2008年7月13日(日) 「兄弟を愛する」 Tヨハネ4:17-21 竹口牧師
人は誰でも、生まれた時から、真の神様を信じ、イエス・キリストこそ、私の唯一の救い主です、と告白できる人はいません。生まれた時はみな罪人であり、神様に喜ばれない事ばかりをする人間であります。ある人は、クリスチャン家庭に生まれますけれども、それでも、自分が生まれながらに罪人であり、イエス様に救って頂かなければ、決して天国にはいけないことを御言葉を通して教えられ、そして信仰へと導かれていくのであります。
まして、真の神様の存在さえ教えられず育った者は、神様が何を自分に求めておられるかを知る由もありません。ですから自分勝手な道を歩んでいて、殆どの人は、真の神様に出会わせていただいたのであります。そして、神様に自分は愛されているのだと言う事を知らされ、その愛の道を歩む者がどんなに幸いであるか御言葉によって示され、神様のお働きによって、その道を歩む者とされるのであります。
クリスチャン家庭に生まれようが、そうではなかろうが、真の悔い改めを経験した者だけが、キリスト者の一員として、兄弟姉妹として、キリストの交わりの中に入れられるのであります。
愛なる神様は、その愛を具体的な形で私たちに示してくださいました。それはご自分のひとり子を世に遣わし、私たちの罪のために、なだめの供え物として備え、そして、十字架の上で、私達の罪を贖って下さった事でした。そして、そこには神様の大きな愛があらわされていました。
この世では、愛とは人間同士の、あるいは男女間の肉体的な愛が強調されております。あるいはまた、いろんな愛の形が文学などで表現されていますが、神のお言葉である聖書の言う愛は、それとは全く違う、この世で多くの人が言っている愛とは全く違う神の愛であります。
本来なら、罪人である私たちにか降されるはずの神の怒り、その怒りをなだめるために、あえてご自分のひとり子、即ち、御子イエス・キリストをなだめの供え物として遣わされました。そして「罪過と罪との中に死んでいた」(エペ2:1)私たちにいのちを得させてくださったのでありました。
ですから、「ここに愛があるのです」とヨハネは言うのであります。この神様の愛は、この世のどんな愛にも比べられない、素晴らしい、そして大きな、更には、神様の深いお計らいがあるのであります。
先回見ました最後のところでヨハネは、「愛のうちにいる者は神のうちにおり、 神もその人のうちにおられます。」と、犠牲を払ってくださった神がその人の内におられることを述べておりました。そしてきょうの17節で、「このことによって、愛が私達においても完全なものとなりました」というのであります。
では、それが一体今生きている私達とどう言う係わり合いがあるのか、という事になって来ないでしょうか。それに対してヨハネは言うのであります。「それは私達が、審きの日にも大胆さを持つ事ができるためです」と。
審きの日、それは、クリスチャンもクリスチャンで無い人も、人は皆、神様のみ前に出て審きを受ける、その日の事を指しているわけです。その審きの日に「神もその人のうちにおられるなら、大胆さを持つ事ができる」というのであります。
キリストは、この地上に来てくださり、命を捨てて、その愛を示してくださいました。その愛のうちにいる者は、恐れる事はないというのです。なぜなら、私達キリスト信仰者も、そのキリストの愛を持って生きるからです。しかし、そのキリストの愛が本物かどうか試されます。
何をもってでしょうか。ヨハネが言うには、恐れがあるかどうかであります。18節で「愛には恐れがありません」というのであります。「全き愛は恐れを締め出します」とも言います。
では、その恐れというのは何でしょうか。それは「刑罰が伴っている」事だと言います。しかし、全き愛には、その恐れ、刑罰の恐れがないというのです。なぜなら、私達は、神様が与えて下さったキリストの愛、御子を惜しまず与えて下さった愛によって罪が贖われ、しかも、ローマ8:1によりますと、「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められる事は決してありません」とあるからです。
パウロはローマ5:8で、こうも言っているのであります。 「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」とであります。神の怒りから救われているのです。
しかしここでまた問題になってきますのは、「全き愛は恐れを締め出します」とありますが、この「全き愛」というのは、私達のうちに、私達が互いに愛し合うという神の愛の結果を生じている時に、それが、全き愛、と呼ばれるものです。愛とは、いうまでもなく神が御子を通して私達に注いで下さる愛です。その神様の愛は、神の子である私達が、互いに愛し合う事において具体的に実現され、成就されなければならない愛です。
神様の愛を受けた私達は、それが私達のうちに働いて泉となって流れ出し、周りの人に与えていくものである事を覚えたいのであります。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」とありますが、その逆を言いますと、「愛には恐れがある。不完全な愛は、恐れを締め出さない」ということになります。
神様の愛は完全であります。しかし、その完全な愛を受けた私達は、私達の愛が不完全ゆえに苦しむのであります。具体的に、互いに愛し合う事で、実現していかなければなりません。そして完全にしていかなければなりません。もし、私達がなお神のみ前に立つこと、神の審きの前に立つことを恐れる、そのような恐れが私達のうちにあるなら、それは、私達が互いに愛し合う事において欠けているからであります。そのことによって、私達の罪を取り除き、御子イエス・キリストによって頂いた愛、喜び、平安を曇らせているといえましょう。
「恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」とある通りであります。私達の愛の動機はどこから来ているかを19節では述べています。「私達は愛しています」なぜなら「まず神が私達を愛してくださったからです」と。
まず、私達は神様の愛を常に確認しなければなりません。私達の愛はどこから来ているのか、です。そして、その愛に満たされて、愛のあふれ出る心で兄弟姉妹と接する必要があるでしょう。愛さなければならない。愛さねばならないと、しなければならない、とかねばならないが先行する時に、そこには苦痛や、恐れが伴ない、平安であるはずのものが、そうではなくなるのです。義務ではなく、義理ではなく、命令ではなく、神に愛されたその愛から溢れ出なければなりません。
でも、ヨハネは20節で強烈な言葉を書いていますし、21節では、「この命令をキリストから受けています」と、命令という言葉をはっきりと述べているのであります。20節でまず「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。」これは、実に強烈であります。
しかし、これ以前にももっと強烈な言葉をヨハネは書いていました。それは、3章15節であります。「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。」と。
愛する兄弟姉妹を、人殺し扱いしているのであります。こうしてみますと、兄弟姉妹お互いが愛しあうということが、どんなに大切であるか、そしてその逆に愛せないという事はどんなに大きな罪であるか、教えられるのであります。好き嫌いの問題ではなく、出来るか出来ないの問題ではなく、馬が合う合わないの問題ではなく、兄弟姉妹が愛し合うという事は、神様からの絶対命令と言っても言い過ぎではない。神様の厳しい命令なのであります。
パウロの書いたローマ人への手紙を先ほども引用しましたが、彼は5:8―10で、こう書いているのであります。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私達が、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」
そこには、「しかし私たちがまだ罪人であったとき」とか、「もし敵であった私達が、」というように、全く神様から私達は離れた存在でありました。そんな私達のために神様の方からまず、愛してくださったのでした。この驚くべき愛が私達に注がれているのであります。そしてその敵に対する愛が、わたしたちのうちにも働いて、互いに愛し合う兄弟姉妹とされたのでありました。
神が私達に示して下さった愛、実際に起こしてくださった愛の行動が、私達のうちに住んでくださる聖霊様のお働きによって、私達の内側からほとばしり出てくるというのが愛であります。その愛から出てくるのでなければ、つまり、人間的な愛であるなら、必ず行き詰まるのであります。
神の愛、キリストの愛、それはこの世の愛、人間的な愛ではないのです。口先だけの愛ではないのであります。偽善的な愛ではないのです。ヨハネは20節でこう言います。 「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるならその人は偽り者です。 目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」と。
言われみればそうです。 目に見える兄弟姉妹。神様の愛しておられるその兄弟を愛せずして、目に見えない神様を愛するなど至難の業であります。雲を掴むような話であります。でも、自分の思うように、考えるように相手は動かない、しない、考えてもくれない、中々そのような相手を赦し愛せるかと言いますと、どうも、難しい。
しかし、そこで終わってはいけないとヨハネは言うのであります。これは、神の命令なんだというのであります。軍隊は、上官に対しては、絶対的服従であります。どんなに理不尽な命令であったとしても従う事が求められています。ですから、人間の世界では、それを利用して、昔も今も、いじめがなされていると聞いております。
でも、神様の命令は、そんな理不尽な命令でありましょうか。神様の命令に従う事によって、誰かが不幸になる。痛い目にあう、酷い目に合う、苦しい目にあうのでしょうか。
では、もう一度ここで、私達は神の愛というものを、真剣に考えてみようではありませんか。神様に対して敵であった私達が、その神様から無償で愛を頂いたのでした。神様のほうが大きな犠牲を払ってくださっていたのでした。その犠牲は、御子のいのちがかかっていたのでした。その事を知らされ、その御子の犠牲によって、神様との和解が成立したのでした。いわば、上位が下位に対してなされたわざなのであります。神様のほうから私達は神の子としていただいたのでした、
それなのに、その神の子とされた私達が、罪赦された私達信仰者である兄弟姉妹との間に、愛がなく、冷淡で無関心で、それどころか憎しみなどが存在するとするなら、私たちの教会は、神を中心とした生ける神との交わりの場とはいえないのではないでしょうか。私は兄弟姉妹を憎んではいないと言う方には、別の問いをしてみましょう。 ではあなたは、あなたの隣りの兄弟姉妹を愛しておられるでしょうか、と言えば、少しハッキリしてくるでしょう。
神様は、私達一人ひとりを愛してくださっています。 その神様に対しては、いつでも何でも、申し上げる事ができる関係にあります。では、兄弟姉妹との関係はどうでしょうか。主にある交わりとなっているでしょうか。 共に祈りあう間柄になっているでしょうか。神に愛され、神を愛しているなら、その神様の命令である兄弟姉妹を愛する事は必須ではないでしょうか。
それができなければ、神様を愛しているとは言えない、それくらいの意味を20節は言っているといえないでしょうか。具体的に私たちの間に兄弟姉妹として互いに愛し合う愛がなければ、私たちは、神様の愛を私たちのうちの中で阻んでいる。本当に神を愛する愛は、私たちのうちにはないとさえ言えるでしょう。
「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」 とはまさにその通りですといいたくなります。教会の中において互いに愛する愛がなければ、愛が実現できなければ、口ではなんと言おうと、そこには神が私たちを愛してくださっている、その事に対する応答として、兄弟姉妹を愛する事が出来なければ、私たちには、神様を愛しているとはいえないのです。
私たちが、もし互いに愛し合っていなければ、もし私達のうちに兄弟姉妹に対する冷淡と無関心と憎しみとがあれば、私たちのうちには、そして教会には神との生ける交わりはありません。兄弟姉妹を愛する、そのほんの小さな一歩ですが、教会員全員に、そして会友の方々、更には新しくお見えになった方々、誰とでも、分け隔てなく心のこもった挨拶「おはようございます」「お元気ですか」「暑いですね」などなどを始めてみてはどうでしょうか。
神様から頂いた素晴らしい愛は、表現の下手な私達日本人でも、そのようなちょっとしたことからお互いの心の壁が取れ、発展して行き、全き愛へと進むのではないでしょうか。キリストの身体であるこの教会が、もっともっと生き生きとすることを神様はこの朝、私たちに求めておられるといえましょう。
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