2008年8月10日(日) 「神の命令を守る」 Tヨハネ5:1-5 竹口牧師
「私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださった事により、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられ」ました。(ローマ5:8) その愛を知った私たちに、神様は、「一番大切なのは、あなたの神である主を愛せよ。であり、また、第二番目は、あなたのとなり人をあなた自身のように愛せよ。この二つより大事な命令は他にありません。」(マルコ12:20-31)と言われました。
神を愛し、人を愛する、これはとても大切な命令であります。先回見たことですが、4章20節にこう書いてありました。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるならその人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」とであります。21節には、神を愛する事と兄弟を愛する事とはセットのように、「神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。」とヨハネは書いておりました。
神様に愛されている私達信仰者は、神様が私達罪人をどのように愛してくださったか、そして今もどのように愛して下さっているのか、その事を常に確認しながら歩みませんと、神様の言われている事が、本来なら喜びであるはずなのに、重荷となる、苦痛となる、そういった間違った受け止め方になってしまうのであります。
神様を愛する事は、人をも愛する事であり、人を愛する事はまた自分をも愛する事でもある、その事を信仰者は絶えず、自分の歩みを通して確認したいものであります。
私たちは誰一人、自分の力によって信仰を得た者はいません。神様の不思議な導きによって、一人ひとりに、その人に相応しい時と場所と人を用意してくださり、御言葉と御霊のお働きによって救ってくださいました。その信仰は、どんなに素晴らしいかをきょうの所は教えているといえましょう。
きょうの1節にまずこうありました。 「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。 生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します」と。
私たちは誰一人、この世に生まれてきた時の事を知りません。 母の胎からでてきて、自分の力で呼吸するようになり、泣き叫んだことなど、全く記憶にないのであります。他の子供達の生まれるのを見ながら、自分もそのように生まれたんだろうなと想像は出来ますが、あくまでも想像に過ぎません。
世の中には疑い深い人がいるものであります。いいえ、世の中といわず、信仰者の中にも疑い深い人がおられます。「私は本当に救われているのだろうか」「私のような信仰で本当に大丈夫なのだろうか。」「もっと劇的な救われ方をしないとどうも救われた気がしない」そういう方がおられるのであります。
でも、きょうの聖書個所には、こう書いてあるのであります。 「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。」と。 私たちはもうすでに救われているのです。イエス様が救い主であると信じているのですから安心していいのであります。不安になる必要はないのです。
もし、神様があなたを「私は救った」と言われているのに、いいえ、まだ私は救われていませんと言う人は、それは、今度は不信仰と言うものであります。信仰の薄い者よと言われるのであります。そういう人は、何回も、聖書のお約束を確認しなければなりません。
Uコリント5:17にこういう言葉があります。 「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」と。
新しくされた自分は、直ぐにはその自覚がないのですが、御言葉ははっきりと宣言するのであります。「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」と。 生まれたばかりの信仰者は、とかく心配しがちでありますが、その心配は無用なのです。
ところで、生まれた時の状況をはっきり知らない人でも、だんだん時が経つに連れまして、あの時から私の人生は変わったのだ、と分かるようになってきます。そして、新しくしてくださった神様に感謝できるようになります。そして、その感謝は喜びとなって、主が喜んでくださる事を、積極的にしたいと願うようになっていきます。それが即ち、生んで下さった方を愛する者にされている姿です。そして同じように生まれさせて下さった者をも愛するようになります。
考えてみますと大変不思議なのであります。 私と皆さんとのつながりは、キリストを通してのつながりです。 そしてそのつながりは、私、もしくは皆さんのどちらかがキリストにつながらなかったなら、このようにして顔を合わせることなどなかったかもしれないのです。
年に一度の恵み会、あるいは修養会、あるいは他教会との交わり会、そういう集りに参加してみて、キリストとの交わりがあるからこそ、兄弟として、姉妹として交わる事ができるのだ、その事の思いをますます私は強くするのであります。
昨日まで、まったく知らなかった、聞いた事もなかった。そういう人と、「私は何々教会の会員です。どうぞよろしく。」と、言葉を交わし、もう、そこで自分とその人との関係が主にある兄弟姉妹として、親しく交わらせていただいているのです。 仕事が変わっても、住所が変わっても、キリストにある関係はなお続くのであります。同じ主に繋がっているからです。
「生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。」とありますように、まさにそうなるのが自然でありましょう。
さて、2節、3節は、神を愛すると言う事を「命令を守る」という言い方であらわしております。「私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。
神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」とあります。私たちが神様を愛するには、それだけの根拠が必要でしょう。そして、それは、まず神様が私たちを愛してくださったという事実があります。
その愛されている私たちが、どのように応答したらいいのか、そのように考えた時に、神様の一番喜ばれることをする、これが神様を愛する事に繋がると言えます。 そしてそれは、神様の命令を守る事であります。
私たちは、先回「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛する事は出来ません」という所を見ました。今度は、その逆であります。神を愛して、その命令を守るなら、そのことによって、兄弟姉妹を愛している事が分かるというのです。
私たちが神様を心から愛しているなら、その愛は、この世的な愛、義理、人情、自分の好みの方法、そういったものでの愛し方ではなく、「命令を守るなら」「神の子供達を愛している事が分かる」つまり、神様の与えて下さった「命令を守る」ことが必要なのです。
教会という兄弟姉妹の交わりの中で、一番大切なのは、 兄弟姉妹なかよくすること、人間的なものでそれを行う事ではなく、何よりも神の命令が守られなければならないのです。それが、結果的には兄弟姉妹を愛する事になり、神もまた喜ばれる事なのであります。
神によって生まれ変わらせていただいた私たちは、その生まれ変わらせてくださった者に相応しい生き方があります。それが神の命令に従う事なのです。命令と言いますと、その反対は服従と言う重々しいものになりますが、ヨハネは3節の終わりで言うのであります。「その命令は重荷とはなりません」とであります。これは真理であります。
そのことの例として一つを挙げたいと思いますが、たとえば、「神の命令に人は従わなくてはなりません」といいますと、これは大変だと思われるのではないでしょうか。 「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」という神の律法があります。 私たちはそれを、主日礼拝に行なっています。
キリスト者でないとき、この日曜日を教会で過ごす事が、大変、苦痛だった事を感じた方もおられましょう。しかし、キリスト者になって、主日礼拝を守らないと、何かその1週間が虚しい。どこかおかしい。キリスト者らしくない、そういう思いをされた経験をお持ちでしょう。それは、病気にしろ、仕事にしろ、何かの用にしろ、理由は何でも構いません。
がしかし「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」という命令が、実は、キリスト者に神様が命令されたときに、その命令であったものが、命令ではなくなる。むしろ、それを守らない事のほうが失う者が大きい、その事に気付かされた人は多いですし、それがまた正常なキリスト者なのです。
神様を愛する者の生活は、あるいはまた、教会という神から生まれた者の集まりであり、交わりの生活は、そのあらゆる営みにおいて、その隅々まで神の命令、教え、戒めに生きることとなり、またそれが、キリスト者として幸いへと繋がっていくのであります。だから、重荷とは決してならないのです。また、重荷と感じるようではどこかが間違っているのです。
しかし、現実はそうではない。ある時には重荷と感じてしまう。それは、神様のほうに何かがあるのではなく、人間である私たちのほうに問題があると言う事なのです。私は、ヨハネが「重荷とはなりません」と書いているところに、逆に「重荷と感じているものがいる」から、だからそう書いているのだと読み取るのであります。
とするなら、私たちの教会もまた、神様を愛する事において、ヨハネが勧めているように、命令が重荷とならないように神様に願い求めていきたいと思うのであります。 それと同時に、今現在、生きているこの世界が、罪の世界であり、悪魔が執拗に攻撃してきているこの時代に、キリスト者が罪を犯すことから全く解放されているわけではない。日々、その危険、誘惑にさらされている、そういう現実がある。ですから、いつ律法を破り、戒めに反することをするか、あるいはしているか考えますと、本当に難しいものを感じます。
では、ヨハネの言っている事は、理想なのかという事になります。 単なる気休めなのでしょうか。 いいえ、決して気休めではないのであります。本当に神の「命令が重荷とはならない」のであります。それは、神様が私たちにして下さった事からも言えるでしょう。 神様はご自分の一人子、御子イエス・キリストをこの世に遣わし、私たちの罪を贖ってくださっただけでなく、あらゆる間違った教え、律法、習慣から解放してくださり、自由の身としてくださいました。
それが又もとの状態に戻され、負いきれない重荷を背負わせ、私たちが苦しむ姿を神様は楽しまれる、そのようなことはないのです。むしろ、キリスト者として喜びつつ歩んで欲しいのが願いなのです。いいえ、それを求めておられるのです。 ですから、私たちは、真にキリストによって生まれた者であるなら、 また、本当に神を愛しているのなら、神様が私たちに何を求めておられるのかを知り、 どのように神様を愛したらよいか、どのようにしたら神様を喜ばせる事ができるか、それが知りたいと思うのが私達人間側なのです。
一方、神様は、それを示す為に、また明らかにする為に、神の律法や戒めを通して教えてくださっているのであります。
ですから、私たちにとって、それらは決して厄介者ではなく、重荷でもなく必要なものなのであります。神の律法、神の命令こそ、神様を愛する者にとって必要なのです。詩篇119篇にこういうことばがあリます。 9-11節「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。 あなたのことばに従ってそれを守ることです。私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。」とであります。
あるいはまた71-72節ではこうあります。 「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。」
このような詩篇の言葉によって、決して掟、戒め、律法、命令が、重荷とはならないことがお分かりでありましょう。ヨハネは、命令が重荷とはならない理由を4節でこう述べております。
「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。 私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」とであります。
敗北者ではなく勝利者なのです。世に打ち勝った勝利なのです。「世」とは、私たちを神様から引き離す全てのもの、神様に逆らう全ての力であります。この世に生きている限り、神の子とされた私たちは、もうすでにこの世のものではありませんので、結局はこの世と対峙して戦わなければならないのです。
しかし、だから大変ではないのです。ローマ8:31でパウロはこう言っています。 「神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対できるでしょう。」
神様に寄り添って歩む者にとって、最終的な敗北はないのです。 イエス様は十字架にかかる前の晩に弟子達に言われました。 「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」と。勝利者イエス様と共に歩む者にとって、これほど強い励ましがあるでしょうか。
ヨハネはきょうの所の5節でこう言います 「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」とであります。しかし、十字架にけられたイエス様のことを、この世はどう評価したでしょうか。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ」でした。
また、「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」でありました。この世の評価とはそんなものです。そのキリストを犠牲にして私たちを救ってくださった神様は、この世とは全く違う評価をして下さるのであります。だから、ヨハネがこのように強く宣言する事ができるのです。「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」とであります。
私たちは決して勝敗のわからない戦いをしているわけではありません。勝利者は、勝利者イエス様によって救われた私たちなのです。この世との戦いは、イエス様の来臨まで続きます。あるいは、私たちが天に召されるまで続きます。しかし、どんな事があっても忘れてはならないのは、必ず私たちは勝利すると言う事です。
としたら、もっともっとそのような歩みをしてもいいのではないでしょうか。 勝利者らしい歩みであります。 神の求めておられる事を重荷と取らず、むしろ喜びとして、喜びから喜びへと続くものとして、神の命令を守る事をさせていただこうではありませんか。
好きな事には苦労をいとわないと言うのが私たちの歩みです。 それは、終着点に素晴らしいものがあることを見ているからです。 とするなら、神の命令を守る事はそれ以上に素晴らしい事ではないでしょうか。 神様の素晴らしい祝福が用意されているのですから。 そして神様の喜びをいただく事ができるのですから。 神さまのご命令に喜んでお従いしようではありませんか。
2008年8月31日(日) 「証しする者」 Tヨハネ5:6-12 竹口牧師
今日の聖書の範囲は5章の6-12節の7節分でありますが、その中に「あかし」という言葉が何と8回も出てきます。証と言いますと、皆さんは最初に何を思い浮かべられるでしょうか。教会用語で普段私たちが使います「あかし」とは、救いの証であり、また信仰生活の中で、神様がこのように私に働いてくださったという、いわば、信仰体験を指していう場合が多いと思います。しかし、ヨハネがここで用いています証しとは、ヨハネの体験ではなく、またヨハネの考えでもなく、神のあかし、すなわち証言なのであります。
「証し」とは、もともとは裁判用語であります。そしてそれは、裁判では証言という言い方をされるのであります。目撃証言とか、アリバイ証言とか、事実認定のために実際に何がどこで、どうなったのかを裁判では明らかにしていき、最終的には、裁判長が、与えられた証言、物的証拠、などの中から判決を下します。
そういう意味で、「証言」は大切な意味を持つのであります。そして今回見ます聖書個所では「証し」と訳され、私たちの信仰に関わる大切な事が書かれているのであります。そしてこの証しは、私達信仰者がいつも常に確かめ、確認し、いよいよイエス・キリストに対する信仰が堅くまた深くされなければならないのであります。では、早速きょうの所に入りたいと思います。
まず6節をご覧下さい。そこにはこう書いてありました。 「このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。 ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。 そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。」と。
ここには、水と血という言い方が2回されていますし、8節にも水と血というのが出て来るのであります。そこでまずそれを説明しておきましょう。
多くの方は、この水をイエス様のバプテスマを指すと言い、血は、十字架にかかられ、流された血をあらわすと言います。そしてその意味する所は、イエス様が人となってこの地上に来られ、私たちの贖いの業をされるために歩まれた地上の生涯を指す、そのように受け取られています。そして、それは、正しいのであります。
ではなぜ、ヨハネが、私たちが当然のことのように信じている事を、あえて書いているのでしょうか。それは、その当時、違った教えがはびこっていたからであります。これまでにも何回か申し上げたかと思いますが、非常に大切な点ですので、ここでも申し上げておく事に致します。
ヨハネが6節で 「ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです」 と、水と血の両方を強調していることに気付かされるのですが、それは当時、イエス様が血によって来られたのではなく、水によって来られたという人がいたからであります。
これが、何を指すかと言いますと、イエス様は、受けられたバプテスマによってメシヤ性をあらわし、十字架は、それを指すわけではないというのです。神であるイエスが十字架で死ぬ事はないと考えたわけであります。これが即ち、グノーシス派の考えであります。
つまり、霊は善であり、物質は悪であるという考えでありますから、神が肉体を取って、この世に来られたという事を異端であるグノーシス主義では認める事が出来なかったのであります。静寂で深遠な霊的神が、肉体的苦痛を経験するはずがない。そんな事は無いし、またあってはならないとそう彼らは考えたのです。
ヨハネと同じ時代に生きた人でイレナエウスという人がいたのですが、その人は、ケリントスと言う人の影響を強く受けたようです。そして、そのケリントスがイレナエウスにこう教えたのだそうです。
イエス様が「バプテスマを受けられる時、何ものにも勝る力から神的キリストが降りてこられ、鳩の姿になって人間イエスの体内に入った。イエスはいわば、彼に降臨したキリストと合体して、新しい神の御言葉を人類に伝えた。そして最後に、(十字架にかかられる前ですが)キリストは、人間イエスより離れ、栄光の彼方に帰還なさったから、カルバリで十字架にかけられ、その後、復活したのは人間イエスにすぎない」ととったのであります。
そしてこの教えは、勿論間違いであり、非常に危険な教えなのであります。 なぜなら、イエス様は、神でありつつ人としての歩みをされ、この世において苦痛、苦難、嘲りの中で、最後には、私たちの罪の贖いのために死んでくださったからです。
しかし、それらをグノーシス主義者は否定するのです。 そこでヨハネは、イエス様はこの地上で神の子として歩まれ、あの十字架の上においても、神は真実に生きておられ、人類のために苦しみにあわれたというのであります。イエス・キリストの生涯、その御業が、イエスが神の子、キリストであられることを示していますし、このイエス・キリストの歴史的事実に基づいて、私たちはイエス様を神の子、キリストと信じているのであります。
この大切な事実は、繰り返して確認しなければならないことであります。 そして、神様のして下さった偉大な業に感謝する必要があるのです。 なぜなら、イエス様のお働き、人の罪を贖うという働きをなしうる者は、この地上には、イエス様以外だれ一人いないからであります。
神でありながら人となって来て下さったイエス・キリストのみができる業、人の罪を赦す事のできる贖いの業をしてくださったのであります。 ペテロが声高に叫んだ言葉が思い起こされます。 「この方以外には、だれによっても救いはありません。 世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」と。(使徒4:12)
まさにその通りだと言えましょう。 イエス様にしか出来ない業を、イエス様がして下さった。この大きな事実は、何度も私たちは確認したいものです。これがあるからこそ、将来に対する不安は取り去られたのであります。
さてヨハネは、7節で「あかしするものが三つあります」と言います。 そしてその三つとは、8節にありますように、「御霊と水と血です」。 もう一度申し上げますが、御霊と水と血とは、イエス様を神の子、キリストであるとあかしする事において「一つとなる」即ち一致していると「御霊と水と血」は言っています。
今も常に、教会のうちに証しの働きを続けておられる聖霊と水と血というイエス・キリストの公生涯の歴史的事実とは全く一致して、イエス様を神の子、キリストとして証しし続けているのであります。
その事においてどこに私たちが疑いを指し挟む理由があるでしょうか。 9節でヨハネはこう言っています。「もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、 神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです」とです。
私達人間の世界において、人間の基準によりますと、3つのものの一致した証言は、証言としての条件を十分満たす証言であるならば認めます。旧約聖書の時代、神様がモーセを通して与えられた律法には、例えば申命記19:15にはこう書いてあります。 「どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、 そのことは立証されなければならない。」とであります。そのように規定されているのです。
イエス様もご自分の証言が真実である事をパリサイ人が求めた時、こう言われました。 「あなた方の律法にも二人の証言は真実であると書かれています」とであります。(ヨハネ8:17)
もっとも、かつてイエス様を罪に定める為に祭司長たちと全議会が、偽証者をたくさん用意しましたが(マタイ26:59-60)、偽証者の故にあまり意味をなしませんでした。いわば、言う事が一致しなかった訳です。ところが、最後の二人の証言によって死刑へと判決は進んだのでした。最初から仕組まれた流れでのとおりでありました。そういう経緯がありましてイエス様は、死刑へと進みました。
ところで、なにはともあれ、ヨハネがここで言っていますのは、人間の法廷で、基準にあった証人たちの一致した証言が認められ、受け入れられるとするなら、まして御霊と水と血、即ち、聖霊とイエス・キリストの歴史的事実とが全く一致して、イエス様は神の子、キリストであると証しているこの証言が、受け入れられないのはおかしい。人間の証しならともかく、神の証しはそれ以上ではないかとヨハネは言うのであります。
ヨハネは、この御霊と水と血との証言を「神のあかし」と9節で言っています。その9節をもう一度読みますと、「もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。」というようにです。(9)まさに神様は歴史の中で、水と血において、御子イエス・キリストについて証しをしておられますし、御霊によって、私達キリスト者にイエス様は神の子であり、キリストであると証し続けておられるのです
イエス様が神のみ子、キリストであるという事実は、信仰者である私たちにとって当然の中の当然であります。ヨハネは10節で言います。「神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです」と。
みなさんは、どうでしょうか。 勿論、神のあかしを自分の心の中に持っておられる事でしょう。 神を信じない、そして神を偽り者とする者ではないと信じております。 とするなら、ここでもまたはっきりとこう告白すべきでしょう。
「イエス様はキリストです。 イエス様は神の御子であって、その御子が十字架にかかってくださり、死んでくださった。私の罪のために贖いの死を遂げてくださった。」とであります。
このことを繰り返し証ししたいものであります。 この方によって私は救われたのですと証しし、更には、ただ単に証しするだけではなく、証できるようにされた私たちが、どんなに素晴らしい特権をいただいているかも、 いつも覚えておきたいものであります。
ヨハネはそれを11節でこう述べております。「その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたという事、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。」何という素晴らしい事でしょう。
イエス様を信じさせていただいた事によって、永遠の命を持っておられる方からそれをまさにいただいているということ、そしてそれは即ち、今も、そしてこれから後も、何の恐れもなく、不安もなく人生を送る事が出来るという事なのです。
パウロがかつて言いました。(ピリピ1:21-26) 「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。
私はこのことを確信していますから、あなたがたの信仰の進歩と喜びとのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてといっしょにいるようになることを知っています。そうなれば、私はもう一度あなたがたのところに行けるので、私のことに関するあなたがたの誇りは、キリスト・イエスにあって増し加わるでしょう。」
私たちが今、この世に生かされているのは、自分自身のためというより、周りの人のためではないでしょうか。神様が、あなたを証しする者として用いようとされているから生かされているのではないでしょうか。
天の御国に行く事は大変素晴らしい事です。けれども、私たちがこの地上に生かされているのは、イエス様がキリストであること。神が人となってこの地上に来てくださり、罪人である私たちの罪を贖う為であった。その事をもっと多くの人に伝える使命を与えられているからだといえましょう。
12節でヨハネは言います。 「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」私達信仰者は幸いな事に、御言葉と御霊の導きによって永遠の命を頂いたのでした。御子を持つ者とされているのです。その幸いを覚えつつ、証しする者としてここから遣わされて行こうではありませんか。
神が御子について証しされたことほど確かな証しはないのです。 私たちの証しの言葉がどんなに貧しくとも、主がそれを助け用いてくださるのです。 勇気をもって、永遠の命を頂いている者として証しさせていただきましょう。
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