この「愛」は、何を指して言っているのでしょうか。よく読んでみますと分かってきます。
まず出所がどこであるかと言いますと、神であるという事であります。 神から愛が出てきて、それが兄弟姉妹の中に入り、それがやがて、あふれて外に出ていく。だから、愛のない者には神はわかりません、とヨハネは言います。
私達が互いに愛し合うその愛は、愛である神から出ている。 ですから、神の子とされている私たちの歩みは、その神様の愛から出たものであり、互いに愛し合うというのは当然な流れだといっていいでしょう。神様から愛が出て、私たちキリスト者を満たし、それが、兄弟姉妹へ、更に周りの人へと広がっていくものなのです。
ところで、その神様から発している愛が、どういうわけか、この世では誤解されている面がありますので、それをまず解いておきたいのであります。 二つの点を今回取り上げておく事に致します。 そのまず一つは、神様は愛なるお方であるという事の意味であります。
皆さんはこんな事を耳にされる事はないでしょうか。 愛なる神様がなぜ、この世の中に戦争が起きることを許しておられるのですかとか、 愛なる神様がなぜ、あのような人を生かしておられるのですかとか、 愛なる神様がどうしてあのようなむごい事をされるのですかと、 などなどというようなことであります。
イエス・キリストの福音を伝えようとしますと、まず、そのような事をよく私は耳にするのであります。こういうような考えの根底には、神様が愛なら、どうしてそのような事を赦しておられるのか。戦争があったり、事件に遭って優しい親切な人が殺されたり、あるいは地震、台風、洪水などの災害などなど、そのような事が起きないようにされるのが愛ではありませんか。そういう考えが根本にあります。
そこには、人間には全く落ち度はないとか、否、少なくともあの人には、あのような酷い目に遭うに値するような事は何もしていない、という思いがあります。 神様が愛であるなら、もっと平和に人が住めるようにすべきではありませんか、 そのように考えられ、また言われるのです。 いわば人間の側の罪については全く目をつむったままで、神様を攻撃するのであります。
もっとも、神様といっても、イエス・キリストをこの世にお送りくださった神様を指して言っているのではなく、キリスト教もイスラム教もユダヤ教も神道も仏教もヒンズー教も・・といいますか、宗教全体を指して神様といっている場合がおおいかもしれません。
いずれにしましても、何らかの形で神様なる者がおられるなら、この世の中をもっとよくどうして出来ないのかという考えです。そこで、ここにおられる皆さんにも考えていただきたいのです。
では、神様に文句を言えるほど、人間であるあなたは正しいのですか。 あなたには、何の悪い所もないのでしょうか、とであります。 人間の罪がさまざまな問題を引き起こしているのではないでしょうか。 そのように逆に私は問い掛けるのであります。 きちんと自分の姿を見る事のできる人は、どんなに人間が不完全であるか、罪人であるか、神様のみ前に恥じるべき存在であるかが分かる人もおられますが、大抵は開き直りであります。
「不完全なのは私一人じゃあないですよ。 そんな事を言ったら、全世界みんなですよ」と言われるのです。
「そうです。この世界に住んでいるみんな罪びとですよ」と、そう申し上げるのです。
神様が創造者であられ、人はその創造者の被造物であり、神様の作品であります。 そしてよい歩みをするように造られたのに、人はそのようには行動できないのであります。最初の人間、アダムとエバが造られ、罪を犯して以来であります。
でもある人は神様と人間との間の愛のことをこういうそうです。 「人の愛は神ご自身の反映である」とであります。 確かに、神様に似せて造られた人間は、神様のその愛の片鱗を表すことができるのです。だから、少しくらいの善い事は、人にはできるのです。でも、人は決して神ではありません。所詮、罪人の頭(かしら)なのです。その事を決して忘れてはいけません。
もう一つ勘違いしやすいのは、「神は愛だからです」とありますので、 逆に、愛イコール神という風に捉える方がおられる点です。 つまり、神様を被人格的なお方と考えているのです。
確かに神は愛なるお方であり、さまざまな行いが、その愛から出ていることは確かです。しかし、だから、その逆の愛は神かと言われれば、それは成り立たないのであります。善い事をする人、親切な人、とても人に好かれている人を見て、あの人は本当に神さまのような人だ、などと聞くことがあります。
まあ、その場合、「・・のような人」といって、神さまとは言っておられないのでまだいいのですが、場合によっては、神として神聖視する人もおられますので、そういう場合は、大変危険なのであります。真の神様は愛なるお方でありますが、決してその逆は言えません。愛は神ではないのです。愛イコール神ではないのです。この点もおさえておかなくてはなりません。
さて、愛について誤解を2つ取り上げました。 人間の罪を考えに入れずして、こんにちの世界を云々する事は正しくない。 もう一つは、神は愛なるお方であっても、愛は神ではないということでありました。 その点を考えた上で、では、神の愛とは一体どういうものなのか、これを考えてみたいのです。
ヨハネは9節でこう書いています。 「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」と。
神様の人間に対する大きな愛の表現であります。 真の神様は、ご自分が天の王座にデンと腰を据えられて、地上にいる私たちに向かって、私はあなたを愛しているよ、と呼びかけるお方ではありません。 何をしているんだ、こうこうしないさいとばかりに天から叱り飛ばし、指示ばかりをするお方でもありません。真の神様は行動されるお方なのです。
神様は旧約時代には、預言者をお遣わしになり、人に語り掛けられました。 神の人を通して語りかけられたのでした。そして新約時代に入って、9節にありますように、「神はそのひとり子を世に遣わし」て下さったのでした。ひとり子とは、勿論、イエス・キリストのことであります。
ですから、ある人は、真の神様のことを、「行動される神」、そのように言う方もおられます。神様自ら行動され、御子をこの世に遣わされたのでした。そして、それが何を意味しているか、キリスト者である皆さんはもうよくご存知でありましょう。
遣わされたイエス・キリストによって、私達が命を得るような事をして下さったのでした。私達のために、御子の身代わりの死というお働きでありました。イエス様は十字架にかかる時が近づき、こう言われました。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」と。
イエス様が身をもって、私達にその神の愛を示して下さったのでした。イエス様の十字架の死によって、私達にもたらされるものが如何に大きいか、それは、恵みに与かったものにしか分からないことであります。
神の一人子の死によって、私達は養子縁組のように、神の子らとして神とキリストとの交わりのうちに入れて下さるという、驚くべき特権を頂いたのでありました。私達は、イエス様がこの地上に来られなければ、罪の中に死んでいたものだったのですが、イエス様がこの地上に来てくださり、イエス様のお働きによって私達は命ある者とされたのでした。
いわば、神の愛がその事を通してあらわされたのでした。 このことを知らされたのは、勿論、イエス様の十字架の後でありました。 ヨハネが、イエス様の十字架の事を書いているこの時点で、この手紙を読む人達はみな、ヨハネの10節の言葉は真実であると告白できるのであります。 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」との言葉であります。
ここに書いてあります「愛」の順番というものは非常に大切であります。 私達が神様を愛したからではなく、神様のほうが先に私たちを愛し、私達の供え物としての御子をお遣わしになったのでした。神様の御性質がここに現れているのであります。
この順番をもう少し、具体的に見るとしますと、 神様が愛なるお方であるというしるしは、この世にいっぱいあります。 さまざまなものを造られ、周りを整えてくださった後に、最後に人間を造られました。 人間には、何不自由のない生活が約束されていました。 世界を治めるように、その知恵も力も、必要な全てのものが与えられていました。 こんにちの私達の歩みを考えてもそうではないでしょうか。
真の神様を神様とも思わず、自分の力で生きているかのように思い込んでいた私たち。 神などいるものかと高慢になっていた私たち。 そんな者にでも、食べる物、着る物、住む所、働く所、家庭、友達、ありとあらゆるものを周りに備え与えて下さっていたのでした。
創造者を覚えず、むしろ創造者の最も嫌われる偶像礼拝さえ、行なっていた時の私たちでさえ、怒って殺すことなく、生かして恵んでくださっていたのでした。何という広い、深い、大きな愛に包まれていたことでしょうか。
なぜ神様はそこまで、私たち罪人を赦し、恵みを与え、祝福を与えてくださっていたのでしょうか。その理由を問うなら、その答えは分かりません。神は愛なるお方だからである、それに尽きるといえましょう。
私達は、神様のその愛を後から知らされたのでした。そして、涙を流したのでした。 罪人を罪のままの状態で愛し続け、神様の御許に帰ってくることを求めておられたのでした。いわば、放蕩息子みたいなものであります。
肉親の親から愛されていなかったわけではない。肉親の兄弟から愛されなかったわけでもない。友達から愛されなかったわけではない。自分の周りには、好きな友達はいた。 話し相手もいる。しかし、何か足りないものがある、その事に私達は気づかされたのではないでしょうか。
それが、神の愛であったわけでありました。そして、それを知らされたのでした。 親、兄弟、友人、知人、親戚、あらゆる人間関係から来る愛以上のもの、それよりももっともっと大きな愛があった。それが、御子をこの世に遣わされた父なる神の愛であったわけでした。
罪人の私のようなもののためにでも、私を救うためにイエス様は、十字架で命を落としてくださっていた。滅びの道から永遠の命に至る道に入れるために、すでに、事を行なってくださっていた。その事を知らされたのでした。何という大きな愛でありましょうか。
私は今でも忘れません。学生時代の2年の夏。イエス様が、私の心のうちに入ってくださったことを。あの時、全ての不安から、心配から開放された事を。
勿論、こんにちに至るまで何の心配もなくなり、常に平穏無事であったかと言いますと、決してそうではありませんでしたけれども。さまざまな試練に遭遇いたしました。 さまざまな人生の選択に迫られました。もう私の信仰は駄目ではないかと落ち込んだ時もありました。あの初めの喜びに戻ろうと切に祈った事もありました。 神様との関係を正しい関係に取り戻そうともがいた事もありました。
しかし、結局のところ、ヨハネが、「ここに愛があるのです」という、その場所に戻るまでは、平安を取り戻す事は出来ませんでした。「ここに愛がある」という「ここ」とは一体どこでしょうか。
それは、私達の罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされた、この事実のあるところであります。この消す事のできない歴史的事実であります。十字架にかかって身代わりの死を遂げられたという事実であります。一人の死をもって、信じる全ての者に命を与えて下さった、この聖書が語っているその事実であります。 そこに神の愛があるのであります。
私達が神を愛したからではなく、神様の方から一方的に愛してくださり、救いの道を開いてくださった。そして義と認めてくださった。私は、この真理を自分で悟ったのではありませんでした。神様が教えてくださったのでした。そしてその神様の愛に触れたのでした。そして、その神様の愛に生きるように決心させてくださったのでした。 なんという恵みでしょうか。
今も、その愛に生きることの幸いを味わっております。 パウロという人はこう言いました(ピリピ1:21)。 「私にとっては、生きる事はキリスト、死ぬ事もまた益です」と。 そして私もそう告白したいのです。 「私にとっては、生きる事はキリスト、死ぬ事もまた益です」と。
私が愛する前に愛しておられた神様の愛に、 これからも生きていきたいとそう私は願っています。 信仰者の皆さんもまた、もう一度はじめの愛を思い出し、そして、今も変わらずに神様に愛されている事を確認し、イエス様の歩まれた道を、歩ませていただこうではありませんか。
2008年6月29日(日) 「神、我がうちにあり」 Tヨハネ4:11-16 竹口牧師
この世には神様がおられるという。しかし、その神様を肉眼で見る事は出来ない。 それ故に、見えないものは信じないと言う人も出てくる。しかし、そうはいうものの、困った時にはどうしても、神様にご登場願わなくてはならない。いわゆる困った時の神だのみであります。勿論、真の神様は人間の召使のようなお方ではありませんので、願いを聞いてくださる事もありましょうが、神の御心がなされるのであります。
あるいはまた、この世には愛が存在する。 しかし、これもまた肉の目には見る事が出来ないものであります。 ですから、この世に愛などあるものか。みんな「私利私欲」で生きているのであって、「弱肉強食」の世界がこの世だよ、と言い切る人がいます。しかし、又その一方で、心のどこかで愛されたい、また愛して欲しいという愛を求めて心がうずいているのです。これがまた、愛の乏しくなったこの世の現実であります。
神様は見えなくても、困った時には助けを求め、愛は見えなくても、人はその愛を求め、捜すのであります。人とは、なんという不思議な生きものでありましょうか。或は自分勝手なものでありましょうか。
かつて私は「愛」といえば、男女間の愛、肉的な愛しか考えた事はありませんでした。しかし、学生の時に、あるセミナーに参加して、いろいろな愛があることに気付かされました。例えば親子の愛、兄弟の愛、友人との間の愛、友情とかなどなど。そして、その時に神の愛ということを知ったのでした。そんな具合ですから、神の存在も知りませんでした。
しかし、そんな私が、神様の存在を知らされ、また神様の愛というものの存在を知った時、大きく目が開かれたのでありました。そしてその時の事は、何時までも忘れる事が出来ません。見えない神が見えるようになった。見えない愛が見えるようになった。それは、直接肉の目で触れたわけではありませんが、神様は、信仰によって私に見えるようにしてくださいました。
キリスト信仰者である皆さんも、私と全く同じではなくても、真の神の存在、真の神様の愛を生まれてから後に知らされたと言っていいでしょう。きょうは、そのような私達が、どのような歩みをすべきかをヨハネが命じているところであります。
前回見ました7節では、「私達は互いに愛し合いましょう」と勧めていましたけれども、 きょうのところでは、ヨハネは、早速11節の所で「私たちもまた互いに愛し合うべきです」と今度は厳しく命じているのであります。お勧めではありません。愛し合うべきだと断言しているのであります。勿論、命じ、断言するにはそれだけの理由というものがあるはずであります。それが、前回見たところに書いてありました。
9節「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」とであります。 神様が、ご自分のひとり子、御子イエス・キリストをこの世に遣わし、私達の罪のために、なだめの供え物として、十字架におかけになったのでした。 そこに神様の愛が示されておりました。本来なら罪人の私達が滅びるべきでありました。
永遠の滅びへと行くべきでありました。しかし御子イエス・キリストが、その身代わりとなられたのでした。父なる神のご計画、そして実行、そこに、神のなみなみならぬ愛が、私達に示されたのでした。
だから、ヨハネはいうのであります。11節「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛して下さったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」とであります。神様の愛を見た私達は、その愛を受けているのですから、今度はその愛を兄弟姉妹に向けるべきだとヨハネは言うのです。
ヨハネはこれまでにも兄弟を愛する事の大切さ、また、具体的に愛しなさいと勧めてきました。2章9-11節で「光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。」と言っていましたし、
或は3章では15-16節でこうも言っていました。 「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、 永遠のいのちがとどまっていることはないのです。キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」と、兄弟のためにキリストがなさったように、命を捨てるべきだと迫っていました。
次回見ることになります20節でも、兄弟を愛する事の大切さを、主にあって命じているのであります。私達キリスト者同士は、肉による血のつながりはありませんが、キリストにあって、神の子とされ、兄弟姉妹とされました。私達は、沢山の人の中から神様によって選ばれ、恵みのうちに神の子とされ、お互いが兄弟姉妹と呼ぶ者とされ、そして、さまざまな特権に与かるものとされたのでした。何という素晴らしい恵みを受けていることでしょうか。
この日本においては、まだまだ少数派のキリスト者同士が、互いに愛し合う事なしに、この世によき証しはできません。また、神の愛に満たされているなら、兄弟姉妹に対する対応も違ってくるはずでありましょうが、現実はなかなか難しいものがあります。 だからこそ、ヨハネが手紙で書かなければならなかったともいえましょう。 教会の中が、愛なく混乱した状態ですと、結局のところ、あれは、頭だけの信仰だなどと言われかねません。西洋の宗教で、神の愛だのなんだのと言うけれども、結局はこの世の集まりと同じではないか、そう言われるようであってはならないと思うのです。
そうではなく、まさにここにこそ、この集まりの中にこそ、真の神様がおられる。 私もその仲間に入ってみたい。私も神様を信じてお従いしたい、そういう集まりでありたいと、このヨハネの手紙を読みながら、考えさせられるのであります。
かつてボアネルゲ、雷の子といわれたヨハネ(マルコ3:17)、それほど気性が激しかったヨハネでありましょうが、しかし、そのヨハネが、懇々と愛について語っているのであります。多分、イエス様と共に生活をしながら、だんだんに変えられていったに違いないのであります。そして、兄弟姉妹が、互いに愛し合う事の大切さを、神様に示され、この手紙を書いていったに違いないのであります。
ところで、きょうの12節の所でヨハネはこう言います。「いまだかつて、だれも神を見た者はありません」とです。そしてヨハネは、彼が書いた福音書の中で、こうも言っていました。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を解き明かされたのである」(ヨハネ1:18)とであります。
或は、こうもヨハネは書いております。かつてイエス様は、十二弟子の一人であるピリポに向かってこう言われました(ヨハネ14:9)。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたと一緒にいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは『私達に父を見せて下さい。』と言うのですか」とでありました。
「いまだかつて、誰も神を見た者はいない。」けれども、イエス・キリストを見た者は、父を見たのです。そう、イエス様はおっしゃいました。
ところが、残念ながらそのイエス様を、現在の私達は、肉の目で見ることは出来ないのであります。しかしながら、肉の目では見ることは出来ませんが、霊の目ではそうではありません。13節で、ヨハネはこう書いております。「神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。」
目には見えませんけれども、聖霊なる神様のお働きによって、私たち一人一人が、御言葉を通して働いてくださる聖霊によって、神様が自分の内側で働いてくださっていることが分かるのであります。私たちキリスト者はなんと言う幸いでしょうか。
私たちキリスト者はみんな、イエス様を神の御子と告白し、その方が、あの十字架にかかってくださり、身代わりの死を遂げてくださったと信じ、確信しているのです。それは神様が、そう信じさせてくださったからでした。なんという恵みでしょうか。
パウロはTコリント12:3で、 「聖霊によるのでなければ、誰も『イエスは主です』とはいわず」と言っている通りであります。あるいはまた、マタイは16章において、イエス様が弟子達に、「あなたはわたしを誰だと言いますか」と言われた時、ペテロが「あなたは生ける神の御子キリストです」と答え、それに対するイエス様のお言葉が、「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。 このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」と答えられました。
まことに、本当の神様を神様と認めるようにして下さったのは、私達の知恵や能力や教育や環境や、その他、人間の側の何ものも助けにはなっていないのであります。御霊のお働きによったのでした。父なる神様が、私達の心を変えてくださり、御霊を与えてくださり、イエス・キリストに対する信仰を与えてくださったのでした。
わたしたちのうちに働いて、信仰の目を開いてくださり、イエス・キリストにおいて、神を信じさせ、信仰を告白させてくださった聖霊なる神様。そのお方は、私たちのうちに働いて、その聖霊の実も結ばせてくださるようになったのでした。その聖霊の実とは、ガラテヤ5:22-23節にありますように「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」です。つまり、愛も御霊の実なのです。
御霊のお働きによって愛が与えられ、兄弟姉妹を愛する愛も与えられ、実を結ぶのであります。ですから、その御霊のお働きに私達は期待し、自分のうちで働いてくださるよう願おうではありませんか。
ところで、13節から16節までを注意深く読んでいただきますと分かるのですが、実は繰り返し、繰り返しかかれている言葉があるのであります。それは、「私達が神のうちにおり、神も私達のうちにおられる」という言葉であります。
13節、15節、16節にもあるのであります。 それは、神様と私達との関係が密接な「交わり」の中にあること指しているのであります。そして、そのための条件として、「イエスを神の御子と告白するなら」(15)であり、もう1つは「愛のうちにいる」(16)ことであります。この二つが必要なのであります。
信仰告白と愛とは密接な関係にあります。 「人となって来られたイエス・キリストを告白する」(2)には、「神が私たちを愛し」て「御子を遣わされ」(10)たことを「知り、また信じて」(16)いることにほかなりません。15節にこうあります。「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。」とです。
これは神との一致、或は神との一体性を言っているようであります。これは、人間の理性や力を超えたものであり、このような神との交わりを理解させるものは御霊のお働き以外にありませんので、13節において「神は私たちに御霊を与えて下さいました」(13a)とヨハネはいうのであります。
私達の肉の目には見えない神様が、これまた目には見えない聖霊なる神様によって教えて下さったのでした。ヨハネが繰り返し何度も、兄弟を愛するように勧め、またそのためには、信仰者は、神様のみ前に、どのように変えられているのかを、確認しているところであります。
御霊のお働きによって、イエス・キリストこそ、世の救い主として御父が遣わされ、私の救いのために贖いの業をして下さったと告白できるようにして下さった。その恵みに入れられた者は、神もその人のうちにおられます、そう宣言しているヨハネの言葉はなんと素晴らしい事でしょうか。
神の子とされている事を感謝しつつ、どんなに今の自分が心貧しい者でも、 神が我がうちに住んでおられる事を重く受け止め、神様の喜ばれる道にいそしもうではありませんか。
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